「運が悪いな、ウィギンズ」


歓びの雨霰 -Shower With Praises-

 目の前で沸き立つ水煙を眺めながら、ヘンリー・ロスコーは厳かに言った。
「まことに悪うございます」
 数歩離れた位置にぴたりとつけた壮年の従者が、全き平然とした様子で応えた。
「外出先で遭遇するにはよろしくない事態だな、ウィギンズ?」
「よろしゅうございませんね、旦那様」
 その落ち着きようときたら、たとえ目の前に火星人の宇宙船か何かが着陸したとして、顔色一つ変えずに主人を我が家まで送り届けるだろうと彼には思えた(昨晩、彼は英国の作家が物した空想科学小説を読んだのである)。全てこの世に起きる出来事から、それにどう対処すれば主人の被る害を最小限に抑えられるかということまで、その暗色の目にはまるきりお見通しなのだ――そんな幻想さえ抱いていた。
 だが、従者の怜悧な頭脳をもってしても、彼らの眼前に横たわる現実――粗忽な自動車乗りが全マンハッタンの消火栓を吹っ飛ばして周ったかのごとき豪雨までは如何ともしがたかった。これで場所が目抜き通りのレストランか何かなら、タクシーを拾ったり、店に頼んで呼びつけることもできようが、生憎とここはセントラルパークの湖畔にある東屋で、自動車はおろか馬車だって入り込みやしない……
「ぼくは絶対に降らないと思っていたんだがなあ。ぜんたい、天気予報というやつは、どうしていつまで経っても正確にならないんだ? 無線電信の時代だっていうのにさ。どこそこの土地でこれだけ雨が降ったから、明日はどの辺りまで雨になるだろうとか、それぐらいの予測は百発百中――は無理だとして、まあ九割がた当たるようになってもおかしくなさそうなんだが」
 優美な装飾のついた鋳鉄の手すりに、ずらりと垂れ下がる雨露を、指でつつきながら彼はぼやいた。
「技術の進歩は目覚ましいものですが、目下その域には達していないものと存じます。先日、ミスター・リビングストンと気軽な会話をいたしましたところ――」
「何だって、お前が? パーシーと?」
「はい、応接室で旦那様がお目覚めになるまでの間に。お話によると、先だって英国はウェストミンスター大学の気象学者が、物理学的計算による天気予報についての仮説を発表したとか。それによれば、六万四千の計算手を一所に集め、適切な指揮系統の下で同時に計算を行わせれば、短時間で翌日の天気が算出できるであろうとのことでした」
 彼は無言になった。悪友の話をどこまで信じればいいのかは別として、従者がこの話題を持ち出してきた理由ぐらいは察しがつく。要するに無理なのだ。
「つまり、当分ぼくらはポロ・グラウンズでの試合が中止になるかどうかについて気を揉み続けなくちゃあいけないわけだ。それと、もし今度ぼくがパーシーの前で寝そうになったら顔をひっぱたいてでも起こしてくれ。何をされるか解ったもんじゃあない」
「かしこまりました」
「まだこの前の借りも返してないんだからな……ともかく、一体どうしたものかなあ、ウィギンズ」
「どうと仰いましても、雨である以上は舟遊びを続けるわけにもまいりません。お帰りになるより他にないかと存じます」
「仰いましても、はこっちの台詞だぞ。帰るにしたって傘は一本しかないじゃあないか」
「はい、旦那様。充分でございます」
 従者は平然とした面持ちをまるで崩さず、自らの手元をちらと見遣った。どこにでもありふれた黒い紳士用の蝙蝠傘が一本、きちんと畳まれた形で筋張った手に収められている。そう、降雨の可能性を露ほども考えていなかったわけではないのだ、この従者は――傍らから傘を差し掛ければ済む程度の、軽い雨しか想定していなかっただけだ。
「充分なもんか! お前はあれだろう、その傘をぼくに渡して自分は濡れて帰るつもりなんだろう? 冗談じゃあない、そんなの諸共ずぶ濡れになったほうがましだ」
 雨音に負けじと声を張り上げていた彼は、ややあってからトーンを落とした。
「いや、そもそもぼくが傘なんか要らないと言い出さなけりゃあよかったんだが」
 嘆息して従者から目を逸らし、東屋の向こうに広がる湖をうち眺める。到着したころには鏡のように滑らかだった水面は、打ち付ける雨粒にかき乱され、絶えず飛沫を上げている。対岸の木々はぼんやり白く霞み、まるでどこか違う世界のようだ。一人に一本傘があったとしても、この雨ではあまり役に立ちそうにない。
「もっと言うなら、……わざわざ遠出してボート遊びなんかしなけりゃあよかったんだ。それもお前まで連れて」
 なだらかな岸に引き上げられた、木製の小舟を一瞥し、彼は嘆息した。
「お前には悪いことをしたな、ウィギンズ。主人が行くと言ったら、嫌でも付いて行かなくちゃあならないんだから」
 顔を上げて見やれば、従者は先程と寸分違わぬ直立不動の姿勢のままで、暗色の目を彼に向けていた。そして小さく首を横に振り、
「いいえ、旦那様。嫌などとは申しません――ご一緒できて嬉しゅうございます」
 と穏やかに答えた。けれどもその言葉は、心の底から生み出されたものでなく、社交辞令のスクラップブックから時宜にかなうものを抜き出してきたもののように思われた。
 数日前、予定を立てたときのことを彼は回想する。どうも週末までは上天気のようだから、きっと気温も上がるだろうし、ひとつセントラルパークの湖で舟遊びと洒落込むのはどうだ――そう切り出したとき従者はどんな顔をしていただろうか。もちろん言葉の上では、それはよろしゅうございますと快い返事をくれたけれども、整った眉に微かな曇りが見えてはいなかっただろうか。少なくとも微笑んではいなかった気がする――うまく思い出せない。彼は頭を振った。もっと注意を払っておくべきだったのにと、今更悔いたところでどうしようもなかった。

