夜というのは静かなものだと思っていた。海を渡ってくるまでは。


星を戴く日まで -Shoot for the Stars-

 いや、静かでいられるかはともかく、静かに過ごすのが当たり前で、そうすべきだと幼い時分から言い聞かされてきたのは間違いない。少年にまだ親というものがいたころ、同じ部屋で寝泊まりする者――男爵家の屋敷に仕える下級使用人たち――は、彼が少しでも簡易ベッドを軋ませたり、誤って床に物を落としたりなどすれば、入り込んできた蛾だの蝿だのを見るのと同じ目で、「身持ちが悪い」洗濯女中ランドリーメイド運転手ショーファーの息子を睨んだものだった。
 翻って、大西洋を挟んだ合衆国はマンハッタンの夜ときたらどうだろう。幽霊か何か出そうな暗闇、心細さから漏らした啜り泣きさえ呑み込むような静寂が、ここには一切存在しない。電気とガスの光によって照らし出された街路には、日が暮れた後でも人が溢れ、黒光りする自動車が唸りを上げて行き来し、ハーレムやバッテリー・パーク(などという地名を彼は知らないのだが)へ向かう電車が鋼の高架橋を渡ってゆく。
 建物の中にいてもそうだ。ある晩には若い紳士たちが集まって、葉巻を燻らせながらブリッジの札を切り、またある晩には応接にある蓄音機から甘いジャズの音色が流れ、老若男女が広々としたギャラリーに集って乾杯し、賑やかなおしゃべりを楽しみ、手を取り合ってフォックストロットを踊る……
 ここに本物の夜は決してやってこないのかもしれない――そう考えながら新たな家で使用人見習いの暮らしを始めた少年、ナサニエルだったが、かれこれ一年近く過ごせば、時々は静謐な夜もあると理解しつつあった。例えば今夜のように、主人が外出している場合だ。

