おれたちのコムナルカの玄関に、イリヤ・ムーロメツが立っていた。

#9 常に準備よし

 というのは物の喩えで、実際に立っていたのは言うまでもなく怒り心頭のアリサだった。腰に両手を当てた立ち姿は、小学生ほどしかない身長の二倍は大きく見え、その金色をした目に睨まれれば、英雄叙事詩ブィリーナの名だたる勇士たちだって怖気づくだろう。それこそイリヤ・ムーロメツは後悔の祈りと共に石像と化し、怪力の巨人スヴャトゴールも棺に閉じこもるに違いない。
「わたしはさあ、学生としての務めをちゃんと果たしつつ、その合間に祓魔師の仕事もきっちり手伝って、大きな戦果を挙げる優秀な団員なわけよ。それなのに、おっさん共は何? のんびり公園まで散歩に出かけて、お巡りさんたちと談笑したあげく、特に何もぶん殴らずに帰ってきたって?」
 視線自体は下から突き上げてくるはずなのに、遥か高みから見下されているような気分で、おれたちは黙りこくっていた。もちろん言いたいことぐらいはある――おれたちだって好きでお役人とつるんでるわけじゃないとか、勝手に暴力的なノルマをでっち上げるなとか。けれども口答えをしたが最後、アリサが今いる位置から一歩踏み込んで、渾身の右ストレートを叩き込んでくるのは目に見えている。常に一言多いプロパガンダ男さえ、ただならぬ雰囲気を感じ取ったか、神妙な顔つきのまま何も喋ろうとしない。
「それで、わたしはそれについて特に言い訳が欲しいとは思わないんだけどね、そうじゃなくても何か、格別のお言葉が一つや二つあってもいいんじゃないかって。どうなの、そのへんは?」
 アリサがおれたちの顔をぐるりと見回し、片方の手のひらを上に向けた。つまり、ようやく発言が許された格好だ。「謝れ、それ以外は何も言うな」という条件つきで。

「ああ、悪かったよ、アリサ。せめて書き置きぐらい残しておくべきだったな、お前さんが心配しないように」
 口を開いたのはフセーヴァだ。この中年男は話しぶりが穏やかで、声がよく通り、すまなさそうに見える表情を問題なく作れる、謝罪会見において一番矢面に立たされがちなタイプだった。少なくともおれたちの中では一番だ。おれなんて何度アリサや監察局の首席監察官(おれが普段接するうちで最も嫌いな魔術師だ)から、「それが人に謝る態度か」だの、「本気で自分が悪いと思っているのか」だのと言われてきたことか。
「小父さんはそのへん詰めが甘いんだ。教会にいるときには、あんなにきちんとしてるのにさ」
「そりゃあお前さん、正教徒ハリスティアニンの聖なるつとめに手を抜くわけにゃ行かんだろう。……いや、家族サービスには手抜きしてもいいって訳じゃあないがね。うん、とにかく、だ」
 わざとらしさの拭えない咳払いで、フセーヴァは脇道に逸れつつある話を一旦差し止めた。
「帰り道に市が出ててな、もうイチゴが一山いくらで売ってあったんだ。促成栽培だろうがね。――そいつを一抱え買ってきたから、お前さんのために砂糖煮ヴァレーニエシロップ漬けカンポートを作るってのは、埋め合わせとしてどんなものかね?」
 とたん、冷たく鋭かったアリサの目は、春の日差しを浴びたラドガ湖のように輝きだす。近付く者みな殴り殺さんばかりの威圧感が、
「いやっほう!」
 の歓声と共に溶け去った。現金な19歳は跳ねるように「小父さん」へと駆け寄り、そのまま飛びついて喜びを露わにする。もし精神も見た目どおりの年齢だったら、キスの一つや二つぐらいしていたかもしれない。フセーヴァは一瞬目を丸くしたものの、勢いに押されて倒れ込むどころか、その場でたたらを踏むことすらなかった。これが体幹ってやつか。
「そうこなくっちゃ、小父さん! ね、大きな瓶で作ってくれなきゃお断りだからね。それから当然、ヴァレーニエを載せるためのパンも焼いてくれるんでしょ?」
「パンは……ちょっと考えさせて貰いたいな。十分な粉が残ってないんじゃないか」
「じゃ、代わりにブリヌィで勘弁してあげる」
 アリサは言い、やっとのことでフセーヴァを解放すると、軽やかに玄関ホールへと踵を返した。その途中で拳を突き上げ、意気揚々と叫ぶのも忘れてはいなかった。「万歳ウラー、イワノフ!」

