「世界一自分に向かない職業」があるとすれば、それはソーダ・ジャークだろう。


うたかたの稚気 -Jerk My Chain-

 掃除を終えたばかりの広々とした台所で、壮年の従者は考えた。もちろん彼は、この世界に存在する数多の職業のうち、ほんの僅かしか経験したことはない。たった数年は小学生だったが、それを除いた時間はずっと使用人として過ごしてきた。役職の名こそ小姓ボーイ従僕フットマン従者ヴァレット執事バトラーと変化し、レナードと呼ばれるかウィギンズと呼ばれるかの差は生まれたが、彼はどこまで行っても使用人だった。恐らく残りの人生もそうだろう。
 だから本当のところは、自分に向かない職業よりも、自分に向いている職業を数え上げたほうがよほど早いはずだ――自分には使用人の職のほか適性などは無いのであり、残りは全て違う誰かのための天職なのだ、それが彼の考えだった。新しい勤め先が見つかるまでの繋ぎとしては、ホテルの客室係やレストランの給仕をしたこともあったが、決して長く続けたい仕事ではなかった。
 ただし、それを前提としても――この世のあらゆる職業と呼べる職業のうち、最も自分に向かない職は、間違いなくソーダ・ジャークだ。要するに、ソーダ・ファウンテンから炭酸水を注ぎ、数々の冷たい飲料を作り上げる売り子である。
 職務の内容は何ら問題ではない。主人にウイスキー・ソーダやレモネードを作るのは彼にとっても日常業務だ。二者間の大いなる差異はもっと別のところにあった。
 ソーダ・ジャークなる職業は恐らく合衆国の固有種だが、生粋のイングランド人たる彼にも、聞けばすぐさま姿を思い浮かべることができる。それは大抵の場合、二十歳かそこらの若い男で――若作りの者も少なからずいるだろうが――必ずと言っていいほど、白いシャツと白い襟付きのジャケットを着、白い舟形帽を被って、黒か赤のネクタイを締めているのだった。清潔と正統を喧伝するかのように。
 だが服装にも増して特徴づけられるのは、その笑顔だった。「満面の笑み」等という生易しいものではない、自らの青春を極限まで搾り取り、機微が感じられなくなるまで濃縮し、ミントだかレモンだか、爽やかそうな香料を過剰に投与したような笑顔なのだ――少なくとも彼の主観では。唇を目一杯に押し広げ、漂白したような歯を輝かせて、グラスに入ったソーダを差し出すあの姿ときたら、若さと健康の押し売りそのものだ。もっとも、ソーダ・ファウンテンの置かれる場所(専門店を除けば大抵は薬局である)を訪れる人々にとっては、それこそが求めてやまない概念なのだろうが。
 彼は瞑目し、嘆息し、ややあってから目を開けて手元を見た。暗色の瞳には、手書きのメモがはっきりと映っている。このメモがある限り、そして彼が使用人である限りは、ソーダ・ジャークの感覚を会得しなければならない。切望されているのだ。他ならぬ、彼の「旦那様」その人から。

 数日前のことである。彼が仕えるロスコー家の若主人は、寝酒のブランデーサワーを運んできた自らの従者に尋ねた。
「なあウィギンズ、この間お前が言ってた冷たい飲み物の本だが、ぼくにも読ませてくれないか?」
 もちろんでございます、と彼は答えた。パーティーの計画でも立てるのかもしれないし、単に自分の楽しみのためとも考えられる。使っている料理書を見せるというのは、自身の手札を晒す行いでもあるわけだが、彼は別段気にも留めなかった。たった一冊の書物のみを珍重し、切り札としてそれだけを頼みにするというのは、優秀な使用人の振る舞いとは言い難い。ご所望の一冊を寝室に届け、彼は静かに自室へと引き下がった。
 そうして今日の午前、本は主人手ずから返却されてきた。ちょうどディナーの合間に出す冷たい「お口直し」について考えていたところだったので、彼は受け取った書物の目次をさっと開いた――そこに一枚のメモが挟まっていた。
 主人の手書きであることはすぐに知れた。それは二列のリストになっていて、片方にはいかにも魅力的なカクテルやソーダの名前が、もう片方には数字が記されている。対応する本のページ数だろう。メモを取ったまま忘れてしまったのか、それとも持ち主に読んでほしかったのかは定かでない。
 とにかく、彼はリストに目を通すことにした。ストロベリー・ア・ラ・ワシントン、アメリカン・ジェントルマン(ここで彼は微かに笑みを漏らした)、ブロードウェイ・レモネード、リン酸塩フラッペ、ラズル・ダズル、ジャパニーズ・ミルクセーキ……

 一拍置いて、やにわに彼はリストの中盤へと視線を戻した。明らかに異質なものを感じたからだ。改めて意識を向ければ、そこには最大限に注目すべしとばかり、ご丁寧にも赤鉛筆で下線が引かれてある。流し読みした己自身に彼は恥じ入ったが、しかし強調されている名前ときたらどうだろう――「リン酸塩フラッペ」。
 彼は黙したまま二度三度とその名を繰り返した。声に出してもみたが、印象は変わらなかった。リン酸塩フォスフェイトフラッペ――なんとまあ! これが本当に食べ物の名前だろうか?
こんなものが本に載っていただろうか。半信半疑に彼はページをめくったが、果たしてリストに示された通りの場所に、この奇妙な名前は間違いなく存在した。さらに言うなら、そのものずばり「リン酸塩」という項目があり、約八ページ分が割かれていたのである。曰く、

 ――飲み物の流行り廃りは時世時節だが、リン酸塩オレンジは永久に栄えるだろうとよく言われたものです。予想に反して、リン酸塩ソーダの人気はここ数年で衰えつつありますが、多くのソーダ・ファウンテンでは、未だに売上を牽引する存在です。……

 初めてこの本を手に取ったとき、きっと自分はこの文言を信用ならず、章ごと読み飛ばしてしまったに違いない――彼は考えた。リン酸塩オレンジ等という名前の飲み物が永久に栄える世界でなくてよかったと切実に思いもした。とはいえ、メモから察するに、若主人はこの奇怪な氷菓(フラッペというからには氷菓だろう)を欲しているのである。あの新しもの好きの主人が、数年前――この「ソーダ事業者便覧」の初版は1915年だから、ざっと十年前ごろを指すのだろう――に一時の流行で終わったようなものを!
 彼は再び「リン酸塩フラッペ」の項を見た。無論そこにはレシピが記述されている。極めて簡明直截に。

 リン酸塩フラッペ
 八ないし九オンスのグラスを削った氷で満たし、リン酸塩の溶液三ダッシュを加える。氷の大部分が覆われる程度に任意のシロップをかけ、スプーンを添えて提供する。

 これを一体どうしたものだろう? なるほど、レシピにおいてリン酸塩が大きな役割を担っているのだろうことは理解できる。取り除いてしまえば残るのは氷とシロップだけだ。それではただのかき氷フラッペである。
 だが、誰か一人でも命名に異議を申し立てる者はいなかったのだろうか? レシピに堂々と合成物質の名前が登場すること自体は特に問題ない。昔から行われてきたことだ。だとしても、例えば灰汁で苦味抜きしたオリーブのピクルスを「オリーブの灰汁漬け」とは呼ばないし、ペクチンを使ってとろみを付けたジャムが「ペクチン・ジャム」の名で売り出されるはずもないだろう?
 この自論に彼は満足したが、ややあってから自ら棄却せざるを得ない事態に陥った。重炭酸曹達ベーキングソーダを使って膨らませるパンは、取りも直さず「ソーダ・ブレッド」であることを思い出したのである。

 彼は想像した。明日の朝食について主人と相談し、主食は何にするかを尋ねるとする。「薄いトーストにいたしましょうか、それともマフィンになさいますか? お望みならソーダ・ブレッドでもよろしゅうございます」。特に違和感のないやり取りだ。しかし、次の晩餐会で客人に出すカクテルを決めるにあたって、このように口に出すとしたら。「お酒を召し上がるご婦人がたには、アレキサンダー・カクテルが好適かと存じます。紳士のかたがたにはタキシードがよろしゅうございますか? それともサゼラックか、シャンパーニュ仕立てのリン酸塩フラッペを?」
 これはうまく・・・ない、――彼は内心で苦虫を噛み潰したような顔を作った。全くもってエレガントでない。良い食事には名前の上でも調和が必要なのだ。メニュー・カードの「肉料理ヴィアンド」と「焼物料理ロティ」の間に「お口直し……リン酸塩フラッペ」が挟まることなどあってはならない。
 けれども心のどこかで、彼はこの考えを改める必要も感じていた。真の上流人たちを相手にフランス料理の給仕をしていた、あのフットマン時代を忘れるつもりはないが、現代的な思考も身に着けなければならないのだ――自分が今仕えているのは、ティーの作法やディナーの時間にかかずらったりしない、二十世紀の紳士なのである。
 そもそも、と彼は考えた。どうして自分は「リン酸塩フラッペ」を、より根本的には「リン酸塩」を受け入れられないのだろうか? それは単に、この物質について何一つ知らないためではないか。重曹やペクチンやクエン酸とは異なり、今まで自分が使ってきたどんな料理書でも見なかった名前なのだ。
 人間は未知を恐れ、忌避するようにできている。そのものの持つ性質をよく知ることさえできれば、自分にも新たな見地が拓けるかもしれない。――彼は己をそう諭した。そして黒いエプロンと袖カバーを外し、いつもの背広を取りに使用人部屋へ向かった。知るためにはどこへ行けばいいのか? 無論、「リン酸塩フラッペ」が生まれる場所だ。

