本当の本当に、わたしの先生ときたら酷いものだ。

先生ときたら -Dr. No-way-

 炊事や買い物や庭の手入れはみんなわたしに任せきりだし、薬品や魔道具を作るための器具はちっとも触らせてくれないし、わたしが少しでも何もせずにいたら「気が利かない」だの「積極性がない」だの言い、そのくせ自分はいつだって居間のソファに沈没して、お茶を飲んではお代わりのためにわたしを呼びつけている。何かにつけてわたしをこき使い、郵便局留めにしてある手紙を取りに行かせたり、飲みに行く前の早めの夕食を作らせたり、玄関先の落ち葉を掃かせたりする。この国のどこを探しても、先生ほど怠け者の魔法使いはいないだろう。
 ズボラなだけならまだしも、先生はこの上さらにわがままで、気分屋で、強情で、おまけにとんでもないナルシストだ。童話に出てくる「意地悪な継母」みたいなもので、まったく手に負えない。ラナンキュラス通りの、いや、この国の魔法使いがそれほど大事にされていないのは、先生みたいな人がいるからじゃないかと勘ぐってしまう。
「私はこの国で最高の魔術師ですよ。誇張抜きに、これほど優秀で善良で人畜無害で美しい魔法使いは世界中探したっていません」
 と先生は言うけれど、これは実際とんでもない誇張だし、優秀かどうかはともかくとして、「善良で人畜無害」というところは嘘だと胸を張って言える。
 美しさについては、まあ、先生は世間の感覚でいえばかなり美人なほうだろう。男か女か解らないような顔だけれど、艶のある赤毛(先生は「赤(Ginger)ではなくバーガンディー(Burgundy)だ」と強く言い張っている)と、ヘーゼル色で形の良い目は確かにきれいだ。ただ、これだけは先生に釘を差しておきたい――美しければなんでも許されるわけではないのだと。

「ケイリー、私の前に出てくるときには」
 今日も先生は、ソファにもたれ掛かって足を組み、あんまりご機嫌のよろしくなさそうな声でわたしの名前を呼んだ。こっちは下校早々、宿題もやらずに先生のところへ、それも魔法の修行じゃなく家事をしてあげに来ているのに、この態度はどうかと思う。お茶ぐらい出せとはもちろん言わないけれど、せめて表面上でもにこやかにしてはくれないだろうか。
「もう少しまともな格好をしていらっしゃいと前に言ったはずですがね。ただのポロシャツとジーンズだなんて……それにその長い髪は縛るとか、今年の夏こそは切るとかなんとかしたらどうです。私のように洗練された髪型にしろというのは無理な話かもしれませんが」
 女子中学生の身なりなんて清潔でありさえすればいいと、平凡なセントエラスムスの家庭に生まれたわたしは思っているのだが、先生にとってそれは美意識の欠如を意味しているらしい。
「まあ、とにかくここへ来る前にはちゃんと着替えてくることです。あとは前髪のひとつも整えてくるとか。そうすればあなたも少しは垢抜けるでしょうよ」
「あんまり垢抜けると先生が霞むかもしれませんので、いいです」
 三年近く通っていれば、これぐらいの口撃にはへこたれなくなってくる。わたしはいつも通り鞄をソファに置き、何か言われる前にお茶を淹れに行くことにした。と、台所へ向かおうとするわたしの耳に、
「そういえばこのところ、アジを食べていませんねえ」
 という声が聞こえてくる。
「もうそろそろ時期ですから、市場でも安くなるころでしょうねえ。もっとも普段通りに肉や野菜を食べたっていいのですが」
「……」
「アジを食べるのだったら、私はやはりオーブン焼きですかね、ワインを振り掛けてトマトを――」
「解ってますから先生!」
 催促がましいせりふを遮って、わたしは叫んだ。 「食べたいんでしょ!」
 先生は料理というものをしないので――曰く「料理は魔法使いの仕事ではない」――先生の食事はわたしが作るものか、出来合いのお惣菜か、あるいは外食しかない。わたしが弟子入りする前は三食出前を取っていたりしたんだろうか。それとも、やっぱり誰かが大いなる犠牲を払っていて、それがとうとう逃げ出したところにわたしが現れたという感じだろうか。
 残念ながらわたしには、なにか呪文を唱えて杖を一振りすればそこに出来立ての料理が現れる、なんていう魔法は使えないし、料理以前の丸のままのアジさえ呼び出すことはできないので、魚はどこからか手に入れてこなければならない。ラナンキュラス通りに生鮮食品を売る店はないから、あんまり近所とも言えないスーパーマーケットまで買い出しだ。ついでにトマトも。オリーブオイルだとかニンニクだとかは台所に揃っているし、先生のお気に召すようなワインも戸棚の中にはある。調理器具も毎日ちゃんと手入れしているんだからばっちりだ。
 魔法使いの料理というと、炎の呪文を使って絶妙な焼き加減のロースト、あるいはガスレンジでは出せない火力でシャキシャキの炒めものを、だとかいうものを思い浮かべられがちだけれど(そしてわたし自身、そういうものを想像していた頃もあるけれど)、実際は一般家庭の主婦と何も変わらない。もちろん、炎魔法が得意な人はそういうこともするかもしれないが、先生はそうではない。仮にわたしが気力を振り絞り、なんとかどうにかして切り身の魚を熱することができたとしても、そんなことをするよりは、日本製のオーブンレンジに放り込んで二十分ほど放っておいたほうが、よっぽど早くて美味しいものが出来上がるのが現実である。
 よって、わたしはソファの上に置いた鞄をふたたび取り上げて、財布の中にあといくら残っていたかをなんとなく思い出しながら、小ざっぱりとした玄関を出て行くのだ。

