昔は乗り物に弱かった。食事の後で車に乗るなんてのは、ガキの頃のおれにとって拷問と同義だった。

#10 祓魔師は夜歩く

 二日酔いのうえに寝不足かつ、胃袋の中は前夜の酒肴とキャベツのシチーで一杯、なんて状態でオフロードを疾走しても平気な体をおれがいつ獲得したのか、自分のことながらさっぱり覚えがない。いや、「平気」というのは言い過ぎで、実際のところは「平気ではないし死ぬほど苦しむものの、車の中と人前でだけは絶対に嘔吐せずにすむ」程度だが、とにかく大きな進歩だ。おかげで冷凍ペリメニ入りのスープと豆のベーコン炒め、ニンジンのサラダそしてグルジア風のチーズ包みパンハチャプリ――フセーヴァが言うところの「胃にもたれないような軽い食事」――を腹に詰め込んだ後でも、こうしてSUVの後部座席で激しいアップダウンに耐えることができるのだ。
 おれは考える。そりゃあ、おれは常々自分のことをまだ若いと、断じておっさんではないと主張し続けているが、かといって育ち盛りのアイスホッケー部員みたいに頑健な体を持っているわけじゃない。フセーヴァはおれの胃袋をいくらか過大評価してやしないだろうか? 大祖国戦争を血眼で生き抜いている最中の若い兵士と、21世紀の都市部に暮らす自由業の若者とでは、内臓機能に埋めがたい差があることに気付いていないんだろうか?

 もはや落としようもない雨染みだらけの窓ガラスから、おれは右頬を剥がして視線をずらした。隣にはプロパガンダ男ことリュドミール・アレクサンドロヴィチが、誰にそうしろと言われたわけでもないのに背筋を伸ばし、両脚をきっちり直角に揃え、膝に手を載せたお行儀の良い格好で座っている。77年製の中古ちゅうぶるラーダに乗る事務係というよりは、リムジン「チャイカ」でモスクワの党本部に送迎される政府要人の息子、という雰囲気だ。その向こうで足を組んでいるアリサは、アメリカのティーン向け連続ドラマに出てくるチア部員そのもの。ペテルブルクのうち最も世間から切り離された領域では、グローバライゼーションってのはこんな形でしか実現しないのだ。
「――それでね、どうせだからスメタナとか、トヴォローグも一緒に仕込んだらどうかって思うわけ。ブリヌィの生地よりは簡単だし、ヴァレーニエほど時間もかからないでしょ。どう?」
「素晴らしい提案です、アリサ・ルキーニチナ!」
 若者二人は車に乗り込んでからというもの、ほぼ休みなしに散漫な会話を続けていた。芸能人のゴシップにリューダお坊ちゃんはついていけない、サンクトペテルブルク支部での業務の話にアリサは興味を示さない、よって話題は徹頭徹尾食べ物のことだった。聞いているだけで胸焼けしそうだ。今はフセーヴァが焼くブリヌィと、その作業をプロパガンダ男が手伝うことについて、多少は建設的な議論が交わされている。
「ぼくはブリヌィの中でも、スメタナをたっぷり塗ったのが一番好きなんです。もちろんそこにサケとイクラの塩漬け、それに燻製のきいたハムがあれば言うことはありませんけど……あの太陽みたいな黄金色の生地に、大きなスプーンで具を盛り付ける瞬間は、何にも代えがたいものだって気がしますよ。そうは思われませんか?」
「思う。まあ、わたしは断然トヴォローグとヴァレーニエ派だけどね、特にイチゴとラズベリー。あと、単体だったら『茹でたミルク』が最高」
 サケとイクラにハムまで付けろとは大した美食家ぶりだ。ブリヌィなんてのは――少なくともおれにとっては、外出中にどうしても腹が減って死にそうになったものの、見渡す限り懐具合が許してくれそうな店は「テレモーク」みたいなファストフード店しかない、という時に食うものだ。具無しのやつなら一人前で100ルーブル超えないからな。
「茹でたミルク、ですか? ええと……それはもしかすると、ぼくの知らない食べ物かもしれません。甘いものかな……」
「知らない? というか、普通は『茹でたミルク』とは言わないのかな。ほら、加糖練乳スグションカってあるでしょ、缶に入ってるやつ。あれを缶ごと鍋で茹でたら茶色くなって、ちょうど柔らかいキャラメルみたくなるの。まあ別に茹でなくたって、普通に出来上がりのやつが売ってるけどさ、店では」
「ああ!」
 手を打つ音がした。 「あれのことですか。見たことはありますけど、ぼくは食べないですね。なにしろ」
「健康に悪いもんね?」
 からかいの混じったアリサの言葉に、はにかむような吐息混じりの笑い声が続く。おれは心底馬鹿らしくなって、連中の会話に耳を傾けるのをやめた。

