小気味良い音に衝き動かされて、白球が秋晴れの空に舞う。


昼食時の決闘 -Be a Good Sport-

三十対零サーティ・ラブでございます」
 その快音ほどには明るくも爽やかでもない、よく通るものの淡々とした声が、簡潔に場の現況を述べた。言葉を発したのは身の丈六フィートを超える、黒一色の三つ揃えを纏った壮年の偉丈夫で、声と同じほどに顔つきも淡然としていた。手前には高さにして一ヤード、幅はおよそ九ヤードという白いネットが張られており、それを挟むように二人の青年が睨み合っている――手に木製のラケットを携えて。
 否、「睨み合っている」とは些か単純化された表現かもしれない。より正確を期すのであれば、暗褐色の髪を持つほうが一方的に対戦相手を睨めつけており、反対側に立つ金髪のほうは余裕綽々、慈愛とも憐憫ともつかぬ流し目で見返している、という具合だ。
「あれぞまさしくサービスエースってやつだな、ハリー」
 金髪の青年が鼻で笑い、ネットの向こうを顎でしゃくった。
「きみもさっきまでは随分やかましかったが、とうとう文句のつけようがなくなったと見える。まあ、さすがに今のを目の当たりにしちゃ声も出な――」
「黙れ、パーシー」
 もう一方の青年が遮った。 「君にはウィギンズの料理を食わせないぞ」
 試合は大詰めであった。知人間の気軽な対戦ということで、組まれたのはごく単簡な一セットマッチだ。そしてパーシーと呼ばれた金髪の青年は、既に五ゲームを先取している。――もう一方の青年は三ゲームだ。この回を落とせば敗北は確定、ゆえに一寸のミスも許されない。眼差しや声色が明確な棘を帯びるのも、致し方ないといえば致し方ないのだろう。
 この場において唯一、感情らしい感情を表に出さず済ませているのは、審判を務める壮年の男だけである。片方のラケットが派手に空を切り、間髪入れずボールが地に叩きつけられても、
三十対十五サーティ・フィフティーンでございます」
 眉を上げて肩をすくめる金髪の青年にも、また力強く両の拳を握る茶髪の青年にも与することなく、ただ無表情に告げるばかりだ。審判として公平を期すためか、はたまた根本的な性格の問題なのか、どれほどラリーが長引き、点数が推移しようとも、冷たくしかつめらしい顔つきは微塵も揺るがなかった。コートに張り詰める空気と、傍目からでも判る試合の白熱具合に、通りすがる公園利用客たちもしばしば足を止めては彼らをしげしげ眺めてゆくのだが、その視線にもまるで構いはしなかった。そして、とうとう無情な瞬間――
「試合終了。ただいまの結果は三対六でミスター・リビングストンの勝利でございます」
 向かいのコートから放たれた鮮烈なボレーを、茶髪の青年が大きく空振りしたときも、やはり男の目は瞬きさえしなかった。一拍置いて悔しげな声がネットを震わせ、軽やかな口笛が吹き鳴らされても。

「よう、ご苦労様、ウィギンズ!」
 見事な勝利を収めた金髪の青年は、ラケットを小脇に、右手を顔の横へ挙げながら、審判のほうへ歩み寄っていく――無論ハイタッチを求める構えである――が、
「まことに目覚ましいご活躍でした、ミスター・リビングストン」
 壮年の男は丁重な賛辞を返しながらも、さっと身を引いてかしこまり、気軽なスキンシップには応じなかった。表情もいたって沈着なままだ。
「お褒めにあずかりどうも。こういう天気の良い日は汗を流すに限る。きみにとっても少しは気分転換になったんじゃないか」
 片手を空振りさせた金髪の青年、パーシアス・リビングストンはさして気を悪くした様子もなく、その手をひらひら振りながら反対側のコートへ向き直った。そこには当然、敗者が残されている――もう一人の青年が。

