ああ、これが撃墜王の顔だ。帝国が誇る空の覇者、二羽の大鷲の片割れだ。

撃墜王の孤独(と苦難と幸運) -Mushrooming Threat-

 その目は正に帝都の曇り空の色、眼光炯々として猛禽のごとき怜悧さだ。几帳面に櫛られた金色の髪も、神妙に引き結ばれた口元も、襟一つ乱すことなく纏った軍服に至るまで、帝国の兵士たちが須く手本とするべき姿である。その名を聞けば味方は賞賛の声を上げ、衆敵どもの顔からは血の気が引く。――ミヒャエル・ハイニ・アイヒェンドルフ! ノルトブルクの灰鷹、鉛色の悪夢、最も高貴なる飛行機乗り! 帝国空軍でただ一人50機撃墜を成し遂げた、世界に冠たる無敗のエース!
 人々の賞賛の中にあって、しかし撃墜王は孤独であった。より高くまで飛べば飛ぶほど、周りの者たちは挙手の礼を捧げこそすれ、凍てつく寒気に冷え切った手を温めてはくれなくなるものだ。未だ二十歳そこらの青年の心は、既に気難しく頑固で、人を寄せ付けないものへと変わってしまっていた。
 だが幸いなこともあった。撃墜王は孤独だったが、理解者は確かにいた。それこそは彼の双生児ふたごの弟であり、帝国に名を知られたもう一人のエース・パイロットだった。彼は陰日向になって(という言い回しは無論、帝国にまだ「日向」という概念が存在したころ成立したものである)兄を支え、兄の孤独を少しでも和らげようとした。彼は兄の心のうちをよく察した。そして、今も。

 ――弟は自らの席からそっと視線を横向け、隣に座る兄の苦渋の顔を窺い見た。より正確に言うなら、苦渋の顔が向けられた先、食卓に置かれた皿の上のものを。

  * * *

「本当にすみません、あの、せめてベーコンは一人に一切れ確保したかったんですけど……」
 テーブルの傍で若い娘が、心底申し訳無さそうな顔で頭を下げている。苔色の髪が揺れ、人間のものより尖った耳がぴくりと動いた。
「そう謝んなよ、エリー。良いじゃねえか、俺は酒に合うものならなんだって好きだぜ」
 粗野な髭を生やしたハーフドワーフの鍛冶師が、口の開いた水筒を片手に豪快に笑った。もちろん水筒の中身は地底に伝わる火酒であり、現在の時刻が朝の六時半であることなど何ら考慮していなかった。
「大体、肉がちょっと少ないからって何だ? 芋と豆はあるし、それに何より――キノコがある!」
 鍛冶師は言って、二本歯のフォークで皿からキノコを取り上げた。労働者たちの稼ぎが少なくなる時期や、あるいは機械の急な故障などで予期せぬ出費がかさんだとき、彼らの食事には変化が生じる。何しろ日常的にかかる費用のうち、最も節約するに手っ取り早いのは食費である。曇り空の下に置かれた卓につく、他の者たちも口々に同意し、料理係である娘を慰めた。ただ一人、灰色の目をした神経質そうな青年だけが、自分の皿を前にしてむっつりと黙っていた。彼が何を思ってそうしているのか、察することができた者は双生児の弟より他にいなかった。弟は知っていた――兄はこのキノコが嫌いなのだ。食べられないのである。

 直径にしておよそ5cm。焦げ茶色をした傘は肉厚で、いかにも食べごたえのありそうな見た目をしている。表面に十字の切り込みが入れられ、それが炙られたことでぱっくりと開き、あたかも復活祭のころのホット・クロス・バンズを思わせた。香ばしく華やかな匂い。噛みしめればきっと、森の豊かな風味が口の中に広がるに違いない。このキノコを好意的に捉える者――すなわち大多数の帝国市民――は、これらの要素を折りに触れ食卓で楽しんでいた。実際のところ美味なのである。他の食用キノコと比較しても。
 そもそも何故キノコが庶民の食卓に上るのかといえば、それはひとえに安くて美味しいからに相違ない。何しろキノコというのは育てるに容易い。長い日照時間など必要ない(というより寧ろ邪魔である)から、365日にわたって曇天の続く帝国において、場所を選ばず栽培することができる。屋内で育つので、煤や煙霧の影響を心配することもない。植物栽培用の疑似日光照明をはじめ、巨額の設備投資が必要な一般的野菜と比較して、驚くほど安価で流通させることができるのだ。これぞ帝国の救世主、老いも若きも男も女もキノコを食べるべしと、帝国農務省は国民にキノコ栽培を奨励した。

