背伸びと共にお別れのキスを与え、青年は優雅に一礼して去っていった。


飢えたる闇を照らして -Horror of Horrors-

 瀟洒なタキシードの後ろ姿を数秒間見送ってから、ヘンリー・ロスコーは玄関の扉を閉め、つい先程まで賑やかだった応接間に戻ってきた。日来この部屋を明るく照らし出す、電気の灯りは全て落とされ、代わりにあちこちで蝋燭の火が揺らめき、年代ものの調度を柔らかく浮かび上がらせている。ソファの掛布に寄った皺や、サイドテーブルに残る空のグラス、灰皿に残された吸い殻などが、今しがたまで語らい合っていた人々の存在を示していた。

 今夜は本来、彼が所属する紳士クラブの会合があるはずだった。他でもない創設者の誕生日で、一ヶ月前から盛大なパーティーが計画されていたのだ。ところが折悪しく、主役が職務の都合で遥々南半球まで出張を余儀なくされたため、祝宴は無念の延期となった。そしてマンハッタンに残された紳士たちは、ぽっかり空いた休日の予定を埋めるべく、会員のうち一人の家に集まって、突発的な談話の会を開くことにしたのだった――怪談の会を。
 いかにも、「レッド・ヘリング・クラブ」はその名に違わずミステリ愛好家の集団だ。そして今日びのミステリ雑誌には大抵、怪奇小説もついでに載っているものである。

 卓上に置かれたカットグラスを取り上げ、彼は中身を一息に飲み干した。随分と薄く、ぬるくなったウイスキーだ。息を吐き出すと、微かに煙たい匂いがする。
 これが最後の一ショットだったっけ? ――揺らめく灯に刻み模様をかざしながら、彼がぼんやり考えたときだった。その向こうにある戸口へ、音もなく滑り込む黒い影が見えた。仕立ての良いテールコートに黒いボウタイを締めた、背の高い壮年の男が一人。
「もう少々召し上がりますか、旦那様」
 男は――ロスコー家の若主人に仕える従者は、彼にゆっくりと歩み寄りながら、声量もトーンも抑えた響きで穏やかに尋ねた。片手には、鏡のように磨かれた丸い銀の盆を携えている。
「いや、強いのはもういいよ」 彼は頭を振り、従者の差し出す盆にグラスを置いた。
「それよりソーダをくれないか。オレンジ・ビターズを垂らしたやつをね」
「かしこまりました」
「氷は入れすぎないでくれ。ちょっと肌寒くなってきた」
 主人の注文を聞き取った従者は、うやうやしく一礼し、壁際のキャビネットへと歩き去っていった。そこには網目模様のついたガラスのソーダサイフォンのほか、未使用のグラスや酒瓶などが、客のいかなる好みにも対応できるよう備えられているのだった。

「どう思う、ウィギンズ――急ごしらえにしちゃあ、まずまずの成功ってところか?」
 戻ってきた従者から、朝焼けのように澄んだ薄紅色のソーダを受け取って、欠伸を噛み殺しつつ彼は尋ねた。
「倶楽部の会旨にも沿った、まことに好い趣向の一席であったかと存じます、旦那様。二十世紀の現代に、ディオダティ荘の怪奇談義を蘇らせるとは。皆様お楽しみのご様子でいらっしゃいました」
「そうだろう、そうとも。まあ、一番楽しかったのはぼく自身なんだが。お前も聞いてたよな、あのスプリング通りにある井戸の話」
 今しがた帰っていった青年によって二時間ほど前に語られた、数世紀前の殺人事件にまつわる幽霊譚とその調査の物語を思い出しつつ、彼は背の高いグラスを傾ける。口の中にオレンジの皮の爽やかな香りと、きりっとした苦味とが共に広がって、鈍りかけていた精神を再び目覚めさせた。
「はい、真に迫ったお話しぶりで……わたくしは英国人ですゆえ、過去のマンハッタンに詳しくはのうございますが、長くお住まいの方にはより実感をもって聞こえましょう」
「ほんの数年住んでるだけのぼくだってそうだものな。絶対に才能があると思うんだ――才能のことをいうなら、ロビイなんかは正に本職なわけだが」
 青年に続いて朗読を披露した、自分より一回り年上の男性を彼は例に挙げた。
「しかし、ミスター・パートリッジは歴史作家でいらっしゃいましょう。怪奇小説はご専門ではないかと存じますが」
「そうさ。でなきゃあ、あんな悲惨なことにはならなかっただろうよ」
 彼は頭を振った。シェイクスピア劇の気軽な翻案などする傍ら、パルプ誌にも寄稿して、世間に相応の人気を博する作家は、よりによって今夜発表する自作にも、二十世紀パルプの捻りを加えてしまった。結果、参加者一同からは盛大なブーイングを食らい、その後は従者の差し出すジンジャーエール――作家は下戸だった――をしょんぼりと啜っているばかりだった(実のところ彼としては、蘇った怪物と戦うカウボーイのくだりは大変気に入ったので、後日ちゃんと絶賛しておこうと思っている)。
「まあ、とはいえ本職だからな。ぼくに比べたら――」
「旦那様がご披露なさった一件も、皆様は大層お褒めになったと記憶しておりますが」
「あれは褒めたというより、ぼくに物語をする能力が存在したことに驚いてたんだよ、ウィギンズ。実際、怖い話というよりは、寄宿舎時代のぼくが怖がってた話なんだから。……いや、ティミーはどうもあの話に嫌なところをくすぐられたらしいが、ティミーが怖がったからって何の保証にもならないしな。これがもし――」

