熱いコーヒーに口をつければ、恋をしている気分になる。


まめまめしい提案 -Hill of Beans-

 朝食の席で、午後四時のコーヒー・ハウスで、またキャンプ場の暖かな火のそばで、ヘンリー・ロスコーは度々思ったものだった。巷に出回る「名言集」で、さるフランスの外交官がこの飲み物を評して「恋のように甘い」と述べたと知ったときには、偉大な先人の中に理解者を得たようで、心からの喜びを覚えもした。とはいえその後、当該の人物がそのように発言した証拠はないという知識を得、無惨にも失恋の苦さまで味わうことになったのだが。
 ともあれ、もっともらしい偽の名言を信じ込みたくなるほど、彼にとってコーヒーの存在は大きかった。ああ、コーヒー! 薄い白磁に注ぎ込まれた暗褐色の深淵! 時にクルミやチョコレート、時に熟した桃やあんず、また時に茉莉花ジャスミンやオレンジの花めいて立ち昇るあの香り! 寝床から引きずったままの気怠さを消し去り、重たい目を開かせ、冷たい胃袋を覚醒させる鮮烈な苦み! それでいて舌触りは滑らか、後味には蜜に似た甘ささえも残してゆく――
 溜息をつかずにいられようか。コーヒーなしに始まる一日など考えられない――とは言わないが(そもそも寝室へ真っ先に運ばれるのは紅茶である)、彼はこの素晴らしい飲料を愛していた。
 だが、愛といってもそれは盲目の愛ではない。彼も重々承知していた。コーヒーには手間がかかるということを。

 言わずもがな、「コーヒーを淹れる」と「美味しいコーヒーを淹れる」との間には、およそ埋めがたい差が存在する。カップの中の液体が至高の霊薬となるか熱した泥水となるかは、行為者の知識と習熟の度合い、豆や水の選定、器具の適切さ等によって左右されるのだ。彼自身、それなりに味よく抽出をこなせる自負はあったのだが、それでも初めて従者が淹れたコーヒーを口にしたときには、その澄み切った味わいと香り立ちの豊かさに圧倒されたのを覚えている。
 そう、現在の彼は一杯のコーヒーに手間などかける必要がない。同じアパートメントに住み込む壮年の従者が全て済ませてくれるからだ。だからこそ彼はますます意識してしまうのだ、完璧な朝食のために注ぎ込まれる労力を。
 なんとか負担の一つや二つ、除いてやる術はないか。聞くところによると、先の戦争では陸軍の配給品に「即席コーヒー」が含まれていたらしいのだが、従軍していた年嵩の知人たちに尋ねても、反応は総じて後ろ向きなものだった。塹壕の中で泥水に浸かり、身体の芯まで冷え切っているようなときに、熱いコーヒーが飲めるのは有難いことだ。疲れも取れて士気は上がる。しかし冷静になってみれば、別段美味しくはなかった、と。
 まして従者などは耳にした瞬間、
「即席コーヒー、でございますか?」
 と、あたかも己の信仰を冒涜する悪魔の名でも聞いたかのように冷酷な声で復唱したものだから、それ以来彼は従者の前で「即席」の単語を口にしていない。
 いつかは――もう十年か二十年すれば、即席コーヒーも新鮮な豆同様の香りと味わいを獲得する日が来るのかもしれない。粉末のココアや缶詰の濃縮スープが、弛まぬ努力によって改善し続けているのと同じように。それでも今はまだ叶わない夢だ。別の道を見出す必要があった――そして彼は見出した。

