ニューヨーク市公園委員会は、河川敷に彫像を展示するという試みを始めたらしい。


稚き日々を乗せて -Require a Green Light-

 否、そんなはずはない――すっかり秋の色に染まった河原を占領しているのは、下はまだセーラー服を着ているような幼子から、上は毛織のジャケットが似合う年頃の少年まで、背丈も格好も様々の子供たちだった。ある者は大統領官邸を守る警備兵のごとき直立姿勢であり、またある者は亀と徒競走をするアキレスの様相である。共通点といえば、その視線の先が統一されていることと、誰もがみな静止していることだった。
 彼らの目が見据えているのは、土手を上りきった先にある一本の街灯だ。そこには、ママレード色のワンピースを着た十歳そこそこの少女が、彼らと正対するように立っている。川風に煽られて散らし髪が揺れる。――と、やにわ少女は彼らに背を向けて叫ぶ。
「青信号!」
 これが合図だった。子供たちはにわかに彫像であることを止め、一斉に少女めがけて駆け出す。もちろん背の高い年嵩の少年たちが有利だが、年少の者たちも負けていない。美術館の薄暗い収蔵室が、白熱する陸上競技場に様変わりしたと見えた。だが、それも少女が勢いよく振り返り、
「赤信号!」
 と叫ぶまでのことだった。跳ね回る活力の塊は、再び無数の彫像へと戻った。
 さて、ここで全体を俯瞰してみると、子供たちの中に一点、どうにも育ちすぎた姿があることに気がつくだろう。周りの少年少女がせいぜい五フィートそこらであるところ、その人影は明らかに七、八インチばかり上回っている。着ているものにしても、銀幕の大スターを気取った襟のシャツに、仕立ての細やかな青褐色のウエストコートと臙脂のネクタイといった具合だ。ボーイスカウトの指導者にしてはずいぶん気取りすぎている。顔つきはちょっとばかり子供じみているかもしれないが、間違いなく大人の男、それもいわゆる有閑階級か、それに類する社会的地位の持ち主と見てよさそうだった。
 その青年は今、草の実にまみれたスラックスを気にもかけずに、わずかな前傾姿勢で静止していた。周囲には子供が二、三人おり、うち一人とちょうど顔を見合わせる格好だった。
 と、ここで彼にとって不都合が起きる。目が合った子供は何を思ったか、突如として顔を奇妙に歪め、ヴォードヴィルの芸人がやるような滑稽そのものの表情を見せたのだ。効果は覿面だった。彼は思い切り吹き出し、肩を震わせ、前のめりに二足ほど前進してしまった。
「ハリー! ハリーだ! ハリーが動いた!」
 つられて引き出された盛大な笑い声に、勝ち誇ったような甲高い少女の声が重なった。
「違う、今のは不可抗力だって! 卑怯だぞ!」
 青年は抗議の叫びを返したが、この場において主導権を握っているのは子供たちだ。遊びのルールもまた彼らによって定められている――少しでも動いた者は、数十ヤード後方の開始地点に戻ってやり直し。それがこの遊戯の決まりだった。
 過去にはそれこそ「彫像ゲーム」と呼ばれ、文明の進歩と共に「赤信号、青信号」と名前を変えた遊びに、青年はこれ以上ないほど真剣に取り組んでいた。次の「青信号」が告げられるや、彼は大人げなく大人の歩幅で猛然と巻き返しを図った。並み居る腕白たちを抜き去り、少女のもとへ真っ先に駆けつけるのは彼で間違いなさそうだった。
 ところが彼は愚かにも、自分が履いているのが底鋲つきの運動靴ではなく、舗装路に向いた――それ以外には全く向かない――一枚革の紳士靴であることを忘失していた。落ち葉の積もった坂道を数歩駆け上がった瞬間、彼の右足は主人に対して反旗を翻し、胴体を地面へと引きずり下ろした。枯れた草葉がぐしゃりと鳴り、うめき声がその後を追った。遠くのほうで誰かが一番乗りの雄叫びを上げたと思えば、続いて、
「あー、ハリーが転んだー」
「だーいじょーうぶー?」
 と、あちこちから気遣うような、しかし差し迫ってはいない声が木霊するのである。
