新しい年が始まると、新しいパーティーが始まる。


辛口の夜話 -Toast of the Party-

 否、カレンダーの数字が1921から1922に変わろうが変わるまいが、違いなどありはしないのだ。ニューヨークの社交界にパーティーのない夜などない。英国の作家が物した童話に、一年のうち誕生日を除いた全ての日を祝って過ごす連中が出てくるが、これを基準に考えると、マンハッタンの夜に棲み着く若者たちはみな「帽子屋のように気が狂って」いることになる。世の良識ある人々から見て、それは別段大げさでもないかもしれない。
 とはいっても、ヘンリー・ロスコーはパーティーのパの字さえ聞けば食いつくような、度を越したパーティー好きというわけではなかった。少なくとも主催者と列席者の名前ぐらいは毎回きちんと確認し、そこにミセス・グリムズビーだのミスター・シンクレアだのといった――つまり彼の親類の――名前が一つでもあろうものなら、たとえ招待状に合衆国建国の父の肖像が挟まっていようと、頑として出席を拒むたちである。
 一方そこに気の合う友人の名前しかなければ――今夜もそうだったのだが、これほど素晴らしいことはない。どの顔を見ても自然と笑みがこぼれ、溢れ出す喜びを共有するべく話も弾む。食べ物はふんだんだし、酒は言うに及ばずだ。お喋りと余興に身も心も満たされ、柔らかなソファに腰を下ろせば、自然と瞼も下がってくる……

「――リー、……ハリー? ねえ、ちょっと」
 そのようにして彼は、自分自身に掛けられる声を聞いていた。もとい、耳に流れ込むままにしていた。実際のところ、彼はそれが若い女性のものであることも、出どころが自分の頭上であることも、ほとんど理解できていなかった。ただ座面のすべすべとした革の感触や、体を包み込む暖かさ、また内側に籠もったままの酒精の熱が心地よくて、身を委ねるよりほかに何も考えられなかった。
「人の家でこんなに快眠できるなんて、度胸と落ち着きのある人。ティミーには無理ね、どの椅子に座るときでもおっかなびっくり」
 くすくす笑う響きに若干の呆れが混じっていることも、気がつくはずがなかった。ただ何か円みのある、撫でるように優しいものが、微睡みの中で自分をくすぐっている――そんな大変おめでたい感覚があるだけだ。

 優しい声はやがて途切れ、考え込むような静寂がしばらく続いた後で、硬質な咳払いに変わった。それ自体が彼の眠りを覚ますことはなかった――パーティーの喧騒でさえ覚ませなかったのだ。だが、次に耳朶を打った台詞はどうか。
「旦那様、――ご帰宅のお時間を少々お間違えではございませんか、旦那様?」

 瞬間、彼の臀部は座面から間違いなく一インチは浮いた。張られた革が擦れる音と、言葉にならない頓狂な声とが重なって、類稀なる不協和音を場に齎した。
「ウィギンズ! ウィ――あの、いま帰っ……ぼくの帽子……」
 酔っ払いの口からまろび出るのは、どこを取っても締まりのない単語の羅列ばかりだ。たおやかな眠りのヴェールを一息に切って捨てた、あの低く冷厳な英国訛りとは天と地ほどの差である。ロスコー家の放蕩息子は、椅子から転げ落ちそうになる体をなんとか片手で支え、もう片方の手で両目を擦り、声の主を探して顔を上向けた。墓石のごとき無表情で自分を見据えているであろう、黒一色の三つ揃えを着た壮年の従者を。

 ――果たして、見上げた先にそんなものは無かった。霞んだ視界がだんだんと明瞭になってくる、白い輪郭が存外ほっそりとして丸みを帯びていることに気付く――これはどう見ても三十路の男の顔ではない。何より目に染み入る一点、鮮やかな紅色が証拠だ。
「……ええ、と、おはよう……シャーリー」
 その紅色が――冬薔薇の色に塗られた唇が弧を描いた。背凭れの向こうから、二十歳そこらと思しき婦人の顔が、彼の眼前へと近づいてくる。丁寧に巻かれた短い金髪が、肌に触れるか触れないかというところまで。
「新年早々朝帰りのご予定とは、さすが色男の誉れ高いロスコー家の若様だことで」
 明るい青緑色の瞳が、冗談めかした意地悪さを込めて彼を覗き込んでくる。彼は半分開いたままの口をなんとか動かし、洒脱な切り返しを試みた。あいにく失敗した。
「それは……その、つまり、人の家で居眠りすることで悪名高い、というぼくの性質をうまく言い表していることに……なるのかなあ。あの、シャーリー」
「なにか?」
「ええと、さっきのあれ、君だよな? まさか本当にウィギンズがいたりしないよな?」
 吹き出すような笑声がその答えだった。彼はひとまず胸を撫で下ろしたが、だからといって気恥ずかしさまで消えるわけではなかった。
「良いかい、パーティーの途中で寝たのは本当に悪かったよ。完全に礼儀に反してる。怒られて当然だ。でも、お願いだからもうあんな起こし方はよしてくれ、君の演技力はお父上譲りなんだから」
「そう? そんなに似てたかな、わたしの声真似」
「ぼくが寝ぼけてたことを差し引いてもそっくりだよ。もっとも本物のウィギンズなら、『お寛ぎのところを失礼いたしました、旦那様。わたくしとしたことがお迎えにあがる時刻を見誤ってしまったと存じます。まことに申し訳がございません』――と、こうだ」
 落ち着き払って淡々とした従者の口ぶりをなぞれば、たちまち頭上から追加の笑いが降ってくる。ぼくの芝居もなかなかのものだろう、と付け加えてから、彼はようやくソファの上で居住まいを正した。そこで婦人のほうも背後から進み出て、優美な猫脚のサイドテーブルの前までやってくる。艶やかな襞を描く翡翠色のドレスは、足首どころかふくらはぎがあらかた見えてしまう短さで、真珠を編んだヘアバンドと共に、いわゆる「新しい女フラッパー」たちに好まれる当世風の盛装だ。
「アクセントは完璧な英国紳士だと保証しましょう。名優オーギュスト・ボーリガード、その娘であるこのわたしがね」
「ありがとう。そして、本当にすまない」
 背筋を伸ばして婦人の目を見上げ、彼は改めて謝罪を口にした。詫びても詫び足りぬ不作法の後である。自分の紳士らしさは発音以上のものではないと自覚はできていた。
「そこまでぺこぺこして貰う必要はないんだけど。別に、今晩我が家にベッドルームを増やしたのはあなただけじゃなし」
「何だって? 他にもそんな始末に負えない輩が?」
「もちろんですとも」
 婦人は整った眉を上げ、微かに鼻を鳴らして言った。 「お父様とかね」
 こたびは彼が失笑する番だった。たちまち脳裏には、華麗なロココ様式の娯楽室――数時間前までは彼もそこにいたわけだが――で、シャンパンの空瓶を傍らに、高いびきをかく美丈夫の姿が浮かんでくる。ブロードウェイにその名を轟かすフランス仕込みの花形役者も、酒と娘にかかれば形無しである。
「お父様についてはまあ、お母様とお祖父様がお帰りになったらきっちりお仕置きしていただくとして、ハリーのことは……」
 何やら企んでいる風の含み笑いが、二人しかいない居間の空気へゆっくりと解ける。彼は寒くもないのに肩を震わせていた。
「そう、例えばわたしのお願いを聞いてくれたら、許してあげないこともないけど」
「というと何だい、シャーリー? 片付けぐらいだったらいくらでも、頼まれなくてもやるつもりだったし――」
 きっとそんなことは求められていないだろうと見当はつけつつも、彼はまず口にした。婦人は片手を腰に当て、意味深長な笑みを浮かべたまま、勿体ぶるようにそこここへと目を遣っていたが、やがて再び彼に目を据えた。引きつけられるように彼は動きを止め、次の台詞をじっと待った。
「わたしね、……お腹が空いちゃった」

