ランプの照らす踊り場に、雨音がぱらぱら反響する。


雨降り紳士 As -Right As Rain-

 まだ午後の二時過ぎだとは思えないほど辺りは薄暗かった。朝方は気持ちのいい晴天だったものの、今や空はすっかり青みがかった灰色の雲に覆われ、冬の憂鬱さをこれでもかと強調している。こう冷たく重々しい天気では、何をするにも気が滅入ってしまう――だが、負けてなるものか。元気を付けなければならない。具体的に言うと、この小腹を満たしてやらなければならない。
 ロスコー家の若主人、ヘンリー・ロスコーは自らにそう言い聞かせ、アパートメントの階段を降りて台所に向かった。日来ならば、その周辺を聖域として取り仕切る壮年の従者に、「紳士らしからぬお振る舞い」として咎められるだろう行為だ。しかしながら今日、その従者は彼の使いでニュージャージーに出向いており、夕方まで帰ってこない。何か食べたければ自分で準備するしかないのだ――この上なく好都合なことに。
 従者からなんと言われようと、彼は台所に立つのが嫌いではなかった。自分の食べるものを自分で作るというのは、何がなし尊い行いに思えるものだった。もっとも、それはアパートメントの台所が極めて広く、明るく、清潔で、電気冷蔵庫や電動ミキサー等の最新設備が揃っていることも大きい。もしここに石炭レンジと薪のオーブンしかなければ、彼の調理に対する態度はかなり消極的なものになっていたことだろう。
 その台所の戸口をくぐり抜けながら、彼はすっかり上機嫌だった。実のところ午前中に、川を渡ってブルックリンのあたりを散歩しがてら、こうした事態に備えて、食料品をいくらか買い込んできたのだ。評判の惣菜屋で詰めてもらったパストラミとピクルス、ハワイ産だというパイナップルの缶詰、ふかふかの軽い生地に薔薇のジャムが詰まったドーナツ――は、帰る途中で辛抱たまらずに食べてしまったのだった。同じパン屋では芥子の実をたっぷりまぶした丸パンも買った。菓子も買った。品のいい包装紙に包まれたチョコレートの詰め合わせで、それは後ほど「買ったはいいが口に合わなかった」という理由で、使用人たちに下げ渡されることになっている……
 さて、何を作ろうか? 平鍋にバターを溶かしてパンとパイナップルを焼き、ハムをどっさり乗せて食べてやろうか。それとも全ての惣菜を細切れにしてサラダにしようか。サンドイッチでもいい。そう――聞くところによると、昨今フランスはパリのカフェで「かりかり紳士クロック・ムッシュー」なるチーズ・トーストが大流行だそうではないか。白パン二枚に薄く切ったハムとチーズ(このチーズはむろんフランス産のものを使うべきだろう)を挟み、じっくり焼いた代物らしい。ああ、考えるだけでぼうっとなりそうだ!
 だが何を作るにせよ、飲み物は確実に必要だ。彼は大きな調理台をぐるりと回り込み、やかんを取り出そうと屈み込んだ。そこに人がいた。
 彼が喫驚して仰け反るのと同時、真下からも頓狂な声が上がった。子供の声だった。タイル張りの床に金属質のものが転がる、硬く高い音が続けざまに響いた。
「ナサニエル!」
 数歩その場から退がりつつ、彼はなんとか心を落ち着けようとした。調理台の裏にしゃがみ込んでいたのは――今や尻餅をついているが――臙脂色のベストを着た十歳そこらの少年だった。住み込みの使用人見習いだ。大きな緑色の目がますます大きく見開かれ、彼の顔を見上げている。
「す、すみません、旦那さま。いらっしゃるのに気がつかなくて……」
「いいや、こっちこそ気づかないで驚かせたな。大丈夫だったかい?」
 起き上がろうとする少年に手を貸してやりながら、彼は床面をざっと見回す。すぐ側にフォークのようなものが落ちていた。尖った三本の歯、撚り合わせたようなデザインの煤けた長い柄に、木の持ち手が付いている。
「これを探してたのかな。なんだか焼串の親戚みたいなやつだが」
「あっ、はい――トースティング・フォークです。クランペットがあるので、暖炉で温めて食べようと思って」
 おずおずと彼の手を取り、立ち上がった少年は、三本歯のフォークを前に頷いた。
「クランペット……というと、あの小さくて穴のたくさん空いたパンケーキだろう? パン屋で売ってるのを見たことがあるよ」
「はい、旦那さま。昨日のティーのときにミスター・ウィギンズが焼いてくださったんです……その残りです。今日は自分がいないから、おやつの代わりに食べてもいいと」
