青えんどうの色をしたインクを乗せて、ペン先は滑らかに紙の上を走った。


その青さゆえ -Still in His Salad Days-

 ヘンリー・ロスコーには、自分の字について特別美しいとか雑だとか、あれこれ感想を抱いた経験はあまりなかった。だが、今ここに綴られている字は間違いなく楽しそうだった。心地よい音楽に合わせて踊り回るダンサー、あるいは、おもちゃの車やそりを引いて駆けてゆく子供たち――そんな趣だ。
 それもこれも、書き手たる自分が楽しんでいるからに間違いない。どうしてこんなに心がわくわくするのだろう、料理のレシピを書き写すときというのは! 即興の鼻歌を奏でながら、彼は開いた書物と用箋の間に視線を走らせ、また満足げに笑みを漏らす。この上なく幸福な夏の午後だった。書斎を一歩出た先の室温を忘れ去っている限りは。
 残念ながら、彼が外界の一切合切を忘れ去ることは不可能だった。ちょうど書物のページを一つめくった瞬間、背後から扉をノックする音がしたからだ。
 相手が誰だか考える必要はなかった。彼は手を止めて顧みた。 「入ってくれ!」

「お寛ぎのところを失礼いたします、旦那様」
 彼の眼前で音もなく扉が開き、黒い三つ揃えを着た壮年の従者が、夏の暑さをまるで感じさせない、ひんやりとした静かな声で呼びかけた。続いて、書庫の空気と溶け合うように滑らかに、彼の元へと進み出てくる。
「書き物の最中でいらっしゃいましたか。これは大変に不躾な真似をいたしまして」
「いや、良いんだ。むしろ最適なタイミングとも言えるんじゃあないか」
「と仰いますのは?」
 緩やかに首を傾げる従者に、彼は手招いて卓上の書物を示した。
「新しい料理本を買ったんだ。今ちょうど気になるレシピを書き出していたところでな。見ろ、こんなに『サラダ』の項目がある――現代的だと思わないか、ウィギンズ?」

 従者は招きに応じて数歩踏み込んできたが、身をかがめて用箋に綴られた主人の字を見ると、すぐにまた元の立ち位置へと戻った。そして、
「大変よろしゅうございますね」
 と、熱意を感じさせない声を出した。
「お前のほうではあんまりよろしくなさそうだな」
「よもや」
「考えてもみろ、ウィギンズ、うちには新鮮で味のいい野菜がたくさんあるんだぞ? 出処も栽培方法もはっきりしたやつがな――お前とナサニエルが作った野菜だ。それを最高の状態で味わうなら、生食に越したことはないんじゃあないか?」
 彼はあくまで従者の手腕を讃えながら説いた。そうするのが適切だと判断したからだが、眼前にある男の顔は薄明るくもならなかった。
「いや、なに、生野菜といったって、庭から抜いてきたそのままをばりばり齧ろうって魂胆はないぞ。ぼくはそこまで野生的な男じゃあない」
「さようでこざいましょうとも」
「安心しろ、この本は題材のみに留まらず、調理法の点でも実に現代的だ」
「と仰いますのは……」
「ゼラチンを使うんだよ!」
 言いながら、彼が両手で突き出してみせた書物を、従者はまたも深い淵のような目で一瞥した。その顔つきはいよいよもって訝しげだった。
「旦那様――」
「つまりだな、いかに新鮮な野菜であれ、調理の過程でどうしても瑞々しさは失われるわけだ。ゼラチンがあれば水分は保たれる、だろう? 見た目もぐっと華やかになる。それになんといっても今風じゃあないか。この間お前が作ってくれたフルーツゼリー、あの野菜版が生まれるとしたら最高じゃあないか?」
「……は、さようで」 従者は珍しく相槌に迷ったようだった。 
「その節はお褒めにあずかり光栄でございました。その上で恐れながら申し上げますが、生野菜のゼリー寄せというのは……」
「コースの一品にあったら洒落てると思うんだがな、ウィギンズ。そう、ちょうど今月の末にうちでちょっとした集まりがあるだろう。そこで披露するっていうのもいい」
煮凝りアスピックではご都合が悪うございますか、旦那様?」
 低く落ち着いていながらも、懇願の意を隠しきれていない声で従者が聞いた。
「あれは肉料理だろう? いや、野菜も少しは入ってるが、少なくともサラダではないじゃあないか。ぼくが求めているのはサラダなんだよ。あとゼラチン」
「旦那様、人生にはそれほどまでに生野菜とゼラチンが必要なものでしょうか」
「必要だ! 二十世紀の合衆国に生まれた男の人生だぞ。そりゃあもう、溢れる生命の彩りに満ちているべき――とまでは言わないが、必要なものはぼく自身で決めるものさ」
 新時代の若者らしい雄風凛々たる態度で、彼はかく宣言した。本当のところを言えば、彼はぎりぎり十九世紀の人間であるのだが、そこは見て見ぬ振りをした。
「……さようでございますか」
「さようだ。ところで、お前はぼくに何か用があったんじゃあないのか?」
「はい、旦那様。本日のディナーについて、ご予定の変更があればと伺いました」
 いつになく物憂げな様子だった従者が、そこでやっと平時の淡々とした物言いを取り戻した。その手が銀の盆に乗せて差し出したメモを、彼は受け取ってつくづくと眺めた。