 物干し場から取り込んできた生成りの綿シーツと、分厚くはないがふわふわになった毛布で、小さな部屋のベッドはすっかり整えられた。洗いたての寝間着に着替えれば、一日を終わらせる支度は万端ということになる。
 けれども彼はすぐに床へと入らず、まだ明かりのついている台所へ出向くことにした。そこでは、この重厚な高層アパートメントに住み込むもう一人の使用人、彼にとっては遠縁の親類でもある壮年の従者が、今も残りの仕事をこなしているはずだった。
 果たせるかな、広々とした厨房の作業台では、背広の代わりにエプロンと袖カバーを身に着けた従者が、食器や調理器具を卓上に並べ、柔らかな布で磨いていた。食器棚の中身を管理することもまた、この家では従者の役目なのだ――本来であれば調理器具は料理人コック台所女中キッチンメイドの、陶器と硝子器は家政婦長ハウスキーパー家女中ハウスメイドたちの管轄なのですよと従者は彼に教えていた。そして銀器だけが、執事バトラー率いる男性使用人たちの担当なのだと。
「あのう、おじさん」
 元より長々と邪魔をする気はなかったが、それでも何となくおずおずとした調子で、彼は戸口からそっと顔を出した。従者が顧みる。宝石のごとく煌めく切子のデカンタが、音一つ立てることなく台上に戻る。
「ナット、――まだ起きていたのかね。そろそろ寝支度をしないといけないよ」
 昼日中に上役として指示を飛ばすときよりも、いくらか硬さの抜けた声で従者は言う。普段は磨かれた黒曜石とも思える瞳に、映り込む光はどこか丸みを帯びて見えた。
「ええと、寝床とか、明日の準備はもうきちんとしました。ぼくはいつでも寝られます。……その、おじさんは?」
「私はまだ起きているよ。済ませておくことが残っている。旦那様のご朝食だとか――そう、お戻りになってすぐお湯をお使いになるだろうから、タオルや肌着もご用意しておかなければ」
「あの、ぼく、お手伝いしましょうか?」
 きっと断られるだろうと察しはつけながら、彼は顔を上げて従者の顔を覗き込んだ。年嵩の親類は目を細め、軽く頭を振ったものの、次にその口を出たのは断りの文句ではなかった。
「――眠れないのかね、ナット」
 咎めるような響きではなかった。布を掴んでいないほうの腕が伸びて、彼に入るよう手招きをする。
「ううん、ちっとも寝られないってわけじゃないんです。ただ、なんだか静かすぎて、いつもより落ち着かない気がして」
「ああ、そうか。大抵この時間は、まだ旦那様が起きていらっしゃるからね。あの方は夜ふかしがお好きだから……」
 微かな苦笑が薄い唇から漏れる。主人の前ではきっとおくびにも出さないのだろう、ささやかな感情の揺れに彼もまた安堵し、作業台の側まで踏み込んでいった。目の前へ引き出された木の椅子に、遠慮なく腰掛ける。
「今日はちょっと遠くまでお出かけして……ええと、外出なさっているんですよね」
「そうだ。ご友人がたとロングアイランドへ天体観測に」
「それは、……つまり、星を見に行くことでしたっけ」
 細い両脚が無意識にぶらつく。ロングアイランドがどこなのかは解っていた。大きな遊園地があって、前に連れて行ってもらったことが――いや、それはコニーアイランドだったっけ? 首が傾いてゆくのにも気付かずに、彼は従者の顔をじっと見上げた。
「今夜は――ここ数日のことだが、こと座流星群が見られるのだと仰ってね」
「流れ星ですか?」
「ああ。毎年見えるものではあるが、今年はそれまでと比べて流れる星の数が特に多くなっているのだそうだ。ミス・ボーリガードのお父上が、島の北岸に別荘をお持ちで、泊りがけの観測会をお開きになったのだよ」
 別荘、という耳慣れない響きに目が瞬く。もちろん意味ぐらいは知っているけれど、自分自身の家をいくつも持っているなんて、おとぎ話でも聞かないようなことだと彼は少し混乱する――自分自身の家すらなく、いつでも誰かの家で縮こまっていた頃を思い出しては、今住んでいるのもまた自分と縁もゆかりもない人の家であることを、改めて不思議なことだと感じたりもした。
「じゃあ、旦那様は今ごろ、その……ロングアイランドで、流れ星をたくさん見ているってことですね」
 海辺にはきっと、マンハッタンにあるような目も眩む高さのビルディングなど建っていないだろう。空は広々として、穏やかな波の音がして、真っ暗闇の中にきらきら星が――でも本当のところ、流れ星はどれぐらいの速さで、どんなふうに空から落ちてくるのだろう? 物語の挿絵では、黒い背景に白い線を引く星の形しか見たことがない……
「ナット」
 穏やかな声が耳朶に触れ、はっとして彼は考え事を止める。次に何を言われるのかも概ね察しがつく。そのような場所や天体観測という行為に、自分たちが憧れたところで無駄であると。
「は、はい、おじさん」
「お前も星を、――流星群を見てみたいかね」
 それだから、続いて従者の口から出た言葉に、彼は緑の目を望遠鏡のレンズみたいに丸く見開いて、星の代わりにすぐ上にある顔を凝視せずにはいられなかったのだ。寒さとは全く違う理由から、膝の上に載せた手がぎゅっと握りしめられる。
「それって……でも、そういうのは、旦那さまのお許しをいただかなくちゃいけないんですよね?」
「お許しをいただいたのだよ、ナット。もしお前が望むのなら、今夜は屋上に出て星を眺めてもいいと――あんまり遅くまで起きていてはいけない、という条件はあるがね、お出かけになる前に間違いなくそう仰った」
 心臓が小さな胸の中で飛び跳ね始めるのを、彼は確かに感じていた。落ち着き払って揺るぎない従者の口ぶりとは正反対に。
「じゃあ、ぼく、いいんですか? お庭に上がっても?」
「構わない。ただし、生け垣のそばにある椅子は旦那様のものだから、お前が座ってはいけないよ。暗いから足元には気をつけなさい」
「はい、おじさん」
「上着や手袋も忘れないこと。風邪を引いてしまってはいけないからね」
 従者の言葉に耳を傾けようとしても、心はもう五感ともども屋上に躍り出てしまっている。蕾をつけた薔薇の生け垣をざわめかせる夜風、指先がじんとかじかむ痛烈な寒さ、月のない夜空に輝く星々――その合間を縫うように走る金色の光。今までただの空想だったものが、ついに本物になる。すぐにでも椅子を飛び降りて走っていきたかった。
 どれぐらい眺めていれば見つけられるのだろう? 一つも見えませんでした、なんて報告をする羽目にはなりたくない。優しい若主人が戻ってきたその朝には、旦那さまのおかげですてきな夜になりました、とお礼を言わなければ……
「私も後で様子を見に上がるつもりだ。さあ、行っておいで、ナット」
 上の空の彼を促すように、従者が視線で戸口を指す。そして、見透かしたようにこう付け加えるのだ。
「くれぐれも、廊下や階段では走らないように」

