正しい燕尾服の着方なら、寄宿舎学校にいた時分にマスターした。


憂いの玉箒 -Any Port in a Storm-

 だが正しい燕尾服の着せられ方・・・・・となると、こちらは未だ修練の途上にあると言わざるを得ない――少しばかり脇を緩めた立ち姿のまま、ヘンリー・ロスコーは視線をちらと動かし、サイドテーブルに畳んで置かれた黒いテールコートを見た。その上には真珠貝のボタンが付いたドレスベスト。奇抜なものは一つもない、あまりにも正統な夜の装い。
 彼は正面に注意を戻した。自分と比べればやや大きな、筋張った手が喉元へと伸び、糊のきいたシャツに付け襟を留めている。首全体がきゅっと締まる感覚。決して苦しくはない、むしろ気分が引き締まるような丁度の塩梅だ。

「しかし、旦那様――」
 その手の主が、低く落ち着き払った声で彼を呼んだ。尖ったところはどこにもない、神経を宥めるような響きだった。
「本当にお迎えに上がらなくともようございますか。わたくしは喜んで参上しますが」
「良いんだよ、ウィギンズ。たぶん今夜のぼくは、颯爽と車に乗り込むような気分にならないだろうから」
 シャツに僅かな皺も寄らぬようベストを整え、ボタンや金具を素早く留める。動きに一切の淀みなく、この壮年の男は――彼の従者はやってのけた。
 問題が生じるとすれば、それはいつでも主人の側だった。初めのころ彼は、何故こんな年にもなって人に着替えを手伝ってもらわなければならないのかと文句を言い、また従者の手が自分に触れるたび、居心地の悪さを感じるやら、くすぐったさを堪えきれず中断するやら、毎朝のように大騒ぎしたものである。
 さすがに今となっては、ボウタイを締めてもらうぐらいのことは何とも思わなくなり、着替え終わってから忘れず礼を述べることのほうが習慣になった。という話をすれば、友人たちは冗談に、そのうち靴紐も自分で結べなくなるんじゃあないかと彼をからかう。そして彼は、君たちだって最後には自分で結べなくなるんだよと言い返す。――今夜もそんな気心の知れた仲間が相手ならよかった。悲しいかな、現実は大きく異なっていた。
「それよりもだ、確か……この前に開けたポルト酒、あの1912年のやつは、同じのがもう一本あったよな」
 逃避するように彼は尋ねた。視界の下端に、完璧な蝶の形に結ばれたタイが見える。
「はい、旦那様。一本どころか五本の備えがございます」
「いつでも飲めるんだよな?」
「細心の注意を払って保存しております。以前にお召し上がりになった時と変わらず、最上の状態でお楽しみいただけるかと存じます」
「よし、それを聞いてちょっとばかり気分がよくなった」
 彼は笑みを作って頷き、従者がテールコートを着せ掛けてくれるのを待った。後ろ姿を整えるため、襟首のところにその手が触れたとき、本物の笑い声が口をつきかけて、呑み込むために少々の努力もした。
「後で居間に用意しておいてくれ。せめて寝る前ぐらいは心安らかでいたいんだ」
「かしこまりました。――他にも何か召し上がりますか、貯蔵庫にはスティルトンもロックフォールもございますが」
 首肯に続けて従者が問う。彼は数時間後の自分と相談をする。青カビのチーズと熟成されたポルト酒がいかに快く響き合うか、彼はもちろん知っている。だが、もう一人の自分がそれに異を唱えていた。確かに素晴らしい組み合わせだ、でも今夜じゃあない、と。これから直面する艱難を考えれば――ああ、胃袋がたちまち縮み上がって、胸の底がずしんと重く苦しくなる――全て乗り切った後の自分をもう少しぐらい労ってもいいじゃあないか。
「……甘いのがいいな」 抗いがたい誘惑だった。 「甘いものにしてくれ」
「お望みのままに」
「お前が頼みだぞ、ウィギンズ。それだけを楽しみに、あと数時間生き延びてやる」

