暖かな光に透かしても、やはりどうしようもなく暗澹とした液体が、小さなグラスに溜まっていた。

懐中夜戦 -The Night Watches-

 実に黒々としている。正確に言えばやや赤みを帯びた暗褐色か。どちらにせよ、それは一見して美味しそうにはとても見えなかったし、健康によさそうな色でもなかった。意を決したように伸びてきた白い手が、グラスを掴んで引き寄せたときにも、液体はただ甘く、どこか淀んで濁ったような、ごまかしの多分に含まれた薬品の匂いを漂わせるばかりだった。手の主は――金色の撫で付け髪と灰色の瞳を有する、見た目にまだ二十歳そこらと思しき青年は、飾り気のない硝子器を一瞬間眺め、それから一息に中身を呷った。
 ん、と喉につかえたような声が漏れる。味に問題があったのか、それともまた別の要因からか、形のよい眉が僅かに顰められ、――けれども直ぐに、喉頭のごくりと上下する動きで、液体は無事に嚥下されたと知れる。干されたグラスは重厚なマホガニーのテーブルに着地し、空いた右手は僅かな雫の付着した口元を拭った。
 もう片方の腕は机上に置かれた白磁のコーヒーカップを取り上げていた。簡素ながらも品の良い形の器には、香ばしく芳醇な湯気を立てる、ミルクと砂糖のたっぷり入ったチョコレート。もちろんこれは、先程の液体の口直しとして予め用意されていたものだ。本来なら服用に際してここまでのお膳立てなど必要ないのだが、青年にとってはどうにも苦手で仕方がないのだった、このアヘンチンキというやつは。

「子供でもあるまいし」
 香ばしく温かな、同じ暗褐色でもずっと心安らぐ飲み物を啜る青年に、真正面から掛けられたのはそんな声だった。冷たく乾いた、蔑みとも憐れみともつかないものを含んだ、若い男の声だ。
「もう水薬ぐらい普通に飲んだらどうなんだ。わざわざそんなものまで用意するなど」
 テーブルを挟んで彼の向かいに座っているのは、やはり青年である。それも、髪型から目の色から鼻の形から、鏡写しにしたようにそっくりな青年だった。着ているものも全く同じ、灰色のシャツとより濃い色のズボンだが、これは場所が空軍士官の宿舎だという都合もあった。彼らはともに帝国空軍の少尉であり、同じ航空団の戦闘機乗りで、そのほか出自経歴から生年月日、両親までもが共通していた――双生児ふたごの兄弟だったのである。
「ごもっともですが、兄上、俺はこの味だけは好きになれません。喉に絡むような感じがして、ますます咳と痰が酷くなりそうだ、……それさえなければ、間違いなくよい薬なのに」
 カップを下ろして長い息をつきながら、先程服薬を終えたほうの青年は言った。こちらが双生児の弟であり、表情にはまだあどけない、それこそ苦い薬を嫌がる少年のような雰囲気が残っている。一方、兄はといえば容貌こそ同一であったが、既に気難しく頑固で神経質な、帝国軍人の典型と呼ぶに相応しい風体を備えてしまっていた。
「アヘンチンキに依らず、薬というものは苦いものだ。お前ときたらいい年をしてそうした好き嫌いをするばかりでなく、このために糧食の缶入りチョコレートを後生大事に取り置きまでしているな。軍人としての心がけがまったくなっていない」
 兄は矢継ぎ早に弟の未熟さを責め立て、弟は兄の辛辣さに曖昧な笑みを浮かべるばかりであった。確かにチョコレートは携帯用の非常食で、大事に取っておくことに何の問題もないのだが、事もあろうに苦い薬の後の口直しとして使おうとは、些か厳格すぎる兄にとって考えもつかないことだった。
「でも、……いいえ確かに、俺は兄上と比べて甘えの抜けない、帝国男児らしからぬ男かもしれません。ただ、それと軍人として挙げた成果との間には、直接の関わりはないでしょう」
 反論する弟だったが、その声は控えめで押し出しの弱いものであり、兄に対して口答えしてやろうという気概はとても感じられなかった。言葉の合間には、ひゅうひゅうと喘ぐように掠れた呼吸音が交じる。幼いころ作った草笛の音のようだな、と兄は思った。ただの草笛でなく、兄弟で競うように乱造した結果、大いに出来損なったものの音だ。気忙しく耳障りで、心をかき乱すような鳴り方だった。
「言ったものだな、コルネール。――点数表はどうなった」
「前回の出撃で38になりました」
 弟は素直に正直に答えた。 「大公国の戦闘機が2機、爆撃機が1機、偵察機が1機です」
 兄は何の感想も述べなかった。彼の現在の撃墜数は32だった。