  * * *

 昼間はサンルームと呼ばれる暗闇を、忍び足でゆっくり通り抜ける。
 日が暮れてからこの部屋に入ったことはない。さらに言うなら、日没後に階上へ足を踏み入れたことすらない。彼が普段生活する階下と違って、ここは主人と一握りの客人だけが使う領域だ。必要が生じなければ、従者さえ立ち入りはしないのである。
 板間を横切った向こうは一面のガラス張りだ。今は溢れんばかりの陽光がなく、また月明かりもない。それでも奥のテラスがぼんやり浮かび上がって見えるのは、乳白色の常夜灯と、何より外界にちりばめられた無数の灯りのためだった。その灯に導かれて、彼は分厚いガラス戸を開ける。金属製のノブが帯びる冷たさに、ひゃっ、と小さく声を上げながら。
 逸る気持ちを抑え込み、石張りの床にそっと足を下ろす。都会の厳しさとやらを自ら体現するような夜風が、くすんだ金色の髪を掻き乱してゆく。とはいえ風の冷たさなど問題ではなかった。寒さにはとうに慣れっこだ。張り巡らされた優美な鋳鉄の柵越しに、パーク街や五番街に立ち並ぶ摩天楼の照明が彼を射る。遥か彼方では、世界一高いというウールワース・ビルディングの尖塔が、天に挑むかのごとく光を投げかけている。このマンハッタンに存在する人工の光を全て集めたら、星々どころか太陽さえも凌いでしまうのではないだろうか――そんな思いが彼の胸を過ぎった。
 けれども、そんな都市の巨大な雑踏は遥か下方だ。路面電車のベルや甲高い警笛が、時折耳に届きはしても、彼を惑わせるほどではない。鉢植えに仕立てられた林檎の木の隣で、彼は柵にもたれて空を振り仰いだ。
 こと座というのが何であるかは知っている。「やさしい星座案内」という子供向けの書物――主人が勉強のためにと贈ってくれたものだ――に、探しかたまで書いてあった。流星はそちらの方角から落ちてくるに違いない。
 ――もし自分で見つけられたら、ちゃんと天文の勉強をしてるってことが、旦那さまにもきっと解ってもらえるはずだ。
 胸をわくわくさせながら初めて読んだ、「科学の本」に描かれた図版を思い返しつつ、彼は東の空に目を凝らす。といって、方位磁針は持っていないし、周囲には分かりよい風見もないために、「大きな川が見える方向」程度の曖昧な感覚でしかないが(だって「イースト川」という名なのだから、マンハッタンの東側に流れているはずだろう?)。故郷の真っ暗闇とはかけ離れた、薄ぼんやりと白光のかかる夜空は、眺めているだけでその彼方に連れて行かれそうな気分になる――爪先立って喉を反らしたその時、視界の端を何かが掠めたように思われた。彼は慌てて顔をそちらに向けた。とっさの動きに、首の筋が痛むのも気にならなかった。