 一拍置いて、彼はようやく安堵の息をつき、次いで膝を打った。実に共感できる話だ。なんとなれば彼自身、この時間になると小腹が空いては階下へ向かい、台所で食べ物を探す習性を持っているからである――最近は従者に先んじられることも多いのだが。
「なるほどね。いや、君が無理難題を押し付けてくるような人だとは、そもそも思っていなかったけれど、納得したよ。会の主催となれば、飲み食いしてる暇もないだろうし」
「そういうこと。それにうちのお客様には食いしん坊が多いでしょ? お開きの後でホールを見回しても、なんにも残っていないわけ」
「食いしん坊の筆頭として謝罪するよ」 彼は目を伏せ、肩を竦めてみせた。
「弁解をさせてもらえるなら、君のお父上の料理が美味しすぎるからだと言うけれどね」
「でも娘の身からすれば、本場仕込みのロワール料理も悪くないけど、友達が作る自由で気まぐれでレシピもないような食事が、猛烈に恋しくなるときだってあるわけ。ね?」
 彼のすぐ傍らにある肘置きへ、婦人が手をついて屈み込む。小首を傾げて彼を見る、その瞳には世辞や冗談では見られない熱意があった。ちょうど彼自身が、七コースからなる最上級の晩餐を終えた数時間後に、寝室で隠しておいたイワシの缶詰を探しているときと同じ目だ――鏡で確認したことはなくとも、彼には確信が持てた。

 それで数分後には、彼はもう黒褐色のディナージャケットを脱ぎ、ボーリガード家が誇る広々とした調理場に立っていた。宴の場から引き取られてきた食器の類はあらかた片付いており、流しには僅かにショットグラスや小さなコーヒーカップが残るばかりだ。
「使っちゃあいけないものとかはあるかな。前も聞いたような気はするけれど」
「別になんにも。流し台の下から冷蔵庫の中までご自由にどうぞ。もっとも大した物は残ってないんじゃないかと思う」
 お父様はこういうときに出し惜しみしないから、等と背後から婦人の声がする。厨房の片隅に木造りの机と椅子があり――本来ならそこで雇われの料理人だの女中だのが、休憩したりレシピを検めたりするのだろう――、彼の仕事ぶりを興味深く見守っているのだ。手助けが必要ならいつでもどうぞと言われたが、助力を求めるつもりなど彼にはなかった。
「まあ、生鮮食品にはなるべく手をつけないよ。――缶詰なんか良いんじゃあないかな、……ああ、ほら、懐かしの豆缶だ。もう何年も食べてない。ウィギンズの宿敵さ」
 遠方からでさえひと目で解る、特徴的なロゴの入ったハインツ社のベイクドビーンズ缶を戸棚から取り出して、彼はその碧眼を細めた。
「宿敵って?」
「前に話さなかったかい? つまり、ウィギンズは缶詰が大嫌いなんだ、……いいや、もしかすると自分では食べるのかもしれないけれど、ぼくには絶対に食べさせないんだ」
 肩越しにそう答えを投げつつ、彼の手は既に缶切りを掴んでいた。親しい友人の家とはいえ、自分のものではない台所の勝手がすんなり解るというのは、改めて考えると不思議なものだ。翻って自宅の台所はというと、紅茶の缶がどこにあるのかすらろくに解っていないというのに――それもこれも二年前の秋以来、従者が家事の全てを一手に引き受け、主人である自分を介入させないようにしたために。
「まあ、ウィギンズが言うところの『紳士の召し上がりものではない』ってやつなのさ。きっとウィギンズにとって、生の豆や魚が手に入るときに缶詰を使うのは罪なんだろう」
 軽く溜息をつきながら、彼は缶の口をきれいに切り取り、小鍋に中身を全て空けた。どろりとしたトマトの赤と、柔らかないんげん豆の白とが心和む。このまま火にかけるだけで食べられるものではあるが、単体では少しばかり味が「優しすぎる」――彼の狙いは別のところにあった。
「調味料はそこのキャビネットだったね、シャーリー?」
「そう、また中身が入れ替わってるから気をつけて。本当、物好きなお父様でね」
「冒険家だものなあ。ぼくも是非あやかりたいもんだよ」
 壁に作り付けの木棚を開いてみれば、そこには硝子や白磁で作られた多種多様の瓶がずらりと並んでいる。一つひとつ張られたラベルはほとんどが手書きで、塩や胡椒など馴染みのある名前から、呪文めいた異国風の綴りまである。けれども彼は迷うことなく、唐辛子と黒胡椒、クミンの瓶を掴み出した――そこでふと、あるものが目に留まった。

「シャーリー、ちょっと聞きたいことがあるんだが」
 白い石張りの作業台越しに、彼は婦人を顧みる。すぐに短い応えがあり、婦人は彼の元へと歩み寄ってきた。
「なあに、ハリー? ――へえ、この面々。チリでも作るの?」
「そうしようかなと思ってたよ。でも気になるものがあって……これ、一体何だい? 知らない名前だし、中も見えないから見当がつかなくてさ」
 後ろから覗き込んでくる婦人の眼前に、彼は一本の容器を差し出す。焼き物と思しき広口の器には、やはり手書きの字体でこうある――「Harissa de piments rouges」。
「ああ、それ? それも唐辛子なんですって。唐辛子のペースト」
「ペースト? 乾物や粉じゃあなくて?」
「そう。記念品なの、お父様のお友達がついこの間まで仏領チュニジアに駐在してて。あっちじゃ肉にも魚にも、パスタやサンドイッチにも使うそうよ」
 その「Harissa」というのがアラビア語で「すり潰す」という意味らしいの――婦人の言を聞きながら、彼は器の蓋をひねって開けた。と、目に飛び込んでくるのは鮮烈な赤だ。ところどころ見える小さな粒は、恐らく唐辛子の種だろう。
「となると、チュニジア料理というのはめっぽう辛いんだろうなあ。……これ、使った形跡がないんだが、もしかして未開封だったかな。開けたらまずかったかも」
「そんなわけ。お父様のことだから、どうせ最初は大喜びして、何に使おうかあれこれ考えたけど、そのうち貰ったこと自体忘れたに決まってるもの」
「辛辣だなあ」 彼は苦笑した。 「まあ、土産物にはよくあることだけどさ……」
 しかし、開けてしまったものは仕方がない。見なかったことにして棚に戻すのも気が引けるし、何より味がどんなものかは純粋に知りたくもある。作ろうとしていたものがチリだったのは幸運だったかもしれない。粉唐辛子の代わりにできないか――
 彼は清潔な匙を手に取り、中身をほんの少し、爪の先ほどの量だけ掬い取ると、舌にそっと乗せてみた。刺すような辛さを予期しながら。
 ――そして数秒の後には、彼の心はもう決まっていた。

