幾何の小テストが返ってきた。評定が「D+」だった。

にくいアイツ -The Bantam Menace-

 もちろんA+なんて最初から期待していなかったけれど、それにしたって悪い点だった。中学に入ってから今まで、わたしが受けてきた数学のテストの中では、たぶん一番悪い点だろう。元から数学は苦手だったし、中でも幾何はとりわけ嫌いだ――それでもだいたいCは確保してきたのだから、わたしは人並み以上に頑張る生徒に違いはなかったのだ。
 ところが現実というものは無情なもので、いくら集中しても「発火」の呪文ひとつ満足に成功させられない魔法使いや(そう、わたしだ)、自国の公用語にもかかわらずイタリア語の発音がなかなか上達しない国民がいるように(これもわたしだ)、努力に見合う結果はいつだってついてこないものである。
 終業のベルが鳴って、生徒たちが教室移動の準備を始める中、わたしは答案用紙を手に、ちらちらと辺りの席の様子をうかがった。フラーヴィ先生の授業が聖マーガレット中学校でもとりわけ難関であることは、もちろん全校生徒の知るところだ。期末考査レベルの小テストが頻繁にある上に、そこでAを取れる生徒はほんの数人、あとは全員B-かC、着任してきてからA+をつけたことはただの一度もないという噂さえある。特に論理の記述問題の採点ときたら……いや、そんなことを考えてもますます気が滅入るだけだ。そんなことよりも、次の補講でなんとか評点を回復することのほうを考えたほうがいい。心が折れてしまわないように、帰りにアイスクリームを買って食べることも忘れてはいけない。

 しかし、新作のチョコミント・クッキー・アイスクリームについての素晴らしい想像は、後ろから感じた視線によって散らされてしまった。気のせいかとも思ったけれど、やっぱりじろじろ見られている。真後ろに座っているのは友達のヴァネッサで、彼女は他人の評定なんてものは全く気にしないたちだから違うだろう。別の机の誰かだろうか。わたしはさらに教室じゅうへと視線を巡らせ、とうとう見つけた――斜め右後ろ、窓際の少し離れた席で、ばれていないつもりだろうが身を乗り出している姿。間違いない、あいつだ。そして、あいつならやりかねない。
 わたしが立ち上がって向き直ったのを見て、相手もようやく気付かれていることを理解したらしい。が、そそくさと席を立とうとするその前に、わたしは机の前まで大股で歩み寄り、きっぱりと言ってやった。
「何か用」
「いや? 別に」
 そっけなく答える口元も、視線をそらした黒い目も、誰がどう見てもあからさまに笑いをこらえている。中学生の女子と男子の間には、大抵の場合埋めがたい溝があるものだが、こいつに関してはとりわけ女子からの評判が悪い。特にこの、同じ数学のクラスに出席しなければならない面子からは。
「あんたでしょ、さっきからこっち見てるのは。わたしの何がそんなに気になるわけ?」
 わたしとしては出来る限り声にどすを効かせて言ったつもりだったが、そいつが表情を変えることはなかった。申し訳程度に口元を抑えなから、
「いやだってお前…D+って、ねーわD+とか…」
 喉を引きつらせるような半笑いで、わたしのテストの評定を反復しただけだった。他人の口からは聞きたくない言葉だ。わたしは少しの間黙って、その中学生にしては女っぽい顔を睨みつけた。もちろん、わたしの顔にそこまで威圧感がないことは承知の上だ。
「幾何のテストにひとつDがあったぐらいであんたに何の損得があるっての。大体そう言うあんたはご立派な成績を取れたわけ? B+ぐらいは?」
 あくまで相手に目をすえながら、わたしは机の上に重ねて置かれた何枚かの紙を出しぬけに引っつかんだ。このうち一枚はさっきの小テストのはずだ。そいつが何か言う前に、紙面を確認する。案の定、一番下になっていたのが答案用紙で、その評価を書き込む欄には――
「……え」
 三度ぐらい見直しても、「A-」と書いてあった。