 それから数分も経たずに、彼は急な階段を一気に駆け下り、幅の狭い廊下を一目散に抜けて、台所へと飛び込んでいた。空間は先程と打って変わって微熱に満ち、バターの匂いがいっぱいに漂っていたが、今の彼には構っていられなかった。
「ナット、……走らないようにと言っただろう。言いつけが守れないなら――」
 エプロンを畳んでいた従者が、細い眉を寄せながら振り返る。しかし、低く静かな声が言い終わるより先に、彼はその片腕を掴んで引き寄せていた。
「おじさん、ね、来て!」
 暗色の目が何事かと見開かれ、不規則に瞬くところも見なかった。一フィートは背丈の違うこの大人が、たとえ全力で踏ん張ったとして、自分の想いには敵わないと思えた。
「待ちなさいナット、何を――」
 事実、従者は彼の勢いにすぐさま対処しかねていた。それでもエプロンを取り落とすような真似だけはしなかったが、廊下に引っ張り出されることは防げなかった。
 彼はそのまま、今しがた来たばかりの道筋を――さながら散歩を喜ぶ犬のように――引き返した。階段の下まで戻ったとき、従者が珍しく当惑した口ぶりで、
「ナット、解ったから離しなさい、危ないだろう」
 と言ったものだから、ようやく手を解くことに思い至ったほどだった。

 再びバルコニーに出ると、外の空気は変わらず冷たかったが、風のほうは少しばかり和らいでいた。空ばかり眺めていて気がつかなかったが、遠方に見える灯りもいくらか減ったように思われる。
「見て、見てくださいおじさん、ほら――」
 元いた鉄柵のところで立ち止まり、彼はうんと背伸びをして空を指す。細い指の先を、それよりずっと背の高い従者の目が追った。折も折、その延長線にある明星の傍らを、白い光がほんの僅かな間だけ横切った。
「ああ」 と短い声が彼の頭上から降る。 
「星が、――流れ星だな、ナット。都会でも存外よく見えるものだ」
 冷たくはない、といって熱が籠もってもいない声だった。この様子では、すぐにでも従者は踵を返して部屋に戻ってしまうことだろう。彼はもう一度、力を込めて筋張った手を掴まえた。
 果たして、とうに稚心を振り捨ててしまったはずの大人は、腕から伝わる彼の意志を汲んでくれたらしい。古屋敷に蟠る影にも似た瞳は、まだ天を仰いだままだった。
 ――そして、また星が瞬いた。

 はっと息を呑む声は、彼の耳にも確かに届いた。先程よりも高い場所から、朱い色を帯びたなにかが、長々と光の尾を引きながら落ちていくのが見えた。
「これは――」
 閃光は遥か下方の川面まで届かず消えた。寝ぼけて自分の出番を間違えた朝焼けが、その欠片を慌てて地上へ落としてしまったかのようだった。
「流れ星!」 彼は声を上げた。 「流れ星です、おじさん!」

