取り次ぎを受けた中年の婦人は、若い紳士の言葉に大層喜んだ。


紙一重の共犯者 -Every Trick in the Book-

 聖書の朗読会を企画していたのだが、生憎とんと参加者が集まらないでいる、そちらのご令息をお誘いしてもよろしければ――つらつらと語られる、健全かつ道徳的な提案は、善良温雅な慈善家で知られる婦人にとってまたとない朗報だった。彼女はさっそく息子を電話口に呼び出し、ぜひ出るようにと後押しまでして去っていった。
 その会話を聞きながら、若紳士は――ヘンリー・ロスコーは、良心が微かに疼くのを感じていた。何もかも嘘だったからだ。

 とはいえ、真っ赤な嘘で婦人を――ミセス・サロウをだまくらかす羽目になったとしても、彼女の一人息子を連れ出さない理由は彼にはなかった。朝方の電話から数時間、待ち合わせ場所に現れた若者を見た瞬間、機会を設けてよかったと彼は心から思ったものだ。少年じみた顔に浮かび上がるのは明らかな解放の歓びであり、痩せた白い頬にも心なしか薔薇色の血が差して見えた。宵闇めいた双眸は、夜半の紳士クラブで見るときよりもずっと光を宿していた。秋の日差しのせいばかりではないはずだ。こんな表情を引き出せるのなら、自分はいくらでも嘘つきの罪を被ってもいい、そう思えてならない顔立ちだった。
 そして今、とある小さな公園のベンチの上で、二人の若者はめいめいに書物を広げ、活字を追っているのだった。聖書でないことは言うまでもあるまい。レキシントン街の書店から購ってきたばかりの探偵小説だ。隣に座った若者は、フランスの作家が物した怪奇小説を。うららかな小春日和とは些か取り合わせが悪いかもしれないが、この二人で読むなら他にふさわしい書もないだろう――少なくとも彼はそう考えたのだ。

 さて、そんな満ち足りた読書の時間を、若紳士のほうは一足先に終えてしまっていた。というのは、組版の都合なのか、外見に反して本文が思いのほか少なかったこと、途中あまりに冗長で、彼さえ苛立ちを覚えるほど衒学的な箇所をほとんど読み飛ばしてしまったこと(読み飛ばしても論理的解決に差し障りはなかったのである)等のためだが、結果としていくらかの間を持て余す羽目になる――もう二、三冊ほど軽めの読み物も買っておくべきだったかと彼は己を省みた。そして横を見た。探偵小説愛好家からなるクラブで知り合った、二十歳を数えたばかりの友人は今、分厚い上製本の半ばを過ぎて、少しも熱心さを失うことなく物語の迷路を辿り続けている。邪魔立てしては悪い。
 彼は頭を振って懐に手を入れ、背広の裏から黒い小冊子を取り出した。他の読み物といえば、手元にこれだけしかない。聖書だ。
 最低限の体裁ぐらいは取り繕う必要を感じ、出かける間際に懐へ押し込んだそれは、幼い時分に伯母から贈られたものだった(彼のアパートメントに存在する宗教的書籍の大半は伯母から送り付けられたものである)。確かに分量は結構なものだが、今更これを一から読み直すというのは苦痛にすぎる。彼は表紙を一瞥しただけで、あとは手中で弄ぶに留めた。それから、若者との間に置かれたものへ目を向けた――籐の編み籠だ。深い飴色を呈する外観には、これといって装飾などもない。だが、これこそ彼にとってもう一つの楽しみだった。恐らくは若者にとっても。
 今朝のことを彼は思い返す。窓の外は絶好の上天気、友人からは色よい返事。食堂へ赴けば、待っていたのはふっくらとした黄金色のオムレツに背肉のベーコン、トーストとママレード、熱いコーヒー。やがて朝食も終わるころ、壮年の従者がうやうやしく卓へと上げたのがこの籠だった。