 出来上がった品を二枚の皿に盛り、台所から食堂へ運び込むのには、それから十分もかからなかった。いっとき席を外していた婦人が、ちょうど戻ってくる頃合だった。
 清潔な白いクロスの掛かった卓上へ、飾り気のない皿を並べながら、彼はふと気付く。婦人は先程と同じカクテルドレス姿だったが、明らかに違う点が一つあった。
「シャーリー、――口紅、落としてしまったのかい」
 緩やかに開いた婦人の口元に、目の覚めるような紅色は既にない。少しばかり残念な心持ちが、知らず彼の声にも滲み出る。
「どうせ食べてるうちに落ちちゃうもの。そこが口紅の弱点よ――二十世紀なんだから、美と食欲の両立も科学でなんとかできればいいのにね」
 軽い冗談ではなく心底からの願望だと言わんばかりに、婦人は溜息ついて天を仰ぐ。彼は笑って返そうと思ったが、すぐさま思い直した。確かにこれは真摯に取り組むべき問題だ。誂え仕立ての燕尾服を着て、十一コースからなる正餐に挑むときなどは、彼も切実な気分で同様の願いをかけたりするものである。
「とにかく、今は諦めて食欲のほうを取ることにしたから、ね、ハリー」
 さっぱりとした表情に戻って笑いかける婦人に、彼は目を細めて頷き返した。そして、婦人のためにクッションの載った椅子を引いた。
 さて、皿の上は三つの要素で構成されていた――こっくりした濃紅色のソースを纏う白いんげん豆のチリ。美しい金茶色を帯びた白パンのトースト。その上に輝く目玉焼き。
「君が気に入ってくれるといいんだけれどね。改めて見ると、なんだか朝食みたいな見た目になったなあ」
「それはそうでしょう、あなたにとっては目覚めの一皿に違いないんだから」
 彼自身の無意識を見透かしたような、軽やかな笑い声が食卓の上を流れる。ナイフとフォークを取り上げ、薄く切られたトーストに差し入れる音がそれに重なる。彼もまた自らの取り分をざっくり二つに切り分けようとした。焼けたパンは小気味よい音を立て、ぷっくりとした黄身は刃を受け止めると共に破れて、太陽にも似た色の流れを皿の上に生み出した。仕上がりは完璧と言ってよさそうだ――だが、判断は婦人に委ねられる。彼は婦人の握るナイフの先を注視した。豆とソースをたっぷり乗せた一口大のパンが、空腹を持て余した口に運ばれてゆくところを。

「あ」
 ややあってから、婦人の目が見開かれるのを彼は見た。瞳の色がはっきりと伺えた。陽の光を浴びて輝く玻璃窓のようだった。
「どうかな、……辛すぎない? 豆と卵でちょうどいい具合になってくれるかな、と思ったんだけれど」
「辛い!」 きっぱりとした声が彼に突きつけられた。ただし笑い交じりに。
「けど、辛いだけじゃない――ただの唐辛子だけじゃ、絶対にこんな膨らみのある味にならないでしょ。何種類もスパイスを組み合わせないと」
 婦人の言葉に深く頷きながら、彼もやや大きめに切り分けたパンを咀嚼する。途端、口中をかっと熱くさせる唐辛子の刺激――同時に、鼻先へと抜けていくのは柑橘めいた爽やかな香りだ。ただ軽いだけでなく、どこかほろ苦さや仄かな甘ささえ感じる。
「あくまでぼくの推測だけど、キャラウェイとコリアンダーは入ってるだろうね。あとクミンもかな……それに結構な量のニンニク、これは間違いない。未知の調味料だったけど、使ってみて正解だったよ」
 実に食欲をそそる強い香味に、彼は確信を持って言葉を連ねる。と、やにわに婦人が卓上へ身を乗り出し、
「本当にそれだけ? わたしは解っちゃったけど、このチリの仕掛けが」
 と悪戯っぽい笑みを浮かべてみせる。彼もまた釣りこまれたように体を傾けた。
「そうかい? それなら是非聞かせてもらいたいな」
「タマネギ。――正確に言うと、タマネギのコンフィを入れたんでしょ。食品棚にある瓶詰めのやつを。すぐに気がついたの、これはお父様の味だって」
 反論は無いだろうとばかり、婦人は上体を軽く反らして片眉を動かした。
「大当たりだよ、シャーリー。いや、これは今夜考えついたことでもないんだけど」
「というと?」
「ほら、クリスマスも君にお招きを受けただろう。その時のオードブルにあったじゃあないか、タマネギのコンフィを乗せたフォアグラトースト」
「確かにあった。フランスでは定番の食べ方なの――アメリカで七面鳥にクランベリーソースを添えるのと同じようなものでね」
「ああ、そいつは正に不朽の組み合わせってやつだ。で、それを食べて思ったんだよ、これは一度作っておけば、あらゆる料理の『タマネギを飴色になるまで炒める』という工程をすっ飛ばせるんじゃあないかって」
 半月ほど前に行われた素晴らしい晩餐会と、その先鋒として登場した小さな佳肴の味を思い返しながら彼は述べた。さっくりと歯ざわりのよい薄切りのトーストに、濃厚で香り高いフォアグラのテリーヌ――小さな銀の匙に収まるだけの量でありながら、口の中が肝の風味で満たされるほどだった。そこに変化をつけるのが、カラメル色に煮詰められたタマネギで、甘さと香ばしさが主役をますます引き立てるという具合……
「すごくすごく辛いのにすてきに甘い、それがタマネギのおかげというわけ」
 よく考えついたじゃない、と素直な称賛を向けられれば、彼は隠すことなく締まりのない笑みを口元に纏わせた。この婦人が世辞や阿諛でもって他者を褒めることはないと、十分に解っているからこそだ。
「こんなチリって初めて。しかも卵の焼き加減もちょうどいいし、このパンも格別ね。普通のトースターで焼くより軽くて歯切れがいいけど、メルバトーストってほど乾いてかりかりしてるわけでもない。これ、本当にうちのパン?」
「食料棚にあった白パンだよ。ただ、トースターやグリルじゃあなくて、フライパンを使っただけさ」
「フライパンを?」
「そう。よく熱したところにバターを溶かして、パンの片側を三分、裏側を二分焼いてから、最後にほんの少しだけバターを追加するっていう……正確に言うと、焼いてるんじゃあなく揚げてるわけだ」
 なにしろぼくの家には電気トースターなんてものが無いからね――彼は軽口めかして言う。実際のところ、彼は幾度となく電熱式の調理器具を導入しようと試みてきたのだ。ただ全て従者に却下されただけである。加えて彼自身、このフライパンで作るトースト、もとい「フライドブレッド」の味にすっかり魅了されてしまっていた。
「それはそれは。あの人、台所仕事についてはだいぶ保守的みたいだしね」
「だいぶなんてもんじゃあないよ。ウィギンズは根本的に電気の力を信用してないんだ――でも、おかげで揚げ焼きにしたパンの美味しさに気づけた。それは確かだ」
「その結果として、さる資産家のご令嬢が一人、真夜中にバター浸しのパンを食べさせられることになったと」
「おまけに唐辛子だのスパイスだの、ニンニクとタマネギもしこたま入ったような豆の煮込みをたっぷり掛けてね」
 そうして軽口を叩くうち、彼はふと不安になってきた。冷静になってみると、明日も朝からどこかしら社交の場に出なければならないご婦人に、唐辛子やらニンニクやら、二重の意味で「お腹がいっぱいになる」豆やらをてんこ盛りにして差し出すというのは、いささか配慮を欠いた行為なのではないだろうかと。否、もし従者であれば間違いなく諫言するはずだ――「恐れながら旦那様、お若い淑女の方に、とりわけ社会意識の強いミス・ボーリガードのようなご婦人に、かくも退廃的な品をお勧めするとは、控えめに申し上げても公序良俗に反してはおりますまいか」とかなんとか。
 彼は卓上からゆっくりと身を引いて、椅子にひたりと背中をつけた。気の抜けていた笑顔がいくらか神妙になった。
「シャーリー、……もしかしなくてもぼくは、なかなかに軽率なことをしてしまったんだろうか?」
 真顔にはなりきれないまま、彼は落ち着きなく椅子の上で身動ぎした。婦人が双眸に面白がるような色を浮かべ、まっすぐに見返してくる。
「今更なことを言うじゃない、ハリー。できれば取り掛かる前に、遅くても調理中には気がついてほしかったわ」
「いや、それはそう……でも、なにしろ止められる気配もなかったし……」
「止められると思う? あんなに楽しそうに調味料を物色してる人に向かって、明日も人と会うから臭いの強いものはやめてね、なんてわたし言えない。ちゃっかり二人分も作ったところからして、自分で食べたいものを選んだだけだとは思うけど」
「ああ、ええと、本当に……返す言葉もございません、というか」
「潔いこと」
 婦人が肩を震わせ、喉に籠もったような笑い声を漏らした。居た堪れない心地で彼は目を反らしたが、逃げるわけにもいかない。再び正面を見据えた彼の前で、婦人の瞳がきらっと光った。
「良い、ハリー? わたしね、そういう不埒な考え方は大好きなの」

