戻ってみると、フセーヴァの自家製酒サマゴン作りはもう大分と佳境のようだった。

#6 チョルトの恵み

 共用の台所に一歩入れば、温度計つきのでかい金属釜が火にかけられていて、そこからガラスのドームやら、活性炭のかけらをぎっしり詰めた濾過器やらを繋ぐように、細いパイプが一筋伸びている。これがフセーヴァご自慢の蒸留機械一式だ。仕上がったアルコールが行き着く先は、幾度となく使い古されたジャムの大瓶で、その後ろにも沢山の密閉容器や、元々は外国産のウィスキーか何かが入っていた背の高い瓶、その他様々なガラスの器が順番待ちをしている。フセーヴァ本人はというと、ちょうど温度計を観察できる位置に丸椅子を置き、座って今朝の「コメルサント」紙を読んでいた。
「やっとお帰りだな、若いお三方」
 近づいてくるおれたちに気付いたらしく、フセーヴァは腰かけたまま片手を挙げる。おれはそれに応えて軽く肩を竦めた。本当はおれだってもっとすんなり帰ってきたかった、という気持ちを込めて。
「お前さんのぶんを先にやっといたぞ、マックス。そこの棚から取って行きな。ちょっと遅くなったからって昼食を抜くなよ」
「解ってる。……毎月悪いな、本当」
「いやいや構わんよ、晩酌の相手になってくれるだけで俺は十分だ。飲み仲間は大事にしなきゃならん、お互いにな」
 一人で飲むのは縁起が悪いんだ――昨晩と同じ台詞を繰り返すフセーヴァは、こうして毎月おれに一定量のサマゴンを恵んでくれるのだった。酒代が浮くというのはこちらとしても相当ありがたい話で、おれが職務上被る様々なストレスに潰されずに済んでいるのも、ひとえにこの「労働契約」のおかげ。酒飲みの間に芽生える一種の友情によって、おれたちは危険な仕事を乗り切っているのだ。

「フセーヴァ小父さんに来てもらえばよかった、ってマックスは思ってるんでしょ」
 壁際の棚に置かれている、ラベルの剥げかかった瓶に手を伸ばすおれへ、アリサが揶揄するような言葉を投げてくる。微かに鼻を鳴らす音の交じった声だ。暗に「あんなに苦戦せずに済んだのに」という意図が込められているのは明白だった。
「そりゃあな、お前、チョルトの嫌いなものが何か考えてみろ。かみさん、坊さん、兵隊さん、だ。フセーヴァはそのうち二つも兼ねてるんだぞ」
小悪魔チョルトだって?」 フセーヴァが軽く眉を上げて訊いた。
「お前さんらはヴォジャノーイを探しに行ったんじゃなかったのか。まあ、こっちだってすぐに見つかると思ってたわけじゃないがね」
「そのつもりだったよ。でも『ナポレオンのシャツ』にいたのは実際、あの『踵のないやつ』だった。直接関わりがあるかはまだ解らない」
 おれは答え、さらに今日の午前中にあったことを大筋で伝えた。戦闘になりこそしたが一応は祓魔に成功し、それほどの怪我もしなかったこと、失踪の証拠になりそうなものは特に見つからなかったこと、少なくともチョルトは新しい魂を得られていなかったことなどを。
「そうか。何事も人間の思い通りには行かないもんだが、しかしあちら絡みとなるとな……別の用心もせにゃならんか。ヴォジャノーイと比べてタチの悪さが違う」
 読んでいた新聞を畳んでテーブルに置くと、おれたちより遥かに信心深い中年の魔術師は、床に並べてあった別の瓶を抱え上げた。ごつごつとして飾りの麻紐が巻き付けてある、グルジアだったか何処だったか、外国産の陶器でできたワインボトルだった。もちろん中身は空っぽだ。その瓶を、まだまだサマゴンが出てくる細い管の口元、既に置かれていた(そして間もなく満杯になる)瓶と素早く入れ替え、一滴の無駄もないようにする。フセーヴァ随一の特技だ。
「全くだ。水の大旦那がたが相手なら諦めもつくけどな、連中はどうしたって……あれだ、とにかくフセーヴァはフセーヴァで、何かしら準備はしといてくれ、ちゃんと」
「万が一のことも考えて、ゲオルギイ神父にもまた相談してみるさ。なんであれご苦労さんだな。マックス、上着はちゃんと乾かしとけよ」
「あの、その前にちょっと伺いたいのですが、マクシム・アンドレエヴィチ」
 おれは台所から適当に食べるものを持って出て、とっとと中庭にコートを干して、それから自分の部屋に戻るつもりだった。己が半日ばかりの間に引き受けたあらゆる辛苦を癒やすため、胃袋を荒らさない程度に酒を飲んで眠りたかった。それなのにこのプロパガンダ男は労働者の鑑みたいな顔をして、いやに熱心な調子で遮ってくる。人の名前を父称つきで丁重に呼べば、礼儀を失することにはならないと思い込んでるんだろう。
「……何だよ」
「ぼくたちが今回関わっている、その、ヴォジャノーイと……チョルト、ですか」
 善良な家庭で善良に育ったらしい監察官は、相変わらず「チョルト」の部分だけを言い淀む。確かに、無闇やたらと悪魔の名を呼ぶのもそれはそれで縁起が悪いんだが、こいつは縁起が悪いというよりお行儀が悪いという点で口に出したくないらしい。
「二者を比較して『たちの悪さ』が違うとおっしゃいましたが、具体的にどのような違いなのですか? ぼくが聞く限りでは、どちらも生きた人間を襲って、魂を奪う存在ですよね」
 いつの間に取り出したのか、昨日も見たメモ帳まで持って、おれの話を書き取る気満々のようだ。おれの口からは説明より先に、間の抜けた溜息が漏れて出た。

