濃い紅茶を飲み終えもしないうちから、少年はそわそわし始めていた。


薫る憧憬 -Smelling Myself-

 日はとうに西の空へと傾き、使用人部屋の簡素な壁紙に、橙や茜の僅かな残光を投げかけるばかりだ。空気がだんだんと冷たくなり、夜が迫っていることを知らせてくる。それこそが彼の気を逸らせているのだ。
 部屋には彼独りきりである。この荘重なアパートメントに雇われたもう一人の使用人、壮年の従者は今、階上で主人の着替えを手伝っているころだろう。アパートメントの主である若紳士は今夜、社交の場へと出かける予定なのだ。日来よりも一層立派な、誂え仕立ての燕尾服で華麗に装い、豪奢な電飾のついた夜の街へ繰り出す――彼の全く知らなかった世界、耳にはすれども目の当たりにはしたことのない上流階級の一端だけでも、主人を通して垣間見ることができる。シャツの袖に真珠貝のカフスを留め、襟のボタンホールには白いカーネーションかそれとも真紅の薔薇、白絹の手袋に黒檀のステッキ、そして目に見える以外のものも……
 思い描いている間にも、紅茶はどんどん冷めてゆき、ジャム・プディングはふやけて崩れ始める。酸っぱい木苺のジャムを巻き込んだ生地に、温かなカスタードの掛かったローリーポーリーは、従者がティーに出す中でも彼のお気に入りだった。「死人の腕」などという別名からは想像できないくらい、甘くてお腹いっぱいになるおやつなのだ。
 カスタードをすっかり飲み干して柔らかくなった生地を、古びたフォーク――これは少年が初めて自分で磨いたものだった――でせっせと口に運びながらも、彼はじっと廊下に耳を澄ませていた。そして皿もすっかり空になるころ、ああ、とうとう聞こえた――声が、続いて足音が。すぐさま彼は、後片付けのことを忘れ去り、席を立って戸口へとにじり寄る。
「――それで、ぼくもクラブの連中も二週間ずっと待ちかねていたわけだ。シャーリーのことだから、ぼくらの凡庸な頭で思いつくような格好はしてこないはずだろ。今度は何を着てくるのかなあ!」
 高揚感の滲む快活な声は、間違いなく若主人のものだった。それを受けて、
「ご友人がたの中でも、ひときわ当世風でいらっしゃいますね、ミス・ボーリガードの装いは」
 と応えるのは、低く落ち着き払った英国のアクセント。二人の人間がそこにいるのだ。ただし、足音は一つきり。
「そうなんだ。仲間うちじゃあ、次のパーティーに彼女がどんな服を着てくるかで賭けになるぐらいだよ。この間なんか本当に粋だったなあ、あの真珠の房飾りがついた翡翠色のドレス……」
 うっとりと回想するような響きを耳にしても、具体的にどういった衣装なのか、少年にはまるで想像がつかない。彼にはただ、シャツの襟元を飾る細いリボンを結わえ直し、髪を子供なりの意識でもって整えてから、何となし、ちょっと気分を変えてみたかったというふうを装って、廊下に出ていくことだけが重要なのだった。戸口からそっと表を窺うと、正しく好機、ギャラリーの奥で立ち止まっていた二人の紳士が、再びこちらへ歩いてくるところだった。彼は自分が一端の使用人らしく見えますようにと心で祈り、ぱっと身を躍らせた。