 喉の奥底で、ひゅっと短く音が鳴るのを彼は感じた。一瞬の沈黙を置いて、その息は長々と彼の口から吐き出された。
「怖がらせないでくれよ、シャーリー――もちろん、ぼくの考えが浅かったのは確かだ、それは認めるけれど」
「そこまで責めたりするもんですか。さっきも言ったけど、このチリには大満足なの。第一、あなたはプロの料理人や使用人じゃなくて善意の素人でしょ。そういう細やかな配慮なんか最初から求めてません」
 彼はただ苦く笑うしかなかった。少しぐらい期待してくれてもいいんじゃあないか、と言いかけて飲み込む。きっと婦人はこの些細な失敬でもって、彼の不調法を貸し借りなしにしてくれたのだろう、と思えた。たとえ言葉がなくとも、婦人の手元ですっかり空になった皿を見れば、安堵と喜びが胸にじわりとこみ上げるのはごく自然な運びだ。
「……もう半分、食べるかい?」
 彼自身の皿には、最初に等分した片割れが手つかずのまま残っている。婦人がちらと目を向けて、含んだような声を漏らした。どうしようかな、と。例の深刻な問題、美と食欲の両立について今一度考えを巡らせているのかもしれない。彼はフォークを置いて静かに待った。

「お嬢様、――シャロンお嬢様?」
 その時だった。食堂と廊下を隔てる扉の向こうから、足音に続いて呼び声が聞こえてきたのは。老境に差し掛かった男性と思しい響きは、彼にも聞き覚えがあった――ここマンハッタンは東72丁目に威容を誇るボーリガード邸で、客人たちを真っ先に出迎える門衛のものだ。
 婦人が素早く席を立ち、戸を開けると、ちょうど人影が立ち止まったところだった。丈の長い暗灰色のお仕着せを纏い、銀縁の眼鏡をかけた姿が彼の目にも見えた。
「アーチボルド、お母様がお帰り?」
「いいえ、お嬢様。ご来客でございます――ミスター・ロスコーの介添えの方で」

 彼は弾かれるように立ち上がった。食堂椅子が紳士的でない音を立て、数インチほど後ろへ退いた。
「ウィギンズ――」
「今度こそ本物ね、ハリー」
 婦人がくすっと笑って目を細めた。 「ミスター・ウィギンズは応接室に?」
「まだ玄関にいらっしゃいます。火のそばの席をお勧めしたんでございますが」
 人好きのする柔和な笑みに、申し訳のなさを滲ませながら男性が言う。その目が自分に向けられるのを察し、彼は軽く頭を振ってみせた。
「ウィギンズならそう言うよ。ぼくの家でもよく起きることだからな」
「じゃあ、わたしが行っても断られると思う? 試してみましょうか――アーチボルド、もう休んでいいわ。もしかするとお母様たち、今夜は遅くなったから本邸でお泊りかもしれないでしょう」
 自信に満ちた口ぶりと共に、婦人は彼らの横をすり抜けて廊下へ出た。門衛の男性がそれを追い越し、先導するように進んだ。彼は食堂に取り残される格好となった。
 もとい、取り残されても仕方がないので、彼も急いで食卓を辞し、帰り支度のために元いた居間へと歩を進めた。眠りにつくまでの間に覚えのない乱暴狼藉を働いていたとしたら――そんなことはないと思いたいが――責任を持って始末をつける必要がある。とはいえ実際に戻ってみると、彼らが食事をしている間に人の手が入ったのだろうか、会場はクッションの位置から花瓶の敷布のずれ、カーペットの毛足の向きに至るまでが正常に戻っており、彼に手出しできる余地はなかった。

 帰り際にもう一度謝ろうと心に決め、彼が居間の戸口に立ったときだった。臙脂色の絨毯が敷かれた長い廊下の向こうから、婦人が颯爽たる足取りで向かってきたのは。
「シャーリー、――ウィギンズ!」
 その数歩後ろにつけていたのは、間違いない、黒い燕尾服に身を固めた壮年の従者だ――家を出てきたときと変わらずしかつめらしい顔つき、靴音一つ立てない悠揚迫らぬ足取りは、彼が何より頼みにする男のそれだ。片手には彼の外套と中折れ帽を携えて、いつでも主人を帰り支度を整えられる格好である。

