応接間の扉を開けたら、ソファに見知らぬ人が腰掛けていたので、わたしはどきりとした。

恋人はウィザード -Stay With Guru-

 変な声が出そうになったけれど、それは我慢した。見た目に高校生か大学生ぐらいの、若い女の人だった。「亜麻色」とはこういうことを言うのだろうか、淡い金色の髪をポニーテールにして、シンプルな水玉のワンピースを着ていた。耳にはイヤホン、それが繋がる先は手元でいじっている携帯。ゲームをしているのか、音楽を聴きながらチャット中か、ともかく、わたしには気付いてはいないようだ。肌は白く、手足はすらりとして、控えめに言っても美人だし、もし大げさに言うのなら、おとぎ話に出てくる妖精みたいだった。
 先生の仕事上のお客さん、ではないはずだ。この日曜日に先生が仕事をするなんてことはありえない。なにせ「安息日だから」なんていう大義名分をつけられるのだから――実際に日曜の朝わたしが見かける先生は、教会でお祈りをしているところではなく、パブのサンデー・ローストをぱくついているところぐらいでしかないが。
 ごちゃごちゃと考えていたら、相手がふいに携帯から顔を上げた。おかげでばっちりと目が合ってしまい、またしても変な声が出そうになった。小さく首をかしげたその人に、わたしはとっさに何を言っていいのか分からず、
「あ、えっと、その、すみませ」
 というようなことを口に出した。相手の素性よりも先に、初対面でするべき挨拶について考えておけばよかった。
 金髪の彼女は目を丸くしてわたしの顔を見た。かと思えば、くすりと笑って携帯をテーブルに置き、イヤホンを外すと、
「ごきげんよう」
 立ち上がって丁寧に一礼した。よりにもよって「ごきげんよう」だ。彼女が実はお忍びでやってきたどこかの国の王女様だ、と言われてもわたしは信じるだろう。
「ど、どうも」
 どぎまぎしながらわたしもお辞儀を返し、それからさらに言うべきことに困って口ごもった。わたしがまごついているのを見かねてか、彼女は優しい柔らかい声でわたしにこう尋ねてくれた。
「ドクターのお弟子さん、でしょう?」
「ええと、はい、そうです」
「お邪魔してます。――ドクターなら、マスター・スターンテイラーと一緒にリビングにいらっしゃると思うけど」
「ああ、そうなんですか……」
 この口ぶりから考えると、マスター・スターンテイラーのお知り合いか何かだろうか。一緒に先生を訪ねてきたのか、だとしたらどうして一人、別室で待たされているのか。確かに先生たちの会話というのは、部外者が聞いていて楽しいかというと、正直あまりそうは思えないけれど。
「その……いつからここで待ってらっしゃるんですか? あと、それと……そうだ、わたし、お茶入れてきます。ほら、ここ乾燥してますし、それになんか寒すぎません?」
「えっ?」
 テーブルの上に水のコップも何もないことに気が付いて、わたしは早口にそう言った。とにかく一度ここから出て、色々と考えをまとめて、それから先生とマスター・スターンテイラーにもお伺いを立てて対処したかったのだ。先生のいつもの癖で効きすぎている冷房が、今回はいい口実になってくれた。幸運だ。と同時に不運なことには、大魔術師はきっと先生に愚痴を聞かせにきたか、それとも直接文句を言いにきたかのどちらかで、それに対応している先生は、恐ろしく不機嫌に違いない。
 わたしがまくし立てるのを聞いた女の人は、一瞬ぽかんとした後で、お構いなくと首を振った。けれど、その時わたしはもう、逃げるように居間へ通じるドアを開いていた。

 そのとたん、こちらの部屋まで震わせるほどの大きな大きな、
「だから! お前はことの重大さが解ってないんだッ!」
 というマスター・スターンテイラーの声が――いや、正確に言うと「叫び声」が――したので、わたしは反射的にドアノブから手を離した。半開きのドアの向こうに、居間のテーブルを挟んで向かい合う二人の魔法使いが見える。そしてマスター・スターンテイラーは、自分の肘掛け椅子から大きく乗り出し、今にも先生に掴みかからんばかりの様子だった。大の大人が、半泣きで。
 何が起こっているのか判断する前に、わたしの姿を認めたらしい先生がこちらに視線をよこした。そして、手元のティーカップを持ち上げ、もう片手でお茶を注ぐようなジェスチャー。さらに、奥にある台所への扉を顎でしゃくる――「お茶の」「おかわりを」「早く持ってこい」。
 わたしは無言で頷き、もう一度応接間へ引っ込んだ。逃げ出したところへ戻るのは多少気が引けるけれども、あの居間を突っ切っていくよりはましだと思ったからだ。この家の台所に入り口が二つあってよかった。出て行くときにちらりと見た女の人の顔は、困っているようにも笑いをこらえているようにも見えた。