 ――こちらをお持ちくださいませ、旦那様。ミスター・サロウにもご満足いただけることと存じます。
 あの従者が断言して間違いだったことがあるだろうか? 否。それで彼は蓋を開ける前から大いに満足し、足取りも軽く秋晴れの下へと繰り出したのだった。
 彼は夢想する――中にはもちろん食べ物が入っているはずだ。屋外で取る気軽な食事となれば、サンドイッチかソーセージロールか、それとも「アメリカ的な」ビスケット……見た目のわりにずっしりしているから、一種類だけで終わりということはないはず。瓶入りの飲み物に、もしかすると菓子のたぐいも二、三添えられているかもしれない。例えば(こちらは英国的な意味の)ビスケットにジャムをたっぷり挟んだリンツァー・ビスケット。そう、従者がちょうど先週あたり、庭で穫れたすもものジャムを仕込んでいたはずだ――
 当然の結果として、彼の口中には生唾が沸き起こり、胃袋の自己主張はにわかに強くなった。ビスケットがほろっと砕けて、バターが豊かに香り立つ瞬間や、ソーセージを噛み締めたとたん広がる肉と脂の味、甘酸っぱいジャムの鮮やかな紅色などが、後から後から浮かんでくる。
 彼はごくりと喉を鳴らし、ベンチの上で身じろぎした。自分自身の(とりわけ内臓の)堪え性のなさはよく自覚している。そう長くは持つまい。懐中時計を取り出してみれば、時刻は午後一時を回りつつある。普段まさに昼食を取っている時間だ。若者のほうでも空腹には違いない。ページを繰る手をひととき休め、黄金に色づいた木々など眺めつつ、とっておきの品に舌鼓を打つ好機ではないだろうか?

 眼差しに込めたその思いは、若者の横顔に届く前に枯れ葉めいて砕けた。瞬きもせず紙面に落とされたままの瞳、微かに寄せられた眉根、固く引き結ばれた薄く色のない唇――青黒い虹彩がごく僅か左右するほかに、動きという動きは見られない。ああ、この若者は限りなく物語に没入している。耽溺していると言ってもいい。外界のことにも、また己の内側のことにも、まるで関心を向けていないのだ。空腹などが太刀打ちできるはずもない。今、この若者にとっては物語こそが全て、俗世の煩いなど彼方に置き去りにしているのだろう――贅沢で退廃的なディナーどころか、五セントで買えるドーナツにさえ手の届かない、禁欲に支配された日常を。
 彼は深く息を吐き、忘我の境にいる友人に代わって、欲望を一時堪えることに決めた。この若者が日々味わっている飢えに比べたら、朝の十時に腹を満たしたばかりの自分の空腹が何だというのか。彼は腿に置いた自分の手を見、続いて友人がページに這わせる手を見た。自分よりずっと細く骨ばった、色の抜けた枝珊瑚のような指が痛々しかった。
 こうなったら、今日はもう何でも好きなだけ味わわせてあげよう、と彼は思う――籠の中に二人分の食事が用意されているとして、丸ごと食べさせてやっても構わない。顔を仰向け、バターの色をした陽光に溜息を溶かしてから、彼は再び隣へ目をやった。
 そこに目があった。星のない宵の色をした目が。