「お寛ぎのところを失礼いたしました、旦那様」
 数フィート手前で立ち止まった婦人の脇から、従者はさっと彼のほうへ進み出るなり、うやうやしく頭を垂れて述べた。
「わたくしとしたことがお迎えにあがる時刻を見誤ってしまったと存じます。まことに――旦那様?」
 その淀みない口上がふと途切れたのは、彼が小さく吹き出したせいである。見れば、怪訝そうに目を上げる従者の後ろで、婦人も微かに震えながら口に手を当てていた。
「いや、謝る必要はない、ウィギンズ。わざわざ来てくれたんだな」
「お車がご入用かと存じまして」
 従者はただちに謹厳な表情を取り戻した。 「表は大雪でございます」
「えっ――着いたときはあんなに晴れてたのにか? 降るなんて言ってなかったのに。しかし、それじゃあ道が悪かっただろう。ますます手間をかけたな」
「そういうことなら」
 と、そこで婦人が歩み寄り、会話に割って入ってきた。
「いくら車の中にいたって、とても寒かったでしょう、ミスター・ウィギンズ。どう、お茶か何か温かいものでも食べていったら」
 もしも彼が同じ立場なら、喜んで飛びつくだろう申し出だった。といって従者がそう素直な男ではないことも、彼には十分解っていた。自制の徳を体現したかのような従者は、案の定首を横に振り、
「お心遣いには感謝いたします、ミス・ボーリガード。しかしながら、さような|饗《もてな》しにわたくしが与るわけには……」
 等と丁重に辞退するばかりだった。夕食を済ませた後に何か食べるのは罪だ、とでも考えているのだろう。主人たちとは違って。
「良いじゃあないか、お言葉に甘えてくれば。お前も噂には聞いてるかもしれないが、ここで出る料理は本当にうまいんだぞ。それにお前ほど腕のいい料理人なら、ぼくでは気づかないような凄さが解るかもしれないだろう」
 おだてられて折れるような人間ではないと知ってはいるが、勧める言葉はそれぐらいしか思いつかなかった。婦人も彼に調子を合わせて続ける。
「そう、わたしもそのことを考えてたところ。ほら、素人でも専門家でも、切磋琢磨が大事だと思うわけ。あなたが味について何かアドバイスをくれれば、うちの料理人にも励みになるかもしれない」
 これは実に良い繋ぎの文句だった。彼は内心で婦人に喝采を送ると共に、従者の出方を窺った。暗褐色の目は変わらず慎みの色を表していたが、口元には僅かながら変化が見られた。柔和さという変化だ。
「そうしたものでしょうか、いいえ、お言葉を疑うわけではございませんが――貴家の料理人にも貴家の規範というものがありましょうに……」
「元いた家の規範を打ち破って生まれたのがボーリガード家よ、ミスター・ウィギンズ。それを体現するのがこのわたし。さあ、応接室へいらっしゃい。まだ火を入れたままにしてあるから」
 学校の教師が生徒を導くような響きがそこにはあった。従者は何か答えようとする前、一瞬だけ主人の顔を窺い見た――この期に及んで、何かしらの咎めを受けることを危惧しているらしかった。
「行ってくるといい、ウィギンズ」
 未だに自分は主人として信用が置けないのだろうかと、少々複雑に思いながらも彼は促した。ややあってから、従者が彼に向かってしずしずと一礼した。
「旦那様の仰せの通りに」

 婦人に導かれて去ってゆく、黒一色の大きな背中を見送って、彼はふっと息をついてからソファに腰を下ろした。従者から渡された外套と帽子を身に着けるには、もう少し待ってもいいだろう。
 それにしても、と彼は思う――自分が住む東36丁目のアパートメントだって、個人の住居としては十分立派なものであり、外装も内装も大企業の御曹司、ないし放蕩息子と従者に釣り合いが取れていると自負している。けれどもこうして、本物の貴族の邸宅――シャロン・ボーリガードは紛うことなきフランス貴族の末裔である――にあって、従者の姿のなんと凛々しく、引き立って見えることだろう! ある家の物理的・視覚的な規模によって、ここまで存在感が左右されるとは。彼は肘掛けに寄りかかったままで溜息をついた。やはり従者も、できるならばより大きな家に仕えたいと望むのだろうか。かといって、今でさえアパートメントの部屋を持て余している自分が引っ越しなど……

 そこまで考えて、彼の意識は引き戻された。ふいに浮かんだより現実的な疑問が、彼を我に返らせたのである。
 蘇ったのは婦人の言葉だ。温かいものでも食べていったら。だが、思い返してみるがいい、パーティー会場に食べるものが残っていなかったから、婦人は彼に簡便な夜食を作らせたのだ。紳士淑女の晩餐に供するにはとても不向きな品を。
 ――もしかしなくても、あれをウィギンズに食べさせるつもりじゃあないだろうな。
 予感したが最後、己の内から落ち着きが急速に失われていくのを感じた。ただでさえ唐辛子だとかニンニクだとか、あの食に関しては保守的な従者の歓心を買いそうもない材料ばかりで構成された料理なのだ。まして作ったのが「紳士ともあろうお方」である主人だと知った暁には!
 彼は誰に強いられるでもなしに居住まいを正し、貴婦人と英国人が閉めていった扉を横目に窺った。次にあれが開かれるとき、自分にはどのような運命が待ち受けているか、考えただけで胃袋が重たくなってくる。無論、礼儀というものを知る従者のことだから、婦人の眼前で仕える主人を詰ったりはするまい。第三者を挟まない環境が整ってから、恐らくは帰りの車の中あたりで――
 そこで思考を再び妨げるものがあった。がちゃり、と真鍮のドアノブが鳴る音だった。

「――だからね、是非とも正直なところを聞かせてほしいわけ。美味しかったです、だけなら誰だって言うし、『上品な』人なら触れずに済ませるもの。そうではなく……」
 扉が大きく押し開けられ、そこに翡翠色のドレスと黒い燕尾服が見えたとき、彼の肩と心臓は跳ね上がった。彼はとっさに外套を取り上げ、帰り支度の最中を装ったが、冷静さを取り戻すのに効き目があるわけでもない。
「ああ、ハリー、お待たせ。もしかしてまた寝てた?」
「そういうわけじゃあ、――いや、ウィギンズ、『また』というのはだな、成り行きは後でちゃんと説明するから……」
 婦人が発した単語一つに、座面から飛び上がりかける始末である。従者は婦人の傍らにいて、その様を眉一つ動かさずに眺めているだけだ。
「『旦那様』がそんなことでどうするの、ハリー。ミスター・ウィギンズほどいつでも沈着冷静でいろとは言わないけど、やましいことが無いならもう少しゆったりと構えていたほうがいいんじゃない」
 面白がるように婦人がくすりと笑い、再び従者へと視線を戻した。
「ああ、少し話が逸れちゃった。それでね、ミスター・ウィギンズ、改めて聞くけど、さっきの料理について」
 心臓がまた一つどきんと鳴る。水を向けられても軽々しく口を開きはしない従者を、彼は息をつめて凝視した。何かを思案するように、右手の指を顎先に当てる男の仕草を。