 水の精ヴォジャノーイと小悪魔チョルトの違いは何か。どっちもタチが悪いには違いないんじゃあないのか。これは確かにもっともな疑問かもしれない。こういった幻想種が身近でない一般人は(いや、本当は一般人にとっても身近なものなんだが)、何かとひとくくりに考えがちだ。
「良いか、リュドミール・アレクサンドロヴィチ。まず前提として、ヴォジャノーイは人間の魂を取るのが仕事じゃない。あの旦那がたは水の精で、自分が住んでる海やら池やらを守ってる。魚や水鳥みたいな生き物のことも。人間がヴォジャノーイに引きずり込まれるのは、そいつが何の準備もなく領域に入り込んだり、その近くで水のものを罵ったり、威張ったりしたときだ」
「つまり、彼らの機嫌を損ねたとき、ということですね?」
「そういうことだ。ヴォジャノーイは人間の魂がなくても生きていける。あんな深くて暗い水の底に、好きで住んでるんだから当然だな。人間が欲しけりゃ、もっと人の多い場所に行けばいい。――で、チョルトは違う。あいつらは人間に嫌がらせをするのが仕事だ」
 言いながら、おれは少しばかり視線をフセーヴァのほうへ向けた。コムナルカの近所にある教会で、堂役だかなんだかいう手伝いの役を務めるフセーヴァは、おれの話に軽く頷いては同意を示している。
「司る領域も違うなら、人数も違う。ヴォジャノーイは一つの池、一つの沼に一人が普通だ。チョルトはそこら中に見えないだけでうじゃうじゃいる。言っちゃ悪いが、空気中のウイルスみたいなもんだ」
「その結果、性格も異なるというわけですね。人間のことをどう思っているか、という点も」
「そうだ。例えばヴォジャノーイの旦那は騒がしいのが大嫌いだが、『チョルトは騒がす』んだ。前者は人間の側が大人しくしてりゃ済む。後者は進んでこっちを大人しくさせない。まあ、正反対だな」

「……彼女は、」 ややトーンを落とした声で監察官が口を挟んだ。
「チョルトに目をつけられる理由は様々にあるとして、では、ヴォジャノーイに襲われる理由は何か考えられますか?」
「そりゃお前、夜遅くに池の傍までわざわざ寄っていって、フラッシュ焚いて何枚も自撮りしやがったんだろ? 領地侵犯のうえに営業妨害だ。……今考えるとこれ、投稿時間からして公園の門が締まった後に不法侵入して撮ったんじゃねえだろうな……」
 そうなれば被害者側は、仮に無事戻ったとしても別件でカナダに帰れなくなる可能性が出てくるわけだ。自撮りのためだけに立ち入り禁止の場所に踏み込み、結果として大怪我やら事故死やらをするのは、外国人観光客に限った話ではないんだが(ありがたくないことに、ロシアはかつて「自撮りによる死者数」世界第2位という称号を有していた――現在はちょっと減って第4位だが、不名誉には違いない)。
「でも、あなたが木の皿とロウソクで試した調査法では」
「ヴォジャノーイによる溺死者にあらず、って結果だった。もっとも、これは『相手が死んでないだけ』って可能性もあるが」
「それでぼくは考えたんですよ。あくまで推論ですが、ヴォジャノーイがチョルトに命じて人を襲わせる、ということもあるのではないでしょうか」

