ヘンリー・ロスコーには後悔していることがある。己の失言についてだ。


疑いを挟まずに -Cool as a Cucumber-

 言うまでもなく、二十歳そこらの若者に、言葉での失敗ぐらいごまんとあるものだ――彼に限ったことではない。それが長時間に渡る親しくもない親戚付き合いの後で、空きっ腹を抱えて帰ってきたところに、「ティーは五時にご用意します」等と言われ、二時間あまり苛立ちを募らせていたような場面なら尚のことである。
 だからといって、あらゆる失言が大目に見られるわけではない。今の彼にはもちろん解っていて、それゆえ一年とちょっと前の過ちを未だに後悔しているのだ。やっと午後五時を迎えてたどり着いた食卓で、ほんの数日前に彼の家に住み込み始めたばかりの男――本人によれば「従者ヴァレット」――と押し問答になったあげくのことだった。無味乾燥な顔で淡々と述べられる、ティーの席での礼儀作法やらに嫌気が差し、とうとう彼は叫んだ。
「大体、何なんだお前たち英国人は、品位が大事だか何だか知らないが、こんな、――人を飢え死に寸前まで放っておいて、薄っぺらいキュウリのサンドイッチなんか!」

 従者は反論しなかった。眉一つ動かさず、瞬きもせずに主人の顔を見下ろし、
「まことに申し訳がございません」
 とだけ言うと、卓上からサンドイッチの載った皿を静かに下げたのだった。
 あの時、テーブルに残ったケーキやビスケットは全て平らげた。しかし、どんな味がしたかについては、彼は覚えていない。感じてすらいなかったかもしれない。それからしばらくの間、従者がティーの席にキュウリのサンドイッチを供することはなかった。彼もそれで満足していた。――しばらくの間は。

