嵐で倒された大きな幹が、なだらかな斜面の間を渡すように横たわっている。

#8 尊き森のツァーリ

 風神ストリボーグの孫たちに、この大樹が打ち負かされたのはもう大分と前だろう。針のような深緑の葉を茂らすエゾマツたちの間、朽ちた表皮は分厚い苔に覆われ、柔らかく暖かなソファかベッドのようにも見える――虫たちにとっては実際ベッドそのものだ。あるいは、もう少し後の季節のキノコたちにとっても同じだろう。けれどもこの朽木は、もとい森じゅうの木すべては、虫やキノコや獣たちの持ち物じゃない。
 言うまでもなくおれは、ロシア連邦民法典に基づいて、現在シュヴァロフスキー公園は誰々の所有地である、みたいな話をしちゃいない。かつて公園がシュヴァーロフ伯爵の別荘だった頃よりも、そのまた以前スウェーデン人の荘園だった時代よりも、遥かに遠い昔からの話だ。

「じゃあ、ひとまずここで……旦那がたは止まってもらって、この先はおれが」
 倒木の数メートル手前で立ち止まり、おれは後に続く警官二人へ体ごと向き直って伝える。片手で使い古しの鞄――中に詰め込んだもののおかげで少々変形している――を探りながら。
「おう、何か必要があれば言ってくれよ、喜んで逃げるぞ」
「そうしてくれると有難い限りでね」
 軽口に肩を竦めつつ、引っ張り出したのは中型の保存容器だ。保存容器といっても、どんな家庭の台所にもあるような、ただの安いプラスチック製のやつである。黄ばんだゴムの蓋を開けると、中にはフセーヴァが焼いた黒パンと、ありふれた食卓塩、そして殻を赤く着色したゆで卵が、それぞれラップに包まれている。限りなく貧相な独身男の弁当、という風情だ。
 おれは倒木のそばまで行くと、縦にばっかり無駄にでかいと言われる背をかがめ、頭をぶつけないように真下へ潜り込んだ。そして、フセーヴァの手でやたら丁寧に巻かれたラップを剥ぎ取り、中身の一つ一つを枯葉の絨毯に並べていった。
「マクシム・アンドレエヴィチ」
 たぶんフセーヴァ以外の誰かしら何か言ってくるだろう、と予測はしていた。幸か不幸か、その声はプロパガンダ男ではなく、今の今まで口を引き結んでいた警察軍曹殿のものだった。
「サンクトペテルブルク市民に共通の義務として説明しておくが、園内では所定の場所を除いてゴミの投棄を……」
「まあ、まあ、ネスメヤーノフ!」
 愛想と抑揚のなさにかけては国営放送のアナウンサーといい勝負だろう、冷たく事務的な通告に、上官の呑気な声が割って入る。
「『カワカマスには泳ぎの流儀がもう解っている』だろ……俺たちが今やるべきは見守ることだぜ。ほら、たまには市民のことも信じてやらんとな」
 緊張感の一切ない台詞を聞きながら、おれは事が終わったらどこから突っ込んでやろうか一通り考えた。が、こっちはこっちで今やるべきことが別にある。お役人に対する不毛な感情を一旦脇にやって、おれは木の下から抜け出すと、その幹が倒れている東のほうを向いて立った。湿り気を帯びた北風が吹き、針葉樹の梢をさざめき鳴らしながら過ぎ去った。――鞄を手近なところに置いて、コートの内から白樺の杖を取り出す。準備完了だ。

