病院というのはおかしなものだ。病気を治しに来たというのに、病気になりそうな臭いがする。

手を焼く患い -Sickness and Fever-

 ここは首都にあるような大病院ではないが、問題は恐らく共通したものだ。幼い子供たちがままごとで、そこらの草やら花やらをすり潰して汁を出し、煎じる真似をしたもののような――薬とも酒ともつかないような気が部屋を充たしている。アヘンチンキの臭いなのだと聞いた。「具合がよくなるまで休む」だなんて言って、この中に一時間も二時間も寝ていようものなら、目覚めたころには何倍も具合が悪くなっているかもしれない、とエリーは思った。

「どうぞ、お入りなさい、そこの椅子にかけて。もう少しでこちらは終わりますからね」
 酷く嗄れてくぐもった、男とも女ともつかない声が、戸口に立ったままの彼女を呼ぶ。この部屋の主である。奥にある診療台について、患者と対面している一人の医者だ。だが、その格好は彼女が知る「医者」のイメージからは大きくかけ離れていた。
「はい、ドクトル・メデューズ、お邪魔します」
 歩み寄ってみれば、まず顔が判らない。鳥の長い嘴を模した仮面と、黒いフードにすっぽり覆われて、肌の色も瞳の色も、外からでは全く窺い知れなかった。さらに胴は黒革の外套、手は革手袋、足は革長靴でぴったりと隠されており、これは本当に人間であろうか、よくできた人形か何かではないのかと思えるほど無機質だ。数百年の昔には、このような格好をした者が伝染病を診ることもあったというが、今は蒸気と階差機関の技術革命華やかなる時代である。とても「まともな」感性の持ち主だとは思われない。
「アラッ、エリー姉サマジャアナイデスカ! オ姉サマ、ドコカ調子ガ悪インデス?」
 金属の診療台を挟んでこちら側にいる、患者のほうも振り返って彼女に言った。黒髪を肩のところでぷっつり切った、飾り気のない小柄な娘だ。白い肌も冬用の作業着も煤ですっかり汚れ、いかにも労働者といった様相を呈している。
「うん、ちょっと頭が痛いだけ、別に大したことはないわよ。アンナちゃんこそ怪我でもしたの? 大丈夫?」
「ソウ、ソレナンデスヨ! ワタシ、今日ニナッテチョット指先ガ痛ムンデ、コレハ機械技師ノ職業病ガ出タニ違イナイト思ッタンデス! デモ、ソレハ職人トシテ立派ニ仕事ヲ果タシテル証デスカラ、ムシロ誇ラシイモノダッテ感ジテタノニ――」
「感じてたのに?」
 待合用の長椅子に腰を下ろしたエリーが、首を傾げながら尋ねたとたん、娘はさも憤慨したように声を荒らげて続けた。
「ソウシタラコノ医者、ワタシノ手ヲ一目見ルナリ霜焼ケダッテ言ウンデスヨ! 霜焼ケ!」
「……霜焼け?」
「マーッタク失礼ニモ程ガアルト思イマセン? 大公国ノ氷ノ都デ育ッタワタシガ、マサカ霜焼ケナンカニナルトデモ! ワタシハ母サマノオ腹カラ出タ次ノ日ニハ、モウ雪ノ上ヲ転ガッテ遊ンデタグライ、寒サニ対シテ頑健ナンデスカラネ。マシテ、コンナヌルマ湯ミタイナ帝国ノ冬ニ、簡単ニヤラレルナンテ有リ得マセン!」
 診療台の上に乗っていた手を引き戻し、固く握り締めて掲げながら、機械技師の娘は弁舌を振るう。確かに、この娘の喋る共通語には、強烈な北方訛りが含まれていて、ぱっと聞いただけでは本当に現代の言葉なのか判別つかないほどである。しかし、そんな生粋の北方人であったとしても、やはり霜焼けになる時はなるものだろう、というのがエリーの意見だった。そして、なったからには適切に治療しないと、とりわけ技師のような緻密な作業をする人々は、生活に大層差し障るに違いない。
「そうは言っても、ドクトルが霜焼けだっておっしゃったんでしょう。それならちゃんとお薬をもらって、早く治さなくっちゃあ」
 エリーが見てみると、なるほど娘の手指は全体的に赤味を帯び、いくつかの節が腫れていた。元より荒れがちな手ではあったが、今日のそれはいつにも増して痛々しいものがある。
「ええ、ええ、……その通りです。霜焼けとは言いますが、要するに軽い凍傷ですからね。放っておけば酷くなって、そのうち指を切り落とすことになりますよ。そんな目に遭うのは厭でしょうに」
 少しの間があってから医者のほうも、緩慢な動きで薬棚へ手を伸ばしながら言った。黒革の指先が取り出したのは、蓋付きの小さな陶器の器であった。
「さあ、軟膏を出しておきますからね、手によく塗り込んでマッサージをすること。一人でできなければ、誰かに手伝って貰ってもいいでしょう。……それから、食料品室にキャベツはありますか」
「えっ?」
 医者は器を娘に差し出したかと思うと、エリーのほうに向き直って言った。唐突にキャベツなどと言われたものだから、彼女はまごついた。
「え、キャベツ? あのう、キャベツですか?」
「あの葉野菜のキャベツですよ。キャベツを火で炙って湿布にすると、霜焼けによく効くといいますからね、もし痛み痒みが辛くなったら試すとよいでしょう」
「チョット、ソレ本気デ言ッテルンデス? 霜焼ケニキャベツナンテ聞イタコトモナイデスヨ!」
 琥珀色の目を疑いで一杯にしながら、娘が医者の顔をじろりと見る。対して、視線を向けられたほうは平然としたものであった。緩慢な調子は一向に変わりなく、羽根ペンで処方箋を書きつつ、
「どうでしょうね、私は霜焼けにキャベツを貼ったことはありませんが、まあ、安心の種は多いほうが良いでしょう」
「ソレガ医者ノ台詞デスカ全ク! ソンナダカラ皆ニ藪医者呼バワリサレルンデショ!」
 などと、言った端から娘に文句をつけられている。こうした人物が共同体で唯一の医者なのだから、住民たちは迂闊に不健康にはなれないのである。もっとも、結果として皆が普段から心がけ、怪我や病気は他の都市と比べて明らかに少ないのだから、これはこれで医者の功名なのかもしれない。

