両手に大荷物、二の腕に傘、肩に膨れた鞄、下半身は靴から下着までずぶ濡れ。

#1 災厄のはじめ

 それがおれの現状だった。つまり最悪ってことだ。こうなったのもあの観光客のせいだ。いや、そもそもおれがネフスキー大通りなんか歩いていたせいだ。違う、全ては復活大祭だってのに人を呼び出す支部の連中が悪いんだ。そうに決まっている。確かにおれは正教徒ハリスティアニンじゃないが、だからって日曜日の朝から働かされる謂れはない。

 まだ氷が切れ切れに浮かぶネヴァ川を渡り、文化センター近くの細い路地を黙々と歩きながら、おれは先刻の出来事を引きずっていた。元はといえば今日の朝方、世界魔術師協会サンクトペテルブルク支部の書記局から突然電話が掛かってきて、やれ確定申告のための書類に不備があるだの何だのと言われ、身分証明書ほか必要なものを全て持ってこいと命令されたところからだ。明け方まで働いて寝不足だったおれは、目を擦りながら行ったら行ったで税金とは全く関係のないお小言まで聞かされた。こちとら申告するほどの収入もないのに、どうして毎年こんな七面倒なことをやらなきゃならないのか。おれは書類の確認が終わるまでの間ずっと、「諸外国が思うロシア文学の登場人物」みたいな憂鬱そうな顔をして、スマホの画面を凝視し続けていたものだ。
 やっと解放されたときにはもう11時だった。おれはさっさと帰って寝直したかったから、いつも通るような狭くて人気のない回り道じゃなく、目抜き通りを突っ切って戻ろうと決めた。それがいけなかった――夏の一番過ごしやすい時期ほどではないにせよ、昼前のネフスキー大通りは観光客で溢れている。泥水にまみれた春先のロシアを知らない連中が。

 有名な(おれは一度も入ったことのない)「文学カフェ」の前で学生らしき二人組が、周りをろくに気にせず自撮りをしようとしているのをおれは見た。通行の邪魔だと思いながら後ろを通り過ぎようとした瞬間、案の定そのうち片方が濡れた石畳で足を滑らせた。そこまでは別にいい。他人の悲劇だ。ところが、支えを求めたそいつが咄嗟にひっ掴んだのが、よりにもよっておれのコートの裾だった。
 視界がひっくり返り、尻に鈍い痛みが走った。冷たい水は瞬く間におれの安いズボンへ浸透してきた。先に起き上がった学生のほうは、無事だったもう片方と慌てたように顔を見合わせ、水溜まりからなんとか体を起こしかけていたおれを見下ろし、逃げるように去っていった。控えめに言っても人としてどうかしてるんじゃないか。外国で訴訟沙汰になりたくなかったせいか、単にロシア語が喋れないからか。それにしたって謝りようはいくらでもあるんじゃないのか。
 おれは事故の拍子に転がった傘を回収し、支部から預かってきた荷物の無事を確認し、濡れた鞄を肩に掛け直して、今度こそ無難で安全な脇道へ避難した。空は久々に晴れているのに、おれは心も体も泥まみれだ。やっぱり大通りに出るんじゃなかった。もしくは、45ルーブルぐらいケチらず地下鉄に乗ればよかった。さらに言うなら、45ルーブルぐらい支部が必要経費として出してくれればよかったんだ。
 もちろん、こんなことばかり考えていても仕方がないのは解っている。おれはなるべく明るい話題について考えようと思った。今日は復活大祭だ。ということは光明週間が始まって、家主のフセーヴァが食卓に肉やら魚やらを盛大に並べるってことだ。なにしろものいみを「しなくてもいい」んじゃなく「してはいけない」一週間だから、酒もチーズも解禁だし、ウォトカ造りだって再開だろう。おれはスーパーマーケットからペットボトル入りのクワスなんかを買ってきて、「これは酒、これは酒」と念じながら飲んだりしなくてよくなる。少し気分が上向いてきた。
 やがて、並木の向こうにおれたちの家が見えてくる。塗装のあちこち剥げた三階建ての、大家によれば「歴史ある古都の風情が色濃く残る」建物だ。一階の出入り口には「Пиковая дама」とサインが掲げられ、その横に掛かった額の中では、花を手にしたスペードの女王が冷ややかな横顔を見せている。――スペードの女王ピーカヴァヤ・ダーマ。それが商売人としてのおれたちの名だった。