――尊き森よ、豊かで寛大なるツァーリよ! 来てくれ、贈り物を受け取ってくれ! パンと塩と赤い卵、それからうんと低いお辞儀も!
 短い杖の先を空に掲げ、貧相な腹筋と肺活量を酷使し、おれは出せる限りの声を張り上げた。途端、風がひときわ強く唸りを上げ、地面のすぐそばで渦を巻き、辺り一面の枯葉を散り散りに吹き上げる。背後で「うわっ」という小さな声がした。監察官のそれだ。
おう、おう、お前!
 重なり合った緑の葉を揺らし、黒い幹を震わせて、遠くから木霊のような響きが迫ってくる。どっしりとして低く、けれども威厳あるというよりは、どこかのんびりと長閑な調子で。
助けがいるのか? 大きな姿で現れようか?
いや、小さな姿で現れてくれ。灰色のオオカミでも、黒いカラスでも、橙のエゾマツでもなく、おれたちと同じような姿で!
 おれは姿のない存在の問いかけに向け、決まり文句を怒鳴り返す。こう答えておかないと、おれたち人間は身動きひとつで叩き潰されかねない――そういう相手を呼びつけようとしているのだ。ヴォジャノーイがルーシのあらゆる水の主なら、これから対面する相手はあらゆる森の主、獣たちの保護者、そして旅人たちの惑わし手だ。おれは彼のことを「尊き森」と、あるいはもっと親しく「森の親父」と呼ぶが、正式な名前はもちろん別にある。――レーシィだ。

 前方、灌木やら枯れたシダの葉やらが絡み合う、背の低い茂みがざわついた。今しがたまで無かった気配がふっと湧いて出たかと思えば、陰からひょっこりと、人影のようなものが顔を出した。
何を思ったんだ、魔術師?
 その姿が目に入るより早く、おれは膝を折って深々とお辞儀をし、次の言葉が掛かるまでは一切頭を上げなかった。見なくたって解る。人前に現れるとき、レーシィはいつでも古い時代の農民じみた格好をしてるもんだ。もじゃもじゃの長い白髪と髭、ゆったりとしたルバーシカと幅広の赤い帯、やたらとつばの大きな帽子。未だロシアが「帝国」だった頃には、広い大地のどこでも見られたような爺さんの姿を。
わしに向かって何を思ったんだ、うーん? ――助けがいるというのは本当か?
 彼はおれに向かって屈み込むと、深い緑色の目で注意深く眺め回してきた。顔じゅうに刻まれた深い皺が、おれの視界にちらつく。
魔術師、おまえの魂は……湿っていて、冷たいぞ。もう何年も水の中で漂っているみたいだな。そんなやつがわしの手を借りたいって?
 精霊というものは、人間のありかたについてとても敏感だ。例えば今、おれが魔術師であるだけじゃなく、水の乙女ルサールカと契約していることもはっきり言い当てた。おれは少々ばつの悪そうな顔をしてみせる。
おまえは、
 レーシィの頭がずいと近寄ってきた。 「あのカワカマスどもの家畜じゃあないだろうな? うん?
「いいや、それは違うよ、親父。もしおれが『水のもの』たちの眷属なら、あんたに土産を持ってくるはずがないだろ。それに――」
 おれは肩越しに振り返り、フセーヴァに目で合図した。おれの思惑を汲み取ったリーダーは、静かにこちらへ歩み寄りつつ、上着のポケットから一繋ぎの数珠チョトキを取り出した――黒い紐とビーズを編んで輪を作り、十字架と房飾りを付けた祈りのための道具だ。おれは手を伸ばしてそれを受け取り、レーシィの前に差し出す。
「ほら、もしおれの魂が本当に水浸しなら、こんなものに触ったりできるわけがないじゃないか。なあ親父、水のものたちはこいつを恐れないかもしれないが、だからって身に着けたりはしないだろ?」
 本当のところを言えば、水の眷属たちのみならず、正教徒ハリスティアニンでないおれだって、みだりに触っちゃいけないもんだろうとは思う。持ち主のフセーヴァが何も言わないので、大人しく使わせてもらうことにはしているが。
 とにかく、この「証明」は効果てきめんだった。レーシィは目を丸くして、組紐細工の十字架をまじまじと眺め、
おう、これは本物だ、こいつはあやまった。それなら人間のおまえ、わしのとこから何を望むんだ? リスか、ウサギか、それともでっかいヘラジカか?
「あー、いや、おれたちはそういう獣の狩りはやらないんだ」
 おれは首を横に振った。森の獣たちの保護者であるレーシィは、狩人たちとも関わりが深い。彼らが乱獲しないよう目を光らせると共に、もし礼儀正しく謙虚で、贈り物をしてくれるような人間になら、望みの獲物を授けてくれることもあるのだ。ちょうどヴォジャノーイと漁師たちの関係に似ている。
「だから、親父の森から何か獲っていこうっていうんじゃない。ただ、いくつか聞きたいことがあるんだ……昨日の晩のことについて。なあ親父、このの辺りで迷った人間を見なかったか? それか……人間を迷わせたりしなかったか?」
なんだ、そんなことか! そりゃもちろんだ、あの娘っ子だろう? あれは確かにわしが連れてったんだよ!
 返ってきたのはあっけらかんとした答えだった。別に驚くことじゃない。レーシィにとって、人間を迷わせるのは日課――とまではいかなくても、ちょっとした息抜きみたいなもので、悪いことだなんて思っちゃいないからだ。精霊と人間とでは倫理観がまるで違う。祓魔師をやるなら知っておかなきゃならないことだ。
 けれども、「だから精霊のやることはみんな許してやれ」なんて考えが、現代の人間社会でまかり通るはずもない。おれだって流石にそこまで寛大な心の持ち主じゃない。何より、少し背後を伺ってみれば、プロパガンダ男はプロパガンダ的笑顔を引っ込めてこちらを凝視しているし、警察軍曹殿に至っては、人間的温かみの抜けきった無表情で身構えている。――もっと事情の説明が必要だ。

