ヘンリー・ロスコーは台所に向かっていた。自発的にではない。呼び出されたのだ。


望みを掻き立てて -Stir-up My Hope-

 一体どうした風の吹き回しだろう? あの壮年の従者が――初めてアパートメントにやってきた日から、主人である彼が台所に立ち入ることを頑なに拒み、主人自ら食事を準備するなどとは「紳士にふさわしからぬお振る舞い」であると、冷厳な口ぶりで断言してきた従者が!
 日曜の午後のことである。いつも通りの素晴らしい昼食を取り、クランベリーソースの掛かった香ばしい鴨のサラダだの、愛らしい一口大に絞り出してこんがりとローストしたマッシュポテト――いわゆる「公爵夫人の馬鈴薯ポム・ド・テール・ドゥシェス」――だの、従者の手による美味の数々に舌鼓を打った。とりわけ「ミラノ風焼き飯」ときたら最高で、噛み応えのある米にぴりっとしたチェダーチーズとトマトソースが絡み、バジルや黒胡椒の風味もよく、実に満足のゆく主食だった。不満があるとすれば、どこがミラノ風なのかよく解らないことぐらいだ。
 その後だ、従者から台所へ来いと言われたのは。否、そこまで直截に伝えられたわけではない。「午後三時に厨房までお越しいただければ幸甚でございます」と、こうだ。記憶が確かであれば、「旦那様のご都合がよろしゅうございましたら」という、丁重な前置きもついていた気がする。全くもって迂遠な男だ、と彼は肩をすくめた。
 ともあれ、断る理由もない。どういった用向きなのかをあれこれ想像しながら、彼はなだらかな主階段を下りていった。感謝祭の正餐については、月の頭に計画済みだし、そのための良い七面鳥も既に仕入れている。来週からの食事の予定も打ち合わせはしてある。第一、その程度のことでわざわざ台所に呼ばれるはずもない。といって、台所の設備に重大な欠陥や破損が見つかったとかいう、急を要する深刻さも見られなかった。ますますもって謎だ。
 広々としたギャラリーを抜け、台所のある廊下に入ったところで、前方から扉の開く音がした。背広のかわりにエプロンと袖カバーを着けた従者が、まさに厨房の戸口から姿を現す。
「ご足労いただき恐縮でございます、旦那様」
 どんな服装であろうと変わらぬうやうやしさで、従者は主人に向かって頭を垂れた。彼は苦笑し、ウエストコートから懐中時計を取り出すと、文字盤を前に向けてかざした。
「ちょうど三時だぞ、ウィギンズ。ぼくにしては時間厳守だ」
「よろしゅうございます」
 従者が鷹揚に頷き、彼を促すように片手で扉を示す。具体的にどんな用事かは、まだ口にするつもりがないらしい。本当に珍しいものだと、彼は眉を上げつつ踏み込んだ。