「でも本当は、ぼくだってなあ、ちゃんと耳飾りの石まで予想して書いてあったんだ。それをパーシーのやつ……」
 言葉が途切れた一瞬の間こそ、若い紳士が彼を認めた証だった。ダークブルーの目と視線がかち合ったのを、彼は確かに感じ取った。けれども、その子供じみた顔から何か言葉が発せられるより、従者が見習いの逸脱を見咎めるほうが早かった。
「ナサニエル――」
 部下を監督する上役としての、冷厳な声が耳朶を打つ。胸の内で膨らみつつあった、稚い期待がただ一語に気圧される。しかし、
「まあ良いじゃあないか、ウィギンズ。ぼくを通せんぼしに出てきたわけじゃあなし」
「後片付けが済み次第、部屋に下がっておさらいをしておくようにと……」
「おさらいも済んだんだろうさ。やあナサニエル、お見送りありがとう」
 若主人は軽やかな足取りで彼のもとへやってくると、視線を合わせるように屈み込み、にっこり笑ってそう言った。
「ちょっと踊りに行ってくるからね、留守番は頼んだよ。ただ、あんまり遅くまで起きているんじゃあないぞ。ぼくが言えた立場でもないけれど……」
 彼は息を呑み、ただ頷いた。糊のきいた真っ白なドレスシャツの襟と、完璧な蝶の形に整えられたボウタイがすぐ目の前にある。階上のテラスから一輪剪ってきたのだろう、淡い蜂蜜色を帯びた薔薇が、黒い背広の上で優雅に咲いている。それだけではない――
 匂いだ。こうして出かけてゆくときの主人のどこが好きだといえば、まず何よりも、身に纏っている香りなのだった。「踊りに行ってくる」という言葉の響きにふさわしい、いかにもご機嫌な果実の匂い。もぎたてのレモンやグレープフルーツをぎゅっと絞って、そこに少々のハーブを効かせたおいしいレモネードのような。
 もちろん、ただ爽やかさのみに終わる香りではない。庭ではついぞ嗅いだことのない、どこか胸の騒ぐ花の蜜の匂いがしたと思えば、心安らぐラベンダーの囁きも感じられる。
 少年は夢想する。こんなにいい香りがするのは、きっと香水をつけていらっしゃるからだろうけれど、他にも何か秘密があるのだと――それは例えば、暗色の髪を撫でつけ、艷やかな光を与える、ライムじみた苦い匂いのポマードかもしれないし、あるいは襟に飾った一輪の薔薇が、まだ馥郁たる芳香を漂わせ続けているためかもしれない。いずれにせよ今の自分から匂ってくることは決してない、大人にだけ、本物の紳士にだけ許されているのだろう、素晴らしい調和だ。
「しかし旦那様、お車を出さなくともよろしゅうございますか。歩いては三十分少々もかかりましょう、ダンスの前からお疲れになっては……」
 彼がぼうっと馨香に浸る傍ら、従者は謹厳な面持ちを崩さぬまま、主人に確認を取っている。若い紳士が顔をそちらに向け、軽く眉を上げて頭を振った。
「いいって言ったじゃあないか、ウィギンズ。ぜんたい、今夜はそんな格式高い場でもないんだ。気楽な集まりなんだよ。そこに運転手つきのシルバーゴーストなんかで乗りつけちゃあ、かえって顰蹙を買うってもんだろう」
「さようでございますか」
「さようだ。そういうわけだから、ぼくは独りで行く。ぼくが健脚なのはお前も知っているはずだぞ」
 むろん、この場において絶対的な決定権を持っているのは主人である。従者がいかに年嵩であろうと、下にある事実は揺るがない。よろしゅうございます、と静かな応え。
「まあ、そういうわけだ。後のことは頼んだぞ」
「は」
 従者は短く声を発し、続いて深々と頭を垂れた。うやうやしく美しい一礼だった。
「良き夕べをお過ごしくださいませ、旦那様」
「行ってらっしゃいませ!」
 少年もそれに倣ってお辞儀をしたが、こちらは日常動作の一部となりきれていない、お芝居めいた感は否めなかった。おまけに彼が顔を上げたとき、従者は未だ閉じた扉に向かって頭を下げたままだったので、ずいぶん間の悪い思いをするはめになった。

 遠ざかる足音がとうとう聞こえなくなったとき、従者はようやく姿勢を正し、重たい扉の鍵を静かに締めた。
「――行ってしまわれた。紳士ともあろうお方が、夜のダンスホールに徒歩でお出ましになるなどと……」
 理解し難い、という意思の滲み出た声が、冷たい空気の中を漂った。そういうものかと彼は疑問に思ったが、苦々しげな響きにあえて挑戦することはしなかった。