 あの気分屋な女子大生が「カラマーゾフの兄弟」を読了していないほうに、おれは300どころか1000ルーブルだって賭けてもいいが、とにかくこれで災難を免れた。ところが、あとは部屋に戻ってサマゴンをやるに限ると思っていたら、よりにもよってフセーヴァまでが敵に回った。手に提げた農業市の袋を軽く持ち上げるなり、
「まあ、こういう次第だ。手伝ってくれるよな、マックス?」
 と言い出したのだ。
「冗談だろ? あんたが言い出しっぺじゃねえかよ、あんたが……」
「それはそうだが、今回の件については皆が共同で責任を負うべきさね。俺たちの誰もアリサに連絡しなかったんだ。なに、ただヴァレーニエを作るだけだ、シベリアで苗からイチゴを育てろってほど重労働じゃない」  ソビエト政権下で死ぬほど苦労していたはずのフセーヴァは、こんな時に限って連帯責任の重要さみたいなものを持ち出しやがる。大体、おれにシベリアの凍土を耕せというのも無理な話だが、台所に入ってヴァレーニエを煮ろなんてのも十分に無茶振りだ。おれは冷凍食品の特売日にペリメニの大袋を買い込んでおき、それを一日あたり半分から三分の一ほどフライパンで炒めて飢えを凌ぐような男なのだ。調理の腕を求めるほうが間違っている。
「そうですね、それに大瓶のひとつとブリヌィ一山ぐらい、『樽いっぱいのヴァレーニエと籠いっぱいのビスケット』よりはずっといいですよ。意味合いとしてもね。ぼくにも何かできることがありますか、フセーヴォロド・キリロヴィチ?」
 プロパガンダ男はプロパガンダ男らしく、労働の喜びと使命感に満ちていることを喧伝するような顔で、フセーヴァに手を貸す旨を述べている。いかにも最大の親切ですと言わんばかりの輝かしさだが、これは元々課せられた義務なのであって、別にお前が特別協力的なわけじゃないからな、と断ってやりたい。
「うん、とりあえず瓶の煮沸と……ついでだから残ってるキャベツもみんな漬けておくかね。納屋から運ぶのを手伝ってくれ。ああ、そろそろ菜園の支度もせんとなあ……」
 退職間際のシステムエンジニアみたいな男の口から、今春の植え付けの心配について聞くのはかなり奇妙なことかもしれないが、おれはもう慣れた。いや、広いペテルブルクを見渡してみれば、郊外に別荘ダーチャを持っていて、夏の間じゅうそこで過ごせる身分のエンジニアは、あまり珍しくないのかもしれない。ただ、かつて軍隊で銃を執り、今は教会で燭台持ちをやり、本業はプロの祓魔師だが、普段はコムナルカの中庭で野菜の出来に一喜一憂している、システムエンジニアみたいな身なりの男(ただしプログラミングの知識はない)、まで限定した場合は解らない。おれはもしかすると、世界にただ一人の稀有な人材と寝食を共にしているのかもしれない。

 おれの思考が現実逃避のために混迷を極めていくかたわら、フセーヴァは年齢を全く感じさせない足取りで、中庭のほうへしゃきしゃき歩いていった。その後をプロパガンダ男が、行進するピオネールの最上級生みたいな顔で付き従う。おれは思わず舌打ちを漏らしてから、今の音を誰も――特に庭の精霊オヴォロヴォーイ納屋の精霊オヴィーンニクが――聞きとがめなかったかと、しばらく無闇に心配した。