 まだまだ不満ありげな娘のことはさて置いて、医者はエリーを手で招き、診療台の前の椅子を勧めた。しぶしぶといった様子で娘が立ち退き、エリーはそこに遠慮がちに座る。革張りの座面のずいぶんとくたびれた、恐らくは医者がここに赴任するより前からあったのだろう長椅子である。
「では、あなたの症状をお尋ねしましょうか、……頭が痛いと先程聞きましたが」
「あ、はいドクトル……頭が、いえ、頭だけじゃなくて背筋とか、胸なんかも痛むことがあります。それと、少し熱っぽい気もして」
「なるほど、なるほど」
 医者が頷くたび、マスクに付いた長い嘴が前後に揺れて、机の上に届くのではと思われた。エリーはその動きから目を反らし、あくまで自分の症状のことだけを考えようとしたが、努力の甲斐はあまりなく、「まるでカラクリ時計の鳥みたいだな」という感想は頭から消えてくれなかった。
「風邪か流感か、――あるいは他の感染症か。喉は痛くありませんか? それとお腹は」
「どちらも特には。食欲はそんなに無いですけど、別にお腹を壊してるってわけではないです」
「熱っぽいと言いましたか。どれ、測ってみましょう。これを服の下の、どちらかの脇に挟んでおきなさい」
 そう言って、医者が机の下から取り出したのは、15cmほどの長さの細いガラス管だった。一定の感覚で刻みが付けられており、一見して定規か何かのようにも見える。だが、発熱の話をしているのに定規など持ち出さないだろう。
「ドクトル、あの、それってもしかして……体温計ですか?」
「ええ、そうです」
「体温計って、もっとこう、この倍ぐらいの長さがあるのを口にくわえるやつじゃありませんでしたっけ。わたしが前に首都の病院で見たのは、こんなに小さくなかったような……」
 エリーは戸惑ったように訊いたが、医者はそのガラス管もとい体温計を布で丁寧に拭き、相変わらず抑揚に乏しい声で、
「帝国の医師が新しく開発した、水銀式の体温計なのですよ。これならば小型で取り回しもしやすく、さらに従来の四分の一の時間で測ることができます」
 と答え、彼女の前にその科学の品を差し出した。そう言われては納得するほかなく、患者は素直にそれを手に取り、シャツのボタンを一つ二つ外して、右の脇の下に挟み込んだ。まだ部屋を出ていかずにいた機械技師の娘が、その様子を後ろの待合椅子から覗き込み、「ワタシニハ医療機器ノ開発ハ専門外デス」とぼやいていた。