 おれは考え込んだ。精霊や魔物たちにも、当然のように上下関係というものがある。水場ならヴォジャノーイが「王様ツァーリ」で、その下に水の乙女ルサールカやら、それ以外の溺死者の魂たち、水棲の動物たちが集まっている。ヴォジャノーイ同士の間にもやっぱり上下がある。ルーシの地を満たす全ての水を、たった一人で管理するのは不可能だからだ。全ヴォジャノーイの長というのがどこかにいて、次に海や大河を支配するものがいて、大河の支流を管轄するもの、それが流れ込む湖や池を任されたもの、というふうに。
 それなら、ヴォジャノーイがチョルトを召し使うことがあるか? ――おれが今まで経験してきた仕事の中に、そういう事件はなかった。精霊による事例を取り扱った書物にも、おれが知る限りはなかったと思う(正教的な立場から、二者を「人間に害なす悪魔」として一緒くたにしている本は別だ)。水場でチョルトが人間に悪さをしようとしたところ、「その人間はまだ溺れ死ぬさだめではない」といって、ヴォジャノーイが止めに入った話ならいくつもあるが。
「おれにはあまり、その、すぐにはぴんと来ない話なんだがな。なんだってわざわざそんな……」
 ロシア祓魔師界――ほとんど存在していないも同然の業界だが――での通例を引き合いに出す準備をしつつ、おれは反論を始めようとしたものの、大分と神妙な顔になった監察官がすぐに遮ってきた。
「保身のためですよ、もちろん」
「はあ?」
 随分と人間臭い単語だった。魔術師協会の内部でなら頻繁に聞く言葉だ。
「ですから、マクシム・アンドレエヴィチ、あなたはとても精霊にご理解のある……というのでしょうか、彼らに同情的な立場だと思うんです。なぜ彼らが人間に対して害をなすか、どちらに非があるのかをいつも考えていらっしゃるのだと。でも、全ての魔術師、全ての祓魔師がそうではありませんよね」
「……そりゃあな。いや、おれだって人的被害が出た以上は、相手を倒すとか祓うとかいった手段に出るよ。祓魔師ってのは、最終的にいつも人間の味方でなきゃならねえんだから」
「それなら、調伏される側の精霊が保身を考えることだって有り得ますよね。ぼくらの社会と同じです。予め責任を分散するか、そっくり誰かに押し付ける算段を整えてから、改めて自分のやるべきことに掛かる。悪事のみならず、たとえ自分にとっては当然の行いであろうが、誰かしら文句をつけてくると考えれば、予防線を張ろうとするのも自然な反応だと思いますが」

