お願いだから引き取ってくれ、とその婦人は言った。


 ジャック・マクファーレンも危うく一度、全く同じ台詞を返しかけた。お願いだから引き取ってくれ、と。だが三十年にわたって育まれた篤実なる良心と、およそ女性に対する押し出しが弱いという性質、若干の後ろめたさ、そして何より十ドルという聖書一冊にしては魅力的な対価が、その衝動を辛くも押し留めたのである。
 かくて婦人を地上まで送り出した後、「マクファーレン探偵事務所」には一人の探偵と一冊の聖書だけが残された。いや――残されたというなら、ここには開設以来数えきれないほどの品々が残されてきた。いくら地下にあるからって、ここは始末に困るゴミの一時保管所じゃあないんだと、ジャックは常々思っていた。
 彼は定位置である革張りの椅子に戻り、すぐ手元に置かれた聖書を見た。携行に便利な手のひら大で、表紙は布でも皮革でもなく、恐らくは銅だろう金属板が張られ、鎖付きの留め金がついている。刻まれているのは「神の御加護をMay the God be with you」の文字。――由縁を何も知らなければ、そこそこ有難みのある装丁と言えなくもない。
 それから彼の茶色い目は机上を離れ、壁際に置かれた一揃いの道具たちに移動した。コーヒー挽きに水差し、砂時計に薬缶。それにすっかり冷え切った、ガラスの気球めいたサイフォン。ああ、蒸気圧の力よ――錬金術師の研究の賜物! いや、蒸気に関するあれやこれやの全てが、錬金術の副産物でないことは彼も知っている。コーヒーの抽出器具を発明したのもたぶん魔術師ではないだろう。とはいえ、この技術がもたらした数多の恵み――香水と、それに欠かせない様々な香料の精油たち、ハンガリー水や薔薇水といった化粧品、また精製された水銀に至るまでを、合衆国は今も全土に渡って享受し、賛美している。ただ一つを除いて。
 身動ぎするたび椅子から聞こえる、耳障りな軋りが彼の思考を途切れさせた。置き時計に目をやると、そろそろ表は暗くなろうかという頃合いである。ずいぶん日も短くなってきた。上の門灯を点けにゆかなくてはと、彼は老人の断末魔みたいな音を立てる椅子から立ち上がった。

 その軋みに重なるようにして、呼び鈴が鳴った。ブザー音が死刑執行の合図めいて響き渡り、続いて静寂が満ちた。彼は耳を澄ませた。地上の物音に、ではなく、もっと下に。
 彼の鼓膜を震わせるものがあった。猫の鳴き声だった。 
「本当かい、クァグマイアー? 言っておくんだがね、聖書ってものは一個人に一冊あれば十分だと思うんだよ。まあ、表紙に金の延べ板でも張ってあれば話は別だけれどね」
 目の前にはいないものへと話しかけながら、彼は上り段へと通じる戸を解錠した。地上からはもう光が差してこない。石壁に据え付けられたランプ――これは電光ではない――だけが、外界へと繋がる一筋の道を照らしている。ざらつく感触を革靴の底で捉えながら、彼は一歩一歩ゆっくりと上っていった。そして最上段で深呼吸し、黒塗りの扉を力強く引き開けた。

 ひんやりとした夜の空気が彼の意識を研ぎ澄ました。埃や、石油や、ガスの臭いが入り混じったニューヨークの瘴気だ。故郷では決して嗅ぐことのなかった都会独特の渦巻、その中に立つ者がいる。
  内側からの光に照らされて、夕闇に浮かび上がった影は、彼の予想よりいくらか小さかった。年の頃なら14か15といったところ、やや日焼けした白い肌を持つ、未だ成熟しきっていない顔体つきの若者だった。服装にしても、白いシャツに黒ズボンとズボン吊り、茶色い薄手の外套、鳥撃ち帽……いかにも新聞売りや靴磨き、煙突掃除夫を思わす、働く子供に有り触れた格好だ。黒っぽい髪を顎のあたりでざっくり切った、痩身の男子――否、もしかすると女子かもしれない。流行りの「少年娘ギャルソンヌ」というよりは完全に「少年ギャルソン」の装いだが、しかし今日びのいわゆる「新しい女フラッパー」が断髪と軽装を好み、ことによってはスカートすら履かず、ニッカーボッカーと革長靴で通すというのはよく知られた話だ。
 ――これはどう考えても、金張りの聖書を持ち込むタイプじゃあないな。
 彼が考える間に、人影はさっと帽子を取って胸に当て、
「求人を見て来たんですが」
 と言った。男ならば声変わりが済んでいない、女ならば少々低く作っているのかもしれない、そんな音程だった。