 ある軍隊に所属する二人の兵士を取り上げて、どちらが軍人としてより優れているかと比較するのは実に難しい。この双生児の兄弟を例に取ってもそうだ。自他に厳しく軍律に忠実で、ゆえに敵味方ともから畏れられる兄。若干の幼さこそあれ、誠実な人柄から同輩・部下に慕われる弟。それぞれに利点と欠点があり、また各個の特徴に具体的な評価点が定められているわけでもない。兄は空軍の理念に極めて合致すると言われ、広告塔として持て囃されているし、弟は近々飛行教導隊の教官を任されるのではないかという噂がある。観点が違えば評判も違う。
 だが、同じ戦闘機乗りとしての技量だけを見るならば――そして、あくまでも一つの観点に絞るのならば、「入隊してから今までの撃墜数」という、非情な数字から二者を比較することはできる。彼らが実戦に出たのは一年前の夏、帝国因縁の敵である大公国の偵察機編隊が相手だった。その時は間違いなく、沈着冷静で攻撃的な兄のほうが多くの敵機をものにしていた。しかし、ある時点から事情が変わった。
 兄にはどういう訳だか理解もできなかったが、穏やかで内気な双生児の弟は、戦闘機の操縦席コックピットにあっては随分と大胆不敵、勇猛果敢な存在に変貌するようだった。彼はたちまちのうちに兄の撃墜数を追い越し、その後は常に帝国空軍のトップエースとして点数表の最上位に君臨するようになった。所属する航空団の指揮官は、飛行士として非の打ち所のない類稀な人物だと彼を褒め称えた。実際、彼に目につく欠点はほとんど無かった。ただ時折、酷く咳き込んだきり暫く止まらなくなるほかは。

「お前、本当に煙霧病ではないのだろうな」
 口のすぼまったロックグラス――中には氷とブランデーが入っている――を持ち上げながら、兄が訊いた。
「そんな、まさか。そうだとしたら軍務になど就いてはおれませんよ、俺のこれはただ生まれつきです」
 応える弟の息遣いは、もうすっかり平静を取り戻していた。先の薬がたちどころに効果を顕したのだ。咳や息切れのみならず、おおよその身体症状に効くのがアヘンチンキという「万能薬」だった。ほんのひと匙口に含むだけで、痛みや苦しみを瞬く間に鎮めてしまう。帝国全土で有難がられるのも無理のない話だった。もっとも、一般庶民が粗悪な糖蜜シロップ割りのそれを口にしているのに対し、彼らが実家を通して手に入れているものは質の良いシェリー酒をベースにしており、風味の上で幾分かましだったが。
「生まれつきか。ふん、そのように生まれついたものが、よく軍人になろうなどと思ったものだ」
「思うもなにも、アイヒェンドルフの男児が軍人以外のものになったことがありましょうか、兄上。こうして命を授かった以上、務めは可能な限り果たさなくては」
 律儀な性分を滲ませながら弟は答え、合間にカップを傾けた。彼らの父も叔父も祖父たちもみな、所属先が陸海空のどの軍かの違いこそあれ兵士だったし、当然のように彼らもまた兵士になるものという前提で育てられた。けれども双生児の弟のほうは生来身体が弱く、実際に陸軍学校の入学試験を二度はねられた。空軍がさして頑強さの求められない偵察機のパイロットを広く募集していたのは幸いだった――そして彼らはめいめいに才能を見出され、今や撃墜王と呼ばれるまでになった。
「可能な限りとは」 兄は蒸留酒で唇を湿し、その合間にまた言葉を紡ぐ。
「殊勝で結構なことだ。さしたる努力などせずとも、病身を押して花形の戦闘機乗りになったというだけで、お前は十分ちやほやして貰えるだろうに」
「兄上――」
「良いか」
 力ない弟の言葉を遮るように、彼はきっぱりと峻烈な声を部屋中に響かせた。オイルランプの暖かな灯に相反して、灰色の眼は底冷えのするような光を放っていた。
「私はお前と違って、明日も早いうちから哨戒飛行に出なければならないんだ。本来ならとうに寝ていてもいいところ、お前の咳がやかましくて眠れないからこうして付き合ってやっているんだぞ。体調管理のできない者に、夜更かしの権利などないと肝に銘じておけ」
 沈黙が落ちた。テーブルの周りを漂うのは、まだ温かなチョコレートの白い湯気と、グラスの底の残滓だけになっても立ち上る薬品の臭い、そして二者の呼吸だけである。

