火曜日の朝はスモッグ警報と罵声と共に始まる。月曜日の朝がそうであったように。

どんと来い、神学論争 -Die for the Sky-

 より正確に言うなら、祝日と言わず平日と言わず、一年を構成するあらゆる日が、スモッグ警報と罵声と共に朝を迎えていた。どれほど前からそうなのかは知らない。エリーの知る限り帝国の空はいつでも曇りで、立ち込める黒い煙霧が塔という塔を覆い隠し、蒸気機関の立てるやかましい唸りが鳴り響く、そんなものだった。そして朝を迎えるたび、この物置のような手狭な部屋で、高濃度の大気汚染を知らせるサイレンの音と、誰かが何かしらについて諍う声に起こされることになる。エリーは安っぽいフレームのベッドからもぞもぞと這い出した。肌寒くなり始めた十月の朝だ。丁寧に繕われたナイトキャップを外すと、艶のない苔色の髪がこぼれ、人間のものより尖った耳がのぞいた。
 階段下に置かれてある、昨夜のうちに準備しておいた籐かご――朝の時間に必要なものが遺漏なく収められている――を、よっこらと抱えながらエリーは家を出る。家といってもご立派な屋敷ではない。帝国の辺境中の辺境、街に出るのも不便な高台の上に立つ、いかにも労働者たちが寄り合って住んでいるような、いわゆる長屋だ。玄関先の板張りをぎしぎしと軋ませながらドアを開け、と同時に聞こえていた声はいっそう激しくなった。

「ダカラ今ハッキリ言ッテアゲテイルノジャナイデスカ、コレカラノ時代ハ単葉デス、単葉! 複葉機ナンテモウ死ニ体ダッテ!」
「何を抜かすか! キサマの論には何一つ根拠というものがない、ナンセンスだ! キサマは翼のアスペクト比と運動性能の関係について、私の飛び方から何一つ学ばなかったのか、ええ?」
 長屋の前は大きく開けていて、そこには金属材を寄せ集めて作った作業台が乱立している。その中の一つを前にして、男女が争い合っていた。片方は黒髪を顎の辺りでぷつりと切り、ごてごてした重そうなゴーグルを額に掛けた娘で、白い肌もシャツも煤まみれであった。彼女は帝国の共通語、それも中流以上の階級が用いる言葉を喋ってはいたが、攻撃的にさえ思えるほど強烈な北方の訛りのせいで、それは「辛うじて文明人の言葉に聞こえる」程度のものに過ぎなかった。
 もう一方は金の撫で付け髪、長身に仕立ての良い上着と外套を纏った小粋な若者で、その出で立ちは紳士然とし、空軍の上級将校を思わせる規律正しいものだった。が、育ちの良さそうなせっかくの装いも、今は婉曲さをかなぐり捨てた舌先のおかげで、すっかり輝きを失くしてしまっていた。
 彼らはエリーと同じ長屋に住んでおり、娘のほうは機械技師で、若者のほうは飛行機乗りである。そして、そんな二人と作業台の群れを取り囲むようにして、他にも大勢の同業者たちが、この不毛な争いを面白半分に、あるいは真剣な面持ちで見守っているのだ。これこそがエリーにとっての正常な朝の風景であり、すっかり慣れ親しんだ日常の始まりであった。
「おう、エリー、おはようさん。今朝は翼の設計について何やらご執心らしいぞ」
「飯を待ちくたびれてたぜ、エリー。こいつら見てるぶんには面白いが、それで腹は膨れねえからな」
 粗野な髭を生やしたハーフドワーフの鍛冶師が、その隣に座る人間のエンジン技師と共に声を投げてきた。エリーはそれにお辞儀と朝の挨拶を返し、抱えていた籠を作業台の一つに乗せた。
 さて、作業台の傍らには黒鉄の総合調理器具がある。これは先程の娘の設計開発で、その名を「94型エーテル駆動式クッキングレンジ」と言ったが、そのわりに炉にあたる部分には薪をくべる決まりになっていたし、煮炊きにかかる熱量はその炎で全てまかなうようになっていた。技師でないエリーには、果たしてこの伝統的な調理用薪ストーブのどこがエーテルで駆動しているのか解らなかった(もしかすると、上部のやたら派手な真空管の群れだろうか――技師でなくてもひと目でただの装飾だと察しがつくが)。とにかく、理屈のほどはどうあれ、これを用いて全員分の朝食を作り、寄り合いの隅々にまで行き渡らせることが、朝の時間におけるエリーの仕事である。

