薄目を開けると、眩しく差し込む朝の光。漂ってくる紅茶の香り。

#4 早起きは300ルーブルの徳

 最高の目覚めだと思うだろ? おれは誰にともなく心の中で話しかける。違うんだよな、これが。太陽光が入る時間に目覚めるってことは、しなくてもいい早起きをしたってことだ。おれが住む16号室は窓やら何やらそういう造りになっている。
 そして紅茶の香り、これは人によって全く違う。誰だって朝食のときには何か飲み物を作るけれど、フセーヴァは「朝といえばコーヒー」党で、紅茶を淹れるのはそれこそ「お茶の時間」だけだ。アリサが飲む「お茶」はルイボスだか、ジュニパーだか、何だかいうハーブの類ばかり(つまり、そういうものがダイエットや美容に良いと信じてるんだな、あいつは)。今おれの鼻先に漂っているのは、誰にでも馴染みのあるアールグレイの香気だ。あれはおれの紅茶だ――おれの紅茶を誰かが勝手に飲んでいる。これが最高の目覚めか。畜生。
 身体に絡みついたキルトを引き剥がしながら、おれは枕元の携帯を掴んで時刻を確認した。朝の7時12分。なんて健康的な時間だ。おかげで実に不健康な気分だ。背もたれが自立しなくなったソファ兼ベッドを降りて、きちんとしたシャツとスラックスに着替え、髪を最低限に整えても、おれの瞼は重たく視界は狭い。目を擦りつつ部屋を出、子供と老人と怪我人に一切配慮のない急な階段を下れば、食堂はもうすぐそこだ。

「やあ、おはようございます、マクシム・アンドレエヴィチ!」
 開け放たれた食堂の敷居をおれが跨ぎかけたとたん、快活な声が奥から飛んできた。重々しくそちらに目をやれば、椅子の一つから若い男が立ち上がって、湯気を立てる耐熱グラス片手に、爽やかそうな笑顔を向けているのが見える。寝起きに見るには親近感を持たせすぎた顔だ。もっと適切な心理的距離を保ってくれと言いたい。
「……何?」
「ですから、おはようございます」 そいつが朗らかに繰り返した。
「二日も続けて晴れですよ。もう本格的に春なんですね。これから出かけようという時に、天候が安定しているのは嬉しい限りで」
「なんで、お前が、茶を飲んでる?」
 おれは天気の話を遮って食卓へ近付き、低く問い質しながら相手を睨む。寝起きだから目つきの悪さも二割増しだ。ところがその若い男、つまり昨日から住み込んでいる世界魔術師教会サンクトペテルブルク支部の監察官は、一瞬きょとんとしただけで、
「ああ、これですか? フセーヴォロド・キリロヴィチが、ぼくも好きなものを飲むようにと言ってくださったので。朝食にはやはり紅茶がいいですね、コーヒーやケフィールも好きですが」
 だとか、何でもないような口ぶりで返してくる。
「それにはおれも同意するね。その紅茶はおれが買ったんだ」
「そうでしたか! いえ、缶のラベルには『ツァレーヴナ』とあったものですから、普通のアールグレイとどう違うのだろうと淹れたんですが、ずっと複雑で魅力的な香りがします。お茶に詳しくていらっしゃるんですね、マクシム・アンドレエヴィチ」
「ありがとうよ。ところで、この街が『レニングラード』から『サンクトペテルブルク』になったのって、もうずいぶん昔だと思うんだよな」
 おれはできる限りの皮肉を込めて言ったが、生まれてこのかたアネクドートのセンスがないと言われ続けてきたおれの皮肉なんて、通じると考えるほうが間違いだった。皮肉といえば、こんな旧ソ連のプロパガンダポスターみたいな笑顔の男が「皇女ツァレーヴナ」なんて紅茶を飲むこと自体、どうしようもなく出来の悪い皮肉だ。
「ええ、そうですね、ぼくが生まれる前のことですから。1991年、ソビエト連邦の崩壊に伴い住民投票で――」
「つまり」 おれは声を張り上げた。 「私有財産なんだよ! お前の飲んでるその茶は、おれの!」