 窓の外へ意識を戻せば、車は相変わらずペテルブルクの細い道を、あちこち曲がったり戻ったりしながら走っている。本当なら舗装された複線の車道を突っ走って、40分もあればシュヴァロフスキー公園に着くはずなのに、よりにもよって通りに出るまでに道路工事が二箇所、おまけに本命のエンゲリザ大通りは交通事故で一部通行止めと来ている。おかげでネヴァ川を越える道路はどっちを向いても大渋滞だ。出発前、おれはフセーヴァのために現在の最短経路を検索してやったが(なにしろこんな「クラシックカー」に好んで乗る男が、車内中央に不格好なカーナビを増設するはずもない)、交通状況には「渋滞(通常どおり)」と表示されていた。何が「通常どおり」だ。確かにペテルブルクの幹線道路なんて渋滞が常態化してはいるが、Googleに指摘されると悔しさもひとしおだった。
 運転席のフセーヴァは、ハンドルを握ったが最後とにかく安全と目標地点にだけ気を配るたちで、それはおれたちの生命のためにも大変結構なことなのだが、結果として車内でおれだけが別世界の住人だった。仕方なく、おれは夜間の公園捜索計画を再確認する――が、そんなものは五分もあれば確認し終わってしまうので、早晩時間を持て余す。おれは息詰まり、とうとう何の必要もないのに「茹でたミルク」のことを考え始めた。アリサは何か勘違いしているらしいが、「茹でたミルク」は十分に一般名詞で、おれも昔からそう呼んでいる。そう、おれにだってこのノスタルジックな、ソ連時代の子供の憧れみたいな食べ物にまつわる思い出ぐらいあった。

 目に浮かぶのは前に住んでいたアパートだ。ペテルブルクの郊外にある、決して広くもなければ新しくもないが、少なくとも今のコムナルカよりは「文化的な」部屋。お袋が例の「もしかして袋アヴォシカ」に練乳の缶を入れて帰ってきたとなったら、それはもう祭りみたいなものだった。おれは台所のコンロに深鍋を置いて水を張り、子供の手にはずっしり重たい缶を沈めて弱火にかけたものだ。始める前に一声かけさえすれば、お袋は何も言わずに任せてくれた。根本的にはそう難しいことじゃない――沸いた鍋をひっくり返そうものならさすがに大事だが、きっとおれの用心深さを解ってくれていたんだと思う。
 がたつく台所椅子にちんまりと座りながら、おれは鍋の中の缶がいい具合になるのを静かに待ち構えていた。気が急いて早く引き上げすぎると、中身はまだうっすら茶色くなっただけの、ほとんど液体に近い練乳のままだ。もちろんただの練乳だからって悪いことはないが――少なくとも甘いわけだしな――作りたかったものとは違う。といって、放ったらかしのまま忘れてしまえばこれも大惨事だ。ちょうどのタイミングってものを見計らう必要がある。おれの家はこの「茹でたミルク」作りを日曜日ごとに練習できるほど裕福ではなかったし、そもそもどんなに金が余っていようとも、当時のペテルブルクに定期的な練乳の入荷予定などなかった。食料品店に行列を作る人々はもういなかったが、だからって誰もがささやかな幸せを簡単に手に入れられるわけではない――少ない機会を慎重に噛み締めながら、子供はいい塩梅を学んでいく。やがて椅子によじ登るための踏み台が要らなくなり、深く腰掛けても足がぶらつかなくなり、終いには完成までの数時間をネットサーフィンで潰すようになるまでには。