「わたくしには過ぎたる役目でございますが、――ミス・ボーリガード、こう申してよろしければ」
「申してちょうだい」
「かの品をビーンズ・オン・トーストと捉えるのであれば、イングランド人として答えるべきはただ一言、論外、でございます」
 そうして、実に思慮深く、また不必要と思えるほどに慎み深い男から発された一言は、的確に彼の急所を抉り取った。予期していた通りの台詞にも関わらず、予期せぬ痛みが彼を襲った。
「ベイクドビーンズを作るにあたって肝腎なのは、それが十分に心休まる味かどうかでございます。簡便な家庭料理でございますから、味付けに標準規格は存在いたしませんが、まかり間違っても刺激的であってはならないのです」
「まあ、なかなかに手厳しいお言葉が飛び出したこと」
「正直な意見を、との仰せでございましたので」
 発言自体の単刀直入さとは裏腹に、従者の顔つきはいたって控えめだった。婦人から視線を受ければ目を伏せてみせさえする。彼一人が平静さを欠き、自身が作り出した品を思い返しては顔色を悪くしていた。
「じゃあ、もしあなたがうちの料理人だったら、こういうパーティーでお客に出したりはしない?」
「わたくしであれば絶対にお出ししません。そもそも豆という食材自体、お若い淑女の方々――とりわけ社会意識の強いご婦人にふさわしいものではございません」
 どこかで聞いた、もとい思い描いたような言い回しに再び吹き出している余裕もない。これが見知らぬ他人から言われるのであれば、平然と受け流すことだってできようものを、従者の口から酷評を聞くということが、こんなにも心に堪えるものだったとは――彼は自分の体が普段よりずいぶん縮んだように思われた。ともすれば親しい友人たちに苦言を呈されるより堪えたかもしれない。
「そう。じゃあ、あなたからの評は以上、ということ? ミスター・ウィギンズ」
 話を振った側である婦人が、困ったような――それでいて何か含みを持たせるような、薄い笑みを浮かべて首を傾げた。従者は淡然として首肯した。
「評は以上でございます、ミス・ボーリガード」
 しかし、どうだろう、従者がそこで口をつぐみ、部屋の調度として背景に引き下がることはなかった。表情は相も変わらず平らかなままだったが、眼差しからは石のような冷たさが抜けつつあった。
「ですが――ボーリガード家のご令嬢はわたくしの評のみならず、ただの私見もお聞きになりたいものと拝察します」
 はっとして彼は従者の顔を見上げた。知らず半開きになった口から、間の抜けた息が漂い出るのを感じながら。
「まあ、その通り! さすがはミスター・ウィギンズ。ハリーもよく自慢してるもの、『うちの従者は読心術が使えるんだ』とかなんとか」
「さようでございますか」 従者は軽く眉を上げてみせ、彼のほうに顔を向けた。
「些少な気の回しように、過分なお言葉を頂戴しまして」
「『ぼくが褒めても素直に喜んでくれたためしがないんだ』とも言ってたけれどね。――さて、それじゃあ私見のほうを聞かせてもらいましょうか」
 ぽかんとしたままの主人に再度目をやってから、従者はおもむろに語り始めた。低く、それでいて硬さを感じさせない声遣いで。

「皿をお出しいただいた折から、これは辛い料理であろうと察しはついておりました。――わたくしは辛いものを食べ慣れておりません。ニンニクや唐辛子、その他の植民地由来の香辛料が、階下の食卓に供されることは珍しゅうございますので」
 従者が口にした端から、彼の眼裏にはあの濃紅色と、胃袋を鷲掴みにするような香りとが蘇りつつあった。燃えるように蠱惑的な、それゆえ吸血鬼と一部の人間からは忌み嫌われるあの風味。心にかかった少々の陰り程度、腹の底から吹き飛ばしてくれそうな力強さが、まさに今の彼を立ち直らせようとしている。
「高貴な方の御前でむざむざ不明を晒すことになるのではと、内心では危ぶみました。果たして、一口目から未経験の辛さでございました――舌が腫れ上がるのではと」
「わたしも全く同じことを考えたものよ」 婦人がしみじみと頷いた。
「ですが、同時に驚かされました。ただ嗅いだとき以上に複雑な、辛さのみならず甘みや清涼感さえ覚える香り……風味づけに適量をという程度ではなく、厳密に調合された香辛料の仕事であると推察いたします。敬服の念に堪えません」
「まあ、そんなに?」
 仰々しい称賛の言葉におかしみを感じたのか、ますます婦人の笑みが濃くなる。彼もまた違った理由から口元を緩めていた。物珍しさだ。
「ウィギンズがこれほど饒舌になるなんてなあ。その、何だったっけ――『ハリッサ』を作った人たちは本当に大したものだよ」
「ハリッサ、でございますか?」
「調味料の名前」 婦人が補足した。
「詳しいことは後でハリーに聞いてちょうだい。それで、結論としては……」
「はい、ミス・ボーリガード。わたくしの主観から申し上げるのであれば、大変結構なお味でございました。豆の煮え具合やパンの焼き加減も含めて」
 従者はゆっくりと頷き、穏やかに「評」ならぬ「私見」を締めくくった。その背後で婦人が彼に顔を向けたと思えば、ぱちんと目配せを送ってよこす。いよいよ締まりなく笑いはじめる口元から、彼も息をつきかけた――視線の先で、細い眉が微かに曇るのを目にするまでは。
「どうした、ウィギンズ」
 彼はそろりと身を乗り出した。 「まだ何か物申すことがありそうな顔だぞ」
「いいえ、旦那様。そう重要なことではございません。ただ、……恐らくもう二度とはわたくしの口に入らぬものかと思うと、それだけが口惜しゅうございます」
 どこか気恥ずかしそうな、だからこそ偽りのない賛辞だった。

「そうか。――うん、確かにそいつは惜しいことだよな! たった一度きりじゃあなく、うまいものは何度だって食べたくなるものさ。でも、お前がそう思えるぐらいの料理を味わえたのなら良かったよ、本当に」
 だから彼も適当な場繋ぎの文句ではなく、心からの幸福を表した言葉でもって従者に応えたのだった。本当は今にも真実を――その料理を作ったのは自分で、また食べたいならいくらでも作ってやると、歓喜に任せて吐き出したいくらいだ。実行したが最後、従者は二度と自分自身の思いを表白しなくなるだろうと察しはついたので、決して口に出しはしなかったが。
「まことに申し訳がございません。わたくしともあろうものが、随分と浮かれたことを口走ってしまいまして」
「そんなこともあるさ、なんたって新年だからな。お前に限って言えば、むしろこんな時ぐらいちょっとは浮かれたほうがいいと思うね」
 少なからず、否、従者であれば過分に感じているだろう後ろめたさを振り払うように、彼は片手を軽く振ってみせた。
「さあ、名残惜しいところだが、ぼくらはこのへんでお暇しようじゃあないか。遊びは引き際が肝腎だよ」
 などと知ったようなことを言って、彼は従者を促しにかかった。懐中時計を確認するまでもなく、時刻はとうに夜半を大きく過ぎているはずだ。
「ウィギンズ、先に車のほうを頼む。ぼくもすぐに向かうから」
「かしこまりました、旦那様」
 たちどころに平時の態度を取り戻した従者が、恭順の一礼を向けてから去ってゆく。居間に残ったのは二人の若い男女だ――めいめいに趣の違う笑みを浮かべて。