 プロパガンダ男の灰色した目が、ぱちりと一度瞬いた。どこまでも純粋な「なぜ?」を含んだ目だった。
「でも、台所は共用なんですよね?」
「台所はな。つまり、『台所という名前のついた部屋』自体は。そこに置いてあるものの中で、誰でも自由に使っていいのは限られてる。入ったんなら見ただろ、『共有』ってデカい紙の張ってある、冷蔵庫と棚ふたつ分の中身だけだ」
 懇切丁寧に説明してやるうちにも、おれの苛立ちは増してくる。わざわざ「共有」と書いてある収納があるのに、どうしてそれ以外の場所まで共有されてると思うんだ。そりゃあ確かに、本当に誰にも触らせたくないものは自室に置いておけって話だし、実際おれもそうしている。台所だの集会室だの、「半公共」の場所に放置したものなんて、勝手に使われても仕方ないと言われればそれまでだ。そう考えればおれにだって責任は……あるのか? 本当に?
「それは申し訳ありませんでした、知らなかったものですから。彼も……ああ、そういえば」
 最初の口ぶりこそ大変すまなさそうだったが、結局心の中では特に悪いとも思っていないんだろう、プロパガンダ男はさっさとプロパガンダ的笑みを取り戻し、話題を切り替えようとしている。知らないってことはないだろ、とおれは言いかけたものの、確かに昨日は風呂を案内しただけで、台所やその他の共用部については一切触れていなかったことを思い出し、口を噤んだ。
「そのフセーヴォロド・キリロヴィチから、あなたにも伝えるようにと言われたんでした。9時になったら玄関ホールに集合して、今回の事件現場であるシュヴァロフスキー公園へ向かうようにと。アリサ・ルキーニチナも自室で準備中だと思います」
「はあ」
「ぼくも支度ができたらまた来ますので」
「はあ、……は?」
 胸中のもやもやを抑え込むことにかかり切りだったおれは、滔々とした説明をほとんど聞き流していた。けれども明らかに違和感のある一文まで流しはしなかった。
「来るの? お前も?」
「はい、もちろん。お解りでしょうが、査察というのはそういうものですからね」
 昨日も聞いた気がする台詞と共に、そいつは受け入れ難い事実を平然と提示した。なるほど、支部の査察というのはつまり、登録されている魔術師が隠れておかしなことをしていないか、普段の職務に不適切なものはないか確認するのが目的なわけで、おれたちが仕事に出るとなれば、監察官として同行するのは当然だ。ああ、お解りだともよ。