 けれども、――おれは再び窓から顔を背け、隣に座るお坊ちゃんをちらと見た。こいつにはそんな機会はなかったわけだ。「台所は危険だから」? そりゃあコンロの火も、沸かした熱湯も、鍋から取り出したばかりの缶も、それを開けるための缶切りだって、誰かに言わせりゃみんな危険だろうさ。人を殺せるんだからな。
 そこで座席が大きく上下に揺れた。何か段差でも乗り越えたのか。前方ではフセーヴァが、特に言及するでもなくハンドルを捌いている。気付けば街路の明かりが最初より少なくなり、黒々とした夜の闇もぐっと近くに感じられ始めた。もうペテルブルクの中心を抜け、街の外周部へと入りつつあるのだ。目指す公園もそこにある。おれは「茹でたミルク」について考えるのを止め、最後にもう一度だけ今夜の予定を確認することにした。

 入り口のゲートで公園事務所に目的を伝えた後、車は園内を貫く舗装道の途中で止まった。ここから先は歩いていくしかない。
「じゃあね小父さん、待機お願い。2時をめどに戻ってくる……だっけ?」
 先に車から下りたアリサが、こちらを振り返りつつ訊いてくる。おれは頷いてから反対側の扉を開け、乾いたコンクリートに足を下ろした。都市部よりはいくらか澄んでいる気がしなくもない、夜の冷たい空気が鼻を抜け、ぼやけていた思考を現実へと引き戻す。空は晴れてこそいるが、大分と細くなった月の光は弱々しく、非常灯ほどの役にも立ちそうにない。
「何かあったらすぐ戻れよ。こういうのは引き際も大事にせにゃならん。それと、もちろん場合にもよるんだが、現時点であんまり騒ぎをやらかすんじゃあないぞ」
「大丈夫だって。小父さんってば、わたしを何かするたび大暴れしなきゃ気がすまない子みたいに考えてるんだからさ……」
 それは事実だろ、と言いたいのをぐっと堪えながら、おれは車の後ろに回ってトランクを開けた。ナラの木を削り出して作られた、おれの背丈ほどもある杖をそこから取り出し、しっかりと握って地面に立てる。――問題なし。
「では行ってまいります。フセーヴォロド・キリロヴィチ。後のことはお任せください」
 最後に一人、祓魔師ならぬ身のプロパガンダ男が、いかにも任務に赴く忠実な兵士、みたいな凛々しい顔つきで、フセーヴァに辞去の挨拶をした。いや、立場を考えると兵士じゃなくて政治委員ポリトルークだか非常委員チェキストだか……とにかく、敬礼の一つも添えられていないのが不思議に感じるような押し出しの良さだった。「自分こそがチーム随一の精鋭です」という態度だが、おれたちは決して忘れちゃいない――こいつは非戦闘員なのだ。有事の際に頼れるどころか、こっちが守ってやらなきゃならないんである。