 果たして、彼は生き延びた。幾度となくボックス席から身を投げたくなりはしたが、なんとか歌劇場を経てレストランへ至り、とうとう東36丁目のアパートメントへ帰りついた。玄関の扉を押し開けて、戸口に地味な黒ずくめの姿を見た瞬間、彼は絞り出すように言葉を漏らしていた。
「ただいま、ウィギンズ」
「お帰りなさいませ、旦那様」
 脱いだトップハットとステッキを差し出し、自分自身の領域に踏み入れてようやく、心の底から安堵が湧き上がってくる。まだタイを解いてもいないのに、呼吸がずっと楽になったような気がした。そうして力の抜けたまま立ち尽くす彼の前で、まるで綻びの見えない謹厳な顔が、
「お召し替えの前に、お湯をお使いになりますか。すぐに支度をいたしますが」
 と尋ねてくる。
「そうだな――いや、……このままでいい。それよりも、先に言っておいたほうの用意はできているか」
「お言いつけの通りにいたしました。旦那様がお望みなら、すぐにでも」
「すぐにでもだ。そっちのほうが大事なんだ、今のぼくには」
 彼は食い気味に断言した。加えて、居間に置かれた座り心地のよい肘椅子と、瀟洒なマホガニー材のテーブル、その上に載せられた盆や、赤ワイン用のグラスに似た脚付きの硝子器を思い浮かべた――早くその心地よさを堪能したいこともあったし、そうして自分を迎えるために、夜半まで起きて務めを果たしてくれた従者には、正装をもって向き合うのがふさわしいように思えたのである。

 おおよそ想像した通りのものが、広々とした居間の一角には準備されていた。革張りの肘椅子に腰を下ろせば、目の前の卓には四角い銀の盆とグラス、深いルビー色の液体が注がれたクリスタルガラスのデカンタ――もし彼が喫煙者なら、ここに葉巻の箱と灰皿も置かれていたことだろう――に、白磁の皿と銀のフォーク。暗色の酒瓶に記されたヴィンテージは、決して若すぎず、といって飲むにも気負わずに済むような年数だ。
 彼が正に一息ついた頃合いで、従者が別の銀盆を手に居間へと入ってきた。音一つ立てず卓に置かれたものを見、彼の声は彼自身でも予期せぬほど明るくなった。
「チョコレートケーキ!」
「はい、旦那様。この二日間、熟成のために貯蔵庫で安静にしておりました。あなた様のお気に召すかと存じます」
 お気に召さぬはずがない、と彼は確信していた。繊細なレース模様の皿に載せられたケーキは、裏腹に飾り気がなく、ただ長方形の型に入れて焼いただけ、という姿をしている。だが、物事は見た目だけではないのだ――顔を近づけるまでもなく感じられる、芳醇なカカオの香り、そして匂い立つブランデー!
 ああ、そうだ、お気に召さぬはずがない。彼は差し出された盆をうっとりと眺めた。添えられた大きなケーキナイフの柄は、間違いなく彼の側に向けられている。この重厚な宝を、一切れといわず好きなだけ、望むままの厚さに切り取ってよいのだ……
 けれども欲を出しすぎてはいけない、彼はそう自分に言い聞かせた。いたって標準的な厚みの一切れが、彼の皿に静々と横たわった。断面はきめ細かで、ずっしりと詰まって見える。
「真夜中の色だ」 彼は小さく笑ってそう零した。
「ブランデーのいい匂いがする。焼いた後に染み込ませたんだろう?」
「いかにもご明察でございます、旦那様。フルーツを漬け込んだ後のものですから、風味を余さず取り入れております」
「フルーツ、ああ、このつぶつぶしたやつはイチジクだな。それに干しぶどうと……?」
「クランベリーも少々加えております。いずれもポルト酒の果実味とよく調和するかと」
 確信を持っている、という表情だった。彼は満足を示すように頷きを返し、目の前でデカンタからグラスへと注ぎ込まれる、深い紅色の流れをじっと見つめた。それ単体で味わっても、実においしい酒だった。まだ若いせいか、少々渋味は強いものの、眼裏に濃い赤色や紫色をした花々の咲き乱れるさまが――ポルトガルの谷間にはそんな景色が広がっているのだろうか――浮かんでくるような香り高さだった。だが今日は、あれに輪をかけて趣深くなるに違いない。にわかに口元が緩んでくるのを感じ、彼は努めて表情を引き締めようとした。
「……先にケーキだけ食べてみてもいいか、ウィギンズ」
「もちろんでございます」
 従者が言い終わるや否や、彼はフォークを掴んで贅沢な一口分を切り分け、香りを楽しむ暇も置かずに噛み締めた。
 まず感じたのは、むろんチョコレートだった。ただし、彼が予期していたよりも遥かに複雑な――単に今しがた挙げられた材料の総和というだけでなく、もっと多くのものが重なり合った味わいだった。それはブランデーのためなのだろうか? 凝縮した果実の風味が溶け込んで、香り高くなった琥珀色の美酒――それが生地に馴染み、日を置くごとに豊かさを増し、主役であるチョコレートに一層の華やぎを与えているのだろうか。
 彼は眼を見張り、次いで瞑目し、長い余韻に暫し浸った。確かに甘いのにどこかほろ苦い、二面性のある菓子だと思った。しかも、その二つの面は完全に分離しておらず、奇妙に溶け合っているのだ。
「ウィギンズ、とても……」
 開いた口から自ずと言葉が漏れた。 「とっても美味しいな、これ……」
 しかし単なる「美味しい」で終わらせてはいけないのだった。お楽しみはここからだ。濃い赤紫色で満たされたグラスに彼は手を伸ばした。まだ風味が十分残っているうちに、甘やかな滴りを口に含む。