「リュドミール・アレクサンドロヴィチ」 おれは努めて冷静そうな声を出した。
「フセーヴァは来ないんだよな? 確か昨夜ゆうべそう言ってた」
「そうですね、ここに残って作業をすると伺っています」
 作業。この分だと詳しい内容までは聞かされていないんだろう。仕事に関係のある何か、ネットでの追加調査やら関係各所へ電話での聞き込みやら、そういった事務作業をするとでも思っているのか。お生憎様だな。フセーヴァのいう「作業」ってのは、台所に謎めいた機械を山ほど並べて新しい自家製酒サマゴンを仕込むってことだ。リットル単位で。
 まあ、仕事に全く関係ないとも言えないか。燃料なしで車は走らないし、アルコールなしで祓魔師ヴェドマークはできない、そういう理論だ。
「お前も監察官ならさあ、例えば……このコムナルカで一人きりになったフセーヴァが、何かお前には詳らかにできないようなことをするとか考えないのか?」
 おれは揶揄するつもりで言ってやったのだが、とたんにプロパガンダ男は眉根を寄せて深刻そうな顔になり、
「そういった傾向がある方なんですか?」
 と訊いてくる。これは完全におれ自身の過ちだった。さっきよりは大分解りやすい冗談だから通じるだろうとかいう話じゃなく、そもそもこの男は職務に対して真っ正直すぎるだけなのだ。
「いや、……悪かったよ。今のは嫌味だった。フセーヴァはそんなことするやつじゃない」
「そうでしょうとも。彼はとても面倒見の良い、誠実な方です。ぼくにも断食明けのご馳走をしてくださいましたし、朝食にも好きなものを飲ませてくれ――」
 力なく息を吐きながらおれが訂正すると、監察官の顔は再び和やかな笑みに満ち溢れた。が、続いておれたちのリーダーを称える途中、言葉を不意に途切れさせた。そうだ、紅茶の件に関しては、褒められるべきはフセーヴァじゃない。おれだ。
「――ええと、マクシム・アンドレエヴィチ」
 あくまで表情を変えずに監察官は言った。 「どうも、ごちそうさまでした」
「300ルーブルだよ」
 紅茶一杯にしては法外な値段を言い捨て、おれはそのまま食堂を出た。あの雰囲気代がかさみにかさんだ「カフェ・アルトゥール」だって、紅茶はたったの90ルーブルだ。そう考えれば法外も法外なわけで、これを真に受けておれに「代金」を渡してくるようなことがあれば、今後あのプロパガンダ男に対して一切の冗談を慎むよう、おれたちは肝に命じなきゃならないだろう。

 顔を洗い、集会室でフセーヴァに挨拶してから戻ってくると、朝食をもう終えたらしい監察官はいなかった。テーブルの上には金属製のホルダーポトスタカンニクが残されている。本当なら、グラスだけじゃなくてこっちも片付けろよ、と舌打ちの一つもしていいところだ。が、果たして――
 普段熱いグラスが収められる場所には、二つ折りにされた紙が立てられていた。100ルーブル紙幣だった。手に取って開いてみれば、ボリショイ劇場の3頭建て馬車が間違いなく印刷されている。それが3枚。
 これからは大分言葉に気をつける必要がありそうだ。

  * * *

「気をつけろったって、ねえ」 いかにも鬱陶しげな声。
「監察官に睨まれてる時点で気をつけるもクソもないんじゃん? 今更冗談はよしとけ回りくどいことは言うな、なんて遅いよおっさん」
 おれより先に玄関ホールへ来ていたアリサは、呆れたような軽蔑するような、少なくとも友好的でない目でこちらを見た。こいつは発言数回につき一回はおれを「おっさん」呼ばわりする自己目標でも掲げているんだろうか。目的と全く関係のない行為を繰り返したところで、ゲームみたいに何らかの実績が解除されるわけじゃないぞ。
「でもなアリサ、これはマジだ。普通の監察官以上に一切冗談が通じないぞあいつは。フセーヴァのことは監視しなくて良いのかって聞いたら真剣に検討しだすし、紅茶は一杯300ルーブルだ、つったら本当に300ルーブル置いて行ったし、多分お前のことも小学生だと思ってるんじゃねえか」
「何? カツアゲしたの?」 アリサが顔をしかめる。 「そんなにお金ないの、マックス?」
「後でそっくり返すに決まってるだろ! おれだってそこまで金に困ってるわけでは……ないんだ」
 本当は大分困ってるが――少なくともチームでは一番困窮しているおれだが、いくらなんでも不法な行為に走るほどじゃない。というより、そんな気概があったら今みたいにせせこましい暮らしはしていない。いかなはみ出し者の祓魔師にだって道徳はある。
「はいはい。で、その今時珍しく心が清らかな監察官様は? 先に食べ終わったんでしょ?」
「ここに居ないってことは部屋だろ。一般市民の前での査察だからな、大層めかしこんで来るんだろうよ……」