  * * *

 ロスコー家の「放蕩息子」が住まう東36丁目から、レキシントン街を二十分ばかり下ってゆくと、第69連隊の重厚な武器庫を通り過ぎたあたりで、行く手に派手な看板が見えてくる。所有者の名がサイモンであることを、全マンハッタンに誇示しているかのような、紅白に彩られた「サイモンズ」の大きな飾り文字。
 さらに近づいてみると、看板の出たビルディングの一階に、大きなガラス窓を備えた店舗があるのが判ってくる。その窓にもやはり「サイモンズ」とあり、これ見よがしに「アイスクリーム」「ソーダ」「ランチ」と掲げられている――夜間は中央の「ソーダ」がけばけばしく橙に発光するのだ――ほか、「空調完備」だの「電話・トイレあります」だの、外観的主張は並外れて多かった。とにかくソーダを出す店であることだけが確かだった。
 この店こそが、主人ご贔屓のソーダ・ファウンテンなのだ。具体的にどの点がお気に召したのかは存ぜぬが、マンハッタンに過酷な夏が訪れると、若紳士はしばしばここに足を運び(外出する気力すらない時を除いて)、親しい友人たちと長話をしたり、若いご婦人がたに秋波を送られたり、新聞や雑誌を読んだりして過ごす。ずいぶん居心地が良いらしく、約束の時間を忘れて戻ってこないものだから、車を出して迎えに上がったことさえあった。
 ガラスの扉を押し開けてみると、そこは正に「ジャズ」の世界――真っ白なタイルの床、大理石のカウンター、ずらり並んだソーダを注ぐための金属レバー。壁の至る所に配置された金縁の鏡、天井にはアール・ヌーヴォーを気取ったシャンデリアとファン。眩い光の下、あちこちで背の高いグラスが行き交い、パイプの煙が漂い、レバーを操作する音が響く……
 背後で扉が閉まるのを気に留めもせず、彼はただ呆れ返ったまま佇んでいた。何度か訪れた後でもまだ慣れない光景である。どうにもぴかぴか、否、びかびかと言うべきか、ぎらぎらと表現すべきか、明るさと清潔さが度を越しているのだ。かのリッツ・クラブだってここまで光り輝いてはいなかったはずだ、と彼はロンドンの社交界を回想した。
 しかし、突っ立ってばかりいても話は始まらない。彼はとりあえず入り口から退き、カウンター上部のメニューボードへ目を走らせた。コカ・コーラ社の支配下にある――つまり「モクシー」はお呼びでないのである――ことを盛んに宣伝する、真っ赤な円盤の下に書かれているのは、まず二十五セントの「サイモンズ・スペシャル」。察するにこの店の看板商品なのだろう。そこから数種のアイスクリームやデザートの名が続いている。飲み物はレモネードやオレンジエード、ジンジャーエール、麦芽ミルクにミルクセーキ、ルートビア・フロート等、ありふれたものが列を成し――
 おお、そこで彼はついに見つけた――「リン酸塩ソーダ、各種フレーバー取り揃え」の文言を。例の書籍にある通り、流行りは廃れたといえど、滅び去ってはいなかった。一杯五セントという万民の懐に優しい価格で生き延びていたのだ。その無機質な綴りを凝視し、彼は苦い息を漏らした。今から学ぶべきはあの本質なのだ。
 と、カウンターの向こうでいくつものグラスを取りさばいていた、一人の若者が――「ソーダ・ジャーク」が、ふと手を止めて彼のほうを見た。間もなく、
「やあ、これはまた、ミスター・ロスコーのところの!」
 ブルックリン訛りの混じる快活な調子で声をかけてきた。彼はとっさに背筋を伸ばし(今まで曲がっていたというわけでもないが)、使用人らしい謹厳さをもって見返した。
「執事さんじゃないですか。前にも来てくれましたよね? ええと……」
「ウィギンズと」 墓石のごとく表情を固め、彼は答えた。 「執事ではなく従者ですが」
「ご主人のお迎えで? お生憎なんですが、今日は一度もいらしてないんですよねえ。クラブのほうなんじゃないかなあ、帰りにお寄りになるかもですが……」
 彼のしかつめらしい態度を意にも介さず、若者は早口に答えては、銀色の太いレバーを押したり引いたりして、手元のグラスに泡立つ液体を注ぎ込んだ。細長いガラス器の内側が、たちまち鮮やかな紅色に染め上げられる。ホールの奥から別の店員の叫び声。
「『焼き尽くせ』だ!」
 若者が復唱し、金属のシェイカーに暗褐色のアイスクリームと黒いシロップ、牛乳、小麦色の粉末を矢継ぎ早にぶち込むと、猛烈な勢いで上下に振った。程なくして新しいグラスにチョコレート色の液体が満たされ、カウンターの上を滑っていった。
「すみませんね、ありがたいことに繁盛してまして」
 学生ふうの男から返却されてきた、空っぽのグラスを受け取りながら、若者は従者に陽気な笑みを向けた。大してすまなそうには見えなかった。
「それで、ご注文ですか? 冷たいものなら何でもありますよ。スイート・ティーもね。それともお食事を?」
「いいえ」 彼は努めて落ち着き払った声色を保とうとした。 「お伺いしたいことが」
「ええ、どうぞ! ああ、電話と電話帳ならあちらですよ!」
 若者が片手を伸ばし、反対側の壁際を指した。見れば、必要以上に重厚な作り付けの棚に、フランス風の彫金のなされた電話機が、聖エドワードの王冠もかくやとばかりに鎮座している。よほど珍重されているらしい。
「結構でございます」
 意図したよりも遥かに冷たい声を漏らし、彼は頭を振った。異教徒めいた気分だった。
 ちょうどその時、新しく入ってきた若い婦人――丈も袖も短い菫色のドレスを着た、いわゆる「新しい女フラッパー」風の――が、彼をちらと見てくすくすと笑い、「ご機嫌よう!」と声を投げかけた。彼はうやうやしく一礼して場所を譲ろうとしたが、婦人はさっさとカウンターの端に陣取り、スツールに足を組んで座ると、勝手知ったる様子で別の店員を呼んだ。速やかに二つ折りのメニュー表、それにマッチと灰皿が運ばれてきた。