 前菜オードブル  … 卵の詰め物 カレー風味
 汁物ポタージュ  … コンソメ・ア・ラ・レーヌ
 魚料理ポワッソン … 夏鯖のグリル 青いグーズベリーのソース
 肉料理ヴィアンド … ローストポークのパイ包み
 お食後デセール  … サクランボのトライフル

 ただの書き付けとは思えない、このまま晩餐会の卓上に飾り付けたいほど整った文字だった。単語ごとの間隔や全体のバランスまでもが完璧に仕上げられている。我が国の栄えある初代大統領だって、独立宣言にサインしたときを除けば、もう少し乱雑な字を書いていただろうと思える水茎の跡だ。
「前に打ち合わせたとおりだな」
 たまらず感嘆の息を漏らし、彼は頷いてみせた。
「よろしゅうございますか」
「ああ。ただ、今のぼくの気分で言うと、例えばこう……肉料理の後にもう一品ぐらい、何か冷製の皿が出てきてもいいんじゃあないかと思うんだがなあ、なにしろ夏だし……」
 言いながら、彼はちらと従者のほうを窺ってみたが、そこにあったのは彫像のごとく微動だにしない、使用人の服を着た理知と規律の化身だった。
「いや、まあ、思うだけだ! 急に予定を変えられちゃあ、お前は大迷惑するだろう。この通りやってくれ。楽しみにしてる」
「ご期待に背かぬよう、あい努める所存でございます」
「頼んだぞ、ウィギンズ! ああ、一通り写し終わったらお前にも貸すからな!」
 従者は何か物言いたげに彼の顔を見たが、やがて慎み深い一礼と共に去っていった。何を言いたかったのか、彼も薄々感じ取っていた。――「結構でございます」。

 午後八時、正餐は予定通りに何の問題もなく執り行われた。何もかもメニューの通り、前菜から肉料理まで完璧に。どころか、肉料理の後には彼の言った「冷製の皿」までも運ばれてきた――ただし彼が期待したサラダではなかった。琥珀色を帯びたゼリーの中、牛か豚と思しき角切りの肉や、茹でた青豆、ピクルス、ハーブ類、うずらの卵などが、南方のモザイク壁画もかくやという緻密な彩りで詰め込まれている。
「これは」 皿を運んできた従者に彼は言った。 「アスピックだな?」
「はい、旦那様」
「その……ぼくが言いたかったのはだなあ、ウィギンズ――」
「なんでございましょう」
「もう少し青々とした……こう、歯触りがしゃきっとしていて……」
 彼の言葉はどんどん尻すぼみになっていった。全き平然とした面持ちで、銀のソース入れを差し出したまま不動の従者を前に、身振り手振りを交えつつ不満を述べることの困難さときたらなかった。まるで自分自身が聞き分けのない子供になったような、かつ、それを無言のうちに非難されているような――
「いや、良い、なんでもない!」
 やけ混じりに声を上げ、彼は白いソースの入った器を掴んだ。
「このソースは何だ、ウィギンズ?」
「サワークリームを元にしたドレッシングでございます。山ワサビを少々効かせました。マヨネーズは用いておりませんので、お肉をよりさっぱりと召し上がれるかと」
「そいつは結構なことだなあ!」
 長々とした息が漏れた。 「本当に結構な腕前だよ、お前ときたら!」