  * * *

 サマゴン作りのための奇妙な器械たちは、台所からすっかり姿を消していた。ありとあらゆる用途に使い回されている大瓶たちだけが、戸棚の中で次に抱え込むべき実りを待っている。おれは染みだらけの床にしゃがみ込み、最下段の扉をガタガタ言わせながら開け、一番大きな銅鍋を引っ張り出した。ヴァレーニエを作るなら、鍋の選択肢はこれしかない。もちろん、作業台の上には頑丈な吊り棚が据え付けてあって、赤く塗られたセラミックや、黒地に花模様をあしらったホーローなどの、「古き良きロシア」を思わす大小の鍋が列を作って澄ましているが、大瓶を満たせるだけの果物を煮るには力不足だ。
 料理人の腕を別方向から問うてくる、この凄まじく重たい鍋をやっとコンロに押し上げて、おれは一息ついた。流しのほうではフセーヴァが、山盛りのイチゴのヘタを取ってはザルに放り込んでいる。その横ではプロパガンダ男が――特に何もしていない。台所の主が果物を下ごしらえする一挙一動を、じっと見守っているだけだ。そりゃあ確かに、手伝えと言われたのは瓶の煮沸と野菜の運搬だけだろうけれども。
「良いご身分なこった」 おれはわざと大きな音を立てて戸棚を閉め、優男の顔を顎でしゃくる。
「支部の監察官ってのは、あれか、魔術師のヴァレーニエ作りに不正がないかも監視しなきゃならねえのか?」
 監察官殿は目を丸くすると、何故そんなことを訊かれるのか見当もつかない、というように首を傾げた。嫌味に対する態度が板についていやがる。
「いえ、まさか、そんなことは職務に含まれていませんよ、マクシム・アンドレエヴィチ。ぼくはただ、どのようにヴァレーニエを作るのか見ていたかっただけなんです。とても興味深くて……」
 イチゴのヘタを取る作業がそんなに興味深いだろうか。生まれて一週間の赤ん坊じゃあるまいし。フセーヴァもさすがに笑えてきたのか、蛇口をひねりながら肩を震わせている。ザルいっぱいの真っ赤なベリーに流水が注がれ、控えめに飛沫を上げると、監視対象は慣れた手付きで一粒一粒、傷をつけないように洗い始めた。
「リューダには後で手伝って貰うとするさ。やることはいくらでもあるんだ。――マックス、鍋と砂糖は出てるよな?」
 手は止めることなく首だけを横向け、フセーヴァが尋ねる。おれは口に出して答えるかわりに、コンロの脇から甜菜糖の袋を持ち上げてみせた。
「よし、よし。キャベツもいくらか切っといてくれればなお良かったんだが」
「半分には切ったよ」
 視線を作業台のほうへ向ければ、そこには固く締まったキャベツが合わせて3玉、まな板の上で亀みたいに転がっている。本当にただ半分に切っただけだ。芯すら取っていない。取らずにおいたのだ。
「それ以上やると、あれだろ、『なあマックス、こういうのは千切りじゃあない、ざく切りって言うんだ』だろ?」
「俺はそこまで当てつけがましい言い方はしないつもりなんだがね。ま、実力を自覚してるのは良いことだ、なあ……」
 おれを労うような調子でフセーヴァは言い、ザルを抱えてこちらへ歩いてきた。考えてみれば全くフォローになっていない気がするが、おれはそれ以上追求しないことにした。