「それで、ご質問ってのは何です? 詳しいメニューなら……」
 マッチで紙巻き煙草に火を点ける二十世紀の婦人を、隔世の感をもって眺めていた彼は、そこでやっと我に返った。改めてカウンター周りを見渡せば、「リン酸塩」の文字が当然のように目に入ってくる。
「結構でございます。ただ――あちらの、ソーダ……何か、各種取り揃え、という……」
「ああ、はい!」
 若者が燦然たる笑みを浮かべて彼を見た。これから何かしらの詐欺にでも遭うのではないかという、無用な予感を彼は覚えた。
「リン酸塩ソーダですね! ええ、何でもおっしゃってください。シロップなら大体は揃ってますから。珍しいところだと、ココア・ミントとか、シャンパンなんてのもありますよ。いや、もちろんアルコールは入ってません、うちは修正第18条には一切――」
「道徳的なことを申し上げたいのではありません。私はただ知りたいだけなのです。一般に言われるところの」
 彼は浅く息をつき、小さな声で言い足した。 「リン酸塩について」
「飲み物のことをですか?」
「いいえ、飲み物に加える物質のことを。ロスコー様からお尋ねがありました。ですが私は何も知らないのです、それが何のために用いられるのか、どのように飲料へ影響を与えるのか、どれほど一般に知られているのか――」
 なにぶん旧い人間でして――だとか、英国人ですもので――等といった言い訳だけは、決して口にするまいと彼は己に言い聞かせた。自らの無知にもっともらしい理由を付け、時勢のほうを糾弾するようになってはお終いだと考えていたのである。
「なんだ、そういうことですか! ええ、たしかにご家庭のキッチンにはないものですよね、リン酸塩ってのは。ま、ちょっとした隠し味みたいなもんですよ」
 若者は彼の内心を推し量った様子もなく、ただただ明るく笑いかけては片手を振った。どうしてこうも朗々とする必要があるのか、と彼は訝った――コーラの広告のモデルにでもなりたいのだろうか? それとも、客に笑いかけるたび追加で一セント貰える契約でも結ばれているのかしれない。
「ほら、これが僕らの使うボトルなんですがね、どんな飲み物にもだいたい合うんです。ちょっと振りかけるだけで、酸味を足してくれるんですよね。レモンやビネガーだと、ついでに香りや色まで付いてしまうところ、リン酸塩なら本当に酸味だけが付くから、元々の味わいを変えずにすむ」
 ごく細い金属の注ぎ口がついた、琥珀ガラスの瓶をカウンターに置いて若者は言った。
「酸味剤なのですね。確かに、余計な風味が加わらないのは、味わいの設計において、大変ありがたいものですが、……しかしこれは薬品なのでしょう。繰り返し摂取して、健康に障りはないのですか」
「さあ、どうですかねえ? とりあえずうちの常連さんに限っては、リン酸塩ソーダの飲みすぎで体を壊したって話は聞いたことがないですね」
 若者はあっけらかんと言い、それから軽く肩を竦めて続けた。
「それに、甘くて冷たいものを毎日浴びるほど飲む人ってのは、リン酸塩以前の健康的問題があるわけで」
 これには彼も納得せざるを得なかった。なるほど、一杯につき数ダッシュの溶液より、遥かに健康を害しかねない物質が、ソーダ・ファウンテンには、もとい人類の歴史には付き纏っているわけだ。カウンターの奥に置かれた砂糖壺を一瞥し、彼は神妙に頷いた。
「仰る通りです。ロスコー様も多少なりと意識していらっしゃると願いたいものですが。とはいえ……」

 彼が言いかけたとき、背後の扉がまた開いた。今度は大分と勢い任せに、小さな影が二つ三つ連なって転がり込んできた――見たところ十歳になるかならないかという少年たちだった。彼らはまっすぐにカウンターへ向かってきたが、そこに日来見かけない、黒一色の三つ揃えを着た立派な紳士がいるのを認め、大きな目をぱちぱちと瞬いた。
「ああ、失礼」 若者が言い、従者から小さな客人たちへ向き直った。 「やあ!」
 声をかけられて、子供らの瞳も再び意気を取り戻し、めいめいに喜びと待ち遠しさを頭上へ注いだ。互いに顔を見合わせ、誰が口火を切るか窺っているようだった。やがて、
「チェリー・コーラちょうだい!」
「ぼく、パイナップル・ソーダ! クリーム乗せたやつ!」
 未だ変声期を迎えていない少年特有の、甲高い響きが次々と木霊し、石張りの冷たいカウンターの上で、薄ら錆びたニッケル貨やダイム貨がちりんちりんと涼しげに鳴った。そのうち一人はいかにも得意げに胸を張り、握りしめた手のひらを開いて見せながら、
「『サイモンズ・スペシャル』もらうね。お小遣い稼いだからさ」
 と宣言してのけた。額面どおりの五セント玉が、重なり合って電光に煌めいていた。
 その時にはもう、若者は二人分の飲料を――濃い赤紫色をした強い香りのコーラと、白いホイップクリームをたっぷり絞った、南国を思わせるソーダを手早く作り上げて、少年たちに差し出していた。そうして続けざまに、カウンターの内側へしゃがみ込んだと思えば(恐らくそこに冷蔵庫があるのだろう)、果物やアイスクリームの入った金属容器を、磨き上げられた大理石の上に並べて見せた。
 そこからは一種のショーであった。婦人のスカートを逆さまにしたような、流線型の脚付きグラスに、鮮やかな黄色のシロップが回し入れられ、刻んだ桃らしき果実やら、砕いたビスケットやら、マシュマロやら、およそ子供の好みそうなものが積み込まれてゆく。目にも留まらぬ早業で、グラスは口のところまでいっぱいになる。極めつけに、若者はアイスクリームをひと掬いするや、スプーンを握った手首をさっと翻し、空中へ高々と放り投げたのだ。軽やかに宙を舞ったバニラ風味の白球は、反対側で待ち受けるサンデー・グラスに華々しく着地した。
 少年たちがきゃっきゃと歓声を上げる中、目に痛い赤色のさくらんぼが一粒、天辺に飾り付けられた。同じくらい目に痛い笑顔を振りまきながら、若者はカウンターの上に「スペシャル」な一品を展示し、高らかに宣言した。
「サイモンズ・スペシャル、お待たせ!」

 二十年余の奉公を勤めた使用人として、レナード・ウィギンズは克己心というものを持っていた。この美徳があと少し不足していれば、彼は動転し、目眩でも起こしていたはずである。もし自分が英国の、どこか大家の主人で(というのも虚しい空想だが)、屋敷のフットマンが客人を相手に同じ給仕法を披露したなら、たとい良かれと思っての行いだったとしても、躊躇なくくびにしただろう――そう黙考することで、彼は己の情動を抑制することに成功していた。
 ああ、考えを改めるというのはなんと労力のいることか。彼は一段と内省的になり、冷たいカウンターに手をかけたまま立ち尽くした。正面の大きな鏡に映る自身の顔は、いつにも増して厳めしく見える。マンハッタンだけでも数百人か数千人はいるだろう、若く初々しいソーダ・ジャークが、今の彼にはバッキンガム宮殿の侍従より手の届かぬ存在に思われた。
「随分と、……盛りだくさんの品ですね、あのスペシャルというのは」
 二の句に迷ったすえ、彼はとりあえず間をもたせようと言った。なるべく穏便そうな形容詞を用いることも忘れなかった。
「まあ、なにしろ二十五セントですしねえ。半端なものを出しちゃけちが付きますよ。子供たちだって、大事なお金で買いに来てくれるんですから」
 窓際のテーブルに集まって、とめどなく騒ぎながら冷たいおやつを楽しむ少年たちを、若者はにこやかに一瞥した。
「お宅でも、お茶や食後にサンデーなんかは出すんですか? バナナ・スプリットとか、ホット・ファッジとか」
「今のところ前例は……」
 記憶にある「バナナ・スプリット」の姿を思い起こしながら、彼は言い淀んだ。主人なら必ず喜ぶだろうと解ってはいた。
「へえ、ミスター・ロスコーはお好きそうなのに。一度やってみたらどうです? 材料さえあれば案外簡単なもんですよ。最近じゃ、珍しい果物でも缶詰がありますし――」
かんづめ・・・・?」
 そうして思い悩むあまり、彼の自制心はいくらか働きを鈍らせていたらしい。たった一語が彼の声を上ずらせ、普段の倍ほどに増幅させた。
「あんなものは紳士の――いいえ、そうですね、大変ありがたいことです」
 幸い、正しく調教された精神はすぐさま機能を回復し、彼は再び淡々とした、理性の権化というべき声で話し始めた。彼の内面で何が起きていたのか、若者が気付いた気配はなかった。
「どうも失敬しまして。それはそうと話を戻しますが……リン酸塩についてもう少し」
「ああ、はいはい! どこまで話しましたっけ? 健康についてだったかな。まあ、あんまり気にすることはないんじゃないですかね。本当に体に悪いんだったら、何年も前に禁止されてるでしょう」
 酒みたいに、と言って若者は肩を竦めた。これ以上の有力な情報は得られそうもない。
「ミスター・ロスコーにもそう伝えてください。贔屓にしてくれるお客さんですから、怪しいものなんて出しませんよって」
「……はあ」
「そうだ、せっかくですし執事さんも一杯飲んでみますか? オレンジかレモンあたり。紅茶のシロップもありますけど――」
「結構でございます」
 彼は力を込めて断言した。こんなにも強く何かを拒否したのは久しぶりだという気がした。一方で、忙しい中わざわざ付き合わせてしまった若者のため、何かしらの飲料を注文すべきかもしれない、それが礼儀だろうという考えもあった。掲げられたメニューに目を向け、彼は考えた――リン酸塩ソーダについては、できるなら帰ってから自分で作って確かめたかった。
 と、ふいに暗色の目はある一点に吸い寄せられた。ミルクセーキから始まって、数種の「セーキ」が並んでいる列だ。なぜだかその一つに思い当たるところがあった。記憶していたのだ。自分はかつて確かに口にしたことがある。あれは――