 そして、理解した――言葉はなくとも容易に察しがついた。クリスマスの話だ、と。
 何故って、開け放たれた扉の向こうには、シナモンやクローブ、ナツメグ、バニラ、またショウガなどの心温まるスパイスの香りや、じっくりと焙煎されたナッツの薫香がいっぱいに漂っていたからだ。それにカラメルのような香ばしい匂いもすれば、嗅いだだけでブランデーだと判る、古い木と蜂蜜に似た芳醇な香りも。これが祝祭日の香りでなくて何だというのだろう?
 その出処を探るべく、彼はざっと調理場に視線を巡らせた。見れば、大きな作業台の上に陶器のボウルが載っている。傍らには、使用人見習いとして住み込んでいる少年が――恐らく踏み台を使っているのだろうが――立っており、彼と目が合うや否や、緑色の瞳をきらりと輝かせた。彼が軽く片手を振ってやると、感極まった様子で大きく振り返してくる。従者と同じく身に着けている袖カバーから、覗いた小さな手は何か茶色くべたべたしたもので汚れていた。
「ナサニエル、もう下がってよろしい」
 手はきれいに洗うように、という従者の付け足しを受け、はあいと素直な答えが返る。小さな頭がひょいと引っ込み、洗い場のほうへ去ってゆくのを横目に、彼は作業台へと近づいてみた。
 長い木の匙が添えられたボウルの中身は、何らかのパン、ないしケーキの原型らしい見た目をしていた。夏の間に収穫して干されたベリーや干しブドウ、砕いたナッツ等がこれでもかと練り込まれており、濃い茶色の生地がほとんど見えないぐらいだ。
「この色は――匂いから考えるとチョコレートじゃあないな。さてはこいつが、今年のクリスマスケーキの試作品ってわけか」
 視覚と嗅覚を存分に働かせながら、彼は推察を口にした。きっと焼き上がりは断面がぎっしり詰まった、濃厚な味わいの菓子になるのだろう、と胸を躍らせながら。
 一方、従者は普段と何ら変わらぬしかつめらしい顔つきのままであり、浮かれた風は少しもなかった。ただ彼の後を追ってボウルの傍らで立ち止まり、首肯するのみだ。
「いかにも、本年のクリスマスケーキ……もとい、クリスマスプディングでございます。一点だけ訂正を申し上げるならば、試作品ではなく本番でございますが」
「本番だって?」 些か予想に反した言葉に、彼は目を丸くして訊き返した。
「ずいぶん早――いや、でも、ヨーロッパの冬の菓子にはそういうところがあるよな。冬の間じゅう少しずつ食べるために日持ちがするし、日ごとに味が良くなるってやつだ」
「さようでございます。クリスマス当日に準備するのであれば、それは最早クリスマスプディングではございません」
 むしろクリスマスの翌日に準備するのが最良でございます――従者の淡々とした陳述を、彼は迷ったあげく英国流のジョークであるということにした。従者の口から出ると何であれ真実に聞こえてしまうから困る。
「もっとも、熟成が長ければ長いほどよいというものでもございませんが。昨今では、降臨節アドベントが始まる直前の日曜日に作り始めるのが習慣となっております」
「それが今日ってわけだ。なるほど、クリスマスイブの四週間前の、さらに前の週ってことになるな。ぼくは感謝祭のことしか頭になかったが、なんだかんだでそろそろ年末なんだなあ」
 従者がやってきた年ほどではないにせよ、やはり大騒ぎのうちに過ぎていった一年を思い返しながら、彼はふっと息をつく。ここ数年は自分も世の中も大きく変化することばかりだ。おおっぴらに酒が飲めなくなったことなど些細に思えるほどに。
「秋を締めくくり、祝祭の季節へと向かうにふさわしい時期でございます。それゆえ、この日が『かき混ぜの日曜日スターアップ・サンデー』として定着したのでございましょう」
 そこで彼は感慨に浸るのを止め、従者の顔をしげしげと見た。耳馴染みのない言葉が聞こえた気がしたのである。
「ええと、何だって? この日曜日が――」
「かき混ぜの日曜日でございます。英国以外の聖公会でもそう呼ばれるのかは、寡聞にして存じませんが」
「あっちの教会の祝日なのか? 確かに、『懺悔の火曜日』とか『灰の水曜日』に似た響きだけれども」
 さして信心深くもなく、他教派の風習には当然ながら通じていない彼は、全くの憶測で尋ねたが、案の定従者は首を横に振った。
「正式な祝日や記念日ではなく、あくまで俗称でございます。この日の礼拝で行われる特祷の言葉に由来しております」
 淡々と述べてから、従者はやおら厳粛な顔つきになり、該当する箇所を淀みなく暗誦してのけた。
「――『主よ、あなたの忠実な民の意志を掻き立てスター・アップ、善き業の実を豊かに結び、豊かな報いを受けることができるようにしてください』……」
 つられて神妙に聞いていた彼は、しかし同時に思い至った。要するに駄洒落なのだ。
「つまり、『掻き立てるStir-up』と『かき混ぜるStir-up』を掛けてあるわけだな。そこから伝統にまでなるっていうのは驚きだが」
「察するに最初のうちは、子供たちの無垢な替え歌のようなものだったのでしょう」
 元の淡々とした口ぶりに戻った従者が、そうした些細な冒涜に惹かれる年頃ですから、と付け加える。聞きながら彼は、目の前にいる壮年の男の子供時代を思い浮かべようとしたが、困難さからすぐに中断した。どうもこの男を見ていると、三つか四つの小さいうちから、黒一色の三つ揃えを着て、にこりともせずに突っ立っていたのではないかと感じられてしまうのだ。
「まあ、成り立ちは解った。解らないのはどうしてお前がぼくをここに呼んだのかだ」
「と仰いますのは?」
「そんなの、お前――お前がうちに来てから、台所がぼくにとってどれほど遠い場所になったと思う? お前の目を盗んでマカロニ・アンド・チーズを作ることに比べたら、国会議事堂に単身乗り込んで、ジョン・モーリス・シェパードを暗殺することのほうが遥かに簡単だろうさ」
 顔も見たことのない、けれど「禁酒法の父」であることだけは知っている上院議員の名を挙げながら彼は肩を竦める。
「さように紳士らしからぬお振る舞いに対しては、無論わたくしも従者として、相応の対応をさせていただきます。しかしながら、本日あなた様をお呼び立てしましたのは、調理のためではございません。儀式のためでございます」
 儀式。その一語には、常日頃の彼がどうかすると避けて通りがちな、厳めしく逸脱を許さない空気、聴くものに背筋を正さしめる響きがある。少なくとも従者の口から出る限り、「毎週日曜の昼食後にはチョコレートを食べる」というような、ささやかで幸福な習慣のことは連想されない。
「そいつは――えらいところに呼び出されたもんだな。何か、こんな気楽な態度で来てよかったのか? 今からでも着替えてきたほうがいいか?」
 なにしろクリスマスである。英国には合衆国育ちの自分が知らない、祝祭にまつわる荘重な言い伝えが存在して、一家の主は信仰の守り手として必ず執り行う必要がある、等という事情ではないだろうか――そこまで想像したところで、はたと彼は気付いた。従者が自分の顔をまじまじと見ているのだ。日来の沈着冷静な表情が、ほんの僅かではあるが変化していた。彼の主観からいえば、きょとんとしているように見えた。
「旦那様?」 声も先刻よりは堅苦しさが抜けていた。 「仰る意味がよく……」
「いや、儀式なんて言うんだろう? てっきりぼくは今から、クリスマスを始めるのにふさわしい、伝統ある宗教的手続きか何かを取らされるもんだとばかり」
「クリスマス・プディングの準備でございますよ、旦那様?」
 従者の表情がまた些かばかり変化した。こたびは怪訝そうだった。
「解った、これはぼくの勘違いだな。どうもぼくはお前と英国に対して、やたら壮大な思い込みを抱きがちらしい。実際、何をすればいいんだ?」
 彼は頭を振り、後は焼くだけと見えるボウルの中身に目をやると、続けざまに従者の顔を見上げた。
「それは勿論、『かき混ぜの日曜日』でございますから」
 さも当然のように従者が応えた。 「生地を混ぜていただきたいのです」
「たったそれだけか?」
「それだけでございます。とはいえこれは儀式ですゆえ、約束事はお守りいただきたく存じます」
「聞こうじゃあないか」
 予想よりもずいぶん軽い要求に、彼はいくらか拍子抜けしながらも応じた。この調子なら、「約束事」とやらもそう深刻なものではないだろうと感じる。おおかた、混ぜている間は口を利くなとか、逆に祈りの文句を唱えながらとか、仰々しい儀式というより「おまじない」のようなものなのだろう――彼は憶測し、何を言っても物々しい雰囲気になる従者の口が、再び開かれるのを待った。従者が台上から布巾を取り、木匙の柄を丁寧に拭った。
「匙を動かすにあたっては東から西へ――言い換えれば時計回りに。これが第一の規則でございます」
 従者が提示したのは単純な、かつ、調理上の理由はさして無さそうな決まりだった。彼は考えなしに応じようとして、ふと匙に伸ばす手を止めた。
「東から西へ。……それ、もしかすると東方の三博士に関係あるか?」
「いかにもご明察でございます、旦那様。かの賢者たちの旅路に敬意を表するための、大切な決まりでございます」
「別にそう言われなくても、右利きの人間はだいたい時計回りにかき混ぜると思うがね。で、第一のってことは、第二もあるんだろう?」
「はい、旦那様。第二にして最も重要な規則ですが」
 そこで従者は勿体つけるように間を置いた。 「願いをかけることです」