 特製ソースと共に食べるアスピックは実に美味しいものだったし、そこは彼も素直に称賛した。翌日のディナーには、従者は正しく「サラダ」を出してくれた――カニの身を用いた西海岸風の「クラブ・ア・ラ・ルイーズ」だ。茹でたカニ肉の塩加減は絶妙で、レタスとタマネギは瑞々しく軽やかな歯触り、さらに青唐辛子が入ったドレッシングのぴりっとした刺激ときたら――ああ、ランチであればこの一皿だけでも満足できたかもしれない。だが、そこにゼラチンは影も形もなかった。
 明らかに従者は、「生野菜とゼラチン」という組み合わせに強い忌避感を示している。いつぞやの「コーヒーとドーナツ」と同じく、保守的な従者の中で、この二者は「紳士の召し上がりものではない」のかもしれない。
 書斎で例の料理書と向き合いながら、彼は唸った。無論、彼は主人という立場だから、命じさえすればゼラチン・サラダを従者に作らせることはできる。が、無理強いだけはしたくなかった。強権を振るって作らせた料理など、食べたところで満足はできそうもない。
 だが、諦めきれない――そうなれば取るべき行動は一つだ。書き写したレシピの束を手に、彼はゆっくりと頷いた。なに、そこまで深刻に考えなくてもいいのだ。要するに自分で作ればいいだけなのだから。

 その週末、従者とその親類である使用人見習いの少年は、定例の半休を取ることになっていた。共にブロンクスの植物園を見物するという二人を、彼は笑顔で送り出した。そして扉が静かに閉じるなり、颯爽と自らの外出を準備し始めた。
 一時間後、信頼のおける近傍の食料品店で買い求めたものが、台所の調理台にずらりと整列した。眩い白熱灯の光を浴び、どれもみな誇らしげに煌めいている。
 主役となるのはもちろん生野菜――キャベツ、キュウリ、タマネギ、それに赤と橙のパプリカ。詰め物をしたオリーブに、丸々としたラディッシュもある。それから缶詰のツナ。これはレシピにブランドまで指定されていた。従者であれば、この「缶詰」という存在に極めて控えめな(主人の前でなければ、もしかするとあからさまな)渋面をしたかもしれないが、これも時世時節だ。便利なものは使うに越したことはない。
 そして最後に、もう一つの主役のお出ましである。ああ、ゼラチン! かつてヨーロッパでは、ゼリーを作るのに獣肉の骨やら、魚の浮袋を煮出していたそうだが、今や粉末状の「ジェロ」一袋で全てが完結する。これぞ科学技術の勝利、輝かしき二十世紀の象徴だ。彼は清々しい気分で卓上に箱を置いた。上着を脱ぎ、シャツの腕をまくり、懐中時計を確認する。昼食を作り始めるには少し早いが、ゼラチンを冷やし固める時間を思えば、そろそろ始めたほうがよさそうだ。
 彼は改めて一枚のレシピを見た。今日の指南役だ。調理手順は簡明だった――まず、具となる材料を切る。キャベツは千切り、キュウリとラディッシュは薄い輪切り、タマネギとパプリカは細かな角切りに。オリーブは詰め物の色合いを見せるため半分にカットし、ツナは適度な大きさにほぐす。ここまでは何の問題もない。従者がやってくる前まで、彼は自分の食事を自ら用意していたのだ。仲間うちではちょっとした評判だった。
 世の人々はいう――男は焼いた肉を食べるものであって、野菜やゼリーなどは女子供の食べ物だと。だが、それがどうした? 今は二十世紀なのだ。女性が酒を飲み、タバコを吸い、独りでステーキ・ハウスに出入りする時代である。大の男がジェロ・サラダを愛好したって何の文句もあるまい。彼は持論に満足を覚えながら、次の工程に取り掛かった。