「――チョコレート・コーヒー・セーキ?」
 あまりに自然に、少なくとも「リン酸塩ソーダ」よりは遥かにすんなりと、その名前は彼の口から流れ出した。若者がおやっという顔をして、カウンターから軽く身を乗り出した。
「いいえ、……そう、チョコレート・コーヒー・セーキを一杯。よろしいですか」
「もちろんですとも!」
 たちまち爆発せんばかりの笑みを湛え、若者は金属のシェイカーを取り出すと、片方の手にアイスクリーム用のスプーンを握った。またぞろ食べ物が無益に宙を舞うのではと彼は危惧したが、さすがにあれは子供向けのサービスだったらしく、恐れていた事態は起きなかった。たっぷりひと掬いのチョコレート・アイスクリーム、ミルク、それにコーヒー・シロップが、鮮烈なシェイカー捌きで一つの液体となり、背の高いグラスに注ぎ込まれた。クリームとシロップが頂上を飾り、紙のストローが添えられた。小さく礼を述べながら彼は受け取り、慎ましい一口を吸い上げた。
 そうして、身に余る冷たさと甘さが彼を一時に幻惑し――額にじいんと痺れが走り、思考がほんの一瞬ばかり鈍る感覚。ああ、確かに自分は口にしたことがある。名前を、そして品そのものを。

  * * *

 間違いなく夏の出来事だった。いわゆる「社交の季節」の只中、それも六月の半ばであるはずだ、プリンス・オブ・ウェールズ・ステークスの開催日だったから――ということまで彼は覚えている。
 彼はロンドンにいた。従者として、また執事として奉仕する侯爵一家の付き添いだ。その日、侯爵夫妻は共にアスコット競馬場へ向かう予定で、必然として彼にもお呼びがかかっていた。
 ところが、残された一家の若年者たち――なにしろ競馬とは「成熟した」紳士淑女の娯楽であるからして、アスコットのロイヤル・エンクロージャーに子供は入れないのだ――のうち、六歳になる令息が問題だった。子守女中ナースメイドに連れられて、姉たちと動物園を見物する、という計画に少年は猛反発した。動物園の何がお気に召さないのかについて、母親譲りの鉄石心をもって大いに語った。そしてこう主張したのだ。
「ぼくはウィギンズといっしょに行くんだ!」
 夫妻を仲立ちにした交渉は極めて難航したが、見かねた侯爵が助け舟を出したことによって、最終的に和平が成立した。その日限り、レナード・ウィギンズは侯爵ではなく侯爵令息の従者となって、ロンドン市街の物見遊山に付き合うと決まったのである。

 それから半日ばかり、小さな紳士とその従者はウエスト・エンドをほうぼう歩き回り(初め従者は馬車を雇うつもりでいたのだが、これも「主人」によって却下された)、最終的に一軒の店へとたどり着いた。彼の数歩前を行く少年が、大きなガラス窓を覗き込んで言った。
「ウィギンズ、ここはお菓子屋さんか?」
 少年の背があと一フィートも高ければ、頭上に掲げられた古めかしい看板と、そこに記された「調剤薬局」の文字を問題なく読めたはずである。ショーウインドウに並ぶ、装飾的な缶や背の高い色つき瓶の中身が、キャンディやビスケットではなく薬品であることを理解できただろう。生憎とそうはならなかった――彼が事実を述べるより先に、少年は重たい扉を体当たりするように開け、中に飛び込んでいた。
 果たせるかな、そこに子供を魅了する甘い香りは満ちていなかった。重厚な暗褐色の木材で構成された、恐らく一世紀は前の建築であろう店の内には、焦げたような煙たいような、また乾いた植物や埃っぽい土のような、癖のある臭いが籠もっていた。
「こちらは薬局でございます、若様」
 さすがに少年も、従者にそう言われるまでもなく、今いる場所が菓子店でないことに気付いたようだった。大きな灰色の瞳が揺れ、視線は真鍮の天秤や緑色のガラス瓶――つまり中身が有毒であることを示す――の間をうろうろした。
「若様がお求めの品は備えていないかと存じます。……いいえ、咳止めシロップと喉飴ぐらいなら置かれてあるかもしれませんが」
 目に見えてしゅんとした少年のため、彼は申し訳程度に言い足したものの、子供心を宥めるには明らかに力不足だった。小脳を全力で稼働させる必要が感じられた。近場に評判のいい菓子店、ないしパン屋がなかったか、ロンドン滞在時の記憶から懸命に探ろうとした。

 だが、実際のところその必要はなかったのだ。弱々しく右往左往していた少年の目が、ふっと店の一角に据えられた。続けざまに、
「あれは何だ、ウィギンズ?」
 と幼気な声が問う。細い指が示す先を、彼は暗色の目で追った。この発見で少しでも機嫌が直ればよいがと思いながら。
 少年が指していたのは、薬剤師と対話するカウンターの端だった。そこには何やら、金属で作られているらしい、二フィート四方ほどの箱が置かれているのだった。細かな彫金で飾られたその箱には、表面に幾つもの小さな蛇口が付けられている。
「ああ、――あれはソーダ水の機械でございます、若様」
「ソーダ水の?」 少年が目をぱちくりさせて彼を見上げた。
「はい、若様。かつて炭酸は健康によいとされ、医薬品として販売されていたのです。薬局に専用の機械があるのもその名残でございます」
「じゃあ、あそこからソーダが出てくるのか?」
 ちょうど店内にいた客のうち一人が、その機械に歩み寄るところだった。薬剤師からグラスを受け取って、小さな蛇口の一つをひねる。濃い茶色の液体が少量垂れ落ちる。続いて少し大きな蛇口を空けると、透明な液体――炭酸水が注ぎ込まれ、グラスの中で一つの飲料を作り上げる……
「もっとも、さすがに現代では薬用ではなく、清涼感を得るために利用する者のほうが多いかと存じますが。――若様?」
「ウィギンズ!」
 少年の目は今や、この店に入る前と同じほど輝いていた。 「ぼくも飲んでみたい!」
 これは彼も予期した通りの台詞だった。しかし了承するかはいくらか迷うところだ――街角の薬局で売られるソーダ、それも瓶詰めされた品ではなく、機械から出るものとなると、やや信頼性が怪しくなる。いやしくもメイフェア近くの店であるからには、口にも出せないような物質は混ざっていないと思いたいが、完全な信頼には足りない。
「冷たいお飲み物をご所望ですか、若様? であれば、一旦お屋敷にお戻りになって、ミセス・ギボンズにお命じなさいませ。レモネードでも、イチゴのコーディアルでも、お好みのままでございます」
 彼はとりあえずの代替案を提示したが、少年は頑として首を横に振った。さあ、こうなれば「信頼のおけるお抱え料理人に作らせる」という選択肢は、動物園行きと同様に亡き者と考えねばなるまい。未来の侯爵といえど、今は幼く、自身の望みに忠実なこの少年を、彼は決して無下にできなかった。自分が使用人だからというだけではなしに。
「ぼくは自分のためだけに言ってるんじゃないんだぞ、ウィギンズ! ――そろそろお前も休憩しなきゃいけないと思ってるんだ。だいぶ歩いてきたんだからな」
 等と理屈をつける少年に、彼は微かに苦笑を浮かべて頭を振った。
「お気遣いを賜りまことに恐縮でございます。ですが、どうかわたくしのことはお構いなく。フットマンであった時分など、一日に十数マイルも歩いた身でございますから」
 彼は言い、軽く背を屈めて少年に尋ねた。
「しかし、せっかくのシティ見物です、若様ばかりお疲れになってもいけません、――如何様な品をお求めになりますか?」
 彼が手を延べた先には無論、あの彫像めいた美しさの機械があった。ぱっと顔を上げるや、少年は水兵めいたシャツの襟を翻し、跳ねるようにその元へと駆け寄った。