 ややあってから、芝生に突っ伏していた青年はおもむろにその身を起こした。くぐもった笑い声が枯れ草の間を低く這い、さながら怪奇映画の一場面であった。
「よくもやってくれたなあ――良いか君たち! 紳士淑女を目指すなら正々堂々としていなくちゃあ駄目だ! 小細工なしでやってみろ!」
 墓から蘇った怪物は、暗色の髪に纏わる落ち葉を散らしながら跳ね起き、負け惜しみのようにスポーツマンシップの重要性を喧伝し始めた。そしてこのように主張した――次はもっとごまかしの効かない種目で勝負だ。
 動議は訳なく通過した。彼の紳士的精神が共感を集めたわけではなく、単に子供らが「赤信号、青信号」に飽き始めていただけである。種目は昔ながらの鬼ごっこへと変更された。青年は都合三度も鬼になり、さらに二回ほど転んで手足を土にまみれさせた。心配したらしい何名かの子供たちから声をかけられると、「自分にはバリツという日本由来の格闘技の心得があるので大丈夫だ」等と虚勢を張った(うち一名だけが言い回しを理解してくれた)。
 その間にも、年長者に対する遠慮を知らない子供たちによって、「四時の鐘が鳴ったときに鬼だった者はくすぐりの刑に処する」という、無慈悲な法が制定されていた。果たして彼は寄ってたかって息ができなくなるまでくすぐられる羽目になり、涙を流して笑いながら天を仰いでいた。少年少女はみな満足げに彼を囲んだ。

「旦那様」
 その時だった。今までにない異質な声が、場にいる全員の耳朶を打ったのは。
 礼拝を告げる鐘のような響きだった。日曜の朝に叩き起こされた怠惰者めいて、彼らはみな身を固くし、居住まいを正すと、声の主が誰であるかを探るために目を動かした。
 土手の際に身を寄せる彼らから、数ヤードばかり離れた位置に黒々とした影がある。背丈は六フィートを下るまい。艶のない黒一色の三つ揃えが、色あせた草地にくっきり浮き上がって見える。懐のところにちらちらと光るのは、恐らく時計を繋いでおくための金鎖だろう。これで片手によく研がれた鎌を携えていたなら、人影が死神であることを疑う者はいなかったはずだ。
 実際のところ、左胸に当てた手は地味な山高帽を持ち、もう片手は背に回されている。見栄えのする暗色の撫で付け髪、ひたりと前方に据えられた硬い眼差し、それは間違いなく成熟した男性の、否、紳士の姿だった。
「……やあ、ウィギンズ」
 重苦しい沈黙の後、真っ先に口を開いたのは誰あろう青年だった。ぎこちなく片手を挙げ、格好だけは気楽な挨拶の形を取ったが、笑みは奇妙に引きつっていた。彫刻家が顔面を仕上げる際にうっかり手を滑らせたような趣だった。
「お楽しみのところをまことに失礼いたします、旦那様」
 他方、壮年の紳士は眉一つ動かさなかった。そして青年のもとへ足音も立てずに歩み寄ると、恭順の一礼を美しく向けた。風が下草をざわつかせる中、一人の男児が、
「ねえちゃん、あの人だれ?」
 と尋ねる声がする。傍らにいた少女――先程までは両足を奔放に投げ出していたのに、今や自分は淑女ですと言わんばかりの横座りに変わっている――が小声で答える。
「ハリーのおうちの人よ」

 少女のいう「おうちの人」に対して、青年は目を泳がせながら向き合っていた。後ろめたさがあることは明白だった。
「一体どうした、その……こんな所まで。まさか散歩じゃあないだろう」
「ホテルまでお迎えに上がったのですが、お姿をお見かけしませんでしたもので」
 紳士の声色はただ穏やかであり、それでいて人間らしい温度は感じられなかった。
「心当たりを訪ねて回りましたところ、ご贔屓の倶楽部を経てこちらに行き着きました。遅参をお詫び申し上げます」
「いや、別に……」
「もう少し早く行動に移すべきでございました。あなた様に無用なご苦労をお掛けすることもなく済ませられましたものを」
 青年の服装を、主にシャツの袖口やスラックスの膝頭を凝視しながら、紳士は冷厳に言葉を続けた。と、その視線がやおら周囲の子供たちへと向けられる。