 答えを聞きながら彼はふと、少年の顔つきがどことなく気恥ずかしげであることに気がついた。単に主人の御前だからというのではない、なんとなくきまり悪そうな、見られたくないものを見られてしまったとでも言うような……
「どうしたんだい、ウィギンズの許可があるなら、そんなに縮こまることはないじゃあないか」
「いえ、その……」
 少年は目を泳がせた。 「あんまりお上品な食べかたではないですから、……」
 なるほど、つまりこれも上役である従者の教育の賜物というわけだ。彼は軽く肩をすくめ、短いため息をついた。
「上品じゃあない、か。まあ、ウィギンズはそう言うかもしれないが、暖炉でものを焼いて食べたぐらいで――そんなことを言ったら、ぼくら合衆国の人間のうち、何割が下品ってことになるんだ? ……いや、英国人はみんなそう思ってるのかなあ……」
 彼はぶつぶつ言いながら思案しかけたが、少年のことを忘れてはいなかった。あちらにしてみれば、ただでさえ居たたまれない気分でいるところ、主人が話の途中で考え事を始めたとなれば、引くに引けない辛さが増すばかりだろう。
「あの、旦那さま、台所をお使いになるのでしたら、わたしはすぐに下がりますので」
「ああ、気にしないでくれ。ちょっとばかり腹が減ったのは確かだが、まだ何を作るかも決まってないんだ。とりあえずお茶でも飲もうかと思ってね」
「もしかして、ご昼食がまだなんですか?」
「いいや、ちゃんとクラブで食べてきたよ。ただ、デザートをあっちの言う『お口直し』じゃあなく、しっかりした一皿にしておくんだったとは後悔してる」
 もちろん、これは単なる軽口のつもりだった。ところが、今度は少年のほうが何やら考え込むように俯いたかと思うと、打って変わって晴れやかな面持ちで顔を上げ、
「そうだ、旦那さまも食べ――召し上がりますか?」
 と言い出したのである。
「えっ――いやいや、それは君が食べるためのものだろう? ぼくが貰っちゃあ悪いよ」
「でも、ミスター・ウィギンズの作るクランペットはとってもおいしいんですよ。もしまだ召し上がったことがないなら……」
 彼は重ねて遠慮しようと考えたが、少年の目に並々ならぬ熱心さの光があることに気がついた。自分が友人たちに探偵小説や、またパルプ・フィクションのヒーローたちについて熱弁を振るうときも、恐らくこんな目をしているのだろう――彼はそう感じ取った。かといって、子供のおやつを無償で取り上げる気にもならなかった。
「よし、解った。でもタダではだめだ。ちょっと待っててくれ」
 言い置くと、彼は反対側の隅にある壁――本式の食料貯蔵室は別に存在するが、ここにも少々の埋め込み式食料庫が付いているのだ――まで行き、戸を素早く開けた。買い込んだ食料の紙袋が目に入る。そこから円筒形の白い缶を掴み出し、彼は少年のもとに駆け戻った。
「良いかい、君はその大切なクランペットを――半分だけぼくにくれることにする。で、代わりにぼくは……」
 缶に描かれたロゴを勿体ぶって正面に向け、彼は微笑んだ。少年の顔がぱっと輝いた。
「マシュマロ!」
「そう、このマシュマロを半分君にあげる。これでどうだ? 公正な取引になるかな」
「はい、公正――かどうかは、わたしにはわかりませんけど、でもすごく嬉しいです。マシュマロなんて食べたことないんです」
「そうなのかい? そいつはいい機会だ。焼いたマシュマロのうまさといったら格別だよ。サラダにするとか、ミートローフに入れるとかいった調理法までは、さすがにぼくも理解しかねるけどね……」
 広告に掲載されていたレシピを思い返しつつ、彼は頭を振った。そうしている間にも、少年の喜ぶ顔につられて、自然と口角は上がりつつあった。
「ようし、そうと決まれば善は急げだ。居間の暖炉に火を入れるから、そこで一緒に焼いて食べよう。食器と材料を運んでくれるか、ナサニエル?」
「えっ――」 少年が目を何度も瞬いた。 「いいんですか? いっしょに食べても?」
「もちろんだ。ああ、使用人は主人と同じ席についちゃあいけないって言うんだろう――これは正直なところなんだが、ぼくはどんな立場の人だって、みんな一つのテーブルを囲む権利があると思ってるよ」
 少年と目線を合わせるように屈み込むと、彼は普段よりいくらも真剣な顔つきで言った。そして再び、なんでもないような笑みを浮かべて立ち上がった。
「さあ、まずは支度をしなくちゃあな。お茶もぼくが入れるよ――ところで、紅茶の缶はどこにあるんだい?」

