後ろ頭だけが見えている状態で、二人を区別する方法をエリーはやっと学んだ。

それぞれの火のそばで -Spiked Hearth-

 至極単純なことだ。呼び掛けてみればよいのである――ただし、上の名前を呼ぶ、というのではない。弟のほうはまだいいが、双生児ふたごの兄だけを呼び出そうとして、そのまま「ミヒャエル」の名を口にしたとて、彼は決して振り返ったりしない。
 必要なのは肩書きのほうだった。これも厄介なことに、若い兄弟は階級まで同じ少尉だったのだが、ゆえに兄のほうは「少尉殿」という一段上がった呼び方しか認めなかったのである。この点、弟に返事をしてもらうには「少尉」だけでよかった。彼はその手の呼び名に大してこだわりがなかったのだ。

「すみません、少尉殿!」
 今日もエリーはこの知識を活用すべき場面に遭遇した。すっかり冷え込んだ秋の夜半のことだ。少尉殿、すなわち兄のほうを呼んでくるよう言われた彼女は、長屋の一階にある談話室で彼を、あるいは彼らを見つけた。赤々と燃える暖炉の前、二つ並んだ肘掛け椅子に、そっくり同じ頭をした青年がそれぞれ収まっている。襟足に乱れ一つない金の撫で付け髪は、いかにも育ちのよい帝国の紳士を思わせた。右にいるほうは軍服じみて肩章のついた、濃い灰色の外套を着ているが、左側のほうは長袖の折り目正しいシャツ一枚きりだ。エリーは彼らの背中を見ながら立ち止まり、いつも通りに声を投げた。――が、返事はなかった。
「あの、……アイヒェンドルフ少尉殿?」
 首を傾げながら、エリーは少しばかり彼らに近付いてみる。が、もう一度呼ぼうと口を開いたところで、不意に左側の頭が肩ごしに振り返った。灰色の目が彼女を見据えた。穏やかな視線で。
「あ」
 彼女が何か言うより先に、青年は人差し指を立て、自らの唇にそっと添えた。しーっ、と囁く音がする。