 刹那のうちに驚くべきことが起こった。初めに味わったときよりも、果実らしい味を遥かに強く、瑞々しく感じたのだ。熟したサクランボや、摘み取ったばかりのブルーベリー、皮の張りつめた暗い色のプラムに、皮ごと齧りついたような鮮やかさ。
 一体どうして? 彼はまず混乱し、続いて考え込んだ。推測するに、チョコレートの苦味がポルト酒の渋味を抑え込み、覆い隠したのではないか――そうして残された果実の存在が、何にも妨げられずに表へ噴出したのではないか。だとしたらなんと不思議な、得難い経験だろう!
 次にやるべきことはとっくに解っていた。とびきり甘く、それでいてべったりとはしていない、この魔法が消え失せないうちに、二口目のケーキを頂くことだ。
 彼は迷わず実行した。閉じた口の端から感服の唸りが漏れた。やはり先程よりも、中に混ぜ込まれたイチジクやベリーの味を活き活きと感じた。引き立て合う、というのはこのことだ。もちろんチョコレートも圧倒されてはいない。どっしりと濃厚で、微かに土や花のような気配を纏っているのが、舌の上ではっきりと判る。となれば次なる一口では、さらに多くのものを見つけ出せるに違いない。手は自然とグラスに伸び、続けざまにフォークへ、そしてまた……