 覗き込む顔がもうあと一インチも近ければ、彼は間違いなく悲鳴を上げていただろう。そうでなくとも彼は思い切り肩を跳ね上げ、勢い余って手中のものを放り出していた。黒い表紙の冊子が宙を舞い、足元と呼ぶには遠い場所まで転がるのを彼は見た。
「え、エミ――」
「殺人事件より面白い顔をしてる自覚はないんだけど」
 彼の動転ぶりを愉快がるように、吐息混じりの声が言う。金の睫毛に縁取られた目が僅かばかり細くなった。
「いや、ごめん、もしかして気が……」
「これに気が付かないほど鈍な自覚もないね」
 歪んだ口元から目をそらし、彼は努めて冷静になろうとした。気を落ち着けて見ると、若者は座面に片手をつき、彼のほうへ乗り出しているのだった。もう片方の手は書物に挟まれている。読み終えるまで半インチというところだ。ともすれば一番の山場だったかもしれない。
「君は視線に心のうちが乗りすぎるんだよ、ハリー。良いほうも悪いほうも全部。一度パーシアス・リビングストンにポーカーフェイスの訓練でもしてもらったら?」
「パーシーに? 冗談じゃあない。あんな小狡い目つきを身につけるぐらいなら、全部ばらしていったほうがましだ」
 悪友の名を持ち出され、彼は顔をしかめながら断言した。それから当該人物がいかに悪辣な賭博師であるかを語ろうとしたが、すぐにそれどころではないと思い直した。
「まあ、とにかく――気を散らして悪かったよ。今いいところだったんじゃあないか。なんならぼくは少し散歩でもしてくるから、じっくり集中して……」
 決まり悪さをごまかすように、明るく朗らかな声を出す。けれども、一息に言い切るつもりだった台詞はふいに途絶えた。それよりずっと高らかな音で、腹の虫が抗議の声を上げたからだ。
「……あの」
 これ以上もない間の悪さだった。咳払いや軽口など、数々の悪あがきを検討した上で、彼はどれも試さないことにした。ややあってから聞こえてきたのは、細い喉に籠もった笑い声だった。
「赤点もらった子供みたいな顔するなよ、ハリー」
 若者が身を起こした。 「君は大体いつも、この時間に腹が減るんだな」
「まあ、大抵は。昼食が一時なんだ、特に予定がない日は」
「だけど僕はいつでも減ってる」
 少しばかりからかいの抜けた視線が、横手にある籠に向けられるのが判った。中身に対する期待のほどは、若者も同じようだった。
「ハリー、ねえ、僕が思うようなものがそこにあるんだろう。開けてくれよ」
 彼の内心にある波立ちや罪悪感を、軽く撫で払うような響きだった。 「僕にも頂戴」
 断る理由はなかった。彼は荷物に手を掛けたが、しかし先に自らの失態を思い返し、立ち上がって放り出したままの冊子を拾いにいった。枯れ葉が立てるかそけき音の後ろで、若者がまたおかしそうに喉を鳴らした。

 籠の蓋を開ければ、真っ先に目に入ってくるのは橙色の布包み――手触りの柔らかなそれを解き、中身の蝋引き紙を開いてみれば、香ばしいバターの匂いが立ち上ると共に、美しい金茶色のペイストリーが現れる。厚みといい大きさといい、少食の者なら一つで満腹になりそうな量感だ。それを従者は四つも包んでおいたのである。主人とその友人の食欲について、実によく把握していると言えよう。
「これ、パン?」
 横から覗き込んでいた若者が、手のひらほどもある半月型の生地を指差して尋ねた。
「ああ、コーニッシュ・パスティだ! パンというよりはパイだよ。硬めの生地に、肉とかジャガイモとか、チーズなんかを包んでオーブンで焼いたものさ」
「何それ、英国の料理?」
 彼が説明してやると、堪らないとばかりの声が返ってくる。 「音がもう美味しい」
「だろう? この説明だけでお腹がいっぱいになる、ってぐらいの食べ物だ」
 かつて同じ状況に置かれたとき――無論彼が従者の説明を聞く立場だった――を思い返しながら、彼は感慨に浸るように頷いた。ところが次に投げ返されたのは、
「ふうん、君は音だけで腹が満たされるわけ?」
 という失笑交じりの言葉だった。同時に彼の胃袋がまた呻いた。
「……今のは撤回するよ、エミール。満たされるわけがない」
「当たり前だろ」
 君にそんな堪え性があるとは思えないね、と付け加えられた台詞に、なんとか文句の一つも言ってやりたかった。が、彼には無理だった。返す言葉もないとはこのことだ。
「取り繕っても無駄だな、君の前では。それじゃあ大人しく、物質的なもので満足を得ることにしようじゃあないか」
 彼は肩をすくめ、パスティの一つを取り上げた。隣からすぐさま手が伸びてきた。

