空っぽの皿を手に取って、そこにあった料理を思い返す。


心を曇らせるもの -Leave No One Behind-

 大分と酔いの回った若い主人を風呂に入れ、寝間着に着替えさせ、温かなベッドへと送り込んで暫し、壮年の従者は階下にある応接にいた。宴の片付けのためである。
 淡いランプの光を帯びて浮かび上がる、緻密な草花模様の丸皿は、片手で食べるのに好適な数種の佳肴の晴れ舞台だった――それも今や、少々のソースやパセリの痕を残し、すっかり空になっている。カレー風味の詰め物をしたゆで卵、香草のソ―スとパン粉をかけて焼いた「牡蠣のロックフェラー風」。そして、薄焼き卵で鶏肉やきのこを包んだ「ダン・ガン」――主人から注文を受けたときには何が何やら解らなかったのだが、「中華料理だ!」とのことである――たち。みな好評だった。
 今夜、東36丁目の広々としたアパートメントでは、ある紳士クラブの会合が行われていた。探偵小説を愛好する者が集い、一冊の本を読み込んで、めいめいが推理や考察を披露する。今回の題材は英米で人気を博するスリラー作家の最新作だった。議論は大変盛り上がり、真相に辿り着いた後の談話にも花が咲く、となれば酒も肴も進むといった具合……
 客人たち、何より主人にとって、それはそれは充実した一時であったろう。であれば従者としては一安心だ。彼らの満足こそ、使用人が何より目指すべきものなのだから。
 金と時間は腐るほどあるが、負うべき責任は限りなく小さい――そんな都市在住の若い貴族令息たちに比べると、主人の朋輩たちは真の意味で紳士であった。要するに大変お行儀が良かった。半分も吸っていない煙草を灰皿ではなく食器や盆に押し付けて消したり、キャビネット内のあらゆる酒類を混交して真夏のテムズ川めいた「カクテル」を作ったり、挙句に窓から身を乗り出し、大ロンドン中に轟く声で「軍艦ピナフォア」の海軍大臣の歌を歌ったりもしない(かつて仕えた家の名誉のために言えば、その人物は後に半年間の出入り禁止となった)。今夜集った合衆国の紳士たちは常に礼儀正しく、給仕のちょっとした心遣いに丁寧な礼を述べ、気さくに接してくれた。応接に備わった数多の家具の一つではなく、一個の人間として従者を見ているようだった。
 そんな彼らの痕跡は、空になった皿のみならず、灰皿に残った短い吸い殻や、綺麗に畳み置かれたナプキン、居心地よい形に調整された数個のクッション等、応接の至る所に残されていた。仮にこの場を物語の中の名探偵が目にしたなら、たちどころに客人の素性を明らかにしてのけるだろう。例えば、集まったのは七人で、うち五人が喫煙者、一人はかつて喫煙していたが禁煙中。一人は左利きであり、また一人はどうやら下戸であるらしい、だとか――彼は頭を振り、サイドテーブルから暗褐色の瓶を手に取った。中に液体が残っている。この黒ビールはどうやら、紳士のお口には合わなかったようだ。

 と、従者はそこで部屋の一角に目を留めた。背の低いティー・テーブルの上に、一つ空になっていない木の角盆がある。いわゆるチーズボードとして出されたものだった。五、六種のチーズのほか、果物やハム、ナッツ類、クラッカー等がたんと盛られていたのだが、今や薄切りのバゲットが数枚に、チーズが一種類あるだけだ。角が立った濃いクリーム色の姿は、間違いなく熟成されたチェダーである。
 皿と瓶を載せた盆を片手に、彼は暫し考え込んだ。黒ビール、パン、チェダーチーズ。――もしかすると、あれを試してみる好機かもしれない。
 
 頭に浮かんだ思いつきを実行に移すには、まず眼前にある仕事を片付けなければならない。彼は場に残された物どもを残らず然るべき場所に運び、卓に残るパン屑等を拭き取った。白鑞細工のコースターを持ち上げたときには、その下に一ドル貨を見つけた。記憶が正しければ、ここにあったグラスにはリンゴジュースが入っていたはずである。彼は感謝と共に硬貨を懐に収め、ソファ上の敷布やクッションを元通りに直した。絨毯には箒をかけ、全ての窓にカーテンを引いた。
 最後に灯りを全て消す――闇が満ちた部屋に残る宴の気配は、せいぜいが微かな煙の匂いばかりだ。だが後片付けはまだ終わっていない。ここからは台所の仕事だ。