 弾もうとする両脚を宥めながら、主階段をゆっくりと下る。十一時も間近、そろそろ寝床に入るべき時間である。実際、夜の挨拶は済ませた後なのだ。けれども訳あって、彼は寝間着の上から丈の長いガウンを羽織り、階下の使用人部屋を訪れようとしていた。後ろ手にあるものを隠し持って。
 十月のマンハッタンである。暖められた寝室とは異なり、廊下はしんと冷えていた。その暗がりの中、一筋漏れ出していた光は、彼が距離を詰めるより先に大きく広がり、続いて黒々とした長い影を映し出す。
「旦那様」
 物柔らかな声音が彼の耳朶を撫でる。戸口に現れた人影は黒一色の三つ揃えを纏い、寝支度どころかあと数時間は労働する構えと見える。近寄ってみると、背後の作業台に見覚えのある革長靴が載っていた。どうも主人の靴を磨いている最中だったらしい。
「ああ、悪い、邪魔をしたな。明日にしてもよかったんだが」
「いいえ、旦那様。いつ何時であれ、あなた様のご要望にお応えするのが従者の務めでございます――お腹がお空きでございましょうか」
 若主人がこうして夜遅くやってくるときは、腹が減ったか喉が乾いたときであると、従者はいたって正しい認識を持っているようだった。寝室には水差しが用意されていることや、主人がイワシやパイナップルの缶詰を隠していることも、すっかりお見通しのはずなのだが、ご自身でどうぞとは決して言い出さない。なんという従者の鑑か。
「そういうわけじゃあないんだ。確かに、クラブでは軽くしか食べてこなかったけれど――夕食はともかく、有意義な夜だった」
 彼は小さく咳払いして続けた。 「実は、お前に良い話を持ってきたんだ」
「と、仰いますのは?」
 穏やかな物腰を保ったまま、従者が僅かに首を傾げた。
「常々考えていたんだが――お前がこの家で働くにあたって、一番忙しい時間といえば朝だと思うんだ。起きてすぐ身支度をして、家中に暖房を入れて、紅茶を淹れてぼくを起こして、事によっては風呂の準備もして、朝食も作ってとなるわけだからな」
 後ろ手にしたものを率直に差し出してもいいのだが、彼は敢えて前置きをした。別に勿体をつけたかったわけではない。従者にしてもなるだけ早く仕事を終えて眠りたいに違いないのだ、不必要な引き伸ばしはためにならない。ただ誤解を招かぬように用意をしたかったのである。
「どうだろう、ウィギンズ、お前も重荷と思ってるんじゃあないだろうか。特にぼくの朝食の準備については」
 正直な答えが返ってくるとも思ってはいない。主人から直々にこう問われたとして、はい大変な面倒をかけられておりますと返す男ではないからだ。
「お心遣いはまことに有り難う存じます、旦那様。ですが、わたくしの負担や面倒などお考えになりませんようお願い申し上げます。正当な報酬は頂いておりますゆえ」
 淡々とした、私的な意見や感情を決して表に出さない、使用人としての型にはまった返答だった。ぴくりとも動かない眉と、緩みの感じられない口元とが、今発された答えに本心は含まれていないと教えているようだった。
「確かにそうかもしれないな、ぼくはお前がいくら貰っているかは知らないが。もとい、いくら貰っているとしても、できるだけ手間が減るに越したことはないはずだ。例えば朝食の一品を作るついでに、飲み物も用意できたらずいぶん楽だろう、とかな」
 言って、彼は従者の顔を見上げた。遠慮はともかく明確な反論をする気はないようだ。最新の電化製品を検討するたび受けてきた、迂遠かつ強固な抗議を思えば、これは実に喜ばしい前兆である。廊下に漏れ出す灯りのごとく、彼の心に一筋の光が差した。
「飲み物、つまりコーヒーってことさ。朝のコーヒーがもっと手軽に淹れられて、かつ同時にトーストが出来上がったりすれば、お前も少し助かるんじゃあないかと思うんだ。そこで――」
 しかし、希望の光は心の内を照らすばかりか、彼の目を眩ませもしていた。もし彼がもう少し注意深ければ、従者の顔に一寸の陰りが差すのが見えたはずである。あたかも戸口で灯りを遮る黒い影のように。
 けれども彼は気付かなかった。後ろ手にしたものを勢いよく取り出し、従者の眼前に突きつけて、誇らしげな顔で声を上げた。
「見ろ、ウィギンズ! この素晴らしい発明品を!」

