ばしゃん、と水音。月明かりに浮かび上がるような白面を、跳ねた泥水が鈍く汚した。

プロローグ ― 復活大祭の夜に

 4月8日を迎えたばかりのサンクトペテルブルクは、例年以上の長い寒さがようやく和らぎ、気温が零下を脱し始めたところだった。街を覆っていた氷と雪が方々で解け、整然とした石畳を濡らし、ここシュヴァロフスキー公園の広い芝生にも、あちこち泥濘ぬかるみを作っていた。
 そんな泥道の一つに倒れ込んだ人影を、吸血鬼ウピルは舌舐めずりして見下ろした。それは見た目に11か12の少女で、自分から転んだのではなく、彼によって仰向けに突き倒されたのだった。上等だが寸詰まりな毛皮のコートは、倒れ込んだ拍子にフードが脱げ、白金の短い巻き毛を寒気に晒す羽目になっていた。露わになった幼い顔は恐怖に引き攣り、明るい金茶色の瞳には涙が溜まっている。もはや逃走の希望を失ってしまったのか、そのまま起き上がる気配はなかった。
 言うまでもなく少女は、普通なら今時分に出歩くような年頃ではない。だが今日は復活大祭パスハだ――家族揃って近くの聖ニコライ教会の夜半課に出席し、十字架の行進を終え、帰りにはぐれたのか。それとも両親からパーティーへの出席を禁止され、すねて抜け出してきたのだろうか。いずれにせよ運が無かったことに変わりはない。結果として恐るべき魔物に目を付けられ、餌食になろうとしているのだから。

 その細い肩に手を掛けたところで、ウピルは背後に気配を感じた。続いて、じっとり濡れたような冷たい手が、彼の首筋を撫でるのも。咄嗟に振り返ると、目に飛び込んでくるのはぎらぎらとした緑色の目だ。青白い肌と、それを覆い隠すような長く波打つ髪も。吸血鬼は舌打ちした。ルサールカだ。近くに小川も池もあるのだから、水の精たちの存在を忘れてはいけなかったのだ。
「駄目だ、駄目! 先に私が見つけたんだから」
 水浸しの白いドレスに向けて、彼はしっしっと手を振った。ルサールカは尖った目尻に笑みを張り付けたまま、頬だけを不満そうに膨らませた。幼い子供というのは、およそ超常の存在たちにとって比べるもののない大御馳走だから無理もない。種によって目当ては魂であったり、肉体や血液であったりするが、その清らかさは人ならぬ者を何より誘惑するのだ。例えば今、彼が組み敷いている少女のように、程々の肉付きで血色がよく健康的なら尚更だった。
「寝起きで腹が減ってるのは解るけれども、こういうのは早い者勝ちだよ。他にもっと……お前たちなんかには、もう少し年上の男のほうが向いてるだろう?」
 彼は立ち去らないルサールカに続けたが、そこでふと訝しんだ。春になると氷が解け、水の精たちが活動を始める。それは良いとして、ルサールカが少女に目をつけるというのはおかしな話だ。彼女たちは溺れ死んだ、あるいは婚礼を前に死んだ乙女の霊が成り代わったものであり、若い男を魅了しては、水場に引きずり込んで魂を奪うのが通例のはず。女を襲うこともないではないが、それはどちらかといえば自分が得られなかった幸福への嫉妬からであり、まだ無垢な幼い娘には、好意を向けこそすれ取って喰うことなど――