 数時間前まではよく暖まっていた台所も、今はすっかり冷え切って、秋が深まりつつあることを思い知らせてきた。時刻は既に夜半過ぎである。階上からも、同じ並びにある見習いの個室からも、物音一つ聞こえてこない。静謐な夜だ。
 その静けさを破る――とまでは行かないが、ほんの僅かな揺らぎを与えるのは、硬いチーズをおろし金で削る音だった。残されていた塊はさして大きくもなく、作業自体は数分もあれば終わってしまう。けれどもたった数分間で、深い眠りについていた厨房が再び目覚め、自身に力を与えてくれるような感覚を彼は味わった。
 続いて彼はマッチを摺り、ガスレンジに火を灯した。琺瑯の鍋を二つ火にかけ、片方では湯を沸かす。もう片方に一切れのバターを落とせば、間もなく深みのある甘い香りが立ち上り、しゅわしゅわと泡立つ音が聞こえ始めた。小麦粉を加えて丁寧にかき混ぜれば、程なくして白いルウが出来上がる。そこに残ったビールを注ぎ込む。間違っても派手な飛沫など上げないよう、少しずつ静かに。
 そこで彼は顔を上げ、サイドボードに置かれた帳面に目をやった。様々な調理書から抜粋し、また過去の同僚たちから聞き取ったレシピを書き溜めたものだ。開いたページの中程には、彼自身の字でこうある――「アメリカン・ゴールデンバック・トースト」。
 この奇妙な名前を見つけたのは、数ヶ月前に購った調理書の中である。主人のため新たな美味を開拓するのも従者の役割、彼はすぐにレシピを確認した。チェダーチーズとビールまたはサイダーを鍋で混交し、塩胡椒とマスタードで味を付け、バターを塗ったトーストに掛ける……
 自然な疑問が彼の頭をよぎった。――これはウェルシュ・ラビットではないのか。

 否。伝統的なウェルシュ・ラビットはここで終わりだが、レシピには続きがあった。最後にポーチドエッグを載せるのだ。刺激的なチーズとまろやかな半熟玉子が絡み合い、さぞ贅沢な味わいを生むことだろう。生むと解り切っている。なにせ作ったことがあるのだから。「ゴールデンバック・トースト」という名で。
 それで彼は、英国のレシピと何ら差異の見られない「米国の」トーストをどうするか考えた挙句、一応は新しい料理として帳面に書き留めたのだった。名前は間違いなく主人の気を惹くだろうし、食卓に上げる日が来ないとは限らない。もっとも、上げた結果として、「これはウェルシュ・ラビットじゃあないのか?」と言われる可能性は大いにあるけれども――

 ――そうして、そのまま実に数ヶ月が経過したというわけだ。手をつけぬままだった謎の料理が今、完成に向かおうとしている。冷水のボウルに取ったポーチドエッグと、代わりにコンロにかかっているフライパンを横目に、彼はビール入りの鍋をゆっくりと混ぜた。全体が滑らかになったのを確認し、すり下ろしたチーズを加え溶かしてゆく。くれぐれも焦がしたり、また煮立てたりしないよう心がけながら。
 木べらを動かす手さえ止めなければ、中身が急に姿を変えることはない。白黒に分かれていたビールとチーズが、段々と溶け合って琥珀色に移ろう。湯気と共に立ち上る、濃厚で香ばしい匂い――ふつふつという小さな音。彼は知らず識らずのうちに目を細め、耳を傾けていた。

