パブの前を行き過ぎてしばらく、先生の家の門が見えてきたところで、わたしはふと足を止めた。

真実の届け先 -Mailed Material-

 見覚えのないものがそこにあったからだ――小学生らしき男の子たちが三人、門の前に集まっている。
 ラナンキュラス通りに小学生は住んでいないし(小さな子供を持つだいたいの親は、魔法を使う変人の近所には住みたがらないものである)、この近くに学校もない。こんな狭くて静かな道が通学路に指定されることもないだろう。あの子たちは何をしているんだろうか? 心の狭い魔法使いの家の前でたむろすることが、どれだけ危険なことなのか、学校ではまだ教わっていないらしい。
 そうなると、このいたいけな子供たちが先生のご機嫌を損ねることは、弟子のわたしがなんとか阻止する必要がある。一応、わたしだって今からあの家に入らなきゃならないのだし、声をかけたって不審者扱いされることはないはずだ。わたしは通学鞄を背負い直し、三人に向かって歩いていった。

「ねえ、ちょっと」  三つの顔がいっせいにわたしを見た。思ったよりもずっと幼い顔だった。わたしを見上げて、けげんな表情。小さいな、と当たり前のことを考える。わたしだって三年前までは小学校にいたはずなのに、なんだかもう遠く離れた世界のひとのように感じてしまう。
「このへんの子じゃないでしょ、……えっと、聖モニカとか聖フランシスとかそのへんの小学校でしょ」
「はぁい」
 三人のうち一人、背の低い子が気の抜けた返事をした。聖モニカ小学校だけでこの市内には三つぐらいあるんだけれども、とりあえず小学生には間違いないということが解った。
「知らない人の家の前で、あんまり騒いじゃだめじゃないかな。もう夕方だし、早く帰らないとお母さん心配するよ」
 小学生に言うことを聞いてもらうための正しい話しかたなんて知らない。わたしにはこれが精一杯だ。背が低くて気の抜けた子は黙って聞いていたけれど、その隣から今度はやたら鼻の大きい子が、
「ポストだけしたら、ちゃんと帰るよ」
 と言ってくる。
「ポストぉ?」
 わたしは同じくらい気の抜けた声を出しながら、思わず門のそばの、やたら重々しい鉄製の郵便受けを見た。「40 Ranunculus St.」と、金文字で番地が浮き彫りになっている以外は、味も素っ気もない黒さびた箱だ。このポストで、それともこのポストに何かする? ろくなことにはならないと思うけれど。
「知らんの?」
「知らないよ。普通のポストじゃん」
「普通じゃないし、魔法のポストだってサミーが言ってたし!」
「それって、どんなふうに魔法なの?」
「んーと、悪い子が手を入れると、抜けなくなる」
 ここはいつからローマの教会に。

 子供たちのぐだぐだした説明をまとめると、こうだ。数日前、彼らの近所に住んでるサミーという男の子が、放課後にお菓子を食べながらこの辺りを歩いていた。手に持った包み紙が邪魔になったので、どこかにゴミ箱を探したけれど見つからない。その時に通りかかったのが先生の家で、門の前にはそれなりの深さのありそうな郵便受けが据え付けられている――しつけのなっていない小学生男子は、言うまでもなくそこに包み紙を突っ込んだわけだ。
 そうしたら、突っ込んだ手が抜けなくなった。入り口には余裕がありそうなのに、押してもだめ引いてもだめ、横にずらそうとしてみてもだめ。それどころか、手を挟んでいる差し込み口はどんどん狭くなっているように感じられて、サミーは大慌てした。恐ろしくなった。子供の泣き叫ぶ声が通りじゅうに響き渡り、それを聞きつけた誰かさんが別の家の戸口から顔を出した――ところで、呪いが解けたかのように手は抜けた。彼は家に逃げ帰り、翌朝学校でこの恐怖体験を友達全員に言いふらして回ったという具合。
「……うん、まあねえ、人んちのポストにゴミ突っ込むのは悪いことだと思うよ」
 ましてや魔法使いの家のポストだ。ここが「魔女通り」とか「まじない通り」と呼ばれていることを、セントエラスムスに住む子供が知らないとは思えないけれど、それにしたってよくそんな、自殺行為に走る気になったもんだ! わたしは誓ってごみのポイ捨てなんてしたことがないけれど、もし億に一つぐらいの確率で悪い心を起こし、手に持ったごみを誰かに押し付けようとしたとして、ラナンキュラス通りだけは絶対に選ばない。そんなことをするぐらいなら、自分の口に突っ込んだほうがまだマシだ。
「でもね、ゴミじゃなくたって、知らない人のポストに手を突っ込んで遊ぶのも、十分悪いことだからね。この家の人に迷惑かけないうちにもう帰んな」
 少し力を入れてわたしが言うと、子供たちは不満そうな顔をしながらも、また「はぁい」という返事と共に、大通りへ抜ける方へと走り出した。中学生のお姉さんの言うことには逆らい難かったらしい。わたしは彼らを残酷な運命から救ったわけだ。そういうことにしておこう。こんなことで時間を取っている場合じゃなく、わたしは自分に待ち受ける運命のほうに、これから立ち向かわなければならないのだ。

