混んでいない日があるのかという疑問はさておき、その日のソフィスカヤ通りは混んでいた。

夕星の影を連れて -Once Upon An October-

 世界で最も混雑している都市ワースト3はバンコク・ジャカルタ・メキシコシティらしいが、おれたちの住むサンクトペテルブルクも常にワースト10入りしているような街だ。周囲にはだだっ広い草地と、遠くに立ち並ぶ送電線と、さらに遠くの針葉樹林ぐらいしかない幹線道路が、週末には何千という車の群れで埋め尽くされる。かたや市街からペテルブルクを訪れる車の群れ、かたや市内から郊外の別荘ダーチャへ休暇を過ごしに行く車の群れ。そのどちらでもない77年製の中古ちゅうぶるラーダは、運転席にフセーヴァを、後部座席におれを乗せたまま、完全に身動きが取れなくなっていた。
「すまんね、マックス」
 背もたれ越しにおれを振り返りながら、フセーヴァが溜息と共に言った。
「普通ならここまでじゃないはずなんだがな。というより、車を出した時点じゃ混んでなかった」
「お生憎さま」 おれは携帯を座席に放り投げた。
「レンソヴェトフスキーのほうで事故。それがこっちまで影響してるんだ」
「なんだって――また例の『愚かさの橋モスト・グルポスチ』か? あそこはいい加減にトラック進入禁止にしても良いんじゃないかねえ……」

 己の車高をいまいち把握していないトラック運転手のせいで、定期的に橋桁との衝突事故が起きる魔の立体交差地点――「愚かさの橋」とはよく言ったもんだ――の話を延々続けてもいいんだが、そうしたところで渋滞が解決するわけでもない。おれは自分の端末に続き、自分自身も座席に投げ出して、ぼんやり前方を眺めた。ダッシュボードの車載カメラが、静止画にほど近い片側三車線の映像を撮影し続けている。カメラスタンドにぶら下がっているのは、アリサの強制によって導入された消臭剤。その横には、キリスト教のなんとかいう聖人を描いた聖像画イコンが、そこまで神々しくないプラスチックの額に鎮座している。フセーヴァ曰く、彼は旅行者の守護聖人で、移動に伴う災いから守ってくれるのだ、と。話半分に聞いていたせいで、聖人の名前はもう覚えていない。外見上の性別から考えて、生神女マリヤでないことは間違いない。――おれがこの車に乗って本当にいいものか、おれは時々疑問に思う。
 妥当性は置いておくとして、車の持ち主であるフセーヴァは、仕事帰りのおれを快く拾ってくれた。ちょうど近くにいるから、どうせなら乗っていくか、と。こんな家から遠く離れた郊外に一体何の用があるのかと思ったが、交通費の節約になるというありがたみを優先し、深くは気にしないことにした。この近辺でフセーヴァに関係のありそうなものといったら、大祖国戦争の慰霊碑ぐらいしかない。うかつに言及できないやつだ。
 車は十分ほどの間、制限時速とほぼ同等の速さで走っていた。が、段々と追い越しが困難になり、周りの景色は停滞し、ソフィスカヤ通りに入るころにはご覧の有様だった。おれたちは己の判断の迂闊さを呪い、己の車高をいまいち把握していないトラック運転手を呪い、橋をくぐり抜ける車道をトラック進入禁止にしない連邦運輸省を呪ったが、言うまでもなく事態は一切改善しなかった。

「マックス、お前さんもう降りて、地下鉄に乗ったほうがいいんじゃないか」
 ネットで渋滞情報を追うのも馬鹿らしくなったころ、とうとうフセーヴァが言い出した。
「いや、降りるって……」
「少し歩かなきゃならんが、この辺りなら確か……リバツコエ駅があるだろう。俺が思うに、車が動き出すころには家に着けるんじゃないか。運賃は出してやるから」
「良いって、フセーヴァ、そういうのは」
 おれは首を横に振り、改めて腰を落ち着けた。
「どうせ地下鉄だって混んでるに決まってるだろ。一時間立ちっぱなしなんてごめんだね。座れるだけこっちのほうが遥かにマシだよ」
 フセーヴァは申し訳なく思っているのかもしれないが、おれにとっては公共交通機関より、自家用車のほうがよほど気が楽だ。規定の時間までに家に帰り着かなきゃならない理由もない(自由業の数少ない利点だ)。おれは再び座席に身体をもたせかけ、すすけた天井を眺め始めた。
 その時、どこからかコツコツと、何か硬いものを叩く音がした。上向けたままの視界では何も起きていない。おれの左側から聞こえたような気がする。これは車外か。車のドアを叩いたのなら、もう少し違う音がするだろうから、ガラスのほうか?
 停車中の、それも渋滞の真っ只中にある自動車のサイドウインドウを叩く者がいるとすれば、真っ先に思い当たるのは警察官だ。彼らには運転手にドアを開けさせ、様々な理由で違反切符を切るという使命がある(他にも色々使命はあると思うが今は考慮しない)。おれは自分自身を、ついで運転席のフセーヴァの身をそれぞれ確認したが、シートベルトはきちんと締めているし、居眠り運転だってしていない。車中にいるフセーヴァというのは、およそ運転とそれに伴う危機の回避に全力を尽くすタイプで、携帯をいじりもしなければ、音楽だって滅多には聴かないたちなのだ。
 とすると物乞いか。残念ながら警察官の場合と同様、明らかに車を間違えているとしか言いようがない。100ルーブルの寄付をする余裕があるなら、フセーヴァに拾ってもらわなくとも最初から地下鉄を選んでいたはずだ。