 その時である、彼の聴覚が全く異なる音を捉えたのは。そろりと近づいてくる、抑えてはいるのだろうが確かな足音。歩幅は大股、靴底は布張り。室内履きを身に着けた、大人の男だ。――該当する者はこのアパートメントに一人しかいない。
 彼はすぐさま全ての火を落とし、エプロンの表面をさっと払って廊下へ出た。足音はずいぶん近くなっていた。もう姿だって見える。常夜灯一つに照らし出されているのは、丈の長いガウンを羽織った影。
「ウィギンズ?」
 日来の快活さが僅かに失せ、どこか舌足らずな口ぶりは、この若い主人が起き抜けの頭であることを示す。こんな夜更けに何用か、従者にはとうに察しがついている。
「御用でございましょうか、旦那様。お飲み物がご入用でしたら、わざわざお出ましにならずとも、ベルを鳴らして頂ければ――」
「うん、……うん?」
 欠伸を噛み殺しながら答えを返そうとしていた主人は、そこで寝ぼけ眼を二度、三度と瞬いた。そして微かに鼻を鳴らした。
「ウィギンズ」 こたびの声はもっとはっきりしていた。 「いい匂いがするな?」
「お腹がお空きでございましたか」
「いや、そんなつもりはなかったんだが、……いま空いた」
 彼は口の端を緩やかに持ち上げ、いくらかばつの悪そうな顔と向き合った。これこそ渡りに船というものだ。次に来る主人の反応をありありと思い浮かべながら、落ち着き払った声で答える。
「大変よろしゅうございます。お夜食は間もなく出来上がります――『アメリカン・ゴールデンバック・トースト』をお試しになったことは?」

  * * *

 金茶色に焼き上がったトーストが二枚、青い花輪模様の皿に載っている。
 片付けられた作業台の前には、ガウンの袖をからげた主人がそわそわと座っている。普段ならば決して見られない光景だ。もちろん従者は礼儀として、完成した品を食堂か応接へ運ぼうとしたのだが、主人が首を横に振ったのである。せっかく掃除の終わった部屋を、わざわざもう一度使うこともないだろうと。
「しかし、台所はあくまで作業の場でございます。旦那様のような紳士の方がお食事をなさる所では……」
「いいんだよ、ウィギンズ。ここはぼくの家なんだから、別にどこで食べたってぼくにふさわしくないことはないだろう。お前が来る前はぼくだって――」
 かつては独り暮らしだった若い紳士は、言い掛けて口をつぐんだ。過去の振る舞いを顧み、極めて保守的な従者の耳に入れるには不適切すぎると判断したのかもしれない。
「それに、ほら、ここのほうが――空気がいいから」
 正に空気のごとく曖昧な言葉と共に、主人は片手で宙を掻いた。微かに溜息を漏らしながら、従者は食器を全て揃え、温め直して味付けを済ませた鍋をコンロから下ろした。確かに、料理だけを食堂に持ち込むのと違って、ここには食材一つひとつの匂いや火の温度、湯気などの感覚までもが満ちている。それが主人には心地よいのだろう。
 さようでございますか、といつもの相槌を打ちながら、従者は大きな木のスプーンで、熱いソースをトーストにたっぷりと回し掛けた。リボンのように流れ落ちる濃い飴色、そして何より蠱惑的なチーズの香り――主人が息を呑む音は彼にもはっきり聞こえた。沈黙は数秒間続き、追いかけるように長々とした溜息が耳に入る。
「アメリカン・ゴールデンバック・トーストでございます、旦那様」
 最後にポーチドエッグを静かに載せ、胡椒挽きを添えて差し出したとき、主人の顔は昼日中と変わらず、否、勝るとも劣らないほど明るく輝いていた。ナイフとフォークを目掛けてまっすぐ両手を伸ばす姿は、食べ盛りの少年めいて見える。