 よく水を切ったイチゴは鍋に開けられ、その上から袋半分ほどの砂糖がどさりと放り込まれる。ヴァレーニエを作るときの砂糖といったら甜菜糖で、量は――果物と同じ量と言う人もいれば、半量ぐらいで十分だと書かれたレシピもある。結局はキャベツの漬物や黒パンと同じで、家庭ごとの伝統と作り手の勘が大事ってことなんだろう。新たに料理を学び始める場合にはたまったもんじゃないが(「少々」とか「適量」とか「お好みで」みたいな表記に我慢ならない人間は多いはずだ)。
 フセーヴァが砂糖をイチゴにまぶしつけてゆくと、少しばかりの水分もあって、まるでみぞれ交じりの雪を被ったようになってくる。早春のペテルブルクらしい風景だ、と言いたいところだが、普通イチゴのヴァレーニエを作るのはもっと夏に近付いてからだし、この街に降る水っぽい雪はこんなに可愛らしいもんじゃない。古い都の道という道を泥だらけにして去ってゆくだけだ。
「さて、こんなもんだろう。キャベツに取り掛かるかね。いま何時だ……まだ急がなくとも大丈夫かね、うん」
 鍋本体と同程度に重たい蓋を閉め、フセーヴァは大きく伸びをする。おれもそろそろ瓶の煮沸に取り掛かっていい頃合だ。吊り棚に手を伸ばして、手頃な大きさの深鍋を下ろす――
「あの、このまま置いておくんですか?」
 そこで後ろから邪魔が入った。フセーヴァにくっついてきたプロパガンダ男が、さも不思議そうな目つきで鍋を見ながら言う。
「そうさな、電子レンジなら数分で済むことだが、うちのヴァレーニエは自然にやるんだ。別に効率を求めてるじゃなし。まあ、アリサには文句を言われるか知らんがね」
「フセーヴォロド・キリロヴィチ、そうではなくて……電子レンジにかけるというのは聞いたこともありませんが、自然にやるにしても、火にはかけないのかと思ったんです」
 おれは深鍋に水を張りながら、プロパガンダ男の素朴すぎる質問をどう捉えていいのか解らずにいた。火にかけないのかって? そりゃあヴァレーニエを作るには、どうしたって火にかけなくちゃならない。が、その前にはまだ工程ってものがあるだろう。水分をしっかり出して、砂糖に吸わせて……一年のうち半分以上を自炊せずに過ごしているおれの台詞じゃないかもしれないが、逆に言えばそんな「家庭の敵」であるおれでも知っていることだ。
「まだ火は出番じゃあない。半日は置かないと、水が出切らないからな。冬だから一晩置いたっていいぐらいだ。夏は果物が痛むから、そこまではしないがね」
「一晩?」 間の抜けた声が上がる。 「一晩もかかるんですか? ヴァレーニエを作るのに?」
「俺は時間を早送りできるほどの大魔術師じゃないんでな、リューダ。いや、時間魔術なんて大それたことじゃなくとも、普通の呪文を上手いこと使って、イチゴの脱水ぐらい数秒で済ませる魔法使いも居るのかね……」
 
 フセーヴァは特に気にした様子もなく、ヴァレーニエから醗酵漬けへと目標を変えている。プロパガンダ男はまだきょとんとしている。――と、台所の扉が大きく開け放たれ、
「どう、イチゴのほうは整ったかんじ? ねえ、味見していい?」
 労働者の搾取に励む党幹部、もといアリサが顔を出した。今にも調理場じゅうをスキップして回りそうな機嫌の良さだ。
「まだ早いからどっか行ってろよ。さっき砂糖まぶして置いたところだぞ」
「だって明日まで待てないから! それに、砂糖掛けただけでもイチゴは美味しい、でしょ?」
「それならヴァレーニエ自体遠慮しときゃ良かっただろ! 生でいいじゃねえかよ、生で……」
 おれが正当な意見を述べる一方で、フセーヴァは完全に諦めの境地にあるのか、「手は洗ってくれよ」と妥協の構え。こういう時に「小父さん」は甘い。女子大生ならぬ身のおれは、粛々と瓶を煮沸するしかない。
「まあまあ、食べたら漬物のほうはやってあげるから」
「そっちは手伝うのかよ、さっきまで散々働かせておいて」
「このキャベツはわたしのキャベツじゃなくて、みんなのキャベツだから」
 鍋から一粒、どころか三粒も四粒もイチゴを失敬したアリサは、横の作業台に手を伸ばすと、半切りの(我ながら「二等分」とは言いがたい雑さだ)葉野菜を取ってぽんと投げ上げた。全体的にすすけた色合いの台所では、淡い緑でもより強く、鮮やかに見える。
「それに、マックスのおっさんが千切りの役に立たないぶん、わたしが力を貸してあげなくちゃね。――ねえ、そっちも手伝ってくれるでしょ?」
 流れるようにおれを罵倒しつつ、頭を向けるのは当然プロパガンダ男のほうだ。話を振られた側は、間髪いれずに姿勢を正し、顔いっぱいに協力的な笑みを押し広げた。こういう場合のスローガンはあれだな――「女性のみなさん、台所の奴隷制度から自由になりましょう!」。
「もちろんですとも、アリサ・ルキーニチナ。具体的には何をすればよろしいですか?」
「何っていうか、全部やればいいんじゃない? 分担するほどのものじゃないし、それぞれが一瓶ずつ作るみたいなかんじで。まあ、ひたすら包丁に魂を込めたい、っていうならそれでもOKだけど」
「いえ、ですからその……」
 口元をにこやかに保ちながらも、そこから出る声には戸惑いが交じりつつある。よろしくない兆候だ。視線を外してみれば、フセーヴァはちょうど調理器具入れから追加の包丁を取り出していた。が、おれと同じく感じるものがあったのだろう、何事もなかったかのようにそっとスタンドへ戻した。
「一瓶のキャベツ漬けを作るにあたって、ぼくは具体的に何をすればよいのでしょう?」
 