 それにしても静かすぎると兄は感じた。自分で黙らせておいて、否、黙らせたからこそ判ったことだ。こうして会話を持つほんの数分前、部屋に入ってすぐの床に蹲り、悲鳴にも似た荒い呼吸を繰り返す姿があったとは思えない。全ては薬のおかげである。ケシの花とシェリー酒とその他諸々の御利益は、胸の痛みも激しい空咳も、嵐のような喘ぎもぴたりと止めてくれる。
 あるいは、と沈黙の中で彼は思う。あるいは正常な呼吸でさえ、その薬は止めてしまうように思われる。鎮静剤なのだから、ある程度の抑制効果は備えていてもらわないと困るものの、どうにも度を超しているように感じられるのだ。前方を注視してみれば、胸の微かな上下で弟が息をしているのは判るが、その動きの緩慢で間延びしたことといったらない。人間というものは、たとえ深い眠りのさなかにあっても、もう少し貪欲に新しい空気を求めるものではなかったろうか――
「――あにうえ?」
 そこで彼の思考は中断された。呂律が回っていないとまでは言わないが、間違いなく普段より幾らか気の抜けた響きで、彼はふと我に返る。視線を合わせようとする。おなじ色味を持っているはずの目は、とろんとして眠たげで、それ以上に濁って、光もなく淀んでいるように見えた。何の先入観なしに見たとしても、圧倒的な違和感を――「健常な人間はこんな瞳をしていない」という強い念を抱かせるような。
「コルネール、」
 黙ったままではおれぬと言葉を発する。だが彼にはその先、どう続ければ自分の言いたいことを過不足無く伝えられるのかてんで見当がつかなかった。いつもなら弟相手に会話をすることなど造作もない。なのに今日は随分と調子が狂う。飲みもしない自身まで、劇薬にてられてしまったかに思えてならなかったのだ。
「お前、本当に、……それで本当に飛行士が務まるのか」
 灰色の瞳を凝視しながら、未だ微酔にも至らぬ加減の兄は訊いた。え、と短いいらえがあったが、それに続く言葉は暫く聞かれなかった。

 無論、この弟もいざ空を飛ぶときには、今のように生気のない目などしていないと理解はしていた。どころか真逆だ。操縦席へと上る梯子の前で、基地に残る人々に向けて敬礼を投げる彼の面差しが、どれほど活き活きと喜びに輝いていることか! 察するにこの弟は、飛行中に咳き込んだことが一度たりともないのだろう。もしくは、咳き込んだとしても敵機を見失わないか、たとえ見失ったとして、それを補って有り余る戦果を上げられるような幸運を、戦女神は彼に授けたらしい。そうでなければ、流石の司令部もこの戦闘機乗りを、長く前線に駆り出そうとはしなかっただろう。
 ところが現実はこの通りだ。帝国空軍ではお偉方から一兵卒に至るまで、帝国の北の護りはミヒャエル・アイヒェンドルフとコルネール・アイヒェンドルフさえいれば安泰だと決めてかかっている。なまじ誠実すぎるほど誠実な弟のほうが、彼らの期待を上回るほどの記録を叩き出すから始末が悪かった。双生児の撃墜数が各々20を越えたあたりから、周囲の視線にもいよいよ熱が篭り始めた。10機や20機ならば幾らも前例があるが、30機となると途端に少なくなる、まして40機撃墜ともなれば片手で数えるほどになる。さて前人未到の50機撃墜へ真っ先に到達するのは、兄のほうか弟のほうか。煽られる兄の側はたまったものではない――自分は帝国の敵と戦うため軍人となったのに、どうして弟の記録と戦わされる羽目になるのだ。そして点数を較べられ、負けている、劣っているという評価を突きつけられなければならないのか!
「あの、兄上、……兄上の仰りたいことは、わかります、俺のからだを気遣ってくださることも、たいへん嬉しいです。なにより、兄上にご迷惑をかけていることは、毎日とても心苦しく思っています。でも」
 そんな彼の心を本当に解っているのかどうか、弟は咳のために些か嗄れた声で、ゆっくりと話し始めた。
「――でも、兄上には申し訳ないのですけれど、退役するつもりはありません。当面のところは」
「何故だ」 間髪を容れず返る声は厳しい。 「少しは身の程を――」
「俺はまだ、あなたが作る飛行機に乗ってもいません」

