「大変だ、ウィギンズ! どえら――とんでもないことになったぞ!」


幕開けの先駆け -The Game is Afoot-

 息せき切った主人の口からわざわざ聞かずとも、従者にはとうに解っていた。こんな夜明けにはふさわしからぬ盛大な足音、玄関の鍵を開けようとして何度もとちる金属音、そしてドアを押し開けるときの捨て鉢と言っていい勢い。これで何事か起きていることを察せなければ、従者として致命的な欠陥がある。無論のこと、彼は問題なく使用人の務めを果たしている自覚があったので、落ち着き払った態度のまま主人と向き合った。知人宅のパーティーに出かけていたはずの、ロスコー家の長子たる若紳士、ヘンリー・ロスコーその人に。
「旦那様、動転なさらずともようございます。わたくしにはお手伝いする準備ができております。何なりとお命じくださいませ」
「動転……あのなあ――」 日来の倍ほど高い声を絞り出し、主人は喘ぐように言った。
「これが動転せずにいられるか、お前、お前ってやつは――よくもまあ、そんなにも落ち着いて返事ができたもんだ!」
「わたくしまで気もそぞろでは、旦那様にお仕えする上で差し障りがございましょう」
「どうだっていい! それよりも、早く……つまり、今すぐにだな、電話だ――真偽を確かめなくちゃあ、コロシアム・シアターに……」
「お忘れ物でございますか?」
 ブロードウェイに建つ映画館の名を耳にした彼は、妥当そうな質問を一つ捻り出した。とはいえ、これほど周章狼狽するような品を主人は持ち歩くだろうか、と疑問も湧いた。それに、「真偽を確かめる」という文句も気にかかる。彼は知らず首を傾げていた。
「そんなものじゃあない! 別に、映画館の座席に財布を忘れたって死にやしないさ。でも、今ここで出遅れたらぼくは死ぬ」
「旦那様、まずはお帽子をお取りになって――」
 とりあえず主人の気を落ち着けさせ、居間か応接でゆっくり話を聞こうと彼は思ったのだが、若紳士の精神はそう気安く宥められはしなかった。ダークブルーの目がかっと見開き、彼の顔をまっすぐに睨みつけてくる。どうやら随分と手こずりそうだ、と彼は直感した。
 幸いかな、鋭い視線はそこでふと和らいだ。安堵を得たわけではない、今までの躍起な勢いがとうとう挫かれ、瞬く間に不安へ転じたという趣だった。
「ウィギンズ、ああ、どうしよう、まだ信じられないんだ……ひょっとすると、ぼくの完全な妄想かもしれない。それぐらい大事おおごとなんだ」
「よもや、わたくしは疑いますまい。どうぞお聞かせくださいませ、旦那様」
 勇気づけるように低く、確たる口ぶりを保ちながら彼は促した。若い紳士はよろめきながらもなんとか顔を上げ、震える声で絞り出すように叫んだ。曰く、
「ジョン・バリモアがホームズなんだ……!」