 だが、帝国のトップエースは一般市民と意見を異にしていた。まず見た目がいかんと言う。傘を裏返せば無数の細かな襞がびっしりと並んでいる。不愉快だ。この隙間に小さな虫でも挟まっていたらどうする。想像するだに不愉快だ。さらには食感がいかんとも言う。硬いのだか柔らかいのだか解らない。ぐにゃりと歯に伝わる感覚が駄目だ。噛み切れるようで噛み切れない。そうして噛んでいるとまた生暖かい甘みが染み出してくる。鼻に独特の匂いが抜けてくる。一体どうしてこのようなものを食べなければならないのか。――というのが、このキノコを憎んでやまない撃墜王の私見である。
 今までそれで何の不都合もなかったのか? まず前提として彼は帝国でも名の知れた武門の生まれであり、高価な緑黄色野菜でも問題なく手に入る環境で育った。両親は息子の好き嫌いを甘んじて許すほど優しくはなかったが、それ以前に彼の嫌うような食材は食卓に上らなかったのである。
 帝国空軍に入隊してからも問題は起こらなかった。ぜんたい軍隊というものは、よほど戦況が逼迫したり、補給の満足に受けられない場所へ駐屯したりしている時を除けば、まっとうな衣食住が確約されている(「朝晩ちゃんと飯が出る」ことが志願理由の多くを占めるほどである)。おまけに彼の所属は空軍でも花形の戦闘機部隊である。各地で華々しい戦果を上げ、それに伴う褒賞を受けることも珍しくない。彼の部隊にパンと豚肉とバター、それに煙草とブランデーが絶えたことはなく、やはりこの忌まわしいキノコが出る幕は無かったのであった。

 事情が変わったのは、よんどころない理由により撃墜王が元撃墜王となって、帝国の辺境にある労働者たちの寄り合いに身を落ち着けてからだった。主要な流通経路から大幅に離れたこの場所では、新鮮な野菜や肉など望むべくもなく、パンといえば日持ちのみを重視した真っ黒なパンで、肉といえば塩のきついベーコンやハムであり、野菜といえばキノコと豆であった。
 むろんキノコといっても様々である。労働者たちの胃袋を一手に握るエルフの娘は、彼らが飽きてしまわぬよう、毎回苦心して違う食材を扱うようにしていた。食の好みにうるさい元撃墜王も、この世のあらゆるキノコに対して敵愾心を抱いているわけではなかった。晩夏になればあちこちから手に入るアンズタケの、甘い香りとぴりっとした味は言うに及ばず、ころんとして愛らしいマッシュルームは、ソテーにしてもシチューにしても格別だし、まるまる太ったシメジを短いパスタと食べるのは食感が楽しいものだ。ましてやクロラッパタケの芳しい風味ときたら!
 そう、これほど帝国には多種多様のキノコが出回っているというのに、何故――こんな気味の悪い外国由来のナントカ茸など食べなければならないのか。そうして彼の理屈めかした、普段からは考えられないほど子供っぽい文句は最初に戻る。

「あの、兄上」
 弟は食べかけのパンをテーブルに置き、あくまでもさりげない風を装って、隣席の兄に声をかけた。
「お体の調子が宜しくないのですか。その、もしもそれより召し上がらないのであれば……」
 けれども兄は言葉を耳に入れるなり、頑然として冷たい目できっと弟を睨んだ。食器同士が触れ合う、微かな金属音が立つ。手元の皿に二枚載っていたキノコの傘のうち、片方はもうすっかり細切れになってしまっていた。兄がこのキノコを食べまいと黙っている間、無沙汰に耐えかねた手は無意識のうちに、主の仇敵を切り刻むことを選択していたのである。
「何だ、コルネール」 彼は弟のほうへ顔を向け、重々しく名を呼んだ。
「私の身体に何の不調もない。私はお前と違って健康そのものだからな。ただ気分が悪いだけだ」
「ですが――」
「子供でもあるまいし、お前は食事の時まで私にまとわり付くのをやめろ。お前の仕事は女の顔を見て、何かしら世辞を聞かしてやることだろう」
 そして不愉快の極みだと言わんばかりに鼻を鳴らし、それからまた黙って皿の上を凝視し始めた。弟は溜息をついて兄の横顔を眺めた。兄は――普段からこのキノコに対して文句ばかり言っているが、嫌いだから食べられないとは一言も口に出したことがない。弟にも知られていないと思っているだろうし、知られてはならないと思っているに違いない。
 初めてこのキノコを食べたとき、若い戦闘機乗りは自分にも食べられないものがあるのだと知った。そして、何がとは言わないが何かに気分を害されたのだと言って席を立ち、夕食の時間まで戻らなかった。二回目は端から体調が悪いので食欲がないと主張し、自分の部屋に閉じこもった。そして大量の紅茶を淹れては飲み、ビスケットをふやかして少しずつ齧るという、昔ながらの空腹救済法でもって飢えを凌いだのである。では、何故そうまで意地を張り、自らを正当化したいのか?
 たったひとつの単純な理由だ。撃墜王は好き嫌いをしない。