 疲労のせいでいつもより重たい頭を、緩慢に動かして見た先には――果たして警察官はいなかった。窓からやっと頭が出るぐらいの小さな男の子だ。いかにもみすぼらしい身なりではなく、物乞いの子供とはとても思えない。いや、そもそも生きた子供だとすらおれには思えなかった。
 まず、白い半袖シャツ。――それの何がおかしいのかって? 今日は10月7日で、外は雪のちらつく零下だ。いくら健康的な子供だって、半袖シャツ一枚でうろつきたいような状況じゃない。青い短ズボンも同じ理由で奇妙だ。金髪をきれいに梳いた頭には、昔の兵隊じみた略帽を被っている。ただしカーキじゃなく真っ赤なやつだ。そして極めつけには、シャツの襟元に小さな、見るからにプラスチック製の量産品らしき、赤い星のバッジを留めているのだった。
 こんな格好をした子供は、2018年のロシアにはいない。いや、もしかするとどこかしらに生き残ってはいるのかもしれないが、少なくとも一人でふらりと渋滞の車列に割り込んできたりはしない。
「なあ、なあフセーヴァ」
 おれは運転席へと手を伸ばし、ハンドルに掛けられたままの腕を小突く。
「何かいマックス、水だったら積んでる袋の中に……」
「外、外見てくれ、後部ドア。ミラーじゃなくて直接」
 おれがあくまで肉眼を主張したのは、もちろん鏡に映らない可能性があるからだ。怪訝そうに片眉を上げながら、フセーヴァは窓を開け(と同時に吹き込む寒気に顔をしかめ)、身を乗り出して車体の後方を覗き込んだ。
 それから言った。 「何だありゃあ、オクチャブリャータか?」

 その響きが一体何を意味するものだったか、おれは少しの間考え込むことになった。が、「10月革命の子供たちオクチャブリャータ」というからには、当然ながら前世紀の産物、まだこの街が「レニングラード」と呼ばれていた頃のものに違いなかった。
 要するに、ソ連の少年団だ――諸外国ではピオネールばっかりが(主にチェブラーシカが「ピオネールに入りたい」などと言い出したせいで)有名だが、そこに所属できるのは10歳から15歳まで。それより年上になれば共産主義青年同盟コムソモールに入る。それより下の幼子たちが、「候補生」としてオクチャブリャータに選ばれる。襟に留められた赤いバッジは、栄えあるエリート少年少女の証なのだ。
「さっき窓を叩いてて、おれが見たらそこにいたんだ」
 おれが説明を試みる間にも、ソ連時代の亡霊(比喩表現でなしにこんな言葉を日用するのは、それこそおれたち祓魔師ヴェドマークぐらいなもんだ)は後部座席の窓から離れ、小走りに運転席の側へと駆け寄った。おれよりフセーヴァのほうが話を聞いてくれそうだと思ったのかもしれない。気持ちは解る。
「どうしたね、お前さん」
 再び運転席に引っ込んだフセーヴァは、顔だけを窓から覗かせて訊いた。
「こんな車道にいちゃ危ないから、列が動かないうちにあっちへ戻ったほうがいい。それとも、俺たちに何か用事かね?」
 教会勤めらしい穏やかな声で促されても、子供はじっとその場を動かなかった。フセーヴァは静かに待っていた。おれは後部座席で様子を伺いつつ、不測の事態にいつでも対処できるよう、足元に置いてあった杖をそっと拾い上げた。
「のせてください」
 子供の第一声はそれだった。まあ予測の範疇だ。ヒッチハイクする幽霊、とくればロシアに限らず、あらゆる国で都市伝説のテンプレートと化している。もちろん幽霊客は目的地へ向かう途中で消え、運転手が恐る恐る最後まで運転してみるとそこは墓場だったとか、あるいは廃墟だったとかいう結末が待っている。
「乗せるったってなあ、見てみな、当分どの車も動きそうにない。急ぐんだったらお勧めしないがね。お前さん、どこまで行きたいんだ?」
「遠くです。……モスクワです」
 まだ声変わりもしていない、子供特有の音高い響きは、きっぱりとして大真面目なようだった。対するフセーヴァは苦笑を噛み殺し、つとめて冷静に答えようとしていた。
「モスクワはさすがに無理だな。というのは、そこまで行くだけのガソリンを積んでないもんでね。途中で入れながら行けば別だが、まあ明日の朝までは掛かっちまうよ」
「じゃあ、ナホトカ?」
「そいつはもっと無理だな。お前さん、ここからナホトカまでは、ここからモスクワまでの14倍近くあるんだぞ?」
「……それじゃあ、ガッチナ」
 いきなり近所になったな、おい。
 おれは内心で思い切り突っ込みを入れてしまったが、しかし齢一桁の子供にとっては、自分の住む街から「遠く」の認識なんてそんなもんだ。首都のモスクワがあり、極東のナホトカがあり、次にはもうペテルブルク近郊の小さな市が来てしまう(たぶん親戚でも住んでいるんだろう)。
「ガッチナねえ。それぐらいなら問題ないが、――そこにお前さんの家がある、ってわけじゃないな?」
 子供はためらうような間を置いたあと、小さく頷いた。
「だったら、……いや、話は乗ってからにするかね。外は寒いだろう。マックス、後ろを開けてやってくれ」
「こっちを?」
 別にこんな愛想の悪い男と隣り合わなくても、助手席に乗せてやりゃ良いじゃないか――おれは言いかけたが、フセーヴァがダッシュボードのイコンを軽く示したので、言葉を飲み込んだ。幽霊(推定)を聖なる肖像と直接向き合わせるわけにもいかない。おれは手を伸ばして、後部座席のドアを開けた。冷たい風に煽られて、雪が一片また一片と舞い込んできた。