 ここに至って彼女は状況を把握し終えた。右側に座っている少尉殿が、どうして返事をしないのか。足音を立てぬよう、静かに歩みを進めて覗き込んでみれば、何の事はない、背凭れに体を預けたままで、双生児の兄は居眠りをしているのだった。眠っていても決して姿勢を崩したりはせず、あくまで均衡の取れた美しい座り方のまま、安らかな寝息だけを立てている様はいっそ見事だった。
「ごめんなさい、わたし、出直したほうがいいでしょうか」
 出来る限り声を潜めて、エリーは起きている青年――「殿」がつかないほうの少尉に言った。
「いいや、……出直すといっても、いま用事があるんだろう、エリー嬢?」
 外見だけは瓜二つである双生児の、弟のほうことコルネール・アイヒェンドルフ少尉は、柔らかに微笑みながら答え、もう少し火の傍に寄るようエリーに勧めた。有り難い申し出ではあった。さっきまで屋外でエンジン技師たちの手伝いをしていた彼女は、体の芯から凍えていたのである。
「はい、ええと、ハルシュタットさんたちが設計図のことについて、いくつか少尉殿に……お兄さんのほうに伺いたいんだそうで、呼んできて貰えたらと言われたんです。でも、お休みになってるんだったら、さすがに後にしたほうが」
 言いながら、エリーは改めて当該の人物をまじまじと眺めた。普段は露骨すぎるほど偏屈めかして、深い皺の寄っている眉間も、今はその険がすっかりほどけて、年齢相応の丸みが見える。不思議な光景だった。橙色の光が白い頬を照らし、ますます面差しに温和さを足していた。
「珍しいですね、お兄さんが人前で……いや、今の今まで人前ではなかったのでしょうけど、こんなところで居眠りなさってるなんて」
「ああ、珍しいな。今日は朝から都市のほうへ出て、新しい図面について大分とやり合ってきたようだったから」
 青年がそう説明するまでもなく、エリーも大まかには伝え聞いていた。彼の兄は飛行機乗りであると同時に、自ら機体を設計もするのだが、その図面を一般に売り込もうという企ては、未だかつて上手く運んだ試しがないのだった。
「……結局、一つも契約まで持って行けなかったそうだ。兄上はまさかそんなこと口には出さないし、顔にだって出さないけれど、大分疲れてしまっただろうとは思うよ」
 隣に座る兄を労うように、青年はそちらへ顔を向け、その肩にそっと手を触れた。静かに眠る同じ顔のきょうだいは、それに気付いて目を覚ます様子もない。最早うたた寝を通り越して、深く長い睡眠に達しているのだろうか。
「ここはとても暖かくて、居心地がいいですものね。心が休まって、ついうとうとしちゃうのも解ります。――ただ、もう本当にお休みになるんでしたら、お部屋に戻ったほうがいいんじゃないでしょうか。風邪を引いてしまっても大変ですし……」
 そうなったら彼の競争相手であるところの、若い機械技師の娘はさぞ勝ち誇るだろうとエリーは思った。弟のほうもそれは理解していたらしく、苦笑しながら頷いて先を続けた。
「俺もそう思って、でもすぐに起こすのも気が引けたから、毛布を持ってくるつもりだったんだ。でも、……情けない話なんだが、物置の前まで行ってくるだけで、もう息切れがしてしまって……」
 言いながら、彼は恥ずかしそうに眉尻を下げ、少しばかり首を竦めてみせるのだった。性格や物言いばかりでなく、この双生児には大いに異なる点が一つあった。常日頃から健康体である兄に対し、弟のほうは重度の煙霧病に罹っており、症状の酷い日には立ち歩くだけでも苦しむほどなのである。
「仕方がないから、とりあえず上着だけでも掛けてみたのだけれど。しかし、そうだな、もうそろそろ起こしたほうが良いんだろうかな。……きっと不機嫌になるだろうな、『どうして気付いたそのときに起こさなかったか』って」
 言われてその様子がありありと思い浮かび、エリーも青年同様に苦い顔になりかけた。その皺一つない衣装と同じくらいに、規律正しい生活こそを尊ぶ少尉殿のことである。居眠りをした挙句にその姿を衆目に晒したと知ったら、その憤りはいかばかりか。かといって、触らぬ神に祟りなしと、見なかったふりをするのもまた気が引けた。
「俺は兄上も、もう少し気楽にしていいと思うんだがなあ。仕事が終わった後ぐらい、好きなときに寝て、好きなように時間を使ってみたらいいと。今はそうしたからって、叱るような人もいないのだし」
 青年はたった一人の兄を慈しむように言い、それからふと思いついたような顔になって、何かを口にしようと息を吸った。が、それに続いて彼の声は聞かれなかった。代わりにひゅうと掠れるような喉の震えと、さらに乾いた咳が数回、薪の弾ける音に混じって響いた。
 よもやまた病の発作が出たのではないかと、エリーは息を呑んで彼の顔を見た。そして、もし大事があればすぐに医者を呼びに行けるよう、心の備えをしたつもりだった。