 ヘンリー・ロスコーは切歯扼腕していた。数時間前にこなしたはずの朝食が、臓腑の奥底からこみ上げてくるようだった。握りしめたラケットの柄は汗でべとついて気分が悪い。それにも増して腹立たしいのは、こちらを涼しげに眺める対戦相手の態度である。
「パーシー!」
 どこか勿体ぶったような足取りを、きっと睨みつけながら彼は声を上げた。
「今のは――試合として成り立ってないだろ! 今からでも三セットマッチに……」
 本当は最後まで決然としていたかったのだが、お終いは少々勢いに欠けていた。潔くないという自覚はあったのだ。その上、いつの間にか傍らに移動していた壮年の男が、
「旦那様、初めに一本勝負とお決めになったのはあなた様でございましょう。後から反故にするというのは、些か競技精神の欠如したお振る舞いではございますまいか」
 と、全き正論でもって諌めてくる。彼は呻き声を上げ、ダークブルーの目で側に立つ男を――自らに仕える従者をじろりと見た。一方、対戦相手の青年は、その発言を支持するように大きく頷く。
「その通りだ、ウィギンズ。やはり優秀な召使いは言うことが違う。紳士に必要なのはフェアプレイの精神だぞ、なあハリー?」
「何がフェアプレイの精神だ! 隙あらば狡い手に出る男のくせに!」
「いやいや、そうは言ってもこれはテニスだろ? もしポーカーやブリッジだったら、いくらでも仕掛ける方法はあるが――」
「仕掛ける気はあるってことじゃあないか!」
「言葉尻を捉えるのはよせよ、ハリー。とにかく、テニスの一対一シングルスで何かサマをやろうとなったら、薬に頼るか、審判をどうにかするぐらいだろう。きみはウィギンズが汚い行いに手を貸したとでも?」
 なんとかして相手に一撃食らわせたいという彼の敢闘精神は、しかし先刻の試合同様、青年によって飄々とあしらわれた。問われて彼は顔を仰向ける――清潔なタオルで彼の汗を拭い、髪を整え直していた従者が、手を止めて彼を見返した。
「……旦那様、誓って申し上げますが、わたくしはあなた様のしもべとして――」
「いや、良い! みなまで言うな!」
 勢いよく頭を振り(そのため前髪はまた乱れた)、彼は本件を打ち切ることに決めた。これ以上やり合っても得るものはありそうにない。より確実なものに目を向けるべきだ。
「最初からお前のことは疑ってない! それよりぼくは腹が減ったぞウィギンズ!」
 従者が謹厳な面持ちで頭を垂れ、お望みのままに、と告げた。相反するような青年の高笑いも上がったが、実際の距離よりは大分と遠く聞こえた。