 未舗装の道を塞ぐように下ろされた、白黒のバーを潜り抜けておれたちは進んだ。路肩の監視カメラにはいかにも不審な三つの影が映ることだろうが、許可は取ってあるのだから文句言いっこなしだ(そこまでしても物言いがつくことはあるもんだが)。ひとたび林道に分け入ってしまえば、辺りに人工の明かりはなく、杖の先に点した魔法の「灯り」が頼みの綱だった。  森はそこまで静まり返ってもいない。風の音に混じって、遠くから落ち葉のがさがさ言う音が聞こえてくる。夜行性の生き物、例えば野犬やらキツネやらが活動を始めているに違いない。ロシア屈指の大都市圏内にある割には、シュヴァロフスキー公園は野生動物が比較的多く、去年の秋はシカに加えてイノシシまで出たというから大した話だ。
「夜にこういった所へ来るのは初めてなのですが」
 おれのすぐ後ろから、さして抑える気のなさそうなプロパガンダ男の声が聞こえる。肩越しに振り返ると、青みを帯びた魔法の光を受けて、灰色の目がいつも以上に輝いているのが見えた。
「不思議ですね、普段は人で賑わっている場所なのに、今はぼくたち以外に誰もいないなんて。ベンチにも遊歩道にも、人影どころか犬の一匹さえ見当たりませんでしたよ。なんだか、とてもいけないことをしている気分になりますね」
 吐く息を白く濁らせながら、「いけないこと」の範囲が大分広そうな男は声を弾ませた。戒厳令下でもあるまいし、夜中に公共の場を散歩したところで罪に問われるわけでもないのに、こいつは一体どこまでお行儀のいいやつなんだろうか。まあ、違法か否かとは別に、明らかな身の危険が予想できるから、おれも仕事上の必要に駆られない限りはまっぴらだが。
「なあ、ガキじゃねえんだからいちいち興奮しないでくれよ。確かに昼間『森の親父』には挨拶しに行ったけど、あちらさんだっていつまでも寛容じゃねえぞ」
 おれは立ち止まり、雪のちらほら残る地面へ杖を突き立てた。ぴしゃりと言ってやりたかったのだ。夜遅くに騒ぎ立てる連中に良い気がしないのは、人間も精霊も同じだと。
「ああ、すみません……確かにそうですね、姿は見えなくても存在するものはあるんでした。お恥ずかしい……」
 プロパガンダ男は型に嵌ったような答えを返したが、口元は緩んでいたし、言葉尻にも微かな笑いが入り混じっていた。おれの顔にしっかりと据えられた視線は揺るぎもしない。これのどこに注目すれば恥じらっているように見えるのか、読心術に詳しい筋に教えて頂きたいぐらいだ。
「何イラッときてんの、トロイカ? 別に大騒ぎしてるわけじゃないし、そこまで言うことないじゃん」
 当然、こういう時にアリサはおれの味方をしてくれない。早速プロパガンダ男の擁護に回っている。けれども心得たもので、普段よりもぐっと抑えた声だった。精霊の安らぎを邪魔することがどれほど恐ろしいか、こいつは身を持って知っているのだ。
「でも、確かにわたしたちみんな、そろそろ落ち着かなきゃね。もうすぐ森を抜けるでしょ」
 おれたちの最後尾からそう指摘して、アリサはそれきり黙った。おれは杖を少し持ち上げ、道のさらに先までも照らそうとした。暗闇の中に青白い明かりが落ち、路肩の雪がぼんやりと浮き上がって見える。それでも、「灯り」の光量ではそう遠くまで届かず、聳え立つ木の影がどこで途切れるのか、やっと判るか判らないかといったところだった。
「何事もなく抜けられりゃ良いんだけどな」
 ここを出れば目的の池、「ナポレオンのシャツ」は眼の前だ。こちらに派手なことをする気がないとはいえ、何が起きるかは結局のところ相手の気分次第。おれは空いたほうの手でコートの襟首を掴み、ぐっと上まで引き上げた。うなじの辺りを吹き抜けていった風が、ひときわ湿って感じられたからだ。