「それからもう一点、――西の空に翳りが見られます。遅かれ早かれ、雨になると見て差し支えないでしょう。年少の方々においては、速やかに屋根のある場所へ移動するか、少なくとも水辺からは離れることを強く勧めます」
 知らず神妙な面持ちで見上げていた子供らは、やがて互いに顔を見合わせた。紳士の声遣い、しかつめらしい顔つき、暗褐色の瞳に宿る鋭敏な光には、聴く者に一つの感覚を共有させる力があった。この言葉に耳を傾けなければ、間違いなく「無用なご苦労」を背負い込む羽目になると。
「そうだな、ようし、諸君! ぼくが認める、ウィギンズの言うことは正しい。すぐに帰るんだ。くれぐれも気をつけるんだぞ」  加えて、青年も満を持してまじめくさった顔になり、同調するようなことを言うものだから、場の空気はいよいよ一つにまとまった。誰からともなく、はーい、という素直そうな返事の声が上がる。
「日も傾いてきたし、寄り道なんかしちゃあだめだからな。そうだ、ケビンには誰か、……ジミーとアーニーがついてやってくれるよな? 同じ通りだって言ってたろう?」
 子供らがめいめいどこへ帰ってゆくのか、あるいはまだ帰るに帰れないのか、一切を把握したような口ぶりで、青年は年長者らしく指示を飛ばした。子供らもほんの十数分前までは、この自分たちを軽んじず、邪険にもせず、ある程度の生意気を許してもくれ、かつ十分な金を持っていそうな大人が、そのうちソーダ・ファウンテンでホットチョコレート、否、そこまでの贅沢は言わずとも、まあミルクセーキ一杯ずつぐらいは奢ってくれるのではという打算を抱いていたわけだが、今やすっかり頭を離れてしまったようだった。

 三々五々その場を後にする小さな背中を、青年は最後までしっかり見送った。彼らの姿が見えなくなるまでの間、天から一粒の雫も落ちてこなかったことに軽い安堵の息をつく。もうあと三十分も持ちこたえてくれれば、濡れ鼠になった挙句に風邪を引くなどという災難に遭わずに済むことだろう。
 けれども、その安らかな心地も長続きはしない。遥かに大きな難敵が控えているからだ。今にも軋む音が聞こえてきそうなぎこちなさで、彼は体ごとゆっくり振り返った。
「旦那様」
 そこには変わらず壮年の紳士が佇み、埋葬礼拝で説教をする牧師のような顔つきで、揺るぎなく彼を見据えていた。
「ああ――ええと、ウィギンズ」 彼は咳払いをしようとしてやめた。 「何か……」
「何から申し上げればよいものでしょう、旦那様」
 低く、ゆっくりと抑えられた調子で、紳士は――彼の従者は言い、普段に輪をかけて勿体ぶるように問いを発した。
「先に何かお尋ねになりたいことがおありでしたら」
「いや別に……そうだな、ぼくを迎えにっていうのは、その、車で?」
 心の底から愚問であると自覚しながら、彼は間を持たせるためだけに訊いた。実際はほとんど何の効果もないだろうと察しもついていた。
「はい、旦那様。お車はあちらの角に停めてまいりました。傍に警官もおりましたので」
「そうか、それならとりあえず行こうじゃあないか。警官がいるったって、万が一の事態が起きないとも限らないわけだから」
 彼は従者の手が示す先へと視線を向け、努めて明るい声を出した。曇りなく磨き上げられた銀色の車体は遠くからでもよく目立つ。間違いなく彼自身の愛車だった。
「お待ちを、旦那様」
 しかし、滑稽なほど軽やかな足取りで歩き出そうとした彼を、またしても従者の声が引き止めた。危うくつまづきそうになったところを、なんとか踏み止まって彼は顧みた。
「次は何だい、ウィギンズ――」
「失礼ながら、お召し物に一点ばかり欠けがあるようお見受けしますが」
「え? あ、……ああそうか、背広か。どこに脱いだんだったかな」
 三十秒以内に見つかりますようにと祈りを込め、彼は従者に背を向けた。幸い、再び膝を土で汚すまでもなく、上着はすぐに見つかった。手頃な木の枝に引っ掛けておいたのだ。スラックスより多少ましな程度に自然と同化したそれを、彼は何度か払ってから羽織り、従者の元へと戻った。従者は何も言わなかった。