 いたって善良でお人好しの弟は思った。何故好き嫌いをしてはいけないのか。否、あまりに偏食が過ぎるようなら、健康に生きるため必要な栄養が足りなくなる等、困ったことはいくらも起きるだろう。が、それこそ兄の言うとおり、たかが一種類のキノコが食べられなかったからといって、何の問題があるだろうか。撃墜王だって人間である。好きなものがあり嫌いな人がおり、同じように好きな食べ物があって嫌いな食べ物もある。第一、今となっては互いに軍を離れた身だ。兵士の規範となるよう命じられていたあの頃と違って、誰が咎めるわけでもないのに。
 ふと視線を感じて顔を上げると、先程のエルフの娘が遠慮がちに、双子の兄弟の顔色を伺っているところだった。無理もない。全く同じ顔をしていながら、表情も言葉遣いも柔和そのものの弟に対して、兄のそれといったら他者を威圧してはばからない厳しさがある。自分の料理に何かしら不満があり、ご機嫌を損ねているのだと思うのも当然だろう。
「すまない、エリー嬢。俺たちの食べ方はあまり美味しそうではなかったかな」
「いえ、そんな、とんでもないです! お二人とも、いつも残さず食べて下さって本当に嬉しいです、……ただ、今日もまたキノコか、なんて思っていらっしゃらないか心配で……」
「それこそとんでもない話だ。我々は兵士だから、毎日同じものばかり食べることには慣れているよ。どころか、エリー嬢はいつだって、皆に気を使っていろいろな食べ物を使ってくれるだろう。兄上もきっと満足していると思う」
 肩身の狭そうなエルフの娘に、若い兵士は微笑みながらそう言った。皿の上から四つに切ったキノコの最後の一切れを取り、「焼き加減が最高だ」と付け加えるのも忘れなかった。たちまち娘の白い頬に赤みが差し、どころか耳の先まで真っ赤になって、慌てて顔を背ける様が見えた。

 兄はといえば、微塵切りになったキノコをフォークの背で掻き集め、スプーンに持ち替えてそれらを掬うところまでは行き着いていた。重苦しい空模様と同じ色の瞳が、匙を満たした茶色とクリーム色の何かを睥睨した。空の上にあって大公国の戦闘機を見据える時さえ、彼はもう少し活力に満ちた目をしていた。今はもはや闘争心など何処へ行ったやら、だ。
 だが食べなければ先はない。食べたくはないが、撃墜王は好き嫌いをしないのだ。この寄り合いには未来を背負って立ついたいけな子供たちも多くいる。空軍の広告塔を務めた身として、子供の夢を壊してはならない。撃墜王は時に高慢とも言える自信を有し、文民たちに厳しく接することもある。が、好き嫌いだけはしないのだ。
 彼は口の中に溜まった嫌な味の唾を飲み込み、息を小さく吐いてからぴたりと止めた。敵機と真正面から機関銃を撃ち合う、あの永劫にも似た緊張の時のように、大きな銀のスプーンを口元へ引き寄せた。それを口に突っ込んでから再び取り出すまでに、彼はできる限り金属の味のみを感じようと努めた――が、無駄な足掻きだった。彼の眉間にはますます皺が寄り、形の良い金色の眉はひん曲がり、嚥下する喉の動きは明らかにぎこちなかった。が、周囲の人々は、彼は何もなくても気難しく神経質で不愉快そうな顔をしているものだと思い込んでいたため、撃墜王の煩悶を悟ることはなかった。
 ようやく仇敵を食い物にした若きエースは、カップに満たされた茶を一気に飲み干し、テーブルに視線を戻して重たい息を吐いた。――まだあと一切れある。