  * * *

 紅茶を入れている間ずっと、二人に何を聞くべきか考えていたものの、いざ決心して居間に入ったところで、それらは全て消し飛んでしまった。目の前で改めて見たマスター・スターンテイラーの取り乱しように、何もかも圧倒されてしまったからだ。辞典でしか見たことのない「おいおい泣く」とか「よよと泣き崩れる」とかいった言葉は、きっとこういう時に使うんだろう。
 仕方なく先生のほうに目をやると、先生は無言のままテーブルの手元を指し、紅茶を置くように主張した。わたしがその通りにし、ついでにお茶菓子を皿に補充したところで、
「もう二時間これですよ」
 という、重々しい呟きが聞こえてきた。
「あの、先生、一体何があったんですか」
 わたしは声をひそめ、先生の顔を横から覗き込んだ。ご自慢の赤毛、もとい「バーガンディー」の髪は今日もきっちりとセットされていたが、表情はすっかり疲れ果て、眉を寄せてティーカップばかりを凝視していた。二時間、というのは大げさな話でもなんでもないらしい。
「私が説明しなくたって、そのうちまた最初から全部話してくれるでしょうよ。さっきからそれしか話題が無いんですから。こんな下らないことで私の時間が食い潰されているだなんて、これほど馬鹿げたこともありません」
「馬鹿げたこととはなんだ、馬鹿げたこととは! 俺の沽券に関わる問題なんだぞ!」
 先生は低く小さな声で喋っていたのに、マスター・スターンテイラーは耳ざとく聞きつけ、すかさず食いついてきた。先生が顔をしかめてテーブルから身を引き、大変にうんざりしたような調子で口を開いた。
「沽券ってねえ、ステフ、ぜんたい君は小さいんですよ。そんなたかだか弟子に男ができたぐらいで――」
「弟子?」 わたしは思わず聞き返した。
「マスター・スターンテイラーって、……お弟子さんいらっしゃったんですか?」
「そりゃあ、確かに彼は人の師になるには些か不適格な男ではありますがね、それでも魔術師として年季だけは入っていますから、弟子は今までにも幾度となく取っていますよ」
 相変わらず先生は一言も二言も多かったが、ちゃんと返事はしてくれた。それにしたって初耳だ。この現代に、マスター・スターンテイラーが受け入れられるような若い魔法使い見習いが、それも複数いるなんて考えにくいのだが。
「お前は『たかだか』なんて言うけどな、ルミッキはただの弟子じゃない! まず何より優秀なんだ、俺が今まで育ててきた魔女の中で一番できが良い」
「そりゃあね」 溜息をついて、先生。
「一番もなにも、私が知る限り、君が女の弟子を取ったのは彼女が初めてですからね」
 冷静な言葉は、悲しみにくれる大魔術師には聞こえていないようだった。……そもそも、悲しみにくれている理由が、先生によれば「弟子に男ができたから」というのも色々と残念だ。年頃の娘を持つ父みたいな感覚なのだろうか。わたしは自分の父親の顔を思い浮かべてみたが、数年後にわたしが誰かと結婚を決めたとして、これほど悲しんだり腹を立てたりするところは想像もできなかった。
「できが良いだけでもないぞ! あれは正しく魔術師の鑑だ。師匠思いで気が利いて、向上心があるし、お前なんかと違って勤勉だからな!」
「おまけに君と違って礼儀正しいですし、謙虚なうえに美人ですからね。今まで浮いた話の一つもなかったことを疑問に思うべきだったんじゃあないですか、君は」
 しかも、マスター・スターンテイラーはこんな時でも先生を攻撃するのを止めないし、先生は先生で憎まれ口を叩き返すので、わたしにはいつまで経っても、話の正確なところが解らないのだった。小学生の喧嘩の仲裁をする先生の気分だ。ここにいるのは全員、少なくとも半世紀は生きているはずの魔法使いばかりなのに。