  * * *

 風に吹かれて波立つ水面が、ぎりぎりまで弱められた光を微かに反射する。
 白いちらつきの向こうから響いてくるのは、夜食にありついた水鳥たちの喜びの声だろう。昼間ほど賑やかではないものの、暗い水辺を程よく静寂から切り離している。夏には酷くやかましくなるカエルの喚声は、さすがにまだ冬眠中なのか聞こえない。氷が解けて春になったといっても、人間さえ分厚いコートを着込んでのそのそ歩いているのだから当然だ。もちろんヴォジャノーイにとっても、この時期の水は堪えるもので、だからこそ寝起きの彼らはことのほか苛立ちやすいという訳だった。
「動物たちの様子は――ふつう」
 横手からアリサが進み出て、ひそひそ声でおれに言った。 「つまり今は落ち着いてる、かな?」
「だと有難いね。真っ暗闇で怒り狂った水鳥に襲われるとか勘弁だ」
 想像もしたくない、と肩を竦めてから、おれは後続の二人に向き直った。プロパガンダ男が気をつけの姿勢を取りながらも、どこかそわそわとした態度でこちらを見ている。ちょうど話の流れにぴったりなジョークを思いついたんです、みたいな顔だ。プロパガンダに登場する勤労青年というよりは、アネクドートで上手いこと言う市民の役柄に見える。
「ヒッチコック映画を引き合いに出してくれなんて誰も要求しねえからな、監察官殿。おれが頼みたいのは隣で黙ってお行儀よくしてくれることだけだ。――セミョルカ、そっちは頼む」
「了解」
 セミョルカことアリサは手短に言い、同行者の姿を確認した。プロパガンダ男はにこにこしている。
「それとさ、その必要ができたらの話だけど、彼のことなんて呼べばいいと思う、わたしたち?」
「そいつのことか? さあ、おれが3トロイカでお前が7セミョルカなんだし、何か……あと1トゥズ女王ダーマ以外なら別に何でも」
 おれは首を振った。 「なんならゲルマンでもトムスキーでも……士官様だろ……」
「あの、何のお話をなさっているんでしょう、二人とも?」
 愛想よく整った笑みを貼り付けたまま、プロパガンダ男が首をかしげておれたちに視線をよこした。自分のことが話題になっていると察したのだろう。それも恐らく褒められてはいない、と。
「確かにぼくは母方がブルガリア人ですが、ドイツとは特に関わりがありませんし、それにぼくは兵役には……」
「とにかく、解れば何だっていいんだよ、セミョルカ。真剣に話し合ってる時間もない」
「ぼくが住んでいたところも、陸軍幼年学校まで車で20分ぐらいのところでしたけど――」
 おれは懸命に舌打ちを堪え、声を荒らげたいところをなんとか押さえ込み、可能な限りの無表情でプロパガンダ男に詰め寄った。灰色の目がぱちりと瞬いて、朗らかな声が途切れた。
「おれたちは、お前のことを、こういう場面で本名を使って呼ぶわけにはいかねえんだ。魔術的な存在に名前の一部でも握られるってのは、致命的なことになりかねないからな。だからおれはトロイカで、あいつはセミョルカで、お前のことは何かしら適当に考えて呼ぶ。ゲルマンとトムスキーについてはプーシキンを読め」
 これが全てだ。本当のところを言えば、おれだって「トロイカ」なんて訳の解らん名前で呼ばれたくはない。フセーヴァから言われて仕方なしに名乗っているだけだ――まだ不思議そうな顔をしているプロパガンダ男と、その隣で溜息をつくアリサを置いて、おれは水際のほうまでずんずん歩いていった。

 森の出口から池までは、緩やかな下り坂になっている。岸の一部が少しばかり突き出た形で、その両脇にはスイレンの丸い葉がいくつも浮かび、水面をほとんど覆い隠していた。おれの接近を感じ取った水鳥たちが、そそくさと背の高いアシの茂みに隠れると、辺りはそれなりに静かになった。
 深呼吸してから、おれは杖で地面に円を画く。自分の周りをぐるりと囲むように。悪意を持つものから身を護る、最も初歩的な方法の一つだ。用心は十分するに越したことはないし、おれみたいな召喚術師には必須といってもいい。元より人間に対してちっとも友好的でない相手を、あの手この手でなんとか協力させようという訳なのだから。
 杖の下端が地面を浅く削り終えると、今度はまた別の持ち物の出番だ。鞄から白樺の枝を二本、折らないように気をつけながら取り出す。昼間レーシィに頼んで貰ってきたものだ。青々とした葉こそ付けていないが、細くしなやかなその枝を、おれは手早く結び合わせて一つの輪にした。そして、
白樺よ、白樺よ――生い茂れ、縮れっ毛! あんたのところに親友クムがやってきた、あんたの親友がピローグを持ってきた!
 遠い昔から魔女たちの間で歌い継がれてきた、短調の節回しをつけて呪文を唱え、枝輪を池に向かって放り投げた。