 この推測を、祓魔師でもなければ魔法使いですらない部外者の素人考え、といって無視するのは簡単だ。ヴォジャノーイは原始の水そのもので、悪魔や人間のように悪賢く企みを行ったりはしない、と。ただ、楽な方に流れてばかりじゃ議論も進展しない。
「ああ……まあ、保身ってことは有り得る。相手が人間じゃなくても、旦那がたはお互いの間で権力争いをしたりするからな。大きな湖を分割統治する羽目になって、どっちが多く取り分をもらうか、なんて場合だ。それから、二つの池や川があって、距離がほとんど離れていないときも……」
 口に出していくうち、おれの頭には次々と心当たりが浮かび始めた。人に向かって説明するというのは、思ったより脳内の整理に役立つものだ。
「そうだ、それだ。シュヴァロフスキー公園にはもう一つ池がある。おれたちが行ったのは『シャツ』だったけど、『帽子』もすぐ近くにある!」
「では、隣り合う領地を持つヴォジャノーイ同士の抗争に、人間が巻き込まれた結果とも考えられるわけですね?」
 深刻そうだった灰色の目が、ぱっと輝いておれを見た。「抗争」の一語にやたらと力が籠もっていた。何なんだその食いつきようは。好きなのか、そういう映画なんかが。
「だとしたら、こんなところで立ち話をしている場合ではありませんよ。すぐに『帽子』のほうも調べに行かないと」
 やる気に満ち溢れた監察官は、今にも玄関へと駆け出さんばかりだったが、その物言いは微妙におれの癪に障った。自分と相手との間で、費やした労力にかなりの差があることを忘れちゃいないだろうか。さっきの意見で少しは見直したと思ったが、気のせいだったのかもしれない。
「こんな所で悪うございましたね」
「あ、違うんです、皆さんのお宅をけなそうというのではなく……」
「本当だったらそっちも調査する予定だったよ。それがチョルト相手に殴り合いやらかして潰れたんじゃねえか。おれとアリサは食って休みたいんだよ、家に帰ってきたんだからな」
 二時間ほど前にしこたま打ち付けた肩と、怪物に掴まれた左腕が、今になって鈍く痛み始めた。こういうのは意識するまでは何ともなかったりするもんだ。顔をしかめたおれを見て、監察官は一瞬だけ戸惑いを見せたが、やおら例の笑顔を――親しみやすさを全面に出しすぎて人を突き飛ばしているような表情を取り戻した。相手が何やら不機嫌になったので、明るい態度でそれを緩和しようとでも考えたのかもしれない。それが却って警戒心を強めているとは思いもしていないだろう。
「ごもっともです、マクシム・アンドレエヴィチ。お二人は体を張ったのですから、それに見合った休息が必要ですね……ただ、最後に一つだけ」
 まだ何かあるのかよ。
「そのお酒は自家製なんですよね? 設備だけを見てもかなり本格的に蒸留されているようですが、形式としてはウォトカに近いんでしょうか。ぼくはこういった、大量生産でないアルコールには馴染みがなくて……どういう味がするのか、とか……」

 予定外の質問だった。まさか話題が精霊からサマゴンに飛ぶとは思いもよらなかった。おれは咄嗟に酒瓶を抱えたまま、
「最初に言っとくが、やらねえからな、おれのは。飲みたきゃフセーヴァに頼んでなんとかしてもらえよ」
 と声を荒らげた。コムナルカの、そして「スペードの女王」の正式な一員として、外部からの好奇の目を牽制したつもりだったのだ。そうしたら、プロパガンダ男は目をぱちくりさせるなり、口元に柔らかな苦笑を浮かべ、
「ああ、いえ、結構です。ぼくはウォトカはやらないんですよ。ほら、健康に悪いでしょう?」
 と言いやがったのである。
 健康に悪いでしょう? ――その通りだとも。そんなもんは他人に言われなくともあらゆる酒飲みが理解していることだ。アルコールなんぞは40度のウォトカだろうが5度のクワスだろうが、等しく人間の体に毒だということは。それなのにこいつの口調には、「そんなこともお解りにならないんですか?」と言わんばかりの、侮りというか哀れみというか、憫笑めいたものが滲んでいる。ひどく不愉快だ。いや、これはおれの屈折した感覚が齎した被害妄想だろうか?

 二の句が継げずに黙り込んだままのおれを見かねてか、フセーヴァは軽く咳払いして話を切り替えた。
「アルコールの有無はともかく、今は休むこったね。気が塞がるとそれこそチョルトに入り込まれちまう。――それとリューダ、」
「何でしょう、フセーヴォロド・キリロヴィチ?」
 プロパガンダ男がすっと背筋を正し、おれの名と同じくご丁寧にフセーヴァを呼ぶ。
「半刻ぐらい前にお前さんの荷物が来たんで、受け取っておいたぞ。部屋の前にある」
「わざわざ二階まで上げてくださったんですか? それはお手数をおかけしました、重たかったでしょう。母ときたら、ぼくがどこかへ出張するとか泊りがけの旅行をするとか、とにかく荷造りが要るとなると張り切るんです。そんなにたくさんの物は必要ないのに……」
 聞かれてもいない家庭の内情をつらつらと話す表情は、困ったものです、との言葉とは裏腹に、不気味なぐらい朗らかだ。他人の労苦をねぎらうには普段以上のにこやかさが必要だ、とでも内心考えているのかもしれない。おれの内心はといえば、社会人にもなって外泊用の荷造りを母親に一任しているという、この若い監察官の異常さを受け入れきれずにいた。
「他に何か必要な家具があったら、昨日のあれ、お前さんが検分した一階の部屋から好きに運んでくれ。棚だのタンスだの、使ってないやつが山とあるからな。ベッド用のマットレスについては、いったん天日干しをお勧めするがね」
「ありがとうございます、ご親切に。なにしろ引っ越しをするのが初めてなものですから、何が入用かも解らなくて」
「人手が要るんだったら言うんだね、うちには幸い腕っぷしだけはあるからな」
 フセーヴァの言葉と同時に、プロパガンダ男の視線がおれの顔に向く。冗談じゃない、なんだっておれが他人の引っ越しなんか手伝わなきゃならないんだ――と口に出すよりも、
「そうそう、こう見えて小父さん意外と肉体派なんだ。で、わたしはその上を行く意外性の持ち主ってわけ」
 と、アリサが言外におれの無力さを主張するほうが早かった。
「まさか、皆さんにまで力仕事をさせるわけにはいきませんよ。それを言うならぼくだって、見た目よりは力があるつもりですからね」
 古株住民たちの親切な申し出に対し、新入居者は友好的な態度を取りつつ、協働することについては遠慮がちだった。が、本心からそう考えているかどうかは怪しいところだ。何しろその笑顔があまりにもプロパガンダ的なので。