 お次はゼラチンの出番だ。冷たい水にレモン味の「ジェロ」粉末を入れ、完全に溶けるまでよくかき混ぜる。透き通った黄色の液体が出来上がったら、分量どおりに調味料を加えて味付けし、また青色の着色料を少々入れる――結果としてゼリー液は鮮やかなエメラルド色になるというわけだ。ゼリー液の準備が整えば、あとは先程刻んだ材料と合わせ、任意の型に流し込むだけである。
 しかし、ここに至って彼は手を止めた。さながらゼラチンのごとく凪いで澄み切っていた彼の心に、幾許の淀みが生じたのだ。
 そう、本に記載されていた絵図によれば、流行の最先端をゆくこのサラダの仕上がりは、澄んだ緑色のゼリーの中、色とりどりの具材が浮かび、あたかも熱帯魚たちが泳ぐ南洋のサンゴ礁のごとき美観を呈するはずだった。ところが、ゼラチン溶液と野菜たちを混ぜ合わせたボウルの中は、お世辞にも食欲をそそるとは言えず、また芸術として受け取るにも難しい――青みがかった緑をした、やや粘度の高い液体に、赤や黄色の断片が絡め取られている、といった様だった。どこかの粗忽者がクリスマス飾りを片付ける途中で手を滑らせ、掃除用のバケツにぶちまけてしまったかのような雰囲気があった。あくまでも露悪的に言えばだが。
 それで彼は鼻歌をやめて黙り込み、ボウルからそっと目を反らした。そしてレシピを注視した。分量から調理手順まで、全て記載通りに作ったはずだ。写し間違いということもない。元の書物を持ち出して該当の箇所を確認したが、やはり一字一句誤りはない。
 彼は知っている――レシピに自分なりの「改良点」が見つかったとして、安易に実行するのは過ちのもとであると。確かな知識と計算に基づき、専門の料理人が書き上げた完璧な調和に、半可通の感覚でもって歯向かうのは危ういはずだ。
 新しい匙を取り出し、彼はゼリー液を少し掬って味を見た。どうも甘みが強いように思われた。だが、考えてみればこれは冷やす前なのだ。一般に飲食物は冷やすと甘さを感じにくくなる。「甘さ控えめの」アイスクリームを作るのに、実際どれほどの砂糖が必要か彼は知っている。これも完成してしまえば、食材を引き立てる程度に落ち着くのだろう、と納得できる。
 それよりも気がかりなのはレモンの風味だった。レシピにレモンの実物は用いられていない。新鮮な柑橘類を入手することは、時期によって、また家計の慎ましさの程度によっては難しい場合もある。元から味付けのされたゼラチン粉末なら、一年中どこでも(そこがカンザスの大平原のど真ん中でもない限りは)手に入るし、値段も良心的だ。家庭のよき味方となるべきレシピと言えるだろう。
 けれどもこの「レモン風味」はどうもらしくない、と彼には思えた。舌の肥え太った金持ちの傲慢というわけでなしに、どうにも何か――喩えるなら「柑橘」というよりも「クエン酸塩」と表現したくなるような、悪臭防止のために香りづけされた台所用洗剤というような、あまり活き活きとはしていない味が……
 貯蔵庫から本物のレモンを持ってきて絞り汁を加えるべきか、彼は数分に渡って悩み続けた。それでも最終的には何も足さずに、リング型に流し込んで冷蔵庫へ収めた。
 主観的には著しく長い一時間を、彼は書斎で落ち着きなく過ごした。正午過ぎに取り出されたゼラチンは問題なく凝固しており、あとは取り出して皿に盛り付けるばかりとなっていた。
 この一時間で彼の不安は頂点に達していた。何かが間違っている気がしてならない。これが自分にとって満足いく昼食となり得るのか、全く自信が持てないのだ。とはいえ、このまま立ち尽くしていても仕方がない。夏の室温でゼラチンが融解していくばかりだ。彼は意を決して型を手にし、丸皿の上に被せて引き上げた。
 目が合った。

 彼は恐怖とも喫驚ともつかない叫びを上げ、空になった型を放り出した。ブリキの型はどこかの棚にぶつかって頓狂な音を立てたが、彼にはその行方を気にしているどころではなかった。胸郭の中で跳ね回る心臓を、なんとか宥めるほうが先立った。
 数十秒かけて落ち着きを取り戻してみると、もちろんそこに目玉などなかった。型の底面、すなわちゼリーの最上部に、半切りのオリーブが断面を上にして固まっていたのだった――充血した無数の瞳に凝視されているような光景一つで、彼の食欲はどこかに吹き飛んだ。
 乗り越えるべき視覚的障壁はそれだけではなかった。冷やす前は辛うじて鮮やかさを持っていたゼリー部分は、今や完全に濁り、色褪せて、流れを失った真夏の側溝を思い起こさせる風体と化していた。最大限好意的に見て海に喩えるとしても、帆船が次々に難破するというサルガッソーの粘りつく海という様相だった。合間にぼんやりと覗いた具材たちは、控えめに言って漂流物であった。
 この海難を前にして、彼はとにかく何にでも取りすがる必要を感じていた。単体ではどうしても「美味しそう」という言葉に近づけないこのゼリーを、どうにか救うために。そこで彼は逃げるように階上へと向かい、テラスで真夏の太陽を浴びていたレタス類を徴発し、再び階段を駆け下りてきた。爽やかな緑や紫を帯びたそれらを、皿に横たわるゼリーの周りに彩りよく飾り付けた。さらにリングの中央にも茂らせた。
 試みは成功したとは言い難かった。難破した船を囲んで嘆きの声を上げる生存者の図が誕生しただけだ。彼を絶望させるには十分だった。
 書物には「マヨネーズでデコレーションしてもよい」云々とあったが、彼が無視したのは言うまでもない。彼は大皿を冷蔵庫に押し込んで、重たい扉を厳かに閉じ、力なくもたれ掛かった。胸中には相反する二つの叫びが木霊していた。早く帰ってきてくれ、ウィギンズ――いや、あともう一週間ぐらい帰ってこないでくれ、ウィギンズ!