 おれが軽口を叩いたところで、細い廊下の奥から足音が聞こえてきた。昼間でも薄暗い通路では、誰が出てくるのか判別するのに目よりも耳を使ったほうが早い。フセーヴァみたいにのんびりしていない、等間隔の軽やかな足取りは、今正に話題の男で間違いないだろう。
「お待たせしました、お二人とも」
 ほら、大当たりだ。当たっていないと困る。暗がりから光の下へ歩み出てきた若い監察官は、さて、おれの予想ほどめかしこんではいなかった。おれはてっきり、協会制式の黒いマント付きローブ一揃いで現れるとばかり思っていたが(式典と定期監査のとき以外に着る機会なんてろくに無いし)、しかし実際はごくありふれた、濃い灰色のロングコートとスラックスに革靴という姿だった。ただし、首元には普通のネクタイではなくスカーフを巻いていた。サンクトペテルブルク支部の所属を表す赤色のやつだ。
 全体像を見て、おれの脳裏に「政治委員ポリトルーク」という単語が浮かんだのは間違っていないと思う。監察局がやってることも大体そんな感じだしな。
「ううん、まだ9時前だし。じゃ、出発しよっか――地下鉄は定額券持ってる? ないんだったら自腹になるかも。一応あとで請求できるはずなんだけど」
「問題ありませんよ、今までもずっと電車通勤でしたから。歩いて行くには少々遠いですからね、シュヴァロフスキー公園は!」
 プロパガンダ男はコートの胸元を抑えて(そこに定期入れか何かが収まっているんだろう)、快活に笑った。どうして朝からこんなに快活なんだろうか。いや、普通の市民はおれと違って、朝の9時にはすっきり覚醒しているものなんだよな。体内時計とか、生活リズムとか、そのへんの関係で。
「それなら良かったけど。――ねえ、せっかく晴れてるんだし、もっと薄着したら? 陽の照ってるうちに浴びなきゃ、日光を」
 等と主張するアリサは、もちろん上着なんか羽織っていない。ばかりか袖も襟もないようなトップスに、丈の短いジーンズという姿だ。こういうやつが「ロシア人は真冬に裸でいても平気だ」みたいな陳腐すぎるステレオタイプを加速させているんだろう。実際はアリサだって、晴れの日に薄着でいるその他のロシア人だって寒いに決まってる。これはただ、ペテルブルクでは太陽光が貴重すぎるせいなのだ。
「ええ、本当はそうしたいところなのですが、ぼくは寒いのが苦手なものですから。身体は冷やさないに越したことはありませんよ、女性だけでなく男性も」
 コートのボタンを一番上まできっちり留めた監察官は、聞き入れられるはずもない忠告でもって台詞を終えた。ふうん、と気のない調子でアリサが鼻を鳴らした。会話はおしまい、ここからは行動だ。

 おれたちの住むコムナルカから現地までは、路面電車と地下鉄そしてバスを乗り継ぎ1時間半かかる。車ならなんとか1時間を切るが、おれたちの(いや、厳密に言えばフセーヴァの)所有する中古ちゅうぶるラーダに監察官殿を乗せるのは躊躇われた。準備が整ってない。具体的に言うと、昨日の吸血鬼退治でアリサが浴びた返り血の汚れをまだ落とし切っていない。荒事が予想されない外出には、公共交通機関を使うに越したことはなかった。
 バスの座席に揺られている間、おれは地図と資料――今朝がたフセーヴァがそっくり印刷してくれたのだ――に何度も目を通していた。公園内に水場はいくつもあるが、今回帽子と靴が見つかったのは中で最も大きな池だった。「ナポレオンのシャツルバーハ・ナポレオーナ」と呼ばれるその池が、正確にはどの程度の面積で深さはどれぐらいか、なんてことは知らないが、少なくとも人間を沈めるには十分に違いなかった。
 視線を紙束から上げてみると、アリサは少し離れた席で携帯をいじっている。プロパガンダ男はもう少し後ろ、手すりを掴んで立っていた。言うまでもなく微笑みながらだ。居たたまれなくなってそっと目を逸らした。なあ、リュドミール・アレクサンドロヴィチ、バスぐらい無表情で乗ったって誰も文句は言いやしないと思うんだけどな、おれは。