 さて、従者たるもの複数の可能性を常に考え、そのどれにも素早く対処できるように構えておくのが当然である――少なくとも彼はそう信じている。そうして彼が予期していたのは、主人の愛する弟が映画館で卒倒したとか、暴漢に襲われて怪我を負ったとか、それとも他方面の深刻さ、例えば映画事業への投資の失敗でロスコー家の屋台骨が傾き、自分をこれ以上雇い続けることはできそうもないとかいった事態だった。
 だが結果として、彼の耳に飛び込んできたのは人名が二つきりだった。ゆえに彼は、焦燥に駆られる若主人の顔をうち眺めながら、こう漏らすことしかできなかった。
「はあ」
 この返答が主人のお気に召さないことは明らかだった。彼はすぐさま言葉を続けた。
「ホームズと仰るのは、かのシャーロック・ホームズ氏のことでございましょう?」
「そうだ! ウィギンズ、そのホームズがだな、ジョン・バリモアなんだよ!」
 はあ、と繰り返しそうになるのを彼は堪え、代わりに咳払いを一つした。
「気の利かぬ真似をお許しくださいませ、旦那様――しかしながら、わたくしが適切にお答えするにはデータが不足しております。粘土が無ければレンガも作れますまい」
 これこそ必要な台詞だった。彼の眼前で大きな碧眼がぱちぱちと瞬き、震える喉元がすっと元の安静を取り戻したように思われた。
「『ぶな屋敷』か」 はっきりとした返答があった。
「ウィギンズ、お前がうちにいて本当によかった。ぼくのことを思ってくれるし、察してもくれる」
「些少な気の持ちように、過分なお言葉を頂戴しまして」
「それに名前が『ウィギンズ』だっていうのも、考えてみればぴったりじゃあないか。名探偵を支える大きな力だ――ああ、勘違いするなよ、ぼくは心から褒めてるんだから。正規軍の柱みたいなお前を別働隊扱いしちゃあ悪いかもしれないが」
 何とも思っていないような顔を作って、彼は穏やかに頷き返した。
「話を戻すぞ。つまり、ホームズが問題になるんだが……お前は映画は観ないか」
「寡聞少見でお恥ずかしい限りでございますが、一度も」
「じゃあ、ジョン・バリモアのことも知らないか……いや、『バスカヴィル家の犬』の登場人物じゃあないぞ」
 これに彼は頭を振って答えた。慣れ親しんだ名前こそないが、知識は既に持っていたからだ。
「バリモア三兄弟の次男にあたる方でございましょう? 家族揃って舞台俳優かと記憶しておりましたが」
「とっくに映画スターだよ。良いかウィギンズ、ぼくは――ぼくはジョン・バリモアが大好きなんだ。彼は世界最高の役者だと信じてる。好きな映画俳優を一人だけ挙げろと言われたら、ルドルフ・ヴァレンチノとどちらにするか一週間迷いに迷って彼のほうを選ぶ」
「さようでございますか」
「さようだ。……ここまで言えばお前なら察しがつくだろう」
 何もかも心得た、とばかりに彼は首肯した。
「推察いたしますに、あなた様の敬愛なさるジョン・バリモア氏が、何らかの映画においてシャーロック・ホームズを演じることと相成ったのでございますね?」
「そうだ!」
 若主人は声を張り上げ、両腕を伸べて彼の手を握ろうとした。その前に彼はさっと身を引き、かつ主人がつんのめっても支えられるよう立ち位置を整えていたが。
「こんなことがあっていいのか、ウィギンズ? 世界一の俳優が世界一の名探偵をやるんだぞ! 公開初日まで映画館のトイレで寝泊まりしてもいいぐらいだ! ――それが本当ならだが」
「と、仰いますのは?」
「うん」 若い紳士は紳士らしい神妙さを取り戻し、勿体ぶるように頷いた。
「これがもしシャーリーやロビイから聞いた話なら、ぼくは百パーセント純真な心でもって信じたに違いない。ティミーからだったとしても、まあ八割がた信用して構わないだろう。我らが『レッド・ヘリング・クラブ』の名誉ある一員なんだからな」
「旦那様は一体どなたからお聞きになったのでございましょう」
「それが、パーシーのやつなんだ」
 微かに酒の匂いが残る息を、主人は重々しく吐き出して言った。
「ミスター・リビングストンでございますか」
「そうだ。つまり、五分五分の確率でぼくは担がれてるってことになる」
 大学時代からの友人――あるいは腐れ縁――に対する信頼のなさは、彼も十分に承知していた。といっても、接していて不快な人物というわけではない。主人との間にだけ並々ならぬ因縁があるのだ。痴話喧嘩の友人版と見えなくもなかった。
「お前も覚えてるはずだろう? ダグラス・フェアバンクスの『奇傑ゾロ』に続編予定が、とかなんとか、とんだガセネタをぼくに――」
「新聞広告の切り抜きとロビー・カードまで自作なさっておいででしたね」
 彼はあくまで冷静に頷いた。 「見事な出来栄えでございました」
「感心するな! あと一歩で詐欺罪だぞ! とにかくだな、ぼくは人間を信じるという美徳を備えた男だが、パーシーのことだけはどうしても信用ならん。あいつは善良なる市民を右往左往させることが生きる歓びなんだ。とんだ悪党だ」
「であれば、バリモア氏によるホームズは存在しないものと結論づけてよろしいのでは」
 最もそれらしい解釈を彼は述べたつもりだった。ところが、やにわに主人は悪友への攻撃の手を、もとい口を止め、
「いや、それは……ほら、パーシーに対する信頼とは別に、バリモアがホームズをやることには一定の蓋然性があるわけだろう? もちろんパーシーのやつは信用のおけない男だが、今までの言動が十割間違っていたということもないし……」
 等ともごもご言い始める。なるほど、古代ローマの時代より「人は自ら欲するものを信ずる」ものなのだ。名優と名探偵に入れあげるあまり、彼らが有するような客観性や論理的思考から遠ざかってしまうとは、なんとも皮肉な話ではある。
「旦那様」
 ならば、従者たる自分の役目は、その失われつつある思考力を回復させてやることだ――具体的には十分な睡眠と栄養豊富な朝食を取らせることである。
「夜通しのご歓談でお疲れでございましょう。劇場への問い合わせはわたくしにお任せくださいませ。ミスター・リビングストンのお言葉が偽りであったとして、あなた様にみすみす辱めを受けさせるわけにはまいりません」
 彼が宥めるような声音で呼びかけると、下がり気味だった若紳士の視線が、はっと上向いて彼の目を見た。かと思えば、またおずおずと俯き加減になる。
「そうか? そう……でも、だからってお前にみすみす恥をかかせるわけにもいかないじゃあないか、主人としては」
「わたくしにお気遣いは無用でございます。さあ、お召し替えになって、しばしお休みなさいませ。もしくは先にご朝食をお取りになってもよろしゅうございます。あなた様お気に入りのエッグス・ベネディクトをご用意しましょう」
 この一言は主人の心に染み入ったようだった。そうか、ともう一度呟いて、若い紳士はゆっくりと食堂へ向かった。彼は頭を垂れて見送り、朝刊と牛乳を回収するために、使用人が用いる裏口へと足を運んだ。
 それから数分も経たぬうち、彼は主人の元へとんぼ返りしていた。戸口に姿を現した彼を見て、主人は碧眼を丸くした。
「なんだ、もう出来上がったのか? さすがに早すぎるんじゃあないか」
「いいえ、旦那様」
 声を低く抑え、彼は頭を振って答えた。 「劇場への問い合わせは不要となりました」