「ええと、そのお弟子さん、ルミッキさんでしたっけ?」
 わたしはおずおずと切り出した。 「ちょっと変わったお名前ですけど」
「フィンランド人なんですよ。一体どういう事情があって、こんな南の島の偏屈な老人に弟子入りしたのかは知りませんが」
「……もしかしなくても、その人って応接間で待ってるあの女の人ですか」
「どう考えたってそうでしょう」
 今も応接間のソファで携帯をいじっているだろう、お忍びの王女様か妖精みたいな姿をわたしは思った。確かにあの金髪と、透き通るような白い肌は、北国の生まれだからと言われれば納得できる。あれだけのルックスなら、そして性格も魔法の腕もいいとくれば、そりゃあ男の人からはもてるに違いない。
「その人に、ええと、つまり恋人ができたので、マスター・スターンテイラーは怒ってるってことですよね」
 ずばり「恋人」なんて言葉を使って、相手を刺激したくはなかったけれど、使わなければ仕方のないときもある。余計な口を挟まれやしないかと、一応警戒してはみたものの、先生はとうとう喋る気力をなくしてしまったのか、お茶菓子のビスケットをミルクティーに少しずつ浸しては食べ、浸しては食べを黙々と繰り返していた。
 わたしの質問に対して、マスター・スターンテイラーの答えは少しばかり予想と違っていた。わたしはてっきり、「恋人ができたこと」そのものに腹を立てているのだと思っていたが、実際はそうではないらしい。
「いいや、ケイリー、それは違うぞ。もし仮に――仮にルミッキが、同じくらい気が利いて向上心があって、礼儀正しく誠実な魔術師見習いを紹介してきたとしたら、俺はもちろん認めたさ。前途ある若い魔術師の門出は祝福してやるのが師の態度ってものだ」
「はあ」
 目元に涙の溜まった神妙な顔で、マスター・スターンテイラーは語り続けた。先生は変わらずビスケットをかじり続けている。
「いや、もしも! 魔術師見習いでなかったとしても、俺には受け入れる準備はあった。あったんだ! それなのに、それなのに……どうしてだか、ルミッキ、あいつが選んだのはよりにもよって、」
 そこで言葉が切れ、数回ほどすすり上げる音。よほどショックなのは解るけれども、それにしたってちょっと感情が不安定すぎやしないだろうか。わたしも将来、何らかの形でひどい失恋をしたら解るようになるのだろうか――
「よりにもよって! ハッカーだったんだよ!」
「……は、あ?」
 ――いや、たとえわたしが何度失恋をしようと、解るようにはなりそうもない。

「ハッカー?」
 マスター・スターンテイラーの叫びを、わたしはただオウム返しにすることしかできなかった。
「そんなのってあるか!? この国、いや世界でも有数の大魔術師の一番弟子の、その恋人がハッカーだぞ!? こんな冗談みたいな話があるか、いや、あってたまるか! そんなもの下手なパルプ小説の中でだって――」
 最後のほうは喉をつまらせ、ほとんど言葉にはなっていなかった。
 テーブルに突っ伏す大魔術師の姿を、わたしと先生はひとしきり黙って眺めた。そして、少しの間を置いてから顔を見合わせ、この状況について理解を深めようとした。二時間これに付き合わされた先生には悪いが、マスター・スターンテイラーがこの状態である以上、意見は先生に求めるしかない。
「先生、ハッカーって、……あの、コンピューターで色々やる仕事ですよね、ドラマとかではよくある」
「そうですね、実際その新しい恋人とやらのことは知りませんけれど」
 先生はようやく食べる手を止め、緩く頷いた。皿の上に並んでいた何種類かのビスケットは、もう半分ほどが消えてしまっていた。
「まあ、確かにそういうことなら、マスター・スターンテイラーがとても受け入れられないのは解る気がしますけど……」
 未だにコンピューターどころか、他人への連絡を伝書鳩で行うような人だ。自分が魔法使いであり、魔法で物事を解決することに誇りとこだわりを持っているのだ。自分の弟子に、そんな最先端の技術で食べているような恋人ができることを、毛嫌いするのも納得できる。
 ただ、それを言うならそもそもあのお弟子さん自体、立派に携帯電話(それも見るからにスマートフォンだ)という文明の利器を操り、魔法使いの伝統的なローブではなく、今風の服を着こなしている、どこからどう見ても完全な現代人だ。そのへんは気にならないんだろうか。それともこの様子だと、親バカならぬ師匠バカというか、彼女だけは例外の扱いになっているのだろうか。
「ちなみに、そのハッカーの男の人とお弟子さんは、いつどこで知り合ったとかどれぐらいお付き合いしてるとかは……」
「さあ」 先生の気のない返事。
「とにかく何かしらの切っ掛けで先日発覚したものの、詳細は全く分からず、です。ステフが取り乱して、ろくろく聞き出せていないんでしょう。彼女自身は隠し立てをするつもりは無さそうですし、問い質したら正直に話したでしょうからね」
「そうですか……」
 いよいよ収拾がつかなくなってきた。二人の大人はあてにならない。こうなったらお弟子さん本人をここに連れてきて、初対面のわたしがするには失礼かもしれない質問をぶつけるしかない。そんなことを思ったときだった。