  * * *

 橙色の火が揺れている。冷たく蟠る薄暗がりを解きほぐすように。 
 暖炉の中ではくべられた薪がぱちぱち爆ぜ、マントルピースの上では置き時計の針が規則正しい音を奏でる。背の低いコーヒーテーブルには、二人分の食器とジャムやシロップの瓶、陶器のバター入れ、かぎ針編みの覆いをかけられたポットが並んでいる。完璧だ――非の打ち所がない冬の午後だ。あとは食べ物を仕上げるだけだ。
「こうやってると、なんだか童心に帰るなあ。――子供時代を思い出すってこと」
 トースティング・フォークに刺したクランペットを、揺らめく炎に裏表とかざしつつ、彼はしみじみ呟いた。隣では、先端にマシュマロを飾った銀の焼串を手に、待ち遠しさでいっぱいの顔をした少年がしゃがんでいる。
「旦那さまも小さい、えっと、ご幼少のころには同じようなことをしたんですか?」
「ああ。ぼくは寄宿舎学校に行ってたんだが、毎年夏になるとキャンプをするんだよ。湖のそばとか、海辺とかでね。夜になると焚き火を起こして、周りでいろいろなものを焼いて食べたものさ。マシュマロもそうだし、ジャガイモとか、ソーセージとか……」
 知らず知らず、彼の口ぶりはゆったりとしたものになっていた。傍で覗き込む少年の顔も、火に照らされているという以上に明るく輝いて見える。
「楽しそうですね、とっても」
「楽しかったさ。キャンプは良いもんだよ、……もちろん、ぼくは都会の生活が大好きだけどね、たまに遠出して、例えばアディロンダックなんかで釣りをしたり、カヌーに乗ったり、のんびり過ごす幸せといったらない。よかったら君も――」
 そう遠い昔の話というわけではない、しかし妙に懐かしい思い出の蘇るままに、彼は言葉を続けかけたが、ふと現実に引き戻された。
「――なあ、ぼくがもし『夏になったら三人でキャンプに行こう』と提案するとして、ウィギンズは賛成すると思うかい?」
 少年の表情もまた、急に子供らしい活気と精気を失ったように見えた。口元には薄い笑みを浮かべたまま、眉根を寄せてゆっくりと頭を振る。
「だよな。いや、ぼくも素直にそう思う。例えばこれが、『鹿狩りに行くから供をしろ』とでも言えば、喜んでついてくるんだろうけど」
 彼は嘆息し、従者のままならぬ封建的精神から逃避するように、手にしたフォークの先へ目を向けた。一インチ近くも厚みのあるクランペットは、暖炉の熱を受けてこんがりと色付き、焼けた小麦の香ばしい匂いを立ち上らせつつあった。
「まあ、キャンプの件については何か方法を考えるさ。それより、ぼくらのご馳走がそろそろ食べ頃みたいだぞ」
 彼らはめいめい取り皿を手にし、焦げ目のついたクランペットとマシュマロを串から外した。オーブンで焼き上げたのとは違い、焼き目にはムラがあったが、却って食欲をそそるような趣を生んでいた。
「こういうのって、やっぱり最初はバターとシロップだよな。……そう考えると、この形はすごく合理的だ。しっかり味が染み込んでくれる」
 銀のナイフでたっぷりとバターをすくい取り、穴だらけの面に惜しげもなく塗りつけながら、彼は感心したように頷いた。
「はい、噛んだときに溶けたバターがじゅわっと出てくるのがとってもおいしくって!ミスター・ウィギンズはときどき、レモンカードとママレードを両方乗せてもいいっておっしゃるんです。それが一番お気に入りです」
「なんてこった、そいつは特等のご褒美だな! ……ああ、話してるだけで満たされる気分だが、実際に腹は膨れないからな。熱いうちに食べよう」
 少年を促しつつ、彼は刻み硝子の小さな瓶から、黄金色の糖蜜をうきうきと回し掛けた。一口大に切り分け――るのは止めて、一思いにかぶりついた。
 まず生まれたのは疑問だった。記憶が正しければ、従者がこれをティーの席に供したことはなかったはずである。だが、何故?  彼は厚い生地を噛み締めた。丸い縁はトーストの耳のように、否、それよりもずっと軽やかにさっくりと砕けた。続いて、内側の感触――パンケーキと比べて噛みごたえがある。硬いというのではない、喩えるなら上質なベッドのように、優しく押し返してくるのだ。そう、ベッドに違いない。クランペットというものは、この世のあらゆる素晴らしいバター、ジャム、その他の「添え物」のために生まれたベッドなのだ。
 ――どうしてぼくには出してくれないんだ、ウィギンズ? こんなにおいしいものも、お前に言わせれば「紳士の召し上がりものではない」のか?