 彼が今度こそ車に向かって歩き始めても、後ろからは何らの声もしなかった。だが、いざ乗り込もうという段になると、
「ちょっと失礼しまして」
 後部座席の扉を引き開けておきながら、従者は前進を許さなかった。そして彼が目を瞬いている間に、運転席の足元へ身を屈めて、畳まれたリネンを取り出すと、艷やかな革張りの座席一面へ広げた。
「なあ、ウィギンズ……」
 敷布をなるべく汚さないよう――どれだけ努力しても無理なものは無理なのだが――苦心してシートに収まりながら、彼は傍に立つ従者へおずおずと声をかけた。暗い淵のような目がちらっと彼を見た。
「……怒ってるよな?」
 無論、こう尋ねたからといって、はい怒り心頭に発しております等と、正直な答えが返ってくるはずもない。この年嵩の英国人が実に見上げた自制心の持ち主であることを彼は知っている。本心を固く秘することにかけては、テムズ川の牡蠣とでも張り合えるだろう。果たして、従者は声の調子を僅かばかりも変えることなく、
「よもや」
 としか言わなかった。程なく前後の扉が閉められ、20年式のロールス・ロイスは、東36丁目に向かって静粛に走り出した。

  * * *

 シャワーを浴びて出てきたとき、大地と仲睦まじくなりすぎた背広は姿をくらましていた。代わりに待ち構えていたのは、言うまでもなく従者だった。
「恐れながら申し上げますが、旦那様」
 糊のきいたウィングカラーをシャツに留めている間、低い声がそう切り出した。背筋が強ばるのを感じながら、彼は敢えて明るく笑った。
「何から申し上げるか決まったみたいだな、ウィギンズ?」
「はい」 軽口は一蹴された。 「順位を付けるのは難しゅうございました」
 筋張った大きな手がウエストコートを取り上げるのを、彼は恐々として眺めるほかなかった。幾度となく繰り返されてきた動きが、今日は不吉な儀式に見えて仕方がない。
「伯母上のミセス・グリムズビーが仰るには、あなた様は会食の途中で甚だしい頭痛と目眩に襲われ、ラウンジでお休みになっているとのことでしたが」
「……そうです」
 まともに正面を見ることができず、彼はただ順に留められる白いボタンを凝視した。
「さようなご連絡を頂きまして、わたくしはすわ一大事と伺った次第でございましたが、先程の旦那様は存外に生気溌剌としていらっしゃいましたね」
「……はい」
 白いタイが首の後ろに回されるときなど、ほとんど死刑囚めいた心地だった。まさかこのまま自分を絞め殺しはしないだろうが――そのような非道を働きはするまいという全幅の信頼は置いているが、それでも声を震わせずにはいられなかった。対する従者は魔術師のように優雅な手つきで、結び目を完璧な蝶の形に整えていた。普段なら見事な手際にしみじみ感じ入るところだ。
「あなた様のご健康を害するものがないことには安堵いたしましたが――」
「ほ、本当に」
「しかしながら、見知らぬ子供に『ハリー』などという、本来であればご友人に限って用いられるような、気安い呼び名をお許しになるとは」
「そんな、周りがジョニーやエイミーのところ、ぼくだけ『ロスコー様』ってわけにはいかないじゃあないか。皆で遊ぼうっていうときに……」
 正義の女神像から目隠しを取り去ったら、現れるのはこんな瞳ではないだろうか――そう思わせるほど「正常な」眼差しを前にしては、やっと試みた言い訳さえ、最後まで行き着かずに力を失ってゆく。自分に味方する十二人の男たちがいない以上、裁判官の心証を和らげるのは不可能であると思われた。この裁き手の中ではそもそも、まことの紳士とは見知らぬ子供と遊んだりしないものなのだ。
「旦那様、……わたくしは何も、街の子供らとの親しい付き合いをもって、あなた様を紳士ではないと申し上げるつもりはございません」
「そ、そうか?」
