テロップの字体が一回り細くなったことで、ニュースの重要性が一段下がったことが知れた。

水底まで -Has Far to Go-

 談話室に置かれた古いテレビの中では、国営放送の男性アナウンサーが、いつも通りの無愛想な顔で原稿を読み上げている。その音声がおれに聞こえることはない――寝床からずっと耳にねじ込んだままのイヤホンと、そこから流れる選曲した覚えのない懐メロに掻き消されている――が、たとえ実際に聞かなくたって、どんな声で喋っているのか判るような表情だった。テロリスト拘束の一報を読んでも、首脳会談の結果を読んでも、地元ペテルブルクで行われた綱渡りショーの成功を祝っても、みんな同じに聞こえる声。
 『コルピンスキー公園パルクで2名溺死:初夏の水遊びに警告』
 そっけないサンセリフ体の文字が、「重要性の低い」ニュースの中身を淡々と伝えてくる。おれは溜息をついたが、我ながら欠伸をしたようにしか思えなかった。それでもおれは溜息をつきたい気分だったんだ。だからいつも言ってるだろ、ルサールカの週には水に入るなって。

 5月24日は復活大祭パスハから数えて7回目の木曜日、つまり「緑の木曜日」だ。ルーシの大地が冬の灰色から完全に塗り替わり、短い夏にむけて生命が満ち溢れる。野山では草花の盛りとなり、生きた水に温度が戻り、そして水の底に閉じ込められていたものたちが地上に出てくる。水の精ルサールカもその一つで、だからこの日までの一週間を「ルサールカの週」とおれたちは呼ぶ。
 ルサールカの週が近づくと、おれたち祓魔師ヴェドマークはにわかに忙しくなる。啓蒙活動のためだ。この時期にはできるだけ水場に近づかないように、市民に対して注意喚起を行うのだ。もちろん、「北のヴェネツィア」なる異名を持つペテルブルクでは、水場を完全に避けて生活するのは無理な話だから、あくまで「可能なら」程度でしかないが、それでも気にかけないよりマシだろう。そして、間違っても自然の川や池、つまり「生きた水」に入って泳いだり遊んだりは絶対にするなと、おれたちは毎年口を酸っぱくして言い続けている。
 何故かって? ルサールカは人間にちょっかいを出すのが大好きだからだ。それも、「外に干してある布や繊維の束を盗む」やら「漁師をからかって網をひっくり返す」ぐらいならまだしも、「後ろから飛びついて気を失うまでくすぐり倒す」とか、「子供をお菓子やベリーで誘って捕まえてしまう」とか――何より有名なのは、ドイツのローレライやギリシャのセイレーンと同じく、「男を歌や踊りで誘い、水に引きずり込んで溺れさせる」だろう。ルサールカは人間が溺れるのを見るのが大好きだ。とりわけ、きちんと洗礼を受けた正教徒ハリスティアニンが誘惑にくらんで、裸の首から十字架を外し、波間に沈んでゆくところが……