「それは、真夜中ごろに丘から下りてきた人でいいんだよな。他にもたくさん若い人たちと一緒だった」
そうだ、そうだ。あんな遅くに集まって騒いでるから、何事かと思って調べに行ったんだが、あれは星を眺めていたんだな。それで、しばらくすると行列が下りていくから、わしはナラの木の格好をして、一人ひとりを見てたのさ
「じゃあ、行列の中からその女性だけを選んだのはどうしてだ? 何か理由があったのか?」
 数メートル後ろに並ぶ公権力(監察官には一応その手の権力はないはずだが)に、頼むから早まらないでくれと念を送りながら、おれはレーシィの話に耳を傾ける。ここで特別な理由が分かれば、なおかつそれがヴォジャノーイたちにも絡んでいれば、捜査は大きく前進するはずだ。
さ、そこだがな、魔術師よ。その娘っ子からは、水の匂いがしたんだよ。あの池とおんなじ匂いだ。これはあのカワカマスどもに目をつけられたなと、わしはそう思ったのさ
「池?」
 枯葉の層を踏みつける音と共に、はっとしたような声が響く。 「それはどちらの――」
 おれが振り向くと、監察官らしい顔をしたプロパガンダ男が、こちらに向かって大きく乗り出していた。おれは咄嗟に身振り手振りで、「頼むから黙っててくれ」と伝えようとした。やつはそれ以上何も言ってこなかったので、伝わったのだと信じたい。
「それで隠してやったってことか? つまり、池から遠ざけるために?」
 質問を続けながらも、おれは思案する。監察官の疑問も含めてだ。シュヴァロフスキー公園には大きな池だけでも「シャツ」と「帽子」の二つあり、実際に事件があったのは二つとも「シャツ」のほうだ。単純に考えれば、「シャツ」の主であるヴォジャノーイが悪い考えを抱いて、人間を積極的に襲うようになったって所だろう。だが、森の主レーシィの手引きを勘定に入れると、いくらか話が違ってくる。
おうとも。森の中をずっと下って、街のほうへ近付くようにな。それで朝になっちまえば、もうあいつらに手出しはできんだろう。そのつもりだったんだが……
「実際は、日が昇る前にどこかへ行っちまった、だろ? あんたの目の届かないところへ」
そのとおりだ! わしは娘っ子が元の世界に帰ったと思った。人間たちの領域へな。だが、そこで人間のお前がわしに尋ねにきた、これはよくない話だな?
「そうなんだよ」 おれは溜息をついた。 「親父のいう人は結局、誰かに襲われたんだよ」