 エリーは籠の中からまな板と包丁を引っ張り出し、作業台の上に並べた。さらに大ぶりの玉葱と、温室育ちのトウガラシ、そして店で買える中では一番大容量の豆の缶詰も取り出した。まな板はどう見ても半端な板切れを磨いただけのものだったし、包丁も手頃な金属片を研いで柄をつけただけと見え、首都の雑貨店では決して流通させられないような代物であった。しかし頑丈さと切れ味は折り紙つきで、彼女はこれらの品を愛用していた。
 少し離れた場所ではもちろん、若い機械技師と飛行機乗りがまだ論争を続けていた。この二人が一度何かについて議論を始めると、太陽の位置が逆転するまでは終わらないというのをエリーもよく知っていた。速度性能が高く航続距離も長い単葉機と、軽量で上昇能力に優れ格闘戦に強い複葉機の、しかし翼と機銃ではなく言葉を用いた熾烈な戦いは、暖かで滋味豊かな朝食でも止められないのだ。
「大体キサマのような無知蒙昧の輩は、航空力学と胡散臭い魔法の区別すら付いていないからいかんのだ。キサマは何にでも『エーテル駆動式』と名付けておけば性能が上がるかのように勘違いしているが、私はそのようなまじないの類は一切受け入れんぞ。何が『歯車魔導師』だ、全く!」
「ンマァ失敬ナ! 計算ニシカ能ガナイ帝国軍人ノ石頭ナンカト一緒ニシナイデ欲シイデスネ!」
 グレムリンも裸足で逃げ出す怒鳴り合いを、エリーは平然と聞き流しながら玉葱を刻んだ。いつものことだった。

 と、不意に何者かの視線を感じ、彼女は顔を上げる。自らを見つめる眼の主を確認した彼女は、とたん包丁を持つ手を止め、長いスカートを摘み上げて、今日一番の丁重な礼を向けた。
「レイモンド卿! まあ、失礼しました。わたし、すっかり気が付かなくって」
 深々と下げた頭をもとに戻した先には、金色の眼をした一羽のワシミミズクが、作業台の上で悠然と羽を休める姿があった。茶色の羽毛はよくよく手入れされており、煤に汚れることもなく、年を経た落ち着きと品格を感じさせる。彼(間違いなくオスである)こそはこの寄り合いの中にあって、随一の敬意を集める存在だった。労働者たちは共に切磋琢磨する平等な間柄であり、誰が一番偉いなどとは口にしないものだが、それでも敢えて最上位にあたるものが誰かと問われれば、このワシミミズクの名が挙がるのである。誰がはじめに「レイモンド卿」という名を考えたのか、エリーは知らない。彼女がここに流れ着いたときには、既にこの猛禽の王はレイモンド卿であり、日に野ネズミ一匹あるいはウサギ肉一切れの割で貢物を徴収していた。
「少々お待ち下さいませ、レイモンド卿! あなたのためのお肉は、陽が昇りきったころに到着する予定ですから……」
 エリーは言って、左手の人差し指と中指をそっと差し出し、この威厳あるワシミミズクの頭を撫でた。柔らかな羽毛の手触りと体温が、彼女の冷えた皮膚を温めた。猛禽の大きな金色の眼は細められ、「大儀である」とでも言いたげに見えた。

 この温もりといつまでも触れ合っていたいのは山々だったが、調理は続けなければならなかった。エリーは銅のフライパンを火にかけて油を引き、みじんに刻んだ玉葱と、さらにトウガラシも放り込んで炒め始めた。大きな豆の缶詰もその上に空けた。ぱちぱちと油のはじける音がして、辺りに香ばしい匂いが漂い始めた。
 もちろん朝食のメニューはこれだけではない。エリーはもう一つフライパンを用意すると、同じように油を注ぎ、その中に籠から出した卵を次々と割り入れた。火により近い金網の上には、薄切りにしたベーコンとパンを乗せる。豆がよい具合にほくほくと仕上がるころには、これらの焼き物にもじっくり火が通っていることだろう。あとは沸かしておいた湯で紅茶を淹れるだけで、いつもの朝食が完成する。
「やあ、ご機嫌よう、レイモンド卿。……それにエリー嬢も。今日は随分と冷え込むな」
 エリーが包丁とまな板を片付けに掛かっていたとき、背後から足音に続いて声がした。少しくぐもった、若い男の声だ。振り返ると、そこには金の撫で付け髪に灰色の眼をした、二十歳そこらの青年がひとり立って、ワシミミズクに最敬礼を向けているところだった。続いてエリーにも、やや略式の礼が捧げられた。
「アイヒェンドルフ少尉!」
 エリーは両の踵をきっちりと揃え、格式張った礼を返した。その場違いなほどの仰々しさに、少尉の肩書きで呼ばれた青年は眉を下げ、気恥ずかしげな表情を浮かべた。
 見た目にこの青年は、今正に終わりなき論争を繰り広げている最中の、若い飛行機乗りと瓜二つである。実際、彼らは双生児ふたごの兄弟であり、青年のほうが弟であった。顔だけでなく身に纏う上着や外套も、全く同じ色形のものである。ただ、青年の穏やかな表情からは、あの飛行機乗りの持つ傲岸さは欠片も感じられなかった。そして何より異なるところは、彼の鼻と口は金属の呼吸補助用マスクに覆われているということだった。マスクからは細い蛇腹のチューブが伸びて、ベルトに提げられた小型のボンベに繋がっていた。エリーにとっては経験のない姿だ。
「もしかして」 眉根を寄せながら彼女は尋ねた。 「また、ご病気のお加減が悪くなったのですか?」