「それで、症状はいつごろから出ましたか。昨日は健康そのもののようでしたが」
「はい……今日のお昼にはもうこの調子だったと思います。気がついたら頭がぼうっとしていて」
「昨日はずっと家じゅうの掃除にかかりきりでしたね。では、今日の午前中は誰と何をしていました。きっと外にいたのでしょう」
 尋ねながら医者がペンを走らせるカルテは、エリーには読めない言葉で綴られている。よくわからない記号のようなものも見えるし、もはや単なるペンの試し書きにしか見えないような線まである。きっとこれは暗号のたぐいで、医者本人にしか解読することができないのだろう、とエリーは思った。機械技師の娘同様、エリーにも医学のことはさっぱり解らない。自分にできることは、ただ質問にあった通りを答えることだけである。
「午前中は格納庫で、整備士の皆さんのお手伝いをしていました。……といっても、わたしは飛行機のことは解りませんから、ただ道具を出し入れしたり、ちょっとした荷物を運んだりしたぐらいですけど。一緒にいたのはハルシュタットさんとリューベックさんと、見学に来てたハンスくんとソフィちゃんと……あっ、そうだ、途中からアイヒェンドルフ少尉も手伝って下さったんです」
 それを聞いた医者が、筆記の手をはたと止めた。またカラクリ時計じみた動きで、カルテと患者の顔を見比べる。
「アイヒェンドルフ――」
「あっ、ええと弟さんのほう……コルネール・アイヒェンドルフ少尉のほうです」
 エリーは慌てて補足した。この寄り合いに「アイヒェンドルフ少尉」は二人いるのだ。それも双生児ふたごの兄弟であり、二人とも飛行機の整備のできる者だったから、この話の流れではどちらと区別し難い。もっとも、わざわざ整備士たちのところまで出てきて、しかも素人の仕事にまで手を貸してくれるとなれば、それは弟のほうに違いないというのが、住民たちの共通の見解ではあった。
「そうでしたか、まあ兄のほうは朝から気忙しそうでしたからね。彼はきっと部屋にいた。そして、弟のほうと一緒にいた……と」
「はい。――あの、でもドクトル、アイヒェンドルフ少尉は別に関係ないと思うんですけど。だって、煙霧病は人に伝染ったりはしませんよね?」
 話題に出た青年が肺を患っていることは、住民たちの誰もが知っていた。煙霧病は厄介な病気である。初めのうちは少々喉を痛めたり、息苦しさを覚える程度だが、やがては咳の発作を起こし、運動をすることが難しくなり、最後には呼吸そのものができなくなって死んでしまうのだ。有効な治療法も、今のところ転地して静養するか、「万能薬」ことアヘンチンキか、あとはやってもやらなくても同じようなものばかりであった。帝国の抱える不治の病の一つとして、これほど恐れられるものもない。だが、しかし。
「まさか、煙霧病は感染症ではありませんからね。彼から何かしらのものが伝染っただとか、そんなことは考えてやしません」
 医者に誤解されているのではないと解って、エリーは胸を撫で下ろした。すると医者がまたカルテを書き始めながら、
「ずいぶんと安堵したものですね」
 と言う。
「だってそんな、原因じゃないかって疑われているのだったら悲しいじゃないですか。少尉はあんなにいい人なんですもの。煙霧病は確かにつらい病気ですけど、伝染らないものを必要以上に怖がるのって、わたしはどうにも……」
「ええ、ええ、解りますよ。言いたいことはよっく解ります。だから安心しなさい、私は医者として病にまつわる誤解をとく立場にあるのですからね。こうした理解者がいることは、その患者にとっても大変よいことです」
 ゆったりと頷く医者を見て、エリーが人心地ついたように息を吐く。白い肌に赤みがさして、尖った耳の先もほんのりと色づいた。技師の娘がその横顔をちらと見て、おやおやと言わんばかりの顔をした。