 勝手知ったる「我が家」の扉に手をかけたところで、異変に気が付いた。鍵が開いている。おれはすぐさま、このスカスカな共同住宅コムナルカに巣食う僅かな住人の動向を思い返した。フセーヴァはまだ教会にいて片付けを手伝っているはずだし、アリサは知り合いと大斎明けのパーティに出ると言っていたから留守のはずだ。いや、この二人にしろ大家にしろ、たとえ家にいたって正面の鍵は必ず掛けたままにしておく習慣だった。おれたちのような仕事だと、戸締まりにはひときわ用心せざるを得ないのだ。
 おれは古びた扉を叩き壊さない程度に強くノックし、中の反応を伺ったが、特に何の返事もなかった。でも、それぐらいは予想済みだ。
帰ったぞヤー・ドーマ!」
 遠慮なく中に踏み込み、ホールと呼ぶには小じんまりとした玄関を見回して声を上げる。高い天井におれの言葉が反響する。続けておれは耳を澄ました。もし中で何かおかしなことが起きているなら、家付き精霊ドモヴォーイが見過ごすわけがない。そこへ住民が戻ってくれば、すぐさま留守中の出来事を知らせてくれるだろう。ところが現実は、細く狭苦しい廊下の奥まで、元どおりの静寂が広がっているだけだった。とすると、鍵の締め忘れ以外に変わりはないということなのか。
 壁に荷物をこすらないよう苦心しながら、おれは薄暗い通路を奥へと進む。次に開けたのは共用の台所だった。単純に玄関から一番近い部屋だからだ。ここにも誰もいない。洗濯室も異常なし。廊下を挟んで反対側にある集会室にも問題はなかった。が、次の瞬間おれは気付いた。突き当りのすぐ横手にある部屋の戸口から、本当に控えめながら、一筋の光が漏れ出している。あそこは空室だ。扉が開いているのはおかしい。

 通路を塞ぐように荷物を全て下ろし、濡れて重たくなったコートを脱いで、早足に部屋の前まで行った。入り口横の壁に張り付いて様子を窺うと、確かに中から物音がする。ドモヴォーイが立てる音じゃない。もちろんネズミや猫でもない。おれはズボンのポケットに手を突っ込み、雷神ペルーンの聖印を握り締めた。深呼吸。
 なるべく開閉音を最小限に抑えるつもりで、そっと扉を押し開ける。けれども古い、そして滅多に開けない入り口は、当然のように耳障りな軋みを上げた。これならもっと大きな音を立てて、威圧するような開け方をすればよかった気もする。段ボールやら元住人たちの家具やらが詰め込まれた室内は、戸口からではろくに見通しが効かない。音だけは絶えず聞こえる――今ちょうど何かの引き出しを動かしているようだ。背の高いタンスの影に隠れて、おれは静かにそちらを覗き込んだ。
 そして見た。おれに背を向けるようにして、家人でもドモヴォーイでもない人影が、開き戸の外れかかった古い食器棚を漁っていた。手当たり次第に物を投げ散らかすのでなく、全ての収納箇所をひとつひとつ確かめるような動きだった。格好としては随分きちんとしていて、汚れていないシャツとスラックスを身に着けている。食うに困って忍び込んだ空き巣には見えない。が、家宅捜索に来た国税庁の職員にも思えなかった。おれは意を決した。
「おい、お前そこでなにゅ……何やってんだ!」
 意を決しすぎたせいか、渾身の威圧を途中で噛んだ。これで死んでも死にきれなくなった。

 人影はおれの失態を笑わなかったし、いきなり襲いかかってもこなかったが、当然ながら威圧されてもくれなかった。昔なじみに声を掛けられたような自然さで、白いシャツを着た背中がくるりと向きを変え、タンスの裏から半身を出したおれを見た。
 そいつは若い、少なくとも26のおれよりは若い男で、白い顔に見事な笑顔を張り付けていた。おれは子供のころ博物館で見た、古いプロパガンダ・ポスターを思い出した――つまり、労働服か軍服を着た爽やかそうな若者が、にこやかに笑いながら片手を挙げていて、枠の外には真っ赤な文字で「ソビエト人民に栄光あれ!」とか「コムソモール――若き同志たち!」とかいうスローガンが書いてあるやつだ。いっそ不気味なぐらい見栄えがよくて、背筋が寒くなるほど親しみに満ちた顔だった。
「やあ、こんにちは!」
 見た目どおりの朗らかな声で、そいつは挨拶した。 「ちょうど良かった。昼にはお帰りだと伺いましたから」
 もしもこの男が、例えば半世紀前この部屋に住んでいた青年団員の幽霊で、「そちらこそ何ですか、ここは私の部屋ですよ」だとか言い出したとしても、おれは全く不思議に思わなかったろう。けれどもそいつは間違いなく生きた人間で、肉体に魂がきっちりと収まっており、自分がコムナルカの住人でないことも理解しているようだった。
「いいか、先に答えてくれ。その、質問に。お前はここで何をしてるんだ」
 ポケットに突っ込んだままの手で、聖印の感触を確かめながら、おれは正式な居住者としての優位性を保とうとした。だいぶ無駄な足掻きだとは思ったが、やらないよりはマシだ。
「ああ、すみません、予告もなく。でもお解りでしょうが、査察というのはそういうものですからね」
「査察?」
 嫌な響きの言葉だった。ペテルブルクで働く魔法使いにとって、「確定申告」と同程度に嫌われているだろう単語だ。いや、きっとロシア全土の魔法使いが忌み嫌っているに違いない。極東管区ではご機嫌伺いに毛が生えた程度の手ぬるい確認しかなされない、とかいう話は聞いたことがない。
「査察ってのは、要するに、支部からの査察? お前、どう見ても監察官には――」
 せいぜい大学生ぐらいにしか見えない相手を前に、訝しんでおれが言い掛けたときだ。