 この青年が重度の煙霧病に冒されていることを、エリーは知っていた。元は首都で帝国のパイロットをしていたのが、静養のためにこの辺鄙な地まで来る羽目になったのだということも。首都のほうでは、こんな人工呼吸器を着けなければならない人はほとんど末期患者で、あと一年も生きられないほどだと決まっているのだ――そんなことを思うエリーの表情が、よほど不安げに見えたのだろう。青年は慌てた様子で、違う違うと首を横に振った。
「そうではないんだ。本当に、最近は随分と良くなってきたから。ただ今朝は……少し調子が悪くて」
 青年の言葉はやや弱々しく、しかし悲観的なものは含まれていなかった。本当に今朝だけが、たまたま体調の谷間にあたってしまったのだろう。エリーはひとまず安心しておくことにした。だが次の瞬間、青年の取った行動に、思わず目を見開くことになった。彼はマスクを外したのだ。
「えっ、ちょっと」
「匂いを嗅ぎたいんだ」
 青年は言い、フライパンの上へ屈み込んで鼻をひくつかせた。
「とても甘くてよい香りだ、玉葱が入っているんだな」
「え、ええ、まあ」
 エリーは目をぱちくりさせながらも、青年の一挙一動から視線を逸らさずにいた。症状が重いから人工呼吸器を着けているのだろうに、外してしまってなにか差し障りはないのだろうかと――果たして差し障りはあった。青年はしばらく卵の焼き具合やら、炙られるベーコンから脂が滴る様子やらに目を奪われている様子だったが、不意に二、三軽く咳をした。かと思えば、見る間にその咳は激しくなり、呼吸も浅く、喘ぐような息遣いの音が混じり始めた。
「ああ、ほら、駄目じゃあないですか!」
 慌ててエリーは青年の手からマスクを引ったくり、元通り鼻と口を覆うように取り付けた。とはいえ彼女はこの器械の使用者ではないから、本当にこれで正しく装着できたのかどうかは解らない。青年は苦しげに顔を歪め、作業台に手をついてなんとか体を支えているという具合、とても正常であるとは言えなかった。
「調子が悪いんだったら安静にしてないといけませんよ。今朝は昨日よりずっと寒くなりましたし、冷たい空気も肺には悪いって言いますもん……さあ、深呼吸しましょう、深呼吸」
 肩で息をする青年の背をさすってやりながら、エリーはそう言い聞かせる。青年は言われるがままに、多少落ち着きを取り戻した呼吸を繰り返していたが、かと思えばエリーの手を優しく払おうとするのだった。
「俺はもう、……大丈夫だから。それより、君は火の傍についていないと、皆のパンが焦げてしまう」
「ちょっと焦げたぐらいで文句なんか言われるもんですか。少尉のお体のほうが大事です! ……お兄さんも、きっと心配なさいますよ?」
 エリーは言って、口論をますますエスカレートさせている二名のほうをそっと覗った。青年も同様に顔を上げてそちらを見た。両者の剣幕は最早、すぐにでも互いに掴み掛かりそうなほどだが、辛うじて理性を保っているといった様相だった。毎度のことながらエリーには、あの居丈高で頑固な飛行機乗りと、今傍にいる物柔らかな青年とが兄弟、それも双生児であるとは信じがたかった。