 銀器を手にして、一瞬の間。卵を潰すのが勿体ないのだろうか、と彼が推測した次の瞬間には、銀の刃が薄い白身をぷつりと切り、黄金色の流れが皿の上に彩りを添えた。ソースとバターの染み込んだパンを頬張れば、少年じみた顔がますます稚く見えてくる。が、あくまでも主人は相応に舌の肥えた大人であった。
「アメリカン・ゴールデンバック・トーストか……」
 深い推察を思わせるたっぷりとした間。続いて、皿から給仕する者へと視線が向かう。熱の籠もったダークブルーの瞳が、彼を正面から見た。
「ウィギンズ、すごく旨い」
「お気に召したのであれば幸甚でございます、旦那様」
「このソースはチェダーチーズだろう。それに黒ビールも使ってる。チーズだけよりも味に奥行きがあるからな」
「まことにご明察でございます。その二者を味わいの根底に用いました」
 首肯でもって返しながら、彼は内心で考えた。さて、恐らくとうに出ているであろう結論を、主人が口に出すまであと何往復だろうか。心優しい若紳士のことだから、もう少し回り道を試みるかもしれない。
「やっぱりな。で、辛味はマスタードだろう。ペーストじゃあなくて、粉末のやつ……」
「仰せの通りでございます。余計な酸味を加えたくはのうございましたので」
 そうだろうとも、と若い紳士が頷いた。皿の上からは早くも一枚目のトーストが消えている。しかし、食べ進める手はそこで止まった。次に聞こえたのは、予想より躊躇いがちな声だった。

「ああ、――つまりだな、ウィギンズ。その……」
 碧眼が僅かに泳ぐ。 「これはウェルシュ・ラビットじゃあないのか?」
 一拍置いて、主人が頭を振った。 「いや、ウェルシュ・ラビットじゃあない」
「さようでございます」
「ゴールデンバック・トーストだ。前にお前が作ってくれた」
「記憶に留めていただき光栄の至りです、旦那様」
「それで、今回のが『アメリカン・ゴールデンバック・トースト』……」
 神妙な顔つきのまま二人は正対し、沈黙した。彼の身には奇妙な実感が湧き起こった――どうやら今、自分と主人とは気持ちが通じ合っているらしい。英国のレシピと比べ、これは一体何がアメリカンなのか、と。
「ぼくには解らん、ウィギンズ。これは何がどういった点でアメリカンなんだ」
「まことに申し訳がございません、旦那様、わたくしにも判断はつきかねます」
「お前にも解らないんじゃあお手上げだな! 料理の由来についてはお前のほうが数段博識なんだから」
 肩を竦める主人を前に、彼はもう少しだけ考え込んだ。雇い主の疑問に対し、こうもあっさり諦めるというのも従者の名折れだ。記憶にある限りのレシピを比較してみれば、何か手がかりが見つかるかもしれない。
「……強いて申し上げるならば」
「何か思いついたか、ウィギンズ?」
「英国の調理書におけるウェルシュ・ラビットおよびゴールデンバック・トーストには、味付けとしてウスターシャーソースが用いられることが多いかと存じます」
「それが無いからアメリカンだっていうのか? そりゃあ確かに、名前からして英国の調味料かもしれないが、合衆国でも普通に売ってるじゃあないか」
「仰せの通りでございます。――残念ながら、それ以外の差異は何も」
「お手上げだなあ。まあ、作った場所が合衆国だからアメリカン、ということにしてもいいんだが」
 苦笑と共に、再び銀のナイフが卓から持ち上がる。が、そこで若い紳士はふと動きを止めた。先程の彼と同じように、何か考え込む素振りだ。
「ウィギンズ、お前はこれを食べてみたか?」
 ややあってから発された問いに、彼は淡々と首を横に振った。
「いいえ、旦那様。もちろん試味するつもりではございましたが――」
「そこにぼくが下りてきたってわけだな。うん、それなら一枚はお前が食べてくれ、今」
 対する主人の答えも、特段予期せぬものというわけではなかった。付け足された一語を除いては。
「今、でございますか?」
「そう、今」
「……お心遣いはまことに嬉しゅうございますが、旦那様、わたくしが物食うさまを、あなた様のお目にかけるわけには――」
 型通りの文句でもって彼は遠慮したものの、とたんに主人は言葉を遮って、
「そうじゃあない――食べてくれというのは、意見を求めたいからでもあるんだ」
 と妙なことを言ってくる。真意を測りかねて彼は目を瞬き、適切であろう間を取った。
「つまりだな、ぼくたちはこれを前にして、どうも普通のゴールデンバック・トーストと変わりがないようだと感じたわけだ」
「さようでございます」
「それで、ちょっと考えたんだよ。それならこれを本当の意味で『アメリカン』にするためには、どう手を加えればいいだろうかってな。――となるとお前にも、一度自分が作ったものの味を確かめてもらわなくちゃあならないわけだ」
 一種の挑戦であるとも思えた。彼は一枚のトーストが残された皿を見、やや躊躇した――どうして主人は自分の意見など聞きたがるのだろう? 自分は英国人で、この国の食文化に通じているわけでもないのに。
 沈黙はどうやら悪いほうに取られたらしい。皿を前方に押しやろうとしていた主人は、そこでいくらか目を逸し、
「……どうしても見られるのが嫌だっていうなら、ぼくは廊下に出てるから」
 控えめにそう付け足してきた。主人が使用人に気を遣うなど、彼には理解し難いことなのだが、このアパートメントではずいぶん当たり前の光景だった。
「いいえ、旦那様、――表はお寒うございましょう。どうか席でお待ち下さいませ」
 彼はあくまで平静な物言いを心がけ、主人に無用な手間を取らせぬようにした。若者がほっと息をつくのが耳に届いた。