 ずらり並んだ小さな蛇口の上には、それぞれ彫金の施された板が取り付けられている。「オレンジ」「レモン」「ジンジャー」といったお馴染みの名前から、機械が作られた当初は物珍しかっただろう「パイナップル」や「サルサパリラ」等……
 しかし少年の目を釘付けにしたのは、機械の脇に立てて置かれた一枚の額であった。そこには目を引く飾り文字でこう書かれていた――
「チョコレート・コーヒー・セーキ!?」
 少年が頓狂な声を出し、間髪容れずに彼の顔を見上げた。 「これだ、ウィギンズ!」
 通常のソーダが一ペンスであるのに対し、その奇抜な飲み物は実に六ペンスもの金を取るらしかった。フットマンだった時分の彼ならば、財布から出すのを躊躇っただろう額である。
「よろしゅうございます、――ですが、若様、どうかお願い申し上げます。くれぐれも、これを飲んだから保育室ナーサリーでのティーは必要ない、などと仰いませんよう」
 侯爵家の経費という有難みを噛み締めながら、彼は少年を顧みて言った。その真摯さに応えるように、
「約束する。そんなことを言うと、ギボンズや台所女中キッチンメイドたちがきっと悲しむものな」
 と稚い言葉が返ってきた。
 その間にも、薬剤師は背の高いグラスと柄の長いスプーンをカウンターの上に出し、飲み物の混交に取り掛かっていた。例の機械の蛇口をひねって、シェイカーに暗褐色のシロップを二種類ほど注ぎ込む。さらに、長方形の缶から小麦色の粉末も振り入れた。ラベルには「麦芽乳」とあった。
 最後に、言うまでもなく牛乳を――そして大きなスプーンに山盛りの凍ったクリームを(これを「アイスクリーム」と呼ぶことには、彼には少なからぬ抵抗があった)加え、薬剤師はシェイカーの蓋を締めると、勢いよく上下に振り始めた。時間にして、およそ二分間は振り続けていただろうか。なるほど、これが余剰五ペンス分の労力なのだ、と彼は納得した。
「どうぞ、チョコレート・コーヒー・セーキです」
 シェイカーからグラスに注ぎ込まれた液体は、クルミのような淡い茶色をしていた。大した愛想もない声と共にカウンターに上ったそれを、彼は目礼して受け取った。
「さあ若様、こちらに」
 待ち遠しさが膨らみに膨らみ、今にも両足が宙に浮きそうな少年を促して、彼は店のさらに奥、ちょうど柱の陰になる小卓へと導いた。加えて念には念を入れるつもりで、視線を二重に遮るような位置に控えることにした。仮にも侯爵家の令息が、街の薬局で冷たい飲み物を啜っている様などを、むざむざ衆目に晒したくはなかったのである。
 そんな胸中を察した様子もない少年は、手を貸してもらいながら丸椅子によじ登ると(なにしろ未だ四フィートにも届かない背丈なのである)、まずグラスに触れた時点で冷たさに声を上げ、一口めを飲み込むや否や、言葉にならない歓喜の音を漏らした。

「あまい」
 と、これが少年の第一声であった。 「すごく甘い、ウィギンズ! 冷たい!」
「それはよろしゅうございました」
「なんだか――ちょっとトーストみたいな味がするな。かりかりにしたやつだ。なのに冷たいし、甘いし、チョコレートだし……」
 感じている味に語彙が追いついていないのだろう、その口ぶりは普段よりずっと拙いものだった。彼は遮らぬよう注意して聞き入り、応答の適切な機を見計らうようにした。
「焼いた麦の風味がするのは、麦芽乳が入っているからでございましょう」
「麦芽乳って?」
「芽を出した大麦や小麦粉、牛乳などを用いて作り出した粉末でございます。健康にもよいとされております」
 彼は決して「健康によい」と断言はしなかった。第一に、いかなる食品であろうと、チョコレートが加わった時点でおよそ健康的にはならないものだ。
「ふうん、ぼくは飲んだことないぞ。ナーサリーでは牛乳かお茶ぐらいしか出ないもの。ジュリアは知らないのかな」
「知ってはおりましょう。お出ししないのは、若様が十分ご健康だからでございます。麦芽乳は乳幼児、ないし病人向けに作られたものですゆえに」
「なんだ、じゃあいつものぼくには必要ないんだな」
 スプーンで泡立つクリームを掬い取り、少年は目を細めてどこか得意げに笑った。
「ぼくは赤ちゃんじゃないし、病気だってしないから、冷たいコーヒーとチョコレートを飲むんだ……」
 満足そうな少年に、彼はあくまで平静を保ったまま頷き返した。それから少しばかり視線を外し、店内をゆっくりと見渡した。グラスに金属の柄が当たる、ちりんちりんと涼しげな音を聞きながら。
 こうして見れば、割合広々とした店である。壁一面を埋め尽くす薬瓶や、生薬の類が詰まっているのだろう無数の引き出し、カウンター上に鎮座する大きな乳鉢と乳棒などは、二十世紀という革新の時代にあってなお色褪せずに見えた。長い年月を感じさせる深い色合いの建材は、きちんと磨きがかけられて、曇りのない光を帯びている。薄暗い店内にあって、丸いランプに照らされた一つ一つが、あたかも魔法の道具かのようだ。
 ああ、ここには陰翳がある――幾多の匂いが混じり合う空気の中へ、彼は微かな溜息を漂わせた。薬局という、冷静に考えればあまり世話にはなりたくない場所でありながら、どういうわけか心が休まる。
 奇妙な感覚だった。実際のところ、医療にまつわる施設であるからには、床や壁には白いタイルなど張り、電燈をつけ、もっと明るく清潔にしているほうが客も安心するのだろうし、今後はそんな店が増えていくに違いないのだが、この店だけは次の百年でも変わらずにあってほしい、彼はそう思わずにいられなかった。昨今のシティの変貌ぶりを見る限り、どうにも望み薄かもしれないが……

 と、彼の視界の端で何かが動いた。続いて靴底が床を叩く音。
 彼が素早く顧みるのと、その傍らを少年が駆け抜けるのとは同時だった。小さな影はまっすぐにカウンターへと向かい、薬剤師の前で立ち止まると、礼儀正しく問いかけた――もう一杯くれませんか、と。
「おお、若様、そんなにも喉がお渇きでしたか? お命じくだされば――」
 わたくしが購ってまいりましたものを、と彼は言いかけた。もちろん、言うべきことなら他にもあった。紳士はいつでも歩くもので、あのように足音を立てて走るものではありませんよ、だとかいった、日来ナースメイドのジュリアが言い聞かせているような台詞が。
「ぼくが買いたかったんだよ、ウィギンズ」
「さようでございますか。……しかし、あまり冷たいものばかり召し上がるのもお体に悪うございます。後で若様がお腹を壊してしまっては、侯爵様からお咎めを受けるやもしれません」
 少年の父がそこまで厳格な人物でないことを理解した上で、彼は従者らしく謹言した。けれども少年は、何やら秘密めかして笑み、黙って首を横に振った。ちょうど薬剤師が二つめのグラスを置いたときだった。
 彼らは再び先程の席に戻った。少年が席につくのを手助けする動きも、その後の従者の立ち位置も、何から何まで同じだった。ところが、彼にとっては全く思いもよらないことに、少年は手にしたガラス器に口をつけなかった。顔を上げて傍らに立つ彼を見、続いて両手を延べた。
「これはウィギンズのぶんだ」

 自分の目が不規則に二度三度と瞬くのを、彼自身はっきりと感じた。当惑をこれ以上表情に出すまいと、努めて気を落ち着ける必要があった。
「いいえ、若様、それは……そのような――」
「いっしょに来てくれたの、すごく嬉しかったから。ウィギンズもいっしょに飲もう」
 見上げてくる大きな瞳に衒いなどは微塵もなく、だからこそ却って彼は気圧された。かしこまった立ち姿のまま小さく身動ぎし、この厚意を辞謝する言葉を懸命に考えた。使用人と主人が共に同じものを飲む――これほどまでに世の規範を逸した行いはない!
 無論、「階上」から下げられてきた、手つかずの料理や酒瓶を、使用人たちが後々に味わうことはある。飲食物を無駄にすることほど罪深いことはないからだ。それでも、飲食の場は上下ではっきりと分けられており、貴いものと賤しいものとは決して食卓を共にしない、それが最低限の規律というものだった。
「若様、わたくしは存じております――仰せの通り、わたくしどもはもう随分長いこと歩いてまいりました。さぞやお疲れでございましょう。どうぞ、もう一杯の甘い飲み物で元気をお付けくださいませ。夕暮れまではまだ暫くございますから」
「でも、冷たいものばっかりじゃ体に悪いんだろう?」
 当座を凌ぐため彼が発した言に、少年はあっさりと反論した。
「さようでございますが、しかしながら……」
「ウィギンズ、お前はぼくが後でお腹を壊してもいいのか? 父上に怒られても?」
「よもや――」
 彼の中では無数の声が渦巻き、指示や非難の言葉が飛び交っていた。それぞれは自分自身の声であったり、かつて仕えた主人の声、また彼を教育した上役の声であったりもした。召使いの飲み物など、帰ってから砂糖入りの茶を一杯やっておけばそれで十分だ――とか、こんな幼気な子供に気を遣わせるなど、しもべとして心がけがなっていないとか――あるいは、某侯爵家の子息は使用人と同じものを飲まされているらしい等と、無用の噂を立てられて、家名に傷がついたらどうするつもりだ、とか。
 先程よりも空気がずっと重たく、苦くなったように思われた。口の中が乾き、厭でも冷たい飲み物への欲が沸き起こる、それがますます彼の良識を苛んだ。
「……若様、わたくしの拝察しましたところが、どうやらあなた様のお心と食い違っておりましたようで。不明をお許しくださいませ」
 こうした急場を凌ぐための文句など、以前なら一分とかからず十も二十も思いついていたはずだ。相手の年齢など問題ではなかった。この侯爵家に仕えるようになってから、何かがおかしく、ぎこちなくなっている――我が子に向き合うときと変わらぬ真摯さで、下僕たちと対話する主人や、大親友でもできたかのように従者との外出を喜ぶ子息や、絶えず笑い声や鼻歌の響く使用人ホール、そうしたものに囲まれているうちに、長きに渡って作り上げた完璧さが、少しずつ自分のもとを離れてゆくのだった。
 彼はもう一度店内を見澄ました。十数分前とは異なり、彼らの他に客の姿はなかった。続いて、細かな露の降りたグラスに目をやった。唇は何事かを言わんとして震えたが、それよりも早く両手が動いてしまった。ひやりと濡れた感触が指に張り付いた。
「若様」 と、口がようやく意味のある言葉を紡ぎ出した。
「そのようなお気遣いは、わたくしなどには勿体のうございます。ですが、それを無下にするのは遥かに心苦しいもので、――本日限りのことでございますから、あなた様のお優しいお心を、謹んで頂戴したく存じます」
 彼の眼前で、灰色の瞳がきらっと光った。 「うん!」