「……できれば、外に居たいんだがなあ」
 青年がぽつりと言った。エリーにもその気持ちは良く分かった。というよりも、この寄り合いに属する人々はみな、どんなに暑い日や寒い日であっても、出来る限りは屋外で過ごしたがるのだった。土砂降りの雨でも降っていれば別だが、そうでなければ曇り空の下で仕事をする:「もしかしたら不意にあの灰色の雲が切れて、本物の青い空が少しでも覗くか分からないから」。その一瞬を見逃すことがあってはならないと、彼らは口々に言うのである。
「そりゃあ確かに、首都と比べればここの空気はよほどマシですけど、それでも決して綺麗ってわけじゃないんですから……」
「解ってるよ。ただ、どうしても」 青年は息を詰まらせながら答える。
「空の下にいないと、落ち着かなくてな。それが例え曇り空でも」
 彼の語り口はとても静かだったが、そこに込められた想いの切実さがエリーには読み取れた。この青年は純粋に、空を愛しているのだろうと思えたのだ。
「飛行家なんですね、本当に」
「当然だろう。今はちょっと休んでいるだけで、俺は根っから飛行機乗りなんだ」
 青年は言い切り、そしてまた少し咳き込んだ。その言葉には確かに力があった。病気であっても心を強く持っているのは良いことだ。心がしっかりしていれば、そのうち身体もついてくるようになるのだと、エリーは知っていた。
「だったらなおのこと、ゆっくり休んで治さなくちゃなりませんよ、少尉。ちゃんとお体が良くなれば、また飛行機にだって乗れるようになるんです」
「ああ、そうだな、……済まない。エリー嬢にも迷惑を掛けるわけにはいかないしな」
「別に迷惑だなんて思ってやしませんけど、でも、無理をしないって約束してくださるなら、それが一番です。朝食は後でお部屋まで持っていってあげますから」
「ありがとう。それまでは大人しく、本でも読んでるよ」
 大きく息をついてから、青年はエリーに向かって頭を下げ、さらに羽繕いをしていたワシミミズクに再度の最敬礼を捧げると、ゆっくりとした足取りで長屋のほうへと戻っていった。エリーは付き添いに誰かを呼ぼうと思ったのだが、それは青年にやんわりと止められた。
 改めてクッキングレンジに向き直ると、案の定パンとベーコンの一部はそこそこに焦げていた。が、何のことはない、それを自分の取り分にすればいいことだ。焼き網からそれらを取り上げると、エリーはフライパンを振るって豆の上下をひっくり返し、目玉焼き共々火から上げて、分厚い鍋敷きを引いた作業台に載せた。