  * * *

 刻限を守ることにかけては、壮年の従者は極めて正確な人物だった。アパートメントの裏口は午後四時きっかりに開き、束の間の休暇を終えた二人の召使いが、それぞれの歩幅で入ってきた。
「こちらにおいででしたか、旦那様」
 従者が彼の元にやってくるまでには少々の時間を要した。音もなく台所の扉が開いて、盛夏とは思えぬ背広姿の男が姿を現したとき、彼はもう少しで飛び上がるところだった。その後ろから、片手に麦藁帽を抱えた少年が入ってきたおかげで、なんとか主人らしい威厳を保つことに注力できたが。
「ああ、お帰り、二人とも」
「只今戻りました。ご不便をお掛けしましたこと、まことに申し訳がございません」
「あのなあ、半休ひとつにそんな申し訳のない思いをしてちゃあ切りがないだろう、ウィギンズ。労働者の正当な権利なんだぞ。働きに対して少なすぎるぐらいだ」
 残念ながら、努力に反して声は些か上ずっていた。彼はごまかすように視点を動かし、軽く屈み込んで少年のほうを窺った。緑色の澄んだ大きな双眸が、きらっと光って彼を仰ぎ見た。
「なあ、ナサニエル。――植物園は楽しかったかい?」
「はい、旦那さま! すごく広くて、全部回るのにあと一週間はかかりそうでした。とっても立派な温室を見たんです。それと、川には滝があって、大きな森もあって……あっ、それから『サンデー』っていうものを食べたんですよ!」
 目の当たりにするもの全てが輝いて見えたのだろう、少年の熱意に満ちた眼差しは、彼の心をひととき和ませた。ブロンクス行きを勧めてよかったと心から思えた。しかし、背後にあるものを知っている身では、それ以上楽観的になることは不可能だった。
「そうか、そいつは良かった。ぼくも安心したよ」
「ナサニエルにはまたとない機会をいただきまして、心より有難う存じます、旦那様。幸甚の至りでございます」
 片足を後ろに引いて、従者がうやうやしく一礼する。少年もそれを真似るようにして口を開いたが、上役の言葉を一字一句復唱するのは難しかったらしく、
「こうじ……、あの、ええと、――ありがとうございました、旦那さま!」
 たどたどしい試行の後で、ごく単簡な謝辞と勢いのある礼を向けた。彼には最大限の努力でもって笑い返し、
「さあ、帰ってきたばかりだからまだ疲れてるだろう。もう少し休憩していてもいいぞ」
 と、寛大さを示すのがやっとだった。

 主人の言葉と従者の促しによって、少年は着替えるために自室へと戻っていった。が、従者自身はその場から退かなかった。どの面から見ても使用人らしい直立不動の体勢を保ち、暗褐色の目で彼を見据えていた。
「その、お前も」 彼はぎこちなく言った。 「お前にも言ったんだからな、さっきのは」
 やはり立ち姿を変えぬまま、従者は緩やかに首を横に振った。次いでその唇を出たのは、彼にとって恐れながらも切望していた言葉だった。
「何かわたくしにお命じになりたいことがおありかと存じまして」
 頬のあたりが引きつるのを感じながら、彼はそれでも笑みを保っていた。一旦時間を置きたかったのだが、そうもいかないようだ。
「わたくしが拝察しますに、そちらの冷蔵――」
「いや、待てウィギンズ、みなまで言うな! 全部説明する。ぼくの口からするべきだ。だからその……命じることがあるとすれば、心の準備をしておけ、というような……」
 従者は眉一つ動かさなかった。 「万端整っております」
「本当だな? ぼくは信じてるからな? お前は結構な心臓の持ち主だって――ああ、お前が卒倒したらぼくのせいだ、ウィギンズ!」
 時間稼ぎも限界だった。彼は悲壮な決意をもって、冷蔵庫の扉に手を掛けた。