 居間のドアをノックする、控えめな音が三回続けて響いた。先生が応接間の側を向いて、お入りなさい、と声をかけた。
「あのう、」
 ドアが開いて顔を出したのは、もちろん話題の張本人、マスター・スターンテイラーのお弟子さんだ。さすがに携帯とイヤホンは身に着けていなかった。
「すみません、ドクター。どうもお話を長引かせてしまっているみたいで……」
 先生が何か口を開くよりも先に、マスター・スターンテイラーががばりと顔を上げて、戸口に立つ愛弟子のほうを見た。その勢いにわたしは思わず身を引いたものの、お弟子さんのほうは全く動じていなかった。
「ルミッキ!」 心破れた師匠が涙声を上げた。
「マスター、なんだか誤解をなさっているようですけど」
 優しい柔らかい声が返された。 「私たちの関係について――」
「誤解だって!? 誤解もなにも、お前の説明を聞く限りじゃ、つまりそうなんだろ。そもそも『私たち』なんて代名詞が出てくる時点でもう十分じゃないか、ルミッキ!」
 途中に何度も鼻をすする音を混ぜながら、マスター・スターンテイラーが切れ切れに言った。先生はわたしにしか聞こえないような声で、「駄目だこいつ」と呟いた。そして、困ったような顔で立っているお弟子さんに、もう一つの肘掛け椅子に座るよう勧めた。わたしはといえば、彼女のぶんのお茶をすっかり忘れていたことを、今になってようやく思い出していた。
「じゃあ、『私たち』ではなくて……そう、キイスと私の関係について。マスターはキイスと私を何か、将来を約束した恋人同士みたいに考えていらっしゃるのかもしれませんが、実際はそんなことはないんですよ」
 椅子に腰を下ろしたお弟子さんは、いたって冷静に語り始めた。違ったのですか、と先生に尋ねられると、
「そりゃあ、確かに私は彼のことを『ボーイフレンドboyfriend』だとは言いましたけど、それは『男性の友達man friend』という意味であって、『恋人lover』だと言いたかったわけではありません」
 特に後ろめたいような様子もなく(やましいことは何もないのだろうから当然だ)、はっきりと言い切った。
「本当か!? でもお前、旅行に行ったんだろ! 二人で!」
「ええ、行きました」
「ということはつまり、その一週間ほど行動を共にしていたし、一緒に泊まったってことになるじゃないか!」
 マスター・スターンテイラーは、お弟子さんとその男友達が恋人同士でいてほしくないのか、恋人同士と決めつけたいのか、一体どちらなのだろう。いや、もちろん、違いますと言われればますます怪しみたくなる気持ちも解らないではないのだが。
「旅行といっても、私がキイスの仕事に付いて行っただけで……宿泊先だって全く別々のホテルでしたし、どころか飛行機の座席だって隣同士じゃありませんでしたけど」
「仕事に付いて行くって時点でもう明らかに特殊な間柄だろうが!」
 とにかくどうにかして揚げ足を取らなければ気が済まないらしいマスター・スターンテイラーに、先生があからさまな舌打ちを一つした。
「ステフ、君ちょっと黙っててください話が進まないから。――それで、つまりルミッキ、あなたとそのハッカーの男とは、あくまで特に親しい友人程度の間柄であって、それ以上のことは何もないと」
「はい、特に何か、たとえば同棲したりとか、指輪を貰ったりとか、そういうことは一切。私にもキイスにも、そんなつもりは全くありませんから」
「なるほど。ほら、良かったですねステフ、ただの遊びなんですってよ」
 先生は投げやりな口調で聞こえのよくないことを言う。
「……いや、たとえそうだったとしても、その表現は良いとは言えない気がするんですけど」
 わたしは思ったままのことを口に出し、お弟子さんは苦笑いをしていた。そして、
「確かに、『遊び』なんていったら――ああそうだ、真面目な話、肉体関係を持ったこともありません」
 と、彼女のマスターがまた過剰に反応しそうな台詞を付け加えた。実際、マスター・スターンテイラーはその一言に目を剥き、さっきまでのわめき声が喉の奥で凍りついてしまったようだった。追い打ちをかけるように先生が、
「じゃあ、つまりこうだ……良かったですねステフ、プラトニックなんですってよ」
 と言った。その表現もそれはそれでどうかと思ったけれど、今度は口に出さないでおいた。ちらりと大魔術師の顔をうかがってみると、ようやくショックから我に返ったのか、口を開いて何かを言おうとしているところだった。