 その時、彼女の視界の端に、何か黒い影のようなものが映った。顧みると、全身真っ黒な装束に身を包んだ、長身痩躯の人影が、ゆったりとした足取りで先程の青年の後を追っているところだった。その姿は酷く不気味で、あたかも挿絵本に登場する死神のようであった。命の残り僅かになった人間の元に現れ、その後を付いて回る――
「あの、」 エリーは大声で呼んだ。 「ドクトル・メデューズ!」
 人影は歩みを止め、緩慢な動きで振り返った。そして、真鍮の蛇が巻きついた長い杖をつきながら、そのままエリーに向かって近付いてきた。黒い革で作られた丈の長い外套に、同じく黒い手袋と革長靴、肌が露出している部分はただの一箇所もない。外套の袖には透明な細いチューブが這っていて、時折ぼんやりと緑色に蛍光すると来ている。あまつさえ、肩の上に人間らしい顔は載っていなかった。鳥の頭じみた嘴付きの仮面には、ちょうど防塵マスクに似た機構が取り付けられている。眼に当たる部分に嵌め込まれた色レンズ越しにも、表情は一切窺い知ることができなかった。
「ええと、朝食は召し上がりますよね、ドクトル?」
 つとめて明るくエリーは尋ねた。そうしないと、この人物の底知れぬ雰囲気に呑まれそうだったからだ。
「もちろん、頂きますよ、後でね。ただ今は、蛭たちの世話をしなければなりませんから」
 マスク越しに、男とも女ともつかない、酷く嗄れてくぐもった声が返ってきた。抑揚のない、あまり生気の感じられない声だ。後で、という返答はエリーにとって予測済みのものだった。彼(もしくは彼女)が人前で食事をするところを、エリーは一度も見たことがなかった。ノームやドワーフの技師たちが冗談まじりに、あの中身は自動人形だなんて噂していたこともある。あるいは、彼が自分の部屋で蛭やヒキガエル、蛇、ネズミ、そういった気味の悪い小動物を大量に飼っていることから、マスクと外套の中もそうした生物の集合体なのではないか、という突拍子もない説を立てた者もいた。いずれにせよ、彼はこの共同体で唯一の医者だった。これほど不安になる事実もそう無いだろう。
「あのう、ドクトル、ちょっとお尋ねしたいんですが、……アイヒェンドルフ少尉のご病気は、本当に良くなっているんでしょうか」
 おずおずと問いかけるエリーに、「ドクトル」と呼ばれた黒服の医者は、少しばかり間を置いて話し始めた。勿体ぶっているわけではなく、全体的に動作が遅れがちなようであった。
「それはもう、ええ……良くなっていますよ、ここに来た当初と比べればね。あの頃は、自分ひとりで寝起きをするのも一苦労といった様子でしたから。今の彼は人並みに、大体の日常生活はこなせる程度に至っていますもの」
「本当ですか?」
「本当ですとも」
 医者は良い、エリーの顔に真っ直ぐ頭を向けた。とはいえ、相変わらずその視点はどこにあるのか定かでなく、向かい合っているエリーはぞっとしない気分であった。
「安心なさい。私は医者です、まじない師でも詐欺師でもない。『お医者様はなんでも知ってるDoctor knows best』という言葉だってあるでしょう」
「はい、もちろん、わたしはきっと少尉が回復なさると思っていますけど、その」
「私もですよ、信じています。この世に治せない病など、存在しないのだと」
 どこまでも淡々としたその台詞は、自分自身の腕に確固たる自信のある証なのだろうか。エリーはとりあえず頷き、それだけでは何となしに足りない気がしたので、さらに深々と頭を下げた。彼女の様子を見て満足したのか、医者はそれ以上何も言わずに踵を返し、診療室へと取って返した。
 息のつまるような空間だった。我に返ったエリーは、作業台に並んだ料理の完成形を一瞥し、それらがまだ冷めていないことを確認した。そして、籐かごの中から古びたベルを引き出すと、それを高々と掲げて大きく振り鳴らした。

「皆さーん!」
 高らかな鈴の音と張り上げられた声に、辺りの喧騒がぴたりと止まる。泥沼の争いを繰り広げていた男女も、ほんの一瞬だけ言葉を切ってエリーの方を見た。
「朝食が出来上がりましたよ! お皿を持ってきてくださーい!」
 その余韻が朝靄に消えていくよりも先に、あらゆる人々が自分の持ち場から立ち上がり、大小も形も様々な器を手に、「94型エーテル駆動式クッキングレンジ」の元へと駆けつけた。彼らは行儀よく列を作り、自前の食器をエリーに託す。そこに暖かなベイクドビーンズ、目玉焼き、それにちょっと焼きすぎたベーコンと薄いトーストが、エリーの手によって盛り付けられていった。木のカップには紅茶が注がれ、朝食の準備は次々に整ってゆく。ハーフドワーフの鍛冶師も、その相方のエンジン技師も、あるいは彼らのおかみさんや子供たちも、各自の取り分を受け取って、再び自分たちの定位置へと戻った。
 機械技師の娘と飛行機乗りの若者はどうしたかといえば、片や薄っぺらい合金の椀を、片やいかにも上等そうな白磁の大皿を手に持って、ほとんど同時にエリーの前に辿り着き、ぴったり同じタイミングで食事を受け取るべく器を差し出した。ここまで張り合うといっそ見事だなと、エリーは微笑ましく思ったものだ。これ以上無用な争いの種を生まぬよう、彼女は二人の分量が同じだけになるよう注意深く料理をよそい、それぞれに返した。
「そうだ、アイヒェンドルフ少尉殿」
 娘のほうがさっさと立ち去る中、エリーはそう言ってもう一方を呼び止めた。この若者は容姿だけでなく、首都で軍人をしていた頃の階級も、双生児の弟と同じ少尉だった。ただし、弟のほうがなんと呼ばれてもさして気にしないのに対し、兄は「少尉殿」という肩書きしか認めようとしなかった。
「どうした」
「さっき弟さんとお会いしたんですけど、今朝はちょっと具合が悪いみたいで、普段よりずいぶん苦しそうにしていらっしゃいましたから、……後でまた様子を見て頂けたらと思って」
「コルネールが?」
 若い飛行機乗りはそう聞かされるなり、形の良い眉をひそめてエリーに聞き返した。
「はい、きっと急に寒くなったせいで、冷たい空気がお体に障ったんだと思うんですが……」
「ふん」 しかめ面の兄は短く鼻を鳴らした。
「あいつは少し加減が良くなったと思えば、いつもそう調子に乗る。自己管理というものがこれっぽっちもなっていない」
 弟に対する兄の評価は辛辣だった。元より自分にも他人にも厳しい人だというのは、エリーにもとうに解っていたことだが、改めて聞くとやはり辛いものがある。エリーはなんとかして弟側の弁護を行おうとしたが、結局、
「別に、調子に乗っていたわけじゃあないと思います。弟さんはただ、わたしのことを手伝ってくれようとしただけなんですよ。それにドクトル・メデューズも、病状はかなり改善してるって仰いましたし」
 という、およそ何の効力も持たないフォローしか入れられなかった。
「あんなヤブ医者の言うことなど参考になるものか。この時世にペスト医の仮装なんぞしている奴儕やつばらに、ろくなものなど居るはずがない」
 有無をいわさぬ態度で彼は言い切った。これにはエリーも返す言葉がなかったが、幸い話はそこで打ち切りにならなかった。
「まあ、医者だと名乗る輩が信用ならないのだから致し方ない。お前の意を汲んで、コルネールのことは私が気に掛けておいてやる」
「あっ、……ありがとうございます、少尉殿! 後でわたしも、お部屋に朝食をお届けしますので……」
「それも私が運んでやる。どうせ隣の部屋に帰るんだ、行きがけの駄賃だ」
「え、あ、はい」
 エリーが戸惑っている間に、「少尉殿」はぷいと顔を背け、皆が食事を取るための場所へと大股に歩き去ってしまった。ややあってからエリーも安堵の息を吐き、自分のための焦げたパンとベーコン、その他のおかずを欠けた陶椀に一緒くたに盛って、彼らの待つ輪の中へと進んでいった。

