「おいおい、怠け者さんよ」 椀の中から声がした。 「まだ真っ昼間だぜ。働かなくて良いのかよ?」

コップの中の漣 -High Noon-

 おれは舌打ちをしながら、縁に欠けのある磁器の水面を覗き込む。すっかり冷めたキャベツのスープは湯気も立てず、気持ち程度の肉の欠片を浮かべて静まり返っている。ところが、そこに映った憎たらしい――二本の角と顎髭があることからしておれのものでは有り得ない――顔は、にたにたした笑みを浮かべながら、聞き苦しいしゃがれ声でおれの態度をなじってきた。
 だがちょっと待ってほしい。おれだって別に怠けたくて怠けているわけじゃないのだ。30分ほど前に起きてきたばかりのおれが、こんなにも無気力な青白い顔で、食堂のテーブルへ突っ伏しているのにも理由がある。なにしろ昨晩は激戦だった。おれと後輩のアリサはペテルブルクの郊外にある別荘ダーチャへ呼ばれ、機嫌を損ねた家畜小屋の精霊フレーヴニクをなだめるべく手を尽くし、けれども話し合いでの解決が成らなかったので、仕方なく実力に訴えることとなった。暴れる精霊とその眷属たちを千切っては投げ千切っては投げ――その過程で家畜小屋が半壊し――なんとか暴動の鎮圧に成功したころには深夜を回っていた。そして事の次第を依頼主に報告したところ、建物に損害が出たので修繕にかかる費用は天引きにするという。小屋を破壊したのは精霊のほうだし、そもそも精霊が暴れだしたのは土地の持ち主であるてめえが粗略に扱ったせいだよ、という本音を全力で飲み込んだおれたちは、労い一つ受け取らないまま、拠点であるおんぼろ共同住宅コムナルカに帰った。
 後は当然の成り行きだ。アリサは大パック入りのアイスクリームをやけ食いし、おれは自家製ウォトカをやけ酒し、前後不覚で床に潜り込んだ。その結果がご覧の有様で、つまり二日酔いだ。不可解なのはアリサが腹を壊したり風邪を引いたりする気配がないことである。

 墓から甦った死人のごとく廊下を彷徨うおれに、家主のフセーヴァはキャベツの塩漬けでスープを作ってくれた。二日酔いの特効薬といえばキャベツである。おれは椀を片手に食堂へ到着し、その温かな汁物を一口二口は嚥下したものの、遅い来る頭の痛みと喉に絡みつく苦味のせいで、とても一度に食べきることはできなかった。そうこうしているうちに食堂の時計が正午を告げるベルを鳴らし、かと思えばいやに憎たらしい声が聞こえてきたというわけだ。
「何だよ」 おれは椀を掴んで傾け、浮かび上がった顔を睨む。 「休んで何が悪いんだ」
 毛むくじゃらの顔はひっひっと耳障りな笑い声を上げ、おれに胡乱な目を向けてきた。こいつの正体は推測するまでもなく、何処にでもありふれた小悪魔チョルトに違いない。人間を惑わして悪事に走らせ、苦しみに陥らせ、魂を奪う。敬虔で生真面目な、とても罪など犯しそうにない者が大それたことをしでかすと、昔はそれが「チョルトが惑わした」せいとされたわけだ。
 ここで多くの一般人は、至極もっともな疑問を抱くだろう。どうして小悪魔が人間を怠けさせるんじゃなく、仕事をさせようと働きかけるのか? これが安息日だっていうなら話は別だが(もっとも、21世紀のロシアで日曜日に労働することが、そこまで深刻な罪になるとも思えない)、今日は水曜日だ。平日の正午なんてまだまだ労働の最中、やっと昼食を取りに行けるか行けないか、という時間帯だ。一体全体なんでまた?
「てめえの言葉なんぞ聞くもんか、『踵のないやつ』め。太陽が空のてっぺんに掛かったら、どんな仕事の手も止める決まりなんだ」
「へえへえ、決まりね! そりゃ一体誰が決めたんだ? 働いちゃいけない、なんて!」
 水面に漣が立ち、チョルトの顔が歪む。
「そんな訳の解らない決まりに従う必要なんて無いさ。考えてもみろ、お前さんがこんなところで暮らしてるのは金がないからだろ? 金がないのは働かないからだ。他の連中が休んでいるときに働けば、もっとたくさん金が手に入る。そうすりゃ今よりずっといい暮らしができるんだ」
「悪いが、働きたくても仕事が無いんでね」
 スープと同じぐらい冷め切った声でおれは応えた。 「働いたって金にならない世界もあるしな」
「なんだそりゃ、まるで地獄だな!」
 小悪魔がこの上なく嬉しそうに笑った。全くだ。まるで地獄だ。おれたちはそこらのファストフード店のスタッフより何倍も危険な業務に、深夜といわず早朝といわず駆り出され、定時や残業代の概念を一切無視されたあげく、感謝されるどころか煙たがられたり詐欺扱いされたりする。そして給料はファストフード店員より遥かに安い。こんな地獄が他にあるだろうか。
 いや、ファストフード店のスタッフがおれたちより劣った労働者だと言う気は全くない。ああいった人々は勤務中常に笑顔と奉仕を強制されているわけで、その点ではおれたちの数倍困難なことを成し遂げているのだ。それに見合った対価を受け取る権利がある。
「なあ、お若いの、もし体が辛くて働けないなら俺様がなんとかしてやろう。だから今すぐ服を着替えて、荷物を持って、外へ出ようじゃないか」
「嫌だね。おれは正午には働かないんだ。会社員でもファストフード店員でも公務員でもないからな」
「農夫だって漁師だって構わんさ。やることは沢山ある。俺様も手伝ってやろう。さあ、稼ぎ時を逃しちゃあ損だぜ」
「解ったよ」 おれは重たく、酒の臭いをたっぷり含んだ溜息を吐いた。長話に付き合うにも限度がある。