 弧を描いて飛んだ輪は、水に沈むどころか着水すらしなかった。中空でふわりと速度を緩め、おれの顔ほどの位置で止まる。誰かの手に捉えられたかのように。
 いや、比喩じゃなく事実だ。間違いなく「誰か」がその輪を捕まえている。真下にある水面でやにわに細波が立ち、小さな渦が生まれ、そこから二筋の水が立ち上がった。贈り物に向かって伸ばされる二本の手だった。二つはじゃれ合うように絡まり、空気の中を躍り回り――とうとう一つに溶けて、宙に浮いた枝輪をくぐり抜けた。
クックー、クマー! 嬉しいわ、あたしのお友達!
 霧のような飛沫が広がって、一枚の白いサラファンになった。細く流れ落ちる水の筋は、長くもつれ合う黒髪に変わった。すらりとした両脚が伸びて濡れた草を踏みしめた。おれの目の前に立っているのは水の塊ではなく、古いスラヴ娘の姿をした精霊だった――ルサールカだ。
セミーク祭はまだだけど、あたしのお客に来てくれたのね! ねえ、一緒に亜麻の束を梳かして、まっさらなシャツを作りましょう? それともあんたがヴァイオリンを弾いてくれたら、あたしはその周りで踊ってあげるわ……
 ルサールカの声には魔力がある。何の備えもなしに聞いたなら、人間はたちまち虜になってしまうほどの力だ。彼女たちはこの声や、あるいは踊りで男を水辺に誘い出し、溺れさせてしまうのだ――というのが典型的な言い伝えだが、もちろん上手くやっていく手段もある。さっき画いたような護りの輪、礼儀正しく誠実な態度、そして何より他の精霊たち同様、しきたりに倣った贈り物だ。