「ウィギンズ、これはとても、とてもお前にすまないと思うんだが」
 微かに眉を寄せながら、空になりかけたグラスを片手に彼は声を漏らした。
「本当はだな、今ぼくがどんなに感激しているか、ぼく自身の言葉ではっきり伝えたいんだ。でも、どういうわけか無理なんだよ――表現力が子供の時分にまで引き戻された気がする」
「さようでございますか」
「さようだ。最大限努力しても、『あまくておいしい』以外の言葉が出てこない」
 最後の一口まで味わい尽くしてもなお、彼の口から気の利いた表現が紡ぎ出されることはなかった。グラスを置いて長々と息を吐き、椅子の背に身体を凭せ掛ける――視線を上げれば従者と目が合う。彼が何か言うより先に、その暗色の瞳はデカンタへと向けられた。
「ウィギンズ――」
 二杯目をくれ、と言うまでもない。従者はとうに察しているのだ。人並みの欲を持つ主人が、二杯目だけでなく二切れ目をも必要としていることさえ。
「お気に召したようで深く安堵しております、旦那様。いかがでしょう、次は少々目先を変えるというのは……貯蔵庫にこの夏仕込みましたサクランボのジャムがございます。あれもポルト酒を使ったものでございますから、両者の橋渡しとしてふさわしいかと」
「いいな、それはいい! 是非そうしてくれ。やっぱりお前は何でも準備してるんだ――何もかも解っているんだな。ぼくは嬉しいぞ」
 洒脱な言い回しが出てこないかわり、胸の内からの率直な言葉ならぼろぼろと零れた。盆にグラスを載せ、一礼して去ってゆく従者を、彼は浮ついた心持ちで見送った。冷え切っていた身体はもうすっかり温まり、あれだけ重たかった頭も胸の奥も、今はふわふわとして大変に気持ちがよかった。
 瓶とスプーンだけあれば十分事足りるものを、従者は丁寧にも乳白色のジャムトレイに入れて、熟れた紅色の砂糖煮を持ってきた。新しいグラスに酒が注がれる間、彼はケーキを先程よりもう少し厚く切り取った。口元がまたやんわりと緩んだ。
「――せっかくなら、グラスももう一つ持ってくればよかったのにな」
 静かに差し出された盆に手を伸ばしつつ、彼は小さく笑みを零して言った。
「は、……お水でしたらすぐにお注ぎします。水差しとコップがこちらに」
「違う、ぼくじゃないよ、お前――お前も一緒に飲めばいいのに。いい酒なんだから」
 当然ながら従者は良い顔などしなかった。細く整えられた眉の間に、あるかなしか皺が寄ったのが彼にも見えた。
「お戯れを、旦那様。わたくしが物食うさまなどを、あなた様のお目にかけるわけにはまいりません。まして飲酒など」
 ほんの気まぐれに応じるつもりは一切ない、という意志が滲む硬い声だった。それで彼は、そうかあ、とがっかりしたような声を出したものの、残念がるような態度は長く続かなかった。後から後から湧き上がってくる愉快が、それらをすっかり圧倒していた。
「そういうものか、いや、解らないわけじゃあないぞ、……せっかくの良いものは、独りでゆっくり、っていうのもな。うん、解るよ」
「旦那様――」
「じゃあ、ぼくのいないところでは、お前はちゃんと好きなものを飲んでいるんだな?ぼくはだな、そういうことがとても心配なんだ――お前は人の目がなくても我慢ばかりしてそうで……」
 湧き上がるままに言葉を垂れ流しては、とろりと濃いジャムの掛かったケーキを一口、愛おしむように咀嚼する。ふくよかでまるいサクランボの味、それによって何層倍にも膨らんだポルト酒の香り、何もかもを余さず呑み込もうとしながら。
 他方、従者はそんな主人をただ冷厳に見つめていた。主人が酔っていることはとうに理解していただろう、しかつめらしい顔は緩まないままだ。
「……アルコールに関して言えば、慎むよう努めております、旦那様。なにぶんかような時世でございますので――どのような酒類であれ、極めて貴重な財産でございます。わたくしなどがむざむざ浪費してよいものではございません」
「そうか。でも、嫌いじゃあないんだろう」
「はい、旦那様。……あなた様が寛大にも下げ渡してくださったものに関しては、感謝をもって頂戴しております。ですが、わたくしといたしましては」
 短い間があった。 「弁えるに越したことはないと考えております」
 自分に向けられる淡々とした言葉、温度を剥ぎ取ったような声には、彼も気付かないわけではなかった。彼はグラスを置いて顔を上げ、暗褐色の目を覗き込もうとした――言葉は発しないまま。
「つまり、節制が大切だということです、旦那様。己を律することが必要なのです……とりわけこの職業には。『執事病』とはよく言ったものでございまして」
「執事病?」
 彼は口をぽかんと開けたまま、従者をまじまじと見た。この男が自分に仕える以前、まだ英国にいた時分、どこぞの屋敷で執事を務めていたというのは聞いたことがあった。
「というと、要するに……アルコールの、その、問題がか?」
「さようでございます。執事バトラーとは本質的に、お屋敷における酒瓶ボトルの管理者であることはご存知でございましょう」
 ちっともご存知ではなかったが、彼は頷いておくことにした。
「これは一部の人々にとって試練でございます。すぐ手の届くところに、貴重な酒類がどっさり蓄えられているばかりか、それらの鍵は自分が握っているのですから。そして、階上のご家族というものは、階下に残されている酒の量になど、さして注意を払ったりなさいません」
 言われて彼は己の言動を省みることになった。自分もやはり、このポルト酒が貯蔵庫にあと何本あるか把握していなかった――従者の話では五本とのことだったが、これで数を一本か二本ごまかされたところで疑いもしなかったはずだ。
「執事の職にかかる責任は大変重いものでございます。理性や自制心が重圧に負けて、ままならぬ状況に至った例を、わたくしも何度か見聞してまいりました。彼らには同情を寄せるものですが、しかし、同じ轍を踏むわけにはゆかないのです、……制御不能に陥りたくはないのです、旦那様」
「そうか」 彼は手元のグラスを見、軽く目を伏せた。 「……そうか」
 まさかお前に限ってそんなことはないだろう――言いかけた台詞を呑み込むように、皿の上からケーキを切って口に運ぶ。それこそが重圧なのだろう、と彼は回らない頭で考えた。上級使用人であれば実務のみならず、自己の管理も完璧で当然だと、世間から誤って信じられていることが。
「ああ、まことに申し訳がございません、旦那様。このような場でお聞かせするような話ではありませんでした。さぞお耳に障ったことと拝察します」
 従者は彼の沈黙をより悪いほうに取ったらしく、一息にそう言い切ると、口を硬く引き結んで頭を垂れた。
 彼の内心にも一抹のすまなさが生まれかけたが、同時にいくらか嬉しくもあった――きっとこの生真面目な男は、己を律しようとするだけでなく、主人にも「制御不能に陥」ってほしくないのだろう。雇い主の身などどうでもいいと思っているなら、求められるままいくらでも呑ませておけば済むのだから。
「いいや、そうじゃあなくて、なあ、ウィギンズ」
「なんでございましょう」
「お前の信条については、うん、解ったよ。ぼくも無神経なことを言ったな。悪かった。もう言わないから、だから――」
 残り一口か二口ばかりになったポルト酒を、彼はたっぷり時間をかけて飲み干した。鼻先を花弁で撫でられたような、なんとも快い香りが通り抜けていった。
「旦那様?」
「だから、もしもお前がいつか、どうしてもその……制御不能になりそうだと思ったら、その時はちゃんとぼくに教えるんだぞ。隠したりしないで」