 やっと目が合った。
 帝国の曇天のような灰色は、今の今まであんなにもどんよりとした影を帯びていたのに、間違いなくその瞬間、本物の夜空の星はかくの如くかという光を宿したのだ。向き合った兄はそれを確かに見て取り、続いて言葉の意味を読み取り、息を呑んだ。
「もっと出撃を重ねて、戦果を上げて、昇進すれば次の機体選びも今より自由が利くようになるでしょう。新しい機の設計士を指名できるようにも、きっとなるはずです。――そうしたら俺は兄上にお任せしたい。俺はあなたの飛行機でもって、エースと呼ばれたいのです」
 彼らが掛けているテーブルの、ちょうど兄の座っている側から少し離れて、一台の書き物机がある。そこにはいつでも大きな製図用紙が広げられてあり、もちろん今も手書きの図面が置かれたままになっていた。兄の手によるものだ。丹念に精密に、線の一本とて疎かにしないという気概の見て取れるそれは、しかし実際は認められることがなかったために放置されているのだった。帝国空軍の制式機体は、もちろんある一定の採用基準をもとに選択されている――この設計図はその思想に合致していない、故に採択の価値はない、という判断を下されてしまったのである。今回だけではない。双生児の兄が航空機の設計士を志してから幾度となく、何枚も。
「兄上、……疑っていらっしゃいますか。でも、本当です。俺は寝ぼけて言っているのではない、薬のせいでもありません。ただ、ただ――」
 懸命に思いの丈を推敲せんとしている、そんな訥々とした語調がはたと途切れた。灰色の目が逸らされる。
「――いいえ、先程仰った通りです。俺にこうして兄上を引き止めておく権利はない。時間だって無限にあるわけでもないのに」
 ふっと緩んだ口許が、ただの兵士でも凍空の撃墜王でもない、ひとりの青年としての感情を浮かべていた。別に、と兄は言い掛けたのだが、その音は喉を些かも震わせることなく終わった。
「もう、とても眠くて、……先に床へ入ります。おやすみなさい、兄上、明日のご安全をお祈りしております」

 弟の言葉はそれきりになった。唇からあるかなしかの息が漏れ、テーブルの上から空気の流れが消え失せた。
 椅子が木の床と擦れる音、そして靴底の響き。重そうな瞼はそのままに、しかし足取りだけは兵士らしくしっかりとして、弟は定められた就寝場所――部屋の奥の壁に据え付けられた二段ベッドの下段――まで歩いていった。革の半長靴を脱ぎ、Y字型のズボン吊りを外し、未だ冬用毛布の入っていない寝床に潜り込む。
 兄はその様子を最後まで見届け、それから何の所為だか自身にも解らないが、とにかくせざるを得なかったらしい小さな舌打ちを一つして、二段ベッドの下段から顔を背けた。続いて机上のオイルランプに手を伸ばし、口金の絞りを回して光量をぎりぎりまで落とす。磨りガラスの球体は照り輝く満月であることをやめ、曇り空の帝国で夜半に見られる、あの頼りなく朧な亡霊じみた月でしかなくなった。
 辛うじてランプの足元を明らかにするばかりの、黄色な光のすぐそばで、彼はズボンのポケットから懐中時計を取り出すと、竜頭を回してぜんまいを巻き上げ始めた。明朝目覚めてから出撃までに、のんびり時刻を合わせている暇はないだろうから――士官学校を出たときに記念として授かった、銀無垢のケースに黒い文字盤の美しい時辰儀は、彼の指に従って滑らかに動き、きりきりと小さな音を立てて、銀の心臓に鼓動を与える。けれども、持ち主にとってはその音や、あるいは秒針の進む小刻みで微かな響きさえ、今は酷く気疎いものに感じられるのだ。
 ――時の流れが厭わしいわけではない。夜が明ければ再び操縦席に身体を据え付け、気の休まらぬ空中に放り出されるということも。畢竟、空戦など定められた空間を正確に飛び、敵がいれば可能な限り近付き、機関銃の引き金を引く、ただそれだけのことだ。そうした動作を十分やり遂げる、どころか、大陸中の誰にも打ち負かせないほどの戦果を上げるだけの力を、自分はパイロットとして持ち合わせている。そう、空戦であるならば。

 若い戦闘機乗りは静かに、ごく静かに椅子を引いて立ち上がり、視線だけをほんの僅か部屋の奥へと遣った。そこに置かれた年季物のベッドで、そっくり同じ顔をした双生児の弟が、ある晩寝入ったきり二度と起きてこないのではないか――そして、自分にはそのほうが大いに都合が良いのではないかという、屈折した考えをなんとかして頭から追い払わなくてはならない、それこそが今の彼にとってよほど重要な戦いだった。空になった小さなグラスから立ち上る、甘く濁ったアヘンチンキの匂いが鼻をつくたびに、彼はあらぬ方を睨みながら歯噛みする。そんな夜ばかりではないと願うことさえ、撃墜王の名は最早許しはしないのである。

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