 受け入れ切れない結果から視線を外してみると、回答者がそれはそれは得意そうに顔をにやつかせながら、こちらの反応をうかがっていた。我慢のならない笑い顔だった。かといって、ここでどんな台詞を投げ返せば、こいつの表情を崩してやれるのかも解らなかった。クラスで一番むかつく男子が自分より成績優秀だとか、そんな女児向けカートゥーンのお決まりの設定みたいなことが現実に存在したなんて、今のわたしには対処が困難だった。
 運の良いことに、ちょうどそのとき教室のドアが開く音がして、
「ちょっと、ケイリー? 何やってんの、次イタリア語でしょ?」
 とっくに移動を済ませていたらしい後ろの席のヴァネッサが、わざわざ戻ってきてくれたらしく、顔を出してわたしを呼んだ。
「ごめん、今行く」
 ここで会話を切り上げられるのはとてもありがたかった。取り上げた答案を机の上に叩きつけ、わたしはそれきり何も言わずにそいつの机を後にした――背後から何か言っているのが聞こえた気がしたが、内容は無視することにした。これ以上腹を立てたって何にもならない。
「どうしたの? もしかして絡まれてた?」
「いや、そういうわけじゃないけど……うん、大丈夫」
「本当に? というかビアンコでしょ? あいつ本っ当ウザいよね、自分がちょっと頭いいからってさ」
 ヴァネッサはわたしを心配して、あれこれフォローの言葉やあいつの悪口を並べてくれたものの、今のわたしにはそれもあまり耳に入らなかった。

  * * *

「……あの、先生には」
 液晶テレビに映るタイトル不明のアクション映画が、やっとスタッフロールに差し掛かったところで、わたしは控えめに声を上げた。
「こう、『こいつムカつく』って思うような人とかは、いるんでしょうか」
 先生はわたしが買ってきたチェリーヨーグルトのアイスクリームを、大きな銀のスプーンですくい上げてから、
「ステフのことですか」
 とだけ答え、一息に舐め取った。
「いや、そうじゃなくて……その、確かによく喧嘩してはいますけど、でも一応マスター・スターンテイラーとはお友達じゃないですか」
「一応はね」
「そういう関係以前に、もうこいつとは絶対仲良くできないとか、言ってしまえば『こいつは私の敵だ!』みたいな……そんな相手のことですよ」
 わたしはそう説明を加えたが、先生はしばらくアイスクリームにかかりきりで、答えてくれる気がないように見えた。しかし、スタッフロールが流れ終わり、その後に何もおまけの映像がないと見るやテレビを消し、おもむろに話し始めた。
「そりゃあ、敵視されることなら山ほどありますよ。私ほど優秀で、何より美しい魔術師となれば、その才能と美貌を妬んだり逆恨んだりする者は数多いものです。――が、そういう人々は私にとって相手にもなりませんからね、結局のところ私にはほぼ敵はいないということになりましょうか」
 絶対的な自信を感じさせる口ぶりだった。別に冗談めかして言っているのではなく、心からそう信じ切っていることが伝わってくる態度だ。当然、それはわたしにとって何の参考にもならなかった。 「先生にだけは聞かないほうがいい質問でしたね」
 わたしはごく小さな声で呟いたが、先生は耳ざとく聞き取ってきた。
「何か言いました?」
「いえ、別に」
 そもそも自尊心の高すぎる大人の先生には、ただの女子中学生の悩みなんか相談したって仕方のないことだったのだ。わたしは空になった自分のアイスのカップをゴミ箱に捨て、少し黙った。先生は次に何を見るべきか考えているらしく、DVDラックに並ぶケースの背表紙を次々に確認している。
「――わたしには、いるんですよ、ムカつくやつ」
 どうせ聞いていないのだろうし、聞かれていなくたって構わない。とにかく洗いざらい言い切ってしまわないと、わたしとしても気が収まらなかった。どうせそのうち、映画の邪魔だから静かにしなさいとでも言われるだろうから、それまでは話し続けてやろうと心に決めて、わたしは言葉を重ねた。
「ヴァレンティーノ・ビアンコっていって、数学のクラスで同じになる男子なんですけど、そいつがもう本当にやなやつで。授業中に答えを間違えたら笑いものにしたり、席のそばを通ったときに足を引っ掛けてきたり、今日だってわたしの数学のテスト覗き見して、バカにしてきたんですよ。はっきり言って幼稚ですし、あんなの中学校だから退校にならずに済んでるだけで、学生としては失格じゃないですか」
 今までの悪行を挙げているうちに、また腹が立ってくる。わたしはつとめて平常心でいようとした。それに加えて、他にもそいつを嫌っている女子は多いことや、成績だけは優秀であることなどを一通り話した。先生は最後まで何も言わなかったが、静かに聞いてくれるつもりがあったというわけではなく、単に映画選びとアイスクリームのほうが大事だっただけだろう。