 彼は目を瞬き、戸口に立つ人物をまじまじと見た。何に驚いたといえばその声なのだ――高さだけに着目するなら未だ幼さの残る、辛うじて少年聖歌隊の楽譜をそっくりなぞれそうなものだったが、そこに含まれる風合いはまるで違った。無邪気でもなく、かといって路地裏に放り出された勤労児のごとき擦れた雰囲気もなく、どころか一種老人めいた達観すら感じられたのである。あたかも今までに二、三度死んでは生き返り、五十年の寿命を繰り返してきたような、得も言われぬ落ち着き払った声色なのだ。
「求人――」
 その通り、彼は数ヶ月ほど前から、己の事務所に新たな人員を求める旨、いくつかの場所を選んで告知を張り出していた。そして今日に至るまで、訪ねてきた者は一人としていなかった。予期していなかったわけではない。もしかすると一年待っても来ないか知れないとさえ思っていた。彼の職業は非常に特殊なのだから。しかし、初めての応募者がよもや……
「……ああ、いや、解ったよ。入ってくれないか、色々と聞きたいこともあるんでね」
 スマートな受け答えをとっさに思いつかず、彼は当座をごまかすように笑みを浮かべて片手を広げた。若者は血色のよい唇をきゅっと曲げ、膝を折って一礼した。

 事務所の応接に至る階段は狭く、二人が並んで通るには窮屈すぎるほどの幅しかない。彼は表の戸に「Closed」の札を掛けると、先導するように段を降り、内扉を開けて若者を招き入れた。壁一面に張られた写真やマンハッタンの地図、本棚いっぱいに詰まった書物や書類挟みの数々、いくらか使用感のあるタイプライター、その他あらゆる品々が出迎える。
「あの広告を見て来てくれたっていうのは、素直にありがたいね。君が最初なんだ。何しろほら……こんなご時世だし……」
 事務机の前にある来客用の椅子を勧めつつ、ジャックは何気ない会話を装って喋りだした。若者が座ったのを確認してから、自分自身の席につく。怨嗟の呻きを思わす音が収まりきらないうちに、次の台詞。
「――胡散臭いと思っただろう?」
 彼は若者の顔をさりげなく観察した。就職面接の場にしては、不思議に肩の力が抜けている。近くで眺めると、簡素に見えたシャツは思いのほか仕立てが良く、少し汚れてこそいるが襟も袖も型崩れせず、縫い目ひとつ解れたりしていない。こうなると、却って髪型の簡便さというのか、あたかも乱暴にまとめた結び目に鋏を二、三度入れただけ、というような雑さが目についてくる。
 ――どこか良いところのお嬢さんが、職業婦人に憧れて家を飛び出し、自分で散髪して男装を整えた? それは流石に早合点がすぎるかな。
「罠かもしれない、とか……」
 しばらく待っても返事がないので、彼はさらに言葉を続けた。目線は若者の手指のほうへ向かった。いくらか筋張っていて、爪は短い。右中指の第一関節が少し腫れているのは、頻繁に書き物をするため生じた胼胝かもしれない。労働といえばスプーンを持ち上げることとピアノを弾くことだけ――といった、全き上流の子息女でないのは確かだろう。
「そうですねえ」
 考えていると、やっと応えがあった。硬いところの一切ない、どこか長閑な響き。それでいて油断しきっているわけでもない。深い青緑色の目を覗けば、幼さに見合わぬ鋭敏な光がある。あちらからも観察されているのだと彼は理解した。椅子に預けたままだった背筋が自然と伸びた。
「まあ、あなたの言葉をお借りするなら『こんなご時世だし』……求人方法も特殊でしたからね」
「認めるよ。じゃあ、ちょっと説明してもらえるかい。どんなふうに特殊だったか」
 これが彼の考えた、雇用を検討するにあたって最初の質問だった。普通の面接であれば、本名と年齢性別に加え、教育歴や前職、出身地だとか親の職業、何代に渡って合衆国に居住しているか、どの宗教に属しているか、云々――個人を格付けするための質問を雨あられと浴びせるのだろうが、彼にその気は全くなかった。彼の仕事にはまるで関係ないことだからだ。