 硬い綴じ目を両手で持ち、艷やかな焼き色の皮に齧りついた瞬間、口に広がったのは強い旨味と甘みだった。柔らかく味の濃い牛の腹身スカートと、その脂が染み込んだタマネギ、カブ、ほくほくとしたジャガイモ――それらを引き締める胡椒の辛味と、バターが香る皮のざっくりした食感。
 ああ、これこそパスティだ。飾り気のない、それでいて味わいに溢れた、秋に打ってつけの一品だ。彼はしみじみと感じ入り、口の端についた脂と皮の破片を指で拭った。その時だ。横からふと、
「野菜が……」
 という、戸惑いの揺らぎを帯びた声が聞こえたのは。
 彼は隣を窺った。一口分が齧り取られたパスティを手に、若者が憮然とした面持ちで固まっている。
「うん、野菜が、……そりゃあ、野菜は入ってるさ」
 これはしくじったか――直感が彼に働きかける。今すぐ取り成しの言葉を考えるべきではないか、と。
「いや、もちろんウィギンズだって解ってるはずだ、君が野菜にうんざりしてるってことぐらいは。でも、この料理については、色々と理由があって」
「ハリー、違うよ」
 幸い、下手な間に合わせの台詞を続ける必要はなくなった。もし従者が聞いていたら、主人の交渉力の低さにさだめし失望したに違いない――彼は苦笑いを堪えながら友人の言葉を待った。
「野菜がすごく……甘い、というのかな」
 果たして、訥々と話し始めた若者の目に表れていたのは、河原から砂金でも見つけたかのような驚嘆の色だった。
「味が詰まってる。ジャガイモとタマネギなら解ったんだけど、この橙色の、何?」
「スウェードのことかい?」
「スウェード?」 若者が片目を眇め、首を傾げる。 「スウェーデン人Swedeがどうかした?」
「ああ、つまりカブの一種で……合衆国だと何か別の名前があるのかもなあ。英国ではそう呼ぶって聞いた。実際にスウェーデンから伝わったらしくてね」
 味を確認するように、彼は手元のパスティを改めて齧った。完全に火が通った橙色の根菜は、一般に見られる白いカブとも異なる風味だ。より甘みが強く、蒸かした芋類に近いかもしれない。英国の一部地域――それこそコーンウォールや、スコットランド等では「カブ」といえばこれを指すのだと、彼は従者から聞いていた。
「君のいう『詰まってる』ってのはぴったりの言い方だなあ。本当に身が緻密で、味も濃いし。これが普通のカブより安い扱いだっていうのは不思議だ」
 なにしろ元々は家畜の飼料として用いられており、人間が食べるのは食糧不足のおりぐらいだったという――例えば戦時中だとか。そう考えると、従者がこの秋らしい色の根菜に「紳士の召し上がりものではない」判定を下さなかったのも不思議になってくるが、時代と共に食材の捉え方も変動しているのだろう。
 ――そうだ、良し悪しなんていくらでも変わるのさ。そのうち合衆国の大統領だって、コーヒーにドーナツを浸して食べるような日が来るかもしれないぞ。
 彼は心密かにそう考えては、パスティの最後の一口を頬張った。隣から聞こえてくる同様の音を聞きながら。
「ん、……ミスター・ウィギンズにはよろしく伝えておいてよ。おかげでカブを避ける理由が少し減りましたって」
「もちろんだとも。君の口からそんな言葉が出たと知ったら、きっと喜ぶぞ――ぼくと同じぐらい。なんたって野菜に罪はないんだからな」
 友人からの素直な称賛に、彼はいきおい笑みを濃くした。次いで何の気なしに言葉を付け足したが、一拍置いてはっと息を呑んだ。しまった、と。
「その、今までの君がおかしかったとか、そんなことを言うつもりはないけれど……」
 間違いなく友人の感情を逆撫でただろう、ただでさえ野菜に対する恨みつらみを抱えながら生きているところに、あんな一言を向けてしまっては――冷ややかな文句の一つ二つは覚悟して、彼は若者と向き合おうとした。