 やがて、先生は「ショーン・オブ・ザ・デッド」のブルーレイ・ディスクをケースから取り出し、テレビの前のプレーヤーに差し込みながら、
「で、私に何をしてほしいんです」
 とだけ言った。
「えっ? いや、何をって……それはその、どういう」
「つまり、あなたにはどうしても辛抱ならないクラスメイトがいる。その男子生徒には座学でも実技でも勝てそうにない。けれどもなんとかして一泡吹かせてやりたい。それで私のところへ話を持ってきたと、そういうことなのでしょう。ですから私は何をすれば良いんです? 呪い殺すとか?」
 話があまりに唐突すぎて、わたしはぬるくなった紅茶を思い切り吸い込み、激しくむせた。先生が眉をひそめ、唾が飛んだら拭いておいてくださいよと冷ややかに言った。
「ちょっと、ちょっと先生、何言い出すんですかいきなり」
「違うのですか? ――魔術師を相手に仇敵の話をするということは、つまりそういうことだと思ったんですがね」
「そんな訳ないじゃないですか! そんな――そんなまさか、」
 先生のとんでもない理論をあわてて訂正するうち、わたしの頭にはふと疑問が浮かんでいた。
「……まさかとは思うんですけど先生、もしもわたしがそうだって言ったらどうするんですか、呪い殺したんですか」
「それこそまさか、ですよケイリー。文明国家のいち市民なのですから、そう短絡的に相手の存在を抹消する方向に走るのは、望ましい振る舞いとは言えませんね、実際。まして魔術師であるなら、もっと理性的でなければ」
「ですよね……」
 危うく殺人教唆だかなんだかいう罪に問われる可能性がなくなったので、わたしは胸をなでおろした。いくらムカつくといっても、殺してやりたいほど相手を憎んでいるわけじゃない。そりゃあ「ちょっとぐらい痛い目に遭えばいいのに」程度のことは考えるけれども。
「それにね、相手への意趣返しにしたって、もっと法に抵触する危険がない、表沙汰にもならないような方法はいくらでもあるでしょう」
「えっ」
 ところが先生は、存在を抹消する方面の話はしなくなったものの、今度は別の方向によろしくないアイデアを出し始めた。
「例えば、通学路にある全ての信号に引っかかって、朝家を少しばかり早く出ないと遅刻を免れないようになるとか、学校のカフェテリアでサラダバーから野菜をすくっても、やたら豆ばっかり皿に入るようになるとか。あとは雨の日に必ずズボンの裾に泥跳ねができるとか、両手の指のうち最低一本は常にささくれができている状態が一ヶ月は続くとか」
「あの、先生」
 わたしは思わず話に割って入った。 「先生はいつもそんな、暗いことばっかり考えて生きてるんですか」
「いいえ? 普段はもっと明朗で爽快で、胸のすくような――」
 そこまで言って、先生はテレビの画面へ目を向けた。既に再生は始まっている。
「――ゾンビの頭をクリケットのバットで殴ったり、スーツを着たイギリスのスパイがヘリからスカイダイビングしたり、サメが竜巻と共に空から降ってくるようなことを考えて生きていますよ」
「先生、魔法使いにこんなこと言うのもどうかと思うんですけど、もっと現実を見て生きてください」
「ステフに言いなさい」 先生は平然と答えた。 「私は生粋のリアリストです」