 結局バスは15分遅れで公園駅に到着し、おれたちが規制線の手前に差し掛かる頃には11時前になっていた。赤白二色のテープのすぐ前には、ウィンドブレーカーの腕に「ロシア内務省МВД」のワッペンを着けた、中年の警官が一人立っている。どこか暇そうな、死人が出たかもしれない案件のわりに長閑な空気を帯びたその警官は、近付いてくるおれの姿に気付くと片手を挙げた。
「よう、シーマ!」
 彼は――知り合いだ。ロシアにおいて警察に「知り合い」ができるというのは、倫理的に見て物凄く良いか物凄く悪いかの両極端になることがほとんどだが、幸い彼とおれたちの関係はごく穏便な、平和的な、双方に特別な利益も不利益も齎さないものだった。赤の他人より多少はマシで、命を預けられる仲間ではない。そんな感じだ。元々刑事課に居たのが、一体どんな不始末をしでかしたのか、あるいは何の不始末もしでかさなかったせいか、「魔法魔術調整監督課」みたいな名前の、それはもう滅茶苦茶に暇な部署へ流された次第らしい。どうやって食っているのかはおれにも解らない。おかみさんか息子が高給取りなのかもしれない。
「どうも、上級中尉殿」
 軽く手を挙げ返しながらおれは言い、もう片方の手では少し待つよう残る二人に合図した。こういう時に話をつけるのはおれの役目だ。
「なんだい、いつもより寝坊じゃねえか。普段は跳ね橋がまだ上がってるうちから叩き起こしにくる坊主がよ」
「寝坊じゃない、常識的なんだよ」
 合間に形ばかりの抗議をしつつ、鞄から諸々の許可書を束ねたものを取り出す。警察における捜査令状みたいなもので、あくまで立場上「民間人」のおれたちは、これがないと現場に立ち入ることができない。――はずだ。書類が一枚二枚欠けたぐらいなら、残りの束に1000ルーブル紙幣を挟んでなんとかしようとする人もいるだろうし、実際になんとかなることもあるだろう。おれは一度も試したことがない。
「へいへい、早起きの雲雀ザヴァラーナクさんよ。まあ、あんたがたの相手で時間を潰せるのは結構なことだ。他の連中と比べて遥かにやりやすいんでね」
「そりゃ光栄ですね」
「うちの若いのはそう思ってないらしいがな。『シャツ』の前に一人いる。何か言われたら上級中尉殿が許可したって返しときな」
 差し出した書類を、警察上級中尉(制服の肩章を見る限りではそのはずだが、もしかするとおれの取り違えがあるかもしれない)は罅だらけの手でぺらぺらと確認してから、通ってよし――と頷いた。

「それでシーマ、後ろのは何だ、被害者遺族か?」
 返ってきたものをおれが受け取る途中、形式上か単純な好奇心なのか、そんな質問が投げ掛けられた。おれは肩越しにちらと視線を向ける。だらりと退屈そうに佇むアリサの隣で、(表情以外は)クレムリンの衛兵みたいに直立不動を保つ男へ。
「被害者とは無関係の他人だよ。……支部の監察官だ」
「ほお、魔術師協会の監察ってのはちゃんと働くんだな。良いことじゃねえか」
 おれが辛気臭さを前面に出して答えると、内務省のお役人からはそんな返事。にやりと笑いながら、「それとも良くないか? うん?」と付け足しさえしてくる。さあ、どうなんだろう、良いのか悪いのか。監視機関が仕事をしてもしなくても、結果的に組織やその構成員が救われないなら、あんまり良いとは言えないんじゃなかろうか。
「しかし随分若いな。お前より年下だろう、あれ。何かい、あんな――まだお袋さんと同居してそうな顔のお坊ちゃんが、やれ減点だの指導だの改善だのと纏わり付いてくるわけか。魔法使いってのはモテるんだな」
「なあ、旦那――」
「冗談だよ、冗談。ま、上手くやるこったな。魔術師の待遇改善については、官民一体って訳にゃ行かねえんだ」
 魔術師なみに不遇をかこっているだろう「官」の上級中尉殿は、肩を竦めながら「民」であるところのおれ(世界魔術師協会は間違いなく非政府組織だ――国によって若干怪しい節もあるらしいが)に、励ましらしき訓辞を与えた。おれは溜息をもって返答に代え、再び手振りで後ろの二人を呼び寄せた。