 願いをかける――なんとまあクリスマスらしい行為だろうか! まさしく風物詩ではないか、クリスマス前にはサンタクロースへ手紙を書き、この一年で自分が積んできた善行を高らかに数え上げると共に、大抵はそれに見合わぬ物質的なおねだりをすることこそ、十二月で最も大切な仕事と言ってもよい。合衆国の子供たちにとってはだが。
「願い事か。そいつは実にすてきな規則だ。――なあ、ウィギンズ」
「は」
「聞いておきたいんだが、その願いをかけるというのは、誰でもやっていいものなのか」
「と仰いますのは?」
「つまりだな、……例えば一家を代表して一人、みたいな理由で主人のぼくが選ばれたのか、それとも全員に願い事をする機会があるのか、ってことだ」
 もし前者だったとすれば、その権利を自分が奪ってしまうのは横暴だとも思えたのだ。無論、彼は二十世紀文明人を自負する身として、この手の「おまじない」の効力を当てになどしていない。ただ、ウォルドルフ・ホテルのスイートルームではなく、我が家で過ごすクリスマスの一部なのだから、同じ場所で暮らしている者全てに、同じ楽しみがあってほしかった。
 謹厳さの鋳型にはまった顔つきで佇む従者に、彼は推し測るような目を向けた。もし従者がまたぞろ主人と使用人の立場の違いを説明し始めたら、この家にそんな区別など存在しないと言い切ってやるつもりだった。
 果たして、従者は例の金科玉条を持ち出してはこなかった。墓石のごとく冷たい顔はせず、またどこか疚しそうな素振りも見せず、暗褐色の瞳で静かに彼を見返した。
「格別のご配慮、まことに有り難う存じます。ですが、どうかご安心くださいませ。ことクリスマス・プディングに関しては、一つの家に関わる者全てに機会が与えられております。階上のご家族から階下の使用人に至るまででございます」
 ほんの僅かにではあるが、その口元は緩んでいるようにも見えた。現状たった一人の「階上のご家族」たる彼は、無意識に深い息をつくことになった。
「通常、この儀式を最初に執り行うのは一家の最年少者でございます――そこから歳の若い順に交代でかき混ぜ、最後に『旦那様』の手で終えていただくのが伝統であるかと存じます」
「そうか。で、今ここにぼくが立っているというわけか」
 改めて匙に手を掛けながら彼は呟いた。が、すぐに「儀式」を始めはしなかった。
「……じゃあ、あの子も願い事をしたってことだな」
「さよう推測いたします。何を、とは存じませんが」
「そりゃあそうだ。こういうのは口に出したら叶わないと相場が決まってる」
 彼は頷き、それから確かめるように従者の目を見た。 
「お前もだな?」
 言葉や首肯はなかった。台所の空気よりは暖かみのある眼差しだけが返ってきた。