「しかしながら、成熟した精神をお持ちの方が、成長の途上にある者たちを軽んじず、親しみを込めて接することと、お心が未だご幼少のみぎりを離れがたく逗留しているということとは、些か趣が異なるかと存じます」
「はい……」
 光沢が出すぎて下品にならぬよう、隅々までブラシが掛けられた夜用のテールコートが、静々と彼の肩口に載せられる。両腕を袖に通してみれば、いつもよりずっと重たく感じられた。諫言の重みだ。伯母の行きすぎた愛情や叔父のつまらぬ自慢話、その息子に無心されて仕方なく貸してやる金などに比べても、遥かに身に堪える重さであった。
「それは、ウィギンズ、全面的にお前の言う通りであって、ぼくからは返す言葉もない。ぼくは嘘をついてホテルを抜け出したし、結果としてお前の仕事を何倍にも増やした。つまりだな、……本当にすまない」
 彼は力なく述べた。従者は袖口とシャツとの重なり具合を確かめ、襟首を整えては、静かに頭を振る。
「謝罪なさるとすれば、わたくしではなくご親戚の方々にでございましょう」
「それはそう――だから、ぼくもこうして着替えているわけなんだがな、うん」
 予定では、会食の後にもう少々(というのは伯母の基準であり、彼の主観では数時間)の談話を置いた後、どこかのクラブだかサロンだか、伯母が支援しているという芸術団体への訪問を行い、さらに夜はカーネギーホールで、なんとかいう百万長者が六十歳を迎えた記念のパーティーに出席することになっていた。華やいだ金曜の夜の過ごしかたとしては最悪の部類だ。
「ぼくは彼らに対して不義理を働いた、それは事実だ。――だけどなあ、ウィギンズ、その上でぼくは疑問なんだが、本当にこれは『高貴な義務』なんだろうか? その芸術団体だとか、なんたらいう名家の人々にしても、成金のどら息子がおまけに付いてきたからって嬉しいのか? ぼくはもっと意義のある方法で貢献するべきなんじゃあないか、社会とか……国家とかに?」
 尋ねたところで無駄だと解っていながらも、そんな問いが口をつく。その場しのぎの言い訳ではなく、それこそ「ご幼少のみぎり」から抱いていた疑念だ。生憎と、これも従者の心を動かすには不足だったようで、黒い影に纏わる厳粛な空気は、少しばかりも揺らがなかった。

「――旦那様」
 否、揺らいだ。彼の正装を万端整え終わったところで、どうしたわけか従者は微かに口元を緩め、ふっと息をついたのだ。
「あなた様のお振る舞いを拝見しますと、以前お仕えしておりましたお家の若様が思い出されてなりません」
 次は何を言われるのかと身を固くしていた彼は、一転して大層間の抜けた顔になり、この変化をつくづく眺めることになった。半開きの口から、はあ、と声が漏れた。
「その若様っていうのは確か、ドーナツが大好きで、週に一度は料理人に作らせていたとかいう……」
「いいえ、それはまた別の――さる子爵家のご三男であらせられる若様でございます」
 従者が首を横に振り、彼はいくらか混乱する。以前から気になってはいたが、この従者はやけに多くの貴族家を渡り歩いているらしい。英国の使用人というものは、一つ定めた家に長く仕えるものではないのだろうか――あるいは運悪く、長く仕えてもいいと思える家に巡り会えなかっただけなのかもしれないが。
「あなた様にご奉公する直前まで、わたくしはとある侯爵家に、執事としてお仕えしておりました。その侯爵家の若様でございます、わたくしが申しますのは」
「それで、その人とぼくが似てるってことか?」
 彼は言い、ふと考え込んだ。 「一体いくつだ、その若様っていうのは?」
「わたくしがお仕えを始めた時点では、六歳におなりだったかと」
「……そうかあ」
 二十歳を超えた男の言動を見て、六歳児が思い起こされるというのは、どう考えても褒め言葉ではあるまい。彼は嘆息し、同時に我が身を省みることとなった。あの場には小学校にも上がらないような子供たちもいたが、自分はそれと比べて立派な大人らしく振る舞えていただろうか?