 日曜日の朝早くに市場へ行って買うのなら、丸のままの魚をキロでというのもいいけれど、夕方近くなったらスーパーでパックの切り身を買うのがずっと楽ちんだ。わたしは料理はできるほうだけれど(こんな環境にいたら鍛えられるに決まっている)、それでも魚をいちいち捌くのは面倒くさい。買い物カゴには他にもトマトやらチーズやらハムやら、三割引になっていたバゲットやらを放り込み、レジで支払うべきものを支払って、さっさと帰る。セントエラスムスという町は坂道や階段が嫌がらせのように多く、生まれたときから住んでいるわたしだって、重たい荷物を抱えて歩くのはうんざりする。まして、別に進んでやっているわけでもないお使いでは!
 ラナンキュラス通りまで戻ってくると、もう日もだいぶ傾いて、あちこちの家の門灯に赤や白やオレンジの光がつき始めていた。角の古い古いパブには、エールを飲みにくるお客さんが次々に入っている。お使いの途中でなければレモネードの一杯も飲んでから帰るところなのに。
 この店はわたしのように、まだお酒を飲めない子供にもとても優しい。なにせランチの時間帯にキッズメニューなんか用意しているくらいだ。パブのランドロードはまだ若くて気のいい人で、こんな通りで開業しているぐらいだから魔法使いにも理解がある。魔法使いの弟子にも。訪ねていくたび、先生にこき使われているわたしを慰めてくれるし、アイスクリームをちょっとだけおまけしてくれる。そしてこう言ってくれる、――きみはまだ若いし、今の先生に師事し始めて日も浅い。もしどうしても嫌になったら先生を変えたらいい。この国にはいい魔法使いが他にもたくさんいるし、なんならヨーロッパの他の国へ留学して、魔法学校に通うのだって少しも遅くないさ。
「それはまあ、そうなんですけど」
 わたしはこの間もそう答えて、家に帰ってからちょっとは考えてみたのだけれど、結局この問題については先延ばしにしてしまっていた。もちろんその通り、本当にいざという時には先生の弟子なんてきっぱりやめて、全日制の高校を出て、それからまた考えてみればいいのだ。それを解っていながら、もう三年目になる。

  * * *

 先生の家に戻ってみると、ソファの上の王様はさっきより崩れた姿勢で、何かわたしの知らない言葉で書かれた本を読んでいた。表紙の文字は一応アルファベットだった。
 わたしはそれを横目で見ながら台所へと入る。買ってきた切り身のアジには塩をして、トマトは輪切りに、食品棚にあったタマネギは薄切りに、ちょっとしなびてきたズッキーニも適当な大きさに切り分ける。食器棚から耐熱皿を出してきて、野菜を敷いて切り身を並べて、白ワインをかける――先生が買ったはいいものの、数口で「おいしくない」と料理用に回した飲みさしだ。あとは適当にオリーブオイルを流して、ハーブを乗せて、日本製のオーブンレンジに入れ、静かに二十分待つばかり。魔法が割り込むような場面はただの一度もない。自称この国最高の魔術師は、いたって普通の料理をいたって普通の人間に作らせて食べている。先生がある日突然倒れて、胃袋の中から何かよからぬ毒薬が出てきたりしたら、真っ先に疑われるのはわたしなんだろう。
「おいしいんだろうなあ」
 オーブンレンジの前に食堂椅子を引っ張ってきて、その上に三角座りをしながら、わたしはぐるぐる回る耐熱皿をガラス扉ごしに見た。先生は極めて燃費の悪いひとなので、一人で二人前ぐらいは食べる。あの皿の中身がわたしの口に入ることはない。三人前作ったところで、わたしは家に帰ればお母さんの作ったエビとか貝のごった煮みたいなものが待っているので、ここでお腹を一杯にすることはできないのだった。
 そのうちに、台所じゅうへローズマリーとタイムの匂いが、オリーブや魚の焼ける香りといっしょにふわふわ漂ってくる。わたしはふと、弟子入りしてすぐにハーブの買い出しに行かされたことを思い出した。魔法薬に使うセージが切れたから今すぐ買ってきなさい、三十分以内に戻ってくるように、と先生が言ったのだ。
「え、買ってくるって、どこで」
 わたしが混乱してそう言うと、先生はあきれたような馬鹿にしたような顔で、ローズマリーの枝をキッチンバサミで切りながら、
「セージなんて、今日びその辺のスーパーでも売っているでしょうが」
 なんて、大げさなため息をついたものだった。魔法のためのハーブがそんなんで良いのかと、その時のわたしは思ったけれど、今になってみれば当たり前のことなのだ。現代に生きる魔法使いはローブの代わりにスエードのジャケットなんかを着て、スーパーマーケットにハーブとミネラルウォーターを買いに行く。そして五本入りニユーロのボールペンで魔法陣を書いたりする。先生は一応まだ万年筆など使ってはいるものの、羽根ペンと羊皮紙の時代に戻る気はさらさらないらしい。

