伝えるべきこと、口から出かかっていた台詞、その全てが一時に消え去った。


来たる日を待ちながら -Tea For Three-

 お皿のしたくができました――たった一言すら、少年の喉から出てくることはない。どうやら言葉たちは眼前の光景に圧倒され、すごすご身を引くことに決めたらしかった。それで、居間から台所に戻ってきた少年は、調理台の前で動きを止め、緑色の目を丸く見開いて、ただ一点を凝視することになったのだ。
 今しも台所の主が、金属の型にパレットナイフを差し入れて、中身を取り出すところだった。銀器の上に現れたのは、ぎっしりと身を寄せ合った、鮮やかな宝石細工――否、本当のところは果物のゼリー寄せだったのだが、少年にはそうとしか思われなかった。貴い女性の寝室には、必ず鍵のついた宝石箱があり、その蓋を開いて見えるものがこれなのだ、と彼には感じられた。使用人の身では決して直に見ることの叶わない、子供の空想であった。

「ナサニエル」
 憧れと幻想の中にあった彼は、その一言ではっと現実に引き戻された。顔を上げれば、背広のかわりに黒いエプロンを着けた壮年の従者が、ナイフを置いて彼を見据えていた。
「私に何か言うことがあるように見えますが」
「はっ、はい、すみません、ミスター・ウィギンズ。お皿を全部並べてきました」
「よろしい。もう部屋に下がって構いません。直に旦那様もお見えになるでしょうから、くれぐれも廊下で遊んだりはしないように」
「はい、ミスター・ウィギンズ」
 彼はそう返事こそしたものの、目はやはり台上の素晴らしいデザートに釘付けだった。真紅に色づいた大粒のイチゴ、愛らしいビーズ細工のようなラズベリー、柔らかな色のマスカット、白い肌に頬紅をさしたような彩りの桃……
 これほど多種多様な果物を、一体どこから集めてきたのだろう? 彼にとって新鮮な果物などというものは、それこそ宝石と同じぐらいに縁のないものだった。まだ母親が生きていた時分、クリスマスの贈り物に生のオレンジを貰ったときには、ひっくり返るほど驚いたものだ。それがここマンハッタンの壮麗なアパートメントでは、牛乳と同じほど頻繁に食卓に上る――もちろん「主人の」食卓に、だが。
「ナサニエル、部屋に戻りなさい。もう手伝ってもらうことはありません」
 上役から再度の勧告を受け、彼はようやく我に返って頭を振った。
「あの、わたし、そんなに長いこと見てましたか」
「あなたの視線でゼラチンが溶けるかというほどには」
 溜息と共に従者は言い足した。 「これをお持ちしたら、我々もティーにしますよ」