 アリサは緑色したラグビーボールをハンドリングするのを止め、真顔で同年代の男に向き直った。
「えっと、うん、作ったことはないかもしれないけどさ。だって店で売ってるしね、漬物なんてキャベツだろうがビーツだろうが。でも、どうやって作るかって……見たこととかない?」
「はい、お恥ずかしながら一度も台所に立ったことがないんです。ただの一度も。包丁は目にする機会すらなくて……」
 調理経験だけなら世代の平均あたりに位置するだろうアリサは、穏やかに語る「今時の若者」の姿に、まるで野生動物のドキュメンタリー番組でも見るような目を向ける。
「……確かにリューダって、こう言っちゃ乱暴かもしれないけどお育ちがいいっていうか、だいぶしっかりした家の子なんだろうなあって思ってたけど、もしかしてガチで大金持ちのお坊ちゃんだったりするの?」
「そんな、ごく普通の労働者の家庭ですよ、夫婦共働きで……」
「小さいときにお手伝いとかしなかったの? ほら、確かお母さん料理するんでしょ?」
「母は達人ですよ! それこそ、ヴァレーニエも漬物もみんな自家製でした。でも、調理中にぼくを呼んだことはありませんでしたね。台所は危ないからって」
 鍋の水面がぶつぶつ言い始めるのを横目に、おれは心底馬鹿らしい気分だった。やつの家では多分、料理に限らずあらゆる家事から、息子の身の回りのことまで、全て母親がやる習慣になってるんだろう。国際婦人デーに男連中の誰かが炊事当番を代わってやらなくとも、特に文句の出ないような環境だ。うちじゃ3月8日に花束を買ってこなかっただけで、一日中顔を合わせるたびに舌打ちされるんだぞ。
「それじゃ、今まで料理してるとこ見たり、教えてもらったこともないんだ。ね、あのさあリューダ、あんたのお母さんって一体どういう……」
 ゴシップ好きの口はさらに家庭事情を聞き出したがったが、そこで質問の声がはたと止まった。さすがに詮索がすぎると懸念したのか、フセーヴァが戒めるように首を横に振った。おれも正直、他所様の内情なんて知りたくもない。見聞きした情報をもとに他人を見下せるほど、おれはご立派な家庭に育っていないからだ。