 しかし、その心の備えは全く別のところから崩されることになった。まったく唐突に、さっきまでぴくりとも動かなかった右席の男が、小さな呻きと共に瞼を開いたのである。兄弟で同じ色合いの瞳が、まだ幾らか細められたままで二人を見た。驚きのあまりエリーも咳き込みそうになった。
「し、少尉殿! あ、起こしてしまって……その、すみませんっ」
 よく考えれば起こしたのは自分ではないのだが、エリーは咄嗟に叫んで頭を下げた。今しがたまで気配りを欠かしていなかった弟のほうが、このことで叱責されてはたまらないと思ったのであった。
「エリー嬢が心配してくださったのです、兄上。長く火に当たっていると、気温との差で体に障りやしないかと」
 その弟はいたって丁寧な物腰を崩さず、エリーの側も立てるように説明を付けたが、生憎とどちらの言葉も寝起きの少尉殿には響かなかったようだった。彼はすぐさま立ち上がりかけ、そして自分の肩に上着が掛かっているのに気付くと、眉間に皺を寄せながらそれを剥ぎ取り、元の持ち主に押し返した。
「コルネール、お前はいつからここにいた? 私が寝ているのを判って、どうしてそのときに起こさなかったか」
 お叱りの文句は、果たして弟が予想した通りだった。あまりにもそっくりだったので、エリーは吹き出しそうになるのを懸命に堪えると同時、双生児の考えの似通い方に感心さえした。
「寝たものをすぐに起こすというのも、心ないわざだと思ったので」
「ふん! どちらが心ない行為が深く考えることだな、おかげで食後の時間をことごとく無駄にしてしまった。こういう浪費が積み重なって、労働の重大な遅れを生むんだ。帝国は治らぬ病を山ほど抱えているが、余暇の無駄遣いもその一つだと心底思うね」
 不愉快さを隠しもせずに若い飛行機乗りは言い、改めて肘掛け椅子から立ち上がった。
「兄上、でも身体を存分に休めるのは、優れた作品を生み出すのにとても大切なことです。だから兄上も、今夜のところはもう――」
「その優れた作品を、連中に生み出せる力があるなら私だって納得したろうがな! 奴らには私の引いた図面を受け入れるどころか、まっとうに読み取る力すらない。汎用性と生産性に優れた機体を、広く隅々まで行き渡らせてこそ軍力の増強は成るのだと、再三説いて回った結果がこれだ。連中は一つ飛び抜けて優れた機があれば、残りの産廃もみな同様に優れていると思うようなおめでたい頭をしているらしい」
 もうすっかりまどろみが抜けきり、普段通りの尖った声でそう言い立てる様は、どこからどう見ても非の打ち所のない不機嫌さである。エリーはすっかり気圧されて、まさかこの状態で「エンジン技師のみなさんが呼んでいます」などと言い出すわけにもいかず、ただ弟の側で縮こまっていた。
「仕方がありませんよ、兄上。陸のほうはもう大分と事情が違うのでしょうが、空の上は今でも騎士たちの世界なのです。だからこそ誰もが憧れを抱くし、一度そこに居たものは必ず戻りたいと思うのですから」
「戻る努力もしていない奴がよく言えたものだ。ああ、万が一戻れなくとも何ら心配は要らないだろうよ、コルネール」
「と、言うと?」
「知れたことだ。エース・パイロット一人の技量を頼み込んで成り立っている軍隊など、そのパイロットの在不在に関わらず早晩滅びる」
 吐き捨てるようにそう言って、未だ日の目を見ることのない設計士は、革長靴を音高に踏み鳴らしながら、自室への廊下を急いて行ってしまった。

「……こういう時に使うのかな、酸っぱいブドウ、という言葉は」
 足音がすっかり聞こえなくなったころに、残された二人のうち男のほうが小声で言った。もう声を潜める必要など無いのだが、まだ先程の剣幕が尾を引いていたのだった。
「ううん、どうなのでしょう、あの……わたしはそもそも飛行機のことについて全く何も解らないので、どちらと言い切ることはできないというか」
「ああ、済まないエリー嬢、巻き込んだようになって。心配しなくとも、兄上は簡単にへこたれたりはしないし、自分の誇りで眼が眩んだりもしない人だから」
「それはその通りだと思います。ただ――」
 あの針のような物言いさえもう少し緩めば、きっと話を聞いてくれる人だって増えると思うのだけれど。エリーは心の中で呟き、しかし直ぐ口には出さずに青年の顔を見た。彼もやはり困ったような、助言をしたくてもできないような、締まらない表情のままでいた。
「――ただ、その設計のよいところを解っている人も、ここには何人もいるんですから、その人たちを大事にするところから始めればいいんだと思います。そんな急に帝国全ての人に立ち向かっていくんじゃなくて。少尉殿は何を前にしても厳しい態度ですけど、自分にも他人にも厳しいだけじゃだめで。あ、イソップ童話で続けるわけじゃないですけど、北風と太陽です、つまり!」
 いい言葉が見つかった、とばかりエリーは手を打った。青年もそこでようやく口元を緩め、その通りだな、と彼女に笑いかけた。
「本当は少尉殿もお優しくて気遣いができるんだって、わたしもみんなも知ってるんですよ。だってほら、――さっきも」
「さっきも?」
 灰色の眼は瞬き、何のことだか急には解らないと言わんばかりにエリーを見る。続きを促すような視線。
「わたしの声ではちっとも起きなかったのに、アイヒェンドルフ少尉が咳をしたら、とたんに目を覚まされたじゃないですか。それだけ少尉のお体について気にかけている、って証拠でしょう?」
 その心の中にはきっと、今もそばで二人を照らす暖炉と同じくらい、輝くような熱をもった火が燃えているのだ。エリーにはそう思えてならなかったし、だからこそ、その炉端を覆う無数の棘が、どうにも勿体なくも感じられるのだった。残念ながら棘は可燃性でないようだから、一部でも融かしてしまうまでには、まだ時間を要しそうである。

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