  * * *

 主人が使う居間や食堂とは違い、使用人部屋には洒落た壁紙など張られていないし、重厚なマホガニー材の調度もなければ、花模様の柔らかな絨毯もない。可能な限り良く言えば「質実剛健」な空間において唯一の彩りといえば、従者が使う木蔦模様のカップぐらいだろう。
 そのカップに、従者は地味な焼物のティーポットから濃い紅茶を注ぎ、続いて少年にも――こちらの器は模様なしの白い陶器である――同じだけ注いでくれた。卓の上には平たく焦げ茶色をした、「飾り気」のかの字も見当たらない焼き菓子が一種類だけ。  沈黙のうちに小さな祈りが捧げられ、待ちわびていた瞬間が訪れる。普段と変わらぬ謹厳な顔つきのまま、従者が口を開くのだ。
「食べてよろしい」
 彼はすかさず菓子皿に手を伸ばす。二インチ四方に切り分けられたそれは、好意的にいうなら「スポンジケーキ」なのだろう。主人の食卓に上るものと違って、クリームやアイシングや、散りばめられたチョコレート、旬のベリーを誇らしげに見せびらかしていないだけで。
 聞くところによれば、これはヨークシャー――つまり彼の生まれ故郷――の郷土菓子、モギー・ケーキというそうだ。彼には全く馴染みのないものだったけれど。
 口に入れると、ふんわりとした生地が軽やかにほどけるのに合わせて、ぴりっとした生姜の香りが立ち上る。それに続いて、うっとりするような濃厚な甘みが舌に絡みつく。風味が消えないうちに紅茶を一口――ミルクの柔らかさと茶葉の渋みが、甘さと見事に溶け合って、世にも美しい夢を見せてくれる。
 スポンジケーキは卵を泡立てることによって膨らませるというけれど、その玉子の泡よりずっと儚く消えてしまう菓子だった。もちろん彼は急ぎもう一切れを手に取るのだ。
 この焦げ茶色は黒砂糖と黒糖蜜によるものだと従者から聞いた。そのおかげで生地がしっとり仕上がり、さらに寝かせればより味が濃く、歯触りもねっとりするのだという。一週間以上、時には二週間、粘り気が出るほどに寝かせたほうが「通好み」だとも(「もっとも私は寝かせすぎないことを心がけています――使用人にのんびり歯磨きをしている時間などありませんからね」)。 「あの、おじさん」
 彼は菓子皿から目を離し、向かいに座っている従者に声をかけた。筋張った大きな手がカップを傾けるのを止め、暗褐色の瞳はすぐに彼を見返した。
「ミスター・ウィギンズと呼ぶように」
「はあい、ミスター・ウィギンズ。……今日のお菓子も、とってもおいしいです」
 一日の仕事を終えるまで砕けた呼び名を決して許さない、年嵩の親類に彼は伝える。こうして話しかけられるから、彼はティーの時間が大好きなのだった。朝食時は話などしているどころではない忙しさだし、昼食の席では一切の会話が許可されない。そして夕食のときには大抵、従者にはまだ片付けるべき仕事が山積していて、使用人部屋に戻ってくることができないのだ。もちろんティーすら一緒に楽しめないことも多々あるけれども。
「そうですか、……それは良かった。あまり作ったことがないものですから」
 硬い口ぶりと平静そのものの眼差し、落ち着き払った態度の全てが、この壮年の男がまだ職務の最中にいることを示していた。少なくとも主人が起きて自宅にいるうちは、決して気を緩める素振りなど見せない、それが従者というものなのだ――紳士に仕える紳士のありかたなのだ。
「ミスター・ウィギンズが作るお菓子、大好きなんです。一番好きです。いつでもいい香りがするし、紅茶がとってもおいしくなるし、それにお腹がいっぱいになるから」
 彼が精一杯に言葉を並べて、素直な称賛を表しても、従者の顔はしかつめらしく淡白なままだ。感情を顕にするなど、成熟した紳士にふさわしい振る舞いではない、とでも言わんばかりに。
「ナサニエル、それは過言というものですよ。料理に関しては、私はあくまで素人です。――ロスコー家ほどの立場であれば、本当はもっと腕のよい料理人を雇うこともできると思うのですがね」
 呟きと共に、従者はまた濃い紅茶を一口飲んだ。音一つ立てずに受け皿へとカップを戻し、それからふと、何か思うところでもあるかのように彼を見た。
「な、なんでしょう、ミスター・ウィギンズ」
「いいえ」
 どぎまぎする彼の気を落ち着けるように、ゆっくりと頭を振って従者は続ける。
「本職でないとはいえ、決して劣らぬようにと心して作っているには違いありません。……ありがとう、ナサニエル」
 綻んだとまでは言えない、けれどもほんの僅かに端の持ち上がった口元から、そんな言葉がこぼれ落ちる。彼は目をぱちぱち瞬き、次いで締まりのない笑みを顔いっぱいに広げた。
「はい! あの、だから旦那さまも、ミスター・ウィギンズのお料理をたくさんお褒めになるんだと思います。それだけ心を込めていることが、旦那さまはお解りなんです」
「そうであればと願いたいものですが」
 絶対にそうです――彼は小さな体を質素な卓に乗り出し、勢い込んで断言しかけた。しかし、言い終えた従者の面持ちを見るや、言葉はまたしても意気をなくして喉の奥へ引っ込んでいってしまった。そこにあったのは、卓の上でぴたりと重ね合わされた手、感情を何も表していない眉と、微かに引き下げられた薄い瞼、その下からどこか遠く、あるいは深くを覗き込むような暗色の瞳だった。彼のことなど視界の端にも捉えていないことは明らかだ。もしかすると今の主人のことさえ、意識の外に追いやっているかもしれない。
「――まあ、大旦那様の気が変わらないことを願ったほうが、いくらか実りがあるかもしれませんね。私を雇っているのはそちらですから」
「あ、……あの、はい」
 幸い、どこか現在を離れたような従者の態度は長く続かなかった。独言ともつかない言葉に彼は頷いたが、先に言わんとしていた台詞を取り戻すことはできなかった。視点の置き所に迷い、彼はいたずらに卓上の静物たちをあれこれと見回した。
「もう一杯欲しいのならそう言いなさい、ナサニエル。まだ残っていますから」
 最後に目が留まったのはティーポットで、それゆえ従者も察したように言葉を掛けてきた。彼は黙って頷き、空になったカップを差し出した。
 ぽってりとした茶器から注ぎ込まれる、濃い色の液体の流れを眺めてしばし、ふっと彼の脳裏に浮かぶことがあった。一礼と共にカップを引き取ってから、彼は意を決して口を開いた。