「そうだよな、ハリー」
 全くもって意外なことに、返ってきたのは肯定と、力のない笑みだった。彼は思わず目を瞬き、呆然とその顔を見返した。
「野菜に罪はないよ。……でも僕が好きになるものは、『罪のある』ものばっかりだ」
 自分自身を殴りつけてやりたくなった。けれど、そうしたところで友人が抱える痛みの半分も味わうことはできないのだ。若者は生まれてから今まで、絶えず殴られ続けているのだから――人殺しや怪物の登場する物語、ふんだんな砂糖と油脂、獣の肉や魚、美味しいものを求めることはみな罪であり、悪徳であり、治療するべき病だと。父母を敬わないこと、日曜日に教会へ通わないことや、貞淑で慎み深い「立派な女性」と交際しないことも全て。
「エミール、すまなかった」 彼は声を絞り出した。 「本当にすまない。ぼくは――」
「君は」
 そして彼が見たのは、張り詰めていた若者の面持ちがほろりと解ける様だった。否、決して緩みきったわけではない、眼差しには凝縮された熱がある。懇願するような熱が。
「でも君は、僕と罪を犯してくれるひとだろう。僕は知ってるんだ、ハリー」
 もちろん、と彼は即答しかけたが、何かが喉につかえた気がして声には出さなかった。もっと他に答えるべきことがある、そう思われた。
「罪だとは思わないけど」
 やっとのことで彼は言った。実際には数秒ほどの間だったろうが、ひどく待たせたと彼には感じられた。
「ぼくは君の好きなものにも、君そのものにも罪なんてないと思うけれど、もし誰かが――それが誰であれ、罪だと決めつけるようなら」
 ゆっくりと呼吸し、深い色の瞳を覗き込む。そこに映し出される苦しみや痛みから、目を背けるつもりはないと示すように。
「いつだってぼくは君の側に立つ。いや、ぼくだけじゃあない、クラブのみんなを考えてくれ。ぼくたちみんな、共犯者だってことにしよう。なんてったって――」
「『レッド・ヘリング』っていうぐらいだからね」
 彼の言葉を若者が継ぎ、やにわ笑い声を漏らした――気の抜けたような、険の取れた笑みだった。
「ありがとう、ハリー。……ほら、もう一つパスティを取ってくれよ。安心したら余計腹が減ったじゃあないか」
 それで彼の緊張も少しは緩んだ。もちろん、若者が自分に気を遣い、無理をして話題を変えてくれた可能性はある。それに今はともかく、この後で家に帰ればまた、若者は山積みの問題に直面しなければならない。ここで与えてやれるのは、一時の気休め程度でしかないのだ。だが、気休めだけで終わらせるつもりもない――若者にも、もちろん自分にも、自由に生きる術があるはずだ。
「よし、なにしろ戦いには腹ごしらえが必要だ。まずは食べよう。パスティ以外にも、ウィギンズはいろいろ用意してくれたみたいだし」
「らしいね、――ハリー、その蓋の裏」
「うん?」
 彼は若者の指先を目で追った。裏返された籠の蓋に、掌大の紙片が張り付いている。手に取ってみると、黒いインクの流麗な筆跡――間違いなく従者のものだ。文面は……
「……メニューカードだ、これ」
 あれこれと妄想を逞しくしていた、少し前の自分が思い出されて、彼は苦笑せずにはいられなかった。最初から全て書き記されていたのだ。
「食べ物しか見えてないんだな、君」
 と若者もからかうように言ってくる。 「で、何があるわけ?」
「君だってそうだろ――ええと、まず『パスティ二種』だ、……二種だって?」
「二種? つまり、こっちの二つは中身が違うってこと?」
「そうらしい。これによると、『牛腹身とジャガイモ』がさっきのやつで、もう一つが『豚肉とリンゴの煮込み、セージ風味』」
「何それ」 若者がごくりと喉を鳴らした。 「ハリー、食べないと」
 もちろん彼も、今すぐ二つめに齧り付きたいのは山々だった。が、彼らを待ち受ける美味の数々を、まずは従者の美しい文字で確認したいという気持ちが僅かに勝った。
「それから、『栗と鶏肉のポタージュ』……確かに魔法瓶が入ってるな。自分の視野の狭さが恐ろしくなってきた」
「やっぱりリビングストン家の厄介になったほうがいいんじゃない? 君」
「今回は御免被るよ。そりゃあ奴のお父上は、マンハッタン島のヒポクラテスと呼ぶにふさわしい人だけど、眼科医じゃあない」
 ニューヨークでも屈指の名医、自らのかかりつけ医でもあるドクターと、同じ血を引いているとは思えぬ悪友の顔とを思い浮かべ、彼は眉を顰めて首を振った。けれども、その顰め面も一時のことだった。続きにこう書かれているのを目にしたからだ。
「――『リンツァー・ビスケット二種』、やったぞ、すもものジャムだけじゃあない!」
 彼は思わず声を大きくし、パスティを頬張る若者に向けてカードを突き出していた。
「見てくれ、エミール! 『シナモン風味のパンプキン・バタークリーム』だって!」

 興奮に満ちた彼の叫びを、若者は無言のまま冷静に――口中に広がる味わいに夢中だっただけかもしれないが――聞いていた。やがて再び開かれた唇から、
「本当に? 視野に不安があるんじゃなかった?」
 と軽口が飛ぶ。
「心配しないでくれ。今日一番で開けてる」
「彼の字が達筆すぎて読み間違えてるんじゃない?」
「まさか! ほとんど毎日見てる字だぞ。達筆すぎるのは否定しないけど――とにかく間違いないよ」
 確信をもって彼は断言した。一拍置いて、若者がひゅうと口笛を吹き鳴らした。