「旦那様?」
 あまり深くもない内省の泥濘から、彼を引きずり出したのはやはり従者の声だった。浅瀬を離れて淵に迫りつつある子供を、危険が及ぶ前に呼び戻してやる親兄弟のように。
「あ、ああ」
「何かお考えがございましたら、何なりと――」
「いや、なに、大したことじゃあない」
 彼はとっさに否定の応えをし、数秒のうちに全力で考えを巡らせた。舟遊びについての従者の所感を、正直に尋ねてみたいのは山々だった。
 けれども、もしかして――例えば舟とか水辺とかいったものに、従者にとって嫌な思い出でもあったとしたら、突っ込んだことを聞くのは無神経にすぎる。かくいう彼にもあるにはあるのだ。まだ乳母の手で育てられていた幼少の時分、今日と同じように公園の水場で遊んでいて、うっかり足を滑らせ、危うく溺れかかった記憶が。もっとも彼の場合、翌日にはもうけろりとした顔で、父や乳母の目を盗んで家を抜け出し、同じ公園の噴水あたりを、地元っ子たちとはしゃぎ回っていたのだが(そして、その呑気さゆえ今の今まで忘れていたのだが)。
「旦那様」
「うん」
 数秒のはずの思考は既に数分にも及んでいた。そろそろ中身のある答えを返すべき時だった。彼はまず頷き、それから従者の目を一度、二度と窺った。不愉快そうな様子は微塵もない。静まり返った深い淵のように、ただそこにあるだけ、という趣だ。それに一石を投じて波を立てるも、静かなままにしておくも、全ては自分次第と思われた。
「――いや、大したことじゃあない、というのは少し言い方が悪いな。ぼくにもお前にも、断じて些細な問題とは言えない」
 一拍置く。 「うちに帰ったら、ティーには何が食べられるかな、と考えたんだ」
 そうして、どうだろう――彼が言い切ってからまた一拍の後、従者の薄い唇の端から、くすりと笑い声が漏れたように聞こえた。否、この従者が――仮に眼前で火星人が突如スタンダップ・コメディを始めたとしても眉一つ動かさないであろう鉄仮面の従者が、主人の場違いな台詞ごときで失笑することなどあるまい。自分の思い込みだろう、そう彼は結論づけた。ただ、笑い声は思い込みだったとしても、この湿っぽく陰った空間にあって、暗色の瞳に僅かながら光が差したことだけは、きっと気のせいではなかった。
「何なりと」 柔らかな応えがあった。 「お望みのままに、旦那様」
「何なりと、なんて言ったってお前にも都合があるだろう。例えばだぞ、こんな時期にイチジクと赤ブドウのタルトが食べたいなんて頼んでも、お前が困るじゃあないか」
「如何様にもいたします」
 返事には微塵の躊躇も含まれてはいなかった。それで彼は眉を上げ、口を半開きにしたまま大きく息を吐いた。ああ、きっとこの従者はやるのだろう――どうとでも対処できてしまうのだろう。
「解ったよ、ウィギンズ。同じ言葉で返すぞ、如何様にもやってくれ。いや、イチジクのことじゃあなくて、何もかも任せるってことだ」
「かしこまりました。――折しも一つ、案を立てたところでございました」
「本当か!?」
 木の長椅子から身を乗り出し、彼は喜色に満ちて声を上げた。そして勢いのまま立ち上がり、やかまし屋の雨雲どもを蹴散らすような勇猛さをもって、決然と宣言した。
「よし、帰るぞ。何がなんでもさっさと帰るんだ。見ろ、もう二時四十七分だ。お前のその、案というのが何かは知らないが、菓子を作って茶を淹れるのに、たった三十分で充分ってことはないだろう」
 宣言してから、つい今しがた従者が発した台詞を思い出し、彼はまたぞろ失言したと気がついた。従者ならば三十分で三十分なりの素晴らしい席を整えるに違いないのだ。勢いはいくらか削ぎ落とされた。
「いや、とにかく……奇遇だな、ぼくも妙案を一つ思いついたところだ」
「なんでございましょう」
「つまり、傘が一本しかないんだったら、その一本になんとか二人入ればいいんだろう」