 すぐに返事はなかった。何故そんなことを主人の側から切り出したのだろう、とでも言いたげな、微かな当惑が眉根のあたりに見えた。
「だって、ぼくはお前の主人なんだから――お前を働かせているのはぼくなんだから、ぼくにだって責任があるはずだ。間違ってもそこまで追い込まないように十分注意するつもりだが、……それでも間違えたら、きちんと元に戻れるようにするから」
 空になった酒器の脚を握り締め、彼は血の気に乏しい従者の顔をじっと見上げた。表現の技巧は未だ失われたままだったが、却って良かったのかもしれない――口先だけの親切と取られずには済みそうだった。
 そのうちに、禁欲主義の偶像のごとき面持ちから、ほんの僅か冷たさと硬さが抜けたように思われた。まだ明らかな笑みとまではいかないが、唇は微かな円みを取り戻したと見えた。彼は目を瞬いた。
「仰せの通りにいたします、旦那様」
 少なくとも声色は、石のように硬くも、鉛のように重たくもなかった。耳慣れた響きだった。
 それで彼は大きく息を吐き、脱力して革の座面に沈み込んだ。周囲のあらゆるものが輪郭を一瞬間揺らがせ、ひたりと鎮まった。
「うん、それでな、ウィギンズ。ここにはまだケーキがあって、デカンタにはまだ酒があって、グラスだけが空なんだが」
「さようでございますね。――たとえお尋ねがなくとも、三杯目をお勧めするつもりはございませんでした」
「ありがとう」
 ふふふと唇を震わす笑声を、押し止めるためにまた一口――身を起こしたそのついでとばかり、皿に残ったケーキを平らげてから、彼は肘置きに寄り掛かった。菓子と酒と、我が家の安穏たる快適さとで、頭の中は埋め尽くされていた。数時間前までの鬱屈した想いが入り込む隙はもうなかった。

 そうしていると、笑いに続いて短い欠伸が口から漏れ出してくる。時刻はとうに深夜一時を回っているはずだ。この暖かな、柔らかい毛布に包まっているかの如き夢心地のまま、眠りに落ちてしまえたらどんなにいいか!
 彼は思ったが、やがて一筋の理性の光が差し込むのを感じた。自分はこんなにも良い気分だが、それで寝入ってしまっては、残された従者がどれほど苦労するか。大の男を抱えて二階の寝室まで運ぶか、あるいは寝室から毛布や羽根布団を担いで降りてくるか、いずれにしろひと仕事だ。追い込まないようにすると言った矢先に、なんと宜しくない主人ぶりだろう――
「ぼくは満足だ。もう上に戻って寝る。いい時間だしな」
「それがよろしゅうございます」
 うやうやしく首肯する従者に、彼は立ち上がりながら言葉を続けかけた。お前も下がって休んでよいと。しかし、考えてみればこの男が、明らかに酔っ払っている主人を平気な顔で見送るわけがないのだ。着替えもせずに寝台へ倒れ込んで、そのまま朝まで過ごして見事に風邪を引く、などという悲惨な可能性が存在する限り、決して心安らかに眠ることなどできまい。
 彼は心を決めた。どれほど頭の働きが鈍ろうと、最低限は主人としての務めを果たすという意志をもって、従者に向き直った。
「片付けは後で構わない、……着替えるのを手伝ってくれ、ウィギンズ」
 再びの首肯が彼に応えた。 「仰せのままに」

inserted by FC2 system