「おお、なんだマックス、帰ってたのか。遅かったな」
 後ろから呑気な声がおれの名を呼んだ。前方に向けて気を張り詰めていたおれは、もう少しで飛び上がりそうになった。振り返るまでもなく、おれの隣まで見知った顔が進み出てくる。何の面白みもない薄手のタートルネックとズボン。薄くなってはいないが、もうずいぶん白髪の割合が多くなった髪。「スティーブ・ジョブズになり損ねたまま退職時期を迎えつつある人」みたいな姿だった。フセーヴァだ。
「フセーヴォロド・キリロヴィチ」
 おれが何か言う前に、旧ソ連のプロパガンダ男が口を開いた。随分とご丁寧な呼び方だ。おれたちの中でフセーヴァをそんなふうに呼びつけるやつはいない。お陰でおれは彼の苗字が「イワノフ」だってことを時々忘れかける。
「この部屋の検分はじきに済みます。今のところは万事遺漏なしですのでご安心を。――こちらの方が、」
「さっき話したマクシムだ。うちの主力だよ。まあ宜しくしてやってくれ」
 フセーヴァはおれの肩に手を置くと、投げやりにも程がある簡素さで紹介とも呼べない紹介をした。プロパガンダ男の口元が緩む。
「やっぱり。それじゃあ、改めて自己紹介したほうがいいですね。いつまでも見知らぬ人が目の前に居座っているのは、ずいぶん勝手が違うことでしょうし」
 自己紹介したところで「見知らぬ人」が「よく知らない人」に変わるだけだとおれは思うが、そいつは他人同士がそれだけで十分打ち解けられるとでも考えているらしい。おれたちの立つ場所まで距離を詰めると、いかにも温和そうな声色でこう言った。
「ぼくはリュドミール、リュドミール・アレクサンドロヴィチ・ストレルニコフです。初めまして、マクシム・アンドレエヴィチ」
 差し出される右手。おれはしばらく考えて、ポケットの中でぬるんだ聖印を離し、まっすぐ前に腕を伸ばした。大分と汗ばんでいただろう手は、ぐっと力を込めて握り返された。
「えー……リュドミール・アレクサンドロヴィチ?」
「どうぞリューダと。もしくはリューセンカ、リュードチカ、なんだって構いませんよ」
「リュドミール・アレクサンドロヴィチ」
 おれは頑として繰り返した。いくら年下だからって、身内でもなけりゃ小さな子供でもない相手を「リュード坊っちゃんリュードチカ」なんて、気色が悪いにも程がある。
「あー、その、ちょっとタンマで」
 とにかく今は、よく知った相手と喋って状況を整理したかった。表面上無害そのものの笑みを浮かべたプロパガンダ男に背を向け、おれはフセーヴァの腕を掴んでタンスの影に引っ張り込んだ。