 さて、液晶画面のカウントダウンが残り五分になったので、わたしはダイニングテーブルの上に食器を並べ始める。オーブンの中で魚がじりじり焼ける音が、匂いと一緒に聞こえてくるようだった。口の中にたまった唾を飲み込む。オーブン料理を待っている時間というのは、どうしてこうも心がうずうずするのだろう?
 たぶん先生もわたしと同じような感覚を持っているのだろう。残り三分になったところで台所の扉が開く音がした。振り返ると先生が、本に指を挟んで持ったまま、こちらを覗き込んでいた。目が合ったので、なんとなく首をかしげておく。
「もう出来上がるのでしょう」
 先生はそのまま台所に入ってきて、一人で使うには大きなテーブルの前に陣取った。
「あと数分です。先生、お酒飲みますか?」
「今日はここで飲みますよ。棚に何か――キャンティだかがあったでしょう」
「ありました、ありました、先生がラベルだけ見て買ってきたやつ」
「『だけ』見ていたわけではありませんよ、そりゃあ味見こそしていませんが」
 どこか不服そうに(ラベルに惹かれて買うのも悪いことじゃないとわたしは思うのだけれど)先生は言った。そして、こう付け加えた。
「それとね、その『ラベル』はラベルじゃなくて『エチケット』と言うんです」
「はいはい」
 わたしは適当に返事をしてから、ワインと、それからコルク抜きや赤いキルトの鍋つかみなんかを取りに、オーブンレンジの前へと戻った。

 やがて完了を告げる電子音のメロディが鳴り響き、その数秒後には台所の壁掛け時計も「アメイジング・グレイス」をオルゴールで歌った。もう六時だ。今日もわたしは、なにひとつ魔法らしきことを習わないまま家に帰ることになるだろう。
「どうぞ、先生」
 こんがりと焼きあげられた二切れのアジを、うやうやしく先生の目の前に安置したとき、それを見ているヘーゼル色の目が少しだけ細くなったのにわたしは気付いた。わたしのように「おいしそう」と思っているのなら良いのだけれど。なにしろ先生ときたら、「ラナンキュラス通り」なんて名前の場所に住んでいながら、住人たちの中でただ一人庭にラナンキュラスを植えていないようなひねくれ者だから、心のなかではどんなことを考えているか解らない(ただ、ラナンキュラス通りに住んでいるからラナンキュラスを育てていなきゃならないのか、よくよく考えてみると別に義務でもなんでもないような気はする)。
 先生はほんのちょっとだけ目を細めて皿を見、それから読みかけの本をテーブルに伏せると、顎を上げて、
「存外よく焼いたじゃあないですか」
 とだけ言った。
「先生のそういう言葉の選び方はわたしに対して失礼だと思いますけど、でもいつものことなので気にしないであげます」
「それはどうも」
「いちいち文句をつけたって、先生はそんなふうに平気な顔しかしないからです」
 一度定まってしまったこのポーカーフェイスをなんとかできる人は、セントエラスムスじゅう探しても数えるほどしかいない。わたしじゃ無理だ。だからわたしは、いつも通りに大人しく、先生からいらない不愉快さをもらう前に、テーブルの脇へ退散することにしたのだった。
 ナイフとフォークを取り、アジの身を切り分けて、小さく鼻を動かし香りをかいでいる間、先生は何も言わなかった。それを口に運んで味わっている間も、当然何も言わなかった。台所はただ静かだった。先生は大食いのわりに食べ方はとてもお上品で、食器どうしがこすれ合うかちゃかちゃした音さえほとんど立てない。今日もまた結局、皿に張り付いたハーブを最後の一切れで拭って食べ終わるまで、一言も口をきかなかった。
 本当の本当に、わたしの先生ときたら酷いもので、人の言葉尻をいちいち取ってくるし、わたしが精一杯の嫌味をぶつけてもそ知らぬ顔だし、食事をするときの仕草はいやに気取っている。「私はあなたみたいな一般庶民とは違うんです」みたいな態度だ。そして、その見た目の通りにわがままで、気分屋で、強情で、おまけにとんでもないナルシストだった。
 けれども先生は、今までにただの一度も、わたしの作った食事にだけは、理不尽な文句をつけたことがなかった。いつだって静かに全部食べきって、今しがた感じた味を逃すまいとしばらく黙りこくった後、必ずわたしを褒めてくれるのだ。

「美味しかったですよ、ケイリー」
 こんなふうに。

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