 住人たちは自分の作業台や、あるいは即席で組み立てた長机、食事椅子、そういったものにめいめい腰掛けてエリーを待っていた。彼女が自分の定位置である、手作りのクッションを引いた木椅子に腰を下ろすと、あのハーフドワーフの鍛冶師が声を上げた。
「さあ、皆、飯の時間だ。いつも俺たちのために頑張ってくれる、この料理上手のエリーに感謝していただこう。これだけの量を用意するのは並大抵のことじゃないからな。そうだろ、エリー?」
 鍛冶師を含め、幾人もの目が揃ってエリーのほうを向く。並大抵でないことをしている自覚のあまりない彼女は、ただ照れたような恐れ多いそうな笑みを浮かべながら、小さく頭を横に振った。
「そんなことないです、わたしには皆さんのお手伝いなんて、これぐらいしかできないもので……だからどうぞ、気にしないで皆さん食べてください。さあ、もうお腹が空いていらっしゃるでしょう?」
 そうエリーが勧めれば、現実に腹を減らしていた人々は、待ってましたとばかりにスプーンやフォークを握り、一斉に朝食に取り掛かり始めた。それを数秒見守ってから、エリーは両手を祈りの形に組み合わせ、そっと目を閉じて食前の儀式を始めた。
(天におられるわたしたちの父よ、今日もわたしたちに日毎の糧をお与えくださったことに感謝します。これからも、わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください。あなたの御心が天にも地にも満ち溢れますように。……アイヒェンドルフ少尉のご病気が一日も早く良くなりますように。それから、アンナちゃんと少尉殿の喧嘩がすぐにでも引き分けますように。グレアムさんのおかみさんが失くした指貫が見つかりますように。神様、どうかお願いいたします)
 エリーは神様を信じていた。若い機械技師がエーテル物理学を、飛行機乗りが複葉機の優位性を信じているように。あるいは他の人々が、個々に譲れぬ信条を抱えているように。今日の帝国は、あまり何かを信じていると口には出し辛い場所である。それでも彼らには、胸を張って信じていると言えるものが一つはあるのだった。
『ではエリー、あなたには何か信じているものがあって? この一つさえあれば自分は生きていけると、心を込めて言えるようなものが?』
 彼女が初めてここにやって来た時、古株の老婦人からそう問われたことがあった。随分とまごついたことを彼女は覚えている。何せ、自分には信頼できる家族がないし、血筋だってあやふやで、元よりこの帝国の臣民ですらない。何か誇れる技術や知識があるわけでもないし、親しい友や愛する人もいない。考えに考えた末、彼女がただひとつ思い当たったものが、
『わたし、神様を信じています!』
 だった。老婦人は朗らかに笑って、エリーを迎え入れてくれた。それが今の日常の始まりで、エリーにとっては忘れがたい記憶の一つだった。