「ステフ、君はもういい加減に観念なさい、みっともない。ルミッキよりも君のほうがよっぽど『緑の目をしている』じゃあないですか」
 大魔術師の恨み言は、とうとう辛抱たまらなくなったらしい先生の台詞でぴしゃりと遮られた。この言葉を聞いて初めて、わたしはお弟子さんの顔をまじまじと眺め、彼女の目がとても深くきれいな緑色であることに気がついた。
「ああ? 緑の目がどうかしたって?」
「いいえ何でも」 先生はそ知らぬ顔をした。 「君はシェイクスピアが嫌いなんだろうなって話」
「『リア王』ぐらい読んでるよ、この粋人気取りスノッブめ。誰が怪物だって言いたいんだ、え? 俺に何かを妬むような必要があるとでも?」
 いら立ちを隠そうともせずに、マスター・スタンテイラーが反撃した。「緑の目の怪物」の出典は「リア王」ではなく「オセロー」だということは、今は言わないほうがよさそうだ(そういうわたしも、たまたま先週の古典の授業で習うまでは、この言い回しの由来なんて知りもしなかったが)。それに、わたしが言わなくたって、どうせ先生がもっと嫌味な調子で言ってしまうに決まっている。
「ありますとも。嫉妬ですよ、要するに――長らく目をかけてきた愛弟子が、すっかり時流に取り残された魔術師の自分じゃあなく、ハッカーという現代技術の申し子をパートナーに選んだという事実が受け入れられないわけでしょう、君は。その男性に備わっている、自分にはない能力と魅力を、君は妬ましく思っているんです」
「そんな訳があるか!」 先生の論を、すかさず叫び声が否定した。
「論点はそこじゃない、俺を誰だと思ってる。ハッカーなにするものぞ、だ! 俺はただ、魔術師としての見地に立って弟子に意見をだな――」
「いい加減しろと言ったのが聞こえませんでしたか、ステフ」
 有無をいわせない響きだった。さすがのマスター・スターンテイラーも一瞬押し黙った。先生はそのまま、息継ぎもせずにしゃべり続けた。
「君の生まれた、その――神聖ローマ帝国はいくらなんでも嘘でしょうけど、とにかくその辺りの時代ならまだしも、今は二十一世紀ですよ。現代のヨーロッパにおいて、君はルミッキの交友関係に対して何の強制力も持ってはいないんです。彼女が誰と友達になって、誰を好きになろうが、全ては彼女の勝手でしょう」
「そうは言ったってな!」
 大魔術師は諦めていないようだった。 「お前の考えは知らないが、俺はルミッキの、ま」
師匠マスターだから何だって言うんです。今日び親兄弟だって、本人の恋愛を差し止める権利なんか持たないというのに、ましてや師匠なんて結局のところ他人でしょう? 君は古い価値観に縛られた挙句、それで弟子までも束縛しようとする因業な男です。そんなに嫌ならもういっそ、さっさとルミッキを破門にしてしまえばいいじゃあないですか」
「なにい!」
 マスター・スターンテイラーは、それでもなんとか反論するつもりだったのだろう。けれど、「破門」という単語を聞いて、実際に何か嫌な想像をしてしまったのか、しばらく口をつぐんでしまった。先生はせいせいしたとでも言うように、大げさな動きでソファの背に体を埋めた。わたしはといえば、今しがた先生の言ったことは大体、先生のやることにもそのまま当てはまるのになあ、と考えていた。確かに先生はわたしの交友関係に口出ししたことはないし、そもそも興味すら持っていないだろうが、それでも師匠の名のもとに自分の価値観で弟子を束縛する、十分に因業なひとだ。