「まず、求人の内容自体は――特に変わったところはないと思いました。探偵事務所の助手一名求む、住み込み可、経験は不問。守秘義務を厳守できる者、かつ可能なら自衛の手段を持つこと、語学ないし化学の知識ある者は優遇、云々と」
「探偵業には欠かせないことだ。君の言う通り、特異な要求ってわけじゃあない」
「ええ。それで何が特異だったかというと、一つは求人票の張られている場所です」
 形式通りでない彼の質問に動じたふうもなく、若者は訛りのほとんどない淡白な調子で答え始めた。古びたマホガニーの天板で、細い指同士が互い違いに組み合わさる。
「本来、まっとうな雇用主が新たに人を求めるなら、当然人目につく……いえ、『堅気の』人目につきやすい場所に広告を出すでしょう。新聞の募集欄を買うお金がなくとも、例えば州の職業安定所ジョブ・クラブとか、専門知識が要るということだから、大学や高校の構内とか」
「君が広告を見たのは」
「東4丁目にある小さな床屋です。勘定台の横に張ってありました」
 若者が頭を振る。 「定期的に髪を切りに行ける紳士は、そう熱心に探偵の職を求めたりはしないと思いますね」
「そうとも限らないさ。単調な仕事に飽き飽きして、何か刺激的な生活を望む紳士だっているだろう。――で、他には?」
「誰も求人だと思っていないんですよ」
 そこで若者はやおら身を乗り出し、ジャックの顔をじっと覗き込んできた。そこまで深刻そうな、何かを追求するにふさわしい表情でもなかった。しかし目の鋭敏さはいっそう増したようだった。
「私が二度目に行ったときだったか、店主と別のお客が広告の前で話していたんです。紙面を指さしながらね。でも会話の内容が頓珍漢なんです――探偵助手求む、という題字がそこにはあるのに、彼らの話題は終始新作映画の――あのなんとかいう話題の女優さんが出る」
「グレタ・ガルボかな」
「そうそれ――『肉体の悪魔』でしたっけ。その宣伝の話ばかりです。どうも探偵物語ではないらしいですね」
 やや口早に経験を語る若者の姿を、彼は微笑みながら見守った。もちろん彼には、この不可解な会話の理由が解っている。あとは若者のほうが同じように理解しているかどうかだ。
「そして私は……大変失礼かとは思いつつも、許可をもらってあれこれ調べたんです。なぜ私にはその『映画の宣伝』が『探偵事務所の求人』に見えるのか。――結論からいうと、私がある条件を満たしていたから」
「その条件とは?」
「シンプルに二つ」
 若者は言葉通りに指を立て、きっぱりと述べた。 「妖精が見えることと、酒を飲んでいることです」

 それから数秒の間、彼らは互いに見つめ合った。置き時計が立てる秒針の音だけが、二者の間を単調に流れていく。若者がそれ以上何か言う気配はなかった。ジャックにしても、相手がこれだけ堂々と断言するとは思っていなかったので、いくらか気勢を削がれたところはある。もう少し口ごもるとか、後ろめたそうにするだろうとの予想だったのだ。
「……それで本当に、何かの罠かもしれないと思わなかったのか?」
 とうとう彼は先に口を開いた。 「つまり君は今、自分は合衆国憲法に背いていますと宣言したんだぞ」
「半分ぐらいは思いましたが、逆にあなたもリスクを負っているわけですからね」
 軽く眉を上げながら若者が答える。物腰は相も変わらず落ち着き払っており、かといって開き直ったような素振りでもない。
「募集要項に、『ウイスキーの試飲に協力できる者歓迎』なんて書いて。世の中には、いかにも小僧っ子みたいな格好をして、幻想を垣間見るだけの純粋な心を持ち、不法を憎む気持ちは人一倍強く、ゆえに『手入れ』のためなら密造酒の一杯や二杯飲むことを躊躇わない、みたいな酒類取締官プロヒーズがいないとも限りませんよ」
「知ってるよ。というより、後半だけなら満たしている奴は結構いるよ」
 彼は肩を竦めた。 「知り合いがそれで痛い目に遭ってる。おかげで彼の本屋は廃業に追い込まれた」
「その方、今は床屋をやってたりしませんかね」
「察しがいいじゃあないか」
 言葉と共に乾いた笑いを漏らしながら頷く。若者の言に反論する気はもはや無かった。「特に変わったところはない」探偵事務所の求人に、法律を侮るような一文を付け加えたのは確かに彼自身だ。その一文を読むことができるのは、アルコールの影響下にある者だけだ。……知人は実際のところ、本屋でもなければ床屋でもない。 「君に資質があるのは十分解ったよ。ここからは実践的なテストといこう。お互いの正体についてはひとまず保留だ」
「何なりとどうぞ、サー」
「おあつらえ向きの品がある。君が来るまではどうしたものかと思っていたけれど、今となっては依頼主に感謝すべきかもな」
 彼は手元にあった書物を軽く持ち上げ、それから笑みを漏らした若者に向けて滑らせた。ランプの光を浴びて、金属板がぎらりと輝いた。
「君ならこれをどう取り扱うか、意見を求めたいんだ」

inserted by FC2 system