  * * *

 それにしても、ソ連の亡霊とは――「科学的共産主義」を掲げた当時の偉いさんたちには悪いが、実際この街にはレニングラード時代から多数の死者が歩き回っていた。革命や大祖国戦争を例に挙げるまでもなく、血なまぐさい歴史を多く経験してきているから、その手の怪談話には事欠かない。あちらのアパートでは怪僧ラスプーチンの亡霊がうろつき、こちらの墓地には悪魔と契った不死の修道士が現れ、とある運河では革命闘士の霊が出会う者に呪いをかけるという。革命闘士さえ幽霊になるぐらいだから、オクチャブリャータの小さな同志が幽霊になったって何の不思議もない。疑問に思わなくていいのかはともかく。
「車が動き出すまでは、お前さんは黙って乗ってても構わんよ。ただ、俺たちも家に帰らなきゃならんのは同じだ。だから、列がなんとか前に進み始めたら、本当はどこに行けばいいのか教えてもらいたい。そこまで送ってやるから」
 こちらを顧みつつフセーヴァが言うと、子供は従順そうに頭を下げた。利かん気な幽霊でなかったのは幸いだった。おれはそもそも子供と接するのが得意じゃない。まあ子供に限らず人類みな得意じゃないが、特に子供のことは解らない。自分が子供だった頃を思い出そうにも、おれは当時からだいぶ可愛げのないガキだったので、大人に何かされて嬉しかったという記憶自体が少ししかない。
「それと、もしかしたらなんだが、お前さんたち腹は減ってないかね。そこに積んである中に『スパー』の袋があるだろう、マックス。……マックス?」
「聞いてるよ」
 面倒がって相槌を打たずにいたら、フセーヴァは律儀にこちらへ乗り出して確認までしてきた。慌てて返事をする。スパーってのは一体何だったか、外資系の食料品店だったっけか、と考え込む暇もない。
「その袋にプリャーニクだのワッフルだの、菓子のたぐいが一通り入ってるから二人で分けな。全部は食うなよ、アリサが怒るから」
 言われるまでもない注意を最後に付け加えて、フセーヴァは再びハンドルへと向き直った。それから助手席前の収納をがさごそやりだした。地図でも探しているのかもしれない。