「なあフセーヴァ、あれ本当に」
「サンクトペテルブルク支部の監察官だよ。朝方、ちょうどお前が家を出たころじゃないかな、携帯に電話が掛かってきて、抜き打ちをやるから一人は居てくれと。仕方がないから途中で抜けてきたんだ。ゲオルギイ神父は残念がってたがね」
 おれたちは顔を寄せ合い、低く抑えた声でひそひそと言葉を交わした。鈍い緑色をしたフセーヴァの目には、諦念じみたものが浮かんでいる。
「マジで? だってあれ絶対おれより年下だろ? こないだ入門生ウチェニイクから魔術師チャロデーイに上がったばっかりです、みたいな顔してるのに」
「俺もそう思ったが、会員証も見せられちゃ信じるほかないさね。きっと何か、監察局長の親戚筋とか、知り合いの息子だとか、そういう訳があるんだろう。俺たちがどうこう言える次元じゃない」
 よくあることだ、とばかりにフセーヴァが息を吐いた。おれは絶句し、直立不動で待っているプロパガンダ男の顔をちらちらと見た。そうしている間にも、おれの脳内ではやつの来歴に関する具体的な想像が膨らみつつある。きっと良いうちで――金持ちだとか権力者だとかじゃなく「善良な」うちで育った一人っ子ってところだろう。スヴォーロフだかナヒモフだか、軍の幼年学校で思春期を過ごし、卒業すると同時に何の疑問もなく兵役へ行って……律儀に一年間勤め上げた後は、どういう訳だか魔術師協会を就職先に選び、半年の職業訓練の締めくくりとして、ここでケチな仕事をひとつ仕上げようとしているわけだ。そうに違いない。
「……それで、朝からずっとこの調子か?」
 おれは訊いた。そうだとすると酷く緩慢なペースだ。本当に一部屋一部屋、律儀極まりない丁寧さで確認しているんだろう。昼過ぎてようやく地階が終わろうとしているのに、この築100年は経過したコムナルカにはまだ上があるのだから。
「『概ね』こんな調子だよ。俺は本当に親切心で、空室には特に何もないから見なくていい、と言ったんだがね」
 フセーヴァが肩を竦める。おれはまた監察官のにこやかな顔を一瞥した。いくらやる気と行動力に満ちた魔術師でも、三階建ての共同住宅をたった一人で全て検分するのは重労働に過ぎるだろうに、そいつは何の問題もありませんという態度で立っている。

「あー、えー、リュドミール・アレクサンドロヴィチ。改めてお勤めごくろうさん。でも一日ぶっ通しで、それも一人で働くってのは骨だろ。今日のところは一旦切り上げるか、せめて休憩を取るかするってのは?」
 タンスの影から出て向き直り、おれは仕切り直しの提案をした。といっても査察は査察だから、「今日はこのへんで」が通じないことぐらいは解っている。おれはただ一時間か二時間、食事をして仮眠を取るだけの余裕が欲しかっただけだ。
「ご親切にありがとうございます。でもお構いなく。この部屋が終わったら切り上げますよ、今日だけで全て終わらせるわけではありませんしね」
「へ?」 予想外の言葉が返ってきたので、おれはぽかんとして間抜けな声を上げる。
「おっしゃる通りぼくだけの力では、一日でお宅を隅々まで見回るのは不可能です。それでも一ヶ月か、どれだけ丁寧にやっても半年あれば、委細のことを報告書にまとめるには十分でしょう」
「半年?」
 ほとんど無意識の情けなさがおれの声に追加された。このプロパガンダポスター顔が半年間も自宅兼事務所に通ってくるなんて、考えただけで生きた心地がしない。
「いや、その……こんな場所まで何度も往復するなんて大変じゃないか。おれたちと違って、あんたは支部に勤めてるわけだろ? 当然そっちに便利のいいところへ住んでるだろうし」
「そうですね、現在のところは常勤の職員です。もっとも、立地でいうならこちらのほうが近いぐらいなんですよ。ぼくが住んでいたのは郊外の、ヴォロダルスカヤのあたりなもので」
 街の外郭、ちょうど庭や畑付きの別荘ダーチャが並ぶ地区の名を挙げてそいつは答えた。確かにその辺りよりは、おれたちが住む地区のほうがよっぽど中心街に近い。市電やバスや、地下鉄の駅だって複数ある。おれみたいに金をケチって徒歩で通勤するには、少々くたびれる距離かもしれないが。
 ――いや、待てよ。「住んでいた」って言ったか?

「つまり実家が……その辺りで? 今は職員寮とか?」
「ああ、いいえ、今でもそこに住んではいますよ。ただ、これからは住む場所が変わるというだけで」
 問いかけに込めたおれのささやかな希望は、柔らかく丁寧に踏みにじられた。おれにはもう解る。こいつが言わんとすることが。
「リュドミール・アレクサンドロヴィチ」
 おれは目を泳がせながら言った。 「もしかすると、これからはここに住む? あんたは?」
「そうです」
 サンセリフ体で「友好的」と大書したような顔が頷いた。解ってはいたが絶望だった。大斎明けのご馳走や自家製ウォトカの幻想は、とうにおれの頭から消え去っている。おれは今日から、この社会主義的理想のカリカチュアみたいな男と、台所や風呂や便所に至るまでを共用しなくちゃならないのだ。向こう一ヶ月か、長くても半年は。
「もうお一方の、ええ――アリサ・ルキーニチナ、彼女にはまた後ほどご挨拶しますが、それを含めてみなさんと仲良くやっていけるよう努めます。どうぞご指導のほど」
 プロパガンダ男は最後まで隙のない笑顔のまま、おれへの挨拶を締めくくった。

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