「なあ、ウィギンズ」
 ゆっくりと息を吐き、彼は回顧することをやめて現実に向き直った。普段と、そしてあの時と全く変わらない、地味な黒の三つ揃えを着た従者が、はたきを掛ける手を止めて彼を見た。
「なんでございましょう」
「さっき言ったティーのことだけどな」
 背の高い本棚の傍から、書見台の元へ歩み寄ってきた従者に、まっすぐ目を合わせて言葉を続ける。
「他にご要望がおありでしたら、何なりとお聞かせくださいませ、旦那様」
 低く落ち着き払った、それでいて物柔らかな声が、彼の耳に心地よく響いた。自分と比べて温度は低いけれども、決して冷たくは感じない、そんな声だった。
「サンドイッチについては、ぼくは何も注文しなかったろう」
 今日のティーの内容について、軽く話し合った折のことを思い出しながら彼は言った。
「はい、旦那様」
「キュウリを入れてくれるつもりはあるか?」
「もちろんでございま――」
 従者は淀みなく言い切ろうとしたようだが、寸前ではたと声を途絶えさせた。暗色の目が窺うように彼を見た。
「変なこと訊いたか?」
 彼は思わず小さな笑いを漏らし、軽く肩を震わせた。こうもまじまじと見つめられるようなことを口にしたつもりはなかったのだ。
「――いいえ、旦那様。むろん新鮮なものをご用意します。ただ、……さようなお尋ねは、今までになかったかと存じまして」
「そうだなあ、わざわざ確認したことはなかった。そうしなくたって毎回出てくるんだからな。いや、何、ティーの予定というんで、思い出したことがあったんだよ」
 何でもないというふうに頭を振って彼は答えた。何事も深刻に受け止めがちな、従者のしかつめらしい顔に笑みを向けたまま。
「一年とちょっと前のことだが、ぼくがお前に酷い態度を取ったときがあっただろう」
 彼は続けたが、従者はすぐに話に乗ってこなかった。はて、と言わんばかりに小首をかしげただけだ。
「覚えてないのか? ぼくは今でもはっきり思い出せるんだが。ほら、あの時――」
「あの時と仰いましても、旦那様」
 従者は変わらず淡々としていた。それからほんの少しだけ眉を上げ、
「お仕えを始めてすぐのことでございましたら、あなた様が紳士にふさわしからぬ態度をお取りあそばしたことなど十指に余りましょう。すぐにどの時とは判断できかねます」
 と平らかな調子で言った。彼には返す言葉もなかった。
「それはその、全くお前の言う通りだ。本当にすまない。ぼくは心から後悔してる」
 こたびは彼が神妙な顔つきになる番だった。そんな若主人に、従者はごく控えめな、あるかなしかの薄い笑みを浮かべて応えた。
「旦那様がご自身をたびたび省みておられることは、わたくしもよく存じております。拝察するに、ティーの席にご満足いただけなかった折のことを仰っているのだろうとも」
「そうだ、今でも本当にいやなことを言ったと思ってるんだ。『こんな薄っぺらい』、キュウリのサンドイッチ『なんか』、だぞ。お前はどんなに腹が立っただろうって」
「いいえ、旦那様」 従者は静かに首を横に振った。
「腹は立ちませんでした。――あなた様は後にお考えを改めてくださいました。それで充分でございましょう」
「うん」 彼は首肯した。 「改めるだけのことがあったからな、たくさん」
「そしてわたくしは今、改めてご用命を賜るようになったのですから、過ぎたる光栄に浴しているといっても過言ではございません」
 それはいくらなんでも過言じゃあないかと彼は零しかけたが、この従者の物言いが、何かと仰々しいのはいつものことだ。使用人としての人生を送る中で、もはや身に染み付いてしまっているのだろう、と納得することにした。
「初めあなた様が仰せになった事柄も、ある程度は予期できておりました。キュウリのサンドイッチは一昔前と異なり、そこまで珍重される品というわけでもございません。恐らくお若い方々の間では――」
「お若い方々、だって!」
 吹き出しそうになるのを辛うじて堪え、彼は言った。従者は平然とした顔のままだ。
「ウィギンズ、お前――お前だって別に年寄りってわけじゃあないだろうに! いや、ぼくはお前が実際いくつなのか知らないんだが」
「わたくしも存じません」 淡白な声が返った。 「廃忘いたしました」
「さすがに冗談だと信じてるぞ、ウィギンズ。しかし、時代の移り変わりだって、悪いことばっかりじゃあないさ。新鮮な野菜が手に入りやすくなったぶんだけ、思い切った料理にも挑戦しやすくなる」
 より種類豊富に、ユニークに変化しつつある昨今の料理本について考えながら、彼は明るい声を出した。従者がやってくる前までは、彼はしばしば台所に立ち、自らの食事を悩み楽しみながら準備していたものだった。
「お前が今までに作ってくれた野菜料理だって、言ってみりゃあその賜物だろう? ぼくは『キュウリのサンドイッチ』一つ取っても、あれだけ変わり種を作り出せるなんて思ってもみなかった」
「わたくしにとっても、思いもよらぬことであったかと記憶しております。少なくとも数年ほど前までは」
 対して、従者の態度はあくまでも沈着冷静だった。どこか他人事のようでさえあった。この男が自分自身の内面について語るときには――語ること自体そうめったにはないが――見られる口ぶりである。うちの従者の辞書に「感傷に浸る」とか「妄執に囚われる」なんて言葉は存在しないんだろう、と彼は時折考えたものだった。
「そうなのか? じゃあ、元々ある見識がさらに広がったってことだな。良いことだ。とにかく、今のぼくはお前の作るサンドイッチが大好きだ。だからよろしく頼むぞ」
「かしこまりました」
 従者はうやうやしく頭を垂れ、それからふと考え込むように視線を上向けた。何事かと彼が思う間に、その目が再びダークブルーの瞳を捉える。
「では、お許しさえいただけましたら、本日は少々趣向を変えた席といたしましょう。サンドイッチこそが主題となるティーに」
「本当か!?」 彼の目は真夏の海より明るく輝いた。 「許す! ぜひやってくれ!」