  * * *

 「ナポレオンのシャツ」周りは静まり返っていた。そりゃあ野次馬で賑わっているはずもないが(何のための規制線だ)、懸命の捜索活動が行われているという風でもない。幻想種がらみの失踪事件となれば、ろくに動きがないのも納得だ。精霊に「隠された」――あくまで控えめな表現であって、実際は娶られたり殺されたり喰われたりしている訳だが――ものを、普通の人間が探したって見つかるもんじゃない。
 実際おれたちの前には、さっき上級中尉殿が言ったところの若い警官が一人、申し訳程度に「勤務中であります」というような愛想の悪い顔をして、手元の何か(電子端末かただの帳面か)をいじったり周囲に視線をやったりしているばかりだった。水辺から数メートルのところに立つ彼もその、「魔法魔術調整監督課」か何かに流された身なんだろうか。それとも全く無関係の部署から応援にやられたはいいものの、何もできることがないので退屈をかこっているのか。
「どうも、お巡りさん――軍曹殿!」
 おれは努めてやる気のありそうな声を出し、相手の正式な階級を呼びつつその警官に近付いた。おれが兵役に捕まることによって得た、数少ない利益の一つがこれだ。警察官の階級は、肩章の模様も含めてロシア陸軍とほぼ同じなのである。
「ゼレノフスキー上級中尉殿から話が行ってるとは思うんですがね、今回の行方不明者がらみで呼ばれた、『スペードの女王』のマクシム・アンドレエヴィチです。後ろのはアリサ・ルキーニチナ、その横が世界魔術師協会サンクトペテルブルク支部監察局の――」
「リュドミール・アレクサンドロヴィチ・ストレルニコフです」
 突如として傍から聞こえた声に、おれはもう少しで飛び上がるところだった。離れたところで待っていたとばかり思っていたのに、いつの間にかプロパガンダ男はおれのすぐ後ろに立ち、カメラ向きの輝かしい笑みを湛えている。
「このたびは捜査に携わる許可を頂きありがとうございます。ぼくが責任を持って監査にあたりますので、安心してお任せください、――警察軍曹殿?」
 おれを差し置いて流暢に話し終えると、プロパガンダ男ことリュドミール・アレクサンドロヴィチは笑顔のまま首をかしげた。一方、おれと同年代だろう警官は、いかにも胡散臭そうな目でその所作をじろじろ見ている。気持ちは解る。
「お宅らが魔法使いだって?」
「いえ、ぼくは監察官ですが、魔術師では――」
「お前ちょっと黙っててくれおれが対応するから。えー、間違いなく協会に登録された魔術師チャロデーイです。証明書と許可書はここに。捜査をやるのはおれとアリサだけで、監察官はあくまで見てるだけですんで……あー、安心してください」
 微塵も安心してもらえなさそうな言い訳と共に、おれは魔術師協会の登録書を二人分差し出す。続けて監察官にも視線をやり、「お前も出せよ」と無言で訴えた。幸い、通じた。
「……マクシム・アンドレエヴィチ・エジョフ、アリサ・ルキーニチナ・マイスカヤ。共に魔術師。そっちが……リュドミール・アレクサンドロヴィチ」
 胡散臭そうな目つきはそのままに、警官は書類を検め終え、まとめておれに突き返した。それに続けて、今度は自分自身の身分証をウィンドブレーカーから取り出し、こちらへと向ける。
「サンクトペテルブルク市警のミハイル・セルゲーエヴィチ・ネスメヤーノフだ。調査を開始してよい。ただし手段については逐一説明すること」
 これで支度は整った。つまり、これから先何かあったら、ネスメヤーノフ警察軍曹殿に責任の一端を負わせる権利を得た、ということだ。権利を得ただけで行使できるかどうかは別問題だが。