 引き出されてきた冥界の輪を目の当たりにした瞬間、従者がよろめいた。少なくとも彼にはそう見えた。顔つきは沈着冷静なままだったので、もしかすると気のせいだったかもしれない。どちらにせよ、しかつめらしい表情がゆらりと傾ぐさまは相当に衝撃的だった。本当に卒倒するのではないかと彼は思った。
「ウィギンズ」
 絞り出した声は情けなく掠れていた。だが主人としての責任は果たさねばならない。
「この通りだ、――ぼくが馬鹿だった、ウィギンズ! 全面的にお前の言った通りだ、これがその証明だ。生野菜と――ゼラチンだ!」
 おどろおどろしい暗緑色の輪に生じた、一インチほどの欠けを指差して彼は叫んだ。それは従者が戻るまでの間、彼がなけなしの勇気を振り絞って味見(ないし、毒味)をした痕だった。
「一体全体どこのどいつなんだ、青緑色のレモン味ゼリーとツナとマヨネーズを一緒に食べればみんなハッピーになると考えたのは!? こんなものはアルコールなんかより先に法で規制されて然るべきだ!」
「さようでございますか」
「さようだ!」
 いかに従者が強固な自制心の持ち主とはいえ、時々は顔色を変えることを彼は知っていた。時には得意げになり、また時には物憂げにもなる。そうして今の従者を眺めるに、「物憂げ」等という生易しい言葉では到底足りない翳りが、その面持ちには差していた。喪に服しているようにしか見えなかった。
「笑ってくれ、ウィギンズ。全てぼくのせいだ。知恵と才能を欠いた男の末路だ」
「さようでございましょうか。――数多の色彩が並び立ち、微妙な変化に富んだ、……印象派絵画のごとき創作物とお見受けしますが」
「よせ、ウィギンズ」 彼は頭を振った。
「お前は新古典主義の歴史画のほうが好みなんだろうが、その言い方はいくらなんでも印象派の画家たちに失礼だ。こういうのはとっ散らかっているというんだ」
「まことにとっ散らかっておりますね」 従者は諾々と彼の言を受け入れた。
「見た目だけじゃあないぞ。味もとっ散らかってる。野菜とツナとクエン酸の味が全部別々にするんだ。ぼくは『調和』という概念のない世界を創造してしまったらしい」
 彼の顔だけはまっすぐに前を向いていたが、それは決して思考の前向きさを示してはいなかった。単にオリーブと目を合わせたくなかっただけである。できることならもう二度と視界に入れたくなかった――同時に、自らに逃げ出すことを許したくもなかった。

 と、そこで従者がとうとう動いた。喪服として問題なく着用可能な黒衣を纏う男は、物言わず大皿に覆いをかけて持ち上げた。埋葬式で棺を担ぎ上げる瞬間が思い出される荘重さだった。
「ああ、ウィギンズ、待ってくれ」
 彼は引き止め、皿の行き先を理解した上で尋ねた。 「どうする気だ?」
「このまま召し上がるわけにもまいりませんでしょう?」
「だからって食べないわけにもいかないだろう。ぼくが生み出した罪だ。責任を持って全部腹に収めるよ」
 ところが此度において、主人の覚悟を従者はすんなりと受け入れなかった。皿が再び彼の元へ戻ることはなく、壮年の男の眼差しも揺るがぬままだ。
「いや、……もしもお前がぼくの従者として、この悲惨な敗戦処理を手伝ってくれるというんなら、それは心から感謝するさ。だけどな、大人が犯した罪の咎を、子供にまで背負わせるっていうのは間違ってるんじゃあないか」
 さすがに従者もそこまではするまいと信じつつ、そう口にせずはにいられなかった。休日の最後を締めくくる晩餐の皿がこれでは、他人の料理に対する一生ものの恐怖心を植え付けられてもおかしくない。
 彼の説諭に対しても、従者はやはり素知らぬ顔だった――そう、先程まで纏っていた陰々滅々たる空気が、どういうわけか消え失せているのだ。気付いて彼は目を瞬いた。傍らに佇む男はもはや葬列の一員ではない。どころか、不治の病に倒れた主君の元へ、魔法の霊薬を携えて帰還した騎士、という凛々しさや一種の神々しささえ帯びていた。
「旦那様」
 今の彼には到底至れそうもない、従容として穏やかな物腰で従者が言った。
「むろん、ナサニエルの目にこちらは触れさせません。健やかな精神的成長には悪影響が強うございます」
「ぜひともそうしてくれ。こんなもの食べさせるのは立派な虐待だ」
「その上で申し上げますが」
 眼差しに非難や怨恨、また嘲笑めいたものは少しも感じられなかった。彼はその目をじっと見返し、続く言葉を待った。わたくしもお供します、ぐらいの殊勝な台詞ならばきっと出てくるだろう、けれども本当に甘えてもいいものなのか、等と煩悶しながら。  果たして、従者はどこか超然と皿を掲げ持ち、こう投げかけたのである。
「――まだけたと決まったわけではございますまい」
「へっ?」