 器を満たした褐色の生地は、彼が考えていたよりもずっと柔らかくさっくりしている。きっと粉よりも果物や種実のほうが多いのだろう。かき混ぜるのに大した抵抗はない。
 だから彼は問題なく、唱えるべき願い事に集中することができた。何を願うかも決まっていた。あとはいつ手を止めればいいのかだ――きっといつ止めてもいいのだろう。生地は既に充分すぎるほど混ぜられていて、これ以上はどれだけかき回しても仕上がりに影響はあるまい。ささやかな願いをかけるという目的のためだけに、生地はまだ器に留め置かれているのだ。
「ウィギンズ、そろそろいいか?」
 それなら自分はこうして、無事に「儀式」が済んだという合図をしてやるだけでいい。事実、従者は彼の問いかけに首肯して、
「よろしゅうございます。十二分の出来栄えとなりました、旦那様」
 と答えてくれた。彼も満足げな笑みで応じると共に、ティーが楽しみだなと口に出しかけて、とっさに飲み込むことになった。菓子はこれから一ヶ月以上も食品庫で眠りにつき、クリスマスを待たなければならないのだ。今日の午後四時に招かれてはいない。
「ようし、それじゃあ後はお前の仕事だな。素晴らしいクリスマスになるかどうかは、お前に懸かってると言っても過言じゃあないぞ――願いが叶うかどうかもな」
 重圧になってもいけないと、彼はなるべく冗談めかした調子で言った。意図が通じたのかどうか、従者はやはり厳かな、祝祭とは真逆にある冬の一側面を思わせる顔つきで、うやうやしく一礼した。