 そこで彼は言葉を切り、ソーダを二口分ほど一気に飲み下すと、反対側にある窓辺へ目を向けた。
 艷やかな真珠色の布が掛かった寝椅子に、一人の若者が横たわっている。深い藍色の三つ揃えを着た、顔立ちだけなら少年と呼んでも差し支えない痩身の男だ。クッションのついた肘置きに頭を預け、目を閉じ、薄い胸をゆっくりと上下させている――眠っているのだ。色の白い肌にはあまり血の気が見られず、滑らかな頬もどこか冷たく硬質な、さながら陶器の人形か、大理石の彫像かといった趣である。身じろぎ一つしないことも相まって、天鵞絨敷きの棺に納められた死体のようにさえ見えた。
「エミールが聞いてたら、ぴしゃっと一言『面白くない』で済まされたと思うよ。そう考えたら、居眠りしてくれてラッキーだったかも」
 従者の前で軽く肩を竦めてみせ、彼はそのまま寝椅子のもとに歩いていった。接近に気づいたふうもなく、若者は未だかそけき寝息を立てている。襟に飾られている白いカーネーションがくしゃりと萎れ、花弁が一枚胸の上に散っているのが見て取れる。その一枚をつまみ上げながら彼は、
「さあ、エミール、起きないか。もうそろそろ十二時を回るぞ」
 と声をかけた。直に揺さぶるような真似はせず、自然な目覚めを誘うような調子で。
 すぐには何の応えもなかった。だが、彼がもう一声かけようとした矢先、その瞼が、たっぷりとした金の睫毛がぴくりと震えるのが見えた。掠れた吐息が、ひんやりとした薄暗がりを漂った。ややあってから瞼は重々しく持ち上がり、宵闇のような青を帯びた深い色の瞳が、なんとも気疎げに彼を仰いだ――夢と現の間に何かを探るような眼。