 レーシィの視線が、おれの顔よりさらに下へと落ちた。予想はしていたが改めて聞かされるとショックだ、といった所だろうか。筋張った手をぎゅっと握り締め、「森のツァーリ」はしばらく自尊心と現実を戦わせているようだった。
ああ!
 やがて、彼は絞り出すように一声上げた。風が辺りの木々をざわざわ揺らし――次の瞬間、近くの幹に雷でも落ちたかのような、激しく唸るような音が轟いて、おれたちの立つ地面がぐらりと揺れる。
わしが間違えた! うまくやるつもりだったのに、わしがしくじったんだ!
 次は大声だった。鼓膜がびりびりと震えているような感覚さえするぐらいの。おれは耳の奥が痛みだすのを堪えながら、レーシィを宥めようとした。精霊というのはだいたい感情表現が豊かなもので、それもレーシィやらヴォジャノーイやら自然の主クラスになると、嘆きや憤りひとつで文字通り激震が走る。人間の側としては勘弁してもらいたい。
「落ち着いてくれ、親父。確かに、かなり厳しいことを言うと、親父のしたことは間違ってた。人間ひとりに怖い思いをさせた挙句に、襲われることは防げなかったんだから。でも、水の眷属から守ってやろうっていう、あんたの思い自体は間違いじゃない」
 相手のことは慰めつつ、言うべきことは言い、まかり間違っても怒らせたりはしないようにと、おれは言葉を選びながら続ける。精霊相手の交渉は祓魔師の基本だ。争いは避けるに越したことはない。この仕事でいくら交渉術を磨こうと、人類間のコミュニケーション能力にはさして寄与しないのが悲しいところだが。
「これは他の森でも言ってることなんだが、なあ親父、人間たちが住んでる今の世界ってのは、親父たちがもっと大きな森を支配してた頃と、大分違ってるんだよ。一つの村には必ず一人まじない師がいるわけじゃなし、あんたらに迷わされたらどうすればいいか、小さい頃から言い聞かされて育つわけでもなし」
 レーシィはおれの言葉に相槌こそ打たないものの、時々は頷いたり、おれの目を見返したりして、真剣に聞いてくれているようだった。話の方向はこれで間違っていないようだ。
「それに、誰かが森に行ったきり帰ってこないとなったら、『森のツァーリに頼んで帰してもらおう』なんて誰も考えないんだ。何百と人をかき集めてきて、何百万ルーブルもの金をかけて探すことになる。その金を誰が払うって、迷った本人だよ。今回はまあ、限られた区画の話だったし、他に加害者がいるってのがはっきりしたから、被害者の責任にはならないだろうが……」
 言いながら、おれは警官ふたりの顔をそっと伺った。上級中尉がこちらに目配せし、軽く頷いた。
「だから親父、今度からはどんな理由があったとしても、まず迷わせるってのはやめてくれ。もちろん面白半分はもっと駄目だ。今回みたいな場合でも――よっぽど緊急じゃない限り、もっと危険を知らせたり、危険そのものを追い払う方法はあるはずだろ?」
ああ、そうしよう。わしには使いにするやつは沢山いるでな。森番に……いや、森番はいないんだったか。誰に知らせりゃいいのかね? お前のとこに使いをよこせばいいかね?
「それについては今度話すよ」
 おれはとりあえず話題を切り替えることにした。レーシィに公園管理事務所の電話番号を伝えたってどうにもならないのは明白だし、おれのところに使いの動物を寄越されたって、そこからシュヴァロフスキー公園までは車で一時間近くかかる。この辺りは市や警察との連携態勢を整える必要がある。もちろん早急に――だが今この時点でというわけにもいかない。今できることは別にある。