  * * *

 従者がこのアパートメントにやって来てから今まで、衝突あるいは譲歩による変革は幾らもあった。その中で最も大きなものの一つは、やはり食事の時間が変わったことだ――昼食を一時に取ってから、ティーが五時でディナーが九時などというスケジュールには、彼の胃袋は適応できなかった。適応するつもりもなかったのだが、仮に最大限の努力を重ねたとしても、どこかで音を上げていただろう。
 幸いなるかな、従者は頑固で保守的でこそあったが、現代の若者に対する思いやりの心は持ち合わせていた。あるいは憐れみや諦めの心だったかもしれないが、どうであれ結果は同じである。きっかり四時十五分前、従者は再び書斎に姿を現して言った。
「ティーの準備が整いました、旦那様」

 書物の齎す甘美な夢から跳ね起き、彼は現実にあるもう一つの夢へと驀進した。従者の手によって開かれた居間の扉の向こうへ。そこには優美な造形のティー・テーブルがあり、鏡のごとく磨き上げられた銀器が並び、限りなく繊細な薔薇模様のティーセットが揃っていた。座り心地のいい肘椅子には、彼お気に入りのクッションが置かれてあり、壁際の棚を見れば蓄音機も用意されている。だが、それらの贅沢を差し置いて、何より彼の目を惹きつけたものは――
「ああ、サンドイッチだ」
 銀のトレイに並んで澄ましているパンの群れへ、彼は熱情の込もった視線を注いだ。注がずにいられようか、この麗しい姿! あるものはきめ細かなクリーム色のドレスを堂々と見せ、あるものは内にしっかりと抱いた鮮やかな宝石を、まるで誘惑するようにちらつかせている。上品で、几帳面で、にも関わらず扇情的、それが従者の作り上げるサンドイッチなのだ。カップに温かな紅茶が注ぎ込まれるときの心和む音さえ、彼の耳には入らなかった。
「ウィギンズ」
 逸る思いを宥めすかし、低く抑えた声で彼は呟いた。傍らから筋張った手が伸びて、技巧を凝らした銀のサンドイッチ・トングを、小さな皿を介してそっと置いた。
 もはや彼を押し止めるものは何もなかった。幾何学的に整えられた庭園のような――この喩えはあまり英国的ではないかもしれないが――一皿をじっくりと眺め、どこから手をつけるべきかを考えた。
 とはいえ長々と迷っていては、パンは乾くし紅茶は冷める。自身の思い切りの良さを呼び起こし、彼はそのうち一切れを取った。外見から察するに、最も典型的な種だろう、薄切りのキュウリを挟んだものを。
 それはそれは上品な姿だった。手触りはしっとりとして、指でつまめるほど小さく、すらりとしていた。大人の男には一口で食べられてしまう量だ。かつて彼が浅はかにも「薄っぺらい」と評してしまった品である。
 そんな過去の過ちを正すべく、彼は背筋を伸ばし、改めてサンドイッチと向き合った。口に運び、噛みしめると音がする――ぱりりと軽やかな音が。夏の午後にはぴったりの瑞々しさと、青い、けれども決して青臭くはない香りが彼の感覚を満たした。バターの塩気も、白胡椒の刺激も、断じてキュウリそのものを圧倒しない。主役が誰であるかを万人に知らしめ、際立たせる仕事だ。
「ぼくは断言するぞ、ウィギンズ」
 彼は可能な限り厳かな顔を作り、給仕のために控える従者に向けた。
「もしもお前の作ったものを、イギリスの全人口にあまねく配布して食べさせることができたなら、今後数世紀キュウリのサンドイッチが人気を失うことはないだろうね」
「さようでございますか」
「さようだ。悲しいかなそれは不可能だから、ひとまず今度ぼくの友達だけでも招いてティーの会をやろう」
「よろしゅうございます」
 従者は単なる世辞と取ったかもしれないが、彼は大真面目だった。謙り、慎み控えることが常態となっている、この壮年の男の芸術を、せめて親しい者たちには知っていてもらいたかった。独り占めにしておくのはそれこそ「紳士にふさわしからぬ態度」だという気がしたのだ。
 しかし、まずは自分がその味わいを知っておかなければならない――そうでなくては誰にも伝えられない。彼はもう一切れ食べ進めた。果たして、見た目に全く同じものと思われた二つめのサンドイッチは、口の中でその違いをありありと示した。
「ウィギンズ、これ……」
 目を瞬き、思わず紅茶を一口飲んでから、彼は従者の顔をじっと見上げた。今しがた感じたものの正体が掴めなかったのだ。
「酢――たぶん酢だと思うんだ、レモンじゃあない。でも、白ワインやシェリー酒や、リンゴの酢とも違う。なんだか、シャンパンみたいな香りの……」
「いかにもご明察でございます、旦那様」 静かに首肯し、従者は続けた。
「仰せの通り、シャンパン・ビネガーでございます。少々の塩と白胡椒、シャロット、白辛子の種と合わせ、軽くマリネいたしました。こればかりは一般的なワインビネガーでは替えが利きません。強い酸味と香味にキュウリが負けてしまいます」
 彼の脳裏に先程の味が蘇る。最初の一切れより薄く切られているのだろう、さっくりした歯触りと共に鼻先へ抜ける涼しげな香り――明るく華やかで、仄かに甘く爽やかな、金色の光が弾けるように軽やかな酸味。この上ない贅沢、このサンドイッチが上流人の特権だった時代を思い起こすような体験だった。
「シャンパン・ビネガー! そんなもの市場で見たことが……いや、お前のことだから多分、いつかのパーティーで残ったシャンパンから自分で作ったんだろうな」
「さようでございます。排水溝に流すにはあまりに忍びなく存じました」
「お前は正しいことをしたよ。そう、大事な大事な酒だからな。こんな世の中だし」
 敬服の意を示すように、彼は深々と頷いてカップを傾けた。そして思った。
「なあウィギンズ、まさかとは思うんだが、ここにあるもの全部、一切れごとに中身が違うんじゃあないだろうな?」