「あの、……えっと、それで、わたしは結局風邪なんでしょうか、何か別の病気なんでしょうか、ドクトル?」
 いつまで経っても診断が下りないことを気にかけて、エリーは控えめな調子でそう尋ねる。それがはっきりしないことには、取るべき対処法も変わるだろうし、結果として自分の仕事に差し支えが出るかもしれない。彼女の眉は少しばかり顰められ、どんな答えが返ってくるのかを些か不安に思っているようだった。
「ああ、そうでしたねえ、これは失敬。それでは申し上げますが、まあ一種の流感のようなものです。今のところを見るにそこまで重篤ではないようだ、心配はありませんよ」
「え、でも流感だったら、あんまり人のいるところに長くいては迷惑をかけますよね。しばらくは部屋に篭っているべきでしょうか」
 流感といえばもちろん感染症である。今こうして喋っている間にも、後ろにいる娘に病気を伝染してしまう可能性があるのではと、エリーはますます気遣わしげな顔になった。
「まあ、まあ、お待ちなさい。流感のようなものとは言いましたが、流感そのものではありませんからね。一人でゆっくり休養するのは、良い治療の一つではありますが。そうですね、軽い体操をするのもよいでしょうし、何か好きな本を読み返してみるだとか、詩の朗読でもしてみるだとか」
「詩の朗読?」 患者の青い目がまん丸くなった。
「アラッ、良イアイデアデスネ、ソレ! 詩ッテイウノハ心ヲ清ラカニシテクレマスモノネ……」
「え、ええと」
 まさか医者から詩の朗読を勧められるとは思ってもみなかったので、若いエルフは視線をあちこち泳がせ、一体これをどう解釈すればいいのか判断しかねた。風邪だか流感だか知らないが、そうした病に文学が有効だなど聞いたこともない。同席している娘は何のことだか理解できているらしいし、これは自分にエルフの血が流れているゆえの感覚のずれなのだろうかと、彼女は頭を悩ませた。
「アッ、ソウダ、ナンダッタラエリー姉サマノタメニ、ワタシガ一ツ何カ諳ンジテアゲマショウカ! 大公国ニハ偉大ナ詩人ガ沢山イマスカラネ! 例エバ――」
 うろたえているエリーをよそに、機械技師が早速故郷の詩のひとつもひねり出そうとした、その時だった。