 それから数時間は全てがいつも通り――少年は放ったらかしになっていた食器を流しへ運び、同じく忘却の彼方にあった読み書きや算術のおさらいをした。そうするうちに、台所のほうから何かの焼けるいい匂いが漂ってくる。プディングですっかり膨れていたはずのお腹がきゅんと鳴る。あれはきっとシェパーズパイかコテージパイか、それとも「穴の中のヒキガエル」……残り物の肉で作られているとは思えないようなごちそうだ。
 素晴らしい夕食を予感しながら、彼の思考は翌日のティーにまで飛躍した。従者はどんなお菓子を焼くのだろう、真っ白なショートブレッドか、薔薇のジャムとクリームを添えたスコーンか、チョコレートと黒ビールを入れて作るスタウトケーキかもしれない(旦那様は大人だから酔っ払ったりはしないのだ――彼はそう誤って考えている)。
 それらはどれも信じられないほど甘く香ばしい、嗅いだだけでも幸福な気分になるいい匂いがして、彼は使用人部屋が台所のすぐ隣にあることを心から感謝するのだった。そこでふと考えるのは、あのお菓子が焼けるときの匂いがする香水はないのか、ということだ。もし自分がいつか香水をつけるなら、そんな幸せを身に纏ってみたいと。
 ところが、この思いつきは少しもすると萎んでしまうのだ。いつでもお菓子の焼ける匂いがすればいいなんていうのは、きっと子供しか考えないことで、本物の紳士のやることではないのだと、彼はまたも勝手に信じ込むのだった。

 熱々のマッシュポテトとひき肉の晩餐を終え、少年が使用人部屋を軽く掃除していると、台所の後片付けを終えた従者が入ってきた。エプロンと袖カバーを外し、けれども背広を着直すことなく、定位置の椅子を引いて腰掛ける。一連の所作はどこを取っても上品そのもので、余計な音など一つもしなかった。 「寝支度はもう済ませたかね、ナット」
 上役としてではなく親類として、また保護者としての、厳しさを幾分緩めた声が彼の名を呼んだ。
「はい、おじさん――でも、もう少し起きていようと思って。旦那さまもまだお戻りになりませんし」
「お前はお出迎えには立たないだろう。それに、あまり夜ふかしをするものではないと、旦那様が直々に仰ったのだからね」
 諭すような口ぶりで言われては、彼も解りましたというように頷くほかない。けれど本当は起きていたいのだ。何故なら使用人とは本来、主人が床に就くまでは決して眠らないものだから。事実、従者はいかに若主人の帰りが遅くなろうと、それが朝日も昇ろうという時間であっても起きていて、お楽しみを終えた背中から外套を脱がせ、帽子とステッキを預かり、万事遺漏なく寝室へ送り出すのである。
 それを思えば、やはり自分はまだ見習いにすぎないのだ――箒とちりとりを部屋の隅へと片付けながら、少年は小さく溜息をついた。なんとか寝ないで待っていようとしたことも一度や二度ではないが、はっと気がついてみれば翌朝で、慌てて従者のところへ挨拶に行くというのが始末だ。いや、そもそも使用人として一人前と認められるためには、まず堪え性を身につける必要がある。無闇に旦那様の御前へ出るなと言われれば、その言いつけを固く守らなければならないのだ。
 ――だからぼくはもっと我慢しなくちゃいけないし、香水だってまだ早いんだ。
 整えたつもりで整えきれていない頭を振り、彼は壁際を周って元の席へ戻った。眼前にはいつもより力の抜けた、それでも居住まいの正しい従者の姿がある。筋張った指が青い表紙の帳面をめくっている。
 その時、ふっと彼の頭に浮かぶことがあった。
「あの、おじさん」
 呼びかけに、暗色の目がちらっと彼を見た。何かを伝えようという意思を感じ取ったのか、穏やかな顔がすぐに向き直る。
「何だね、ナット」
「おじさんは、――おじさんも香水をつけないんですか、旦那さまみたいに」
 理知の石を磨いて珠にしたような、深い淵にも似た大人の目が、不規則に二、三度瞬くのを少年は見た。思いもよらないことを言われた、という反応だと思われた。
「香水など――香水など、付けて出るところがどこにあるというのだい……ただ一介の使用人が……」
「だって、旦那さまのお側にお仕えするのがおじさんの役目なんですから、いい匂いがしたらきっと旦那さまも嬉し――ええと、お喜びになると思ったんですけど」
 従者の細い鼻筋に、僅かばかりの皺が寄った。今にも口元から、まさか、と声が漏れ聞こえてきそうだった。またおかしなことを聞いてしまった、と彼は後悔しかけた――ただし黙殺はされなかった。
「……あの方のお考えは、私にはとても解らないがね、ナット。それでも常識としては、使用人風情がなんと弁えのない、としか感じられないだろう」
 そういうものだろうかと彼は再び疑問に思った。あの若い主人はいつだって、従者の立派な紳士ぶりを満足げに眺めているのに。彼が新しいシャツをもらって、うきうきと玄関先を掃除していた時など、我がことのように喜び、よく似合うと褒めてくれたのに。
「良いかね、旦那様のような紳士の方でも、香水をお召しになるには時と場をお選びになるのだ。まして私たちは一層気をつけなければならないよ、矩を超えないように……」
 少年はしおらしく頷きながら、まだ考えていた。人をだますとか、暴力をふるうとか、罪にあたることをするでもなしに主人を喜ばせることは、使用人にとって何より大切なことだろうに――それなのに世の中の人は、「常識として」眉をひそめるのだろうか。旦那様もやっぱり、出過ぎたことをするなと言うのだろうか? いや、心から歓迎してくれるはずなのに。
 言うまでもなく、今まで彼の思いつきが従者の考えより正しかったことなどなかった。この壮年の従者は、彼より二十年は長くお屋敷奉公の役目についているのだから、真の上流人がどのように振る舞うべきか、彼の何層倍もよく知っているはずなのだ。今回もきっとそうなのだろう――