 彼の予感はほとんど的中していた。次の一切れも、またその次も、中に挟まれたものはそれぞれ違っていた。共通しているのは、ただ「キュウリのサンドイッチ」であるということだけだ。

 あるものは塩揉みしたキュウリを用いているらしく、かりかりと歯応えがよく、塩味のほかに感じるレモンとカルダモンの風味が小気味良い。またあるものは、舌触りの滑らかなハムのパテと合わせてあった。
 中でも彼が気に入ったのは、刻んだキュウリと白いソースを和えて挟んだものだった。クリームチーズのようにも思えるが、さっぱりとしていて軽く、といってヨーグルトほど酸味は強くない。塩胡椒のほか、何かハーブの香りもする。まろやかな甘み、そしてゆったりと続く深いコクの余韻――
「お前にぼくの食事を取り仕切らせてから、もうずいぶんになるけれども、まだぼくの知らない料理が出てくるんだものなあ! これは一体何物だ、ウィギンズ?」
「セルヴェル・ド・カニュでございます、旦那様」
 耳馴染みのない言葉だった。発音からフランス語だろうとは察せたので、彼は自身の語彙から意味を探り当てようとした。
「――『織物職人の脳味噌』だって? そいつはぶっ飛んだ名前だなあ!」
「はい、旦那様。フランスはリヨンの郷土料理でございます。リヨンは織工たちの街でございますから、……フロマージュ・ブランを基礎に、本来はチャイブやシャロットで食感を加えますが、今回はむろんキュウリを用いております」
 彼は眉を上げ、「へええ!」とだけ言った。的確な賛辞を見つけられなかったのだ。このサンドイッチだけあと五切れぐらいあってもいいのに、とも思った。彼にとっての幸いは、食べ進めた後にもう一切れを見つけたことだ。全ての種類はそれぞれトレイに二切れずつ用意されていたのである。
 最後にもう一度、あの簡潔にして美しい、全てのキュウリ・サンドイッチの祖と呼ぶべき一切れを口に収めて、彼は深々と感嘆の息を吐いた。紅茶で洗い流すのがあまりに惜しいひと時だった。しかしながらこれは「ティー・サンドイッチ」であり、共に紅茶を飲むことが期待された品だ。彼はカップをゆっくりと空にし、静かに受け皿へ置いた。
「ウィギンズ、やっぱりお前は最高だ」
 気品ある一皿に釣り合うよう、努めて厳かな調子で彼は述べた。従者はやはり落ち着き払った様子を崩さず、もったいないお言葉でございます、と答えた。
「本気で言ってるんだからな、ウィギンズ? キュウリのサンドイッチだけで、こんな満足のいくティーの時間を過ごせるんだ。他のどこでだってこの体験はできないだろう」
 その揺るぎない恭謙の態度を少しでも緩めてやろうと、心からの賛辞を重ねてはみたが、従者は決して流されなかった。またぞろ慎ましい言葉が帰ってくるのだろうと、彼は内心溜息をつくような思いだった。
 ところが、続いて彼が耳にしたのは、思いもかけない台詞だった――若主人の眼前で、従者はやおら首を傾げ、
「おや、もう充分満足しておいでですか、旦那様? これ以上ない体験をなさったと?」
 さも意外そうに尋ねたのである。彼は目を丸くし、従者の勿体顔をしげしげと眺めた。
「そんな、そりゃあもちろん――大いに満足したつもりだが、どうした、もしかするとお前にはまだ……」
 まごつきながらも答える彼に対し、従者はそこでようやく微かな笑みを浮かべた――得意がるようではなく、あくまでも混乱を和らげるような趣で。そして言った。
「キュウリのサンドイッチはこれにて打ち止めでございます。しかしながら、ティーはまだ終いではございません、旦那様。サンドイッチもです」