 その後の彼にできたことといえば、台所を大人しく従者に明け渡すこと、普段よりは簡便なティーをやきもきしながら味わうことぐらいだった。従者には何か策があるのか、ディナーはどうなるのか、全く先が見通せぬままに。
 夜用の背広に着替えて下りてきた彼を、従者は普段と変わらぬ平静な表情で迎え入れ、簡潔に食事の始まりを告げた。そして何事もなかったかのように、前菜となる小エビのピクルスを運んできた。
 食堂椅子にしおらしく収まりながらも、彼は未だに気を揉み続けていた。香草の風味がきいたトマトのスープは実によかったし、ヒラメのマスタード焼きは食欲を掻き立て、続くラム肉のロースト――真紅のザクロを散りばめた「ペルシア風」――を、ぺろりと平らげるだけの力をくれたけれども、空になった皿が下げられるころには、彼の鼓動は限りなく不揃いになっていた。――サラダが運ばれてくるとしたら、それは間違いなく肉料理の後なのだ。
 彼の内心をよそに、従者の振る舞いはあくまで形式に則った、実に優雅なものだった。そして新しい取り皿を運び込んだ後、とうとう覆いを被せたあの大皿を両手に、背筋のぴんと伸びた姿勢で戻ってきた。彼の脳裏に「洗礼者ヨハネの首を持つサロメ」という絵画の題が去来した。
「お待たせいたしました、旦那様」
 従者がついにその時を告げた。 「サラダでございます」

 引き上げた覆いの内から現れたもの、従者の手による一皿は、彼の目を見開かせるに十分だった。おお、そこには確かに彼の望んだものがあった――生野菜とゼラチンが。青緑色に濁ったゼリーはいずこかへ姿を消し、ガラスめいて艷やかな輪がレモンの彩りで花開いている。その明るい色合いを透かして、彼が一度は惨殺した野菜たちが、二重三重の美しい層を成し、周りをぱりっとしたレタスが取り巻いている。
 彼は息を呑んだ。光を浴びて咲き誇る夏の花園を、陽光ごと水に沈めたようだった。あの陰惨な海難事故の現場が、いかなる魔術でもって生まれ変わったのか、彼には皆目見当がつかなかった。
「ウィギンズ、これは――」
 数時間前とは全く違う理由で、彼の声は震えていた。フォークに手を伸ばすのも忘れ、彼は説明を求めるように従者の顔を仰いだ。
「ディナーの席で申し上げるには、いささか長い話となりましょうが」
 従者は取り澄まして言った。 「お聞きになりますか」
 頷かずにいられるはずがなかった。彼が勢い込んで首肯するや、従者はかしこまって口を開いた。
「あなた様がお作りになった品は――『夏野菜とツナのグリーン・ラグーン・サラダ』でございましたか、――端的に申し上げて食卓の災害でございます。レシピを拝見した折から、紳士の召し上がりものでないと察しはついておりました」
「そうだろうとも」 彼は呻いた。 「ぼくには察しがつかなかったがな」
「わたくしはあなた様が我に返られることを信じておりましたものを。――ともあれ、完成してしまったものは致し方のうございます。わたくしが初めに取り掛かったのは、あの混迷の海より具材たちを救い出すことでした。野菜がそれなりの大きさに切られていたのは幸いでございました。もっとも千切りのキャベツだけは、やむを得ず水洗いをすることになりましたが」
「ああ、あれを一本一本引き抜くなんて、考えただけで気が遠くなりそうだよ。お前は正しい。――で、ゼリー本体はどうした? さすがに排水溝行きか?」
「よもや。マンハッタンの水生生物たちをテムズ川のウナギと同じ目に遭わせるような真似はいたしません。再利用するべく、一旦湯煎にかけて液体に戻しました」
 言って、従者は盆から小さなドレッシング入れを卓上に移した。
「このように主張の強い存在には、敢えて同じほど癖のある素材で立ち向かうのが最善でございます。貯蔵庫にあるスティルトンが好適と考え、ダブル・クリームと塩胡椒、タラゴン、ニンニク、マスタード等と共に加えました。ゼリー本来の味わいはお隠れになりましたが、必要な犠牲というものでございましょう」
 その声色にはどことなく薄ら寒いものがあった。彼は椅子の上で肩を震わせ、何かに強いられたかのように居住まいを正した。
「ツナもすり潰して加えました――水洗いするわけにはまいりませんでしたので。最後に全体を漉し器にかけ、味を整えたものがこちらでございます」
 磨き上げられた銀器の中には、青みがかった乳白色の液体が入っていた。なるほど、クリームで和らげた上で、ハーブや青カビチーズと合わせれば、あの色合いもかえって自然なものになり得るわけだ。彼は心の底から感心した。
 視覚的な障壁は完全に消え失せた。後は味だけだ。彼はゼリーにゆっくりとナイフを入れ、まかり間違っても崩してしまわぬよう、そっと取り皿に乗せた。ドレッシングの器を傾け、とろりとした流れをその上に広げる。なんとも爽やかな彩りだ。脳裏には、未だあの恐怖と衝撃がちらついている――だが、もう幻惑されるまい。自分には従者がついているのだ、そう己に言い聞かせて、彼はフォークを手に取った。