 そうして慎ましく一口吸い上げた、その飲み物のなんと冷たく、なんと甘かったか!彼は決して歓声など上げずに、ただ感じ入っていた。コーヒー・セーキという割には、コーヒーらしき風味はほとんどなく、チョコレートシロップの強い甘みが常に舌を捉えていた。だが味そのものより、細かな氷の粒が喉を流れ落ちてゆく、清涼な感覚こそが心地よかった。
「おいしいだろう、ウィギンズ?」
「はい、若様」
 恐らく、この世にはもっと冷たく美味しい飲み物はあるのだろうが――例えば料理人のミセス・ギボンズであれば、同じ材料でも遥かに上等な品を拵えるのだろうが、今はこの一杯が何より有難かった。チョコレートといっても、実際は安価なココアを使っているはずだし、ミルクにしてもなんとなく乳の風味が薄いようだが、それでも自分には過ぎた贅沢だと思えた。使用人などはどんなに出世しても、甘い飲み物といえば砂糖の入った熱い茶、せいぜいボクシング・デイに果物入りのパンチを貰えるかどうか……
 だから彼は嘘偽りなしに、少年の問いかけに肯定で返したつもりだった。穏やかさをもって頷き、はっきりと口に出した。ところが、覗き込むような少年の目から、段々と笑みが薄らぎ始めたのである。
「……もしかして、おいしくなかったか?」
 声には気がかりが滲んでいるようだった。彼もまた、口ぶりに僅かな戸惑いが表れるのを止められなかった。
「いいえ、若様――美味しく頂戴しております。ただ、なにぶん……このようなものを飲み慣れておりませんので、少々驚きはいたしましたが」
「そうか? いやいや飲んでるんじゃないな? ぼく、すごくおいしいと思ったんだ、でもウィギンズは違ったかもしれないって」
 少年は不安げに何度も尋ねてきた。そのたび彼は穏やかに否定し、最後に問い返した。
「若様、わたくしの顔をご覧になって、不満足そうだと思われましたか」
 躊躇うような間があった。 「……うん」
「さようでございますか。――さようでございましょうとも。ですが、わたくしは生来こうした顔なのでございます。どうかお気遣いなきようお願い申し上げます」
 彼は微笑みを浮かべたつもりで述べた。実際は半ば嘘だった。自分がまだ少年と同じほどの年頃には、屈託ないとまではいかずとも、それなりに思うまま笑うことができたはずだった。初めて召し出された家でのティーで、上等なビスケットを齧ったときには、心から満足げな顔をしたと記憶している――その日までは。
「解った。でも、ウィギンズだけじゃないぞ。この間うちのパーティーに来た、よその家の使用人もそうだ。みんなちっとも笑わなかったし、楽しそうじゃなかった」
「はい、若様。貴い方々の御前に出るにあたっては、わたくしども使用人にも、同じく紳士の作法が必要とされますので……」
 答えながら、彼は少年の面差しに目を留め、考え込んだ。そうだとして、この若君は紳士と呼ばれるに値しないのかと。
 規範に照らせば、その通りだ。紳士は足音を立てて走ったりしないし、思ったことを一から十まで口に出したりなどしない。歯をむき出して笑うこともなければ、不安な時に不安げな素振りを見せることもない。使用人に手ずから飲み物を渡し、同じテーブルで飲むなど考えもしない――
「そうなのか? でも、うちのジュリアや……ダニエルやチャールズや、馬丁のジミーなんかは……」
 他方、少年は特に親しくしているのだろう使用人の名を挙げながら、何やら考え込んでいる様子だったが、やがて納得したように彼を見上げた。
「そうか、うん、そうだな。ウィギンズは父上の従者だから――『紳士に仕える紳士』だものな、特別なんだ!」
 皮肉や揶揄めいたものは少しもない、ただ称賛と憧憬が溢れ出すような眼差しだった。
「ウィギンズも小さいころから、そのための訓練をしてたんだろう? ぼくも、父上やお前みたいに立派な紳士になれるかなあ。ジュリアは心配ないって言うんだけど――」
 薄暗がりの中で銀の星のように煌めく瞳から、身を隠してしまいたくなるのを、彼は懸命に堪えた。答えを探すまでに、彼はグラスの中身を三度ばかり口にした。少しでも冷たく澄んだ思考を取り戻すため、それとも、暖かな視線に融かされてしまわぬよう、できるだけ身体を冷え切らせてしまいたかったのかもしれない。
「ジュリアは正しいことを申しているかと存じます、若様。これからも侯爵様のような、立派な紳士をお手本になさいませ。さすれば何の心配も必要ないことでしょう」
「ウィギンズは?」
 わたくしを紳士の勘定に入れてはなりませんよ――口をつきかけた台詞を甘い氷と共に呑み下し、彼は静かに頭を振った。自分がこれほど規範を求めてしまうのは、つまるところまことの紳士ではない、賤しい生まれを装いと作法とで包み隠す必要があるからなのだろう――さもなければ、生まれながらに貴い身分の少年とは、こうして口を利くことも許されないはずなのだ。

 対して少年は、ちょっと不思議そうな顔をしただけで、やはり敬意に満ちた目を彼に向けるのであった。空になったグラスを見、すっかり安堵したような笑みを溢しもした。
「元気になったか、ウィギンズ?」
「はい、若様。ご厚意のお陰様でございます」
 彼は頷き、もう少しだけはっきりと笑いかけてみようとした。彼なりの努力と献身のつもりであった。
「さあ、そろそろお暇したほうがようございましょう。次はわたくしをどちらへお連れくださいますか?」
 勘定のために財布を取り出しながら、彼は慇懃に尋ねた。
「そうだなあ――ウィギンズはどこへ行きたい? 今度こそお菓子屋さんか?」
「若様の仰せであれば、どこへなりとお供いたしましょう」
「本当か? じゃあ、行ってみたいところがあるんだ! 父上がロンドンに来ると、必ず背広を仕立てるっていう店があって――」
 この輝かしい、希望に満ちた笑みに比べれば、自分のそれを「笑顔」と呼べるかは疑わしい――彼は思ったが、やがてまた小さく頷いた。これからも努力を続けてみる甲斐はあるかもしれない。少なくともこの「若様」の前でだけは……

  * * * 

「――執事さん? ちょっと、もしもし?」
 その刹那、遠い夏の日の残光は掻き消え、彼の意識は眩い電飾のもとに引き戻された。視界に入る客たちの姿はあらかた入れ替わっている。眼前でソーダ・ジャークの若者が、怪訝そうに彼の顔を覗き込んでいた。
「ああ、……いいえ、失敬。少しばかり頭がぼうっとして」
「暑気あたりじゃないんですか? ここまで歩いてきたわけですよね。いくらそうする決まりだからって、そんな暑そうな格好じゃ無理もないですよ」
 若者はまた肩を竦めた。 「もう一杯いかがです?」
「結構でございます。――最後にもう一つ伺いたいのですが、そのリン酸塩というのは、誰でも買えるものなのでしょうか。ソーダ事業者でも化学者でもない者が」
「買えると思いますよ? 買ったことないですけど、たぶん重曹や酒石酸なんかと同じ扱いなんじゃないですかね。同じ通りの薬局で売ってるのは見ました」
 そうですか、と彼は淡白に答え、さらに礼の言葉を付け加えた。続けざまに、黒一色のウエストコートから財布を取り出した。メニューによればチョコレート・コーヒー・セーキは一杯十五セントだったが、彼は静かに一ドル貨をカウンターに乗せた。若者が目を瞬き、次いで今日一番の笑みを彼に向けた。