 使用人部屋で用いる色柄のない皿に、ソースのたっぷり掛かったトーストを移して、彼は静かに椅子を引いた。手元にあるナイフとフォークも、もちろん銀製ではなく鍍金めっきした真鍮だ。音を立てぬよう持ち上げれば、冷え切った金属の感触が、指先だけでなく胸の内にもひりりと伝わるようだった。
 背筋を伸ばして、慎ましやかな一口分を切り分ける。大口を開けず、長々と咀嚼せずとも飲み込める大きさに。もちろん、刃が皿に擦れる音など響かせてはいけない。一度フォークに載せたものを、うっかり取り落とすなどもってのほか……
 本当は解っているのだ。主人は決して、食事時の作法を監視するためにここにいるのではないのだと。この若紳士は、たとえ己の従者が少々耳障りな音を立てようが、食器の持ち方を間違えようが、咎め立てしようなどとは考えもしないだろう。今も自分の手元に視線を注ぐ、あの明るい夏の海のような碧眼は、今まで自分に向けられてきたものとは違う。一挙手一投足に目を光らせ、少しでも逸脱があれば物笑いの種にしようと、絶えず隙を窺うような目つきでは――

 彼は過去の記憶を意識の外へ追いやり、努めて味覚に集中した。冷静になって味わえば、やはり心に染み入るような良い品である。間違いのない味だ。今回は熟成の進んだチェダーを用いたため、それ自体に複雑さがあるが、そこに黒ビールの深いこくと苦味、マスタードの鋭い辛味が加わることで、全体がぐっと引き締まっている。パンのほうはさすがに焼きたての食感が失われ、随分と柔らかくなっていたが、これぐらいソースが染みてふやけたほうが好みだという向きもあるだろう。そして、味に変化を与えるのが半熟のポーチドエッグ――茹で加減は完璧だった。主人に供するものなのだから当然だ。彼は思わず安堵の息をつきかけたが、御前であることを忘れてはいなかったので、固く慎んだ。
「どうだ、ウィギンズ」
 彼が最後の一口を飲み込んだところで、見計らったように主人が尋ねてきた。瞳には、この男ならば違いが判るかもしれない、とでも言わんばかりの期待が見える。その期待を裏切るのがひどく口惜しく思えた。普段ならば平然として受け流せるところなのに。
「……はい、旦那様。やはり一般的なゴールデンバック・トーストと大差ないかと推察いたします」
 低く抑えた声で答えると、そうかあ、と応えがあった。意外にもそこまで残念そうな響きではなかった。
「お前が前に作ってくれたものとも変わりがないわけか」
「ほとんど何も。わたくしであれば、ここにウスターシャーソースではなく、ごく少量のステーキ用ブラウンソースを加えます――お出しした際にもそのようにいたしました」
「そうだったのか? なるほど、ただスパイスが効いてるだけじゃあない、辛さに厚みがあったのはそれか。隠し味ってやつだな、そうか……」
 若主人は感心したように何度も頷いては、記憶にある味を思い返そうとしているのか、目を閉じて軽く頭を上向けたりしていたが、やがて彼を正面から見据えた。
「じゃあ本題はここからだ、ウィギンズ。どうすればこれを『アメリカン』にできる?」