  * * *

 チョルトは騒がし、人を惑わせる。そのためなら連中はどんなものだって生み出す。山積みの金や魅力的な恋人、世間に轟く名声はもちろん、うまい食い物や飲み物も。なんたってワインやウォトカ、タバコのような嗜好品、果てはジャガイモさえチョルトの「発明」だという魔術師もいるぐらいだ。
 となると、今のおれは多少なりとも、あの「踵のないやつ」らに感謝すべきなのかもしれない。「チョルトの卵」ことジャガイモのサラダを肴に、サマゴンを一杯呷っては、数段型落ちのコンピューターと向き合って仕事に励むおれは。
 フセーヴァが頼みにしている支部の書記局は当てにならない。こっちが提出した補助金の申請用紙を、受理するのに1ヶ月かけた挙げ句、問い合わせるまで結果の通知を忘れているようなやつらだ。自分で調べをつける必要があった。シュヴァロフスキー公園にある池――「シャツ」と「帽子」以外でも、とにかくヴォジャノーイの住んでいる水場――で、4月に入ってこのかた、何か奇妙な事件が起きてやしないかと。ヴォジャノーイが目覚める日といえば4月3日ということになっているが、これは古い暦での話だ。ソ連成立以来グレゴリオ暦を使っている現代ロシアでは、どうしたってズレがある。期間は広く取って調べるに越したことはない。

 が、これは職務怠慢が職務みたいな(そのくせ確定申告と会員費納入の催促にだけは熱心な)書記局の連中だけじゃなく、人並みに労働意欲のある祓魔師にとっても厄介な仕事だった。どこそこの公園で真夜中、人がいないはずなのに大きな水音がしたとか、夕方散歩に出かけた市民が巨大なカワカマスを見たとかいう話は、主要な報道機関で大々的にニュースになったりはしない。彼らにとってはシリアの内情や米露関係や、数カ月後に控えたワールドカップのほうが、どう考えたって優先順位は高いに決まっている。
 そこで、今一度おれは事件の出処に立ち返ることになる。インターネットだ。この奇妙な事件はそもそもネット発だ。人が失踪したのは事実らしいから、こうして警察沙汰になっているが、元々は数日で飽きられるはずの胡散臭い情報だった。巨大な蜘蛛の巣の端っこで風に吹かれる、食べ残されたハエの翅みたいに。
 太陽が西に傾き始めたころ、おれは妥当性の高そうな検索キーワードを、片っ端から入力しては情報を絞り込んでいた。一応まだそこそこ引っかかるものはある。主にSNSの心霊・オカルトクラスタってやつが、被害者の素性やらペテルブルクという土地の背景やらに絡めて、盛んに議論を交わしていた(こういう人々は例えば、未だにチェリャビンスクの隕石が不吉の予兆かどうかについて話し合っていたりするわけだ――もう5年前だぞ?)。