 果たして、従者は彼の手にしたものを――「ザ・サタデー・イブニング・ポスト」の見開きに掲載された広告を、目を逸らさずに見てはくれた。写実的な絵柄で描写されているのは、コーヒーポットを傾ける女性の手である。無論ただのポットではない。その下部に描かれた卓の上を見れば、装飾的な四本の脚と引き出しを備えた、何やら銀色の器具がある。両側面に持ち手がついていなければ、サイドテーブルのミニチュアに見えなくもない。広告画と共に大書された文面はこうだ。「あなたの朝食、これ一台!」。
 彼は期待に満ちて従者の目を覗き込んだ。誌面から顔を上げた従者もまた、暗褐色の目で彼を見返してきた。そこで彼はやっと気付いたのだ。
 従者は確かに驚いているようだった。しかしながら、それは科学技術の進歩や人類の創造力に対する敬服の表れではなかった。どちらかといえば、父が他人と密通を重ねた挙句、不義の息子まで設けていたことを知らされた男のそれだった。
「旦那様……」
「なあ、凄いもんだろう?」
 低く抑えられた従者の声に対し、彼は努めて明るい口ぶりにならざるを得なかった。
「これ一台あれば、コーヒーを淹れると同時にトーストを焼くこともできるわけだ。パーコレーターとトースターの二役、その名も『パーコトースター』!」
「旦那様」
 こたびの声には有無を言わさぬ響きがあった。次なる宣伝文句を喉の奥に引っ込め、彼は背筋を正した。
「イングランド育ちとしての偏見もあるかと存じますが、わたくしは常々、合衆国とは物体の名称に関して一種の奥ゆかしさを有する場所であると理解しておりました。――要するに、『便所トイレット』を『休憩室レストルーム』や『お手洗いラヴァトリー』と言い換える類の、でございますが。それを……」
 そこまで述べて従者は言葉を切り、再び広告に目を据えた。どうしても商品名だけは口にしたくないらしい。浮かれた見出しを焼き切るような視線だった。
「そんなにか、ウィギンズ? そんなに気に入らないのか? あと、食べ物の話だっていうのに便所がどうとか言うんじゃあない!」
「まことに申し訳がございません」
「お前らしくないぞ! ……名前のことはともかく、画期的な品じゃあないか、電気式だし。フライパンで焼くのと違って、ガスレンジに付きっきりにならずに済むんだぞ?」
 苦境に立たされているのを理解した上で、彼は懸命に現代文明の利を説こうとした。眼前の相手はどうやら、まるで心動かされていないらしいと薄々感じながら。
「お言葉ではございますが、旦那様、かような品は朝食がトーストとコーヒー一杯にて完結する、大変慎ましやかな家計の維持を旨とするご家庭を志向したものと存じます。旦那様のような紳士のお方が厨房に備えるべきものではございません」
 そうした「大変慎ましやかな」――その割に、十四ドルの電化製品を購入するだけの余裕はある――家庭に対し、何らかの憎しみでも働いていなければ、ここまで遠回しに拒絶することもないのではないか? 彼は訝しみ、従者の内心を推し量ろうとしたが、とても量りきれない気がした。
「いや、当然ぼくの朝食はそうだ、トーストだけじゃあとても足りないとも。なにしろ昼の一時まで持たないからな。何度も言うが、ぼくはただお前の手間を省きたいだけだ。特にコーヒーの――」
「重ねて申し上げますと、旦那様にコーヒーをお出しするにあたって、わたくしはそのパーコレーターなるものを用いてはおりません」
「へっ?」
 とっさに彼は身じろぎし、頓狂な声で聞き返していた。途方もない秘密を手に入れてしまった気がしたのだ。従者からすれば取り立てて隠していたつもりもないのだろうが。
「使ってないのか? 流し台の下にある、あの銀鍍金めっきのやつを?」
「はい、旦那様。パーコレーターは簡便な品でございますが、その時々の抽出具合は、お世辞にも安定しているとは申せません。また豆の持つ美点のみならず、難点をも共に煮出してしまいます。軍隊の野営か何かであれば充分でございましょうが」
 ぽかんと口を開けて立ち尽くす主人に対し、従者はただ淡々と持論を述べた。
「着任間もない時分より、あなた様のコーヒーに対する熱意は拝察しておりましたので、前金の一部から滴下式の抽出器を購入いたしました。あなた様が召し上がるコーヒーは全てその器具でお淹れし、濾紙を通した後にお出ししております」
 これこそが秘訣だったのだ。あの混じりけのない味、ざらつきのない舌触りと喉越し、驚くほど複雑で広がりのある香り、それら全ての。
「魔法の正体はそれだったのか! ――いや、そうは言っても、ぼくはパーコレーターで淹れたコーヒーも好きだぞ。あのさらっとしたコクと、パンチのある苦さと……」
「勿論、そうとお命じくだされば、本日を限りに例の器具はお払い箱にいたしますが」
「そこまでは言ってない! どちらも美味いと言ってるんだ。とにかく、聞く限りだと、この……これが、備えている利点のうち一つは既に無いものだってことだな」
 彼はすんでのところで、口から出かかっていた商品名を飲み込んだ。いたずらに従者の感情を逆撫ですることもない。
「さようでございます。そのそれを用いる理由はわたくしにはございません、旦那様」
「解った。ただ、パーコレーター部分は置いておくとしてもだ、まだ使い道はあるわけじゃあないか。さっきも言ったがトーストが焼ける。しかも――」
 なおも諦めがましく説得を続けようとした彼は、ふと言葉を止めて従者に注目した。先程までの冷厳な、道理の化身のごとき硬さがいくらか緩んでいるように見えたのだ。もっとも、彼の勧めを受け入れつつあるようには思われなかった。彼は幼い頃に世話をしてくれた乳母のことを思い起こした――突拍子もない思いつきから無茶な計画を披露したとき、その温和な中年の婦人はいつも同じような目をして、それとなく方向転換を試みていたものだ。
「旦那様、愚問を承知でお尋ねすることをお許しいただきたいのですが」
「……許す。どうした」
「こちらの品を用いた場合、一度に焼けるパンは何切れでございましょうか」
 言われて彼は誌面に目を落とし、広告画を改めて確認した。
「それはまあ、写ってる手から大きさを判断するなら、……一切れじゃないかなあ」
「午前九時におけるあなた様の食欲がトースト一枚を良しとするならば、それで何らの差支えも生じませんが、旦那様」
 従者は限りなく優しい目をして、若主人を諭すように続けた――ただし声色はさして温かくもなかった。
「標準的なフライパンであれば、二枚分のトーストを焼くことができます。あなた様のガスレンジは都合四口の焜炉を備えておりますので、同時に背肉のベーコンないしハム、腸詰、キノコのソテー、お好みの卵やベイクドビーンズも調理し、全てを一皿に載せてお出しするに不都合はございません。レンジの火を落とさなければ、コーヒーをお淹れする間もご朝食が冷めずに済みます」
「でも、それは結局――お前にとっての負担がだな……」
 彼は言い淀んだ。それらしい口説き文句はあと二、三も思いつきそうだったが、先に心に浮かぶものがあったのだ。
「……ウィギンズ、これこそ愚問というやつかもしれないが、つまりお前は――ぼくの朝食を準備するのに、特別難儀しているわけでもないのか?」
 尋ねてから一拍の後、従者の瞳にはっきりとした光が灯っていた。力のある眼差しが彼に向けられた。
「しもべの分際で慎みのない物言いと存じますが、旦那様、敢えて申し上げますならば」
 きっぱりとした音が彼の耳を打った。 「造作もないことでございます」