 そういうわけでおれたち祓魔師は、日曜日の朝には黒いよそ行きを着て教会に通い、午後からは身軽になって川遊びに出かけようという、いたって善良な一般市民の方々に精一杯の用心を促している。が、これがまたてんで効果がない。この国は古い言い伝えとか、宗教とか、魔法とか、人ならざるものの存在を無視した期間が長すぎたんだ。正教の信仰は戻ったといっても、今じゃ昔ながらの儀式や祭日の意味を意識してる信徒はそう居ない。うちの最年少のアリサなんて、例えば四旬大斎の断食を「良いダイエットの機会」程度にしか考えていないぐらいだ(そもそも正教徒でないおれが言えた立場ではないが)。
「おお、マックス。お前さん、もう夏なんだから、10時を過ぎて起きてくるのはよせよ。日が長いうちは有難がって早起きするもんだ」
 そんな現在のルーシの大地、もとい「ロシア連邦共和国」においては珍しく敬虔な信者が、今日も談話室に顔を出すなり、やんわりとおれの生活態度に指導を入れてくる。フセーヴァだ。相変わらずロシアの中年男性というよりは、海の彼方のシリコンバレーだか何だかで最高責任者になり損ねたまま今秋に退職します、みたいな無味乾燥そのものの格好をしている。
「日差しのある間に洗濯をしとけよ。向こう数日は曇りらしいぞ」
「はいはい。……洗濯室に掛かってた、あの、なんか黒い長い服、」
「ポドリャスニク」
 語彙に乏しいおれの説明に、フセーヴァが簡潔な言葉を返した。教会のいわゆる「お手伝いさん」が着る祭服だ。
「そう、それな、それも一緒に洗えばいいわけ?」
「やってくれるのか? じゃあ頼む。聖神降臨祭トロイツァのときに着て出にゃならんからな、助かるよ……」
 アリサは俺の服を一緒にしたがらない年頃なんだ、とフセーヴァは言う。が、それは最早「年頃」とかそういうもんじゃないだろうとおれは思う。確かにアリサの見た目は思春期手前の小学生といったところだが、実年齢は19歳だしな。

 脱水のたび今にも自壊するんじゃないかというようなゴトゴト音を立てる、最低でも製造後20年以上の洗濯機は、一応つつがなく仕事を終えてちゃちな電子音を鳴らした。おれは黄ばんだプラスチックの籠に洗濯物を満載し、物干し台のある中庭へと出ていった。外は気温も大分上がって、青空には薄雲こそあるものの、全世界に自信を持って「晴れ」と主張できる空模様だ。日差しが菜園のトマトやらナスやらの葉に降り注いでは、コンクリートの壁に影絵を作り出している。絶好の外出日和と言えるだろう。ところがこんな日のペテルブルクは、モスクワ駅からエルミタージュまでの目抜き通りはもちろん、別になんでもないファストフード店や魚料理の安い食堂、ちょっとした裏手の路地にある喫茶店、緑以外には取り立てて何もない公園に至るまで観光客で溢れ返る。よって、おれはこのソ連時代を色濃く残した共同住宅コムナルカから出る気はない。
 風呂で使ったタオルだの、毎日ろくに変わり映えもしないおれのシャツだのの皺を伸ばし、ハンガーに掛けて物干し台に吊るやら、あるいは横に張ったロープへ引っ掛けるやら、小さいころに教え込まれた洗濯の作法を、おれは忠実に守りながら仕事に励む。しかしどうにも空気が湿っぽい――鼻先に水の匂いを感じるのは、濡れた洗濯物のせいだけじゃないはずだ。これは向こう数日どころか、今日の夕方にも一雨くるんじゃないかという感覚。もしくは、おれたち祓魔師がいうところの「ルサールカが辺りを駆け回っている」気配だった。

 そうだ、緑の木曜日を過ぎれば、次の日曜日であるトロイツァまで、「水のもの」たちも陸に上がる。遊び好きのいたずら好きなルサールカは、人間の真似をして糸を紡いだり、洗濯をしたり、洋服を着たりしたがるのだという。おれにそのことを教えてくれたのはお袋だった。おれのお袋は魔女だったのだ。

  * * *

 おれがまだガキの頃――お袋と共にペテルブルクの郊外、それなりに小奇麗なアパートに住んでいた頃の話だ。ルサールカの週になると、お袋は「緑の木曜日」に向けて、セミーク祭の準備にあちこち走り回っていた。お袋だけじゃない、ペテルブルク中の魔女たちがそうだった――といっても、やっと「科学的共産主義」から抜け出したばかりだったあの頃のロシアに、どれだけ魔女が残っていたのかおれには解らないが。
 お袋が仕事(もちろん魔女の本業ではなく、生計を立てるための諸々の副業)の合間を縫って、祝祭のためのピローグや輪型のパンを焼いたり、花の世話をしたり、色とりどりのリボンを買ってきたりするのを、おれはいつも台所の椅子に座って眺めていた。まだ4つ5つの幼児にとって、母親が手際よくやってのけることの全ては魔法に見えるもんだが、お袋のは本物の魔法だった。
 ルサールカの週に外へ、それも自然の多いような場所まで出かけることになると、お袋は決まっておれにまじないを掛けた。部屋の隅にある小さな祭壇の下から、布に包まれた一本のナイフを出してきて、おれの周りに円を描くのだ。