 きょとんとする彼をよそに、従者は音もなく居間を出ていった。カードの遊戯でいうところの切り札を、いよいよ見せようとしているのだろうか。訳も分からぬまま取り残された彼は、しかし長々と待たされはしなかった。戻ってきた従者が携えていたのは、ガラスの覆いがついたケーキスタンドだった。
「そうか、そうだったのか――ウィギンズ!」
 彼は声を上げた。美術館に飾られた貴婦人の肖像めいて、淑やかに澄ましたそれは、円形のスポンジケーキだった。天辺は粉砂糖で繊細なレース模様が付けられ、夏向きの帽子を被ったようにも見える。柔らかな膨らみのある金茶色の合間には、もう一つ彩りが加えられていた――目の覚めるような真紅の帯が、艷やかな光と共に走っている。
「ヴィクトリア・サンドイッチ・ケーキ、そういうことだろう? なるほど、確かにティーは塩味セイヴォリーだけで終わりじゃあないな!」
「さようでございます。何よりサンドイッチだけでは、ディナーまでにお腹がお空きでございましょうから……」
 日来の健啖ぶりを引き合いに出されては、彼も気の抜けた笑みを漏らすより他になかった。そうしている間にも、手元には新しい皿とケーキナイフの準備が整い、カップには紅茶が注ぎ足されている。彼はいそいそとナイフを手にし、大いに満足行くだろう取り分を切り分けた。
 口に運んでみれば、なんとも心安らぐ感覚――スポンジ生地はしっとりとして、噛み締める間もなくほろりと解け、挟まれていたジャムの甘酸っぱい味が舌をくすぐった。ぷちぷちとした種の食感からして、これはラズベリーだろうか。そこに溶け合うのは、ミルクの味は濃いのに不思議に軽い、たっぷりと空気を含んだバタークリームだ。
 彼は知らず識らず目を細め、口の中からの感覚に浸っていた。決して派手でもなければ刺激的でもない、けれども一度味わえばどうにも離れがたい、優しい懐かしさ……
「ああ、ウィギンズ」
 ふうっと息をついてから、彼は傍らに控える従者を仰いだ。
「ぼくは後悔してるんだ。心から惜しいことをしたと思ってる」
「なんでございましょう」
「早まったことを言った。先走らずに、今の今まで大事に取っておけばよかった――やっぱりお前は最高だ!」
 先刻口にしたばかりの台詞を、彼はもう一度、より力を込めて叫んだ。もはや厳かさなどは忘却の彼方にあった。
「お楽しみいただけたようで幸甚でございます、旦那様」
「楽しみが有り余るってもんだ! ティーの会を開くのが待ちきれなくなってきたぞ。さっきのシャンパン・ビネガーでマリネしたキュウリなんか、きっとシャーリーあたり気に入るだろうなあ」
「ミス・ボーリガードは野菜料理がお好みでございますからね。わたくしのサラダにも、たびたびお褒めの言葉をくださいまして」
「そう、それにあのハムのパテが入ったやつは、絶対にティミーの好みだ。紅茶じゃあなくてワインをくれと言い出すかもしれないが」
「さよう推察します。念のため、ハムに加えてサーモンのパテ入りもご用意します」
「きっと泣いて喜ぶぞ。それで、パーシー……は別にいいか。あいつにお前の料理はもったいないし。そうそう、エミールのために肉とチーズだけのサンドイッチも作ってやってくれよ」
「心得ております。良質のベーコンに、ローストチキンとオムレツも加えましょう」
「ぼくの分も忘れずに頼む。――ああ、それと例の、『織物職人の脳味噌』だが」
 招くべき友人たちの顔と、それぞれにふさわしいサンドイッチを思い描きつつ、彼はうきうきとティーの計画を練った。そうして、最中にふと切り出した。
「はい、旦那様」
「……あれは会には出さないようにしてくれ」