 彼が後ろ手にしていたものを――今朝配達されたばかりの「ニューヨーク・ヘラルド」紙をひと目見るなり、若紳士の顔つきが明らかに変わった。開かれた紙面に踊る文字が、全てに決着をつけたのだ。
「ジョン・バリモア主演……シャーロック・ホームズ……」
 切れ切れの声が囲み記事の見出しを読み上げ、それから感極まったように息継ぎした。今やダークブルーの双眸は真夏の大西洋のごとく歓びに煌めいていた。
「ウィギンズ、――これは作り物じゃあないな? 寝不足による幻覚でもないな?」
「はい、旦那様。間違いなく本日付の新聞記事でございます」
 紙面に占める面積としては他愛もないものだった。そう凝っているわけでもない飾り文字の題名に、主な出演者の名前と公開日が連なっている。些細な広告だ。
 だが、この小さな囲みに記された全て、添えられている鹿撃ち帽を被った俳優の横顔――「偉大な横顔」とはよくぞ呼んだものだ――こそ、主人の悩みを霧消させる何よりの特効薬だった。どこかくすんで見えていた若者の頬にぱっと赤みがさし、表情が緩み、ついには食堂椅子から勢いよく立ち上がるまでになった。
「ウィギンズ!」 
 ここ数日で一番の快活な声が叫んだ。 「ぼくは行ってくるぞ!」
「どちらへでございましょう、旦那様。封切りは来年の三月でございますが」
「ばか! ……いや、待ってくれ、今のはなしだ。お前はぼくが知る中でも屈指の賢い男だし、そもそも馬鹿は人に向かって使う言葉じゃあない。撤回する。その上で答えるが、劇場に決まってるじゃあないか!」
「ですが封切りは――」
「ロビー・カードだよ! 新聞に広告が載った以上は、劇場のほうでも宣伝を始めるに決まってる。ジョン・バリモアが出るんだぞ、二種類か三種類か、いや五種類ぐらいは配るはずだ。早いもの勝ちなんだ、ウィギンズ!」
 はあ、と再び口にしそうになるところを、彼は強固な意志の力でもって乗り越えた。興味のない人間にはただの厚紙だが、映画愛好家にとってはあまりに貴重な品なのだ。
「近場から回るか、大きなところを集中して攻めるかだ。コロシアム・シアターなら、全種類まとめて置いててもおかしくない。ウィギンズ、ぼくはやってみせるぞ!」
「さようでございますか」
 どうやら主人もまた、確固たる意志という点では彼と遜色ないようだった。もちろんこの時間ではどこの劇場も開いてはいないのだが、開場まで何としても待つつもりなのだろう。彼は溜息と共に頷いた。その刹那、閃いた。
「旦那様」
「何だ、ウィギンズ?」 既に食堂を飛び出しかけていた主人が、戸口で振り返った。
 彼は答えず、普段よりは早足で、しかし足音一つ立てることなく台所へと向かった。食品棚から白パンの塊を取り出し、二枚だけ切り取った。続けざまに冷蔵庫を開けると、とっておきのコールド・ビーフを――黒胡椒とコリアンダー、マスタードそして新鮮なハーブで味付けした、焼き目と赤身のコントラストも見事な塊肉を俎上に載せた。少し考えてから、ナイフで薄く一枚だけ切り取って、二枚のパンに挟んだ。