「なあ、シャーリー……」
 数秒間の見つめ合いを経て、口火を切ったのは若紳士のほうだった。急な難所を凌ぎ切った達成感と疲労とが、口の中で綯い交ぜになったような声が流れ出る。
「良かったじゃない、ハリー。これで見事お墨付きがもらえたってわけ」
「そりゃあ良かったは良かったけど、代わりに心臓が数インチと寿命が数年縮んだよ!恥を忍んで言うなら、ぼくはもう半分泣きそうだったんだからな!」
 してやったりという顔の婦人に対し、彼は形だけでも抗議を申し立てたが、通じないのは目に見えていた。もう少し紳士らしい胆力を養いたいものだと、心の底から願いが沸き起こってきた。
「ごめんなさい。でも、あなたの手料理が評価されると思ったらつい、ね」
 婦人は軽く眉を寄せ、頭を振って謝意を表した。
「皿を出してからしばらくは席を外してたんだけど、後でちょっと応接を覗いてみたの。そうしたらミスター・ウィギンズ、本当に満足そうな――解るでしょ、良いディナーの後で見るような、『ああ、美味しいものを食べたな』って顔をしてたの」
「ウィギンズが?」
「そう。で、作ったあなたがこれを見られないっていうのも悪い気がしたから、せめて言葉だけでもというわけよ」
 にわかには信じがたい話だ。想像することさえなかなかに困難だった。あの自己抑制の権化のごとき従者が、何かを食べて満足げな顔をするなどとは――あまつさえそれを誰かに見られることを許そうとは。
「そいつは……確かに貴重すぎる光景だな。いや、本当に見たのかい、そんなの?」
「本当も本当。もちろん、あからさまに顔つきが変わったわけじゃなくて、他の人なら気がつかないぐらいのささやかな違いだけど、わたしには判ったの」
「そうかい、じゃあ案外ぼくが見ても気づかなかったかもしれないな」
 彼は大げさに肩を竦め、それから数秒ほど考え込んだ。
「……まあ、多分それでいいんだな、きっと」
「ハリー?」
「お互いに知れないままのほうが有難いことだってあるさ。さて、ぼくはもうそろそろ行くよ。また雪の中でウィギンズを待たせることになっちまう」
 弾みをつけて立ち上がり、彼は杉綾織りの重たい外套を正しく着直した。婦人が軽く頷いて、ソファから数歩距離を取る。
「風邪なんか引かないでね。明後日は映画を観に行くってこと、忘れないで」
「もちろんさ。週末には『レッド・ヘリング・クラブ』の会合だ。楽しみだらけだね。――じゃあ、おやすみ、シャーリー」
「お休みなさい、ハリー」
 そうして彼は、若い男女の別れ際にありふれた挨拶を――左右の頬に音だけの接吻を交わすつもりだった。この時ようやく、婦人が口紅を引き直していることにも気付いたが、その色合いに再び見惚れる暇は与えられなかった。瞬きほどの間に、形のよい唇は彼の想定より少しばかり進路をずらしていた。彼の真正面に。

 暖かく湿った、スミレの花とトマトソースの香りがする柔らかなものが、彼の口唇をしっかりと捉え、両足を釘付けにした。さらに五回の瞬きがあった。
「――そうね、食事は仕方ないにしても」
 再び彼の眼前に現れたとき、紅色の弧は幾許かその光彩を失っていた。貴婦人の微笑という型を借りていなければ、もっと色褪せて見えたかもしれない。
「せめてキスぐらいには負けないようになってほしいものね、わたしの武器には」
 鮮烈な「武器」を納めた二十世紀の婦人が、そっと身を離しながら踵を返す。そこでやっと彼は我に返り、手を口元に当てかけてすぐに引っ込めた。従者の前に晒すには、この顔はあまりに「公序良俗に反して」いる。一刻も早く洗い落とさなければならない。なあに、勝手知ったる他人の家である。洗面室の所在や使い勝手は熟知しているのだ、主に従者の前では口にできないような理由で……

  * * *

 完全な静寂よりも多少の騒音があるほうが、人間の心は休まるものだという。
 よく訓練された運転手つきのロールスロイス――誰が呼んだか「銀色の幽霊シルバーゴースト」――で、深夜の帰途に就いているときなどは、とりわけこの説を意識してしまう。紳士クラブやミュージック・ホールの立ち並ぶ目抜き通りならいざ知らず、五番街からひとたび横丁へ入ってしまえば、辺りはひっそりと静まり返って、人を見かけるとすれば巡邏の警官ぐらいなものだ。
 おまけに自分が乗っている車がまた、異名の通りに駆動音から何から静謐そのものの一級品である。耳を澄ませば懐中時計の針音が聞こえてくるのではというほどで、貴人要人の送迎にこれほどうってつけの車はない。が、そこには同時に奇妙な緊張感、有無を言わさず襟を正さしめる、一種神秘的なまでの厳粛さがあるのだ――と、少なくともヘンリー・ロスコーは思っている。身も蓋もない言い方をすれば、あまりに静かすぎて居眠りには向かないということだ。美しい革張りの座席もそれほど助けにはならない。ぜんたい、自動車というものはもう少しやかましくないと、歩行者からの認知の遅れによる事故に繋がりかねないのではないだろうか?
 愛するキャディラックの雄風凛々たるエンジン音を懐かしみながら、彼はクッションに頭をもたせ掛けた。ちらと見遣れば、窓の外では未だ大きな雪片が降り続いている。

「――旦那様」
 と、そこで運転手が――いつもの三つ揃えの上に外出用の地味な外套を羽織り、白い手袋を嵌めた壮年の従者が、雪の降り積む音ほどに静かな、落ち着き払った調子で彼を呼んだ。路面工事の区画を大きく迂回して、再び元の通りへ戻ってきた頃合だった。
「どうした、ウィギンズ?」
 彼は冷たい車窓から運転席へと向き直り、後れ毛一つなく整えられた従者の後ろ頭に目をやった。次いで、磨き上げられた木製のハンドルに掛かったままの手にも。
「お休みになってもよろしゅうございますよ」
「ぼくはもうちょっと野性的な揺り籠のほうが好きでね。それに、どうせあと数分だろ」
「さようでございましたか。――ときに旦那様、顧みもせぬ無礼をお許しいただけるのであれば、一つ伺いたいことが」
「聞きたいことだって? 何だいそりゃあ、……ははあ、さてはさっきの調味料か?」
「そちらにも興味を惹かれてはおります。ですが、わたくしの疑問は別にございます」
 従者は細い輪の縁から手を離さず、前方に目を据えたままひたりと黙った。徐々に車は減速し、ゆっくりと角を曲がって、彼も馴染みのコーヒー・ハウスに差し掛かった。
「先程の一皿は、……あれは旦那様がお作りになったものではございますまいか」