 診療室の扉が二度、丁寧な響きでノックされた。医者がゆるゆると顔をそちらに向け、何か御用ですか、と言葉を投げた。
「コルネール・アイヒェンドルフであります、ドクトル。吸入薬と鉄剤の処方を受けに来たのですが……」
 凛々しさよりもあどけなさのほうが僅かに勝る、穏やかな青年の声が返った。エリーの肩が微かに震え、はっと息を呑むのが誰の耳にも聞こえた。
「お入りなさい、アイヒェンドルフ少尉。もう用意はできてありますから。今ここにアンナ・ロマノヴナとエリーもおりますが構いませんね」
 医者は構わず新しい患者を呼んだ。扉が開き、撫で付けた金髪と灰色の目が覗いた。正に今しがたまで話題に上っていた、双生児の兄弟のうち人当たりがいい弟のほうである。彼は足音静かに部屋へと入り、診療台の前にたむろする二人の娘たちを見た。とりわけ、エリーのほうを――何せ彼女は滅多なことでは医者の世話にはならなかったので。
「エリー嬢、どこか具合でも悪くしたのか。もしかして今朝、ずっと外で作業をしていたから」
「い、いえ全然! わたし、ただちょっと頭が痛かっただけなんです。ドクトルも風邪や流感じゃないっておっしゃいましたし、きっと大丈夫です……あ、でも、しばらくは大人しくしていようと思いますけど……でも、本当に平気ですから。アイヒェンドルフ少尉こそ、今日はお加減はいかがですか? もしよろしかったら、後でお部屋にお茶でもお持ちしようかと思ってて――」
 戸惑いがさらに混乱を生み、彼女の言葉尻はしどろもどろだった。なんとか言語にはしたものの、自分が何を言っているのか、正確に把握できているかは怪しい。
「エリー嬢?」
「えっと、とにかくわたし、今はドクトルのおっしゃるとおり、ゆっくり休養していたほうがいいんだと思います。少尉もあんまり無理しちゃ駄目ですよ、お薬もきちんと呑んでくださいね!」
 このとっ散らかりようを片付けるには、何を置いても一人になるべきだとエリーは判断した。おぼつかなくはあったが、正しい判断だった。彼女は椅子からそそくさと立ち上がり、医者と機械技師と飛行機乗りに馬鹿丁寧な礼を一回ずつ向けると、不揃いな駆け足で廊下へと逃げていった。

 喜劇の幕間のように沈黙が落ちた。技師の娘が堪え切れなくなったのか、俯いて肩を震わせ始めた。
「……さて、処方する薬はこちらですがね、少尉。つかぬことをお伺いしますが、午前中に彼女と一緒にいて、そのとき何か言いましたか」
 表情の一切表れない鳥頭を、状況を読み取れずにいる青年に向けて、医者はのんびりとした調子で訊いた。青年は診療台に置かれた薬瓶を引き寄せながら、ほんの少し首をかしげて答えた。
「何か、と言われても、特別なことは何も言っていないと思うのですが。俺はただ整備士たちの仕事を手伝っていただけで、エリー嬢を怒らせたとか無闇に褒めたとか、そんなつもりは――」
「いえ、いえ、そういうことでしたら構いません。どうやら本当に、風邪でも流感でもないそれのようです。さあ、ここに処方箋も書きました。もう行ってもよろしいですよ」
「はあ……?」
 なんだか解らないような顔のまま、青年は与えられた薬を持参した紙袋の中に入れ、処方箋に目を通してからそれも畳んで納めた。彼の目的は本当にただ薬を受け取ることだけだったから、これで用事の全ては済んだということになる。
「ドクトル、本当にエリー嬢は大丈夫なのですね? それに、アンナ嬢はまたどうして、ここでずっと座って待っているのですか」
「アァ、ワタシハタダ人ノ病名ヲ聞イテアレコレ想像スルノガ日課ノヒトツナダケデスヨ! コノ医者ガワタシノ手ヲ霜焼ケダナンテ言ウモンデスカラ、普段カラドンナオカシナ診断ヲシテルカッテ気ニナリマシテ!」
 娘は快活にそう言い切って、霜焼けと診断されなかったほうの手をひらひらと振った。青年の顔はますます訳の解らないような色を帯びていたが、当座のところは納得することに決めたようだ。彼もまた在室の二人に略式の敬礼を捧げ、それからまた静かな足取りで部屋を出ていった。

「さあ、これで診断はお終いです。何を言ってもその手は間違いなく霜焼けですよ。私はこれから新しい調剤をいくつかしなければならない、暖かいお茶を呑むためにお帰りなさい」
 医者は緩慢に手を伸べて、端的な厄介払いを技師の娘に申し付けた。娘は煤だらけの頬を膨らませたが、やがてまた思い出したように口元をにやつかせ、お預けになっていた詩を、それも訛のきつい帝国語ではなく、美しい音楽のような響きをした大公国の言葉でもって諳んじるのだった。

  もしも病を受けたとて
  私は医者にはかからない
  愛する人に言付ける ――
  うわごとだとは言わないで

  緑の草を敷き広げ
  霧のとばりを窓に下げ
  この枕元まで届けて
  高く輝く夜空の星を!

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