  ルサールカから セミークのルサールカから 身を護るのに
  自分のまわりに 線を引け 円を描け……

 そう口ずさみながら。
 セミーク祭はルサールカと、それを含めたあらゆる自然の王である雷神ペルーンを祀るためのものだ。遥か昔の暦では毎週ごとに何かしらの祭祀をやることになっていたらしいが、その中でも特に大切なものの一つだったという。白樺の梢に青々とした葉が茂ると、ルサールカたちが水を離れて、その傍にある森や畑に移り住んでくる。だから人間は彼女たちが悪さをしないよう、そして自分たちを手助けしてくれるよう願ったわけだ。円を描くことで、自然の精が持つ豊穣の力を閉じ込める。逆に、悪意や誘惑は跳ねのけることができる。お袋は魔女(ルーシが教化される前は「賢い女たち」と呼ばれたようなもの)だから、そのやりかたをよく知っていた。――おれはいつか同じような魔術師になりたかった。

 緑の木曜日になると、夜明け前に魔女たちは白樺の森へ集まる。昔は村の娘なら誰でもそうしたんだろうが、今は古い信仰を持ち続けている人だけのものだ。もちろんお袋もその一人だった。
 おれが5歳のときだったと思う。まだ雄鶏も鳴かない時分から、お袋は寝ているおれを静かにゆすり起こした。眠くてむにゃむにゃ言っているおれをベッドの上に座らせ、膝の上に白いルバーシカとサラファンを乗せて。
「さあ、もうしっかり目を開けて。今年はあなたも一緒に行きましょうね」
 それからお袋はおれの寝間着を脱がせ、石鹸の匂いのするルバーシカを着せ、その上からサラファンを履かせた。つまり「女の子」の服を。セミーク祭は本当なら娘たちのもので、男のおれが出てはいけない――けれども魔術師になるためには、ルサールカとの付き合いかたを知っておく必要がある。解決策がこの女装だったというわけだ。
 とかした髪をスカーフで覆い、首にはビーズ編みの飾りを掛けて、おれたちは静かに家を出ていった。ペテルブルクの街中から目的の森までは、それなりに歩かなければならなかった。少なくとも子供の足にとっては長い道のりだ。履き慣れないよそ行きの靴のせいで、余計にそう感じられた。

「ねえ、どうしてセミークにお祭りをするの?」
 道すがら、おれはお袋に質問した。ルサールカの話はいくつも聞いたことはあったが、祭りの詳しいところについてをしっかり理解していたわけじゃなかった。
「セミークから次の日曜日のトロイツァまで、水に住む娘さんたちが陸に上がってくるからよ」
「ルサールカのこと?」
「そう。娘さんたちが陸を走り回ると、そこには緑がよく茂って――私たちはライ麦や大麦をたくさん食べられるようになる。でも、それは娘さんたちと私たち人間が仲良くしているときだけ」
 おれと同じようにサラファンとルバーシカを着たお袋は、おれの手を引きながらそう答えた。子供をあやすような甘い声じゃなく、対等な大人に話すのに近い落ち着きを持って。
「娘さんたちが機嫌を悪くすると、必ず人間に仕返しをするわ。女の人が子供を産めなくしたり、男の人を引きずっていって溺れさせたりするでしょう。そうならないようにお祭りをして、親友クマーになってもらうのよ。大昔は街や村の人たちみんなでやったけど、今は誰もそんなことはしない。だから私たちが代わりにするの」
 5月の夜のひんやりとした空気に、静かな語りはゆったりと流れ、白樺のざわめく音と交じっていった。
「……でも、おれが出ていって、ルサールカにさらわれたりしない?」
 こわごわ尋ねると、返ってくるのは勇気づけるような言葉だ。
「今はお母さんがついているから大丈夫。でも、いつかは自分の力でできるようにならなくちゃ駄目よ。そのために今日、こうやって一緒に見に行くんだから」
 繋いだ手から伝わってくる暖かさと、声の持つ温度がおれを励ました。もう片方の手に抱えた紙包みから立ち上る、香ばしいピローグの匂いも後押ししていた。そして何より一人前の大人に、魔法使いになるためだという強い意思が。