「本当に、旦那様はお喜びになると思うかい」
 俯き加減に思案していた彼は、そこではっと顔を上げた。見れば、従者は細い眉の間に皺寄せるのを止めて、薄い唇を僅かに開き、慮るように彼をうち眺めていた。
「おじさん?」
「私は、……私にはあの方のお心が、深い所まで見えてはいないからね。もしかするとお前のほうが、もっと近い考え方をできるのかもしれない」
 彼は目を丸くし、年嵩の親類が訥々と語るのをただ聞いた。これこそ思いもよらないことだった。主人の内心が全て解るわけではない、という話さえにわかには信じがたいのに、ましてその従者より、見習いである自分のほうが考え方が近いなど。
「あの、言ってみただけなんです、おじさん。旦那さまは喜んでくださると思います、だけどもし、それが本当は失礼にあたるんだったら……」
「そうか」
 従者は頷き、独言するように呟いた。 「ああ、きっと喜んでくださるだろうな」
「はい、きっと――」
 予防線を張るのはやめにして、彼はゆっくり、心を込めて頷き返した。

 胸の奥では、こうまで言っても従者は決して香水をつけないのだろうと、何となしに解りかけていた。微かな希望と冷淡な諦めが入り混じったような、ゆっくり長い息遣いを聞いていれば、そうと察しはつくものだ――低いけれどもよく通る普段通りの声ではなく、囁くように抑えられた音は、彼にそれ以上の返事を躊躇わせた。沈黙が質素な卓の上を這った。

「……遅くなってしまったな、ナット」
 少年がいたたまれなくなる寸前に、従者が穏やかな笑みを浮かべて言った。
「もう部屋に戻りなさい。旦那様のお言いつけは守らなければならないよ。眠れるときには眠っておかないと、明日の朝に困るのはお前なのだから」
 従者はそう諭すと、厚い帳面を卓に置いて立ち上がる。見習いとは違って、もう充分熟達した者には為すべき仕事が残っているのだ。主寝室を整えたり、階上の浴室を準備したりもするだろう。万が一があってはいけないから、やはり車で主人を迎えに上がる用意もするかもしれない。自分では手伝いたくても手伝えないことばかりだ。
「はい、――おじさんも寝てくださいね。旦那さまがきっと心配しますから」
 彼もまた席を離れて、従者に歩み寄り、けれども手の届くところまでは踏み込まずに立ち止まった。そして、自分より一フィート以上も高いところにある顔を見上げた。そんなことを頼まれてもと言いたげな、少しばかり困ったような微笑が彼を見返した。
 一拍置いて、
「そうするよ、ナット。さあ、よくお眠り」
 物柔らかな応えと共に、従者は屈み込んで彼の額へお休みの接吻を落としてくれた。かつて彼の両親や、また伯母がそうしていたように。
「おやすみなさい、おじさん」
 今となってはただ一人の縁者となってしまった、厳しいが慈悲深い男の髪から、彼は丁字油や扁桃油の微かな残り香を嗅ぎ取った。晩方傍へ寄ると感じる、少し煙たく甘い木の匂い。華やかさや優雅さとは無縁だけれども、なんと心を宥め落ち着かせる香りであることか。

 一礼して使用人部屋を辞し、廊下を自分の部屋へと歩いて戻りながら、彼はぼんやりと考えた。従者もまた主人と同じように、本物の紳士なのだから、本物のいい香りを纏う資格があるに違いない、けれどもあの匂いが全くかき消されてしまうのだったら――それはそれでなんだか寂しいような、もったいないような気もするな……

inserted by FC2 system