 改めて問われれば、やはり難問だった。そもそもゴールデンバック・トースト自体、ウスターシャーソースと同様に、米国でもごく当たり前に食べられている料理である。わざわざ「アメリカン」と冠するためには、並々ならぬ工夫が必要に思える。
 彼は黙り込んだ。本当は少しでもそれらしいことを言い、会話を繋いでおくべきなのだが、そうするのは不誠実ではないかと――またも常ならず考えた。
「そうだなあ、例えばぼくだったら」
 会話を繋いだのは主人のほうだった。長いガウンの裾を翻し、席を立って奥の壁際へ向かう。埋め込み式の食品棚がある場所だ。従者が仕入れる食材とは別に、主人が個人で買い求めた品が、しばしばそこに蓄えられるのだった。
「チェダーチーズの代わりにこいつを使うかな。単純な発想かもしれないけれど」
 さっと踵を返してきたその手にあったのは、蝋引き紙で包まれた塊だった。大の男の手のひらほどもあるそれは、本人の言から察するにチーズなのだろう。
「旦那様、そちらは」
「ミュンスター・チーズさ。ああ、マンステール・チーズの英語読みじゃあないぞ。れっきとした合衆国生まれだ。これはウィスコンシン産だ……この国でチーズといえばウィスコンシンと相場が決まってる」
 包み紙を手早く開いて見せながら、主人は声を弾ませて言った。差し出された両手の中には、橙色の表皮を持つ四角いチーズが、どこか誇らしげに鎮座している。漂うのは熟成された乳製品特有のぴりっとした、しかし刺激の強すぎない匂い。
「チーズボードに乗せてもいいもんだが、ミュンスター・チーズは何より温めたときが最高だよ。クリームみたいにとろけて、香りが何層倍も良くなるんだ。おまけに粘りが強すぎないから食べやすい。マカロニ・アンド・チーズなんかに使うと、まあ絶品だね」
 お世辞にも「紳士的な」食べ物とは言い難い名前が、主人の口から飛び出したことについて、彼は一言口を挟もうかと考えかけた。が、その活き活きとした声色と、輝きを増した瞳を前にしては、胸三寸に納めざるを得なかった。
「拝聴する限りでは、ゴールデンバック・トーストにも好適な品のようで」
「そうだ! ああ、でもぼくの口から説明するだけじゃあな。こういうのは食べてみるのが一番だ。ちょっと待ってくれよ……」
 そうして彼が黙っている間に、主人はチーズの包みを作業台に置き、その場にかがみ込んでナイフやまな板を取り出し始めている。穏便そうな諫言など考えている場合ではなかった。行動しなければならないのだ。
「お手を煩わせるわけにはまいりません、旦那様、わたくしが――」
 立ち上がり、一歩踏み出して彼は言ったが、若い紳士は制するように片手を向けた。そして刃がよく研がれていることを確認し、塊から一片を危なげなく切り取った。
「ほら、試しに一口」
 差し出された淡黄色の一片を、日来の機敏さを忘れたような手つきで彼は受け取った。無論、直接ではなく受け皿を介してだ。十数年の昔、さる家の従僕フットマンへと昇進したばかりの頃をふと思い出す――階上の晩餐会から下げられてきた大皿。そこに残っていた一枚のハムを、空腹に耐えかねて盗み食いしたときも、同じような動きをしていた気がする。
 