「なあに?」 鼻にかかった声だった。 「ハリーか? みんなは?」
「もう帰ったよ。君を除いて全員話し終えたし、いい時間にもなったことだから」
「ふん」
 若者の上に屈み込むようにして話しかけた彼だが、返ってきたのは不貞腐れたような一声だった。
「薄情なもんだ。自分たちだけ楽しんで、僕のことは置いてけぼりか」
「気を遣ってくれたんだよ、エミール。ゆっくり休ませてやろうって。君にちょっとばかり……その、活力が足りていないのは、みんな承知のことだから」
「ふうん」 と若者はまた鼻を鳴らした。
「承知の上か。まあ、そうさ、不可抗力だ。ご存知のとおり血が足りなくてね」
「吸血鬼みたいなことを言うじゃあないか。でも確かに、君はいつも血色が悪いな」
「僕だって、できるものならいつでも薔薇色の頬をしていたいんだぜ」
 柔らかな座面に片肘をつき、いかにも軽そうな身体を重たげに起こしながら、若者は冷ややかに笑った。本心ではないことはすぐに知れた。
「それにしては言行が一致していないんじゃあないか。――何か飲むかい。温かいお茶か、それともレモネードなんかを……」
「酒は駄目だって言いたげだな」
 軽く眉寄せる彼の心境を、見透かしたような一言だった。 「果物か何かないの?」
 折も折、従者が音もなく彼らの元へ舞い戻ってきた。氷入りのタンブラーや酒瓶の類ではなく、脚付きのガラス器を一つ盆に乗せている。果たして、目もあやな切子細工の中身は、半分に切られたグレープフルーツであり、鮮やかな色の断面は、今にも果汁が溢れ出しそうなほど瑞々しかった。
「こちらがお気に召しましたら、ミスター・サロウ」
 寝椅子の前で腰を屈め、慇懃に勧める従者の顔と手元を、宵闇の色をした眼は交互に睥睨した。傍で見ている家主にとっては、カリフォルニアかどこかで採れたのだろう、真夜中にあって太陽のごとき果実のほうが、若者の眼よりもまだ生気に溢れていると感じられた――鼻先を掠めるのは、清涼な柑橘の香りと麝香めいた重たい匂い。
「気が利くね」
 ややあってから、若者は片目をすっと細めて言った。 「ありがとう。頂くよ」
「もったいないお言葉です」
 従者がうやうやしく頭を垂れる。その間にも、若者は差し出された盆に手を伸ばし、酒盃にも似た器を取った。そして、添えられている銀のスプーンには目もくれず、暁の色をたたえた断面にがぶりと白い歯を立てた。
「ああ、エミール……」
 そいつはずいぶんお行儀が悪いんじゃあないか、という野暮な言葉を彼は呑み込んだ。自分だって、もし人目がなければきっと同じことをしていたのだ。眼前では、薄い唇に受け止めきれなかった雫が一つ二つ、果皮から骨ばった手首にまで伝い落ちていた。
「ん」 と短い響き、続いて喉を鳴らす音。
「実が切り離してあったのか、これ。じゃあ齧りつく必要はなかったな」
「ウィギンズならそれぐらいするだろう。なんといっても気が利くから」
 彼は我がことのように得意な顔をして、従者の心遣いを讃えた。横目でちらと窺った限りでは、従者は得意がるどころか眉の一つも動かしていなかったが。
「うちの料理人と交換してほしいもんだ。週二十五ドルじゃご満足頂けないだろうけど」
「給金うんぬんで靡くような男じゃあないよ、ウィギンズは」
 等と断言したはいいが、その数秒後には言いしれぬ不安を覚え、彼は再び従者の顔を一瞥した。従者はやはり石のように表情を変えなかった。
「つまり、忠義者なんだ――そういう意味では君のところの料理人も同じだ」
 彼は傍らの丸椅子に腰を落ち着け直し、おもむろに若者のほうへ身を乗り出しては、声を潜めて尋ねた。
「その、……相変わらずなんだろう? お母上のあれは」
「相変わらずか、だって!」
 正反対に、若者は細い眉を吊り上げて頓狂な声を出した。
「まあ聞けよ。もう二週間、肉も魚も――油かすのひとっかけらだって食べちゃいない」
「それはひどい」
「僕のことを哀れに思ったんだろう、おとといティミーがパストラミのサンドイッチを持ってきてくれたらしいんだが、玄関番のボーイから僕の手に渡るまでに、どういうわけか中身がキュウリとクレソンに化けてた」
 若者は吐き捨てるように言った。 「あの女は頭がおかしいよ」
「エミール、そんな言葉は使うものじゃあない――」
「君だってさんざっぱらおあずけ食らったあげく、ディナーに『菜食主義者のためのサーモン・クリーム・サンドイッチ』を主食として出されてみるがいい。デザートまで行き着く前に僕の肩を持つようになるぜ」
「何だい、そりゃあ?」
 彼は目を丸くした。サーモンのパテやらクリーム和えやらを挟んだサンドイッチなら、彼も大いに好むところだが、「菜食主義者」とつくからには実際の魚は使われていないのだろう。しかし、魚なしであのサーモンの香味が再現できるものなのだろうか?
「いや、言わんとするところは解るんだけれども、どういう代物なんだい? 味は?」
 尋ねてみた彼に、向けられたのは歪んだ、しかし顔立ちの美しさを損ないはしない、奇妙な微笑だった。件の品をまるで想像もできない彼の、「おめでたい」精神をせせら笑っているかのような。
「そうだな、まずは壁紙用の糊を塗りたくったボール紙を想像してくれ、ハリー」
 若者は言い、光の失せた目で彼の顔をじっと覗き込んだ。
「――想像したか? じゃ、それが『味』さ」
「うわあ」
 彼はげんなりした顔で低く言い、想像を逞しくし、再び呻いた。 「うわあ」
「よく解ったろう。だから僕はその『健康的な』生活とはおさらばすることにしたんだ。あんなものを三食腹に収めて生きていくぐらいなら、バスタブ・ジンと『デルモニコス』のステーキで胃袋を破裂させて死んだほうがましだ」
「エミール、だからそんなことは言うものじゃあ――」
「死んだほうがましだ」 若者は半笑いの顔のまま、語勢を強めて繰り返した。
「どっちにしたってこのままじゃ僕は死ぬ。一日にサラダボウル一杯の青菜とオリーブオイル一匙で、二十歳の男を養えると思ったら大間違いだ」
 かく語る顔色の悪い――数時間前に到着したときと比べていっそう悪くなったように思われる――友人の神経をなんとか宥めようと、彼は必死に脳を稼働させた。常日頃から溜め込まれた鬱憤が、空腹によっていや増したのだろうと推測もした。無論、今夜の会では食べ物も提供されたが、せいぜいがチーズやフルーツ、ナッツ類、極めてお上品な一口大に切り分けられたサンドイッチ程度のものだ。若い男の空き腹を満たせるものではない。
「まるきり否定するつもりはないんだ。君がお母上の、こう、先進的すぎる考え方に付き合わされていることについては、ぼくも心から気の毒に思う。……今もお腹が空いてるんだろう?」
 短い沈黙の後、若者はぽつりと呟いた。 「空いてる」
「うん、それならぼくには考えがあるぞ」
 彼は力を込めて言い、一歩離れて控えたままの従者へ目配せをした。思慮深い頷きが返ってきた。
「君に限ったことじゃあない、誰だって腹が減っちゃあ頭が回らなくなるものだよ。何か食べて元気をつければ、もう一歩踏み出して考えられるはずだ。ウィギンズも手を貸してくれる。なあ、ウィギンズ?」
「ご満足いただけますよう、あい努めます、ミスター・サロウ」
 物柔らかな調子で従者が応えた。理知の光を湛えた暗褐色の目が、若者の瞳に蟠ったままの暗がりに向けられた。
「ああ、ぜひとも努めてもらいたいね」
 若者は小さく笑い声を漏らし、温和なその目を見返した。
「でなきゃうっかり間違えて、君のご主人様の指を食い千切るかも」
「エミール!」
 主人はさすがに顔をしかめ、咎めるように声を上げたが、少年じみた顔からは毒気が抜ける様子もなかった。従者は何も聞かなかったかのように、ただ深々と一礼し、足音一つ立てずに応接間を出ていこうとしていた。

 彼は戸口のところでなんとか追いつき、声を落として従者を呼び止めた。背後で若者が、また寝椅子の肘置きに頭を凭せ掛けるのを一瞥しながら。
「ウィギンズ、その――お前はきっと気を悪くしただろうから、まずはぼくから謝るよ」
 何でございましょう、と言うように向き直って首を傾げる従者に、彼はいくらか身を固くして告げた。
「大目に見てやれなんて言うつもりはない。ただ、エミールがどうしてあんな口を利くのかについては、本人のせいばかりじゃあないってことも解ってくれないか。つまり、彼のうちはこう……事情がずいぶん特殊なんだ」
「存じております」 従者は緩やかに頷いた。
「わたくしのことはどうかお気になさいませんように、旦那様。大抵の場合は、いかなるお方のどのようなお振る舞いにも、何らかの背景があるものと心得ております」
「そりゃあお前のことだから、心得てはいるかもしれないが、だからって――」
「ミスター・サロウをお待たせしてはなりません。後はわたくしにご一任頂ければ」
 確固たる口調だった。彼は言葉を飲み込み、三インチは上にある目を見据えた。
「――解った、ウィギンズ。お前に任せるぞ。ぼくはエミールと話してるから」
「仰せの通りに、旦那様」