 「笑わない人ネスメヤーノフ」という姓に違わず無愛想な警官を後ろに、おれたちは池のすぐ水際まで歩を進めた。今いるのは例の写真と全く同じ場所じゃない。遺留品が見つかったのがここだというだけだ。穏やかな風にアシの茂みがそよぎ、つい最近氷が解けたばかりの水面には、カモたちが行き交っては細波を立てている。どこまでも平和な公園の一角は、一見して水難の舞台となったようには思えない。いや、本当に水難があったかどうかもまだ解らない。いわゆる状況証拠しかないからな。
「えーと、あそこに落ちてたってことで良いんだよね、あれ。違わないでしょ?」
 アリサが指示語を駆使して、背景を知らなければ全く通じない質問をする。手を伸ばした先にはこんもりと枯れ草が絡み合っていて、そこに白いプラスチックの札がいくつか立てられていた。刑事ドラマでよく見るやつだ。
「……で、どれが靴でどれが帽子だったの? あと、こういう所って地面にチョークじゃ書けないと思うんだけど、その場合白線の代わりってどうしてるんだろ」
「なんか白い紐で代用するんじゃなかったか。今はどうでもいいだろ、まだ人が死んでるとは限らない」
 おれは鞄に手を突っ込み、「調査」に必要な道具をまとめた袋を取り出しにかかる。アリサの疑問については、おれより本職の警官に聞いたほうがずっと正確だろう。肩越しに振り返ってみれば、そこにはプロパガンダ男の友好的極まりない笑顔があり、そこから数メートル離れた地点には、正反対に邪険そうな警察軍曹殿の顔がある。二重の監視体制を前に、いや後ろに、おれたち民間の祓魔師ができることは少ししかない。
「ミハイル・セルゲーエヴィチ」 おれは身体ごと向き直り、警官に呼びかけた。
「犠せ……行方不明者が本当にこの地点で失踪したか、および、その失踪が人間以外の……『水のもの』による仕業であるか、確認のために調査、というか、検査を行いたいんですがね」
「具体的には?」
「具体的には――それはまあ、道具を見せながら説明する、ってことで」

 ジッパーの付いた袋からおれが最初に抜き取ったのは、直径15cmほどの木皿だ。次に、同じ長さの赤いロウソクを三本。以上。
 おれに向けられる軍曹の目が、プロパガンダ男に対するそれと同一になった。気持ちはとても解る。失踪事件の捜査といったら、当然ながら科学的見識に基づいて行われるのが普通なわけで、いきなり葬式か聖体礼儀の道具みたいなものを取り出され、これで何とかしますと言われたって困るだろう。
「まず、このロウソク三本に火を点けて」
「マクシム・アンドレエヴィチ、念のため言っておくが、シュヴァロフスキー公園は文化財保護のため一切の新規開発が禁じられている」
「野焼きをしようってんじゃないです、軍曹殿。火を点けて……溶け出したロウで、三本ともをこの皿の端に固定するんです。ちょうど釣り合いが取れるように。で、それを池に浮かべる」
「念には念を入れて言っておくが、人工物の不法投棄も禁止されている」
「軍曹殿、既に人工物どころか人工有機物まで不法投棄されてる可能性があるんですよ。――もし失踪者が『水のもの』に引き止められて、まだここにいるとしたら、木皿はちょうどその在り処で止まるはずだ」
 むろん、この方法はヴォジャノーイが関わっているときにしか使えない。単なるうっかりによる水難事故や、同じ「水のもの」でもルサールカ絡みの場合、そして人間が手を下したような場合には、木皿はただそこに浮かんで、細波に揺られては行ったり来たりするぐらいだろう。それでもやってみるだけの価値はある。