 そうして芝生の上に広げられた敷布と、開かれたピクニック用の籠を眺めていれば、彼の心も少しばかり和らいできた。格子模様に織られた柔らかなフランネルの上には、二人分の皿やカップ、銀のカトラリー、籐編みで覆われた飲料の瓶、またナプキン等が、正餐のテーブルも顔負けの美しさで整列している。
 昼食の準備を整えたのは、無論のこと彼の従者である。彼は手伝おうかと申し出たのだが、慇懃な言葉でもって却下されてしまった。主人は主人らしく悠々と座っていれば良いということらしい。彼はすごすごとベンチへ戻り、隣で完全にくつろぐ構えの悪友を睥睨したものだった。
 支度ができたと従者に呼ばれ、改めて芝生に腰を下ろせば、たちまちカップに温かな飲み物が注ぎ込まれる――ガラス瓶に入っていた陽だまり色の液体と、魔法瓶の熱い湯が一つになって、湯気と共にふわりと広がるのは甘くぴりっとした香り。
「へえ、いい匂いがするじゃないか」
 横手から悪友が鼻を鳴らして言う。 「こいつは――」
「レモンとショウガのコーディアルさ。ウィギンズご自慢の品だ。うちの貯蔵庫にある中では随一だね。そうだろう、ウィギンズ?」
 彼はすかさず胸を張り、同意を求めるように従者の顔を見た。首肯が返ってきた。
「これが一杯あれば、どんなに寒い日でも体の芯まで温まるんだ。風邪の特効薬だな。まあ、今日はそこまで涼しいわけでもないけど……」
「汗をおかきになった後には、自ずと体温が下がるものでございます。旦那様も、またミスター・リビングストンも、お体を冷やしては毒でございますので」
 称賛の言葉にも従者は顔色を変えず、ただ平らかに彼と同行者の体を気遣い、次なるコースへの手筈を整えていた。少しぐらい得意がってもいいのにと主人たる彼は思ったが、自制心の権化には通じなかった。
 程なくして皿へと載せられたのは、掌ほどのこじんまりとした品――ぱっと見た限り、どうやら卵料理らしかった。円形に型抜きされたトーストの上に、これまた円形の型で調理されたらしい卵が乗っている。黄身にはしっかりと火が通っており、パセリらしき緑と、恐らく唐辛子かパプリカだろう赤の彩りが添えられていた。
「ウィギンズ、これは何だ?」
 覚えのない料理だったので、彼は直截に尋ねた。と、思いもかけないことに、
「ああ、エッグス・ア・ラ・セント・ジェームズだな」
 隣から知ったような声が上がったではないか。彼はフォークを握ったまま、とっさに友人の顔を覗い見た。
「旦那様より、卵料理をとの仰せでしたので」
「それでこいつを選んでくれるか! 気に入ってたんだ。前に作ってくれたろ?」
「はい、ミスター・リビングストン。その折はお褒めに与りまして――」
 友人は彼のことなどまるで構わず、従者とざっくばらんな会話を交わしている。彼にとっては初耳のことばかりだった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、パーシー? 何だ、その……前に作ってくれたって? ウィギンズが、君にか?」
「ここにおれ以外の誰が登場するっていうのかねえ。貸してた本を返してもらった時、お礼にといって出してもらったよ」
「本を貸してたって? 君が? ウィギンズに?」
「きみにだ、ハリー。トーマス・ピールの『抹香鯨の博物誌』、それも初版本。覚えがないとは言わせないぞ」
 言われて初めて、彼の脳裏にありありと浮かび上がる書影があった。あれはたまたまメルヴィルの『白鯨』を再読した後、作者が参考にしたという書籍の存在を知った折――当時のアメリカでも稀覯本で、メルヴィルは遥々ロンドンから取り寄せたとのこと――その本を一度でいいから読んでみたいと、従者にも捜索を頼んでいたのだった。
 果たして従者は見事にその本を見つけ出してくれた。借り物なのでくれぐれも丁重に扱ってくれるように、との断りつきで。貸主は誰なのかという彼の問いに対しては、「匿名をご希望でございました」との返事だった――だから彼は、その無名の慈善家に宛てて丁寧な礼状まで書いていたのだ。その相手がまさか、目の前にいる小憎たらしい悪友だなどとは!
「……本当に? 君が?」
「ウィギンズから話を聞いたとき、兄貴の書斎にある本だなと思ってね。聞いてみたら、きみに貸すなら問題ないと言質が取れた」
 平然として言ってのけては、飲み物に口をつける悪友の顔を、彼は呆然として眺めた。礼状の文面を思い出し、それが相手に渡ったことの恐ろしさを痛感する――けれども、貸し借りは貸し借りだ。
「それは、……その、どうもありがとう」
 普段の声量を人間の標準とするなら、蚊が鳴くよりも弱々しいと言えそうな声で彼は述べた。そして間髪入れずにカップを傾けた。中身は思ったより熱かったが、幸いにも咽るほどではなかった。レモンの蜂蜜漬けを思わせるまろやかな甘みに、じんと染みるような辛味で、胸の奥がぐっと温かくなった。
「ま、可愛い後輩のためならって奴だ、ハリー。気にしないでくれ、借りはいずれまた有価証券で返してもらうつもりだからな。それよりも、早いところ空きっ腹を満たそうじゃないか」
「君が先輩だったのはたった二年の間だろ! ――ともかく、そのエッグス・ア・ラ・なんとかに取り掛かることには同意するよ」
 がなり立ててやりたいところをなんとか膨れ面程度に抑え、彼は頷いた。学生だった時分からの確執よりも、今は食事のほうが大切だ。