 自称生粋のリアリスト、わたしの目から見れば生粋のナルシストであるところの先生のアドバイスは、結局何の役にも立たなかった。先生もゾンビ映画とアイスクリームのほうに心を奪われているようなので、わたしはさっさといつもの雑用を済ませることにした――映画が終わってから文句を言われるのはしゃくだし、何よりわたしはスプラッターが苦手なのだ。
 居間以外の掃除を軽く済ませて、庭に出ると日が傾き始めていた。暗くなる前に玄関の周りをきれいにして、もし庭木に何か変わったところがあれば、ちゃんと確認して先生に伝えておかなければならない。これからの時期は、この庭仕事が何より大変だ。地中海に面した都市がだいたいそうであるように、セントエラスムスもまた日差しが強く、夏はとても暑く、屋外で過ごすのはとても厳しい。先生も手入れが面倒なら花なんて育てなければいいのに、何故か庭じゅう植物だらけだし、ラナンキュラス通りに住んでいながらラナンキュラスは育てず、色とりどりのバラばかりを植えて、わたしに世話を押し付けている(そのくせ気を利かせてちょっと剪定をしたりしておくと、「何故自分の許しなく手を入れたか」とやかましくなる)。こうして考えてみると、中学校に入ってからというもの、人生がどんどんわたしに対して厳しくなっている気がしないでもない。今日だって――そう、今日までは「卒業後そのまま進学するか、魔法使いの修行に専念するか」ということには悩んでも、まさか「進学できない」という可能性までは思いもしなかったのに……

「おい、オウル? お前、ケイリー・オウルだよな?」
 ネガティブな考えにストップがかかったのは幸運だったかもしれないが、その声はわたしにとっては最悪のものだった。わたしはバラの根に水をまく手を止め、鉄柵から向こうの通りを覗き込んだ。それから、声をかけてきた本人の姿を確認すると、すぐに立ち上がって門の前へと突き進んだ。
「何か用でも?」
「ここお前ん家? そんな訳ねーよな……別に何の用もないけど、それが?」
 間違いなくヴァレンティーノ・ビアンコだった。制服姿ではなく、白い半袖のTシャツと丈の短いズボンを着ていて、よけいに中学生には見えなかった。まさかこんな所に通りかかるようなやつだとは思わなかったが、それを言うならわたしだって、まさかこんな所にほぼ毎日通っているとは、クラスメイトの誰も思ってはいないだろう。
「だったらさっさと行ったら? ここで何してるのか知らないけど」
「お前こそ何やってんだよ他人の家で。帰って数学のお勉強でもしたほうが身のためなんじゃね?」
「うるさい」
 今のはかなり心にくる一言だった。確かにわたしはさっさと家に帰って、テストの復習をしているべきなのだと思う。でもこいつにだけは指摘されたくなかった。先生に指摘されたとしてもきっと腹が立っただろうが。
「あんたこそ、わたしや他の女子にいい加減ちょっかい出すのやめたほうが身のためだと思うけど。そのうち内申で引っかかって行く高校がなくなっても知らないから」
「は、D+が偉そうな口利くんじゃねえよ」
 露骨に「D+」のところを強調しながら、ビアンコは例の我慢ならないにやけ顔で言った。まだ何か続けようとしているようだったが、それをわたしは大声で遮った。
「いいからもうどっか行って!」
 水やり用のホースを掴んで、その先を半笑いの顔に向けながら。 「わたしは! 花の手入れで、忙しいから!」
「はいはい、お前にバラとか全然似合わねーけど」
「あんたに言われなくたって解ってる!」
 わたしは傍の蛇口を力任せにひねり、水を全開にした。もちろん、本気で相手にぶちまけてやるつもりはなかった。ただの威嚇ってやつだ。実際、ビアンコのほうもへらへらした態度を崩さないまま、さっと門から体を離してよけようとしていた。