「はかどってる、マックス? 小父さんがさ――」
 パルナッソス(ギリシャの山じゃなく、シュヴァロフスキー公園内にある小高い丘だ)から見た「シャツ」の位置とその魔術的意味について、約3名のオカルト好きが口角泡を飛ばす、なんだかよく解らないスレッドを読んでいたときだった。ノックの一つもなしに部屋のドアが開き、アリサが堂々と中に入ってきた。おれは咄嗟にショットグラスを置き、椅子ごとそちらへ向き直る。
「お前な、一言声かけるとか呼び鈴とかねえのかよ、おれの家だぞおれの……」
「しょっちゅう開けっ放しのまま寝落ちしてんじゃん。それに、わたしが確認にこなきゃ一日中、寝るか酒飲むかしかしないでしょ。で、どうなのさ」
 書き物机の上で青白い光を放つ、そこまで大型でもなければ薄型でもない液晶画面をじろりと見ながら、アリサは冷酷に言い放った。ただでさえ監査中なのに、何故こいつにまで仕事ぶりを監視されなきゃならないんだ。こちとら本当は食って飲んで寝るだけにしたいところ、困憊した体に鞭打って励んでるんだぞ。
「なになに、公園内にある水場の方位と位置関係……うわ、この写真ってドローン空撮? ペテルブルク市内って個人での飛行制限かかってなかったっけ」
「人の画面を勝手に覗くんじゃねえ! 良いか、おれにはおれのペースってもんがあるんだ。調査には根気が必要だからな。おれを気にしてる暇があったら、お前はお前の仕事ってものをだな」
「根気のいる作業にアルコールはいらない」
 液体で満ちたグラスをつまみ上げ、おれの懸命な抗議をさらりとかわすアリサが、今は悪魔よりも悪魔らしく見えた。女児特有の高い声はただでさえ耳に響くのに、内容が内容なのでますます頭が痛くなってくる。
「うるせえな、うちの中古ちゅうぶるだってガソリンがなきゃ走らねえだろ。ハンドル性能の悪さとは別にだ。おれも同じだよ。……で、フセーヴァが何だって」
「あ、そうそれ、はい」
 中身が19歳の女児はおれへの関心をあっさり失い、机に何かをばさりと放り投げた。少しは物を丁重に扱えよなと思いつつ、見れば近所にある薬局の紙袋だ。
「湿布。冷たいやつはうちにあるけど、温めるほうがなかったからってさ。わたしが・・・・買ってきたの」
 フセーヴァの思いやりに対する自分の貢献を、こいつは殊更に強調してくる。大分と引っかかる物言いだが、しかし打ち身への処置として湿布はありがたい。おれは袋を引き寄せ、どうも、と短く言った。
「まだ台所にいるのか、フセーヴァは」
「たぶん夜まで掛かるよ。夕食は自分でなんとかしたほうがいいんじゃない。わたし、友達と食べに行ってくる」
「へいへい」
 化粧をしてヒール付きの靴を履いた、背の高い女子大生たちに交じり、小洒落た飯を食うこいつの姿をおれは想像しようとした。が、おれにはそもそも「小洒落た飯」とは具体的にどんなものかすら解らなかったので、早々に頓挫した。
「ちゃんと貼っときなよ、それ。最初は冷やして、痛みと腫れが収まったら温めるんだって、小父さん言ってたから」
「解ってるよ」
「おっさんの『解ってる』は信用ならないからなあ」
 馬鹿にしてんのか。
「心配してんの」
 ――内心で呟いたつもりだったが、どうも口に出てしまっていたらしい。アリサは湿布と同程度の軽さで言葉を放ると、おれとは正反対に軽やかな足取りで、そのまま部屋を出ていってしまった。しかも戸を閉めてくれなかった。