「ミスター・ウィギンズ、さっき旦那さまのお茶の準備をしていたとき、ちょっと気になったことがあるんです」
「言ってみなさい」
「旦那さまがお使いになる銀のポットです。その……なんだか少し小さいですよね? わたしは、ティーポットってもっと大きいものだと思っていて」
「あれは一人用なのですよ、ナサニエル。『独身者のバチェラーティーポット』と呼ばれています。旦那様のように独りでお茶を嗜まれる方にはちょうどの大きさですからね」
 なるほど、と彼は頷いてみせる。でも本当のところをいえば、主人のポットのことは本題ではないのだった。これは単なる話のきっかけだ。
「じゃあ、わたしたちが使っているこのポットは、二人用なんですか」
 尋ねると、従者は少しばかり片眉を上げた。どうして今更そんなことを訊くのだろう、とでも言うように。
「明確に『二人用』ということはないと思いますがね。恐らく――一人が何杯飲むかによるでしょうが、まあ四人分までは同時に淹れられるでしょう」
 答え終わってから、従者は何かに気付いたらしく、やおら居住まいを正して彼の目を見据えた。彼はどきりとして身を引いた。
「ナサニエル」
 彼に向けられていたのは、全てを見透かしたような視線だった。子供じみた冗談や、ごまかしの類をあっさり打ち消してしまうような。
「いくらポットに余裕があるからといって、旦那様が我々とティーを共になさることはありえませんよ」
 静かな断言の後、駄目押しのように声が足された。 「絶対に」

 それで彼は、何も言い返さずに紅茶をごくりと飲み、深い茶色の菓子をもう一切れ取って咀嚼し始めた。やはり従者には何もかもお見通しだったのだ――眼前の端正な姿をじっと見返してみたが、その内側にあるものを読み取ることはできなかった。使用人であることを強調するような、黒一色の地味な三つ揃えが、胸の奥底を強固に鎖す鎧に見えた。
 その代わりというわけではないが、彼には確かに希望の光も見えていた。先日のこと、従者が外出している間に、彼は他ならぬ若主人の口から、こんな言葉を聞いていたのだ。
 ――これは正直なところなんだが、ぼくはどんな立場の人だって、みんな一つのテーブルを囲む権利があると思ってるよ。