 数分の間、彼らは身動ぎもせずに天上のあらゆる場所へ目を凝らしていた。と、再び右方から飛び来るものがあった。砂糖粒が零れたように小さな光だ。間を置かず、逆側からも同じような光が一瞬だけ動いて消えた――どこかのビルの屋上で、探査灯が一日の業務を終えただけかもしれないが。
「ね、ね、すごいでしょう?」
 彼は今のところ、目に見えて動く光は全て流星だと信じ込むようにしていた。握ったままの手をしきりに引いて尋ねると、ややあってから少しぎこちない首肯が返ってくる。仰向いた顔の表情は、彼の位置からは上手く読み取れなかったけれども、先程のように落ち着き払ってはいないだろうと確信が持てる。
「凄い」
 声が掠れていたのは驚きのためか、空気が冷たく乾燥しているためか、彼には判断がつかなかった。どちらにせよ、従者がこうも単簡な言葉で所感を口に出すなどそうそうあることではない。
「そうだな、ナット、お前の言う通りだ。呼んでもらえて良かったよ」
 長々とした溜息の後、彼の顔を覗き込みながら発された言葉が、外套より何より彼を暖めた。連れ出した甲斐があったというものだ――もちろん、夜中に騒いだことは後で謝罪するとして。
「星というものが、これほど多く降り注ぐものだとは思わなかった。一つでも見つけることができれば幸運だとばかり。……もう少し眺めているつもりだろう、ナット?」
「はい、おじさん! ええと、もちろん、お許しがいただけるんだったら、ですけど」
 勢い込んで答えた彼へと、従者は口元を僅かに緩めて頷きを返した。承認を示していることは、彼にもすぐ理解できた。
「少し待っておいで、毛布を持ってくるから」
 続けざま、視線がやや下方まで落ちる。 「手袋もだ」