 戻ってみると、若者はうつ伏して肘置きに顎を乗せ、ぼんやりと――壁際に飾られた花瓶か、所々に配置されている蝋燭か、何とも知れないものを見つめているようだった。
「なあ、エミール」
 彼は先程の丸椅子に座るのではなく、その傍に膝をついて、若者と目の高さを合わせようとした。淀んだ瞳が小さく揺れて彼を見た。
「良いか、これだけは聞いてほしい。――ぼくと君の間だけなら、君がどんな態度を取ったって、滅多なことでもない限り何も言わないよ。だけどな、ウィギンズがいる時にはもう少し控えてくれないか。そりゃあ彼はぼくの従者だから、ぼくの客の給仕はするけれど、君の悪態に付き合うのは仕事のうちに入らないんだぞ」
 あくまで冷静であるよう努めながら、彼は言い含めようと続けた。脳裏には以前顔を合わせたときの、若者の両親の姿が浮かんでいる。このご時世には珍しく、善良温雅な夫婦だと思ったものだ。幾分「先進的すぎる」健康法に傾倒しているうえ、一人息子にその恩恵を存分に与えようとしている点を除けば……
「じゃ、どうしてわざわざ訊いたんだ、ハリー? 僕の悪態を広く聞いてもらいたいんでもなけりゃ、あの女の話なんか持ち出さなくてもよかったと思うんだけどね」
 黒曜石の破片めいた視線が、刺々しい言葉と共に彼へと投げ掛けられる。
「それは、いや、確かに言いだしたのはぼくだけれども……」
「ならもう少し聞いてくれてもいいよな。良いか、あいつらがやってることは――」
 若者は掠れた息をして、彼にその生白い顔を向けた。
「こうすれば自分たちみたいに綺麗な蝶になるだろうと信じ込んで、蚕の籠に水とキャベツだけ入れて飼ってるようなもんだ。何もかも食い違ってるんだ……何もかも……」
 青みがかった唇が震えた。 「僕はもう、繭を作るための糸だって吐けやしない」

 彼は一瞬だけ黙り込み、寝椅子の敷布を握りしめる、象牙のような指を見つめたが、すぐに気を落ち着けて、若者の肩にそっと手を置いた。
「ああ、エミール、君の言いたいことは解る。こんな話を振って悪かったよ。やっと気晴らしに来られたところで、思い出したくはなかったよな」
 若者は何も言わず、ただ首を左右に振るばかりだ。彼は打つ手を探して周囲へ視線を巡らせた。と、サイドテーブルの上に目が止まる。上製本ではない、雑誌のような表紙が見えた。
「ほら、これ、君が持ってきた本だろう? 読んで聞かせてくれないか。本当は皆も楽しみにしてたんだ……でも、それぞれ事情があるのは皆同じだし」
 彼はそう厚くもない冊子を手繰り寄せ、若者の眼前に掲げながら続けた。
「だから、せめてぼくだけでも最後まで聞くよ。君一人不愉快な気分で帰すなんて、それはぼくの本意じゃあない。ウィギンズが戻ってくるまではしばらくかかるよ――」
 ほとんど懇願のように言葉を重ねる中、彼はふと、聞いているのかいないのかも判らなかった若者の顔つきから、気疎さが僅かに和らいだと感じられた。否、己の願望から生じた都合のいい見間違いかもしれないが、とにかくそう思われたのだ。
 それから十数秒、応接間はしんと静まり返った。若者がおもむろに頭を持ち上げ、彼が手にした書物を見た。
「読むよ、ハリー」
 幽かに笑みを含んだ声だった。 「でも、一服つけてからにさせて」
 それが妥協点だった。彼は無言で頷き、卓上の灰皿を若者のほうへ押しやった。

 細い紫煙が渦を巻き、また解けて四方へ漂いながら、部屋の薄明かりをすっかり烟らせるころ、若者はゆっくりと立ち上がって、演壇――として扱われている絨毯の上――へと進み出た。手には紙巻き煙草の代わりに一冊の本を携えている。ただ一人の観客は、背筋を伸ばして肘椅子に腰掛け、その褪せた唇が開かれるのをじっと待った。
「――“ナイアーラトテップ……這い寄る混沌……わたしが最後の一人……”」
 初めに滑り落ちてきたのは、ごく生ぬるい温度を持った、途切れ途切れの声だった。少年時代の名残を歪められた形で宿す、そう有り触れてはいない声色――小刻みに震え、調子が外れそうになるのを、なんとか平らかに保っているような調子だ。
「“お話ししよう、虚ろの空を聞き手として――”」
 その不可思議に調律された、肌をかき撫でるような響きを一つ二つ耳にするだけで、もう彼は語り部の描き出す世界に取り込まれてしまう。神の御業も及ばないような混乱、深い夜にこだまする叫び、古代より蘇った預言者……息詰まるような暑さの残る秋の日、真っ暗な部屋に映し出される、誰も見たことのないような景色。