  * * *

「先生、だめじゃないですか」
 ソファの上でふてぶてしく足を組み、ペーパーバックの本を読んでいる先生に、わたしはとりあえずそう言った。
 先生に郵便物を確実に届けることほど面倒なことはない。なにせ弟子のわたしに自分の名前さえ教えてくれない先生のこと、他人に住所を知られるのが大嫌いで、まず手紙だのなんだのを受け取ろうとすることがない。それでも受け取らなければならないものはあるので、そういったものは郵便局留めにしたり、私書箱を使ったりするわけだ。わたしが数日に一回、そこから回収してくるまでは、先生の目には留まらないことになる。郵便受けに直接届くのは、お役所からの通知やクレジットカードの請求書ぐらいなものである。
「駄目って何がです」
「郵便受けに変な魔法かけてるひまがあったら、自分で家事のひとつもしてくださいよ。だいたい子供相手に大人気なさすぎます」
 抗議の声もどこ吹く風、わたしのいたって道徳的な意見を鼻で笑い飛ばし、テーブルの上からミネラルウォーターの瓶を取り上げる先生。シャンパンみたいな形の緑色のボトル、これでないと先生は飲みたがらない。前に値段だけ見て別の銘柄を買ってきたら、「なぜあの水でなければならないか」について長々と説かれてしまったので、今ではわたしが代わりにネット通販で大口注文する羽目になっている。もちろんその箱は先生の家に直接届かず、郵便局に留め置かれたままになるわけで、それをここまで運んでくるのはわたしの仕事だ。いたいけな女子中学生に押し付けるにはハードである。あまりにハードなので早々に折りたたみ式のキャリーカートを導入したものの、いまいましいことにこの町には階段が多い。
「何を勘違いしているのですか、ケイリー。私は別に気に留めちゃあいませんよ」
「どこがですか」
「私のような心身ともに美しく成熟した魔術師は、いちいちそこらの子供の粗相に目くじらなど立てないものです。そう、心の余裕ってものがありますからね――大人気ないのはあの郵便受けのほうですよ、文句があるならそちらに言いなさい」
 突拍子もないことを言いながら、先生はグラスに水を注いだ。炭酸の泡が涼しげな音を立てて、なめらかなガラスの中を昇っていった。
「ポストに文句言ったってどうしようもないですよ、先生。無機物に責任押し付けてないで、苦情が来る前にああいうことはやめてください」
「検討しましょう」
 もちろん真剣に考える気はないんだろう。ため息をつきながら、わたしは鞄を開け、持ち帰ってきた手紙をテーブルの上に広げた。そして、何か言われる前に台所へ向かい、先生のためのお茶の準備を始めた。

 ピザ屋のクーポン付きチラシと魔術師協会の四季報を除いて、すべての紙たちは古紙用の袋へと放り込まれる運命をたどった。明日か明後日か、とにかく先生が何かを燃やしたくなったときに、浜辺でまとめて焼却されることだろう。セントエラスムス市の条例の、「軽微な範囲での廃棄物の焼却」に収まる程度で。
「ケイリー、それが済んだら門の前も掃いておいてくださいね」
 先生はいただきもののブランデーケーキをつまみながら、わたしが淹れた紅茶を飲み、本を読む片手間に次の命令を下した。こうしてわたしをこき使っておきながら、「これは魔術師になるための素養の一つで、忍耐力と適切な判断力を培う手段なのです」だとか言ってすましているのだ。先生が「真実の口」に手を突っ込んだら、間違いなく手首から先を食いちぎられるだろう。そして真実の口が腹を壊すに違いない。
「……それか、はなっから吐き出される可能性もあるかな」
「は?」
「何でもありません、先生、外に行ってきます」
 わたしはブランデーケーキを一つテーブルからかすめ取って、玄関掃除のために居間を出た。先生は何か言いたげな顔をしていたけれど、無視することにした。