「へえ、タイミング悪くないじゃん。また方向音痴発動してんのかと思ったのに」
 身体の下からそんな声が聞こえ、はっとした吸血鬼は少女に向き直りかけた。だが遅かった。全く予期していなかったような衝撃が彼の下腹を突き上げた。力を振り絞った最後の抵抗、と呼ぶにはあまりにも力強い一撃だった。
 吸血鬼の理解が及ぶ事態ではなかった。鈍い痛みに呻き声が漏れたと思えば、いま彼の目に映っているのは少女ではなく、晴れた夜空と木々の梢だけだ。数メートルも蹴り飛ばされた彼の身体は、氷混じりの泥濘に仰向けで転がっていた。
上等ハラショー。それじゃクソ野郎、あんたをコウモリじゃなくてハリネズミに変えてやるから、そこ動かないでよ」
 そして少女は――たった数分前まで哀れな犠牲者になりかけていた幼い娘は、今や小さな唇を獰猛な笑みに捲り上げ、立場を入れ替えた吸血鬼へと距離を詰めていた。濡れて重みを増したコートが、片手で無造作に脱ぎ捨てられる。その下から表れたのは、教会に着ていくような無彩色のドレスではなく、機動力と防御力を兼ね備えた革の戦闘服だった。
 慌てて身を起こそうとした怪物は、少女による容赦のない足蹴を受け、マウントを取られる。交差するように締められた二本のベルトに、錐めいた刀身を持つ短剣がいくつも挿してあるのを見、彼は慄然とした。針のように鋭く研ぎ上げられた切っ先が、威圧ほどにも使えない模造品ではなく、正真正銘の実戦用であると示す。そのうち一本を引き抜く少女の動作もあまりに手慣れて、賭事師がカードを引くがごとくの気安さだった。
「ね、何度も言うけど、動かないでよね。そうしないと痛いから。『狩猟に際して不必要な苦痛を与えるのは動物倫理学に照らしてナントカ』で、支部にクレームが来るんだ。本当なんだって」
 もちろん吸血鬼は少女を振りほどこうとしたが、それを押さえ込む少女の力は恐ろしく強かった。喉首をしっかりと掴まれ、身動き一つできない。控えめに言っても人間の筋力とは思えなかった。彼は狼狽し、その間にも少女は右手を振り上げて、怪物の左腕に短剣を突き立てていた。

 激痛だった。吸血鬼は悲鳴を上げた――正確に言えば、悲鳴になるはずだったが呻きにしかならなかったものを漏らした。いかに強大な怪物といえど痛覚はある。そして少女の言によれば、これは「不必要な苦痛」のうちには入らないのだった。彼は全身が引き攣るのを感じながらも、脱出の契機をなんとか見計らっていた。的確に腱を貫いた短剣で、左腕の動きは完全に奪われていたが、それでもまだ手立てが無いわけではなかった。
「よし、よし、そうやってじっとしてるのが一番賢いんだよ。解る? 結局最初から動かないか、後から動けなくなるかのどっちかなんだからさ……」
 少女が二本目の短剣を抜き、ほとんどノーモーションで右腕へ振り下ろした瞬間、彼は奥の手を実行に移した。日頃コウモリに変化するときのように、全身へ魔力を漲らせる。だが、彼の肉体がコウモリや、あるいはオオカミだのイノシシだのといった有形の獣に変わることはなかった。銀光を放つ鋼が穿とうとしたのは、赤黒くどろどろとした液状の物体だった。

 錐めいた短剣はそのまま柔らかな地面を抉り、少女の手に不快な感触を伝えた。溶けた屍肉のごとき物体が、冷たい鋼の脇をずるりと抜ける。
「は、ウッソだろ!? あんたらウピルってのは、」
 咄嗟に少女は体勢を崩したが、すぐに立ち上がって短剣を構え直した。少なからぬ驚きの篭った声が静寂を破る。
「一度受肉したら、そんな姿には戻らないはずだってのに! 畜生、支部のやつらまた教えてくれなかった、大事なことばっかり!」
 苛立ち紛れに叫び、舌打ちする少女から、不定形の姿となった吸血鬼は地を這いながら距離を取る。教えてくれなかった? 当然だ。誰にも知られないよう隠してこその切り札だからだ。彼は今までに数えるほどしか、この「受肉前の姿に戻る」という手を使ったことがなかった。一度こうなれば、再び人型になるまで40日かかる。それまで生き血も啜れず、ただ飢えて待つというのはできれば避けたいものだ。とはいえ今回は急を要する。まずは逃げることだ。なに、日を改めれば御馳走にありつく機会はいくらでもあるのだ。ちょうど世人が四旬節の断食を終え、盛大な宴を催すように――
「しょうがない、トロイカ!」
 だが、すっかり夜闇に紛れつつある吸血鬼ウピルは、完全に難を逃れたわけではなかった。地面から短剣を引き抜いた少女が、何者かに向かって鋭く呼びかける。人間の耳らしきものを持たない身体でも、彼はそれを確かに聞いた。