「それでだな、ええと……ウィギンズ、これはどうやって食べればいい?」
 傍らに控える従者に彼は尋ねた。芝生に片膝をついた格好のまま、若人のやり取りを見守って(あるいは黙殺して)いた従者は、そこでようやく口を開き、
「どうぞカナッペやタルトレットのように、お手でそのまま、あるいはナイフをお使いくださいませ。少々淡白すぎるとお考えでしたら、こちらにマヨネーズがございます」
 と、小さな銀盆に載せた広口瓶を持ち上げてみせた。出先での軽食一つに、ここまで備えをしてあるとは、なんとまあ気の利いた従者であろうか――彼は内心舌を巻いた。

 触れただけで完璧な焼き加減が解るトーストと、卵をいちどきに噛み締めてみれば、二つの食感が口の中で活き活きと弾ける。バターの香りを纏ったパンはさっくりと軽く、卵の白身は心地よい弾力を持っていた。黄身は固茹でだが、決してぱさついてはおらず、滑らかで味が濃い。そこへもって唐辛子の、卵の風味を引き出す程度に抑えられた刺激が心地よかった。
「うん、良いな、これ!」
 彼は手放しで賞賛した。淡白などとはとんでもない、単独で驚くほどの味わいを持つ逸品ではないか。おまけに構成自体はシンプルであるからこそ、さらなる可能性も感じられる――例えば屋内でのディナーに出すのなら、卵はとろりと半熟に仕上げてもいい。マヨネーズも瓶に入った硬めのものでなしに、作りたてのより緩いものにできる。否、もっと厨房の性能を活かしたものでもいい。ダブル・クリームにナツメグや胡椒などを入れてふわふわに泡立て、熱さと冷たさのコントラストを楽しむというのは。従者が以前作ってくれたスコッチ・ウッドコックに着想を得て、卵の下にアンチョビを忍ばせるというのも面白そうだ……
 しかし、そんな甘美な空想も、ふと金髪の横顔が目に入るや否や、たちまちのうちに萎んでしまった。彼は心に誓った――こいつにだけは絶対に食べさせまい。
 その青年はといえば、彼のようにすぐさま卵へ食い付かなかった。湯気の立つカップを脇へ置くと、
「ウィギンズ」
 ちょっと顔を上げて従者に目配せをし、それ以上のことは言わず済ませる。呼ばれた従者はすぐに青年の元へと回り、傍らに跪いて――主人たちの使う敷布には触れることなく――広口瓶とスプーンの乗った盆を差し出した。
 絶妙に調理された卵とトーストを咀嚼しながらも、彼は口中の品が急速に味を失ってゆく感覚に見舞われていた。一体どういうことなんだ、あの勝手知ったる我が物顔は?まるでレナード・ウィギンズは最初から自分の従者でしたと言わんばかりじゃあないか。おまけにあんなぞんざいな呼びつけかたを――
 しかしながら、同時に彼は思い出すのだ。従者がいう「紳士の振る舞い」こそは、今まさに悪友が見せている構えそのものなのだと。実際、この青年も貴族でこそないが、全き庶民というわけでもない、通いの女中やメッセンジャー・ボーイぐらいの奉公人はいる家の三男坊だ。癪に障るぐらいのびのびと、暇や金を持て余して育っている。仮に適当な通行人を捕まえて、ここにいる若者二人のうちどちらが従者の主人でしょうかと尋ねるとしたら、ほぼ全員が金髪のほうを指すのではないだろうか。
「……おい、パーシー」
 口から出た声は彼自身が想定したより低かった。瓶から一匙のマヨネーズを掬い取り、卵に乗せかけていた悪友が、手は止めないまま顧みる。