 ところが、どうしたことか、従者は著しく顔色を変えた。無論、「従者にしては」であり、実際には目をほんの僅か眇め、眉間にあるかなしかの皺を寄せただけだが、少なくとも彼の目には明らかな渋面だった。
「恐れながら旦那様、あなた様のその――妙案と仰るのは……」
「だって、お前のその傘は、いつも持ってるあの傘だろう? 男一人で使うにはずいぶん大きいやつじゃあないか。二人でも余裕があるとは言えないが、揃ってずぶ濡れにはならずに済むはずだ。さっきよりは雨の勢いも落ち着いたしな」
 彼は合理的な説得をしたつもりだったが、従者の態度は決して揺らがなかった。ばかりか、声と表情は硬化さえした。
「まことにご高察ではございますが、旦那様、わたくしといたしましては――」
「不承知だっていうのか?」
「賛同はいたしかねます。紳士の方にふさわしいお振る舞いとは申し上げられません」
 そら来た、例の文句だ。彼は肩をすくめ、従者から見た紳士像には合致しないであろう顰め面を作った。
「ぼくの行いの何がいけないんだ、ウィギンズ? このままじゃあ濡れ鼠になる相手に自分の傘を差し出してやるのが、紳士的でなくて何だっていうんだ?」
「それはわたくしがご家族やご友人や、せめて赤の他人であれば、でございましょう。わたくしはあなた様の従者、使用人でございます。主人と召使いが並び立って同じ傘を使うなど」
「駄目だっていうのか?」
「なりません」 ほとんど間髪入れずに従者が答えた。普段の倍も口早だった。
「そんなこと言ったって、お前……良いか、それならもう少し視点を変えてみるんだ。ぼくの被る損害を抑えるという点にな。仮にお前が傘をささずに濡れて帰ったとして、後でひどい風邪でも引いてみろ、主人のぼくには大迷惑ってことにならないか?」
 言うまでもなく、たとえ従者が風邪で二、三日寝込んだとしても――そんな気の毒なことになってほしくはないけれど――まさか迷惑などとは思いやしないのだが、敢えて彼はそんな例を出した。果たして、従者はますます頑なになり、
「いいえ、旦那様。お屋敷奉公の世界に入って二十年余となりますが、風邪を引いたことはただ一度よりございません」
 とまで言い出した。
「嘘だ!」
「嘘ではございません」
 きっぱりと言い切る姿には、さながら自分自身が真実と道理の権化であるかのごとき威厳があった。主人がどうも納得しかねているのを見て取ったのか、従者は更に言葉を続けた。
「わたくしが以前、さる侯爵家にお仕えしておりました時分のことでございます。ご家族が狐狩りにお出かけになった際、折悪しく雷雨に見舞われまして、わたくしが侯爵様に外套と傘をお貸し申し上げたのですが――その一時を除けば、いかなる感冒の類とも無縁でございます」
「要するに、今ぼくらが置かれているのとほぼ同じ状況ってことだろ? なら、今回が二度目になるかもしれないじゃあないか!」
「いいえ、旦那様――」
「くどいぞ、ウィギンズ! 第一、使用人は主人のために犠牲を払うべきだなんていう考え方がだな……」
 押し問答であった。彼らがもう少し互いに対する真摯さに熱を入れすぎていなければ――より簡明に言うと、周囲に注意を払ってさえいれば、篠突く雨が夢か幻かのごとく、ぱったりと降り注ぐのを止めたことにすぐ気がついたかもしれない。残念ながら、主人も従者もそれぞれの言い分に聞き入り、また己の主張に渾身の力を込めていたために、認識には数分の遅れが生じた。その数分さえなければ、東屋から駆け出してタクシーを拾う間際、自身の役目を思い出した雨雲の餌食にならずに済んだはずである。