 従者が僅かに片目を眇め、意図を読むように彼を見返した。あからさまに眉を曇らせこそしないものの、全く平穏な心境でもなさそうだった。
「あなた様にはお気に召しませんでしたでしょうか、旦那様――」
「違う、気に入ったんだ。今日出てきたものの中で一番好きだ。食べた瞬間からぼくの大好物になった。だから」
 そこで彼は少しばかり口ごもり、声を低くした。笑みを見せようとしながら、吐息に微かな苦さが混じるのを感じた。
「だから、……あれだけはぼく独りのもの、ということにしちゃあ、駄目かな」
 窺うように見上げた先で、暗褐色の目が一度か二度瞬いたように思われた。暫しの間があり、やがて応えがあった。
「よろしゅうございます。わたくしがお作りするいかなる品も、その扱いはあなた様の意のままでございますから」
「本当か? 異論はなしか? 『紳士にふさわしからぬ態度』なんて言い出さないな?」
「申しません。お仕えして二年にもなりますと、わたくしの基準も多少は柔軟になったように存じます」
 それで彼は胸を撫で下ろし、深呼吸して椅子に身を預けると、言葉にならない笑い声を立てた。罪悪感を覚えないでもないが、勝ち誇ったような気分のほうが勝っていた。
「そうでなくっちゃあな! いや、これは真剣に言うんだが、実に見事な味だったぞ。元々のチーズ料理がどれだけうまいとしても、たぶんぼくはお前のを選ぶ」
「些少な変更に、過分な賛辞を頂戴しまして」
「お前は自分の手柄をなんでもかんでも些少にしすぎだ。もしもぼくが何らかの権力を手にして、新たな料理の命名に携わることになったら、『セルヴェル・ド・ヴァレー』と名付けたいぐらいうまかった」
 これは彼にとって力強い褒め言葉のつもりだった。従者の心にどれほど響いたかは、残念ながら傍目からは少しも窺えなかった――壮年の男は相も変わらず、穏やかな顔で主人を見下ろし、
「『従者わたくしの脳味噌』など、珍味どころか毒にも薬にもなりますまい」
 等と不動を決め込むばかりだった。やれやれ、という言葉が彼の口をついた。
「こればっかりは変わらないんだなあ、どうにも」
「わたくしでございますか、旦那様?」
 自分にしか聞こえないと彼は思ったのだが、どうも今日は心得違いが多い。そろそろ本気で失言に気をつけなくちゃあなと、彼は頭を振って答えた。
「ああそうさ、うちの従者が何かにつけ、『キュウリのように冷静』だってことが」

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