 その時、ふと思い立ったようにお弟子さんが、マスター・スターンテイラーのほうを見て口を開いた。
「そうだ、マスター」
「何?」
 考えこんでいたところに突然声をかけられて、師匠のほうはずいぶん驚いたようだった。声が少し上ずっている。
「最初に私がこのことについてお話しした時、こうおっしゃいましたよね。もしも相手が、たとえば魔術師や錬金術師の見習いみたいな、これから魔法の道を志す若者だったなら、それは受け入れたって」
「……言ったな」
 どうやら、さっきわたしたちが聞いたのと同じような話を、お弟子さん本人も聞かされていたらしい。今と同じテンションだったとしたら、それはお弟子さんも付き合いきれなかっただろうな……と思っているうちに、彼女はとんでもないことを言い出した。
「それなら簡単なことですわ、マスター。つまり、キイスが私に弟子入りすればいいだけの話ですよね?」
 わたしは勢いあまって紅茶を一気に飲み下し、むせそうになるのを懸命にこらえた。先生は「ああ、その手があった」と感心したような顔で頷いている。そしてマスター・スターンテイラーは、何か言いかけて口をぱくぱくと動かしている。よっぽどショックな提案だったのだろう。
「良かった、私きっとキイスには、コンピューターだけじゃなく魔法の才能もあるって思ってたんです――きっと二つの意味で立派なウィザードになるに違いないわ。これで一件落着ですね」
「確かに、最近魔術師協会から免状を貰ったと言っていましたねえ、ルミッキ。あなたも誰かを教育できるだけの実力がついたと認められたわけです」
「はい、ドクター。といっても、個人的な弟子を取る気はあんまりなかったんですが」
 控えめに、でもどこか得意そうに微笑むお弟子さんに、その師匠はただただ愕然としているようだった。もちろん先生からのフォローもない。そのうちに何度かすすり上げる音が聞こえ、やっとのことでしぼり出されてきた言葉は、
「……なんでだよ、そんなにか! そんなにもその、ハッカーとやらの、そいつがいいのか! 俺はお前の魔女としての将来だとか、成長とか、そういうものを……考えてッ、思って言ってるんだ、本当に心からそう……思って……」
 という、震えて切れ切れのものだった。こみ上げてくるものを止められないといったところか、最後にはまたテーブルクロスに顔を伏せ、そこからは引きつったような泣き声が漏れてくるばかり。わたしはテレビドラマやニュース報道以外で、成人男性がここまで涙にくれるところを初めて見た気がした。ドラマに出てくる俳優さんは泣き顔まできれいだから良いものの、マスター・スターンテイラーのそれはあんまり見れたものではない。失礼かもしれないが、事実、そうなんだから仕方がない。
 やがて、先生が何度目かの溜息をつき、大儀そうに頭を振って言った。
「ルミッキ、あなたはもう帰っても宜しい。あなたが居たところで話が進むわけでもなさそうですからね。ステフに関しては、まあ何とか言い聞かせるか、なんだったら一、二発ぶん殴ってでも頭を冷やさせておきますから――そうでないとこの私も、貴重な休日を安穏と過ごすことができそうにありませんしね」
 週休六日のご身分で何が貴重な休日かと、わたしが心の中で冷ややかに呟いているうちにも、お弟子さんは苦笑いを浮かべながら先生に一礼し、最後にもう一度マスター・スターンテイラーのほうをちらりと見てから、居間を出ていこうとした。と、先生がわたしの顔は見ないまま、
「あなたもですよ、ケイリー」
 と言ってくる。
「わたしも?」
「この状態であなたにできることが他にあるものですか。もうお茶のお替わりは結構ですし、夕食はどこかで適当に食べますよ。ああ、いっそこの埋め合わせに、ステフに奢らせるというのも良い考えですね。ともかく、今日のところは新しく頼むこともないでしょうよ」
 先生の言いかたには大分引っかかるところがあったが、これ以上家事をしなくてすむのは素直にありがたかった。どうせ今日も先生は、わたしに魔法の技術を教えてくれるつもりはないのだろうし、それならさっさと帰れるに越したことはない。わたしは短く、どうも、とだけ返事をしてから、居間の出口へと急ぎ足で向かった。

  * * *

 応接間の扉を開けたとたん、先に出ていたお弟子さんがこちらを振り返ったので、わたしはまたどきりとした。ぱっちりした猫のようなつり目が、二、三回瞬いて、それからわたしに笑いかけてくる。
「ごめんなさい、お邪魔しちゃって」
 わたしは思わず、下がった眉尻を数秒ぐらいじっと見つめてしまった。確かにお邪魔はされたのだけれども、結果としては雑用が取り下げになったのだからオーライだ。そんなことないです、とわたしは首を横に振る。
「あなたが謝るようなことじゃないです、えっと……シスター・ルミッキ」
「シスター?」 お弟子さんが調子のすっ外れた声を上げた。
「え、いや、だって……その」
 何も間違ったことは言っていないはずだった。お弟子さんの名前が「ルミッキ」なのはさっきの会話で解っていたし、魔術師協会に所属している魔法使い同士では、ブラザーまたはシスターと呼び合うというのが決まりだと、先生からは聞かされている。いや、先生がたとえばマスター・スターンテイラーや、それ以外の魔法使いの知り合いをブラザーとかシスターとか呼んでいるところは、ただの一度も見たことはないけれど。
「嫌だ、さっきもドクターが仰ったけど、私この間ようやくお免状をもらって、入門生からひとつ上に行かせてもらったばっかりなのに! シスターって呼ばれるような良い身分じゃないわ。それに……」
 お弟子さんは目を細め、おかしそうに笑いながらそう言った。そして、
「そうだ、そういえば私、ドクターから紹介してもらうばっかりで、自分で自分のことは全然喋ってなかった。初対面なのに失礼だったわね?」
 と、口元に手を当てたお上品そうなポーズで続けた。先生のようにわざわざ気取ってそうしているのではなく、仕草が体に染み付いているような自然さだった。これが「育ちが良い」ということなんだろう。
「じゃあ改めて……マスター・ステファン・スターンテイラーの弟子、ルミッキ・ヴェルホです。シスターなんて堅苦しく言わないで、ルミッキって呼んで」
 ワンピースの裾をつまんでお辞儀をし――これは少し冗談まじりのふうがあった――それからわたしに手を差し出してくるお弟子さん。きっとこういう挨拶のしかたに慣れているんだろう。わたしはといえば、当然そんな場面には慣れていないどころか、初対面の挨拶が何より苦手なくちなので、
「あ、ええ、わたし先生の弟子の……いや、変な言い方ですけど、先生の名前を知らないもんですから、その」
「大丈夫、私も知らないから」
 口ごもって変なことを言い出した上に、お弟子さんから苦笑まじりのフォローまで入れられてしまうありさまだった。
「その……その弟子の、ケイリー・オウルです。よろしくお願いします、ルミッキ、……さん」
 やっとのことで握り返した手が、何度か揺らされるのを眺めながら、わたしはようやく一息ついた。美人と真正面で向き合うのは心臓に悪い。最初のうちは先生と顔を合わせるときもいちいちこんな感じだったな、と思い出してしまった。もっとも、先生の場合はその本性をすぐに知ることができたので、今と同じ態度になるまでそう長くはかからなかったのだ。今回はどうだろうか。
「よろしくね、ケイリー……あっ、じゃあ私、あなたのことケイちゃんって呼んでもいい?」
「えっ、はあ」
「私、こっちには友達が少なくって――いや、フィンランドにいた頃も友達なんていなかったけど、とにかく人付き合いがあんまりないの。同年代の女の子の友達なんて、きっとケイちゃんが初めてだと思う! だからお知り合いになれて嬉しいわ、本当に」
 にこにことわたしの顔を覗き込むルミッキさんに、わたしはただ、どうも、と返すことしかできなかった。たぶん彼女はわたしのことを、同じ高校生だか大学生だと勘違いしているのだろう。それは彼女に限ったことでもなくて、わたしが初対面の相手に中学生だと解ってもらえることはまずないのだが。