「まことに自立心のお強い、聡明なお方でいらっしゃいました。あらゆる規律や作法に対し、疑問を抱かれればとことんまで反論なさったものです」
「ああ、良い意味で従順じゃあなかったんだな。面倒を見る側としては大変だったろう」
「はい。一方で、大変活動的なお方でもありました――保育室の窓から飛び降りようとなさるのをお止め申し上げたり、お庭の木から下りられなくなったところをお助けしたことも一度や二度ではございません」
「なんだそりゃあ、まるで猫だな! ……ぼくに似てると言われて納得だ」
 己の幼少期を思い返しながら彼は肩をすくめた。自分も概ね同じような子供だった。
「しかしながら、ご領地の人々からは、『エルムウィッチ・ホールのエディ坊ちゃま』と大層慕われておいででした。――使用人たちもみな、若様のことが大好きでした」
 静かな、けれどうっすら熱を感じるような声だった。ああ、言葉にされずとも察しはつく。遠くを仰ぎ見るよう僅かに傾いだ頭、柔らかな眼差し、細められた目に宿る光は、愛おしいものを懐かしく思い出すときのそれに違いない。第一、この従者が自分自身の過去について、こうも長く話すことなど今までになかった。
 彼は思わず小さな笑い声を漏らした。従者のいう「お屋敷奉公」にも、決して苦しい出来事ばかりでなく、幸福な記憶があったのだ。
「そうだな、ぼくもそんなふうに思ってもらえる主人を目指さなくちゃあな」
 呟き、彼は改めて正面を向いた。従者がサイドボードから鏡を取り上げ、一分の隙もなく完成された、「紳士」の顔を映し出す。
「いつもながら完璧だ、ウィギンズ。ぼくはこれで行く。……その若様もぼくと同じで、お前に着替えを手伝ってもらったり、うまい料理を食べさせてもらったりしてたのかな」
 疑問の形を取りつつも、彼の中には確信があった。ところが従者は首を横に振るのである。細い眉が微かに上がる。どうやら自分は間違ったことを言ったらしい、と彼が察すると同時、
「よもや。恐れ多くも侯爵家のカントリー・ハウスでございますよ、旦那様。お側仕えとしては保育室ナーサリー付きの子守女中ナースメイドがおりましたし、台所には専門の料理人ばかりでなく、台所女中キッチンメイドも複数人おりました。――本来、炊事や洗濯は執事の役目ではございません」
 いつになくきっぱりとした口ぶりで、英国の貴族邸における生活の一端が告げられた。彼は思わず真顔になり、はい、と神妙に答えざるを得なかった。
「それもそうか、野郎独りのアパートメントとは規模が違うよな、規模が……」
 水平方向には土地が足りなくなり、いよいよ垂直方向を目指さねばならない、現代のマンハッタンとは全く別の世界なのだ。彼は溜息をつき、また自分が従者一人に委ねている労働の量を思った。今日の自分がどれだけその負担を増やしたかについても。

 その時である。鏡を片付け、数歩身を引いた従者が不意に、
「もっとも、……一度もお食事をご用意したことがない、とは申せませんが」
 と口にした。それから何事か考え込むように沈黙し、続いて現在の主人を見やった。何か相槌を打つべきか、それとも聞き入るべきか、彼は迷った挙句に後者を選んだ。
 再び従者が口を開くまでには、さらに数秒を要した。やがて、柔らかさを取り戻した声が、傍らで見守る彼の耳に届いた。懐中時計の鎖が微かに鳴る音も。
「ご出立まではまだ暫し余裕がございますね。――ひとつ旦那様も召し上がりますか」
「えっ?」 彼は目を瞬いた。 「ぼくが? その、料理を?」
「さようでございます。今しがた思い当たりました――とある機会にお出ししたところ、若様から過分な賛辞を頂戴することになった一品に」