 週休六日とはいえ商売をしているのに、先生の家には立て看板どころか普通の表札すらない。郵便受けすら置きたくないと思っているかもしれない。家の塀に蔓薔薇を巡らせているのも、見た目のためというよりは、人を寄せ付けないためのように感じられてしまう。これでも週に一度はちゃんとお客さんが来て、香水を注文して帰っていくのだから、評判というのはすごいものだ。
 玄関まわりの砂を掃き取り、そこから門までの小道をきれいに整えたところで、もう一度わたしの目に、あの古びた鉄の箱が飛び込んできた。そういえばわたしは、この郵便受けを開けたことがほとんどない。ここに直接届く手紙だけは、先生が自分で回収するからだ。わたしは箒を塀に立てかけると、乾いた雑巾で郵便受けのほこりをきれいに拭き取った。そしてふと、その差し出し口に左手をそっと入れてみた。
 ……特に抜けなくなりそうな感じはしなかった。当然といえば当然だ。二十秒ぐらい待ってみたけれど、やはり何か変わったことは起きなかった。代わりに次の瞬間、すぐ近くで、
『いつまでその馬鹿みたいな格好でいるつもりですか、さっさと仕事を終えなさい』
 という先生のとげとげしい声がした。
「はい、先生! すみません!」
 ほとんど反射的に、わたしは郵便受けから手を引っこ抜いた。勢いがつきすぎたせいで、差し出し口に思い切りこすって痛かった。
 しかし、すぐさま振り返ってぐるりと見回しても、先生はどこにもいなかった。あんなに傍で聞こえたのに、――いや、先生は魔法使いなのだから、居間からここまで声を届けるぐらい簡単なことだろう。先生がたかが弟子のサボりを注意するためだけに、わざわざ重い腰を上げるとも思えない。さっさと玄関まわりを片付けて、戻って謝っておこう。ただでさえ今日は時間が遅めなのに、この上さらにお説教を食らおうものなら、家に帰るころには夕食の時間を過ぎてしまう。

『全く、そういう熱心さの足りないことだから、私のところには手紙ひとつ来ないんですよ。玄関口はいつだって美しく保っておくことです』
 ところが次にわたしが聞いたのは、そんな耳を疑うような台詞だった。先生は間違ってもこんなことは言わない。いや、玄関口を美しく保てというのはともかくとして、前半はおかしい。「手紙ひとつ来ない」だなんて! 手紙が来るのがわずらわしいから、わざわざいくつもの私書箱を使い分けているのが先生なのに。
 わたしは黙りこくり、それから黒い箱に視線を戻した。そして「真実の口」の話を思った。もちろん、ローマの教会にある真実の口は、実際に人の手を噛んだりしないし、手を入れた人の罪を声に出してとがめたりもしない。けれど、もしかしたら。
「――郵便受け?」
『ちょっと、汗をかいた手でべたべた触るのは止めてくださいよ! 錆びたらどうしてくれるんです!』
 もう一度左手を伸ばして、箱の上面に乗せたとたん、さっきより不機嫌そうな声が飛んできた。わたしの予想は当たった。喋っているのはこの郵便受けだ。
「あ、えっと」 わたしは手を引っ込めてから、遠慮しつつ聞いた。 「郵便受け、さん?」
『その呼び方はいささか気に食わないのですが、まあ良いでしょう』
 先生と全く同じ声をした郵便受けは答えた。 『私に名前なんてありませんしね』
 呼びかけてみたはいいけれど、次に何を言ったらいいのかは思いつかなかった。生まれてこのかた、郵便受けと会話した経験なんてないのだから自然なことだ。魔法使いに弟子入りしても、壁にかかった絵だの庭の植木だのが話しかけてきたことはなかった。わたしが喋ったことのある無機物といったら、先生のiPhoneに搭載されているSiriぐらいしかない。
「その……郵便受けさんは、最初から普通に喋れたんですか? それとも、先生の家の郵便受けになったからとか?」
 結局わたしの口から出てきたのは、面白みも何もない質問だけだった。
『私ぐらい年季の入った郵便受けになると、持ち主の如何を問わず喋れるようになるものですよ。何せかれこれ七十年は現役であり続けているのですからね。そもそも、この国で郵便受けが各家庭に設置されるようになったのが――』
「いえ、そういうことについては、ええと……確か社会科の授業で習ったので大丈夫だと思います」
 自分の知識をひけらかしたがるのも先生に似たんだろうか。まさか郵便受けに郵便の歴史を教わる日がくるとは思わなかった。郵便博物館のパンフレットに書かれている、子供だましなポストのキャラクターとは訳が違う。ただし、わたしが知りたいのはそれではない。今ようやく思い出したけれど、もっと聞くべきことはあったのだ。