「――おお、ペルーンよ、至高の神よ! 雲の中にいます炎、輝ける指を持つものよ!」
 声はいくらか年嵩の、紛れもない男のものだった。その厳かな響きで呼ばれた名に、古の吸血鬼は覚えがあった。言葉として聞いたのは初めてだったかもしれないが、言わば不死の者としての本能が理解したのだ。正教が広まるよりも遥か昔、ルーシの大地を統べていた神々の一柱――それがペルーンだ。今となっては称える者も少ない、現代の信仰から遠く離れた存在のはずだった。
「その御手に林檎を握りたまえ、三つの聖なる黄金きんの林檎を! それらを天より投じたまえ、三つの強き稲妻として!」
 彼は見た。公園を横切る並木道の終端に、一人の若者が立っている。褪せた栗色の髪と、満腹した吸血鬼よりは不健康そうな肌、そして地味な色合いの外套という、単体で見れば特徴に欠けた姿だった。が、その右手には背丈ほども長い杖を握っていたし、何より杖の上端には、六角形を中心とした幾何学模様の金属板が括り付けられていた。ペルーンの聖印だった。
 吸血鬼は悟った。あれは魔術師だ。自分が見えているかどうかは解らないが、恐らくそんなことは関係がない。あの呪文を全て唱え終わったとき、自分の命数は尽きるだろう。にわかに遠雷が聞こえ始める。古々しき神が駆る馬の嘶きが。

「一つはわが供物の楢に! 一つは異教の厩の上に! そして、」
 夜空に紫の光がひらめき、間髪入れずに轟音が上がった。雷が落ちたのだ。それも至近に。ちょうど聖ニコライ教会のある方角だった。聖堂の避雷針にでも当たったのだろう。だが、最後の一つは――
「最後の一つは誉れなき、死者の真白な帷子の上に!」
 視界に満ちる眩い光によって、その答えは示された。空から放たれた稲光は、夜闇を引き裂くような雷鳴と共に、過たず吸血鬼の影なき身体を焼き尽くした。

  * * *

 ぺたぺたと濡れた足音が、石畳の向こうから響いてくる。
 随分とよれた外套を身に纏い、焼け焦げた敷石の前に佇んでいた男は、音のする方を顧みては顔をしかめた。
「なあ、アリサよう、その『お嬢さんジェーブシカ』はタクシーじゃねえんだぞ。お前は水の精を何だと思ってんだよ」
 理由は明白だった。金髪に金の目をした幼い少女が、青白い肌のルサールカに負ぶさった状態で、呑気に近付いてきたからだ。
「だって、わたしが走るより速いんだからこの手っきゃないじゃん。ウピルのやつ妙にすばしっこいし、妙な術は使うしさ、本当にあんなの聞いてないんだよ。後で支部に文句言っといてよね」
「文句がそのままこっちに返ってくるだけじゃねえかな」
 男がうんざりしたような溜息をついた。 「それで、アリサ――」
「仕事の間はセミョルカ、でしょ」
 伝承によれば「馬が駆けるよりも速い」とされるルサールカの、濡れた肩口に頭を乗せたまま少女が遮る。
「うるせえな、どうせもう吸血鬼は何も聞いちゃいないんだ。お前はアリサだし、おれのことはもうマクシム・アンドレエヴィチと呼べ」
「はいはい、ようく解りましたとも、マックスのおっさん」
「誰がおっさんだ! まだ26だぞ、お前とはたったの7つしか離れてない!」
 男は頑として抗議したが、少女のほうは何処吹く風だった。泥にまみれた白い腕を後ろに回し、ベルトに吊られていた二つの道具を取り出す。それは短剣ではなく、サンザシの木を削って作った杭と、何処にでも売っているような大型の金槌だった。
「で、ウピルは?」
 彼女の問いに、男は地面を顎でしゃくる。真っ黒に変色した敷石の上に、まだ生々しい血色をした心臓が転がっていた。言わば吸血鬼の核となるものだ。
「凄い、刺身にして食べられそうな鮮度」 少女が凄惨な軽口を叩いた。
「じゃあ、これを済ませたらわたしはパーティーに出られるし、マックスのおっさんはくたびれた身体を休められるし、トゥズは――『フセーヴォロド・キリロヴィチ』は安心して説教を聴きに行けるわけだ。良かったね、夜が明ける前に寝られて」
「許可なく人の身体を老化させるのはやめろ、おれだってまだ徹夜ぐらいどうってことない」
 男の文句をやはり聞き流しながら、少女は杭を肉塊に宛てがい、勝利の鉄槌を振り下ろした。

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