 その時、彼らの背後から音もなく近付くものがあった。地をゆく人影ではなく、空からだった。遠くに小さく見えていた、その鳥類と思しき黒い影は、瞬く間に距離を詰めたかと思えば、人々の囲む食卓をかすめるように通り過ぎ、再び上昇していった。
「あっ!」
 エルフの娘が頓狂な声を上げた。 「まあ、レイモンド卿!」
 それは一羽のワシミミズクだった。よくよく手入れされた茶色の翼を翻し、優雅な素振りで下々の者たちに挨拶を寄越したのだ。彼(間違いなくオスである)はこの寄り合いにいる人間たちの誰よりも古参であり、住民たちからの敬意を集める存在だった。高貴であり、勇猛であり、そして些かばかり悪戯好きだった。
「兄上」 弟が目を丸くした。 「皿が」
 言われて兄も皿を再確認し、弟と全く同じ表情を浮かべた。灰色の瞳には、今起きていることを咄嗟に理解しかねているような、当惑と驚きが浮かんでいた。とはいえ兄は威厳の人であったから、数秒後には再び真摯な目をして、半開きになっていた口を引き締め直し、元の撃墜王らしく凛々しい表情を取り戻した。
「そうだな、皿が」 兄は静かに言った。 「私の皿が空だ」

 レイモンド卿と尊称で呼ばれる猛禽の王は、通りすがりに今日の貢物を頂戴していったのである。つまり、皿の上にただ一切れ残されていたキノコのソテーを。それは孤立無援の男に齎された類稀なる幸運だった。事情を知らぬ人々は珍事に目を見張るばかりだ。
「なんでしょう、その……ミミズクって、キノコを食べるんだったかしら」
 首を傾げながらエルフの娘が言い、黒い影が飛び去ったほうをぼんやりと眺めた。
「同ジ平鍋デベーコン焼イテタワケデスシ、ソノ脂ノ匂いデ勘違イシタンジャアリマセン……?」
 北方訛り著しい、大公国生まれの機械技師が、琥珀色の目を疑わしげに細めながら答えた。
「そうかもしれないけど、……あの、とにかくキノコが無くなったのは事実なので、アイヒェンドルフ少尉殿。本当にすみません、わたしので宜しければ……」
「いや、構わん」
 千載一遇の好機を、娘のお節介で無に帰されるわけにはいかなかった。青年は素早く返答し、咄嗟のハプニングに動じもしない軍人の鑑を見せつけると、空になった皿を手に席を立った。エルフの娘はまだ気遣わしげに、「でも、今日はただでさえおかずが少ないのに……」等と言っていたが、彼は無視することにした。今日もまた無敗のエースは無敗のままである。戦ってすらいないが、睨み合いはしたので戦果のうちだ。

  * * *

 後片付けも終わって、いよいよ職人たちが仕事に取り掛かり始めた作業場から、若い飛行機乗りが一人棲家へと戻ろうとしていた。双生児の兄弟のうち弟のほうだ。兄はとうに自室へ戻って、今頃は新しい図面を引くのに忙しくしているだろう。
 と、頭上から羽ばたきの音がする。彼は顔を上向け、そして得心したように頷いた。今のは敢えて鳴らされた、いわば呼び掛けの意味での羽音なのだろう。
「やあ、これは、レイモンド卿」
 舞い降りてくる大きなワシミミズクに、彼は軍隊仕込みの美しい気をつけでもって応えた。それから流れるように跪いて臣従の礼を――こちらは少々冗談めかしていたが――取り、王の御成りを恭しく迎えた。
 ワシミミズクは青年の眼前、ちょうど積み置かれていた木箱の上へと見事に着地した。ほう、と短く低い鳴き声。
「ご機嫌よう。先程は我が兄の窮地をお救い頂き、弟として感謝の念に堪えません。……エリー嬢の素晴らしい料理はお気に召しましたか」
 青年が顔を上げて述べ、小さく笑った。この猛禽の意図はどうあれ、結果として兄がなんとか例のキノコから逃れたのには違いない。王は大きく翼を広げ、――それから首を突き出して、青年の鼻をついばんだ。
「痛た、ああ、これは失敬。確かにエリー嬢に対して失礼な物言いでした。後できちんと、美味しかったと伝えておかなければ。もちろん貴方のぶんも」
 ワシミミズクの鳴き声が、良きに計らえ、とでも言うかのように低く響いた。青年はおかしそうに言い、それから少しばかり浅い息をニ、三繰り返すと、自らの鼻を庇っていた手を左胸に当てた。
「そして貴方にも伝えなければ」 灰色の目が細くなった。 「二人の撃墜王から、感謝と敬礼を」


 ※お題とは別指定の必須要素が「しいたけ」でした

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