「――旦那様」
 そこで話は終わりだとばかり思っていた彼は、踏み出しかけた足をすんでのところで引っ込めた。向き直ってみると、従者は何か思うことでもあるような神妙さをもって、彼をじっと見据えていた。
「何だ、ウィギンズ?」
「これはわたくしの愚察でございまして、見当違いもはなはだしいとお叱りを受けるか知れないのですが――」
「はなはだしいのは謙遜だけだろう。で、どうした?」
 重々しくなりかける空気を解きほぐすように、彼は片手をひらりと振って聞き返す。従者はまだ謙り足りないとでも思っているのか、唇を半ば開いて――恐らくはさらなる遠回りをするつもりだったのだろう。が、それを自ら打ち消すように頭を振った。
「ともすれば旦那様は、わたくしと同じ願いをかけられたのではございますまいか」

 彼はすぐには答えなかった。眼前に佇む男の真摯な面持ちから、その裡に抱いた想いを見通そうとした――もちろん見通せるわけもなかった。
「そうか。しかし、そうすると話は少しややこしくなるな。もし本当に同じなら、だが」
「さようでございますね」
「かといって確かめるわけにもいかん。なにしろ口に出したら叶わないからな」
「は」
「だからぼくは、お前の推察が当たっている前提で、これだけ言っておこうと思う」
 そもそも主人らしく威厳ある態度を取ろうとか、この場を厳粛に締めくくろう等とは思っていなかったが、締まりのない笑みを堪えることさえ、今の彼にはできなかった。
「ありがとう、ウィギンズ」

 従者はといえば、従者らしく慎みかしこまった態度を崩さず、主人の言葉を最後まで聞いていた。それから僅かに頭を動かした――一礼を向けようとしたのだろう。だが、その前に一拍の間が空いた。彼は首を傾げた。
「ありがとうございます、旦那様」
 全てを見透かしたような目は伏せられ、今度こそ美しい立礼が捧げられた。

 一時間ほど後、運ばれてきた温かな紅茶を楽しみながら、彼は先刻台所で形作られたものについて考えていた。一ヶ月後に食べごろとなる、プディングのふくよかな香りを思い出しては、そこに込められた願いを心の中で復唱する。
 本当に自分たちは同じ願いをかけたのだろうか? 疑っても仕方のないことではある。確かめる術などないのだから。同じであってほしいとも思えるし、従者には自分だけの願いを持ってほしくもあった。従者が自分自身の希望を述べることなど滅多にないが、それは無欲であるわけではない――使用人たる者が欲望を抱いてはならないと、自己を押し殺した結果だ。
 彼は折りに触れてそう感じていた。人間である以上、沸いて出て当然の夢や望みを、あるべきでないものと規定して過ごしてきたからこそ、今の従者があるのだ――自分と出会うよりも遥かに前、もしかするとお屋敷奉公の道に入る前からずっと。
 難儀な性分もあったものだと溜息をつき、彼は肘掛け椅子の傍に置かれた小卓へ手を伸ばした。華やかな彫刻を施された銀のビスケット入れから、星型に抜かれた焼き菓子を一つ取り上げる。半分に割ると、オレンジとカルダモンの甘く爽やかな匂いがした。間違いなく今日焼かれたものだ。これから数時間かけてプディングを蒸し上げなければならないのだ、茶菓子など有り物で一向に構わないのに……
 でも、それもこれも――願い事のことも、義務感からでなく本心からしてくれたなら、どんなに幸せだろう。
 堅焼きのビスケットを噛み締めて、食感の何層倍も柔らかな甘みが口中に広がるのを感じながら、彼はつくづくと思った。祝祭という響きから進んで遠ざかろうとしているような、あの頑なで堅苦しい従者の内に、心から何かを願う気持ちが掻き立てられたのなら、それこそ願ってもないことだ。ましてやそれが、自分と同じとびきりの願い――「他の二人の願いが叶いますように」というものならば。