 カーナビを設置する気は一切ないらしいレトロカー愛好家を尻目に、おれは買い物袋を引き寄せ、中身をざっと把握した。なるほど、ハチミツの瓶だのパック入りソーセージだのと一緒に、色とりどりの菓子らしき包装が目に入る。キャラメルクリームを挟んだワッフルは、アリサの大好物だから手をつけるまい。後で殴られるのはおれだ。それを除いて、前時代の子供が喜ぶ菓子っていうのは――どれを選べばいいんだ? そもそもこの子供は、70年に渡るソ連時代のうち、どの辺りに生きていた子供なんだ?
 崩壊前には確実に存在しなかったろう、パッケージに「BIO」と大書されたナッツバーを片手に唸っていたおれは、ふと真横からの視線を感じた。顔を向けてみると例の子供が、それはもう真摯な表情でおれの手元を凝視していたので、思わず飛び退きそうになった。職務上、「振り返ってみたら小悪魔チョルトがにたにた笑っていた」なんて状況には慣れっこだし、対処にだって困らないが、至近距離で子供に見つめられるのは心臓に悪すぎる。
「えー、その、それ……どれがいい? いや、どれがいいも何も見なきゃ解らねえよな。つまり」
「プリャーニク?」
「何?」
「プリャーニク……」
 咄嗟に聞き返した声は、思ったよりつっけんどんになってしまった。失敗だ。子供の声も一段小さくなり、けれども主張だけは変える気がないらしかった。さっきフセーヴァが挙げたもう一つの名前だ。
「ああ、あるって言ってたよな、プリャーニク。それがいいのか? ええと……」
 おれは袋を引っ掻き回し、ソ連どころか帝国時代よりも前からある糖蜜菓子の包みを探した。出てきたのは半透明の袋に入った、菓子パンサイズの代物だった。絶妙にかわいげのない、ニワトリらしきキャラクターのロゴが描いてある。
「……これなんだけど」
 差し出した品に対してのコメントはなかったものの、すぐに察した。子供が素直なのは結構なんだが、それにしたって露骨に「思ってたのと違う」みたいな顔をしなくたっていいだろう。
「じゃあ、あー、チョコレートとチュッパチャッ……飴だったらどっちがいい。ほら、これとこれ」
 しばらく迷った末に、おれは時代を問わず普遍的に通用しそうな、二つの品をポリ袋から引っ張り出した。ロシアらしさを全面に押し出したような、スカーフを巻いた子供の絵が描かれた板チョコと、サイケデリックな色柄のフィルムに包まれた棒付き飴だ。後者もアリサの好物だが、こっちにはワッフルほどの執着はないはずだから構わないはずだ。
 子供が反応したのはチョコレートのほうだった。薄い灰色の目がきらりと輝き、おれの左手をじっと見る。
「アリョンカだ……!」
「そう、食べたことあるんなら好きだろ? いや、食べたことねえかもだけど。こっちがいいなら、どうぞ」
 おれが突き出した紙包みへ、今までにない素早さで小さな手が伸びる。
 この「アリョンカ」というチョコレートが、ソ連時代から存在していたことは明白だった。なにしろメーカー名からして「赤い10月クラースヌイ・オクチャーブリ社」だ。紛うことなき革命政権下の国営企業でございます、という佇まいである。レニングラードがサンクトペテルブルクになっても、この社名だけは何故か変わっていない。
 ともあれ、おれは選択を間違えなかったわけだ。やれやれ、と子供のことは一旦脇に置いて、自分のためのエネルギーを補給しようと、買い物袋の中から適当な品を掴み出す。さすがにチュッパチャップスじゃ腹に溜まらない。さっきのプリャーニクにでもするか、甘すぎたりもしないし……
 ポリ袋のがさがさいう音に交じって、ぱきん、という硬い響きが聞こえたのはその時だった。大きさのわりにずっしり重い糖蜜菓子を掴んだまま、頭だけをそちらに向けると、おれの目の前には半分に割られた板チョコが、さも当然のように差し出されていた。
「あ?」
「二人で分けなさいって」
「いや、あれはそういう意味じゃ……ああ、まあ、解ったよ」
 なんてよくできた子供なんだ。オクチャブリャータの教育のせいなのか、親のしつけのおかげなのか、単純にこの子供が生来持ち合わせている気質なのかは知らないが、少なくともコムナルカの近所に住んでるガキ(事あるごとにおれを不審者扱いし、二回ほど通報までしやがった)とは大違いだ。まあ、おれの日常業務が大いに不審であることは事実だし、今だって一見すれば「人質の子供をなんとか菓子であやそうとする誘拐犯」そのものだが。――幽霊が一般人の目に見えなくてよかった。