お嬢さんジェーブシカ、えー、付き合ってやりたいのはやまやまなんだ。氷もなくなったんではしゃぎたい気持ちも解る。ただ、今日はおれのほうから頼み事があって来たんだよ」
頼み事?
 光のない青い目と、血の気の失せた白い肌が、おれのすぐ傍まで近づいてくる。ルサールカは水の精だが、同時に死者の魂でもあるから、その容姿には生気が全くない。それなのに声や振る舞いは活発な、年頃の娘たちそのものだ。好奇心に満ちていて、どこか悪戯っぽくて、実際に意地の悪さもある。付き合いやすい精霊かと言われたら答えは否だ。それでも、今夜おれたちが果たすべき目的のためには彼女が必要だった。
あたしに? あたしに何をしてほしいの? トロイツァのときにお客に来てほしいの?
「いや、おれじゃなく別のお方の客になってほしいんだ。――この池を治めるツァーリのところへ、出てきて話をしてくれるよう、頼みに行ってくれないか?」
 ルサールカはおれが言い出したことの理由がよく解らないのか、しばらくの間は黙っておれを見つめていた。おれも黙って、白い顎先から滴り落ちる水の雫をただ眺めた。
この池の王様に? ツァーリがあんたに何かしたの?
「おれには別に何もしてないし、他の人に何かしたのかも……今のところは定かでないんだが。というより、そこのところを聞くためにお目にかかりたいんでな。ほら、おれは生きた人間だし、普段から池に出てるわけじゃないから、ツァーリの覚えはめでたくないだろ。でも、あんたの紹介があれば……」
 まかり間違ってもヴォジャノーイに失礼のないよう言葉を選びつつ、おれが一通り説明すると、おれの「親友クマー」はくすくす笑い声を立てて体を揺らした。ぐっしょり濡れたサラファンの裾から、いくつも雫が飛び散った。
良いわ、クムちゃん、あたしはあんたのクマーだから、あんたのお願いなら聞いてあげる。でも、後でほんとにピローグをくれるわよね? それに、ツァーリへの捧げ物も準備してなきゃだめよ……
「持ってきてるよ。ウォトカを一瓶と、パンと塩がある。あんたにはピローグだけじゃなくて、ハンカチの白いのをあげるから」
 おれの答えは彼女のお気に召したらしい。目の前で細い体が魚のように飛び跳ね、足元で水と泥とがぱしゃぱしゃと音を立てる。生きていたならその瞳は輝き出し、頬には赤みが差したことだろう。ルサールカはおれに向かって笑った。歯をむき出し、目をぐっと細くして。
ああ、あんた、あたしのお友達! ここで待っていてちょうだいね、絶対に水のご主人様を連れ出してみせるから。そしたらいっぱいお祝いよ!
 サラファンがくるりと翻り、水の精は最も相応しい場所へと駆け戻ってゆく。大きな水音に、茂みに隠れていた水鳥たちが、羽をばたつかせる騒ぎが重なった。
 白い姿が波間に消えていくのを見送って、おれは深く息を吐いた。とりあえず、使者役を断られなかったのは幸いだ。しかし問題はここからだ。アリサは最初っからヴォジャノーイをぶん殴る気満々だが、矢面に立たされるのはおれなわけで、可能な限り乱闘は避けたい。話し合いで平和的に解決するならそれに越したことはないのだ。多少の酒代やパン代ぐらい惜しくはない(明日の昼を抜く羽目にはなるだろうが)。お世辞にも平静とは言えない心臓の音を聞きながら、湿った空気を吸い込む。

「あのう……」
 その瞬間、背後から表面上申し訳なさそうな若い男の声が聞こえたので、おれは喉からしゃっくりのような喘ぎ声のような、調子の外れた異音を出す羽目になった。咄嗟に振り返ろうとして足が滑り、危うくそのまま地面に転がるところだった。
「おま、お前、あん……」
 心境に反して自分の口角が勝手に釣り上がるのが、混乱の中でもやけにはっきり感じられた。人はあまりに驚いたり怒ったりすると、自然と笑い顔になるものなんだろう、やっぱり。
「恐らくお取り込み中かと思いますので、お邪魔することになって申し訳ないのですけれど、ちょっとお話が」
「後にしてくれよ、そっちはそっちでやることあんだろ。何だ、いつもどおりに一言多くてセミョルカの機嫌が十月蜂起か? ああ、おれは何言ってるんだ、畜生……」
 おれは顔を上げてプロパガンダ男をきっと睨み付けた(たぶん口はまだ笑ったままだった)が、そこで明らかに異変に気付いた。つまり、口先だけでなく本当に申し訳なさそうだったのだ。灰色の目はおれの顔をまともに見ておらず、背筋もそれほど伸びていない。記念撮影みたいな直立不動はどこへ行ったのだろうか、爪先のあたりが不規則に動いている。何か自分の手に余る問題が発生していて、伝えるのは心苦しいが助けてほしい、そんな風情だ。
 そして何よりおかしなことがある。こいつはどうして一人なんだ?
「……セミョルカはどうした?」
「そう、そのことなんです、お話というのは」
 監察官は気後れしているようだったが、口ごもりはしなかった。 「実は先程……」

 おれの耳は次の台詞の「か」ぐらいまでならはっきり聞き取った。きっと「彼女は」と言いたかったのだろうが、どのみち正確なところは判らなかった。おれたちの左手、大分と離れたところから、稲妻のような轟音が響いてきたからだ。

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