「そりゃあ実に魅力的な提案だが、つまり、今からってことか?」
「はい、旦那様」
 従者はさも見透かしたように、口元へあるかなしかの笑みを浮かべた。
「本日のあなた様のご動向を鑑みますに、大層お腹がお空きではないかと拝察しますが」
 図星を指されるとはこのことであった。なにしろ昼食会は最後のコースを待たずに出てきてしまったし、お茶の時間は言うに及ばず、その上で子供たちと繰り広げた長きに渡る死闘の数々……
 知らずごくりと喉が鳴る。その侯爵家の若様とやらがどれほどの美食家かは存ぜぬが、相応に舌が肥えているには違いあるまい。もしかすると味覚までも自分に似ているかもしれない。そんな人物がお墨付きを与えた一品とは。
「……すぐ出来上がるんだな、ウィギンズ?」
「お待たせはいたしません」 従者は確と頷いた。 「十分ばかり頂戴できましたら」

 果たして、本当に従者は彼を待たせなかった。きっかり十分の後、居間まで下りてきた彼の元に、温かな白磁の皿がしずしずと運ばれてきた。
 どうやらトーストのようだった。いかにも英国的な薄さの、金茶色に焼き上げられた白パンだ。その上に載っているのは――スクランブルエッグ。何の変哲もない、強いて言うなら普段より少々柔らかめに見える、バターの香り豊かな卵料理だ。彩りを加えるためだろう、糸葱チャイブが少々散らされているほかには、まったくもって平凡な品と見える。
「なあ、ウィギンズ……」
 彼は控えめに声を上げた。 「これは朝食か?」
「紳士にふさわしい佳肴セイヴォリーでございます。どうぞ温かいうちに」

 そりゃあ香りが良いセイヴォリーには違いないが、という言葉を飲み込んで、彼は皿に手を伸ばす。半熟卵が夜会服に滑り落ちるという悲劇を回避するためにも、ナプキンを身に付けた上、ナイフで一口大に切り分ける――と、断面を見て気付いた。卵の下には何かが塗られているようだ。柔らかな茶色をしたペースト、否、質感としてはホイップバターに近いものがある。さては、これが隠し味だろうか? 思い当たる節は全くないが、食べれば解ることだ。明るい秋の色をした三層を、一息に噛み締める。
 とろりと広がる卵の滑らかさ、さっくりと歯切れのよいパン、香ばしい匂い――だが、彼は全く違う理由で瞠目した。朝食らしい二品とは明らかに異なる、濃厚な旨味が溢れ、口中を満たしたからだ。塩辛く、けれども香味が効いている。黒胡椒や辛子、ナツメグの匂いもする。そして、どこか潮を思わせるような……
「いや、間違いないぞ」 思わず口走る。 「魚だ、これは!」
「まことにご明察でございます、旦那様」
 従者がうやうやしく頷き、彼の手元――もちろん次の一切れをいそいそと口に運ぶところだった――へ穏やかな目を向けた。ところが、続く台詞はこうだった。
「英国では一世を風靡いたしました、スコッチ・ウッドコックでございます」
山鴫ウッドコック?」
 調子外れな声で彼は復唱した。 「いや、山鴫は……鳥じゃあないか」
「はい、旦那様。ですが、こうした食べ物の名前にはよくあることでございましょう。『プレーリー・オイスター』に牡蠣が入っておりますでしょうか」
「入ってない。あれは喉越しを生牡蠣に似せて作ったってだけだ。――つまりそういうことなのか?」
「語源までは分かりかねます、旦那様。前世紀の料理でございますから」
 慎ましやかに頭を振る従者に、へええ、と返しながらもう一口。強い酒の一ショットも欲しくなる味だ。出かける前でなければそうしていたに違いない――少し癖のある、発酵も感じさせるような魚の風味に、スパイスの香りが調和している。それが卵の持つ甘みをぐっと底上げしているのだ。なるほどこれは朝食ではなく夜のためのものだろう。