「もう一つ聞かなきゃならないことがあるんだ。親父はさっき、『あの池と同じ匂い』がしたって言ったよな」
言ったとも、言ったとも。わしはノネズミにも、オオカミにも、雄牛にも負けんぐらい鼻が利くのさ。水の匂いぐらいはすぐにわかる
「その池ってのは」
 おれは改めて園内の植生図を開き、パルナッソスの丘から「シャツ」と「帽子」までの間に、どんな木や草が生えているかを確かめた。レーシィ相手に地形の話をするなら、森の植物を引き合いに出すのが一番いいと思ったからだ。
「あの丘のてっぺんから、両側にトウヒの生えた道をずっと下っていくと、最初に突き当たる池のことか? ほら、二つ並んでるだろ?」
そうだ、お前がいうその池だ
「手前にある池か、それとも奥にあるほうの池か、どっちの匂いだった?」
そんなもん!」 レーシィが声を荒らげた。 「小さな池だ、決まっとるだろう!
 さて、これでおれたちの扱うべき謎が一つ消え、新しく問題が一つ増えた。おれが例によって背後を確認すると、プロパガンダ男は「まさか」と言わんばかりの顔をしているし、フセーヴァは苦々しげに薄く笑っている。上級中尉も厄介事を抱え込んだとき特有の腕組み姿だ。軍曹は――直立不動。魔法使いがいても息をする立て看板に変わりはないんじゃないか、この人は。
「小さな池か。つまり手前だな。あー、それをおれたち人間は『ナポレオンの帽子』って呼んでるんだけどな、そこの主がやったと親父は考えてるわけだ?」
ふん! わしだけじゃない、この森に住むもんは皆そう考えとるよ。やつは強欲で、いつもわしの森から家畜を取り立てるんだ。雄牛だの、馬だの、イノシシだのをな。あんなに小さい池で、そんなに沢山のものは要らんだろうによ!
 長い口ひげを震わせ、腕を大きく動かしながら、レーシィは「帽子」の主がいかに狼藉を逞しくしているか語った。しかし、確かに「シャツ」より狭いとはいえ、人間にとっては十分に大きく、深さもある池を「小さい」と表現するあたり、精霊のスケールはやっぱり桁違いだ。
「じゃあ、それより大きいほうの池にいる主はどうだ? あっちの主は、あんたの森に酷いことはしないのか?」
そりゃあ、するともよ。水に住む連中はいつだって、わしら森のものと喧嘩ばっかりしとる。だがな……
 大声でもって怒りを露わにしていたレーシィが、そこで少し抑えた口調になる。いくらか騒がしさを控え、どっしりと落ち着きのある、森の主らしい態度で彼は続けた。
大きい池の主はな、昔からずっと変わらんのよ。毎年決まった時期に、必要なだけ取っていく。獣たちがちょっと水を飲みに行ったぐらいじゃ怒りもせん。――水を治めるものはみんな、元々そういうやつらでな。たとえそこに頭があっても、運命が定まらん限りは、魂まで奪ったりはせんものだ
「おれもそう思う。でも、小さい池のほうは変わっちまったんだな?」
いつごろからとは解らんがね。前の夏はまだ、人間まで手当たり次第じゃなかったかもしらん。そんでも、こないだ氷が割れてからは、ずっと様子がおかしいんだ
「そうか……」
 
 おれは口から重たい息を吐き出した。懸念と不安と多少の億劫さをないまぜにした息だ。これは見当よりも遥かに悪い事態かもしれない。
「よく解ったよ、親父。聞かせてくれてありがとう。ほら、お礼をちゃんと受け取ってくれよ。それからもう一つ頼みがある」
おう、何だね?
「親父の森から、白樺の枝を貰いたいんだ。本当は緑のがいいんだが、今はまだ時期じゃないからな、葉をつけてないやつをいくつか。構わないか?」
構わんとも、構わんとも。幹を根っこから伐っちまうんでなけりゃ、いつでも頼みにしてくれ。それだけか?
「それだけだ。また今度、やってほしいことや解ったことを知らせにくるよ。そのときはウォトカとピローグも持ってくる。おかみさんにも宜しくな」
 必要なことだけを告げて、おれはレーシィとの会話を終わりにした。レーシィのおかみさん(レシャチーハという)に気を使うのも必要のうちだ。さもないと、帰り道で風もないのにどこかの木が倒れて、おれたちは下敷きにされるかもしれない。
いいぞ、ウォトカにピローグ! 最高の贈り物だ。じゃあな、人間よ、シダの葉やキノコを蹴っ飛ばすんじゃないぞ!
 ツァーリの笑い声に合わせて、また木々が揺れ動き、枯葉が舞い上がる。冷たく湿った風が、森じゅうの空気をかき回して通り過ぎてゆく。――と、そこにはもう人影ひとつ見当たらず、朽ちたエゾマツの大きな幹が、静かに横たわっているだけだった。