 それからまた少しの沈黙があった。どぎまぎしながらこのまま彼女を見送ってもいいけれど、なにかしら言わなきゃならない気がしていた。弟子同士これから仲良くしましょうとか、先生がマスター・スターンテイラーにいつもお世話になっていますとか、師匠が個性的だと苦労しますねとか。ところが、実際にわたしの口をついて出てきたのは、
「あの、さっきの、彼氏さんのことなんですけど」
 だった。この上さらに恋愛話で引き止めるつもりだけはなかったのに、無意識の好奇心は怖ろしいと、身を持って思い知らされてしまった。
「いや、違うか、彼氏さんじゃないんでしたっけ。そうじゃなくて……お友達の……」
「『ボーイフレンド』の」 ルミッキさんが訂正した。 「キイスのことでしょ? ハッカーの」
「あ、はい、そうです」
 こうなったら覚悟を決めて、知りたいと思っていたことを洗いざらい教えてもらったほうがいいのかもしれない。ついさっきだって、わたしは先生とマスター・スターンテイラーの問答がちっとも進まないからと、お弟子さんをあの場に引っ張ってこようとしていたのだ。そして今なら、傷心の師匠が口を挟んでくることはないのだから、きっとスムーズに情報が集まるはずだ。
「いや、別に大したことじゃなくて……その人って、どういう感じの人なんですか」
「どういう感じ?」
「というか、ほら、わたしハッカーってネットの仕事だなーってこと以外詳しく知らないですし、それにマスター・スターンテイラーがあれだけ反対する理由はそれだけなのかな、って気になっただけなんですけど……」
 覚悟を決めてもやっぱり言葉尻を濁してしまうわたしに、ルミッキさんはいたって軽く、ああ、と声を上げ、
「そうね、一言で表現するのは難しいんだけど、キイスは――あ、そうだ写真あるけど見る?」
 少し考えこんだかと思えば、それを中断してわたしに尋ねてきた。良いんですかとわたしが聞き返すと、彼女はポケットから携帯を取り出し、何度かつつき回すと、その液晶をこちらに向けた。
「ほら、これ」
 そこには、どこの国かは判らないものの(間違いなくこの国ではないはずだ)、どこかの広場の噴水の前で自撮りする男女の姿が映されていた。片方はもちろんルミッキさんだ。ただし、今着ているようなお上品なワンピースではなく、肩を大きく出した白いレースのトップス姿だった。そしてその隣に――見た目に三十歳ぐらいだろうか、あまり整っていない黒髪の、旅先の記念写真に写るには愛想のない顔をした男の人が、若干カメラ目線に失敗した様子で立っていた。黒いジャケットの前は開いて、ライトグレーのシャツと、その首元に引っ掛けたサングラスが覗いている。
「この人が――」
「そう、キイス」 ルミッキさんが頷いた。
「なんだか……あんまりハッカーって感じには見えませんね」
 言ってしまってから、いくらなんでもこれは感想としてよくないと思った。写真の彼はどう見たって仕事中じゃないし、それ以前にハッカーって感じに見える格好って何だろう。案の定ルミッキさんも、
「そりゃあね、別にハッカーはみんなオタクっぽい格好してなきゃならないって決まりはないもの……それとも、想像したのはガイ・フォークスの仮面のほう?」
 小さく吹き出しながらそう言うのだった。
「どこかの組織に所属してればそういうこともあるかも、だけど。でもキイスはフリーランスなの、その時々に企業とかに雇われて仕事をするわけ――何だったかしら、『ホワイトハット』? そういうのよ」
「なるほど」
 とは返事をしたものの、そもそもハッカーとは何かについての知識が足りないわたしには、ホワイトハットがどういうものかなんてさっぱり解らなかった。まあ、ホワイトなんだから、ブラックと違って悪いことはしていないんだろう。多分。考えてみれば、現代の技術をフル活用する職業だからというだけではなくて、「ハッカー」という言葉自体に「違法なことをしている」イメージがあることも、マスター・スターンテイラーの心証を悪くしている原因かもしれない。
「けっこう長いこと、お付き合いされてるんですか」
「ええ、まあ数年ね。もうちょっと具体的に言えば二年半ぐらい。お互い付き合って何周年、みたいなことを全く気にしないから、正確には解らないけど――」
 言ったところで、彼女はぺろりと舌を出した。 「ああ、『付き合って』はいないんだったわね」
「つまり、二年半ぐらいの間ずっと仲の良いお友達、なんですね」
「そう。どうかしら、普通の『友達』よりはずっと親しいとは思うけど、それでも『親友』とか『相棒』とか、そう言うほうが近いと思う。そんなこと言ったって、マスター・スターンテイラーは見逃してはくれないけどね」
 肩をすくめながら語るルミッキさんに、わたしは半分ぐらい同情の目を向けていた。もう半分は、「彼氏さんのほうはいい迷惑だろうなあ」だ。うっかり魔法使いの弟子と親密な関係になってしまったせいで、たぶんこれから先、定期的に呪われたりとかなんとかするんじゃないだろうか。そういう可能性も含めてのお付き合いをしてくれているなら良いけれど、普通「相手のお父さんから認めてもらえない可能性」とか「相手の兄弟とうまくいかない可能性」ぐらいならともかく、「相手の師匠に呪われる可能性」なんか考えたりはしないだろうに。