 若者は以前にも何度か、仲間うちの会で朗読を披露していた。題材は決まって同様の怪奇小説、幻想小説の類であり、それらが孕む異様な、しかし一種誘惑的でもある空気に耽溺していることは傍目にも知れた。真夜中の寝台に横たわる死美人や、呪いの宿ったミイラの手が招く悲劇、また子供の目玉を奪いにくる砂男について語るとき、若者が持つ病んだ気色は言い知れぬ危うい美しさとなって、物語の魔力を一層掻き立てるのだった。
 その物語はいよいよ、語り手が体験したという超常的な光景に差し掛かった。もはや若者は誌面など見ていない。瞳には明らかな光が、それも生命がもたらした内なる活力の光というよりは、もっと外側にあるもの、今正に語られているとおり、この世界の外なる存在によって照らされた星々の光が宿り、言葉の一つひとつに合わせて炯々と瞬いている。若者は、ただ文字として読み込んだものに、その総和より遥かに豊かな情感を孕ませて、聴衆の五感へと送り届けているのだ。
 きっとこれが――と聞き手の彼は思う――この若者にとっての繭なのだ。秩序や条理の及ばぬ世界、人智を超えた恐怖を描いた物語こそが、度を越した正常さや食い違った愛情から、自らを護り抜くための繭なのだ。のみならずその糸は、周りにいるもの全てを幻惑し、同じ異界を垣間見せるような、深遠なるタペストリーを織り上げることさえできるのだ……
「――“先立つものたちから招かれるように、巨大な雪溜まりの中を、半ば浮かぶよう、震えながら怯えながら、思案の外なる盲目の渦の中へと――”」
 いつの間にか何者かが、蝋のような頬に血の色をひと差ししたようだった。瞳の中の宵闇はいよいよ歓びに満ち、曲がりくねった物語を先へ先へと追い立てている。目覚めたばかりの頃とは比べ物にならないほど、声に温度が戻っている。
 それは聞いている彼にとっても喜ばしいには違いなかった。が、同時に空恐ろしさも感じるのだ。この外なる世界を唯一心の拠り所とする若者が、ある日何の前触れもなく、今しも語られている筋書きの通りに、自分たちがいる今の現実から両足を離し、虚空へ漂い出ていってしまうのではないかと。語り手として紡ぎ出す物語の糸は、多くの聴衆を絡め取りはしても、自身を現世に繋ぎ止める役割は果たしてくれないのだと。
 ならば、誰かがあともう少し手を貸して、その細い身体を地に着けてやる必要がある。未だ二十を数えたばかりの友人が、自分自身を取り巻く全てに倦んだ末、この現実から消えてなくなってしまうというのは、彼はどうしても嫌だった。ほんの僅かな未練でもいい、何かしら生きているからこその喜びがあってほしい……
「“重々しく、ぎこちなく、愚かしく、巨大にして暗鬱な究極の神々――盲目のもの、声なきもの、思慮なき怪物ども、その魂こそが、ナイアーラトテップ――”」
 そんな彼に突きつけられるのが、恐怖にわななく人間を模した若者の声なのだった。冒頭で呼ばれた未知なる単語が今一度、より冒涜的な響きをもって虚空に投じられる。そして沈黙する。
 ここで物語は終わりなのだろうと彼は察した――否、本当に終わったのだろうか? 壇上の若者は、もはや無用の長物となった冊子を手に、小さな唇を薄く開いたまま、ぼうっと宙を眺めている。
 不安を振り払うように、彼は盛大な拍手を送った。率直な称賛を示すと共に、気付け薬の役目も果たしてくれることを祈りながら。しかし壇上にはまだ動きがなかった――すぐにでも駆け寄りたい思いと、余韻を壊したくない思いとが、彼の中でせめぎ合った。

 と、その時、彼の鼻先を快い匂いがくすぐった。恐らく以前から部屋に漂い込んでいたのだろうが、我に返るのが遅れたのだ。間違いなく食べ物の匂いだった――それも極めて濃厚な、今まで気付かなかったのが信じられないほど豊かな匂いだった。
 嗅覚を信頼するならば、そこには肉の気配があった。香辛料を惜しみなく擦り込んで焼いた肉だ。さらにパンの香りもした。こんがりとトーストされた小麦とバターの風味。おまけに、明らかに溶けたチーズの存在まで感じられる。彼は身震いした。より正確に言えば、彼の胃袋が身震いした。振り向くと、戸口のところに従者が立っている。銀の覆いをした皿を携えて。
「ウィギンズ」
 大股に歩み寄りながら、彼は低い声で呼んだ。 「待ってたんだ。最高の頃合いだ」
「神韻縹渺たるお話しぶりを拝聴でき、光栄に存じます。踏み込むのが躊躇われるほどでございました」
「解るよ。それで、出来上がったんだよな? お前のその――」
 覆いの載せられた皿を指し、彼は尋ねる。従者は首肯したが、
「はい、旦那様。しかしながら……」
 と妙な勿体をつけた。
「何だ? 何か問題でも起きたのか?」
「いいえ、万事遺漏なく完成いたしました。ミスター・サロウには必ずやご満足いただけるものと確信しております。ただ」
 短い間。 「予め懺悔しておかねばならないかと存じます」
「懺悔?」
「取り掛かる前に十字は切りましたが。……この台所でかような品を作り上げたこと、大旦那様からお咎めがなければ幸運でございましょう――」
 彼には訳が解らなかった。無論、彼は従者のどんな振る舞いも、「大旦那様」、即ち自分の父親に告げ口などする気はなかったが(してたまるものか)、懺悔まで必要になるほどの料理とは、一体いかなるものなのか。
「長らくお待たせいたしました、ミスター・サロウ。お楽しみいただければ幸いです」
 当惑する彼をよそに、従者は卓の前へしずしずと進み出て、皿を静かに安置した。若者がやっと目を瞬き、寝椅子の元に戻ってぺたんと座り込む。覆いが持ち上げられる。