 事は済んだ。少し痛くなってきた足を庇いつつ、その場からゆっくりと立ち上がり、振り向いてみるとまたプロパガンダ男と目が合った――しかも前に確認したときより遥かに近かった。いつの間に寄ってきやがった。おれは足元に気をつけながら数歩距離を取り、出かかった声を飲み込んだ。こいつはどうしてこうも心臓に悪いんだ。
「今のが、その……あなたのおっしゃる『専門家』ですか、マクシム・アンドレエヴィチ?」
 深刻なニュースに言及するときのコメンテイターみたいな顔だ。 「あのう、ぼくは……」
「頼むから『とても信用できませんが』なんて言うなよ、リュドミール・アレクサンドロヴィチ。お前が迷わされても助けてやれねえぞ」
「いえ、まさか意図してそのような失礼はしませんが……先程までの間、無意識になにか悪いことをしていなかったかと思って。あなたの判断をうかがえたら幸いなのですけど」
 予想以上に殊勝な質問だったので、返事をするタイミングは数拍遅れた。おれは上っ面だけでも平静を保とうとしたが、顔は大分歪んでいたかもしれない。
「判断とか言われてもな、おれだって逐一そっちを見てたわけじゃねえし。まあ、黙っててくれて助かったけどな」
「そうですか? ぼくとしては何か足りなかったのではないかと……例えばフセーヴォロド・キリロヴィチが十字架を出されたとき、ぼくも自分自身の宗教観について一通り告白しておいたほうが良かったのではとか、色々と考えるのですが」
 なんて面倒くさいやつだ。律義者もここまで来ると一種の強迫観念じゃなかろうか。おれは首を横に振り、改めて体ごと向き直った。
「違うんだよ。大事なのは『水のもの』の眷属じゃないってことで、別にお前が正教徒だろうがムスリムだろうが唯物論者だろうが、あちらさんが気にするもんか。そんな宗教がルーシに入ってくる前からの存在なんだぞ」
「あなたがそうお考えなのであれば……良いのかもしれませんが。解りました、では次回からは特に説明しないことにします」
「そうしてくれ。こっちとしちゃ後ろで何も言わずに立っててくれるのが一番有難いんだ。それに実際、査察ってのはそういうもんなんだろ」
 もう幾度となく聞いた気がする(実際には多分二、三回だが)言い回しでもっておれが応えると、神妙だった顔つきはたちまち元のポスター向きな笑みに早変わりした。もっとも、その口から出てくるのは「平和と発展の名のもとに!」みたいなスローガンではなく、
「はは、これは一本取られましたね! おっしゃる通り、監察官としては成り行きを見守り、必要なときだけそれを糺すものであるべきです。気付かせてくださってありがとうございました、マクシム・アンドレエヴィチ」
 という謎の感謝だけだった。一体おれの台詞のどこが上手かったのか、発言したおれ自身でも理解しかねる。