「さっき魚と言ったが、アンチョビだろうな、これ」
「仰せの通り、塩蔵したイワシでございます。クローブとナツメグ、シナモン、タイムで香味を整え、唐辛子と黒胡椒を用いて辛味を加え、バターと合わせました。英国では『ジェントルマンズ・レリッシュ』の名で、簡便な既製品が販売されております」
「『紳士の味わい』と来たか! 最高にいかした名前だ」
 彼は口笛を――吹くのは従者の手前よしておいたが、眉を上げて頷いた。
「間違いない、こいつは大人の味だよ。しかし、その若様は六歳にしてこれを愛好していたわけか? ずいぶん渋いんだな。将来は酒飲みになるぞ」
「さようでございましょうか」 従者は声をやや低くして言った。
「いや、そりゃあ必ずとは言わないけれども。……今はいくつになってるんだい」
「今年で十五歳におなりあそばしたと存じます。心身とも健やかにお過ごしであると、わたくしは願うばかりでございます」
 浅い溜息が交じる述懐を、彼は静かに聞いた。そんなにも良い主人と家族に恵まれていたのなら、ずっと仕えていればよかったのに――という言葉が一瞬だけ頭をよぎり、すぐに消えた。ずっと仕えていたかったに違いないのだ。けれどもある日何かが起きて、それが叶わなくなったのだろう。そしてこの英国人は今、貴族のいない都市で金満家に雇われている。大西洋の彼方にある故郷を後にして。
「お前に育てられた……わけじゃあないだろうが、何かしら薫陶は受けているわけだ。きっと立派な紳士になってるさ。ああ、ぼくもそう願うよ」
「旦那様――」
「さて、もう少し時間はあるよな? ひとつ覚悟を決めるために、濃いお茶を飲めたら嬉しいんだが」
 従者は彼の目を見、緩やかに、しかしはっきりと首肯した。 「仰せのままに」

 足音もなく立ち去る黒い影を見送って、彼は肘椅子にゆっくりと体をもたせ掛けた。自分と同じ一皿、この素晴らしい調和を味わった幼子の顔を想像してみる。その傍らに佇む、質素な三つ揃えを着た壮年の男の姿も。目を輝かせる子供の前で、従者はやはり謹厳たる表情だったろうか、それとも今よりはもう少し愛想が良かったのだろうか?
 いずれにせよ、自分と接するときとは違った顔がそこにはあったのだろう――ほんの少し口の中が苦くなるような、喉の奥に何かがつかえるような感覚が彼に纏わりついた。これは羨ましいということなのだろうか? 羨んで何になるのか。自分が未だ、従者が仕えるに値する「紳士」でないのは自明の理だというのに。
 彼は深呼吸をし、居住まいを正すと、必要もないのにボウタイを掴んで位置を整えた。居間と廊下を隔てる扉を一瞥する。
 まずは何より、今日のことについてきっちり落とし前を付けねばならない。己は最早、享楽に耽るばかりの独身生活を送っていたあの頃とは違う人間なのだ。献身してくれる従者の身柄だけでなく、その従者が預かる見習いの少年に対しても責任を負っているのだから。
 きっといつの日か、従者は英国に戻り、再び集団の中で働く身となるのだろう。次の職場が居心地のよいものか、それとも使用人を家具か何かのように扱う無慈悲なものか、それは自分には解らないことだ。ただ、できるならば前者へと道を繋いでやれるような――そうしてある時、自分に仕えた日々もそう悪くはなかったと、懐かしく思い出してもらえるような主人でありたい。かつて従者がいた侯爵家の人々のように……
 吐き出した息はもう苦くはなかった。静かに扉が開き、盆を携えた従者が姿を現した。

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