 受け取ったチョコレートはおれの記憶通りに甘さが勝ちすぎ、水よりもコーヒーが欲しくなるような味だった。買い物袋にはインスタントコーヒーも入っているが、肝心のカップがないのでここで淹れるのは無理な話だ。
 板チョコ半切れを食べ終わるまでに、車列はほんの僅かのろのろと動きかけたが、結局また終わりなき停滞に突入してしまった。この分じゃ高速道路のほうはもっと酷い可能性がある。レニングラード時代は人間が食料品店に列を作ったが、サンクトペテルブルクでは車がダーチャに向けて列を作るわけだ。一体どうしてそこまで郊外暮らしがしたいのか、全くもって理解に苦しむ。
「あのー……」
 紙くずを足元のゴミ箱へ押し込んだところで、黙ってチョコを齧っていた子供がまた声をかけてくる。フセーヴァと喋ってくれればいいのに、とおれは思ったが、たぶんこの子も特別おれと会話したいわけじゃなく、「運転中の大人にはみだりに話しかけてはいけない」という教えを守っているだけなんだろう。お偉いことだ。
「何?」
「あれは何ですか」
「あれ?」
 細い指が向けられているのは、ダッシュボードに置かれた小型の機械だ。なるほど、確かにこいつには馴染みがないか。
「カメラだよ。まあ、あんな小さいカメラは見たことないだろうけども、あれで周りの景色とかを撮ってる」
「それじゃなくて……」
 違うのか? とするとイコンのことか。そりゃあソ連の子供には見慣れないものに違いないが、幽霊にとっちゃ好奇心より嫌悪感が先に来るんじゃないのか――思案するおれの眼前で、指先が少しだけ下がった。
「……そこにぶら下がってるやつか?」
「そうです」
 何のことはない。平たいオレンジ色の、何を表現しているのかよく解らないアーティスティックな形状をしたそれは、だいぶ消臭能力を失いつつある消臭剤だ。
「こいつは車の臭い消しさね。ほら、良い匂いが――しなくもないだろう? 何の匂いだったかは忘れたがね」
 問題の物体を軽く顎でしゃくり、フセーヴァが運転席から言った。
「オレンジ色だからオレンジの香りとかだろ。もう全然匂わねえけど。……こっちのフセーヴァが昔、車でタバコを吸ってたんだが、そういうのを嫌がる人もいるわけだ。で、実際に文句を言われたんだよ。『ちょっと小父さーん、なにこの車タバコ臭いんだけどー!』とか」
 おれが裏声で繰り出した物真似に、フセーヴァが前を向いたまま吹き出した。肩を震わせてうつむく頭の中では、初めてアリサを乗せたときの光景が浮かんでいるのかもしれない。
「はッは、ああ、言われたもんだねえ、そういうことも」
 脇腹を押さえるようにしながら、おれたちのリーダーは懐かしむように呟く。懐かしむといってもまだ去年の話だが。
「わりと似てただろ、今の」
「お前さんはアリサとフルシチョフの物真似なら絶品だよ。それで――そういうわけで、これは消臭剤だ。良いかね?」
 目の前で内輪ネタを繰り広げる大人たちに、チョコを食べ終えたらしい子供はぽかんとしていた。そりゃそうだ。生きていた時代如何では、フルシチョフさえ誰のことだか解らない可能性がある。
「はい。……その」
「他にも聞きたいことが?」
「その、アリサ? と、マッ……」
「……クス」
 胸に向けられた指先から、おれは言いたいことを察する。子供はおれとフセーヴァの顔をちらちら見比べている。フセーヴァのほうも概ね見当がついたらしく、笑いを噛み殺したような表情でこちらを窺っていた。
「つまり、二人はいとこで、おじさんで――」
「あのな、念のために言っておきたいんだが、良いか、『小父さんヂャーヂャ』ってのはそういう意味じゃないの。知らない大人のこと『おじさん』って呼ぶこともあるだろ。フセーヴァはアリサの叔父じゃないし、おれの親父でもない」
 子供はあまり納得の行っていない顔をしている。
「じゃあ、おじいちゃん」
「おじいちゃんでもない。おれたちみんな血がつながってないんだよ。第一な――」
「マックスのお祖父さんねえ! おいおい、いくらなんでも俺はそこまで老けとらんだろう。この顔をよく見てみな、お前さん、まだ『おじいちゃん』ってほどじゃないよなあ?」
 更なる誤解をなんとか防ごうとするおれの様子に、とうとう堪えきれなくなったのか、引きつり笑いを上げてから「小父さん」が乗り出してきた。口ではそう言いつつ、「おじいちゃん」扱いが満更でもなさそうなのがちょっと癪だ。一切望んでいないのに「おっさん」呼ばわりされるおれの不本意さを、少しは味わわせてやりたい。
「おれだってフセーヴァの息子ってほど老けてねえんだよ。第一、実年齢でいったらあんたが曾祖父さんでおれが曾孫ってぐらいだろ。全く似てねえのも多少は納得だ」
「そうだとも、そうだとも。――というわけで、マックスにはマックスの、アリサにはアリサのお祖父さんやら何やらがいるわけだ。そもそも、俺には子供自体いないしな」
「いないんですか?」
 きょとんとした灰色の目が、姿形だけなら中年の男を見上げる。
「結婚すらしてない。子供と無縁だったわけでもないがね……同じ団地の棟に住んでる、それこそお前さんみたいなオクチャブリャータたちと、一緒に遊んだり勉強を見てやったりしたもんさ」
 目を細めて穏やかに笑いつつ、まだ祓魔師でなかったころの生活についてフセーヴァは語った。車の臭いに文句を言われた件よりは遥かに昔の話だ。それでも、この生粋のペテルブルクっ子が送ってきた人生の中では、大分と新しいエピソードだろう。
 おれが生まれたとき、この街はもう・・サンクトペテルブルクだったが、フセーヴァが生まれたときはまだ・・サンクトペテルブルクだった。――彼はロシアが帝国だったころの人間だ。そして、もしかしたら恋をしたり、結婚したり、子供を育てたかもしれない年代に、餓え死にしかけたり、銃を担いでドイツへ行ったり、息を潜めて当局から逃げ隠れしなきゃならなかったのだ。もちろん、フセーヴァに妻子がいないことと、若いころの生活環境の間に、直接の関係があるとは限らないが。
「むかしのオクチャブリャータも、たくさん勉強していたんですか」
「そりゃあ当然さね、落第したらえらいことだ。それでも子供ってのは、なんとかして勉強せずに済む方法を考え出すもんさ……もちろん結局ばれて、それぞれの親に叱られるんだがね。『こんな卑怯なことをする子は、オクチャブリャータを首になっちまうぞ!』って――」