 煩悶する彼の傍ら、少年もまた焼けたマシュマロを吹き冷まして齧り、歓声を上げていた。熱い、と口走りかけて、それ以上の喜びに圧倒されたかのような声だった。
「おいし――熱、熱いけどおいしいです、とっても柔らかくて、ふわふわで……」
「そうだろう、最高だろう! ああ、でも火傷はしないようにな。お茶も飲むんだぞ」
「気をつけまふ――気をつけます。ゆっくり食べないと、すぐに消えてしまいそうです」
「ぼくの一枚目はもう消えたよ。こんなに包容力のある菓子は、いや、パンなのか? どちらにしろそうあるもんじゃない。明日から毎日、朝食のトーストの代わりにこれが出てきたってかまわない」
 もちろん彼の脳裏には、口に出したとおりの光景がありありと浮かび上がると共に、それらをどう食べるかについての逞しい妄想までもが広がっているのだった。大きな皿いっぱいに盛られたフル・ブレックファストの魅力的な品々、例えば見事な半熟加減に仕上がったスクランブルドエッグに、ふっくらとしたいんげん豆のトマト煮を合わせて、クランペットに盛るのはどうだろう。甘辛い豆のソースが染み込んだ土台に、バターの香り豊かな卵が絡んで、それはそれは贅沢な気分になるに違いない。あるいは、グリルされて旨みと甘みの濃くなったトマトに、キャベツとソーセージ、それに目玉焼きを? ああ、この組み合わせは絶対に間違いない。彼は心のうちで力強く断言し、従者が戻り次第すぐに頼んでみようと決意した。それからふと、従者の見解が気になった。
「次は君のいうレモンカードとママレードにしようかなと思ったんだが、どうだろう、ウィギンズはいつもどんなふうに食べてる?」
「ミスター・ウィギンズですか? だいたいはバターを薄く塗るだけで……そもそも、あんまり一緒に食べることがないんです、クランペットは」
「そうなのかい?」
「はい。ミスター・ウィギンズは、クランペットについてはとても、ええと、いち……ひとかげん……」
「ああ」 彼は頷いた。 「一家言あるわけだな。解る気がするよ」
「それです! ――だから人がクランペットを食べるところは見ないようにしています、と前に話してくださいました」
 少年は言い、やにわ辺りを憚るような表情を作ると、声を潜めて彼の顔を覗き込み、
「あの、さっきご朝食とおっしゃいましたけど……旦那さまはもしかすると、ベイクドビーンズや目玉焼きや、ソーセージを乗せて召し上がりたいとお考えなんでしょうか」
 と囁いてきた。どうして解ったんだという言葉が口をつきかけたが、彼は呑み込んだ。どうして? 尋ねるまでもないではないか。自分が思いつくようなことを、従者の側で予測できていないはずがない。
「……ナサニエル、ぼくはいくら主人だからって、使用人どうしの会話まで把握したいなんて思っちゃあいない。君たちだって、ぼくに向かっては絶対に言えないようなことを話し合ったりはするはずだ」
 あくまで穏やかに彼は説いたが、諭すような調子はだんだんと失われた。
「その上で聞くんだが、ウィギンズは一体何を、その……」
 少年は主人からそっと目をそらし、なんとも気まずそうにうつむいていたが、ややあってから顔を上げ、ごく小さな声でこう述べた。
「そんなお方には今まで出会ったことはありませんが、もしクランペットに目玉焼きやベイクドビーンズ、焼いたトマト、ましてマカロニ・アンド・チーズなどを乗せて食べる方がいらっしゃったとして、長くお仕えできる自信は私にはありません、と」
 なんだそれは、美味しそうじゃあないか! ――そんな台詞を堪えるのには多大なる自制心が必要だった。忠義心にまで響くような問題ならば、もはや主人である自分にはいかんともしがたい。彼は黙って頷き、ママレードの瓶を引き寄せた。
「このことはぼくたちの心にしまっておこう、ナサニエル。食卓は自由だ。目を背ける自由も含めて。……次のを焼くかい?」
「あ、はい、旦那さま! あの……」
 幼顔が一瞬だけ元の明るさを取り戻した、と思えば再び鳴りを潜める。どうにも言い出しにくいことがあるようだ。