 あの言葉は偽りだろうか。階級の上下というものの解らぬ子供が相手だからと、ただ何となく好さそうに聞こえることを言っただけだろうか。
 いや、きっと違う。一フィートも背丈の違う自分と目線を合わせ、共に温かい紅茶と従者の焼いたクランペットを分かち合い、暖炉でマシュマロを焼いてくれた、心優しい紳士の心に嘘があるとは、彼にはとても信じられなかった。夏になったら三人で一緒にキャンプに行こうとも言っていたっけ――そんな予定が持ち上がらないところを見ると、従者の説得には今のところ失敗しているのだろうが。
 そうだ、他の家々ではどうか知れないけれど、この家の「旦那さま」は使用人たちを同じ席につかせてくれる。美味しいお茶と、心の込もったお菓子と、日ごとの楽しみについてのとりとめのない話を、価値あるものと素直に思ってくれるに違いない。それを許さないものがあるとしたら……
 その時、はっとしたように従者が身動ぎした。少しの間を置いた後、音もなく椅子を引いて立ち上がった。
「ミスター・ウィギンズ?」
「旦那様がお見えだ、――あの量で足りなかったと思いたくはないのですが」
 低い声が呟く間にも、使用人部屋の外からは足音が聞こえ始めていた。従者は姿見に素早く全身を映し、どこにも遺漏がないことを確かめると、急いたところの少しもない足取りで廊下へ出た。

「ああ、ウィギンズ! 休憩中に悪かった。ちょっと頼みが」
「はい、旦那様。紅茶であれ菓子であれ、何なりとお命じくださいませ」
「なんだ、ぼくがおかわりを貰いにきたように見えたのか? ……うん、まあ、たまにそういうこともあるかもしれないが」
「よもや。わたくしはただ、己に不調法がなかったかと案じるばかりでございます」
 大人たちが交わす言葉に耳を傾けながら、彼はもう居ても立ってもいられなかった。主人の日常生活に大きく貢献し、常に不足のないよう心がけているにも関わらず、御前にあってはどこまでも謙る従者の言葉がもどかしかった。
「旦那さま!」
 だから彼は、廊下へ顔を出しざま声を上げたのだ。二人の紳士が同時に彼を顧みて、めいめいに違う表情を浮かべた。
「ナサニエル――」
 先に反応したのは従者のほうだった。無用な口を利くなと言いたいのだろう、咎めるように顰められた眉が見える。けれども、実際にそう述べるよりは、
「あの、旦那さま、今日のお菓子はおいしかったですか?」
 彼のほうが一寸早かった。従者の脇から乗り出すようにして、精一杯に主張した彼の言葉を、主人は決して無視しなかった。
「ああ、とても美味しかったぞ、ナサニエル。やっぱり茶菓子はウィギンズに任せるに越したことはないね。いつも食べてるそのままの果物より瑞々しいんじゃあないかってぐらいだった。それにゼリーもちょっと何か……梨のワインかな、いい香りがして」
 今しがたまで自分が味わっていた茶果について、若い紳士は活き活きと、言葉の端々に幸福と満足を滲ませながら語った。それだけではない、眼前の少年に対して身を屈め、
「君たちもお茶をしてたんだろう? 何を食べたんだい」
 と尋ねてきた。これこそは彼が待ち望んでいた台詞だった。
「はいっ、『モギー・ケーキ』です! ミスター・ウィギンズが焼いてくださいました」
「モギー・ケーキ? 聞いたことないな。どういうものなんだい?」
 惹かれたように前のめりになる主人に対して、彼もまた勇気を振り絞り、従者の圧力に構わず口を開いた。
「黒砂糖と黒いシロップと、生姜で作ったケーキなんです。とっても甘くて、いい香りがするんですよ。あの、もし良かったら、旦那さまも」
 従者はすぐさま口を挟みたいのを堪え、沈着冷静な面持ちを保とうとしているように見えた。主人が即座に答えないのを見て、やっと薄い唇が動いた。
「いいえ、あのようなものは――」
 だが、言葉の連なりは途中でうやむやになった。真横から見上げてくる子供の目は、きっと従者には何の問題でもなかったろう。ところが真正面にもう一対、明らかな熱を帯びたダークブルーの瞳――こと食べ物にかけては並々ならぬ意欲を持つ、主人の切望するような視線があれば話は別だ。部下と主人の板挟み、等と言えばいかにも大屋敷の執事が胃病持ちになる原因めいているが、逆に部下と主人による遠交近攻など、二十年あまりの奉公歴にもあったかどうか疑わしい。
 もしや本当にいけない頼みだったのかと危惧するほど、逡巡を思わせる間は長かった。