「おっしゃる通り、ぼくに家事の経験はありません。せいぜいティーパックと電気ポットで紅茶を淹れられるぐらいです。でも学べばお役に立つことはできると思うんです、他の技術と同じように。――ですから、どうか教えていただけませんか、皆さんがどうやって漬物を作るのか」
 アリサが沈黙したのを何かまずいことと取ったのか、それとも最初からそう言うつもりだったのかは解らないが、プロパガンダ男は一歩踏み出して片手を広げ、おれたちに申し出た。自分が知らないことを、それも周りから「常識だろ」とばかりに扱われている事象を、こうもおめおめと――
 いや、違う。よく考えろ。「知らない」と認められること、おまけにそれを他人に対して明かせるということは、とても立派なことだよな? 少なくともおれには簡単にできないことだ。おれはこいつを他人との距離が近すぎるとか、友好的すぎて不気味だとか、あまりに出来すぎていて旧ソ連のプロパガンダみたいだとか評価してきたが、少なくともおれよりは善良で役に立つ人間じゃないか。
「そりゃあ、教えるさ。教えるとも。お前さんだってここに住んでるんだからな、仲間はずれにする気はないさね。なあアリサ?」
「うん、……あ、でも今日のところは包丁はやめとこうね。さすがに初めて握った包丁でキャベツの千切りは危険すぎるから、それはまた別の機会にしよう。それじゃあ、えーっと、調味料を計って合わせてもらうってのでいい?」
 いたって初歩的な提案を受け、灰色の目がにわかに輝きを増した。おれはガキの頃、おふくろから手伝いを申し付けられて、こんなに嬉しそうな顔をしたことがあっただろうか。
「はい、是非やらせてください。でも少し緊張しますね、なにしろ液体や粉末を計量するなんて、化学の授業以来ですから」
「そんな大げさな……って言いたいとこだけど、ほんとに大げさじゃないんだろうねあんたの場合。まあいいや、それで分量は」
 料理初心者のはにかむような笑みを前に、アリサはてきぱきと指示にかかったが、またしても言葉が切れた。理由はお察しで、アリサにしろフセーヴァにしろ、普段の食事を作るにあたって、「目分量」以外の分量を使うことなどほとんどないからだろう。無論それは知識と経験に基づいた、それなりに信頼性のある目分量だが、初めての人間はそうもいかない。
「ねえ小父さん、ちょっとタブレット貸して! 談話室に置きっぱなしだったよね!」
 アリサは叫ぶと、持ち主の返事も待たずに台所を飛び出していった。残された今時の若者はやや悔しげに、
「そうだ、インターネットで調べれば良かったんですよね、ぼくとしたことが……」
 云々と言っている。まあ、YandexなりGoogleなりに頼らなくとも、人間味あるアドバイスを求めるのは誠実な態度だ。少なくとも根拠なき自信をもって暴走するより遥かにましだ。「塩分は体に悪いですから、なるべく控えめにしておきたいですよね」だとか言い出して、とても長期保存に堪えそうもないような、薄味のピクルス液を作り上げる可能性もあったのだから。

  * * *

 二組のまな板と包丁が、それぞれ違ったテンポでリズムとキャベツを刻み終える頃、調味料の混交もいよいよ佳境に入っていた。
「なあ、リュドミール・アレクサンドロヴィチ」
 おれはまだ熱い瓶を作業台に並べつつ、顔だけをそちらへ向ける。
「生憎と科学史には詳しくないんだが、あれだ、ダイナマイト作る実験中のノーベルは、あんたみてえな顔してたのかもな」

 プラスチック製の大きなボウルと向き合う若い監察官は、今までに見たこともないような真剣そのものの表情で、計量カップ一杯に水を汲んでいる。金属の縁すれすれまで入ったその水を、ボウルの中に無事移し替えるまで、一滴たりともこぼすまいという決意が感じられる動作だ。液体がそれこそニトログリセリンで、少しでもしくじれば大爆発を起こすとか、もしくは100mlあたり数万ルーブルというとてつもなく高級な酒で、ひっくり返そうものなら自分の財布ではとても弁償しきれない、といった雰囲気がある。実際にはただのミネラルウォーターなのは言うまでもないが。
「ああ、やっと――やっと完成です、マクシム・アンドレエヴィチ! どうですか、初めてにしてはうまくやれたと思うんですが!」
 ボウルに入っていた塩やら砂糖やらが、注がれた水と見事に混じり合うのを確認し、初心者は誇らしげに顔を上げた。まるで何日も練習を繰り返し、幾度となく転んでは手足に擦り傷や痣をこしらえた挙句、やっとのことで自転車に乗れるようになった子供のようだった。
「そうだな」
 周囲(というよりアリサ)から肯定することを強いられた気がしたので、おれは頷いてやった。まあ実際、分量のとおりに調味料を計って混ぜることに関しては、おっかなびっくりではあるが成功したわけだ。否定する理由もない。
「ありがとうございます。そう言っていただけると、挑戦したかいがあるというものですよ。次はもう少し複雑なことを試してみたいですね……そうだ、ブリヌィの生地を混ぜるというのはどうでしょう?」
 提案を受けて、おれはブリヌィ生地の作り方を思い出せる限り思い出してみたが、複雑な工程は何一つ浮かばなかった。少なくともフセーヴァの場合は、わざわざ生地を濾してなめらかにするとか、澄ましバターを作るなんてことはしないし、おふくろなんて合わせた粉をふるいさえしなかった。それでも、ことわざには「初めて焼くブリヌィは塊になる」とあることだし、旨く作ろうとすると難しく、奥が深いのかもしれない。
「いいんじゃない、焼くのはそこそこ大変かもしれないけど、生地作りまでなら。小父さんに教えてもらいながらやればいいと思うよ。――じゃ、そっち貸して?」
 千切りのキャベツを瓶に詰め込み終えたアリサは、提案を大筋で受け入れてから手を突き出す。あとは調味液を注ぎ込んで密封すれば、漬物の準備は整うわけだ。ひと仕事済ませた監察官が、選び抜いた誕生日プレゼントを渡すみたいな得意満面で、液体を満たしたボウルを差し出した。