「どうしたんだい、遠慮することはないよ。ここは分け合う場なんだから」
「はい、旦那さま、もしお許しをいただけるなら……」
 言って、少年は緑色の目を手元に向けた。その視線は二つのものを代わる代わる指していた――クランペットとマシュマロを。  彼にも言わんとすることは解った。解らぬはずがなかった。

 数分後には全てが整っていた。しっかりと焼き色をつけたクランペットと、その上で溶け落ちるバター。ジャムは苦味を残したママレード、少年のほうではブルーベリーを選んだようだ――そして、目にも鮮やかなシーツの敷かれた柔らかなベッドに、彼らはそっと主役を横たえた。金茶色を纏ったマシュマロは、一種の神々しささえ覚えるほど美しかった。噛み締めるような沈黙に続いて、実際に噛み締めるための間があった。

「ナサニエル」 彼は陶然たる面持ちで呟いた。 「君は天才だ」
 少年は何も応えず、ただ目を閉じて長々と息を吐いた。それだけで十分だった。彼は少々ぬるくなった紅茶を一口飲み、再度齧りつき、この世にマシュマロとクランペットを生み出した人物――恐らく前者はフランス人で後者は英国人であろう――に心からの敬意を抱いた。自分たちの行いは、両者から多大な顰蹙を買うだろうとも思いながら。
 そうして生み出された神聖な品は、言うまでもなく長持ちしなかった。豪奢な寝台は瞬く間に解体され、略奪者の懐に収まった。皿の上は綺麗さっぱり空になり、焦げ目の欠片すら残らなかった。
 彼らはしばし幸福と充足に身を委ね、暖炉の温もりを体中で味わいながら、長椅子の住人となっていた。が、ふと少年のほうが口を開いた。
「……止みませんね、雨」
 つられて彼も窓辺に目をやり、耳を澄ませた。くぐもった雨音は依然として聞こえる、どころか先程よりも激しくなったように思われる。自ずと彼の頭に従者の姿が浮かんだ。今頃は帰りの汽車の中、ニューヨーク州にそろそろ入った頃だろう――運行会社を信用するならばだが。
「当分止まないだろうなあ、――確かペンシルベニア駅に五時十四分だったか?」
「ミスター・ウィギンズですか? そうです、旦那さま。一番早くマンハッタンに戻る列車を、と……」
 うん、と彼は短く応えた。それから大きく伸びをすると、弾みを付けて立ち上がった。
「ウィギンズを迎えに行くよ。汽車なんてのは遅れることはあっても、早く着くことはまずないだろう」
 彼は言い、軽く身を屈めて少年の顔を見た。 「一緒に来るかい?」
「えっ、――本当ですか? わたしも行っていいんですか? その、お車ですよね?」
「そりゃあそうさ。こんな中を歩いて行っちゃあ、ウィギンズより先にぼくらのほうが濡れ鼠になっちまう。ああ、もちろん君が車嫌いじゃなければだが……」
「いいえ、ちっとも! すぐに支度してきます、お出かけのための服を出さないと」
 少年もソファの上で何度も頷き、そのたび長椅子の座面は勢いよく上下した。主人は苦笑して片手を腰に当てた。
「そう慌てるんじゃあないよ、ナサニエル。時間はまだまだあるんだから。それより、まずは火の始末をして、この洗い物を全て片付けないと。ウィギンズの仕事はなるべく減らしてやらなくちゃあな」
「あっ、そうですね――ごめんなさい、旦那さま。じゃあ、皿はみんなわたしが流しに運びますね」
「お願いするよ。ああ、無理せずに少しずつ持っていくんだぞ」
 皿を盆の上に積み重ねる少年に、彼は落ち着いて声をかける。自分の使いで遠出した従者を、戻ってみれば難題が山積している、などという悲惨な目には遭わせたくない。それも、自分たちはさんざん楽しんでおきながら。
 マントルピースに目をやれば、時刻は四時に近づいていた。ティーの時間には間に合いそうもないと、申し訳なさそうにしていた従者の顔を彼は思い出した。
 ――そう暗い顔をするもんじゃあない、ウィギンズ。ぼくもナサニエルも、それなりには上手くやれるのさ。
 彼は独り言ち、軽く笑った。そして上着を長椅子の背に掛け、シャツの腕を捲った。

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