 何の異論を挟む気も起きなかった。彼は今しがたまでの自分自身を顧み、深々と息を吐いて従者に向き直った。
「そうか、よく解った。――ぼくが悪かった、ウィギンズ。ぼくが言い出したことは、ただのお節介どころか、お前にとって完全に侮辱だったんだな」
 最早何の用もない雑誌を閉じ、彼は下ろした片手をぐっと握り締めた。目を伏せたくなるのを堪えるように。
「滅相もないことでございます。旦那様に謝罪いただく必要などございません。ただ」
 彼に向けられる従者の言葉には、やはり断固たるものがあった。と同時に、その声が人間らしい熱を取り戻していることが、彼には確かに感じられた。
「あなた様の御為に手間暇をかけることは、わたくしにとって負担でも苦痛でもないとお伝えしたかったまででございます。電気や機械を憎んでいるわけではないのです――使用人にそのような悪念はございません」
 口を引き結び、彼はただ従者の言葉を聞いた。前半はともかくとして、後半はきっと本心ではないのだろう、と薄々察しながら。
「ですが、あなた様に十四ドルものご迷惑をおかけした挙句に、質の劣るものをお出しすることだけは、従者として承服いたしかねます。ただその一心でございます、旦那様」
「そうか、ウィギンズ」 眉根を寄せそうになるところを堪えて、彼は笑みを作った。
「じゃあ、ぼくから言えることは一つだ」
「は」
「明日もいつもの通りに朝食を頼む。うまいコーヒーも忘れるなよ」
「心得ております、旦那様」
 従者がうやうやしく頭を垂れた。 「ワッフルをご希望でございますね?」