 監察官の血と汗の結晶――液体だが――は、アリサによって三つの大瓶になみなみと満たされた。その手付きはお世辞にも丁寧とは言えず、台の上には塩味の雫がいくらか飛び散った。未経験者を一歩脱した作り手は、中級者の雑な仕上げを笑顔のまま黙って見守っていたが、口元には隠しきれない無念さが滲んでいたように感じる。
「これもだいたい一晩……いえ、漬物ですからそんなに早くはできませんよね。一週間ぐらいはかかるんでしょうか」
 瓶の蓋を全て閉めれば、あとは片付けをするばかりだ。おれが使った食器を流し台に運ぶかたわら、監察官はフセーヴァに尋ねた。塩の袋やスパイスの瓶を、元あった共用の食品棚へと戻しながら。
「それは好みによる。つまり、浅漬けがいいって人間もいれば、だいぶ酸っぱくなってから食べるほうが美味しいって人間もいるわけだ。どっちみち三日は待たなきゃならんがね」
「どちらにせよ夕食に並べることはできない、ということですね。待ち遠しいなあ!」
 窓際に並べられた瓶を横目に発される声は、誰が聞いても胸躍らせているのが判るような響きで、ただでさえ童顔な監察官の印象をますます子供っぽくしていた。今日び、キャベツの漬物にこれほどの期待を寄せられる大人が他にいるだろうか。
「ま、ヴァレーニエも含めてお楽しみにしておかなきゃね。今夜はしっかり働くことになるんだから、その後のごほうびってやつ」
「は? 今夜?」 おれは顔をしかめて振り返り、アリサを見た。 「何だよ、今夜って」
「だから、もう一度公園の池を調べに行くんだって。やってみたいことがあってさ、公園事務所にはもう許可取ったから」
「はあ?」
 こいつの行動力が凄まじいのは周知の事実だが、それにしたっていきなりすぎる話だ。それと、「許可を取った」というのは恐らく間違いで、正確には「自分一人では小学生扱いされるのが明確なので、支部の適当な事務員をどやして代わりに許可を取らせた」ってところだろう。アリサの行動コマンドはいつだって力技だ。
「あのな、そういうことはもっと早くに言えよ。おれたちは昼に一度行ってるんだぞ。それをお前、そんな数時間とおかずに……」
「あんたたちが勝手に行ったんでしょ? わたしは言うつもりだったんだよ、学校から帰ってきたら。それなのにおっさん共がさあ」
 おれの抗議に対し、アリサは断固として戦う構えだ。が、不毛な争いが深刻化する前に、正当なリーダーが割って入った。
「喧嘩はやめだ、お二人さん。台所での争いは家全体が争うもと。――夜にもう一度行くのは構わんよ、アリサ。ただし、俺たちが持ち帰った話を聞いてからにするんだね。情報を更新していくのは大事だぞ」
「解ってる。そのへんも含めて、今日は早めに食事にするのはどう? 情報交換と作戦会議と腹ごしらえを兼ねてさ」
 さも名案かのようにチームの最年少は提案したが、これだって本心はただ自分が空腹で、早く何か食べたいというだけに決まっている。今しがたフセーヴァに喧嘩するなと言われたばかりなので、節度の守れるおれは口に出さなかったが。
「あっ、それなら時刻を教えて頂けませんか。調査の前にいったん支部へ顔を出しますので」
 出勤を苦痛に思ったことなど一切なさそうな監察官が、意欲にあふれる態度で言う。こいつは正規の支部職員で、夜間の調査に同行するのは時間外勤務だから、その申告ってわけだろう。おれたち祓魔師はどれだけ夜勤を繰り返そうと、手当がもらえるどころか「市民に不安を与える」とかなんとか文句ばかり付けられるのに。職業に貴賎なし、なんて嘘っぱちだ。

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