ステレオーネ、留まれ!
 ――ところが、通りの側へと引っ込むはずだったビアンコの体は、その間際の中途半端な姿勢のままでぴたりと固まり、わたしが向けたホースの水は見事顔面に直撃した。それがあまりに唐突だったので、わたしは一瞬水を止めるのも忘れて立ち尽くしてしまった――今の呪文は間違いなく、先生のものだった。
「て……っめ、何しやが」
「それはこちらの台詞です」
 先生は玄関口から、つかつかと音を響かせながら歩いてくると、わたしの横で立ち止まった。そして、後ろに傾いた不自然な格好でびくともしないビアンコが、辛うじて口にしようとした文句をぴしゃりと遮った。ぞっとするほど冷たく低い声で。
「あなたがどこの誰だかは存じ上げませんが、魔術師の家の玄関先で騒ぎ立て、主たるこの私の穏やかな午後を乱すということが、どれほど礼を失した行いか解っていないと見えますね。まあ、今日びは義務教育で魔術師に対する正しい接し方なぞ学ばないことでしょうが」
 細く短いシラカバの杖を、びしょ濡れになったビアンコの額にまっすぐ向けながら、先生が淡々と言う。先生の映画のチョイスはちっとも穏やかな午後にふさわしくないと思うが、今はそのことを指摘している場合じゃない。
「魔術師?」
 ビアンコはその黒い目を何度か瞬かせ、わたしと先生の顔へ交互に視線を向けた。もちろん今も、身体はぴくりとも動かず、ただ水だけが髪や顎の先から滴り落ちている。さっき先生がかけた「固定」の魔法が効いたままなのだ。これで「沈黙」もついでにかけてくれればもっと良かったのに。
 ともあれ、先生の力を盾にしているようで少し不満ではあるけれど、それでも今の状況は、言いたいことをこれでもかと言ってやるチャンスだった。わたしはビアンコを見下ろして、指をつきつけながらはっきりと声に出した。
「解った? あんたは数学だけ良い点取ってりゃ満足でしょうけど、わたしにはそれ以外にもお勉強することがたくさんあるの」
 ちょっぴり得意になっているのは認める。中学生のうちは数学の勉強のほうが大事なのも解っている。ただ、こうして断言してやれるのは気分がよかった。もっとも、あんまり長いことこうしているわけにもいかない。何せ通りに面した場所でのこと、たまたますれ違った人に何事かと思われるのも少し問題だ。悪いのはあちらなのだけれども、魔法使いである先生が出てきている以上、やりすぎだと言われる可能性も十分ある。
 その時、通りの向こう、ちょうどわたしからぎりぎり見える範囲に、こちらへ向かってくる姿があるのをわたしは見た。そろそろビアンコを勘弁してやってもいいころだ。
「まあ、今日のところはこれで許してあげなくもないけど。そうですよね、先生?」
「私としてはもう二、三教え込んでやりたいことがあるのですがね、良いでしょう、こちらは理性的で寛容ですから――」
 先生が偉そうな調子で鼻を鳴らし、そう言いかけたときだった。
スターシ、止めよ!
 ここにいる三人の誰とも違う、よくよく通る声が通りにこだましたのは。