 ともあれ、「専門家」への用向きは済んだ。おれは鞄の蓋を閉め、杖をコートの内にしまい込むと、フセーヴァのいる位置まで後退した。お役人たちの監視義務も一段落だ。
「ほれ――言った通りだろうが、ネスメヤーノフ」
 上級中尉がにやにやと笑いながら、隣に立つ部下の肩(彼の視線からだいぶ上にある)に手を掛けた。
「上手くやるもんだよ、こいつらはな、プロだから。俺たちだって言わば殺人のプロみたいなもんだが、それは犯人が人類の場合に限った話だ。お前もこれから色々学ばせて貰わにゃならんぜ……」
 おれたち祓魔師に全幅の信頼を置いている(あるいは、信頼を置いていると公言することで責任の何割かを押し付けようとしている)上級中尉は、至極ご機嫌な様子で勧めている。が、対する軍曹は親身なアドバイスに対し、「はい」と一言答えただけだった。こんなに真実味のない「はい」を聞いたのも久々かもしれない。
「さて、考えを一度まとめておくかね。次にどんな行動に出るべきか、改めて指針が必要だ」
 フセーヴァは十字架を懐に収めると、顎を撫でつつ言った。おれも同感だが、森の中で突っ立ったまま話し合うのは賢明とはいえない――もちろんフセーヴァだってそんなことは解っているだろう。要するに移動しようってことだ。おれは頷き返し、コートから携帯を取り出して、現在時刻を確認した。

 そしておれはもう一つ、大変まずい事態が進行していることを確認させられた。ロック画面に表示された時刻は「14:22」で、十分に予想の範疇だったが、その下にずらりと並んでいるものがまずかった。着信履歴だ。おまけに全部アリサからだった。ショートメールも来ている。帰ってみたら家に誰もいないが一体何があったのか、フセーヴァ小父さんにも連絡がつかない、まさか男連中だけで勝手に食事をしたり買い物に行ったり化け物をぶん殴ったりしている訳じゃないだろうな、云々という短絡的な文章が、三十分ほど前から小刻みに送ってよこされていた。
「……なあ、フセーヴァ」
「うん?」
「どこか紅茶のうまい喫茶店とか、いやケーキでも何でも良いんだが、帰るまでに探しといたほうがいいんじゃねえかなあ」
 液晶画面をそっと向けながら、おれは「小父さん」に低い声で言う。覗き込んできたフセーヴァは、すぐにおれの言わんとする事を察したのだろう、渋い顔になると共に軽く身を引いた。
「紅茶一杯で十分かねえ。串焼きシャシリク挽肉のカツレツビトーチキか何かにしたほうが良い気がするね、俺は」
「なんだ、昼飯の話か? 奢ってくれるのか?」
 おれたちが真剣に保身の話をしているところ、耳ざとい中年の警官は、相変わらずいまいち信用ならない笑顔で茶々を入れてくる。
「旦那、――解ってるよ、冗談なのは解ってるんだけども、支部の監察官の前で贈収賄の話とかやめてくれよ、本当に」
「ハ、ハ、ハ! そういう話を一切しないよりかえって信用できるだろ、ん? なんだ、あの若いのはそんなに冗談が通じねえのか? ネスメヤーノフと同じぐらいか?」
 おどけた調子で上級中尉は尋ねる。後半はおれたちに合わせるように声を落としていたが、別に隠し立てする気はないんだろう。少し離れたところに立つ「支部の監察官」は、話がいまいち飲み込めていない様子で首を傾げている。
「軍曹殿がどの程度ジョーク不耐症かはともかく、あいつには全然通じない。一切。昨日の朝だって――」

 おれの脳裏を一つの単語がさっと掠めた。300ルーブル。
「あー、いや……」
「昨日の朝ですか?」
 話題の男がにこにこしながらこちらを見ている。 「何かありましたっけ?」
「いや、別に何でもない。それより今が問題だ。とりあえず森を出ねえとな。ツァーリから騒擾の罪でシベリア送りにされる前に」
 この台詞は断じてジョークのつもりではなかったが、プロパガンダ男は口角を上げ、「わあ、面白いですね」と説明するかのような笑顔で頷いた。ユーモア感覚のなさを慰められているようで、ひどく気分が悪かった。
 もちろん、どんなに気を悪くしたからって、300ルーブルを返さないというわけにはいかない。でも今は駄目だ。ここでルーブル札なんか取り出して、あまつさえそれを監察官に渡すとなったら、それこそ贈賄の罪で上級中尉に現行犯逮捕されかねない。

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