 その老婦人はといえば、今もエリーの隣で古い肘掛け椅子に座り、スプーンでベイクドビーンズをすくって食べている。肩に掛かっている暖かそうな毛糸のショールは、この寄り合いの女性たちから感謝を込めて贈られたものだ。もちろんエリーもその一人である。
「また腕を上げたわねえ、エリー。このお豆、こないだ食べたときよりもずっと美味しくできていてよ」
 おっとりとして上品な声が、焦げたトーストを齧るエリーに掛けられる。慌てて口から食べかけのそれを離すと、エリーは素早く謙遜の言葉を返した。
「そんな、グレースおばあちゃんに褒めてもらうほどのものじゃ。これはその、缶詰が美味しかったんですよ」
 とは言ったものの、彼女の口元は明らかに緩んでいた。満更でもない、どころか心の底から嬉しかったのである。
「あら、缶詰を空けただけじゃあ、この味にはならないわ。もっと自信を持ちなさいな」
「そうだぜ、偽りなしにエリーの飯はうまい。その証拠にこうして、酒が飲みたくなる!」
 ハーフドワーフの鍛冶師も話に割り込んできて、やおら懐に手を突っ込み、枯れ草色の水筒キャンティーンを取り出した。それはあちこち傷やへこみだらけで、鉛玉を受け止めたような痕まで残る凄絶な見た目をしていたが、水分の漏れ出しそうなひび割れや穴は一切見られなかった。中に入っている聖なる液体(人間は通常それを「アルコール」と呼ぶ)を、何がなんでも絶対に守り抜くという気概の伝わってくる容器であった。
「もう、あんまり飲みすぎないようにしてくださいよ、グレアムさんたら……」
「ドワーフに『酒を飲みすぎるな』ってのは、つまり『死ね』って言ってるようなもんだぜ、エリー」
 横からエンジン技師の男が茶化した。
「そういうものでしょうか、……まあ、仕事と身体に障りがないんだったら、それでも良いんでしょうけど」
 エリーは滅多に酒を飲まなかったので、酒こそが生き甲斐であるというドワーフたちの言葉に実感は沸かない。ただ、その生き甲斐をむやみに取り上げるのは悪いことだと思ってはいた。そういう訳で彼女は忠告こそすれ、無理に飲酒を差し止めることはしなかったのである。実際、このハーフドワーフは今のところ、酒が原因と思われる不調は何一つ起こしたことがなかった。

 このように大抵の人々は、和やかに朝食の時間を過ごしていたわけだが、無論そうでない者たちもいた。言わずもがなの二名、単葉機と複葉機の間で終わりなき神学論争を繰り広げる、機械技師の娘と若い飛行機乗りである。
「フーンダ! ソウヤッテ、イツマデモ古イ因習ヲ有難ガッテイレバ良インデスヨ! セイゼイワタシノ『麗しの白鳥リエーヴィチ号』ガ飛ブノヲ見テ失神シチマイナサイ!」
「はっ、何が麗しだ、瀕死の白鳥の間違いだろうが。第一、あんな頓痴気な形をした翼で飛行機が飛ぶものか」
「頓痴気ジャナクテ、アレハ『ガルウィング』ッテイウ列記トシタ機構ナンデス! 石頭ノ帝国軍人ニハ解ラナイデショウケド!」
 彼らはとうに自分の取り分を胃袋に収め終え、空になった器には目もくれず、互いの飛行機のありとあらゆる点についてを批評し合っている。エリーには航空技術の知識がろくにないため、彼らがそれぞれに何を主張しているのか、具体的には解らない。はっきりしているのは、二人が飛行機というものについて頑然とした主張を持ち、それを信じていることだけだ。
「良イデスカ、モシ本当ニ『麗しの白鳥号』ガ飛バナカッタナラ、ソノ時ハアナタの飛行機ノ上で逆立チシナガラ飛ンデヤリマスヨ!」
「言ったな? このミヒャエル・ハイニ・アイヒェンドルフ、確かに聞いたぞ。キサマは自分自身の名にかけて誓えると言うんだな、うん?」
「誓イマストモ! アンナ・ロマノヴナ、コノ世界一ノ大天才ノ名ニカケテ!」
 とうとう珍妙な賭けまでやりだす始末で、しかも周囲がそれを煽るのだからタチの悪いことである。良いぞアンナ、天才発明家の意地を見せてやれ! ――とエンジン技師が拳を振り上げたかと思えば、いやいや少尉殿の引いた図面に間違いはない、そうでしょう! ――と何人かの木工職人が囃し立てる。当人たちはもう既に引っ込みがつかなくなっているのだろうし、そうでなくとも元から引っ込む気などなかったろう。二人は威勢よく席を立ち、劇的なまでに同じタイミングで顔を背け、つかつかと片方は自分の作業台に、もう片方はクッキングレンジのほうに(頭に血が上っていても、弟のための朝食を持っていくという話は忘れていなかったようだ)別れた。拍手喝采が起きる。まるで活劇の一幕が終わったかのようだった。
 エリーは――どちらに肩入れするわけにも行かず、喝采を送る気分にもなれず、さりとて二者を責めようとも思えないので、曖昧な笑顔を浮かべながらただ見守っていた。それからようやく紅茶に口をつけ、一気に飲み干した。冷めていた。