「こちらをお持ちくださいませ」
 ああ、この極めて粗野なサンドイッチを目にした瞬間、主人が見せた表情ときたら!息を呑んだかと思えば、たちまち顔中が笑みでいっぱいになり、唇は大きく開くのだ。
「ウィギンズ、お前ってやつは――解ってるじゃあないか! 『緑柱石の宝冠』だ!」
「紳士の方に朝食としてお出しするには、いささか簡素な品でございますが」
「それでも大正解だ! ああ、ただし、これをそのままポケットに突っ込んで出ていくような真似はしないぞ。そこはほら、曲がりなりにも紳士の格好で行くわけだから」
 無論、彼のほうでも支度はできていた。油紙で丁寧に包み直されたサンドイッチを、主人は満足気に受け取った――宣材として配られる、俳優の写真入りカードのように。
「ようし、それじゃあ行ってくる。昼食までには戻ると思ってくれ!」
「幸運をお祈り申し上げます」
 彼はうやうやしく一礼した。 「行ってらっしゃいませ、旦那様」

 弾むような足音が聞こえなくなってから、彼はゆっくりと頭を上げた。果たして主人が目的を果たせるかどうか、それは解らない。ただ確実なのは、あの若さに任せて行動しがちな紳士の卵が、数時間後に空きっ腹を抱えて帰ってくるということだ。
 彼は静かに玄関の鍵をかけ、台所へと廊下を引き返した。見習いの少年を起こしたら、自らの「習作スタディ」に取り掛かるべきだろう。例えばエッグス・ベネディクトのため、より唆られるような緋色のソースを創作するというのは?

  * * *

 開けた本人は静かなつもりだったろう音と共に、使用人部屋の扉がゆっくりと開く。
 帳面に書き取りをする手を止めて、壮年の従者はそちらを顧みた。廊下に漏れ出した電燈の明かりに、小さな人影が浮かび上がっている。
「あのう、おじさん」
 室内を覗き込み、おずおずと声を上げたのは金髪の少年だった。緑色の大きな目が、テーブルに一人分の食器が整えられているのを見、ぱちんと一度瞬いた。
「あっ、ごめんなさい、今からお夕食だったんですね」
「いいや、構わないとも」
 予定では、試作した料理――今回は幸い成功だった――をレシピ帳に書き留め、然る後にその成果物を遅い夕食にするところだ。しかし、使用人の私生活に「予定」などあって無いようなものである。それに、部下の声に可能な限り耳を傾けることは、家事の円滑な運行に極めて大切なことだ。ましてその部下というのが、ただ仕事上の関係ではなく、遠縁とはいえ唯一の親類にあたる子供であれば。
「どうしたね、ナット。もう寝に行ったものと思っていたが」
「はい、あの……すみません、やっぱり明日のほうがいいですよね」
「構わないと言っているだろう。さあ、そこに掛けなさい。今お茶が入るところだから」
 戸口でもじもじしている少年を促すように、彼は手近にある椅子を引き、自らの席と向かい合わせた。卓上に置かれた懐中時計を一瞥する。茶葉が十分蒸らされるまで一分少々というところだった。