「あの、わたし噂で聞いたんですけど」
 郵便受けのどこを見て話せばいいか解らないので、差し出し口のところに目を合わせながら、わたしは続けた。
「悪い子が手を入れると抜けなくなるって。そんなことってできるものでしょうか」
『ああ、あの失礼千万な糞餓鬼、いえ、子供のことですか』
 郵便受けには鼻がないはずなのに、ふんと鼻を鳴らす音が聞こえた気がした。
『できますよ、私がちょっと気合を入れればね。気合も入ろうというものです、あんなスナックの食べかすなんか突っ込むなんて! 私は手紙を受け取るために存在しているというのに!』
 ますます熱のこもった調子で、年季物の郵便受けはまくし立てた。わたしが口を挟む隙もなかった。頭にきているのはもちろんよく解る。ただ、この声がわたし以外に聞こえていたら大変なことだな、とも考えた。わたし以外に聞こえていなくても、ただの郵便受けの前にじっと突っ立っているわたしの姿は、それはそれで変だろう。今この家の前を誰も通りかからないことを願うばかりだった。
『そもそも口を固く閉じていればもっと良かったのですが、あの時は少々油断をしていましてね、入ってしまったものは仕方がありませんから、せめて心の底から脅かしてやろうと思った次第です』
「そ、そうですか」
 本当に先生みたいな郵便受けだ。わたしは圧倒されっぱなしだった。それでも、
「でも、ほら、相手は子供じゃないですか。小学生の男子っていうのは、特にその……幼いところがあるっていいますか。あんまりそんな、強気の姿勢に出ることはないんじゃないかなと」
 という、控えめなフォローを入れることにした。ここで下手に同調しすぎると、そのうち本当にいたずらっ子の手首を食い千切り始めかねないと思ったからだ。
『子供ですって!』 郵便受けの声のトーンが数段階上がった。結論からいうと逆効果だった。
『いいですか、「子供のしたことだから」なんて台詞は許す側が言うものであって、許される側のものではありませんよ。なんて面の皮の厚い! 金属製の私よりもよっぽど鉄面皮ですよ、実際!』
 考えてみれば当然だった。わたしだって、たとえば自分の自転車の前かごに近所の子供がゴミを捨てたとして、「子供のしたことだから許してやりなさい」なんて言われても、きっとしばらくは腹を立てっぱなしになるだろう。それはそうですね、とわたしは頷いておいた。それからふと、郵便受けも怒ると体温が上がったりするのだろうか、という変な疑問が頭をよぎった。触ってみたら熱かったりしないだろうか。さっき怒られたから試すのはやめておくけれど。
『とにかく、現代のあらゆる市民は、郵便受けは手紙を受け取る場所であってゴミ箱ではない、ということを肝に銘じなくてはなりません。 たとえどれほど使われていなくても、郵便物以外のものを放り込むなんてことはあってはならない。家の鍵を入れておくのも防犯上の観点からやめるべきですし、許可なきビラも駄目です。ましてや菓子袋などもってのほか!』
「はい、その通りだと思います」
 郵便受けの主張に結局同調するしかない、わたしの意志はかなり弱いほうだと思い知らされた。この郵便受け、一度決めたら譲らないあたりも先生の影響だろうか。それとも元からだろうか。金属製だから頑固だということか。他の家具もわたしが知らないだけで喋るのだとしたら、そしてその全てが先生と似たタイプの人格の持ち主だったら、わたしはちょっと耐えられない気がする。
 ただし、ほとんど同じのようではあるけれど、この郵便受けと先生は同一人物ではない。――ここでわたしの頭に、もう一つの疑問が湧いた。