 そうして明るく清潔な、しかし光り輝いてはいない、馴染みの台所に彼が戻ったのはティーの時刻も迫る頃だった。といっても主人はディナーまで帰ってこないので、手の込んだ菓子やサンドイッチの支度は必要ない。使用人部屋で留守番をしていた見習いの少年のため、熱い紅茶を淹れ、クランペットを二枚温めてやってから、彼は自身の聖域で決心を固め直した。
 彼には未だ、あのリン酸塩ソーダというものが(そして「リン酸塩フラッペ」が)、紳士の召し上がり物であるとは到底思われなかった。パイナップルの缶詰やマカロニ・アンド・チーズと同じようなものだ。しかしながら、遠大な規範に囚われた末、次から次へと食卓から様々な皿を排除することが正しいことだとも、もはや思われなくなっていた。
 そうだ、自分は使用人なのだ――あの若主人の従者、「紳士に仕える紳士」なのだ。肉と卵とチーズしか入っていないホット・サンドイッチだろうが、コーヒーに浸すためだけのドーナツだろうが、主人が強く望むなら(なにしろ赤鉛筆で下線つきだ)、必ず作り上げてみせる。
 呼吸を落ち着けた後、彼は卓上に例の書物を置き、その隣にメモを置いた。薬局から九十五セントで購ってきた茶色い小瓶が、おもむろにそれらと並び立った。

 予定より少し遅れた午後七時半過ぎに、壮麗なるアパートメントの主は戻ってきた。目にも眩しい白色のスラックスに鳥打ち帽ハンチングという、紳士が屋外でスポーツを楽しむのに格好の装いは、同時にその顔をより幼く見せてもいた。寄宿舎学校で乗馬クラブに所属する男子生徒、という趣があった。
「ああ、ウィギンズ、ぼくはもうだめだ」
 開口一番、若い紳士はよろめきながら従者にそう告げた。
「これでもう五連敗だぞ、信じられるか――信じたくない! ぼくがパーシーのやつに五回続けて負けてるんだ! ただの医者の三男坊がそんなにテニスが上手いなんてことあるか、ウィギンズ!?」
 それは実業家の長男坊も同じではございませんか、という台詞はもちろん口にせず、彼はただ同情するように頭を振った。
「一セットマッチのところ、三セットにまで引き伸ばしたんだ。それでも無理だった。なあウィギンズ、敗者を憐れに思うなら、何か心の癒えるものをくれないか、今すぐ」
「よもや憐れなどとは存じませんが」 彼は静かに言葉を続けた。
「ディナーの準備は整っております。ただし、その前にお召し替えをいただかなくては」
「今すぐは取り消した」 主人の目に光が戻った。 「着替える。手伝ってくれ」

 苦い敗北の空気を払拭するにあたって、七コースからなる晩餐はてきめんに効いた。素晴らしい雉の卵に始まり、トマトを用いた冷たいスープ、庭で穫れた瑞々しい野菜をたっぷり添えたヒラメのワイン蒸しを経て、最高に柔らかくしっとりしたタラゴン風味の鶏むね肉に至るころには、若紳士の脳裏から悪友の存在は煙のように消え失せ、ただ幸福感だけが胸を満たしているようだった。
 主人が肉を切り分け終えると、給仕兼料理人はすぐさま台所へ引っ込んだ。とうとう時が訪れたのだ。彼は必要な品をあらかた卓上に並べ、万が一にも冷蔵庫の電源が落ちてはいないかと確認し、問題なく稼働していたので安堵し、深呼吸した。そして何事もなかったように食堂へ戻った。主人は今晩だけで何度目になるかしれない――数えてはいなかったが、二十回は下らないはずの――感嘆の息を漏らしていた。
「ぼくは常々不思議に思っているんだがな、ウィギンズ、どうしてうまい肉というのはあっという間に消えて失くなってしまうんだろう?」
 という、哲学的な問いを発しさえした。彼は考える素振りを見せてから答えた。
「後に控えるコースが待ち切れない方々のために、ではございますまいか」
「違いないね」
 声から察するに、この答えは主人のお気に召したようだった。 「持ってきてくれ」

 台所との往復に要した時間は実に五分であった。曇り一つない銀の丸盆に、脚付きのグラスとスプーン、小さなシロップ入れを載せて、彼は再び食卓へ舞い戻った。主人が軽く身を乗り出す。
「良いじゃあないか、ソルベ――いや、フラッペか! 夏らしいな!」
 彼はうやうやしく頷き、高い背を屈めて主人に盆を差し出した。
「ちょうどご所望かと存じましたので」
「えっ?」
「ご親切にも下線付きでお勧めを頂いたかと記憶しておりますが」
 この言葉に、主人は目をぱちくりさせたかと思えば、やや照れたように軽く笑った。
「あのメモか! 挟んだままだったんだな、すっかり忘れてた。……ということは、もしかしなくてもこれ、リ――」
「旦那様」
 長く憧れていたおもちゃの箱を、クリスマスの朝に見つけてしまった子供のようだ――そう思わせる主人の声を、しかし彼は遮った。その声色であの名前を呼ばれることだけは、どうしても受け入れ難かったのである。
「ああ、すまん、喋ってる場合じゃあないな! こういうのは素早さが肝心だ」
 幸いかな、主人の関心はすぐに名前ではなく氷菓そのものへと戻ってきた。彼は気を落ち着け直し、シロップを手に取る。本来の給仕法では、味付けは食べる側が自身の好みに応じてするものだ。けれど今夜は違う――ソーダ・ファウンテンの流儀に従うのだ。
 細い流れとなって落ちてゆく、琥珀色の輝きの糸を前にして、若紳士は心奪われたように息を吐いた。器に丸く盛られた氷がたちまち色付き、夏の夕暮れにも似た彩りを見せる。
「きれいだなあ、ウィギンズ……飾り気がないのも却っていいもんだな。子供のころは、本当にただのソーダなんかが憧れだったもんだ」
 ダークブルーの目が細められ、削っただけの氷に愛おしむような視線を注ぐ。胸の内では、幼少のみぎりの思い出が次々に蘇っているのだろう。
「十数年前の流行であったとは存じております。現代はより凝ったもの、贅沢なものが好まれる傾向なのでしょう」
「確かにな、今のソーダ・ファウンテンの『スペシャル』といえばサンデーだ。でも、たまには懐かしいものが欲しくなったりするものさ」
 今年で二十三歳となる紳士の声に頷きながら、彼は仕上げた氷菓をそっと差し出した。少年のような笑顔と共に、背広を着た両手がすぐさま伸びてきた。

「あ、これ――」
 作り手が予期していたのは歓声だったが、実際に上がったのはいくらか趣の異なる声だった。何か思い当たった、しかし確信は持てないという、驚きと曖昧さを帯びた響き。
「シロップ、お前が作ったんだろう?」
「勿論でございます」
「オレンジだよな、でも果汁そのままじゃあない。何かこう……とっても甘いんだが、苦味が効いてて、まるで皮ごと齧ってるみたいだ」
 自らの言葉をもって味わいを読み解こうとする様は、初めて目にする数式に取り組む生徒のようでもあった。
「それに、少し木……いや、樽みたいな香りがする。これって――これは何だ?」
「さように深いご高察をいただけるとは、まことに光栄でございます」
 みるみるうちに減っていくグラスの中身を一瞥し、彼は再び主人の顔をまっすぐ見た。今の自分は光栄そうな顔をしているだろうか、と思いながら。
「ご高察なんてのは言いすぎだろう。ただ迷子になってるだけだ」
「さようでございますか」
「さようだ。ぼくには解らん、ウィギンズ。降参だ!」
 顔の横に両手を掲げ――片手にはスプーンを握ったままだ――降伏の意を示す主人に、彼は穏やかな目を向けた。数学の試験であれば諦めが早すぎると言えるだろうが、問題が氷菓となると、これぐらい潔いほうが良いのかもしれない。
「よろしゅうございます。旦那様のお考えは、実のところかなり正答に近うございます。わたくしが用いましたのは、まずママレードでございました」
「ママレード?」 碧眼が丸く見開かれる。 「あの、トーストに塗る?」
「はい、旦那様。食品棚にママレードは複数種ございますが、中でもしっかりと苦味のある、セヴィル種のオレンジで作ったものを」
 主人は尚もぽかんとしていたが、理解の試みを止めたわけではないようだった。
「なるほど、ママレード……言われてみれば確かにママレードだ。煮詰めただけ甘みが強くて、皮の苦味もちゃんと残ってる」
 そこで、はっとしたように顔を上げた。 「そうか、じゃあ樽は……」
「お解りいただけましたでしょうか」
「解ったぞ、ウィギンズ! コニャック――いや違う、ウイスキーだ! 前に飲んだぞ、こんな香りのするスコッチを!」
「まことにご高察の通りでございます、旦那様」 彼は頷いた。 「以前お下げくださいました一本でございます。深みのある樽の香りと、柑橘の風味が見事でございました。オレンジの花の蜂蜜に似た味さえ感じられました――ご恩返しができましたようで、幸いに存じます」
「恩返しだなんて――」
 主人は何かしら反論したかったらしい、片手にスプーンを握りしめ、もう片方の手で器を示したが、そこではたと言葉を止めた。
 器は空っぽだった。