 彼は今日一番の喫驚をありありと顔に表し、従者の顔を凝視した。自分の些細な企みなどお見通しであることは知っていたが、とうとう本物の魔術までも身につけたのではないかという気がした。
「どうして解、いや、お前のことだから何か……根拠みたいなものが……」
「旦那様、先程あなた様は御自ら仰せになったではありませんか。『トーストが焼ける、しかも』――部品を取り替えることでワッフル焼き型にもなるとの記述を、わたくしも確かに拝読しました」
「いや、それは……その通りなんだが、今うちにワッフル焼き型はないだろう?」
 その狼狽はしかし、ただ一語によって払拭された。 「如何様にもいたします」

  * * *

 翌朝、彼は定められた時間に問題なく目を覚ました――きっかり二分後には、戸口に従者が音もなく姿を現した。手には紅茶を載せた銀の盆を携えて。
 寝室における朝の儀式を済ませる間、寝起きにしてはずっと鼓動が速かった。寝間着から暗緑色の背広に着替え、食堂へ向かう準備が整う頃には、彼はもう自分の胸を宥めすかすことしか考えられなかった。階下の部屋に踏み込んでみれば、そこには既に甘い香りが漂っている。バターと卵、何より砂糖をふんだんに用いた生地が焼き上げられるときの、あの暖かな喜びに満ちた匂い!
 果たして、席についた彼を待ち受けていたものは、普段と何ら変わらぬ従者の謹厳な面持ち、そして朝食の場ではついぞお目にかかったことのない、金色に焼き上げられた格子模様のワッフルだった。いかにも柔らかく弾力のありそうな厚み、端のところには薄くかりかりとした生地がはみ出して、食感の差を想像するだけでもう口の中に生唾が湧き出してくる――彼にあともう少し自制心が足りなければ、歓声を上げて従者を抱擁していたかもしれない。
 幸い、彼は世間的に最低限備えておくことが望ましいとされる理性を有していた。が、紳士にふさわしい水準に届いているかといえば、お世辞にもそうとは言えなかった――
 寝起きにしては朗らかな声で彼は叫んだ。 「バターとシロップだ、ウィギンズ!」

 滑らかに練られたバターの一すくいが緩やかにとろけ、格子の一つひとつに満ちてゆくのを、彼は恍惚の境地で眺めていた。深い飴色のシロップがその乳白色と交わり、この上なく甘美な混沌を生み出すところも。
 もちろん惚けてばかりではいられない。最終目標はやはり味わうことだ。彼は厳かな気分でナイフを手に取り、円形から大胆な一口分を切り取った。そこで気付いたのだ。生地の裏側に焼き込まれていたものに。
「ウィギンズ、これ――」
 この食堂で迎える朝には欠かせないものだった。毎日のように目にしているからこそ判る。美しい茶色の焦げに彩られた、白と薔薇色の艷やかな帯。朝食用の丸皿においては、たいてい目玉焼きやベイクドビーンズあたりと寄り添っている姿――
「ちょっと待ってくれ」
 彼は息継ぎをした。 「ベーコンじゃあないのか? うちでいつも使う?」
「はい、旦那様。いかにもあなた様ご贔屓の背肉のバックベーコンでございます」
「それをワッフルに入れただって? お前が?」
 昨夜のやり取りが脳裏を過ぎった。彼は一瞬、冒涜的な調理器具と遭遇したことで、従者の理性が幾許か損なわれてしまったのではないかと、あらぬ危惧の念を抱きかけた。
「平時のわたくしであればお入れしません。ですが、こたびの旦那様の開拓者精神にお応えするとなれば、わたくしも相応の冒険心をもって挑まねばならぬと愚考した次第でございます」
 幸いかな、彼の狼狽はまたもや払拭された。眉一つ動かさずに答える従者の横顔を、彼は嘆息して一瞥した。
「ようし、それならぼくも真摯に向き合おうじゃあないか、その冒険心に敬意を表して」
 前置きはそれ以上要らなかった。彼は二つの焼色をうち眺め、思い切りよく口へと運んだ。