「――郵便受けさんは、手紙がほしいんですか?」
 わたしが口に出したその瞬間だけ、郵便受けが喋るのをやめた。かと思えば、すぐさま答えが返ってきた。分かり切ったことを聞くな、とでもいうような調子で。
『当たり前じゃあないですか! 私はそのためにここにいるんです、もうめっきりその用途では使われていませんがね! 電子化の時代に文句をつけるつもりはありませんが、それでもせめて、月に一通ぐらいは何かの便りがあったっていいのに!』
 内容に反して、声はやっぱり手紙嫌いの先生そのものだった。この声で「手紙がほしい」というような言葉を聞くとは、わたしは今ずいぶんと貴重な経験をしているわけだ。
『七十年の昔はそれは満ち足りていましたよ。心のこもった季節の挨拶に、たのしい催しへの招待状、人生の節目の祝い、そういったものがあちこちから届けられていたのです。まあ、熱烈な愛を綴った便箋だけはついぞ届いたことがありませんでしたが』
「そりゃあ、先生のことですからね」
 先生が誰かに熱烈な愛を綴ったり綴られたりするところなんて想像できない。仮にそんなことを先生が始めたとしたら、それは絶対に何かの陰謀だろう。先生とたかだか三年の付き合いしかないわたしでも解るのだから、七十年以上ここにある郵便受けにはもちろん解っているはずだ。
『別に、昔はよかった、なんて一口に言うつもりはありません。今だって手紙の文化が完全に廃れたわけじゃあない。国内からも海外からも、封書や絵葉書を送ってくれる人はいるものです。なのに、そんな書信がここまで届くかもしれないチャンスを、そもそも断ち切ってしまうなんて、いくらなんでもあ』
シオーパ、静まれ!

 先生の声がもうひとつの先生の声で遮られた。郵便受けの言葉はぷっつりと途切れ、それきりうんともすんとも言わなくなった。
 わたしは差し出し口から顔を上げ、塀のむこうを見た。玄関口から数歩進んだところに、今度こそ正真正銘の先生が立ち、魔法の杖をこちらに向けていた。一部の人々、特にマスター・スターンテイラーから絶不評な、カーボン製で伸び縮み可能の杖だ(実はわたしも、この杖は正直あまりよろしくないと思っている――伸縮式の細い物干し竿みたいに見えるから)。
「少しお喋りが過ぎたようですね」
 先生はにこりともせずに、低い声でカートゥーンの悪役のようなことを言った。
「ケイリー、私は玄関を掃除しろと言ったのであって、郵便受けの愚痴を聞いてやれだなんて頼んだ覚えはありませんよ。そんな所に突っ立っている暇があったら、もっと何か建設的なことに時間を使いなさい」
 ことさら冷ややかな目でわたしを睨み、全く説得力のないお小言を食らわせると、自称心身共に美しく成長した魔術師は再び家の中へと引っ込んだ。先生の今日の行動に少しでも建設的なものがあったなら教えてほしい。わたしが知る限り、娯楽小説を読んでお菓子を食べてお茶を飲んでいただけだったが。
 静まり返った玄関先で、わたしはもう一度だけ郵便受けの差し出し口に手を入れてみた。けれど、「沈黙」の魔法をかけられた郵便受けは、もう何の文句も口にすることはなかった。

 その日の帰り道、わたしは書店に立ち寄って、便箋と封筒のセットを買った。それから閉まる直前の郵便局にも駆け込んで、海鳥が描かれた切手のシートも手に入れた。もし今日の宿題に苦戦さえしなければ、今晩なにかしらの手紙を書いて、明日の朝にも投函するつもりだ。宛先はもちろんラナンキュラス通り40番地――わたしはもしかしたら、恐らくこの国で初めて、郵便受けと文通した人間になるかもしれない。それが名誉なことかどうかはともかく、少しはあの古い鉄の箱の慰めにはなるだろう。
 そして、よほど何か打ちのめされるようなことがない限り、先生にもそうすることを勧めてみるつもりだ。あれだけ自分のスタンスに文句を付けられ通しでも、さっさと買い換えることなく同じものを七十年以上使い続けている先生は、少なからずあの郵便受けに愛着があるのだろうから。

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