 とたん、さっきまで静止していたビアンコの体が、重力に引っ張られるように後ろへと大きく傾いた。うあっ、と調子の外れた大声を上げて、何度かたたらを踏みながら、ビアンコはなんとかひっくり返らないように体勢を整えている。わたしはといえばそれを他人事のように眺めながら、その向こうで今しがた足を止めた人物のことを考えていた。さっきの声はきっとその人のものだ。先生よりも低い、男の人の、さらに言えば十分に年をとった人の声だった。しかも魔法の呪文だった。「打ち消し」だ。
「――げっ、ジジイ!」
 ビアンコが振り返るなり顔色を変えた。その先にいたのは、見た目に六十歳は過ぎているだろう、けれど背筋のしゃんとしたお爺さんだった。ファッションのことには詳しくないわたしでも、ひと目で高級なものだと解るような、仕立てのいいダークグレーのスーツを着て、左手で黒い杖をついている。「紳士」という単語がしっくり来るような、上品なスタイルだ。それもただの紳士ではなくて、それこそイギリスのスパイ映画にでも出てきそうな、厳しくて凛々しい雰囲気の人だった。
「ヴァレンティーノ」
 おごそかな声が響き渡り、一瞬ビアンコの肩がびくりとするのが見えた。
「私が戻るまでの一時間は、修練の前の瞑想に宛てるようにと言っておいたな」
 推定イギリス紳士はますますそれらしいことに、完璧なイギリス英語のアクセントでもって喋っていた。それだけでなく、かなり教養のある人の話し方であるようにわたしには思える。実際のところ、イギリスの上流階級の人と会って話したことはないので、ただの想像でしかないけれども。
「てめえが一時間経っても戻ってこないのが悪いんだろ! ジジイがどこ徘徊してたんだか知らねーけどよ!」
「挨拶回りは土地の魔術師として欠かしてはならない大切な仕事だ。本来ならばお前も、私に同伴して他のマスターと馴染みになっておくべきところなのだぞ」
 いいや、今はこの紳士がイギリス映画のスパイめいているとか、そういったことを考えている時じゃなかった。わたしはなんとか自分の頭から先入観を追いやろうとした。そんなことよりもっと重大なことがある。
「あの、ちょっと、待って……ください」 わたしは声を絞り出した。
「そっちの、その……人は魔法使いで、それで」
「自分一人が特別だとでも思ってたのかよ、オウル。お前のそのお勉強とやらは、半年前からオレもやってるよ」
 こちらを小馬鹿にしたような口ぶりで、ビアンコはわたしに告げる。声はさっきと違って余裕がなかったが、その内容はわたしの余裕もなくさせるのに十分だった。頭が理解するのを拒否しそうだった。こいつも、魔法使いの見習いだったのだ。
「だ、……だから? そうだとしてもわたしのほうが先輩なんだけど。あんたが半年前なら、わたしは一年生のときからずっとだし」
「それがどうした。その三年間で何か一つでもまともに唱えられるようになったのか? どうせマッチに火だって点けられないんだろ!」
 ビアンコの言うことは、実際わたしの状態をぴたりと当てていた。自分の才能のなさを指摘されるのは、いつだって心を先割れスプーンでえぐられるような心地がする。わたしはきっとビアンコを睨んだものの、反論は思いつかなかった。
「ええ? どうなんだよオウル。正解だろ? だから三年経ってもずっと見習いのまんま――」
 わたしが言い返さないのをいいことに、ビアンコがさらに畳み掛けようとしたその時、ぱちん! 指を鳴らす高い音が鳴り響いて、ほとんど声変わりしていない煽り文句はぷっつり途絶えてしまった。見れば老紳士が、右手をビアンコに向けている。何か呪文を、たぶん「沈黙」を使ったのだ。その人差し指に指輪が通されていること、それが西日の中でもぼんやり青白く光っていることに、わたしはここで気がついた。
「ヴァレンティーノ!」 ひときわ強い調子で老紳士が言った。
「態度を弁えろ! 自らも修行の身でありながら、同じ魔術師の兄弟姉妹を侮辱するなど、魔導を志す者のすることではない!」
 そうだそうだ、とわたしも心の中で声を上げ、拳を握った。こんな奴が将来魔法使いになるなんて考えたくもない。たぶん先生以上に厄介者になって、この国の魔法使いの地位もますます落ち込んでいくに違いない。
「彼女に謝るんだ、ヴァレンティーノ」
 老紳士にそう命じられても、ビアンコはしばらくの間、わたしに敵意を向けて凄んでいるままだった(ただし童顔のせいで迫力は無かった)。「沈黙」の魔法はもう解けているのか、それとも謝罪の言葉以外は出てこないようになっているのだろうか。
「彼女に謝りなさい!」
 もう一度、有無を言わさない態度での命令が下された。ここへ来てとうとう、クラス屈指の悪ガキも、一応表面だけは屈服する気になったらしい。ごくごく小さな、不満たらたらの声ではあったものの、
「……どうもすみませんでした」
 という呟きが、わたしの耳には確かに聞こえた。
「実に情けない。自分の行為に対する責任は、人として常に持っておくべきものだろうに……」
 心の底からそう思っているのだろう様子で、老紳士が重たい溜息をついた。ビアンコにはまだまだ言ってやりたいことが山ほどあるものの、その師匠だと思われる老紳士には、多分何の罪もない。申し訳なく思われている側としては、フォローのひとつも入れておくべきだろうか。わたしが次の台詞に詰まって口ごもっているうちに、
「うるせえぞ、もう良いだろジジイ! オレはもう行くからな!」
 ビアンコは大きな動きで門に背を向け、通りを東へ駆け出そうとしていた。
「待てビアンコ、一体どこに行くと言うのだね!」
「てめえが言ったことだろうが! 瞑想しろってんなら二時間でも三時間でもやってやるよ!」
 呼び止める声にも構わず、半袖のTシャツ姿はそのまま走り去り、わたしの視界から消えた。しばらくの間、気まずい静けさだけがそこにあった。