 風雪を凌ぐという点とは全く別の理由で、彼はこの車に屋根がついていることに心底感謝した。もし幌ひとつない――例えば彼が有するキャディラックのような――車体であれば、今の一言を聞いた瞬間、勢い余って転げ落ちていたに違いないからだ。
「ど、――」
 どうして解った、と口走りそうになるのを死にもの狂いで堪え、彼はなんとか座席の上で居住まいを正そうとした。態度で自白することだけは避けたい。いずれ従者に事が知られるとしても、その時は潔く、従者言うところの「紳士にふさわしい」、堂々たる構えで臨みたいのだ。
「いや、違う、そうじゃあなくて……急に何を言うかと思えば……」
 残念ながら言うは易く行うは難し、彼の振る舞いは冒頭から既にぎくしゃくしていた。背筋だけは伸びていたものの、声には明らかな動揺が表れ、言葉も普段のようには出てこない。第一に、格好だけ整えても従者は彼を見ていないのであるが。
「邪推かとは存じましたが、何がなし感ずるものがございましたので」
「具体的にはどの点だ? 単にぼくが好きそうなものだからってわけでもないだろう」
 もちろん件のビーンズ・オン・トーストは明らかな素人仕事だったが、それだけで自分の仕業だと知れるだろうか。従者はどう理由をつけるのか、彼はこわごわと待った。
「パンでございます、旦那様」
 古風な門灯に照らし出された、上品な砂岩造りのタウンハウスが視界の端を緩やかに流れ去る。従者の声はその流れに溶け合うように穏やかで、彼の神経をほんの少しだけ宥めた。
「ソースによって少々柔らかくなってはおりましたが、食感でたちどころに解りました。あのパンはトーストでも、またグリルされたものでもございません。フライパンで軽く揚げ焼きにしたものでございます」
「フライドブレッド、というやつだな」
「はい。裏表ともに均等な火の入りでございました――ただ両面を同じ時間だけ焼いたのでは、あのような仕上がりにはなりません。表が三分なら裏は二分、そして仕上げにバターの香りを補ってあります」
「つまり」 彼は知らぬふりを止めた。 「うちで朝食に出るのと同じだ」
「仰せの通りでございます。以前わたくしがお伝えしたままの焼き方でございました」
「……もしもぼくが作ったと言ったら、お前はさっきの評価を変えるか?」
 車が再び速度を落とし、僅かばかりも動揺することなく止まった。従者のような車だ、と彼はつくづく思った。前方で電気式の信号が赤く輝くのが見えた。

「さて、――わたくしがただの従僕、貴いお方に傅くことだけが務めの下男であれば、喜んでその御手に阿諛の接吻をし、前言を覆したことでしょうが」
 それが否定のための前置きであることは明らかだった。どこか軽蔑めいた、あるいは自嘲らしい趣もある声だ。だが、声色の変化は一時のものに過ぎなかった。
「しかしながら、わたくしは旦那様のしもべであるのと同時に、『紳士に仕える紳士』として、あなた様をお諌めする立場でもあります。一言一句にまことなくして、大切なこのお役目がどうして務まりましょう」
「つまり――」
「旦那様」
 きっぱりと発された一語の響きは、雪深い夜の空気にも劣らぬほど凛然としていた。従者が日来よく用いる、「品格」とか「規律」とかいった言葉を体現するかのように。
「わたくしの評は変わりません。ニンニクにタマネギ、豆などといった食材は、ミス・ボーリガードのようなお若い淑女の方が召し上がるには不向きでございます。ましてや紳士の側から強いて出すなど、控えめに申し上げても公序良俗に反しております」
 別に強いたわけではないんだが、という台詞を彼は呑み込んだ。代わりに妙な笑みがこみ上げてきた。笑うより他になかった。
「お前がそこまで言うんじゃあ、あれはどうしたって英国には輸出できないな」
 ぴんと伸びていた背筋から力が抜けて、再びクッションへと沈み込む。体温によって生暖かくなった生地が、失態に向けられる憐憫のように感じられた。目に染み入るのは信号機の赤い光だ、――その光が色を変えた。

「ですが、評と私見は異なるものでございますから」
 再び四輪が回りだし、銀の影めいた車体は青い光の下をくぐり抜けた。緩やかな加速は、あからさまな騒音を伴いはしない。
「誠心から申し上げます、旦那様、――わたくしにとっては何事にも代え難く、得難い経験だったのです。ベイクドビーンズの仄かに甘い味わいとはまた別の、身体も心持ちも温まる料理でございました。最初で最後の……」
 彼は身を起こして耳を傾けた。視界の端では、背の高い看板に印された所番地の数字が一つずつ減っていく。47丁目の交差点を過ぎた。我が家まではあと少しだ。
「旦那様、ですから――私見も変えはいたしません。大変美味しゅうございました」
 先程までの低くともよく通る声と比べて、幾らか憚るような、囁きに似た響きだった。それでも聞き取るのには何の問題もなかった。

「そうか、……本当にそうか」
 こみ上げてくる衝動――今すぐにでも窓を開け、雪舞う寒空に向かって歓声を上げてやりたいというような――をどうにか胸三寸に納め、酒精が齎すものとは違った酔いを面に表さぬよう苦心しながら、彼は頷いた。
「良いか、聞こえなかったふりなんかしてやらないぞ。なにしろ静かすぎるぐらい静かだからな、この車は」
「よろしゅうございます」
「逆に、今からぼくが言うことも、お前の気のせいなんかじゃあない。聞こえたままに解釈してくれ」
「さようでございますか」
「さようだ」
 走行中の車内であるのは幸いかもしれない。互いにどんな顔をして座っているのか、それぞれの席へ乗り込んでいって確かめるわけにもいかないからだ。それで良いのだ。お互いに知れないままのほうが有難いことだってある……
「ぼくが作ったんだ。――じゃあ、最後にはならないさ、ウィギンズ」
 ハンドルに掛かった手が微かにぶれたかと思われた。後ろ頭がほんの僅か動いた。
 ともすれば従者は振り返ろうとしたのかもしれない。だが、主人とその財産の安全を守るという使命を、決して忘れてはいなかったようだ。白手袋を嵌めた手が舵輪を回し、車は36丁目の瀟洒な通りへと滑り込んだ。
 見慣れた門灯が近付いてくるのを眺めながら、彼は小さく笑みを漏らした――自動車が静かすぎるのも、こういう時には悪くないかもしれないな、と。

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