「さて、何か話があるようだが、一体どういった用件だね。旦那様にお伝えしなくてもよい話かね」
 恐る恐る入ってきた少年が、勧めた席についたのを確かめてから、彼は穏やかに口を開いた。手元にある二つのカップのうち、柄のついていないものをゆっくりと差し出しながら。
「旦那様には……もしかして、お伝えしたほうがいいかもしれません。ぼく、旦那様のお言いつけどおりに、毎日ちゃんと勉強してますって。伯母さんの家にいたころより、ずっとたくさん文字が書けるようになったし、おさらいに使っている本も、もうみんな読んでしまったんですよ」
「ほう、それは良いことだ。きっと旦那様はお喜びになるだろう。今度、私にも読んで聞かせてもらおうかな」
「はい! えっと、それで――実はお願いがあるんです、おじさん」
 軽く片眉を上げ、彼はミルクと砂糖の入った紅茶を一口飲んだ。頑張って勉強をしているのだから、代わりに何かを買ってとか、どこかへ連れて行ってとか言い出すのは、一般的な家庭の子供にはよくあることだ――あくまで知識としてだが、彼は知っていた。眼前の少年もまた、そんな拙い交渉を仕掛けるつもりなのだろうか。何かしらの望みを抱くという心が芽生えたことには安堵するとして、どう対処するのがふさわしいのか。それは実際に聞いてみなければ分からないことだ。
「言ってごらん。私一人にできることなら良いのだが」
 彼は先を促したが、少年はすぐに口を開かなかった。彼の真似でもするかのように、カップを持ち上げては少しだけ飲み、また下ろしたと思えば、はにかむように卓の木目へ視線を落とすのだった。
 もちろん急かすつもりはなかったが、結果として彼はたっぷり一分近く待たなければならなかった。少年のほうでも待たせているのが気まずいらしく、指先がカップの傍でそわそわと動いているのが見えた。よほど言い出しにくい頼みなのかと、彼は心構えをして様子を窺った。
 やがて、決心したように少年が顔を上げた。もう一度だけカップに手が伸びかけたが、時間稼ぎにはもう頼らないつもりか、すぐに引っ込んだ。

「あの、……ぼく、もっとたくさん本を読みたいんです」
 そして小さな唇を出たのは、あまりに些細な、しかし確かな熱を持った願いだった。彼は緩やかに身を乗り出し、暗色の目を少年に据えた。
「そうか」
 頷いて間を置く。少年が息を呑んだようだった。
「私はとても嬉しいよ、ナット。では、どのような本を読みたいのだね。理由を聞けたなら、私はもっと嬉しいのだが」
「ええと――旦那さまがお読みになるような本がいいんです。だって、旦那さまが本のお話をなさるときには、とても楽しそうだから」
 少年はまず述べたが、言葉の一つ一つはいくらかぎこちなかった。自らの考えを表現するのに、これがふさわしい単語であるのか迷っているようだった。
「それに、そう、旦那さまのおっしゃることがもっと解るようになりたいんです」
「というのは?」
「前に、旦那さまがぼくを褒めてくださったことがあるんです。……褒めてくださったと思うんですけど、それが何かの物語のたとえみたいで、ぼくには解らなかったから、うまくお返事ができなくて……」
 訥々とした口ぶりを耳にしながら、彼は記憶を辿って一つの場面に至った。居合わせこそしなかったが、その会話は確かに聞いていた。
「ああ、セント・クレメント・ムースについてお尋ねがあったときのことだね。もしも自分がシャーロック・ホームズなら、お前を遊撃隊イレギュラーズの一員に任命するだろう、と」
「それです! その――ミスター・ホームズが出てくる本を、ぼくも読めたらいいなと……思うんですけど」
 窺うように見上げてくる瞳に、彼はすぐ応えなかった。記憶の藪を掻き分ける手は、より深いほうへと伸びつつあった。屋敷奉公の道に入ったばかりの頃――本を読むなど正しく夢物語であった頃を思い出した。そもそも読書に割くような余暇など存在せず、また本を買えるだけの俸給も受けられない身分だった。下級使用人は本を読まないものなのだ――「そういうもの」として受け入れていた。
 小学校を出て(これは「卒業して」という意味ではない)以来、彼がやっと自発的に書物へ手を伸ばしたのは、さる伯爵家の従僕フットマンに昇進してからだった。その伯爵家当主は「どんな使用人にも知識は必要である」という珍しい考えの持ち主で、蔵書庫の一部を出入り自由にしていたのだ。彼はここで初めて、教科書や聖書以外の「本」に出会った。語学書や数学書があり、小説があった。「シャーロック・ホームズの冒険」も……