 街灯も何もない道に「灯明」の呪文を唱え、青白い光をゆらゆらと灯しながら、おれたちは森の奥までやってきた。そこにはもう何人もの魔女たちが集まっており――お袋とおれの姿を見て一様に怪訝な顔をした。思うに、お袋はこの前年まできっと、自分が既婚者で息子までいることをわざわざ口には出さずにいたんだろう。
 さっそく異物扱いされたらしいことを子供心に感じ取ったおれは、お袋の影に隠れて縮こまっていたが、お袋のほうは堂々としたものだった。持参した祭祀のための品をてきぱきと草の上に広げ、自分よりずっと若い魔女たちに指示を飛ばし始めた。
「さあ、みんな木に登って、枝を選んで! 私たちの大事なお友達のためにね!」
 その掛け声で、祭りの衣装を着た魔女たちはめいめい、曲がったり枝分かれした白樺にするすると登ってゆく。魔女らしく呪文で高い枝まで上がるのもいたが、大抵は自力で、それも長いスカートを着たまま座れるような、低いところで二股になった幹を選んで登っていた。お袋も、おれの背丈ほどのところに張り出した太い枝を見つけて座り、おれを両手で引っ張り上げると、腰を落ち着けるのにちょうどいい窪みに乗せてくれた。
「これを持ってね、ほら、この片方の枝を。お母さんがこっちから別の枝を合わせるから、一緒に編んでリボンで結ぶの。できる?」
 細く柔らかな若い枝の一本を引き寄せ、おれの手に握らせながらお袋は言った。おれは頷いたが、子供時代からお世辞にも器用とは言えなかったおれの手にとって、枝を編み込んでいくのは大した難題だった。それでも、後ろから手を回されながら、なんやかんや悪戦苦闘しているうちに、白い枝と赤や青のリボンを使った、それらしい枝輪は完成に近づいてゆく。
 そして、周りの魔女たちは枝を編み、足をぶらぶらと揺らしながら、声を揃えてこんなふうに歌うのだった――

  尊いセミーク、イーストなしのピローグよ
  若者たちが歩けば――そこには煙が立ちのぼる
  娘たちが歩けば――そこにはライ麦が生い茂る!
  ねえ、あんたたち、かわいいお友達、
  仲良くなって、喧嘩しないでね!

 枝輪が一つ編み上がるたびに、魔女たちの声はますます明るく、大きくなってゆく。白樺のざわめきも増してゆく。風が強くなっているわけでもないのに。――いや、風じゃない。若い梢を揺らしているのはルサールカたちだった。ルサールカたちが木に登って、魔女たちの傍で一緒になって揺れているのだ。あの頃のおれには姿こそ見えなかったが、人間の合唱とは違ういくつもの話し声が、右から左から聞こえ始めていた。