 階段を降りていく足音を聞きながら、おれはシャツの左袖をまくって冷湿布を張った。さらに肩もと思いかけて、戸を開けっ放しのまま服を脱ぐのは少々よろしくないと気が付いた。仕方なく椅子を降り、ほんの数メートル先の入り口まで行く。と、また階段のほうから足音がする。今度は上りだ。そして、フセーヴァじゃない。
 果たして、急な階段の踊り場へ姿を現したのは、おれたちよりも幾らか厚着をしたプロパガンダ男の姿だった。例の空き部屋から持ってきたんだろう、ビニール革張りの座面がついた、一人がけのソファを軽々と抱えている。
「マクシム・アンドレエヴィチ!」
 面倒事の予感がしたので、おれは部屋に引っ込もうとしたが、あちらの反応のほうが早かった。やつは素早くソファを床に下ろし、さっと戸口へ歩き寄ってきた。
「お騒がせしています――あっ、傷の手当てはなさったんですね。経過はいかがですか?」
 おれの左腕と湿布を見て、いかにも親切心からといった様子で尋ねてくる。思慮深そうな眉が少し下がって、灰色の目はじっとこちらに視線を注いでいた。居心地が悪い。
「いかがも何も、青痣が一時間や二時間そこらで引っ込むわけねえだろ。要は特にお変わりありませんよ、だ」
「そうですか。骨などに影響はなかったかと心配していたんです、仕事にも支障が出るでしょうし……良い整形外科があるので、よろしければご紹介しようかと」
「なあ、仕事に戻っていいか、リュドミール・アレクサンドロヴィチ。おれには腕利きの医者にかかる余裕はねえんだ。時間的にも金銭的にも」
 舌打ちを堪えながらおれが言うと、やや子供じみた顔立ちに、不意を打たれたような色が浮かぶ。こいつは多分、生まれてから今に至るまで、大層幸せな対人関係を送ってきたんだろうと思う――周りにいる誰からも丁重に接され、自分が世話を焼けば相手は必ず喜んでくれる、そして親しみ返してくれる、愛に満ちた世界で。あるいは、不運にも自分の周りはそうではなかったけれど、基本的に人間というものはそうした社交的な存在であるべきだ、と考えているだけかもしれないが。
「それは……失礼しました、お手を止めて。家具の移動はもうしばらく続きますので、ご了承いただければと思います」
「どうぞ」
 おれは短く言って会話を打ち切り、今度こそ戸を閉めた。ただ数分喋っただけなのに、どっと疲れがやってきた気がする。さっきまでの集中力は雲散霧消し、後にはウォトカの酔いだけが残った。

 その後も、おれが水を飲みに台所へ下りたり、風呂を準備しに行ったりするごとに、プロパガンダ男とは何度かすれ違うことになった。目が合うたびにそいつは立ち止まり、にっこりとした笑顔をこちらに向ける。気を遣っていただかなくても大丈夫ですよ、本当に自分一人でやりますから――とか、うるさくして申し訳ないのですがご辛抱ください、もうあと少しで終わりますので――等を、声に出さないまでも伝えようとしているんだろう。けれども、その不自然なまでに友好的な笑みを見るたび、おれの脳裏には「来たれ、集団農場コルホーズへ!」やら、「同志諸君、労働に参加せよ!」みたいなスローガンが浮かんでくるばかりで、ちっとも安心できやしなかった。
 肝心の調べ物はといえば、これも全くもって有用な話題には行き当たらず、グリボエードフ運河に出現する亡霊やら、百年前にラスプーチンが住んでいたアパートの現在について無駄に詳しくなりこそしたが、シュヴァロフスキー公園の池についてはさっぱりだった。

 だが、日が完全に沈み、廊下からの音も止み、おれの胃袋が宿主に対してパンと肉を要求し始めたころ、やっと進展があった。おれはオカルト話の線を一旦放棄し、今年中にペテルブルクで起きた水難事故を探す方針に切り替えていたのだが、そこで一つのニュース記事に行き当たったのだ。それはロシア語ではなく英語の、ほんの数行程度しかない簡潔な記述で、2月の末に市内の「Verkhnii Pond」でスケートをしていた男性が、氷が割れたことによって池に落ち、低体温症で亡くなったというものだった。……「Verkhnii Pond」ってのは一体どこだ?
 何の自慢にもならないが、おれは英語が苦手だ。というよりも外国語が全般的に苦手で、公立学校シュコーラでも第二外国語としてドイツ語を習いこそしたが、一回だって「5」を貰ったことはなかった。年に二度の評定が発表されるときには、いつも「2」――すなわち留年を意味する数字が出ないか怯えていたものだ。
 そんなおれにとって、ラテン・アルファベットを見てキリル文字に読み替え、それがロシア語でどこの地名を表すか探せなんていうのは、一昔前までなら土台無理な話だった。幸い、海の彼方でGoogleが言語ツールを開発してくれたおかげで、今のおれには一分もあれば済む仕事だ。「Verkhnii Pond」は「Верхний пруд」すなわち「上にある池ヴェルフニイ・プルド」であるとたちどころに解った。
 で、「上にある池」ってのは一体何の上にあるんだ。