 とろりとした橙の灯が、皿に盛られたものの輪郭を揺らしながら浮かび上がらせた。艶やかに光を放つ塊――彼は一瞬、従者がどこからか金塊を調達してきたのではないかと思いさえした。だが気を落ち着けてよく見ると、それはやはり食べ物だった。
 黄金色の麗しい照りを放っていたのは、パンだ。ハーブとバター、それにニンニクの香りを纏わせて、平鍋で炙られたのだろう丸形のパンが、二つ一組で並んでいる。間に挟まれているのは、見よ、分厚い肉だった。もとい、何層にも積み重ねられたハムだ。一枚一枚の隙間から、何かが滲み出し、滴り落ちている。さらに片面焼きの卵も見える。白身を透かして見える黄身の具合を考えるに、きっと半熟だ。下には衣を付けて揚げたものが横たわり、そして――
 ここに来て彼は従者の言を理解した。今まで頭をよぎりもしなかった台詞が、やにわ彼の脳裏に去来した。なんと罰当たりな! このもったりとしたクリーム色の塊、これはもしや、マカロニ・アンド・チーズではないか?
 釘付けになっていた視線をやっとのことで動かし、彼は若者の顔を窺った。今までは気怠げに細められていた目は見開かれ、瞳はどうしたらいいか解らないとばかり小刻みに動いている。彼が何か言おうとしたところで、
「た、……食べてもいいの、これ」
 息を飲む音に続き、掠れた声が呟いた。
「当たり前じゃあないか、ウィギンズが君のために作ったんだぞ。絶対にうまいよ。ほら――」
 彼は使われていないフォークとナイフを取って、その手元に置いてやったが、若者は一切目をくれなかった。白い手が退廃的なサンドイッチ(と呼べるものなら、だが)の一つを鷲掴みにした。その口が今まで見たこともないほど大きく開かれ、最初の一口を無遠慮に刻み込んだ。

 長々とした沈黙があった。一口を噛み締めたまま、若者は呆然と手元を見つめていた。彼が心配になってくるぐらいの間はあった。だが、やがてか細い声が、
「味がする……」
 と囁き、続けざまに言葉を絞り出した。 「たくさん味がする……おいしい……」
 その有様ときたらいっそ痛ましささえ感じるほどだった。ここ二週間の若者の食生活が、仔細な説明などなくとも伝わってくる。彼の眉間にぎゅっと皺が寄った。こんなに心の込もった、贅沢な料理を口にして、最初に出てくる言葉が「味がする」だなどとは――逆に、「味がしない」というのは、ともすれば「まずい」より遥かに悪いことではないだろうか?
 彼が気を揉んでいる間にも、若者は急くようにもう一口齧り付いた。パンに染みた油が滲み、肉の合間から白っぽいソースが垂れ、白身の破れた卵から黄身がとろりと零れ、ほっそりとした指は瞬く間に汚れてゆく。使われる様子のないカトラリーに代わって、彼は新しいナプキンを置いてやらなければならなかった。それに、こうも勢いよく食らいついては、喉に詰まらせないかも心配だ――彼が従者を呼びかけるのと、水のグラスが卓に置かれるのとはほとんど同時だった。
「あんまり急ぐとむせるぞ、エミール。水も飲んだらどうだい」
 行き届いた従者の配慮に感謝しつつ、彼はそう勧めた。ところが、若者はちょっと目を上げ、咀嚼していたものを飲み込むと、
「……口の中、洗い流したくないんだ」
 と、やたら神妙な顔で答えるのである。彼は吹き出しそうになってから慌てて堪えた。若者にとっては笑いごとではないはずだ。

 一つめのサンドイッチはあっという間に消えてなくなった。若者はほとんど放心状態に見えた――その口から直接聞かずとも、美味しかったことは傍からも判る。安堵の息をつきながら、彼はもう一つ勧めようとした。
 けれども、そこで若者はやにわに背筋を伸ばしたかと思えば、べたつく口元と手指をナプキンで丁寧に拭い、真っ直ぐな目で従者のほうを見たのだ。その様変わりには彼も何事かと思い、つられて居住まいを正すことになった。
「ミスター・ウィギンズ」
 はっきりとした意思を感じる声だった。もう気疎さはどこにも表れていなかった。
「ただウィギンズ、とお呼びくだされば結構でございます、ミスター・サロウ」
 従者がいつもながらのかしこまった態度で応えたが、それに頭を振って返し、若者は言葉を続けた。
「先程の僕は、あなたの前でずいぶんと不躾な態度を取った。……あなたにも、主人であるハリーにも無礼だった。だから……」
 声が小さくなりかけて、また戻った。 「謝らせてほしい。本当に申し訳ない」
 主人のほうは目を丸くし、若者と従者とを何度も見比べた。対して、従者は変わらず穏やかな顔つきのまま、ゆっくり一度だけ頷いた。
「どうぞお気になさらずに。わたくしは旦那様の従者でございますから、おいでになるお客様がたが何らのご不快もなくお過ごしであればよいのです。――わたくしの料理がお気に召しましたら、それは一層の喜びでございます」
 寛容な答えが返されても、若者はずいぶんばつが悪そうな顔をしていた。傍で見ている彼のほうが、だんだんと居た堪れない心地になってくるぐらいに。
「ぼくについては、謝ってくれたのならそれでいいよ、エミール。人心地ついたみたいで良かった。すごいもんだろう? ウィギンズの手腕は」
 彼は見かねてそう口を挟んだ。すぐさま首肯が返ってきた。
「本当に……こんなものまで作ってもらえるなんて、奇跡にでも遭った気分だ」
「それを人の手でやるのがウィギンズなんだ。さあ、まだまだ好きなだけ食べていいぞ。食べることに手を抜いちゃあいけないよ……」
 心の曇りを拭い去ってやるつもりで、彼は笑いながら促した。