 ――レナード! 何をしている、一体どういうつもりだ!
 口に含んだその瞬間、今までに聞いたこともないような執事の叱声が飛んできたのを彼は覚えている。当然、ハムの味など感じる間もなくかき消えてしまった。使用人部屋に出される(そして自分はしばしば食べ損ねる)肉と違って、堪えられないほどの美味だったろうが、職を失う恐怖に勝るものではなかった。
 翻って今、どこからも非難の声などは聞かれず、口の中には確かにチーズの穏やかな塩気と甘みがある。上役の目に怯えていた頃からは信じがたいことだ。主人の眼前で、それも手ずから振る舞われたものを食べる日が来るなどとは。
「どんなパンに合わせても、まず喧嘩はしない味だと思うんだ。チェダーに比べたら、ちょっとばかり刺激は足りないかもしれないな」
 お前はどう思う? ――問われて初めて彼は口を開く。無難な阿諛など求められてはいないと解っている。主人は意見を必要としているのだ。自分自身の意見を。
「愚見ではございますが、……『優しい』という言葉がふさわしい味わいかと存じます。仰せの通り、パンやその他の食材を圧倒することはないでしょう。ミルクの風味も強く出すぎてはおりません。質の良いバターやナッツに近いかと」
「ああ、その喩えはぴったりだな! 当然、黒ビールにも合うはずだ。なんといってもウィスコンシン州にはミルウォーキーがある。ビールの殿堂だぞ!」
 ビール瓶をその手に掴んでいるかのような勢いで、若い紳士は断言した。もっとも、少しの間を置いてその勢いは弱まり、
「まあ、今のミルウォーキーでは、どの醸造所もビールなんて作ってないわけだがね」
 という付け足しがなされたが。
「そう一つの州に拘ることものうございましょう。ウィスコンシンだけが合衆国であると主張することにもなりかねません」
「それもそうか。いや、こいつは難しいぞ。味は犠牲にできないわけだし……」
 自ら立てた問いに苦戦する主人の姿は、しかし同時に歓びに溢れて見える。眠気などどこかへ逃げ去ってしまったようで、何者もこの紳士の探究心を阻むことはできないと思えた。
「そういえば、元のレシピじゃあビールは指定されてるのか? 種類とか」
「いいえ、旦那様。『ビールまたはサイダー』としか書かれてはおりませんでした」
「ずいぶん大雑把だな。そこの違いはかなり大きいように思うんだが。ううん、英国でなかなか手に入らないような、合衆国特有のもの、というと……」
「クリームエール等が該当しましょうが、やはり現在は入手が困難でございますね」
 むう、と呻る声が耳に届く。ごく気軽な残り物料理にこれほどまで入れ込めるのだ、やはり主人は台所が――そこで生み出されるものから、調理・創造の過程まで、全てが好きなのだろう。使用人の側から見れば大した越境行為とはいえ、こうも熱が入った姿を見せられては、力添えをしたくもなった。
「アルコールのみならず、広く飲料全般に視野を広げてはいかがでございましょうか。例えばあなた様もご愛好のコーラなど、肉のマリネ液や煮込み料理に用いられることもございます」
「コーラを!?」
 主人はぎょっとしたような声を上げたが、即座に拒絶せず考えることにしたらしい。暫しの間を置いて、
「……でも、そうか、砂糖と酸味料とスパイスが混じり合った液体、ってことだものな。味付けとしてバランスは取れてるはずだ。後はチーズと合うかどうかだが……」
 と真剣な検討を始めた。彼は付け加えるにふさわしい香辛料を二つ三つ提案しようと口を開きかけた。

「あっ――そうだ、ウィギンズ!」
 その提案は高らかな音と共に立ち消えになった。物理法則を発見したアルキメデスの如く、主人は喜色満面で彼を見た。
「いかがなさいましたか、旦那様」
「アルコール以外の飲料で思いついた。そのレシピにある『ビールまたはサイダー』のサイダーを、ぼくたちアメリカ人がいう意味で取るのはどうだ?」
「……つまり、リンゴジュースでございますか?」
 元の調理書――すなわち英国人の観点――では「林檎酒」を表していた単語の異なる用法を、彼は問題なく思い出すことができた。ところが、次に唇を掠めて出たのは、彼自身にも思いもよらないものだった。
「いいえ、旦那様、それは――」
 それが笑い声だと気付いた刹那、彼はすぐさま喉の奥深くへ押し込めようと試みた。結果、口にしかけていた言葉まで飲み込むこととなった。おかしさだけを都合よく拭い去ることが、どういうわけかできなかったのだ。今まで感じ、体に蓄えてきた調理場の温度が、血の気と共に引いてゆくのがはっきりと解った。
「やっぱり駄目か? うん、さすがに突拍子もなさすぎたかな、このアイデアは」
 つられたように主人が笑い出し、あの「お手上げ」のポーズを取る様さえも、どこか遠い世界の出来事に感じられる。それほど今しがたの自分は逸脱していたのだ――正常な使用人としての在り方から。
「今夜の会でロビイが飲んでたな、と思って試しに言ってみたんだが、いくらなんでも無茶か。なあ、ウィギンズ? ――ウィギンズ?」
 自らを笑い飛ばしているような声に、ふと訝しみの色が交じったことにも気付くのが遅れた。彼がやっと返す言葉を用意したのは、もう数秒も主人を待たせてからだった。