「……無くなっちゃったじゃあないか、ウィギンズ」
「さようでございますね」
「もっと言いたいことがあったのに! どうすればこんなに細かく氷を削れるんだとか、そのママレードは明日の朝食にも出してくれるのかとか、あとは……」
 行き場を失った銀の匙で、意味もなく空中に円を描きながら、主人はぶつぶつと言葉を連ねる。かと思えば彼のほうに目を据えて言うのだ。
「そもそも、よく手に入ったな? まさか雑貨屋じゃあ売ってないだろう、リ――」
「わたくしも入手法は存じませんでしたので」
 その言葉を彼はまた遮った。 「詳しい筋を当たりました」
「詳しい筋だって?」
「はい、旦那様。『サイモンズ』のソーダ・ジャークより、飲み物一杯と少々の心付けでもって聞き出した次第でございます」
 主人はぽかっと口を開け、器と彼の顔とを交互に見比べていたが、やがて、
「お前が? 自分から?」
 と尋ねてきた。にわかには信じがたいらしかった。
「はい、旦那様」
「わざわざソーダ・ファウンテンに? ぼくにこれを出すために? この……」
「旦那様」
 遮り続けるのもそろそろ限界だった。そもそも主人の声に割り込むこと自体、本来は大変な無礼である。この辺りで手を打つ必要があった。
「書物、ないし実地で見聞してまいりましたところ、ソーダ・ファウンテンにおける嗜好品は、実に様々な名で呼ばれているようでございます。『サイモンズ』でも、例えば『黒い牛』や『焼き尽くせ』等を耳にいたしました」
「ああ! 確かにそうだな、『黒い牛』はルートビアフロートだ。『焼き尽くせ』は、チョコレート・アイスクリーム入りの麦芽ミルク」
 主人はあっさりと方向転換に応じ、現場における知識をさらりと披露した。それからやにわ声を潜め、
「ただし、西48丁目の『ルーカス&サンズ薬局』では、同じ名前でウイスキー・ソーダが出てくるけど」
 という後ろ暗い符丁も付け加えた。
「どちらにせよ、新たなメニューが生まれれば、従って新たな名前も生まれるということになりましょう。わたくしが本日お作りしたこちらのフラッペも、書籍を参考にこそいたしましたが、やはり新しき創造物でございます」
「まあ、そうだろう。シロップがオリジナルなんだから。大体、『お好みのシロップを』しか書いてなかったしな、あの本には」
「さようでございましょう。――そこで、ひとつあなた様にお願い申し上げたいことがございます、旦那様」
 彼はかしこまって述べた。これ以上言わずとも、きっと察してはもらえるだろうとは思いながら、淡々として言葉を続けた。
「わたくしのフラッペに何か、ふさわしい名前をお授けくださるわけにはまいりませんでしょうか。召し上がる旦那様だけでなく、お作りするわたくしにも喜ばしい名を」

 いかがでございましょう、という台詞は指を鳴らす音と見事に重なった。
「そう来ると思ったぞ、ウィギンズ! もちろん受けて立――違うな、承ろうじゃあないか。せっかく作ってくれたんだ、とっておきの名前を付けなくちゃあな!」
 ああ、かく宣う主人の笑顔ときたら! 人間はここまで喜びと誇らしさを漲らせることができるのか、と感心するほどだった。傍から眺めている彼ですら、ゆっくりと口角を上げてしまうぐらいには。
「何がいいかな、さすがに『ウィギンズ・スペシャル』じゃあ芸がなさすぎるよな? 『ママレード・なんとか』も安直だな。色でいうなら――『なんとか・サンセット』か。そう、『サンセット』は悪くないな……」
 そこで彼はふと、手にした盆に映る自分の顔を窺い見た。鏡のごとく磨き上げられた銀の円盤には、やはり妙に侘びしさの漂う『笑顔』があるばかりだった。何の感情も出さずにいるほうが、まだいくらか自然に見えるという気がした。
「お心を尽くしていただき恐縮の至りでございます、旦那様。ですが、そう急いていただかなくともようございます。ディナーもまだ終わってはございませんゆえに」
 だから彼は、再び謹厳実直を絵に描いたような顔つきに戻って、声色だけは柔らかく主人に告げた。眉間に皺寄せて考え込んでいた若紳士が、はっと顔を上げて彼を見た。
「あっ――そういえばこれ、『お食後』じゃあなくて『お口直し』だったな! すまんウィギンズ、あんまり満足で」
「これでお終いにいたしましょうか」
「まさか! ぼくの胃袋を甘く見るなよ。学校にいたころは、寄宿舎の夕食が終わった後で、部屋に戻ってこっそりイワシの缶詰を食べてたような男だぞ」
「さようでございますか、……よもや、現在でも同じことをなさっておいでだなどとは仰いませんね、旦那様?」
 微かな疑いをもって、彼は主人の顔をまじまじと見つめた。返ってきたのは、
「それはまあ、今後のお前次第ってことになるんじゃあないのか、ウィギンズ」
 という、些かの虚勢を帯びた言葉だった。
 彼は溜息を静かに飲み込み、空になった器を盆へと引き取った。なるほど主人の言う通り、若い胃袋をどれだけ満たしてやれるかは、自分の心がけ次第なのだ。
「素晴らしいあばら肉アントルコートの用意がございます。ご満足いただけるものと確信しております。その後にあなた様お気に入りのウォルドルフ風サラダを。チーズは食べ頃のものが五種、デザートには黄桃のコンポートを予定しております」
 従者と違い、主人の内心は顔を見れば一目瞭然だった。そこに感服の意があった。

 後のコースも全ては予定通りに粛々と進んだ。もとい、従者にとっては粛々と、主人にとっては騒然と進んだ。柔らかく煮込まれた旬の桃を口に運ぶたび、主人はうっとりと目を細めるのだった。
「そうだ、ウィギンズ」 そんな中、ふと思い出したように主人が彼の名を呼んだ。
「なんでございましょう」
「お前、さっき確か……『サイモンズ』で飲み物を一杯とかなんとか言ってなかったか」
「確かに申しました」
 主人はやおら神妙な顔になり、卓上に身を乗り出した。 「何を飲んだんだ?」
「チョコレート・コーヒー・セーキでございます」
「チョコレート・コーヒー・セーキを?」
 特別隠し立てするようなことでもないと思ったので、彼は事実を率直に述べたのだが、これは主人にとって極めて困難な想像だったようである。真意を推し量るかのごとく、彼の目やら口元やらを代わる代わる眺めた後で、
「で、美味かったか?」 と尋ねてきた。
 彼は少しの間だけ、言葉を選ぶように沈黙した。そしておもむろに答えた。
「金輪際口にするまいと決意いたしました」

 一拍置いて、主人が大変にわざとらしい咳払いをした。思わず吹き出しかけたのを、なんとかごまかしたつもりらしかった。
「そうだな、まあ、お前の口に合いそうな味じゃあないよな、あれは――」
 軽やかな笑いの混じる声を、彼は何も言わずただ聞いていた。
 実のところ、主人の言は的外れであった。米国のソーダ文化に全く馴染みのない人間からしても、「サイモンズ」のチョコレート・コーヒー・セーキは上物だった。
 だからこそ彼は、もう二度とは飲まないと決めたのである。的確に調整された味わいは、あの日ロンドンの薬局で幼い紳士と共にした、六ペンスの冷たい飲み物の印象を、容易に薄れさせかねないものがあった。飲めば飲むほどその力は記憶に作用し、いつか完全に塗り替えてしまうことだろう。
 それだけは受け入れ難かった――重たくも優しい陰翳の中にあった、鈍く光るグラスと安っぽいシロップの味、向かい合って座った少年の笑顔だけは、古めかしい室内の趣と共に、心の中で決して変わらないと思いたいのだ。たとえ実際には、思い出に確かさなど期待できるものではなく、氷のようにいつか溶け崩れてしまうのだとしても……
 彼はもう一度盆に目を落とし、そこに従者として適切な表情があるのを確かめた。顔を上げ、主人のグラスに甘いシェリー酒を継ぎ足した。

inserted by FC2 system