「どうした、ハリー? 再戦の要求なら趣向次第で考えないこともないぞ。そうだな、例えばきみの代わりにウィギンズが出るとか」
「はあ!?」
 言い掛けていた台詞は一瞬にして亡き者となり、こたびは想定よりも甲高い、頓狂な声が彼の口をつく。刹那、墓石のごとき無表情で白いテニスウェアを纏った従者の姿が脳裏をよぎり、彼は死に物狂いでその幻想を打ち払わねばならなかった。
「座興とはいえ、なかなか悪くないと思うがね。どうだウィギンズ、ひとつご主人様の仇を討ってみる気は?」
 そんな彼を尻目に、青年は気安い調子で従者に持ちかけていた。まさか了承されると思ってはいまい――それとも従者のことだから、主人の仇などと言われれば受け入れてしまうのだろうか? 彼は大いにまごつき、傍らに立つ男の横顔を茫然として眺めた。万が一にも従者が引き受けたとして、その忠義心を喜ぶべきなのか、行き過ぎを止めてやるべきなのかさえ判断つかなかった。
「ミスター・リビングストン、……こう申し上げて旦那様のご不興を買いはしないかと危惧するばかりではありますが、しかし遠慮させていただきます。お召しにあずかり、規則書は熟読いたしましたが、実戦のほうはさっぱり――」
 幸か不幸か、従者は問題なく平静を保ったまま、悪友の誘いを退けた。彼は胸を撫で下ろし、ぬるくなったコーディアルを飲み干した。
「そうかい。どうもあんたを見てると、およそ主人のためになることなら何でもできるように思えるんだが。――逆に二対二ダブルスのハンデとしてなら機能するかもな。今からでもティミーあたりを呼び出してハリーと組ませるだろう、そしておれとあんたを組にして」
「なんでウィギンズと君が組むんだよ!」
 ところが安心したのも束の間、提案はさらに明後日の方へと向かい始める。これには彼もさすがに辛抱たまらず叫んだ。 「ぼくの従者だぞ!」
「そうでもしなきゃきみに勝ち目はないと思ってね。なにしろこれで七連敗だろ、実力そのものの差はもちろん、気持ちの上でも既に負けてるんだよ」
「なにい!」
 彼はとっさに反駁を加えようとしたが、できなかった。飲み過ぎのツケとして味わう胃薬のごとく、悪友の言葉は口に苦かった。事実を的確に指摘している。
 けれど、その時ひとつ思い当たった――悪友の図々しさと自己愛を上回る精神性を今すぐ身に着けろというのは、どだい無理な話であるし身に着ける気もない。ならばいっそ自分自身を追い込むのではどうだろうか。次に敗北した際には、今以上の痛みが伴うことにすれば……

 次の瞬間にはもう、彼は決然として顔を上げていた。友人間でのテニスの試合というよりは、負け戦の殿に臨むかのごとき悲壮な決意ではあったが。
「ウィギンズ、お前に言っておくことがある」
 側に控える従者をまっすぐ見上げ、彼はそのまま片手で従者の後ろを指した――後に控えるコースを満載しているはずの大きな籐籠を。
「ぼくは雪辱を果たしてくる。何としてもだ。それでもパーシーに勝てなかったら――その籠の中身は全て奴にくれてやれ」
 彼の言葉に、従者はうっすらと微笑んだように見えた。ただし肯定や後援ではなく、再考なさったほうが賢明と存じますが、等と言わんばかりの生温いものだった。
「今すぐにか? おれは止めないがね、後でまた泣きつく羽目になっても知らないぜ」
 悪友も面白がって眉を上げたが、何を言われようと彼の決意は揺らがなかった。
「君のほうが泣きつく羽目になるんだよ。勝負だ、パーシアス・リビングストン!」