 そうして後に控えた料理の数々がどれほど美味であったか、若い主人の満足のほどがいかばかりか、どうすれば従者に余すことなく伝えられるだろう? 籐籠に収められていたブリキ缶から、ビスケットの欠片をつまみ上げつつ、彼は深々と溜息をついていた。ちらと横に目をやれば、若者は木のカップに入ったスープを大事そうに味わっている。
 どれを取っても非の打ち所がない品々だった。もう一種類のパスティは、齧りつけばたちまち解れる肉と、さっくりとした歯触りを残したリンゴ、そして脂身の旨味が渾然一体となって、貪欲な胃袋を満たしてくれた。魔法瓶のおかげで程よい温度が保たれたポタージュは絹か天鵞絨かというほど滑らかで、舌を優しく素朴な風味で包むのだった。
 しかし何より彼が気に入ったのは、やはりリンツァー・ビスケットだ――もともと大好物には違いないのだが、おなじみの赤すぐりを使ったものより、今回は一層芳醇だ。酸味と共にマルサラ酒の、あのバニラやアーモンドに似た香りが感じられる。
 そればかりではない、秋の陽溜りを思わせる色をした、パンプキン・バタークリームの濃厚な味わいときたら! カボチャの持つねっとりとした甘みを、バターの仄かな塩気とシナモンの香りが何層倍にも膨らませているのだ。言うまでもなく、ビスケットの持つ歯ごたえは上品かつ軽やか、計算されたかのように口の中で解けてゆく。

 自分と同じぐらい、あるいはそれ以上に若者も満足してくれていればいいのだが――再び隣を見ると、若者は感じ入ったように目を細めながら、やはりカップを掴んだままだ。そんなにゆっくりと飲んでいては、終いまでにすっかり冷め切ってしまうだろうに。
 けれど同時に、若者の心境も彼には容易に推察できた。終えたくないのだ。なにしろ本と違って、籠の中の品々は食べれば無くなってしまう。若者の両親が天の光を憧れるように、否、それよりも激しい情念をもって求めた数々の品を、ほんの数十分の楽しみで済ませたくはないに違いない。
「エミール、君にしちゃあペースが遅いな。もう満腹かい」
 彼は敢えて軽い声を出し、冗談めかして問いかけた。ん、と小さな音で応えがあり、
「……まあ、そんな感じかもね」
 薄い木の縁から口を離した若者の、普段よりは控えめな言葉が耳に触れる。
「そうか。なあ、本人のいないところで悪口を言うのもなんだが、どうもウィギンズは君の胃袋の容量を見誤ってるらしいぞ」
 出しに使うことを胸中で従者に侘びつつ、彼は目を瞬く若者に向かって続けた。
「ほら、見てくれ――ぼくは自分の割り前をみんな食べてしまったのに、ビスケットがまだこんなに残ってるんだ。それに魔法瓶の中にも、あと二、三杯ぶんはあるはずだぞ」
 宵闇の色を帯びた目が、彼の眼前で僅かに大きくなり――きっとその視界も、まさに「今日一番で」明るく開けているのではないだろうか――、色素のごく薄い顔全体が、輝いているとはっきり言えるぐらいの喜色に満ちた。
「ああ、ハリー、そんなこと言うと」 吐息混じりの笑いが若者の口から漏れた。
「本当に全部平らげちまうぜ。なにせ君と違って、意地が悪いし根に持つ性分なんだ。僕の消化能力がどんなものか、是非とも彼に思い知らせてやりたくなる」
「その意気だ、エミール。次にお茶に来たときには、テーブルに乗り切らないぐらいにお菓子を出すべきだと覚悟させてやれ」
 焚きつけるように言いながら、彼は魔法瓶の蓋を捻って開けた。広い口からふわりとブイヨンの香りが立ち上る。受けて立とうと言わんばかりに器を差し出してくる友人が微笑ましくて仕方がなかった。
「これぐらい欲深くたって、罪には値しないだろう。後でお互い本を交換でもすれば、日が暮れるまでは楽しんでいられるさ……」

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