 全き至福であった――シロップの強い甘さとバターの軽やかな塩気、ベーコンの旨味とが、刹那にして彼を陥落さしめた。加えて彼は新たな驚きさえ発見していた。
「カボチャだったのか、この生地は!」
 彼の声はいきおい高く大きくなった。 「確かにカボチャの味がするぞ!」
「いかにも仰せの通りでございます、旦那様。標準的な小麦粉の生地も考えましたが、ご朝食であればもう少々食べごたえが必要かと推察いたしまして」
「大正解だ、ウィギンズ。ベーコンの味にも負けてないしな。ということは……」
「コーヒーにも決して負けません。――お試しになりますか」
 確固たる自信の滲み出た疑問形に、彼はもちろん肯定で返した。暫しの後には、青い矢車菊の描かれた磁器が、さしたる時間も置かず運ばれてくる。立ち昇る香気のなんと麗しいこと――僅かに燻したようなナッツの匂いや、また砂糖を入れる前のココアにも似た深みが、鼻先を近づけずとも判った。チョコレートケーキが欲しくなるな、という欲が沸き起こりかけるのを抑え込む。
 一口含めば、くっきりとした苦味。けれども舌が縮み上がるような苛烈さではない、甘さに酔っていた舌と頭を、再び目覚めさせるような凛々しさだ。口の中に長居はせず、ただ颯爽と去ってゆく……
 その去り際を捉えるように、彼はもう一切れのワッフルを噛み締めた。甘くふくよかなカボチャの風味が、秋の日差しのごとく心を解きほぐし、コーヒーの余韻から微かな糖蜜の香りを引き出したかと思えば、溶け合うように消えていった。
 代わって長々とした溜息が彼の口を出た。これを最後の晩餐ではなしに、ごく平穏な土曜日の朝食として享受することが、ひどく罪深いものに思えてきた。
「勝ち負けなんかじゃあないな、これは。最高のパートナーが生まれたという感じだ。ああ、ワインとチーズなら『結婚マリアージュ』と言うんだろうが、そういう結びつきとも違って、……どう言えばいい? 何か適切な表現がある気がするんだけれども」
 真顔でぶつぶつと呟きながら――ワッフルを切り分ける手は止めずに――彼は考えた。それからふと顔を上げ、従者の表情を盗み見た。どうも微笑しているように見えた。
「笑ってくれるなよ、ウィギンズ。ぼくの詩的センスは所詮、例のあの商品名を容易く受け入れる程度のものだ」
「笑ってなどおりません、旦那様。ですが、どうかお許しくださいませ」
「許す。秘密を教えてくれたらな」
 従者が軽く首を傾げて彼を見た。何のことか解りかねますというように。
「結局、うちに今ワッフル焼き型がないという問題は解決してないじゃあないか。一体お前はどうやってこいつを焼いたんだ」
「その問題であればとうに解決しております。型は購入いたしました」
 平然として提示された簡明な「秘密」に、彼は目を見張った。大きく切り取りすぎたワッフルの塊が、うっかり喉につかえそうになったせいもあるが。
「買った?」 嚥下の間を置いて、彼は復唱した。 「いつ?」
「今朝でございます」
「ぼくが起きたのは九時だぞ、ウィギンズ!」
「西17丁目の金物店は七時に開きます、旦那様」
 そしてこの男は何時に起きたというのだろう? 軽口さえも捻り出せなくなった頭を振り、眉を上げることで、彼は感嘆の意を示した。
「お前は何もかも把握してるんだ。マンハッタンのこともぼくの好みも、本当にうまいコーヒーの淹れ方も。たぶんぼくが今、やっぱりワッフルだけじゃあ昼食まで持たないかもしれないと思ってることもだ」
「はい、旦那様。十五分ほど頂戴できましたら、ハムエッグとキノコのソテー、焼いたトマトにブラック・プディングも添えてお出しします」
「お前のいう模範的な朝食というやつだな。それと――」

 彼は言葉を切り、従者が有する判断力について探ってみようと決めた。果たせるかな、壮年の男はサイドボードから銀の盆を取り上げて、微かに細めた目で彼を見据えると、物言わず差し出した。
 これは魔術ではない。が、真に優れた英国の使用人は、どうやら魔法以上の神秘性を有しているらしい――彼は理解した。それから暗褐色の瞳をしっかりと見返し、空のコーヒーカップを盆に載せた。従者がもう片方の手を伸ばし、銀のポットを手に取った。

inserted by FC2 system