 言われるまで何も着けていないことを忘れていた、その冷たい両手の指を擦り合わせながら彼は待った。先刻まで見られた活発な星々の動きは、どうやら本当に「通り雨」だったらしく、空は平穏を取り戻しつつある。
 やがて音もなく戻ってきた従者は、片腕に格子模様の毛布を掛けていたばかりか、木の盆までも携えていた。煮込んだ野菜のような甘く香ばしい匂いが、夜風に吹き飛ばされることもなく、彼の元まで漂ってくる。
 彼は思わず駆け寄ろうとして、なんとか堪えた。爪先がむずむずするのを宥めながら、従者が足を止めるのをじっと待つ――そして気付いた。盆の上に載せられているのは、湯気の立つ厚手のカップ二つだ。
「もしかして」
 今まで働いていた自制心が、湯気と共にたちまち解けて消えた。 「おじさんもいっしょに見る!?」
 一拍置いて従者が口を開いたとき、やっと大声を咎められる可能性に思い当たるほどだった。が、実際に聞かれた言葉は、彼の浮かれた心地に水を差すものではなかった。
「お許しをいただいたわけだからね。まだやることは残っているが、少しの間は……」
 自分の決断に自分でも戸惑っているような、照れ笑いにも似た微かな揺らぎが口元に見えた。否、恐らく本当に照れているのだろう。流れ星を探すという行為に対して。
 彼は従者の差し出した毛布に包まり、共にバルコニーの隅にあるベンチ――普段は庭仕事の際に道具を置いたり、休憩したりするために使う――に腰掛けた。もちろん、手には温かなカップを持って。
「熱いうちにおあがり。実も何も入っていないスープだけれど……」
 従者が勧めるのと、彼が器の縁に口をつけるのとはほとんど同時だった。湯気と共にバターの匂いを鼻孔いっぱい吸い込んで、舌に感じる熱以外のものへ意識を向ける。
 甘い、というのが最初の感覚だった。砂糖や蜜の甘さではない、やはり香りからして野菜から生まれたものだろう。飴色に炒めたタマネギやセロリ、艶々とした光を帯びたニンジン、くたくたになるまで煮たキャベツ……そのものの形は見えなくとも、存在がはっきりと解る。
 それだけではない、カップに満たされた中には間違いなく肉の気配もあった。それも、使用人部屋の昼食にも出てくるような鶏肉や豚肉ではない――とすればきっと牛肉だ。主人の夕食を準備している間、オーブンや鉄の平鍋から台所中に立ち込めるあの匂いが、どろりとした舌触りのスープからも確かに匂い立っている。
「おじさん、これ、おいしい」
 口をついて出た言葉は、頭を振って無かったことにする。 「おいしいです、とても」
「それは良かった。本当に残り物だがね」
「そんなの、……」
 言われて彼はカップをまじまじと見た。残り物、という言葉にふと思い当たることがあったのだ。主人の夕食である。
 食卓へ食器を上げるのは彼の役目だった。その際、肉を切り分けるための長いナイフと共に、いかにも煮込み料理の入りそうな深皿を載せたことを覚えている。察するに、今夜の主菜は塊肉とふんだんな野菜を使ったシチューか何かだったのだろう。大ぶりの具材はみな主人の胃袋を満たしたに違いない。
 そうして鍋に残った煮汁を、溶き伸ばしたり味を調えたりしたものがこのスープではないだろうか。脇に添えられた細切りの白いパンにしても、食べ頃を逃して硬くなった切れ端を、さっと炙って済ませたものと思われる。けれども、湯気の立つ器にしばらく浸した後で引き上げてみれば、スープをたっぷり吸ってふやけた一切れのなんと味わい深いこと!
 残り物だなんて――従者は謙遜のつもりで言ったのだろうけれど、食材は主人が口にするものと同じなのだ。具材から溶け出した風味の全てが注ぎ込まれていると思えば、主人より贅沢をしているのではないか――彼はそんな気さえしてくるのだった。
「ねえ、おじさん――」
 自分の立てた説の答え合わせをしようと、彼は傍らに座る従者に目を向けた。見れば、その顔は星々の間に視線を投げかけたままで、熱いカップも指先を温めるだけの目的に留まっている。ほとんど瞬きもしていない。先刻まで見習いの子供がそうだったように。
「――おじさん、流れ星見るの、初めてですか?」
 思わず問いの中身を変えてしまった彼に、従者が答えを返すまで数秒の間があった。
「初めて、ではないと思うのだが。……どうだろう、そもそも星を眺めること自体、滅多にはないことだからね」
「それは、その……お国にいたときから、そうだったんですか」
「ああ。星が見えなかったわけではなし、一度くらいは見つけていてもおかしくないが――生まれたところは大した田舎だったし、お仕えしていたお屋敷にしても、みな自然豊かな場所を選んで建てられていたわけだからね」
 従者の話は彼にもよく解った。彼自身、「大した田舎」の屋敷でずっと育ってきた身だ。使用人やその家族にとって、夜にわざわざ星を眺めている時間などありはしない。少しでも長い睡眠を取り、過酷な労働による疲れを和らげる、夜とはそれだけのために存在しているのだから。
「ニューヨークに着いてからは、夜空を見上げることすらなかったな。なにしろ大都会だ、こう狭苦しい上に明るい空では、星などまず見えないだろうと思っていた。今夜はお前のおかげで良い発見をしたよ、ナット」
 言って、従者はうっすらと笑みを浮かべてみせた。それには素直に納得したものの、彼の内心にはもうひとつの疑問が沸き起こる。都会といえば、ロンドンはどうだったのだろう――首都どころかヨークシャーの州都にさえ出たことのない少年と違い、従者は仕えていた貴族一家の付き添いで何度も訪れているはずだ。一口に大都会といっても、その様子はニューヨークと全く同じではあるまい。ロンドンの夜はどれほど暗かった、もしくは明るかったのだろう? 自動車や馬車のみならず、路面電車も走っているとは聞いたことがあるし、マンハッタンの地下鉄サブウェイ同様、あちらにも地下鉄アンダーグラウンドが存在すると知ってはいる。けれども百聞は一見に如かずだ。彼が持っているのは所詮ただの知識、自らの目で確かめたものではない。
 従者の視点から眺める帝都はどんなものだったか、直に聞いてみたいと彼は思った。再び夜空へと向いてしまったその注意を、反らしてしまうのはいくらか気が引けたが、こんな機会はなかなかあるものではない。少しばかり冷めてきたスープを一口飲んで、唇を湿してから彼は口を開きかけた。視界を赤みがかった光が横切った。