「……よろしゅうございます」
 果たして、ついに耳に入ってきたのは彼が、もとい彼らが待ち望んでいた台詞だった。歓声を上げたくなるのをぐっと堪えて、彼は主人のほうへちらりと目をやった。小さな目配せが返ってきた。
「しかしながら、それには多少なりともご辛抱をいただかなければなりません、旦那様」
「辛抱だって? 作るのに時間が掛かるのか?」
「はい、旦那様。生地が実際に焼き上がってから、食べ頃までには少なくとも一週間、最上の味わいに至るまでには二週間ばかりを――」
にしゅうかん・・・・・・?」
 先程までの困惑など無かったかのような従者の口調に対し、主人が上げた声ときたら実に頓狂だった。情けなささえ滲んでいた。
「そんな、二週間だって――お前、この間出たブランデーケーキだって、確か貯蔵棚で二日寝かせただけだったろう!?」
「本来ならば二年もの熟成にも耐えうる品でございますが。ともあれモギー・ケーキは簡単に行かないのです、旦那様。平均的な白カビのチーズならば四週間でも十分であるところ、ミモレットがそれではお話にならないのと同じでございます」
 む、と呻き声一つ残して主人は沈黙した。少年は予期せぬ出来事にうろたえつつあり、しかし辛うじて考える力はあった。恐らく従者の目論見はこうだ――二週間という遠大な待ち時間を提示することにより、そこまで気が長くもない若主人は早々に諦めるか、あるいは受け入れたとしても、待っている間に存在自体を忘れ去ってしまうだろう、と。そうして「最上の味わい」に仕上がったモギー・ケーキは、何の問題もなく使用人部屋のテーブルに上るか、顔なじみのメッセンジャー・ボーイあたりに下げ渡されるというわけだ。
 その主人はといえば、多少なりとまごつきはしたようだったが、紳士らしい威厳をもって胸を張り、従者の主張にこう返した。
「ようし――良いだろう! 二週間でも三週間でも待ってやろうじゃあないか。ぼくはこれでも主人としてそれなりに悠長な人間のつもりだ。ああ、そうとも、辛抱したぶん味が良くなるんなら上等だ。ポルト酒の熟成を待つのに比べたら軽いものさ」
「さようでございますか」
「さようだ。だから最高のやつを焼いてくれよ! お前ならできるはずだもんな!」
「仰せのままに」
 捨て台詞じみて命じ去ってゆく主人に、従者がうやうやしく美しい一礼を向けた。