  * * *

 若い君主が初めて戴く王冠のごとく、それは運ばれてきた。
 ふんだんな装飾を施された銀の盆に、暖められた白磁の大皿。両手で支え持つ壮年の従者も、今日はいつもの地味な三つ揃えではなく、主人同様に黒い燕尾と白いボウタイの華やかな装いだ。カフスボタンが質素な銀鍍金の設えでなければ、そのままアスター家の大舞踏会に主賓として送り出せそうなほど堂に入っている。
 従者だけではない。その後ろには、真白なシャツの上に毛織のチョッキを着て、襟元に赤いリボンを結んだ、見習いの少年も続いていた。ナプキンと新しいカトラリーの載った小さな盆を、誇らしげに掲げ持っている。

 ついに来たか――ヘンリー・ロスコーは食堂椅子の上で居住まいを正し、静々と進み出てきた二人の使用人と向き合った。双方を隔てるクロスの掛かった卓には、つい先程までありとあらゆるクリスマスのご馳走が――身の締まった牡蠣と小海老のカクテルに始まり、鮭の薫製とチーズのサラダだの、詰め物をした七面鳥のローストだの、あとはもう数え挙げるのも大儀である――次々と運ばれていたが、今はさっぱりと片付けられ、飾り付けの花や果物、そして蒸留酒用の小さなグラスが残るばかりだった。十二コースからなる正餐もいよいよ大詰めだ。
「お待たせいたしました、旦那様」 従者が厳かに宣言する。 
「クリスマス・プディングでございます」

 大きな銀盆から卓上に移されたものは、彼の掌を広げたほどもある、深い焦げ茶色の菓子だった。一ヶ月以上も前から準備されていた生地は今、凝った花型で蒸し上げられ、天辺にヒイラギの枝を飾り付けて、美しい艶を湛えている。その横には小さな蝋燭立てと、ソース入れと思しき白い陶器。
「いよいよこの時だな、ウィギンズ、ナサニエル」
 逸る心を宥めるように、少しばかり低い声で彼は言った。少年が身動ぎした。
「旦那様におかれましては、長らくのご辛抱をいただきまして」
「この上ない辛抱だったぞ! それに見合うだけの報いがあると信じたいもんだがな。――それはソースか? その蝋燭で熱してから掛ける、とか」
「ソースと表現できないこともございません」
 主人が(そして少年が)どんなにそわそわしていようとも、従者は変わらず落ち着き払った物腰で、簡潔な答えを返すのだった。更にこうも付け加えた。
「実際にご覧いただくのが早いかと存じます。これなくしてクリスマス・プディングは完成いたしません。――灯りを消してもよろしゅうございますか」
 彼が目を丸くして頷くなり、従者は食堂の電燈を消すと、ポケットからマッチの箱を取り出し、一本擦って蝋燭に火を灯した。続いて器に入っていたソース用のレードルを取り上げると、ゆっくり火にかざし始めた。そこで彼も気がついた――立ち上ってくる香りからして、中身はブランデーだ。
 もしかして、と口にしかけて止める。果たして従者は彼の予想通り、慣れた手つきでレードルをほんの少し傾けた。蝋燭の火が揺らぎ、金属の縁からブランデーへと触れた。