  * * *
 ――人によって、また場面によって、勝利の味とはそれぞれ異なるものなのだろう。
 だが少なくとも今の彼ならば、勝利の味とはどんなものですかと誰かに問われても、簡単に答えてやることができる。手元にある皿を差し出せばいいのだ。そう、これこそ間違いなく、自らの栄冠を証明する味わいだ――おお、齧りついた端から野趣に溢れる肉の旨味、タイムとマスタードの薫香を口一杯に広げるこのミートローフときたら! もしも彼があと一ゲームでも落としていたら、全ては悪友の胃袋へと消えていたのだ。
「旦那様、よろしければ」
 先程まで審判を務めていた従者も、今は再び給仕の任につき、彼の後ろから銀の盆を差し出している。マヨネーズとはまた違う、白っぽく滑らかなソースの皿を載せて。
「こちらをお試しくださいませ。また目先を変えてお楽しみいただけるかと存じます」
「ありがとう、ウィギンズ。これはクリームとシャロットに、香りからして……」
 彼は窺うように従者の顔を覗き込んだ。目配せだけが返ってきた。さすがに公共の場で明言するわけにはいかない。香りからして――絶対にウイスキーが入っている。
「まったくお前は驚くべき従者だなあ! テニスのことは置いておくとしても、家事に関することは本当に何でもできるんじゃあないのか」
 何層倍にも膨らんだ奥行きのある匂いに、彼は感嘆の息を長々と漏らした。
「それにしても、弁当一つを賭けた結果が九対七の辛勝か。白熱したと言ってやるべきか、いまいちぱっとしないと言うべきか――」
「どこまでも一言多い奴だな、君は!」
 その満足に水を差すごとく、横手から聞こえてきた悪友のぼやきも、試合前と比べてさして気にならなかった。
「長丁場を戦い抜くだけの気合がぼくの内に生まれたわけだよ。それがウィギンズの力だ。ハンデ扱いするなんてとんでもない話だ」
「はいはい解りましたよと。ま、きみに負けたのは事実だしな。心からの賛辞を贈ろう、ハリー。連敗脱出おめでとう」
 そういうのが一言多いっていうんだぞ、と文句をつける必要もなかった。無敵の気分だ。この後にはきっとデザートが出てくるし、もしかしたらチーズもあるかもしれない、という想像が彼の幸福感を増幅させていた。
「しかしこうなると、テニスにおけるウィギンズの可能性について、いよいよ追求する必要性が出てきたぞ。次の機会までにおれがひとつ仕込んでやってもいい。それでもしハリーに勝てたら、褒賞としてきみから……」
「だから、なんでウィギンズと君が組むんだよ! ぼくの従者だって言ってるだろ!」
 悪友の提案がさらに斜め上を行ったときには、彼も口を挟まずにはいられなかったが、先程よりはまだ落ち着いていられた。こんな胡乱な申し出を呑む従者ではあるまいという、確固たる信頼があったからだ。

 果たせるかな、従者はあるかなしかの微笑みを浮かべ、膝をついた姿勢のまま悪友に向き合うと、
「もったいないお言葉ですが、ミスター・リビングストン、やはり辞退させていただく所存です。一介の従者として、旦那様に手向かおうなどとは思いもよらぬことです」
 ゆったりとした口ぶりで、彼が思った通りの答えを返したのだった。
「は、――なるほど、賢臣は二君のために奉仕サーブせずというわけだ。ミスター・ロスコーの仰る通り、あんたは本当に驚くべき従者だな、ウィギンズ」
 悪友が肩をすくめ、皿の上から(彼が寛大な心で取り分けてやった)ミートローフの一切れをつまみ取った。他方、ロスコー家の若主人は胸を反らし、少年の笑顔でもって従者に敬意を表するのだった。

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