 天気だけなら清々しい昼下がりだ。窓に掛かったレースのカーテン越しにも、初夏の明るい日差しが伺える。おれの脳内が2月のペテルブルクと同程度に灰色で、湿っぽくて、あちこち氷が張っているのとは好対照だった。けれども今ここで、多少なりともその薄暗さを払拭してくれる――そんな決意と共におれは席を立つ。
 会社員でもファストフード店員でも公務員でもないおれにとって、仕事に必要な身支度は微々たるものだ。スーツを着てネクタイを締める必要もないし、革靴や革のかばんを磨く必要もない。いつも通りのシャツとズボンに、そろそろ穴が空きそうなブーツ。片手にはチョルトの顔が映ったスープ椀、そしてもう片手には――
「おい、何だそれは?」
 小悪魔が訝しげな声で訊いた。 「シラカバの棒なんか持って、何しに行こうってんだ?」
「聞かないほうが良いと思うんだがな。少なくとも良い気分にはならないだろ」
 縦にばっかりでかいと言われがちなおれの背丈ほど、つまり190cm弱の削り出された木の棒は、おれにとって何より大事な商売道具だ。それを右手で握り締めたまま、食堂の裏口を開けておれは中庭に出る。刺すような日光が目に痛い。片隅にある小さな菜園では、トマトやらナスやらが午後の太陽をいっぱいに浴び、緑の葉をてんでに広げている。ふらつく足どりでその傍らまで行くと、おれは一旦深呼吸した。
「良いか、じゃあお望み通りに仕事をしてやるよ。ついでにさっきの疑問にも答えてやる」
 椀の水面が波打った。 「魔法の杖を持って悪魔退治に行くんだ。おれの仕事は祓魔師ヴェドマークなんだよ」