 二つめのサンドイッチに取り掛かると、若者の口数は以前よりずっと増した。先刻はただ「おいしい」としか表現できなかったものを、自分なりに理解しようと試みているようだった。
「ハムの間に塗ってあるこのソース、一体何? モルネーソースに似てるみたいだけど、もっとぴりっとしてるし、肉に負けてないな」
「性質的には同じものでございます、ミスター・サロウ。グリュイエールの代わりにホワイトチェダー、そして青カビのチーズも用いておりますが」
「それって」 と彼も乗り出した。 「昨日のチキンソテーに添えてあったやつだろう」
「はい、旦那様。その節はお褒めにあずかり恐縮でございました」
 質問攻めは続いた。このマカロニ・アンド・チーズは味が濃いのに塩辛すぎないのは何故か、どのように焼けばここまで完璧な半熟の目玉焼きができるのか、フライに添えられたカレー風味のソースはどうやって作るのか、次から次へと……
 彼にとってそれはまたとない喜びであり、心からの満足であり、この上ない拷問でもあった。目で見、鼻で嗅ぎ、耳で聞くことはできるのに、実物を口に収めることだけはできないのだから――けれども「ぼくにも一つくれよ」等とは、絶対に言うまいと心に決めていた。皿の上にあるものは、全て大切な友人のためのものだ。
 そんな彼の眼前で、若者は二つめもきれいに平らげたが、そこでふと手を止めた。
「エミール?」
 呼びかけに応えて返ってきたのは、長々とした嘆息だった。眉を寄せ、目を伏せて、若者は声を絞り出した。
「すごく口惜しいんだけど、……入らないよ、ハリー。お腹が一杯で」
 彼は目を見開き、若者の顔をしげしげと見た。何を言えばいいのか分からず、何度か皿の上と手元を見比べてみたりもした。
「そんな、エミール――この間一緒に、それこそ『デルモニコス』に行ったときなんか、君だけで一ポンド食べそうな勢いだったじゃあないか!」
「本当にね」 若者はどこか寂しそうに言った。
「次、子供用メニューしか食べ切れなかったら笑ってくれよ」
「冗談じゃあない、そんなの……胃袋が縮むのと寿命が縮むのは同じことなんだぞ。また食べさせてあげるから、そんな景気の悪いことは言わないでくれないか」
 卓の上に乗り出し、友の目をじっと見つめながら、彼は力を込めて言った。切実な願いだった。その様があんまり必死に見えたのか、
「ありがとう、ハリー」
 若者は目を細め、小さく笑い声を上げると、皿を彼のほうへと押しやった。
「後は君が」
 聞いて、彼は従者の顔を窺いかけた。というのは、皿の上に鎮座するサンドイッチが、従者のいう「紳士の召し上がりもの」だとは到底思えなかったからである。なにしろ、主人がドーナツをコーヒーに浸す姿さえ直視したがらないような男なのだ――しかし、顧みた先に従者は既におらず、はっと視線を戻してみれば、手元にはナイフとフォークが揃えて置かれていた。誰が置いたのかは考えるまでもなかった。

 それで彼は最後のサンドイッチを、もちろんナイフとフォークを使って、大いに楽しむことにした。先だって若者の口から語られた通りの、途方もなく退廃的な味がした――柔らかなマカロニに絡むチーズはねっとりと濃厚だった。幾重にも積み上がったハムはスパイスと煙の香りを纏い、噛み締めると甘みさえ感じられた。肉と脂の甘みだ。そして何より、パンが旨かった。金茶色の縁は歯を立てるなり砕け、芳ばしい匂いをいっぱいに広げる。内側はふんわりとして、ブリオッシュではないかと思えるほど卵とバターの風味が豊かだった。従者がこれを作ったということ、そして自分に食べさせたことが信じられないほどだった。彼はフォークを握りしめたまま、次の日曜日に従者が朝から教会に出かけ、大真面目に己の「罪」を告白するさまを思い描いた。比較的容易な想像だった。

 ソース一滴も残すことなく、一枚の大皿がすっかり空になった頃、若者がおもむろに彼の顔を見た。名残惜しそうな目だった。
「そろそろ行くよ、ハリー。今日は世話になった」
 若者は立ち上がり、卓越しに彼へと手を伸ばす。辞去の礼としての握手を求めていることはすぐに知れた。
「世話だなんて。またいつでも……ってわけには行かないだろうけど、食べにおいでよ」
 本心から彼は言い、若者の細い手をしっかりと握った。いつの間にか従者が戻っており、二人から数歩退いた場所に立って、
「すぐにお車をお出しします、旦那様」
 と申し出る。
「いや、ぼくが運転するよ。ウィギンズ、お前はもう下がっていい。こんな時間だし、今日は働き詰めだったんだから」
「は」
「戻ったときの出迎えもいらないからな。――じゃあ行こう、エミール」