 その瞬間、子供の小さな肩がびくりと震えた。フセーヴァの声はあくまで冗談めかしたものだったが、その中身が何かしら、幽霊の抱えているものに触れたことは間違いなかった。
「違う、お前さんに言ったわけじゃあないぞ、もちろん。いや、悪かった、こいつはあやまった」
 フセーヴァも気がついて、すぐに訂正と謝罪を入れた。それからシートベルトを解いて、後部座席へと向き直り、正面から子供の顔を見た。
「……お袋さんと親父さんに、そういうことをよく言われるかね」
「いいえ……」
 おれは何も言わず、二人の様子を窺うに留めた。フセーヴァの問いかけに対し、子供は小さく首を横に振る。ズボンの裾をぐっと握りしめる両手が、傍から見ても判るぐらいに強張っている。
「でも」
「でも?」
「今日の、集会の、さいごに先生が」
 ああ、という深い吐息混じりの声。制服姿の子供と同じ時代を生きてきた107歳の男は、その台詞一つで大体のところを把握したようだった。目を閉じ、何度か小さく頷く。おれが口出ししてこないのを確認するような間の後で、彼はおもむろに語り始めた。
「大体のところはそのとおりなんだがね。オクチャブリャータに、その上でピオネールに選ばれる子供ってのは限られてる。成績優秀で、日頃の行いがよくて、健康で、しかも勤勉な労働者のうちに生まれた子じゃなきゃいかんのだからな」
 述べられる事実に、子供の表情はますます曇る。その小さな顔を覗き込みながら、フセーヴァは穏やかな、決して咎めるつもりはないという温かみの籠もった口調で続けた。
「お前さん――そういえば名前をまだ教わってなかったな。聞いてもいいかね」
「……アレクセイです」
「そうか、じゃあアリョーシェンカ……いや、もうそんな可愛らしい風に呼ぶのは失礼さね。アリョーシャ、これは俺の勝手な思いだが、一つ解っておいてほしいことがある」
 フセーヴァは子供、もといアレクセイ(数十年にわたって不動の人気を誇る名前だ)を「大人っぽい」名で呼んだ。横で聞きながら、おれは5歳かそこらの時に、自分がおふくろからなんと呼ばれていたか思い出そうとした。確か「マクシムーシュカ」だの何だのいった、「可愛らしい」呼びかただった気がする。
「お前さんがオクチャブリャータにいるってことは、お袋さんや親父さんたちにとっては名誉なことだ。だがね、そうやって選ばれた子だけがいい子だってわけじゃあない。学校でどんなに叱られて帰ってきたって、二人からすればアリョーシャは大切な、この国のどんな子供より素晴らしい我が子だろうよ。実際、さっきの先生みたいな言い方をされたことはないんだろう?」
「はい……」
「それなら、何も怖がることはないさ。――あちらさんにしてみれば、アリョーシャが家に帰ってこないことのほうが、オクチャブリャータを首になるよりよっぽど恐ろしいだろうと俺は思うね」
 横目で窺うと、アリョーシャは目の縁にわずかな涙を溜めて、自分の行いを大いに後悔し始めているようだった。フセーヴァの言うことをもっともだと感じたんだろう。おれは――おれも概ね同意しないでもない。お袋だけについてなら。
「まあ、さっきも言ったとおり俺に子供はいないから、親の心が完全に解るわけじゃあないがね。ただ、俺の両親はいつも、俺や弟たちにそんなことを言ってたよ」
「あなたの、お父さんとお母さん?」
「そう。そりゃあ俺にだって両親はいるわけだ。こうして生まれてきたからにはな。もっとも、一緒に住んでたのは子供の時だけで、後はずっと離れて暮らしてるんだが」
「今はどこに住んでいるんですか?」
「モスクワやナホトカよりも遠いところさ」
 敢えてかどうかは解らないが、フセーヴァは最後の言葉にそれほど重さを持たせていないようだった。形はどうあれ誰でも経験する、ごく普通の成り行きなのだ、とでも言いたいのか――自分にそう言い聞かせたいのか、それもおれには知りえないことだ。
「お前さんはどうかね、アリョーシャ?」
 微笑みながら尋ねるフセーヴァだったが、子供のほうはまだ考え込んでいたのか、しばらく返事をしなかった。けれども、やがて我に返ったように顔を上げ、改めて問いの意味を察したようだった。