まあ、見て!」 その声のうち一つが不意に叫んだ。 「男の子だわ!
 おれの周りで渦巻くいくつもの囁きが、にわかに分厚くなった気がした。大人になった今考えてみれば、ルサールカ相手に見た目を少々繕ったぐらいで通じるわけがない。いくら子供時代のおれがあんまり「男の子」らしくない、いろいろと発達の遅れた体つきだったとはいえど、女物の服と首飾りぐらいで魂まで誤魔化せるはずもなかった。
あら本当、男の子だわ!
あの子たちったら、今年は男の子を連れてきたんだわ!
ごきげんよう、かわいいお友達! あたしのお客にきてくれたの?
ちょっと、あんたじゃないわよ、あたしと親友クムになりにきたのよ!
 まるでルサールカたちが取り合っているように、さっき編んだ枝輪があっちやこっちへ揺れ動く。おれはすっかり背筋が寒くなって、おふくろの腕にしがみついていた。水の精のおしゃべりはお袋のそれよりずっと高く、水場ではしゃぎ回る若い娘たちそのものだ。すぐ近くで聞こえているようにも、もっと遠くで――水の中に沈み込んだまま聞く地上の音と同じで、どこか違う世界から響いているようにも感じた。

  お友達、かわいい人、
  仲良くなってね、喧嘩しちゃだめよ!
  けど、仲をほどいたなら、
  殴り合ったっていいのよ……

ああ、でも駄目よ、ほら見て――この子の周りには、金のナイフで円が描いてあるもの。それに、燕麦とホップも撒いてあるわ
あら本当、それじゃこの子はもう、誰か他の子のお友達なのね
なあんだ、残念――

  編んだわ 枝輪を
  編んだわ 緑のを
  良い年になるように――穀物が茂るように!
  穂をたくさんつけた 大麦が、
  鬚をつけた オート麦が、
  真っ黒な 蕎麦も、
  真っ白なキャベツも できるように!

でも、それも枝をほどくまでよ。そしたらもうお別れして、お互い嫌いになるのよ
そうよ、仲違いして、そしたら今度はあたしたちの親友になるのよ
じゃあ、その時にはあたし、この子にスゲの茎で新しい輪を編んであげるわ……
あら、そんならあたしはスイレンの花で編んであげるわ。それで一緒にどっさり亜麻を梳いてもらうんだから
ずるいわ、あたしがするのよ。あたしがこの子の手を白樺で結んであげるんだから
それじゃ駄目よ、この子があたしのためにヴァイオリンを弾けないじゃないの!

 おれの心は不安でいっぱいになり、今すぐにでもルサールカにさらわれるんじゃないかという恐れから逃れるため、何度も頭上にあるお袋の顔を見た。お袋はおれの手を握り、歌の合間に小さな声でこう諭した。
「お嬢さんたちの声が聞こえるなら、マクシムーシュカ、ちゃんと聞いていなくちゃいけないわ。聞こえないふりをしては駄目!」

  ねえ、あんたたち、かわいいお友達、
  仲良くなって、喧嘩しないでね!
  トロイツァに お客にきてよ、
  亜麻の束を持って つむもいっしょに!

 とうとう水の精たちも、魔女たちの歌に声を合わせはじめた。人間は一度耳にしたが最後、何年もの間その場に立ち尽くしたまま聞き入ってしまう――それほどの魅了の力が込められた声だ。ガキの頃のおれにそれが解らなかったのは、単にまだ子供だったせいか、それともお袋が守ってくれていたせいか、あるいはおれ自身に既に魔法の力が備わっていたということなのか、未だにはっきりしない。
 ただ、おれにも確かに聞こえていたものがある。その歌声の裏に混ざる、川のせせらぎや波の寄せる音、そして不吉で耳障りなカササギの囀り、水面の下でごぼごぼと沸き起こる泡、意地の悪い笑いとすすり泣き――
 ルサールカは水の精だが、ただの水からは生まれてこない。彼女たちは元々人間だった。愛する者に罵られたり、捨てられたり、単に運がなかったせいで、呪いの中で死んだ女たち。その魂がルサールカになるのだ。