 口に含んだ瞬間、鼻へと抜けていったのは爽快な酸味だった。弾けるように華やかで、あたかも口中にぱっと光を投げかけたような明るさだ――例のゼリーとは全く異なる、これこそ本物のレモンの味に違いなかった。その香りと酸っぱさが、中に閉じ込められた野菜を一層瑞々しく感じさせた。
 酸味だけではない。ゼリーそのものからは豊かな旨みと甘みがはっきりと広がった。砂糖によるものではない、恐らく何らかの出汁ストックだ。加えて、香辛料のぴりっとした刺激も感じる。具材を噛みしめるたびに、軽やかな歯触りと共に湧き立つのだ――
「ちょっと待ってくれ、ウィギンズ」
 このまま味わいに身を委ねたいのをなんとか振り切り、彼は改めて従者に目を据えた。
「ぼくが作ったあのブツ……いや、その、あれが、このサラダに生まれ変わったっていうのか? なあ、正直なところを言ってくれてもいいんだぞ。残念ながら手の施しようがありませんでしたって」
「いいえ、旦那様。全て正直に申し上げております。あなた様が自ら調理なさった野菜、混交なさったゼリー、その一つとして無駄にしてはおりません」
 気高ささえ感じさせる口ぶりで従者は断言した。取り繕うべきところは少しもないと、声色からはっきり読み取れた。
「そうか、――解った。ああ、ウィギンズ、うちにお前がいてくれて本当によかったよ。もしぼくが未だに独り暮らしだったら、今夜は惨めさと胃もたれで眠れなかったはずだ。お前がぼくの一日を救ったんだ」
「さような賛辞を賜り恐縮でございます。旦那様が日々ご健康にお過ごしになれるよう、あい努めております」
 普段よりは謙りすぎていない、従者の滑らかな物言いを聞きながら、彼は食べ進めた。野菜が旨いのは言うまでもないとして、ドレッシングがまた絶妙だった。混ぜ込まれたスティルトンは深いこくを持ち、ハーブとよく響き合って、サラダの魅力を何層倍にも引き立ててくれる。塩気が強すぎることもない。何より、あのどこかぎこちないレモンらしき匂いと味を完全に覆い隠している。感嘆すべき出来栄えだった。
「しかも、ただ食べられるものにしただけじゃあない、ぼくの要求を満たしている――生野菜とゼラチンだ。最高にいい香りがする」
「はい、旦那様。その点を蔑ろにはできませんでした。ゼリー寄せを作るにあたっては、あなた様の寵愛篤き『ジェロ』を用いました――無味無色のものをでございますが」
 彼は目を丸くした。従者が取り仕切る食品棚に、あの赤くでかでかとした主張の強いロゴが鎮座しているところなど想像もつかなかった。
「アスピックではなくサラダをお求めとのことでしたので、味の根底に用いたのは鶏や牛ではなく野菜のストックでございます。お楽しみいただければ幸いでございます」
 最後まで淡白なまま終わった魔術の種明かしに、彼はただ呆けたように頷くことしかできずにいた。この男がいかに得難い技能を有しているか、感服するより仕方なかった。
「他に何かお尋ねなどございましたら――」
 という静かな言葉かけがあって、ようやく我に返る始末だ。彼は小さく咳払いをした。わざとらしさは拭えなかった。
「いや、何も。とにかく、今回は全く何もかもお前が正しかったと言わせてもらおう。やっぱりお前は立派な料理人だよ」
「わたくしにはもったいないお言葉でございます、旦那様。わたくしを料理人と呼ぶのであれば、世の本職たちには新たに神のごとき肩書が必要になりましょう」
 従者はこの期に及んで謙遜したが、ややあってから僅かばかり、辛うじて目視できる程度に口角と顎先を持ち上げた。
「とはいえ、調理を成功させるのみならず、失敗を挽回もできるという点においては、確かに『サラダの日々』を脱していると自負しております。ありがとうございます。――お食後にはコーヒーがよろしゅうございますか、それともコアントローを?」

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