「ナサニエル」
 紺の背広を翻す姿が、廊下の中途でギャラリーへと消えたころ、従者はようやく顔を上げ、ただ静かに少年の名を呼んだ。彼はとっさに背筋を伸ばし、両手を背中で組んで上役の顔を窺った。
「はい、あの、ミスター・ウィギンズ」
「縮こまらずともよろしい。なにも叱り飛ばそうというわけではないのです。しかし、何を思ってあのような……」
 表情からは何も読み取れなかった。一方、声は先程よりもずっと厳粛だった。どこか沈痛ですらあった。
「それは、……お許しもないのに旦那さまとお話ししたことは、本当にごめんなさい。でも、旦那さまならきっと、ミスター・ウィギンズの作ったお菓子はみんな食べた――召し上がりたいだろうと思ったんです。モギー・ケーキがとてもおいしいってことが、解ってもらえたらと思っただけなんです。本当に、……」
 無用な言い訳にしかならないことを承知で、彼はなるべく単刀直入に、考えたところを伝えようとした。従者は口を挟むことなく聞いていた。彼が言葉を途絶えさせるまで、眉一つ動かそうともしなかった。
「……良く解りました。旦那様のお心を慮るあまりの行いならば、仕方のない面もあるでしょう」
 ようやく発された言葉は、すっかり冷たくなっていた彼の背筋を温めるに十分だった。彼は安堵の息をついた――そして次の瞬間には、幾分早まりすぎたことを知った。
「その上で、これだけは言っておきますが」
 全身が硬くなるのを彼は感じた。冷厳な牽制は、子供の心をあまりに鋭く捉えていた。
「あなたが自分自身を使用人であると考えるなら、旦那様と同席しようなどと考えてはなりません。良いですね」
「……はい、ミスター・ウィギンズ」
「結構です。もう戻ってよろしい。まだお茶もお菓子も途中でしょう」
 いくらか意気をなくした彼を、従者はただ促し、視線で使用人部屋を示した。
「ミスター・ウィギンズは?」
「台所へ」
 答える一言はいつも通りにひんやりとして、磨き上げられた銀器のように響いた。が、そこで彼は見たのだ――従者の口元が、ずいぶんぎこちなくではあるけれども、確かに笑みを作り上げようとしているのを。
「二週間もご辛抱なさると仰ったのですから、その期限より余計にお待たせするなど、使用人としてあってはならないことでしょう」
 彼は口をぽかっと開けて、その変化を見守った。そして聞いた。
「あの、それって――」
「モギー・ケーキを焼くのですよ。あの皿に盛った分は、どうも今日を生き延びそうにないですからね」
 今度こそ、歓声は何者にも妨げられずに彼の口を出た。 「はい!」

 質素な皿に積み上がった茶色の焼き菓子は、前よりも遥かに誇らしげに見えた。先刻は片田舎の道端に見られる土くれだったものが、今や大屋敷の一角を作り上げる上等の煉瓦に生まれ変わったようだった。彼は一切れ手に取り、空想してみた。二週間後には、これがどんな素敵なものに変わるのだろう?
 もちろん、今のままでもモギー・ケーキはとても素敵なものだ。従者が焼いてくれた、思いやりの溢れるおやつだ。でも、それが長い時間の後で紳士のテーブルに上るとき、一体何が起きるのだろうか。決して自分で見ることは叶わない、幻のような光景だろうけれど……

 否、決して叶わない、とは限らない。そもそもこの菓子が主人の口に入ること自体、本当ならありえないことだったはずだ。従者が言いかけた台詞の続きは、彼にも察しがついている。「あのようなものは」――「紳士の召し上がりものではない」のだ。だが従者は考えをほんの少しだけ曲げて、主人との間に約束を成立させた。
 それならいつか、この荘重なアパートメントのどこかで、主人と使用人たちとが共に一つの卓を囲み、それぞれの好きなものを分かち合う日が来たとしてもおかしくない。いや、きっとやって来るはずだ。焼き菓子一つを居間のティー・テーブルに上げるより、遥かに長い時間が掛かるのは間違いないけれども。
 でも、まずは目の前のことから始めていかなければ。希望の光を見失うまいと、彼はしっかり前を向き、菓子を美味しく頬張った。それから自分自身へこう言い聞かせた。――もし旦那さまがお忘れになっていたら、ぼくがちゃんと教えて差し上げなくっちゃ。「旦那さま、そろそろミスター・ウィギンズのモギー・ケーキが食べごろですよ!」

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