 結局、彼らが東36丁目にある高層アパートメントへ帰り着いた時には、昼の三時を回っていた。従者はタクシーの運転手にふんだんなチップをやり、エレベーターで最上階まで向かうまでの間、多分に湿り気を帯びた彼の服や髪を丁寧に拭いた。部屋の扉を開けると、留守番をしていた見習いの少年が、腕にタオルを抱えて駆け寄ってきた――突然の豪雨に、主人たちの身を案じて気が気でなかったらしい。
「悪いね、ナサニエル。何も変わりはなかったかい」
「はい、旦那さま――手の届く窓や雨戸はみんな閉めました。お電話もお客様もありませんでした……」
「じゃあ問題ないな。ああ、もう部屋に下がってくれていいぞ。ぼくたちは大丈夫だ」
 彼は何でもないというふうに言ったが、少年の気遣わしげな面持ちはあまり晴れなかった。従者が櫛で彼の髪を整え直し、壁際のスタンドに置かれた香水を振りかける間、少年は未だじっとり濡れたままの従者の髪を拭く――というのは、一フィート以上ある身長差からして不可能なので、ただ乾いた布を手におどおどと見上げるばかりだった。
 二人の使用人が揃って引き下がり、彼が自室に戻っても、窓の向こうは未だ灰色に支配されていた。五時まで延ばされたティーを待つ間、彼は仄かな菩提樹と鈴蘭の香りの中にいて、今日の議論をどうすれば上手く決着できたのか、ただ考えていた。

 そして午後五時、居間へと足を踏み入れた彼は、マホガニー材のティー・テーブルを一見するなり、それまでの心の曇りが瞬時に晴れ渡るのを感じた――細波模様のついたガラス製のケーキスタンドに、木漏れ日にも似て輝かしい色のケーキが載っている。
「レモンドリズルケーキ!」
 彼は歓声を上げた。従者の立てた案とは具体的に何だったのか、はっきりと理解したのである。乾いた服に着替えても、未だ抜けきらなかった重たい湿り気、何となし自身を取り巻いていた靄のごときものが、魔法のように消え去った思いだった。
「ああ、そうか、雨が『そぼ降るドリズル』って言い回しがあるものなあ。雨つながりで出したってわけだ。レモンシロップの雨だ!」
 嬉々としてお気に入りの椅子に腰を下ろし、彼は改めてその菓子を見つめた。太い輪の形に焼かれたケーキだ。その表面はごく淡い黄色の砂糖掛けがされ、レモンの輪切りで飾られている。鼻をくすぐるのは甘酸っぱい、そして仄かに青くほろ苦い香り。
「まことに仰せの通りでございます、旦那様。予期せぬ雨はお世辞にも愉快なものではございませんが、せめても何らかの形でお楽しみいただければと……」
 テーブルの傍らにかしこまって控えながら、従者は穏和な面持ちで述べた。それから、明るいトルコ石色に彩色されたティーカップへ、冬摘みのインド紅茶を注ぎ入れた。
「全くお前ってやつは、ウィギンズ――どうしてそんなに頭がよく回るんだろうなあ!ぼくが傘ひとつに大騒ぎしている間に、こうもすてきな趣向を思いつくんだから」
「わたくしには過ぎたる賛辞を頂戴しまして」
 謙遜を重ねる従者に頭を上げるよう伝えてから、彼はナイフを手に取り、ずっしりと重みのある一切れを皿へと移した。もちろんレモンの飾りが乗った部分だ。
 フォークに持ち替えて一口齧ると、しゃりっ、と涼しげな音――磨りガラスのように固まったレモンシロップの感触だ。決して甘すぎず、爽やかな香りが通り抜けてゆく。しっとりとした生地の味わいは言うまでもなく豊かで、実際の質量からは考えられないほど軽やかだった。混ぜ込まれたレモンの皮だろう歯触りと、微かな苦味も心地よい。
「で、この紅茶がまた美味しくなるんだよな。合わせて選んだんだろう?」
「はい、旦那様。一口にインド紅茶と申しましても、地方や農園によって風味は様々でございます。どのように組み合わせるかを考えるのも、また楽しいもので」
「そうだな。うん、お前にとってもやっぱり、考えるのは楽しいんだな、」
 彼は快い気分に浸りながら、華やかな香りの紅茶を飲んでは、従者の言葉に何度も頷いた。浸り切っていたからこそ、その拍子に深く考えることなく口走ってしまったのだ。
「舟遊びなんかよりも――」