 次の瞬間、小さな橙の火は青い炎となって燃え上がり、暗がりに神秘の光を投げた。照らし出された従者の手がさっと伸び、火のついたブランデーをプディングに注ぎ込む――たちまち青白い花が皿の上に開いた。少年が小さく歓声を上げたと思えば、はっと呑み込む音がした。
 彼もまた息を呑み、揺れ動きながらプディングを包む炎を凝視していた。これほどに幻想的なクリスマス・ディナーを経験したことはなかった。華やかなお祭り騒ぎならば毎年のことで、昨日も一昨日もあちこちへ招かれては、ケーキやシャンパンをたらふく胃袋に納めたものだが、こうも厳粛な思いでデザートを見つめることなど、今後もそうあるまいと思えてならなかった。
 炎は次第に収まってゆき、小指ほどの大きさのまましばらく留まっていたが、やがて消えてしまった。従者が再び電燈をつけると、そこには元通りのプディングが鎮座しているばかりだった。特に焼け焦げたりしている様子もない。
 そこでようやく彼は息をつき、前のめりに固まっていた身体を起こして、ゆったりと椅子に座り直した。今しがたの光景だけですっかり満足した気分だったが、大事なのはここからなのだ。
「ナサニエル」
 従者が促すように少年の名を呼ぶ。すかさず彼の前に盆が差し出された。載せられている食器の中には、もちろん取り分け用の大きなナイフもある。いつもと同じことだ、自分が好きなだけ切り取ってよいのだ――ああ、なんという贅沢だろう!
「ありがとう、ナサニエル。今日はなんだか背筋が伸びて見えるじゃあないか、とても格好いいぞ」
 彼はその佇まいを率直に褒めた。未だ見習いには違いないが、随分と立ち居振る舞いが様になってきたと思えたのだ。彼の言葉を受け、少年もまた自分なりにきりりとした顔を作ってみせた。もっとも、数秒もしないうちにその表情は綻び、堪えきれなかったのだろう笑みを一杯に溢れさせていたが。
「それじゃあ早速、味を確かめてみるとするか。ああ、この香りだけでもうたまらなく美味そうだ……」
 本当は丸ごと取り皿に移したいのを堪えて、一インチほどの慎ましやかな一切れを白磁の皿に受ける。嵩のわりにずっしりとしているのは、中身がぎゅっと詰まっているためだ。芳醇なブランデーの甘い香りが、カラメルのような砂糖や果物の匂いと渾然一体になり、嗅ぐだけで陶然としてしまう。こんなことなら食前酒をもう少し控えめにしておけばよかったかと彼は思った。それでも口に運ぶ手付きはしっかりしていた――寸前に従者の顔をちらと見やると、どうも微笑しているように思われた。

 しかし従者の表情など、最初の一口を噛み締めた瞬間に問題ではなくなってしまった。むっちりとした歯触りを感じたと思えば、口いっぱいに溢れ出す甘みと酸味――あの丸く張り詰めた果実たちが本来持っていた味わいを、限りなく凝縮したものがこれなのだ。絡みつくようにねっとりして、けれども舌を麻痺させるほど強烈ではなかった。どこか優しいのだ。黍砂糖の素朴な風味がそうさせるのだろうか?
 彼はすぐさま二口目に取り掛かった。ところどころ混ぜ込まれたクルミやアーモンドが、食感にも変化をつけてくれる。仄かな苦味はオレンジやレモンの皮だろう。
「美味しいな、これ」
 なんとか絞り出した言葉に締まりはなかった。 「しあわせな味がする……」
「それはよろしゅうございました」
 対する従者の声が、さも当然と言わんばかりに淡々としていることさえ、今の彼には気にかけていられなかった。口中に感じるもの全てを、考えを膨らませながら受け取るだけで精一杯なのだ。時折ぷちぷちと歯に当たるのは干しイチジクの種で、底のほうでしゃりしゃり言うのは溶けて固まった砂糖で――フォークを置いて深呼吸すれば、鼻に抜けてゆく蒸留酒の香気。
「本当にそうだ、幸せの味だ。当然だよな、ぼくたち全員の願いがこもってるんだから」
 長々と息をついた後で、彼は少年のほうに顔を向けた。たちまち稚顔が明るくなり、彼を見返してくる。
「はい、旦那さま! あの、その願い事なんですけど――」
「うん、……あっ、言わなくてもいいぞ、口に出したら叶わないからな」
 彼は慌てて言い足したが、少年は変わらず顔を輝かせたまま頭を振った。
「違うんです、もういいんです――もう叶ったんです」
「叶った?」
 再びフォークを取り上げかけた手が止まる。碧眼をまるく見開いて、彼は少年の顔をしげしげと見た。次いで従者に目をやったが、そちらは暗褐色の眼をぱちりと一度だけ瞬いたところだった。
「そうなんです、あの……こうお願いしたんです。クリスマスのお夕食に、旦那さまがこのプディングを召し上がるときには、わたしもお給仕ができますように、って」
 はにかむように笑いながら、少年は言葉を続けた。抑えきれなかったのだろう興奮が、その声には滲み出ていた。
「いつもはミスター・ウィギンズお一人で、お料理を作るところからなさいますけど、でも今日のプディングはわたしもお手伝いしたので……旦那さまの御前にもいっしょに出られたらなと思ったんです。だから、もう叶いました!」
 その目が笑みでいっぱいになり、続いて糸のように細くなるのを見届けてから、彼は従者のほうを再び見やった。大人たちは互いに顔を見合わせて、暫し黙った――恐らく自分たちは今、同じ思いを抱いているのだろうと確信を持つまで。
 とはいえ、言い出すまでにはもう少し機を見計らう必要があった。返答がないことに目をぱちくりさせる少年の前に、沈黙とブランデーの香りだけが漂った。