 やがて重なり合った歌声が一つ減り、二つ減り、セミークの儀式はひとまず小休止となった。それぞれが持ち寄った食べ物や酒を分かち合い、「お友達」とより親密になる機会とするわけだ。魔女たちは白樺からそれぞれに離れ、少し開けたようになった草地へ集まる。お袋もおれを抱えて枝を下り、しっかりと地に足をつけた。
「ほら、大丈夫だったでしょう?」
 まだ固くなっているおれに向かって、お袋は微笑みかけた。おれはそれで安心しても良かったんだが、どうしても気になることがあって、すぐに息をつくことはできなかった。
「ねえ、」 口に出すのはいくらか躊躇った。 「お母さんは、ルサールカにはならないよね?」
 おれの顔を見るお袋の目が、その瞬間にほんの少しだけ揺らいだ気がした。
「もちろん、マクシムーシュカ」
 言い聞かせるような頷き。 「お母さんは……」

 その先は続かなかった。遠巻きにこちらを眺める魔女たちに、未だにさざめき聞こえるルサールカたちの歌に背を向け、お袋はおれをきつく抱き締めた。
 多分、おれは本当のことを言い当ててしまったんじゃないかと思う。

  お友達、かわいい人、
  仲良くなってね、喧嘩しちゃだめよ!
  けど、仲をほどいたなら、
  殴り合ったっていいのよ……

 この時からだ、おれの「魔法使いになりたい」が、「魔法使いにならなければ」に変わったのは。

  * * *

 はためく洗濯物の上に日差しは降り注ぎ、ペテルブルクに新しい季節がやってきたことを誇示する。短い春はもう終いだと。おれたちのコムナルカには白樺一本生えちゃいないが、夏の初めのころになると、遠い森から聞こえる葉擦れの音を思い出す。ルーシの夏はルサールカたちと共に幕を開ける。あっちやこっちで水の精たちが跳ね回り、人間の心は掻き乱される。
 夢と憧れが偏執へと変わるにつれ、子供だったおれの声はどんどん低くなり、背は伸びて、今じゃルバシカとサラファンを着たところで、精霊どころか自分自身の目だって誤魔化せない。
娘たちが歩けば――オィ・グジェー・ジェーヴシュキ・シュリーそこにはライ麦が生い茂るタム・イ・ローズィ・グースタ……」
 あのとき習った歌はまだ忘れていないけれども、魔女たちと同じ高さで声を揃えようにも、最初のフレーズから高すぎる。口から出てきた音の拙さが我ながら痛かった。おれは祓魔師にはなったし、ルサールカと「お友達」にもなったが、きっとお袋のような本物の魔法使いには程遠いんだろう――

「――…ス、ちょっと聞いて――…、おい、おっさん!」
 その時、背後から礼儀とか品性とかいうものをかなぐり捨てた叫びが聞こえ、おれはやっと我に返った。振り向けば、小脇に籐籠(洗濯籠じゃなく、台所で食べ物を盛るのに使うやつだ)を抱えたアリサが、苛立ちを隠しもしない顔でこちらを睨んでいる。
「お前な、『おい』はねえだろ『おい』は。あと『おっさん』はもっとねえだろ。仮にも先輩に向かってお前……いや、別に先輩でなくてもだな……」
 おれは当然の抗議をしかけたが、アリサは全く聞く耳持たずで、
「フセーヴァ小父さんが食事できたっていうから呼びにきてやったのに、あんた日なたにぼーっと突っ立ってごにょごにょ言ってんだもん、日射病か何かでおかしくなったかと思ったよ。さっさと手洗って食堂!」
 そうまくし立てたと思えば、菜園そばの納屋からカブをいくつか籠に放り込み、また屋内へと戻っていってしまった。甲高い子供の声は耳に痛い。とても19とは思えない見た目通りの声だ――これから先どれほど歳ばかりが増えても、決してこれ以上は低くなることのない声。

 お袋の声はどうだったろうか。思い返してみたものの、いまいち確信が持てない。たった数ヶ月電話しないでいるだけで、親の声はここまで朧になってしまうのに、あの日聞いたルサールカたちの歌声は、いつまで経っても耳から離れてくれない。水をたっぷり含んだ夏の空気に、白樺の立てるざわめきと一緒になって、今でも遠くから、すぐそこから呼んでいる。 「クマー! クマー! おいでよ!

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