 おれはポケットからマッチを取り出し、点火した。溶けて流れ始めたロウを皿に垂らし、ロウソクをしっかり固定する。当然この作業には少々時間を取る。アリサはとうに退屈して、携帯をいじり始めている。くれぐれも事件現場を撮影してSNSに「続報」を上げたりしないでもらいたいが、こいつならまあ大丈夫だろう。
「お宅の言う『検査』の原理がいまひとつ理解できんのだが、本当に大丈夫だろうな。後で自力で回収してもらうぞ、その……皿は」
 いたって常識的な警官は、魔術師に対して冷淡なる肉体労働を示唆したが、おれの気持ちは揺らがなかった。大体、皿ぐらい「浮遊」その他の呪文さえあれば一瞬で回収できる。
「ご心配なく、ミハイル・セルゲーエヴィチ。彼は祓魔師です、こうした局面に最もふさわしい方法をご存知のはずですよ。あちらの彼女には『おっさん』などと呼ばれていますが、実力のほどは間違いなく――」
 プロパガンダ男には、……もうそろそろ黙っていて欲しいんだが、生憎おれにはヴォジャノーイに対抗する知識はあっても、他人を強制的に沈黙させる知識は無いのだった。辛いな。
 ともあれ、大して器用とは言えないおれの手によって、なんとかかんとか作り上げられた道具は、緩やかに波立つ池へと静かに進水した。したことはしたが、櫂も帆もない小舟のごとく、木皿は細波に弄ばれるばかりで、一向に霊的推進力を得る気配がない。後ろに立つ警官の視線が、凍り付いたネヴァ川よりも冷たくおれに突き刺さる。気付けばアリサさえもどことなく不審な目でおれを見ている。「おっさん、もしかしなくてもハズしたんじゃないの」とでも言わんばかりだ。お前昨日はあれだけヴォジャノーイを「やる」ことに意欲的だったくせに。
「……えー、軍曹殿? この方法には辛抱強さが必要なんですよ。それは別に科学的手法とも何ら変わりないわけでね。あなたがた警察官が現場百遍、徹底した聞き込み捜査を行うように――」
「1991年のモスクワでビッグ・マックを食べるように」
 にこりともせずに警官が言った。 「辛抱強くあれと。そうか、了解した」

 おれと彼のユーモア・センスについては弁解の余地がないとして、木皿による検査法の信憑性についてはまだいくらか取り返しようがあった。待つこと5分少々、ふいに漂う小舟がくるりと一回転し、池の中央へ向けて進み始めたのだ。
「ほら、ね、軍曹殿? こういう訳なんですよ、ねえ?」
 さっきの発言を借りるなら、行列の果てに「ビッグマック」にありついた人民のごとく勢い付いて、おれは怪訝そうな警察軍曹殿を顧みる。こうなれば後は木皿が止まるのを待つばかりだ。早起きをした甲斐があった。
 が、程なくしておれの喜びに陰りが差した。というのは、木皿の動きがおかしいのだ。この原始的かつ効果的な検査法では、普通なら木皿が水面を滑らかに動き、目的地に達すればぴたりと静止するものだった。試す人間によって違うのかもしれないが、少なくともおれがやるときは毎回そうだった。けれども今の木皿はまるで、小さい子供がおもちゃの船をつつき回しては、なんとかして望む方向へ進ませようとするように、ぐらぐらと揺れて安定しない。相手がヴォジャノーイならこんなことにはならない――ならないはずなのに。
 頼りない検査器はやがて、中央の少し手前で速度を緩めた。そして止まるのではなく、ぽちゃんと音を立てて沈んだ。まさに水中から誰かの力で引き込まれたみたいに。
「マックス、ちょっとあれ――」
 さすがにアリサも異変を察知したか、携帯を掴んだままおれに鋭い目を向ける。水辺から距離を取るおれたちの前方で、水面に大きな泡がぼこりと浮かび、弾けて消えた。

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