「……そうなるとだな、ウィギンズ」
 結局、先に口を開いたのは彼のほうだった。きょとんとする少年を前に、苦い笑いを堪えながら。
「ぼくらの願い事も自動的に、というのか、結果としてほぼ叶ったことになるよなあ」
「さようでございますね、旦那様」
 従者も苦笑こそしていなかったが、日来の端整な微笑と比べれば多少締まりのない、次の答えに迷っているような口元で応えた。
「あー、つまりだ、ナサニエル。ぼくはね、『他の二人の願いが叶いますように』、とお願いしたんだよ」
 言って、彼は従者に目配せをした。暗色の眼が僅かに細められ、口の端が少しばかり上がるのが見えた。
「わたくしも同じく、旦那様とナサニエルの望み通りになるようにと願いをかけました」
「ということは、君の願いが無事叶った時点で、ぼくらの願いも成就したというわけさ。クリスマス・プディングにかけた願い事としては、記録的な達成速度なんじゃあないか」
 語り終えざまに肩をすくめる。欲というにはあまりにささやかな少年の言葉が、胸の内側に温かさを挿していったのが解った。
 他方、少年はなおも口をぽかんと開け、大人たちの顔を見上げていたが、徐々にその表情は緩み、やがて喜びではち切れんばかりとなった。緑色の瞳がモミの木に飾られたガラス玉よりも、あるいは天辺に鎮座する金の星よりもなお明るく輝いた。小さな唇は今にも開いて歓声を上げそうだった――が、主人の御前であることを思い出したのか、使用人の礼儀に外れた行いに出ることはなかった。

「さあ、そういうわけだから、来年はもう少し違う願い事を考えておかなくちゃあな。でも今はまず、喜びの味を満喫しようじゃあないか」
 一段落させるように彼は言い、ナイフに手を伸ばした。 「二人の分もあるだろう?」
「勿論でございます。わたくしどもも後ほど夕食にいたします。――旦那様、お次はブランデー・バター、もしくは温かいカスタードなどと共にいかがでございましょう」
「そいつは良い! ぜひ持ってきてくれ。きっと最高に調和するぞ。お前の提案には間違いがないからな!」
 彼の答えに従者はうやうやしく首肯し、少年を片手で促す。共に台所へと引き下がるつもりなのだろう。それを見送りかけたところで、彼の胸中にふと浮かぶものがあった。
「ああ、ちょっと待った!」
 がたんと椅子を鳴らし――従者言うところの「紳士にふさわしからぬ」不調法である――彼は咄嗟に身を乗り出した。ぴたりと足を止めて振り返った従者は、さして驚いた様子もなかった。少年は目を丸くしていた。
「なに、……ちょっと言わなくちゃあいけないことを思い出したんだ。いや、今朝にも言ったことではあるんだが、改めてというのかな」
 どうしてそう思ったのか、彼にもよく解らなかった。否、祝祭に浮かれて深く考えずにいたことを、今になって理解したからだ。
 このプディングは従者一人で作ったものではない。見習いの少年と、それから自分と、三人が共に一つのボウルをかき混ぜたのだ。階上と階下、主人と使用人が、同じ台所で同じことをする、それがどれほど稀な、そして嬉しいことなのか、やっと身体で感じることができたのだ。
 だから彼は改めて立ち上がり、ブランデー・パンチの入った硝子杯を高々と掲げて、晴れやかな声で二人に呼びかけた。
「もう一度言わせてくれ、ウィギンズ、ナサニエル。――メリー・クリスマス!」
 彼らは一度だけ目を見交わし、それぞれに頷いた。従者が真っ直ぐに彼の目を見た。
「クリスマスおめでとうございます、旦那様。良い一年がありますように」

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