「ええと、……キロフスキー区、ダーチナヤ、リョニ・ゴリコワ通りの……」
 おれは素早く携帯を拾い上げ、アリョーシャが恐る恐るといった様子で口にした住所を、できるだけ正確に入力しようとした。この子供にとっては与り知らぬことだろうが、おれたちが生きているのはGPSとインターネットマップの時代だ。地名の綴りが多少間違っていようが、謎の力で適切に修正し(たまに修正しきれないこともあるが)、一度も行ったことのない番地の位置を示してくれる。おれはこの「リョニ・ゴリコワ通り」が、ソ連崩壊と共に「民主的な」名前へと変更されていないことを祈りつつ、検索結果を待った。果たして、祈りは通じた。
「あー、その団地はあれか、1号公共緑地とダーチナヤ川との――」
「えっ?」
「いや、違う、……えー、つまり、近くに大きな公園があるよな? 広くて、中にダーチャがいくつも建ってるやつが。それで、側に小さい川が流れてて、橋が掛かってるところか?」
「あっ、はい、そうです」
 つい普段通りに喋りそうになるところを、なんとか噛み砕いて説明しつつ、おれは表示された地点が正しいことを確かめる。今いるソフィスカヤ通りからは、経路ガイドによれば車で「通常26分〜1時間」。もちろん、この34分の幅は混雑を考慮した結果だろう。渋滞が「通常」とされているのが何となく腹立たしいが、混んでいない日があるのか疑わしいのは事実なので、Googleを呪うわけにもいかない。
「フセーヴァ、ここだ。環状線の出口から10分ぐらい走ったところだよ。……最短経路では」
「最短経路では、な」 運転手は喉を鳴らして苦笑した。
「キロフスキーの西か。あの辺りはそんなに開発されてない――昔の建物も沢山残ってるから、もしかするかもしれん」
「そう願うよ。あと、もう一ついい知らせがある」
「何だね?」
「E105号線とソフィスカヤ通りの交通規制は解除になったってさ」
 快哉を叫ぶかわりの口笛が、運転席から高らかに吹き鳴らされる。隣からアリョーシャがおれの顔を見上げ、軽く首をかしげてみせた。それが意味するところはよく解らないけれども、とりあえず幸運には違いないんでしょう、とでも言うように。
「よし、運が向いてきたってわけだな。マックス、ナビ頼めるか」
「了解。……ああ、おれ前に移ろうか」
 おれは訊いたが、フセーヴァは静かに頭を振った。 「そっちに居てやれ」

  * * *

 車が元通り時速60kmで走り始めるまでには、さらに15分ほどかかった。が、一度動き出してしまえばこっちのもんだ。たまにガソリンスタンドがある以外には代わり映えのしなかった景色に、やがてペテルブルク外周部のビル群が見えてくる。片側三車線だった幹線道路は、いくつもの交差点を経て段々と狭くなってゆく。それに従って、立ち並ぶ住宅はアリ塚みたいな高層マンションから、十階建てほどのいわゆる「ブレジネフカ」になり、キロフスキー区に入るころにはもっと背が低く古びたアパートへと変わる。古都の歴史を遡るように。
 地図に示された地点で車を降りてみると、ありふれた風景。快適さやデザイン性など一切考慮されていない、ただただ合理的さを追求した形の共同住宅だった。ソ連時代に雨後のキノコの如く乱立した、「フルシチョフカ」と呼ばれるやつだ。つまり「安かろう悪かろう」の権化みたいな存在で、ひどく老朽化している(フルシチョフが国家元首だったのは何十年前か考えてみればいい)。手前には舗装されていない広場があり、申し訳程度に子供の遊具とベンチが設置してあった。黄昏時の薄暗い路地を照らすのは、たった二本の外灯だけだ。
「ここで合ってる……んだよな、アリョーシャ」
 おれが尋ねると、まだ車内に残っていたアリョーシャは、開いた扉のところまでにじり寄り、ひりつくような冷気に顔をさらした。灯りの点いていない窓が目立つ、最低でも築50年のアパートをしばし眺め、ゆっくりと頷く。
「そりゃあ良かった。ほれ、ちょうど夕食時だからな、いい匂いがしてる。煮込みの匂いだ。もしかするとお袋さんが、アリョーシャのためにボルシチかなにか煮てるんじゃあないか」
 ぐんと冷え込んだ空気の中に漂う、香辛料のぴりりとした匂いを嗅ぎ取って、フセーヴァが思いつきを口にした。おれ個人の考えでは、この匂いはボルシチじゃなく燻製肉の旨煮ソリャンカだという気がするが、どちらにしてもアリョーシャ宅のものではない。あの古めかしいアパートの、灯りの点いている部屋(点いていない部屋よりも少ない)のうちどこかで、現在の住民が作っているのだ。
「それは……ちがうと思います。今日はカツレツの日だって、お母さんが言っていたので」
 フセーヴァの推測を、子供は少し間を置いてから否定した。カツレツ、という言葉の響きが自分でも嬉しいのか、口元をわずかに緩めて笑いながら。
「カツレツたあ羨ましいね。おれは今夜もバターつきパンだ。――あ、おい、夕食前にチョコ食ったこと言うんじゃねえぞ」
 己の懐具合を思い返して勝手に辛くなっていたおれは、ふいに子供の教育にはあまりよろしくない自分たちの所業を思い出した。声を潜めて警告すると、「良い子」のアリョーシャはくすくす笑って口元に一本指を当てた。スパイ行為を戒めるプロパガンダ・ポスターのNGテイクみたいな絵面だった。
「――さて、玄関まで送っていくかね? この分じゃ通路も暗そうだからな」
 運転席のドアを音を立てて閉めながら、フセーヴァが申し出る。子供はちょっと考えた後で、
「いいえ、だいじょうぶです。それに、ぼくが住んでるのは一番上だから」
 と答えた。おれはくたびれた建物を見上げて確かめる。一般的なフルシチョフカがそうであるように、このアパートも五階建てだ。なぜ五階建てかって? 六階建て以上になると、エレベーターを付けなきゃならないからだ。
「なるほど、そいつは一仕事だな! 『おじいちゃん』の足腰を気遣ってくれてありがとうよ、アリョーシャ。じゃあ、元気なお前さんは階段で転んだりせずに、注意して帰るんだぞ」
「はい、気をつけます、同志」
 車から降りてきたアリョーシャは、そのまま建物へと数歩進み出たところで、おれたちに向き直って姿勢を正す。
「ありがとうございました」
 折り目正しいお辞儀――それから肘を高く上げ、額の前に掌をかざした敬礼。おれが記録でしか見たことのない、ピオネール式のそれだった。