「私としては疑われるなんて心外なのよ、本当に。だって私、結婚するときが来たら、相手は当然マスターって決めてるのに」
 ――彼氏さんに対するわたしのお節介な考えは、そこで完全に断ち切られてしまった。わたしはてっきり、ルミッキさんはマスター・スターンテイラーを含めて、今のところ恋人として付き合いたいとか、結婚したいと思える相手に出会っていないのだとばかり思っていたのに、さらりとそんなことを言われてしまっては、思考停止するよりほかになかった。
「えっ?」
「だって、世界でも有数の魔術師で、地位と財産があって、見た目だってハンサムで、何より私のことをとても大切に思ってくれているんだもの、相手としては最高じゃない。もちろん、私もマスター・スターンテイラーのことは大好きだし」
 あっけに取られるわたしに、ルミッキさんは当然のことといったふうに答える。そのマスターはついさっき、あなたの発言の数々に打ちのめされていたんですけど……と言いたくなるところを、わたしはぐっと我慢した。代わりに、
「……それなら、マスター・スターンテイラーにはちゃんと正直に、というか、そのことを一言伝えて安心させてあげればいいんじゃないですか。そうすればきっと、今回みたいなごたごたしたことにもならなかったんじゃ、と思うんですけど」
 と、あんまり力の入っていない声で言った。少なくとも、今起きている揉め事はそれで一段落するだろうと思ったからだ。

 ところがルミッキさんは、わたしの提案を素直に受け入れる気はないようだった。唇の片方の端を上げていたずらっぽく笑い、こう言ってのけたのだ。
「あら、駄目よケイちゃん。これから何百年のお付き合いになるかもしれないのよ、魔女のプロポーズがそんな性急なことじゃいけないわ。――それに、夫婦の関係と師弟の関係は別物でしょ。ただの師匠と弟子でいられるうちは、その間柄をたっぷり楽しんだっていいじゃない」
  ぽかんと口を開けたまま、わたしはルミッキさんの笑顔をどこか遠く眺めた。そして、心の底からまた同情の気持ちが沸き上がってきた。彼氏さんに、あるいはマスター・スターンテイラーに、そして何故か巻き込まれたわたし自身に対してもだ。先生については――これは別に必要はなさそうだ。先生もある意味では、マスター・スターンテイラーとの間柄を不当に楽しんでいる加害者の一人と言えなくもない。
 もしかしてルミッキさんが先生の弟子だったら、それはそれは息の合った関係になったかもな、とふと思った。けれどもすぐに想像するのはやめた。その結果わたしがマスター・スターンテイラーの弟子になったとして、決して上手くはいかないどころか、今以上に窮屈な生活を送ることになるのが目に見えたからだ。魔法使いの師弟というものは、いつだって一方的にできている。そういうものだ。

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