 若い紳士たちは連れ立って玄関まで向かい、従者はその後ろを音もなくついてきた。預けていた帽子と杖とを受け取り、いよいよ出ていこうとしたところで、若者がふいに従者のほうを顧みて言った。
「……君のご主人様には、好きなものを食べさせてやってよ、ミスター・ウィギンズ」
「心得ております、ミスター・サロウ」
 従者は確たる面持ちで応えた。 「お気をつけてお帰りくださいませ」

  * * *

 優美な鋳鉄の骨組みに囲まれたエレベーターは、二人の紳士を最上階から下界へと重々しく運んだ。とうに日付は変わって、表通りは静まり返っていた。彼は車の鍵を取り出しつつ、若者に呼びかけようとした――見当違いの方向へと歩き出していたからだ。
「ガレージはこっちだよ、エミール。そっちの門は車は通れな――」
 が、どうしたことか、振り返る若者の顔は、どこか悪戯めいて不敵に笑っていた。
「車になんて乗るわけがないだろ、ハリー。ヒューストン通りのダイナーへ、バナナ・デニッシュ・ロックを食べに行くってときに、キャディラックなんかで乗り付けるか?」
 彼は目をぱちくりさせ、若者を眺めたまま立ち尽くした。
「バナナ……なんだって? いや、食べに行くって? 今から?」
「そう、今から。君も来るだろ」
「でも、さっきもうお腹がいっぱいだって――あのサンドイッチは……」
「あれは、ほら」 若者が小さく笑って顎を上げる。
「誰かさんが、ずいぶん物欲しそうな顔してたから」
 からかうような口ぶりに、彼は言葉に詰まって視線を右往左往させる。その言い方はないだろう――と反論しかけたが、しかし、物欲しそうな顔をしていたのは事実なのだろう、さぞ羨ましそうに見えたのだろうとも思えた。
「良いんだよ、ぼくは――別に、ぼくならウィギンズにいつでも作ってもらえるんだし」
 やっとのことで彼は言い返したが、恐らく従者は二度とあのようなものを食卓に上げないだろう、という予感はあった。彼自身としても、従者にそう度々「罪」を犯させるつもりはなかった。
「まあ、ありがとうとは言っておくよ。……で、そのバナナなんとかは何者なんだい」
 彼が尋ねると、若者は傍まで戻ってきてから、秘密めかして声を低くした。
「バナナ・デニッシュ・ロック。『ハミルトンズ』ってダイナーの名物さ。デニッシュは解るだろ? あのデンマーク起源かどうかは定かでない菓子パン」
「ああ、よくフルーツとか、チーズなんかを乗せて売ってるやつ」
「そう。だからといって、ただ薄切りにしたバナナが乗っただけの代物だと思うなよ。もっとごろごろ大きな切り方で、しかもキャラメリゼしてあるんだ――クルミと一緒にブラウンシュガーを絡めてね」
 果たしてそれは、声を潜めるに値する情報だった。たちまち彼の脳裏に、とろりと香ばしいカラメルを纏った乱切りのバナナが姿を現した。
「デニッシュのほうだってただのパンじゃあないぜ。ほら、普通デニッシュ生地に折り込むものといったら、せいぜいチョコレートとか、シナモンシュガーってところだろう」
「まあ、大体そんなものが多いと思うけれど――」
「驚くなよ、ハリー」 若者がにやりと笑った。 「連中、そこにベーコンを入れたんだ」
 彼は息を呑み、言葉もなく目を見開いた。ベーコン? つまり、さくさくとして甘いデニッシュの中に、程よい塩気と強い旨味、また燻製の風味が凝縮されたあばら肉が? しかもその上にはバナナとクルミ――そんなものが下町のダイナーに収まっていてもいいものだろうか?
「しかもそこで終わりじゃないんだ。デニッシュを焼き上げて、バナナのカラメリゼを乗せるだろ、そうしたらとどめにアイスクリームも、たっぷりひと掬い盛るんだよ。で、仕上げに黒胡椒を挽いて……」
「ああ、エミール!」
 彼は声を上げた。自分の想像力の逞しさが、これほど恨めしく思えるのも久々だった。
「一体全体どこで修行を積んだら、そんな所業を思いつくんだろう? きっと料理のミューズが――そんなものが存在するかはともかく――降りてるのか、さもなけりゃあ悪魔の手先なのかも」
「君まであの女みたいなことを言い出すじゃないか」
 若者が喉を鳴らした。 「で、魂を売りに行く気はある?」
 彼の内心には様々な思いが去来した。もう夜も遅い、さっき脂身を目一杯胃袋に収めておきながら、甘いものまで詰め込むとなると、どう考えても健康には悪い。その観点から言えば、若者のことだって止めてやるほうがいい。第一、今から食事に出て帰るとなると、従者をどれだけ待たせることになるか。主人がどんなに休めと言い渡しても、あの従者は決して彼より先に寝ようとはしないのだ。それを思えば……ああ、しかし、バナナ・デニッシュ・ロック! 冷たいアイスクリームに、温かいバナナとカラメル――きっと二者が触れ合ったところでは、カラメルがぱりっと固まり、アイスクリームは溶けて流れ出すのだ――、それらが染み込んだデニッシュ、そしてベーコン!

「……さっきの台詞をちょっと修正しよう」
 彼は深々と息を吐き出し、言った。 「悪魔の手先は君だ」
「よく解ってるじゃないか」
 心底愉快そうに笑う若者の、軽やかな足取りを追いながら、彼は胸の奥で告解した。許せ、ウィギンズ――でも、互いに罪を懺悔するわけだから、これでおあいこだよな?

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