 正面玄関のくすんだガラス扉まで、革靴を履いた足が駆け去ってゆくのを、「同志」ならざるおれたちは黙って見送った。砂を蹴る音も聞こえなければ、吐息の白い濁りも窺えない、あの姿はやっぱり生きてはいない――足元に影がないのは、彼自身がすでに亡い人間の影法師だからだ。
「……どうなんだろうな、『おじいちゃん』」
「うん?」
「おれもあんたも、子供時代をレニングラードで過ごしてねえからな。適切に扱えたかどうか、みたいな」
「おいおい」 フセーヴァが肩を竦めた。
「『適切に扱う』なんてお前さん、子供はモノじゃあないんだぞ。誰もそんなもの規定できんさ。まあ、自省するのは良いことだがね」
 おれたちの中で最もあの子供に近いのは、フセーヴァが片手を乗せている中古ラーダだろう。郊外の新造団地に住み、エリート候補生としての輝かしい子供時代を送ったり、赤い星のバッジを失うか否かで苦悩したりするには、フセーヴァは早く生まれすぎたし、おれは生まれるのが遅すぎた。
「間違いがなかったことを願うね、心から。……こういう建物も、そのうち取り壊しになるのかな」
 雨染みや塗装の剥がれが目立つ、経年劣化甚だしいアパートの外壁をおれは見上げる。窓枠はがたがただし、排水管は錆びついているし、ベランダの柵なんて真っ黒で、ちょっと体重を掛けただけでも折れてしまいそうだ。この手の建物の危険性については、もちろん政府も重々承知していて、新築マンションへの移住なんかが推し進められている――はずだが、実際はそう上手くもいかないものだ。
「どうしたね、いきなり何を言い出すかと思えば。お前さんはまず自分の住まいを心配すべきなんじゃあないか」
「いや、そりゃ確かにそうだよ。おれたちのコムナルカなんて比じゃねえもん。ただ……せっかく帰ってこれたのに、またすぐ家がなくなるんじゃ、あんまりいい気はしねえだろうな、って」
 そこまではっきり言い切る気にもなれず、ぼそぼそと述べたおれの意見に、フセーヴァは軽く息を吐いた。それからおれの背を軽く叩き、再び車の運転席に手を伸ばした。
「どんな家でもいつかは無くなるんだ、マックス。生きてるうちにかどうかの違いはあるがね。けれどもあの子は、壊されたり奪われたりしない、永遠の居場所に落ち着いたんだよ」
「時代が時代だし、洗礼なんて受けてねえと思うけどな」
「俺は宗教的な話をしてるわけじゃあない。誰にだって天国が一番良いとは限らんさ。――だが、それがどこであれ、見つけるのはなかなか難しいもんだし、時には手助けも必要なんだ」
 灰色のドアが開く賑々しい音。 「さあ、俺たちも帰ろう」

 渋滞のせいで帰りが遅れる旨をアリサに送信し、おれは後部座席に身体を投げ出した。薄雪の積もった舗装道を、おんぼろラーダは時々上下に揺れながら走る。ところどころの交差点はまだ少し混んでいて、フセーヴァはそれを器用に迂回しながら、築100年以上の共同住宅へと緩やかに運転した。
 この鈍色をした大衆車が世に出たころ、きっとペテルブルクは今ほど混雑していなかっただろう。郊外の幹線道路を通る車は、時速90kmで颯爽と突っ走り、郊外のダーチャへと野菜を作りに行ったり、あるいは収穫を抱えて家路を急いだりすることができたろう。そして、そんな車の行き交う道に迷い出た、課外活動帰りのオクチャブリャータが、不幸にも撥ねられて亡くなるということもあったに違いない。
 大祖国戦争のおりに900日かけて70万人が死んだ、幽霊のメッカみたいな街に家を持つことが、おれの人生にどれほど影響するのかは解らない。少なくとも祓魔師業には大して影響がなく、おかげでおれはいつでも食うに困っている。およそ人間は、うろつく死人のことをいちいち考えて生きたりしないのだ。
 それでも、――誰が気にかけなくとも、おれたちは気にかけなくちゃならない。神ではなく星の光に導かれていた時代、道に迷った魂の帰る家を。
「晩はカツレツにでもするか、久々に」
 ネヴァ川にかかる橋を渡り終え、車が狭い路地に入りかけたころ、フセーヴァがふと言った。
「でも、買い物済んでるんだろ」
「一品変更するぐらいはどうってことないさね。調理時間もそう変わらん。たまにはお前さんも肉を食わなきゃならんしな、健康のために」
「不健康でも首になるオクチャブリャータは無いんだよ、おれには」
 違いない――フセーヴァは笑って肩を竦め、コムナルカへ向けてハンドルを切った。

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