 一秒の後にはもう、彼は自らの失言を悟り、カップを置いて黙りこくっていた。口に残る苦い後味を噛み締めながら、次に何を言うべきか懸命に考えた。
「……お気付きでいらっしゃいましたか、旦那様」
 低く静かな、「粛然」という言葉がふさわしいような従者の声がした。続いて、空になった器に茶が注ぎ足される音が。
「うん、……いや、誤解しないでくれ。お前が楽しそうにしていなかったのが気に食わない、なんて言うんじゃあないんだ。本当は何も楽しくないのに、無理やり楽しいふりをされるほうがぼくは嫌だ。でも……」
 彼は従者の目を見上げた。ひんやりと凪いだ夜の水面だ。
「お前を連れて行きたかった、一緒に来てほしかったのもぼくの本心なんだ。ずいぶん勝手な話だが、お前がいるといないのとじゃあ、同じ場所でもまるで違うんだからな。――できればお前にも楽しみがあればと思ったけれど、無理な話だったなら、すまない」
 まさに小舟の気分だった。自分から発する言葉の一つひとつが、その水面をひどく引っかき回したりしないか、それで自身が深みにはまりやしないか、はらはらしながら浮かんでいるようだ。日来は水先案内人として頼む従者の顔を、神妙な面持ちで見上げながら、彼はただ言葉を飾ることはなく、本心だけを述べた。

「旦那様」
 棘も尖りもない、深みのある声が彼の耳朶に響いた。
「あなた様がお察しの通りでございます、……わたくし舟遊びは、いいえ、舟といわず総じて水辺での娯楽は、心から愛好しているとは申し上げられません」
「そうか」
「ですが、どうか旦那様――お言葉を拝借することになりますが、誤解をなさらぬようお願い申し上げます」
 適切な間を取れたとは言いかねる主人の相槌に対して、従者の答えには温和しやかな、けれども決して単調ではない抑揚があり、緩やかで安定した息遣いがあった。
「どちらへお出ましになるのであれ、あなた様のお供をするのは楽しゅうございます。旦那様ほどの、豊かな心で物事を感じ取られるお方こそ、従者としてはお仕えしがいがあるというものです。ただお側に控えているだけで、あらゆる楽しみのお相伴に与っている心地がいたしますゆえに」
 ああ、今度こそ従者は微笑んでいた――客人に歓迎の言葉を向けるときとは違った、幾らか整い切らない口元こそ、本心の証であると彼には思われた。真意を確認するための決まり文句は必要なくなった。
「解った、ウィギンズ、……ありがとう! そういうことなら、ぼくのほうは何も言うことがなくなった。改めてティーと向き合う時間だ」
「はい、旦那様」
 彼はまた紅茶のカップに手を伸ばし、切ったばかりの青い柑橘に似た、清々しい香りを目一杯に吸い込んだ。少し冷め始めてはいたが、上品な甘みは失われていなかった。
「それとな、もう一つだけ――ああ、何も言うことがない、なんてのは間違いだった」
「なんでございましょう」
 彼は気を落ち着け、居住まいを正してから、従者の目を覗き込むように見上げた。
「風邪を引くなよ」
「引きません」
 従者はきっぱりと答えたが、ややあって言い足した。 「ありがとうございます」

 彼は目を瞬き、次いで笑みを零しながら頷いた。そして、ガラス台に置かれた愛しいケーキを、二切れだけ残してきれいに平らげたのだった。

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