 先に口を開いたのは老紳士のほうだった。わずかに灰がかった青色の目が、わたしをまっすぐに見ていた。
「心から申し訳なく思うよ、お嬢さん。私の居ぬ間に、ヴァレンティーノが君に大変なことをしていたのだな」
 言葉と心が一致している、とはっきり判った。だからこそ、ますますフォローを入れなければいけない気がして、わたしは焦った。とはいっても、こういうときに言えるような気の利いた台詞のストックは、先生と違ってわたしには無い。とりあえず何か言おうと思って声に出したのは、
「いや、そんな……あなたに謝ってもらうような、そういうことじゃ……」
 という、なんとも力のない言葉だけだった。
「本当に済まないことをした。弟子のしたことは、師である私にも責任の一端がある。戻ったら、このことはよく言い聞かせて、時間は掛かっても改心させるつもりだ。――君はドクターの新しい見習いだね?」
「あ、えっと、はい」
「実は私も用事があってここまで来たのだよ。挨拶でもと思っていたのだが、……後日にしたほうが良さそうだ。どうやら君の先生は今、とてもそれどころではない様子だからね」
 わたしの隣に視線をちらりとやってから、老紳士は抑えたトーンで穏やかに語った。それから、謝罪も兼ねてまた改めて訪問することをわたしに約束した。そして、最後に深々と礼をしてから、もと来た道を戻っていった。
 言われるまでもなく、わたしは先生が今の今まで、一言も口をきいていなかったことに気が付いていた。先生はこの騒ぎの間、口を半開きにしたまま、放心している様子でずっと立ちつくしていた。理由もほとんど解っていた――老紳士が門の前に姿を現したとき、ビアンコとほとんど同じタイミングで「げっ」と低い声を漏らしたのを、はっきりとこの耳で聞いたからだ。

  * * *

「冗談じゃねえ!」
 マスター・スターンテイラーの渾身の叫びが、テーブルの上の食器を震わせた。怒れる大魔術師は、今にもそれらをテーブルごとひっくり返しそうなほどに、全身の血を頭に上らせていた。
「そんな馬鹿な話が――話があってたまるか、あの陰険イギリス野郎! どこまで俺様の栄光に水を差せば気が済むんだ!」
「ああ、ええ、全くですとも!」
 珍しいことには、先生もそんなマスター・スターンテイラーを鬱陶しく思うどころか、一緒になって大声を上げているのだった。普通の人なら頭を掻きむしっているだろうところ、たとえ頭を抱えたとしても、完璧にセットされたお団子頭を崩そうとはしないところが、それでも先生らしいところだったが。
「どうしてそんな今更……ここ十年近く顔を見せることすら無かったから、てっきりもう向こうに永住して帰ってこないと思っていたものを!」
 怒り心頭の大人たちを前にして、わたしにできることはただ静かにお茶のおかわりを注ぎ足すことと、大皿の上のメレンゲ菓子を適度に補充すること、そして巻き添えを食らって食器が欠けたり割れたりしないよう祈ることだけだった。