「旦那様」 生唾を呑む音が、自らの耳にはっきりと聞こえた。
「お許しください――とんだご無礼を……」
「ぶれい?」
 碧眼をぱちぱちと瞬いて、主人は彼の台詞を復唱した。 「無礼? 何がだ?」
「わたくしとしたことが、旦那様の御前であるという自覚もなく……よもやあなた様のご提案を笑うなどとは……」
 なおも主人は彼の顔をまじまじと見ていたが、やがて言わんとするところを理解したようだった。返ってきたのは、先程彼が投げたものと全く同じものであった。笑い声だ。
「おいおい、ウィギンズ! 急に何の話かと思ったら。そんなの、ぼくだってお前がコーラなんて言ったときには、とっさに無理だと返しそうになったさ。お互い様だろう」
 若い紳士は気にするなと言い添え、片手をひらひら振った。彼に纏わりつく冷たい呵責を振り払うかのごとくに。
「なあウィギンズ、ぼくは嬉しいぞ、これだけ話に乗ってきてくれて。お前から料理について聞くのは本当にわくわくするからな!」
 翳りも曇りもない、ランプの灯や電燈よりも暖かな光が、眼前でぱっと点いたように思えた。その光を頼りに、彼は先程までの自分自身を省みた――昼日中より饒舌になり、アイデアを練り、突飛な提案に笑いかけさえする。それはつまり、「わくわくする」ということではないだろうか?
「旦那様、……あなた様がそう仰るのであれば」
 が、まさか「自分も同じでした」と答えることもできず――模範的な従者に備わっていて当然の自制心が、彼の内にもすっかり蘇っていたので――彼はただ頭を垂れ、譲歩を示すに留めた。
「そういうことだ。だから別に、申し訳ないとか謝ろうだなんて思わないでくれ。いや、もしどうしても考えてしまうんだったら……」
 若い紳士はそこで一歩踏み込み、卓に片手をついて彼の目を見上げた。
「――リンゴジュースのことを考えてくれ」
「は」
「どうかして『サイダー』で作れないか、アメリカン・ゴールデンバック・トーストを」
 
 彼は目を伏せた。決然として見えることを期待して。再び瞼を上げたときには、従者にふさわしい謹厳な面持ちを取り戻していた。
「あなた様がそう仰るのであれば」
「本当か? 甘い夢を見る材料が増えたと思っていいな?」
 向かい合う顔に幸福が弾けた。 「ウィギンズ、やっぱりお前は最高だ!」

 子供じみた足音が行ってしまうと、厨房の中は再び夜の静寂に満たされた。空っぽの皿も鍋もすっかり冷えた。
 それでは心の内は? 使命に燃えている、などと大げさなことは言うまい。熱意だの血気だのが有り余ったばかりに、背筋の凍るような失敗をしでかした例は山と見てきた。あくまでも冷たく平らかな、銀器のごとき心で臨むべきなのだ、主命というものは。
 にも関わらず――この家の主は、そして周囲にいる人々は、何かにつけ熱の籠もった言葉や態度で向き合ってくる。そうも不釣り合いな温度で接されては、磨き上げた器も曇ってしまうではないか。非の打ち所のない調度品であったはずの自分は、一体どこへ行こうとしているのだろう?
 彼は押し黙って室内を見回し、先程まで主人がいた場所に目を留めた。包み紙の上にチーズが残されたままだ。完成品を夢見るあまり、材料のことは忘れてしまったらしい。
「ああ、旦那様」
 失笑だけはせずに済んだ。代わりに吐き出した息は、長く慣れ切ったものよりほろ苦く、それでいて暖かかった。 「あなたというお方は――」

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