 刹那、彼の脳裏にある事実が閃き、唇を出かかっていた問いは喉の奥へと引っ込んでしまった。意味をなさない短い音だけが、冷たい空気の中に白く解けた。
 ロンドンはどんなふうだったんですか? ――聞かなくとも知っていることだった。ほんの数年前まで、ロンドンの夜空には星ではなく爆弾が降り注いでいたのだ。片田舎の子供でしかなかった彼でさえ、当時の英国が非常時にあることは知っていた。都市の家々では夜を楽しむどころか、窓という窓に暗幕を張り、飛行機という新兵器から身を隠し、息を潜めて暮らしていたことも。そして自分の父親が、愛する妻と三つになったばかりの息子を置いてどこへ行き、何をしていたか――何故ある日を限りに手紙さえもよこさなくなり、二度と帰ってはこなかったのか、今となっては全て解っている。思い出さないようにしていただけで。
 従者が従者になってから今まで、全き平和な時間がどれほどあっただろうか。初めて目にしたとき、首都は噂に聞いたとおりの絢爛な場所だったか。もしかすると、とうに危険極まりない場所に変わっていたのでは――ともすれば従者自身が、あるいは周囲にいる人々が、危機に遭ったことさえあるのではないか。
 急に身体の奥が軋んだ。胸の深くから鳩尾の辺りまでが、冷たい手で握りしめられたように痛くなった。彼は黙ってうつむき、スープをごくりと呑み込んだ。
「ナット」
 喉を流れ落ちてゆく柔らかな甘味は、ほんの少しでも寒さと痛みを和らげてくれようとした。けれども何より暖かかったのは、耳に届いたその声だった。ぱっと見上げれば、従者が身を屈めて彼の顔を覗き込んでいる。――ただ、微笑みにはどことなく陰がある気がした。
「は、はい、おじさん」
「お前は、……今でもお前は、使用人になりたいと思っているのかい」
 一寸の間も置かず、もちろんです、という返事が口を飛び出した。言い切ってから、これだけでは言葉足らずであるように思われた。
「なりたい、というより、ぼくはもう旦那さまの使用人です」
「いいや、お前はまだ見習いだ」
 希望も込めて付け加えた一文に、返ってきたのはきっぱりとした否定だった。当然といえば当然の返答だが、納得しつつも彼は圧し口を作った。
 子供じみた顔つきの変化に心動かされた様子もなく、従者は静かに彼を見つめていたが、やがて深々と息を吐き、おもむろに口を開いた。実際に言葉が出てくるまでには、さらに数秒の間があった。
「そうか。それなら――今のうちだ、ナット」
 彼が何か問い返す前に、従者は続けた。 「良いかね、今のうちだよ」

 まっすぐに彼を見据えていた瞳が、ふっと揺らいでから離れてゆく。またも寒空へと顔を向けてしまった従者を、彼はしばらく物も言わずに眺めた。自分の記憶が確かなら、従者がお屋敷奉公の道に入ったのは十二歳のときだと言っていた。今、自分は十歳だ。
 今のうち、――そこに続くべき単語が、身体の内に後から後から沸き起こってくる。胃袋に納めたはずの温かなスープが、押し上げられて胸につかえてしまいそうだ。器を持つ両手に力を込め、大都会の空気を吸い込むと、先程より冷えている気がした。
 それから彼は、ほんの半インチにも満たないほど小刻みに、凍ってしまいそうな空気を追い出すように、隣に座る親類へとにじり寄っていった。格子模様の分厚い毛布と、紺色のガウンを着た腕とが触れ合っても、従者は何も言わなかったし、距離を取り直す素振りも見せなかった。
 この感触も、温度も、全て今のうちなのだ。たとえ自分が、やっぱり使用人になんてなりたくないと言ったとしても、永遠に続かないことに変わりはない。両親や伯母との時間がそうであったように――
 見上げれば、街の灯りも一つか二つ減ったようだった。川岸に並ぶ無骨な重機の影に向けて、白い筋がまた切れ切れに落ちていった。
 彼らは長いこと眺めていた。スープに浸かっていたパンがすっかり形を無くし、器が氷のように冷え切ってしまっても、二つの影はそのままじっと座っていた。

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