「ナット」
 彼はようやく口を開いた。目の前にある少年の面持ちは、ずいぶんと不安げであり、今にも遠慮の声を上げそうに見えた。
「私は、――恐らく旦那様も、お前が沢山の本を読んで、色々な世界を見てゆくことを心から望んでいるよ」
 その落ち着きない心地を和らげようと掛けた言葉は、果たして覿面に効果があった。幼い瞳が再び光に満ち溢れ、くすんだ緑色は鮮やかになったように思われた。
「もちろん、世の人全てが同じ考えではない――それもまた、何冊も読んでゆくうちに解ってくるだろう。ああ、もしかすると探偵小説は好適かもしれないな」
 大分と冷めた紅茶を一口啜り、彼は合点したように頷いてみせる。
「じゃあ、良いんですか、おじさん?」
「ああ。明日なら旦那様もご予定が詰まってはいらっしゃらないはずだ。お前の部屋に本棚を置かせてもらえるよう頼み込んでみよう。もしお許しが貰えたら、まずは一冊と――辞書はあったはずだな。知らない言葉に出くわしたら、自分で調べながら読むことができる」
 基本的な読み書きを教えるため、最初に揃えた一式を思い返しながら彼は言った。
「次の半休にどこへ行くか、ちょうど決めていなかったところだ。お前と一緒に書店をいくつか巡ることにしようか」
「はい、――やったあ! 一度でいいから本屋さんに行ってみたかったんです。でも、おじさん、本ってどれぐらい高いものですか? おじさんや旦那さまが損をしなければいいんですけど」
「それも実際に見れば解るだろうよ。さあ、ナット、そろそろ部屋へお戻り。寝坊して玄関掃除に遅刻してはいけないから」
 懐中時計を改めて見れば、時刻はもう夜の十時を回っている。十歳の子供にとっては遅い時間だ。彼が促すと、少年はまだ嬉しそうにえへへと笑っていた。
「はあい、もう寝ます。おじさんは……そうだ、お夕食には何を食べるんですか?」
「お前と同じパンとジャガイモと、『鮫のフィレ肉 マザリン風』の残りを」
 彼の返答は、果たして幼子をぽかんとさせるに十分であった。当然の結果と言えよう。彼は決してそれを笑わず、ただ動機づけるように続けた。
「お前が本当に『シャーロック・ホームズ』を読むようになれば、いつかこの意味さえ解る日が来るだろう。旦那様もきっとお喜びになるだろう。大はしゃぎなさるはずだと言ってもいい。――ゆっくりお休み、ナット」

 少年が出ていってから、彼は改めて夕食を取ることにした。台所から運んできた魚の切り身はまだ温かく、ソースに加えられた茸類とマスタードの芳醇な香りを立ち上らせている。厚みのある白身はしっとりとして、淡白ながら甘みがあり、ソースとよく合う。装飾に使われた黒オリーブや粗みじんの固茹で卵が、繊細な柔らかさとのコントラストを生んでいる。これならば主人の正餐に胸を張って出せるというものだ。
 使用人の夕食としては贅沢な一皿を味わいつつ、彼はまた書物について思いを馳せた。そういえばこの一年か二年、純粋に自分のため行う読書から遠ざかっている気がする。家政に関する実用書――特に料理書が多いのは言うまでもない――はともかく、小説や詩とはすっかりご無沙汰ではないか。英国で過ごした最後の数年間、あの人生で最良の時分には、侯爵家の図書室に広がる豊かな世界に魅了されていたものだが、悲しいかなそんな日々は永久に打ち崩されてしまった。そうして、合衆国で金満家の「放蕩息子」に仕える今の自分がいるのだ。

 ――約束どおり少年を書店へ連れて行く日が来たら、その時は自分のためにも一冊、何か本を買ってみようか。
 自室にある質素な、その身の丈に合わぬほどの書籍を抱え込んだ本棚を思い浮かべて、彼はそんなことを考えた。
 無論、そうしたからといって、失われた日々まで買い戻せるわけではないが、未来をほんの少しでも明るく照らすことはできるかもしれない。活字を追いかけることを知らなかったころのように、暗闇の中で惨めさに耐える日々には戻らず済むかもしれない。良き主人と共に過ごす期間を、前よりも長続きさせることができるかもしれない。
 空になった食器を流し台へと運びながら、彼は続けて祈った。少年の願いが聞き届けられ、もっと沢山の本を読めますように。そして自分よりずっと明るい将来が開けますように。「自分のような使用人」にやむを得ずなるのではなく、自ら立てた志の導きで至れますように……

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