 ペテルブルクは大都市、おまけに全域を自然の水と人工の運河が走る「北のヴェネツィア」だ。26年住んでても、知らない池の10や20は存在する。これを地元っ子の誇りにかけて自力で探してもいいんだが、時間がないので(ついでに、地元っ子としての誇りもそれほどないので)、またGoogleに頼ることにした。マップ機能だ。第一候補はカリーニングラード市内の池だったので除外。バルト三国を挟んだ向こう側の飛び地は、さすがにおれたちの管轄外だ。他にも同じ名で呼ばれる池はあるらしいが、こちらはリペツク市――ペテルブルクからは1200km離れているので除外。
 不毛さを感じたので「サンクトペテルブルク」という検索語を追加してみたら、最初に登場したのはペトロドヴォレツ区にある細長い池だった。……確かに法制上はあそこだってペテルブルクかもしれないが、「市内」と付けるのは若干憚られる。それこそプロパガンダ男が住んでいたという、のどかな郊外の地区よりまだ西側じゃないか。
 とにかく、切りがない。どうもルーシの大地には、おれが思った以上に「上にある池」が存在するらしい。この際ロシア全土で最も「上にある池」を探して、そこだけが名乗っていいことにしたらどうだろう。
 結局、おれが「それ」に辿り着くまでにはさらに十分ほどを要した――おれはペテルブルク市内にもう一つ、「上にある池」を発見したのだ。シュヴァロフスキー公園の中に。おれたちペテルブルクっ子が「ナポレオンの帽子シャプカ・ナポレオーナ」と呼ぶ場所、昼ごろ話題に上っていた「シャツ」の傍にある池は、地図上では「Верхний пруд」と表記されていた。

 おれは呻き声と共に立ち上がった。胃袋がそろそろ反乱を起こしそうだ。台所へ行って、共有の食品棚から何か、寝つくまでの間だけでも内臓を宥められるような、少々の食べ物を貰ってくるべきだろう。いや、その前に風呂だ。時計はもう夜の10時近くを指している。ヴォジャノーイとチョルトだけでも骨なのに、このうえ「風呂の爺さん」まで敵に回すわけにはいかない。
 すっかり静まり返った廊下は暗く、階段を一歩下りるたびに足音が高く響く。プライバシーだの防音だのといった概念が故意に無視されていた時代の建物だ。老朽化も激しい。最後の補修工事がいつだったのか知らないが、手すりひとつ取ってもいつ折れて落下するか解ったもんじゃない。普段は気に留めないようにして過ごしているが、こうして遅くに一人でいると、やたらに気になってくるものだ。
 狭苦しい風呂場にたどり着いてシャツを脱ぎ、洗濯かごに放り込んでから、おれはズボンのポケットへ手を突っ込んだ。もちろんペルーンの聖印が出てくる。こんなものうっかり洗濯したくはない(したからといってバチが当たるというもんでもないが)。もう片方のポケットも念のため手で探り――普段は空であるはずなのに、そこで指先に何かが触れた。薄くてさらりとした何かだ。取り出してみると、二つ折りの100ルーブル紙幣だった。それが3枚。

 熱い紅茶を手にしたプロパガンダ男の笑顔が、脳裏をさっと掠めて消えた。すぐに返すと言っておきながら、おれは結局忘れていたわけだ。あの爽やかすぎて背筋が寒くなるような、カメラ向きの顔立ちを頭から追いやりたいばっかりに。今から部屋に行くか――いや、もう深夜だ。健康優良そのものの監察官殿は、さぞかし早寝に違いない。もし起きて部屋で何かしているなら、薄い壁を隔てただけのおれたちに解らないはずがないのだ。けれども実際、二階は全体が収容所ラーゲリの夜のごとく静まり返っていた。手遅れだ。
 温かなシャワーを浴びている間も、おれの心はちっとも暖まることがなかった。自分自身の下手な冗談とフォロー能力の欠如により、ほとんどよく知らない他人をカツアゲしたあげく、今の今まで忘れていたなんて、書記局の連中を軽蔑できた立場じゃない。あのプロパガンダ男に借りを作ったまま一日を終えるのに、そう安々と心を落ち着けていられようか。何故こうも生活の全てに気が回らないんだ? こればっかりは「チョルトが惑わした」せいにしていいもんじゃないだろう……

go page top

inserted by FC2 system