  * * *

 朝の時間が終わると、職人たちは自分の仕事に取り掛かる。機械をいじる者、木を削り出す者、鉄を打つ者、様々だ。ここには本当に幅広い労働者たちがいる。飛行機に関わる者が多くはあるが、全く関係のない者もいる。
 エリーは技師ではないので、彼らに加わって作業台に立つことはない。では何をするのかといえば、この高台の北の際まで歩いてゆくのである。それほどの遠出ではない。散歩程度のものだ。やがて行く手にこんもりとした山のようなものが見えてくる――近付いてみると、それは無数のがらくたの山である。金属や木材や、見た目には何でできているのか解らない何物か、そんなものが幾つも積み上げられている。崩れそうではないが、一見してひどく無秩序だ。だが、さらに視点を寄せて、とっくりと観察してみたのなら、一つの共通点が見えてくる。
 それらは皆、端的に言ってしまえば墓標だった。廃材をなんとか組み合わせて、様々の形を作り上げている。帝国の国教が用いる聖印があったと思えば、飛行機乗りに捧げられたものだろうか、折れたプロペラが突き立っていたりもするし、あるいは使い古された鉄床がどかんと乗せられていたりもする。そして、ところどころに花であったり酒瓶であったり、供え物と思しき細々の品が見受けられる。エリーもまた、それらの一つ一つに頭を下げ、小さな祈りを捧げる。自分の知る、あるいは知らない死者たちに。
 そうして小山の一番奥、ちょうど崖の際にあたる部分には、やはりがらくたを寄せ集めて作った七つの像があった。みな人の形をしている。金属板を折り曲げて作った旗を掲げている者、鋼鉄のハンマーを振り上げている者、赤黒く染まった革靴を抱きしめている者、……彼らはみな殉教者であった。そしてこの場所は、あるいはこの高台すべては、いつの頃からか「殉教者の丘」と呼ばれていたのだった。

 殉教といっても、彼ら全てが神に命を捧げたわけでは勿論ない。むしろ、エリーほど敬虔な者は珍しいのだと誰かから聞いたことがある。
 だが、信仰というのは何も神にだけ向けられるものではないわけだ。ある者は愛のため、ある者は自由のため、ある者は夢のために、尋常ならざる苦しみにあい、そして命を投げ打った。何かを信じることが、時に人の命を燃え上がらせ、時にそれを中途で焼き切ってしまう。それでも何かを信じ、心を込めて生きられる者、それがこの「殉教者の丘」の一員たる資格なのだ。どんなにささやかであっても、どんなに荒唐無稽であっても。
 エリーは空を仰いだ。記憶にある限りずっと曇りで、一度たりとも煙霧の晴れたことのない帝国のはずれの空を。この丘に住む者たちはみな、いつの日かあの雲が一瞬でも割れて、本物の青い空が覗くことを信じている。この丘から飛び立つ者たちはみな、いつの日かあの雲の向こう側まで、力強く飛び越えてゆける機械ができると信じている。自分たちの技術と知恵と働きがあれば、それは必ず叶えられるのだと。
 もちろん、そのうちの何割かは灰色の雲の中、自らの論の敗北を見て二度と戻らないのだが、――けれども彼女は、この金属片の山の中に分け入るとき、決して悲嘆にくれるようなことはなかった。彼らはみな確固として、自身の機こそ世界で最高の翼だと信じていたのだし、そのために今は大地を離れ、本物の青い空を仰ぎ見ているのだ。信仰に殉じるとはそういうものだと、彼女はなんとなしに解っていたのである。

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