 おれの言葉に動揺したのか、チョルトは短く叫び声を上げた。誘惑する相手を間違えたことにようやく気が付いたらしい。が、もう遅い。
おお、パルードニツァ、正午の女王よ! 働くものの守り手、美しい御婦人よ!
 真昼の光が一筋、矢のように椀へと飛び込んだかと思えば、そこから強い力で引きずり出されたかのように、チョルトの全身が宙に浮かび上がった。小柄であちこち捻じくれた小悪魔の体は、たちまち太陽に灼かれてぶすぶすと煙を上げる。
 それと同じくして、古いコンクリートで打たれた壁のすぐ傍に、ゆらゆらと陽炎のようなものが立った。おれが呪文を唱えるうち、それは段々と人の姿を取り始め、やがては輪郭のはっきりとしたひとつの影になった。中世の農民画によくあるような、白いワンピースとエプロンを着けた、髪の長い女性だ。手には作物を収穫するための、長い柄のついた鎌を持っている。
わが午睡を祝福したまえ、すべての人に安らぎを! そして勤勉の敵には、永遠の眠りを与えたまえ!
 おれの詠唱が終わると同時、女性はその鎌を大きく振りかぶった。チョルトが再び椀の中に逃げ込むよりも早く、鉄の刃がすぱんと小気味良い音を立て――真っ二つになった悪魔の体は、地面に落ちると同時に、二つに割れた炭の欠片に変わってしまった。
 こうしておれは、人を正午に働かせることによって戒律を破らせようとする、不埒な悪魔を退けることに成功した。大変な偉業と言っていいだろう。二日酔いの上に寝不足の状態でよくやったと思う。問題はおれが祓魔師である以上、悪魔退治すなわち労働だということだ。

「仕事をしましたね?」
 つまり、どのみちおれは戒律を破ることになるんである。
「マクシム・アンドレエヴィチ、あなたは正午に仕事をしましたね?」
 黄金色の髪を陽光にきらめかせながら、女性はおれを正面から見据え、とても深刻そうな笑顔で尋ねてきた。この女性こそはスラヴの精霊のひとり、「正午の女王」パルードニツァである。彼女の務めは農夫たちに正しく休息を取らせることだ。働くべきでない正午に働いているものを見つけると、その力で頭痛や首の痛みを引き起こし、時には正気を失わせたり殺したりもするという。彼女の姿を見ることができるのは、一年のうちでも特に暑く、日差しの強い時期に限られる。身も蓋もない言い方をすれば日射病の擬人化だ。
「ええ――あの、そのですね」
「チョルトを退け、人々を守るという行いは尊いものです。ですが、あなたは取るべきときに休息を取りませんでしたね?」
 パルードニツァは基本的に慈しみ深い存在だ。「働くべきときには働き、休むときはきっちり休め」という、人間の心と体に優しい精霊である。少なくとも、水の精ルサールカみたいに若い男を水に引きずり込んで溺れさせたり、森の精レーシィがやるように旅人を迷子にさせたりはしない。が、やはり精霊としての性なのか、日射病という人間には太刀打ちしがたい領域を司っているせいか、どうにも融通が効かないところがある。
「ならば仕方がありません。あなたには罰として――」
「あー、えー、恐れながら申し上げます、正午の女王よ。おれは当然休むつもりだったんです。あの時のおれは誰が見ても働く気力のない、休息を希求する男だったはずです。でもチョルトのせいで休めなかったわけですよ」
「なるほど?」
 おれの拙い言い訳に、あんまり心安らがない微笑みを浮かべたパルードニツァは、頷きながら先を促す。
「よりよく休むために少々の労力を費やすってのは、義務的労働のうちに入らないんじゃないかと思うんですよね、おれは。別に実入りが発生してるわけでもなし。これで本式の仕事だったら、まあ5000ルーブルかそこらは頂きたいところで」
「……」
「あ、いや、頂かないんですけどね? 労働じゃないんでね? おれは休息の大切さを身に沁みて理解し、可能な限り遵守し、ついでにその休息を祝福してくださる御婦人にはチーズの包み焼きピローグを捧げるような善良極まりない魔術師なんで……」

 ろくな休みも与えられず、労いの言葉ひとつ掛けられずに、ただただ働かされるほど辛いことはない。
 それは地獄だ。間違いなくこの世の闇そのものだ。かといって、休みを取らなければ例外なく罰されるというのもまた、違った意味では地獄である。勤め人は時に休みを削っても達成したい目標を得るものだし、後により大きな報酬が待っているのなら、それに向かって何時間でも努力し続けられる。結局のところ、神でも精霊でも悪魔でもない人間は、自分なりのいい塩梅を見つけて生きるしかないのだ――パルードニツァへの供物であるチーズのピローグを作るのは、おれではなくフセーヴァの役目なのだが、これもまた「適材適所」という上手い塩梅の一つである。おれがピローグを焼こうとすると、どういう訳か必ず煉瓦みたいに堅くなるので。

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