 あの後、老紳士と入れ違いになるように、マスター・スターンテイラーは足音も荒々しく先生の家を訪ねてきた。そして、玄関先でまだ放心している先生を見つけるや、「奴が帰ってきた」ことを簡潔に告げた。大人二人はそのまま居間へ直行し、先生はわたしにお茶の準備を言いつけた。とても口答えを許してくれるふうではなかったし、そもそもこの状態の先生に口答えする勇気なんてあるはずもなかった。元から弟子に反抗させる気が一切ない先生だが、その中でも「今は絶対に刺激してはいけない」という時はあるものだ。
「……というか、お知り合いだったんですね、二人ともの」
「知り合いだって!」
 わたしがほんの小さな声で呟いた言葉は、たちまちマスター・スターンテイラーに拾い上げられた。わたしの顔を見る茶色の目には、怒りの炎がめらめらと燃えているようだった。
「知り合い、そうだな、知り合いだとも。だが知り合いという言葉は相応しくない! 奴は仇敵だ、不倶戴天だ!」
「そ、そんなにですか」
「おうとも、恨みの種は尽きないほどあるからな! 挙げても挙げてもきりがないくらいだが、例えば今の魔術師協会が設立された時なんて、俺より先にマスター号を取りやがったんだぞ! この世界に名だたる大魔術師、ステファン・スターンテイラーを差し置いて!」
「はあ」
 同情し切れていないわたしは、あまりの勢いに軽く引きながら相槌を打つ。と、横から先生が、
「君はそれでもまだ良いじゃあないですか、結局その後マスターには成れたんですから。私なんてなお悪いですよ! 奴さえいなければ、私は堂々とこの町随一の薬局として商売ができただろうに、本職の呪術医が同じ通りに住んでいたんじゃあ、私の出る幕なんて無いも同然でしょう!」
 と嘆きの声を上げた。この先生にも昔はちゃんと商売をする気があった、ということが何より驚くべきところだった。
「何を言うか! お前なんて結局真面目に商売なんかしてないんだから変わりはないだろうが。……いや、どちらにしても、奴がぬけぬけとマスターを名乗り、このセントエラスムスにどの面下げてか戻ってきたことがまず大問題だ。俺たちにとってはな」
「何故かこの国は諸手を挙げて歓迎する構えのようですがね」 先生が毒づいた。
「ああ、そうだな! 上がどういう考えかは知らんが、奴はちょっと島の外に出てる間に、大英帝国勲章ナイト・コマンダーまで授かりやがったからな。公の場に出たら、俺は奴のことをサー・ガブリエル・ウィペットと呼ばなけりゃならんのだぞ、ふざけやがって!」

 ガブリエル・ウィペット、それがさっきの老紳士の名前らしかった。もちろん本名ではなくて魔法名だろうけど(もし本名だったら、この心の狭い大人たちはまず真っ先に相手を呪い殺しているに違いない)。そんな偉い人のところに何故ビアンコなんかが弟子入りできたのかはともかくとして、確かにわたしにとっても問題は問題だった。その、マスター・ウィペットがラナンキュラス通りに「戻ってきた」――これからこの通りに住むことになった。それはつまり弟子であるビアンコも、この先ちょくちょく近所で見かけることになる、という意味だ。一体なんてことをしてくれたんだろう。数学のクラスで顔を合わせるだけでも嫌なのに、そこを離れてわざわざ通ってきた先でもすれ違ったりするかもしれないなんて。
「本当に、これから一体どうしてくれましょうか! こうなったからには間違いなく、彼は毎週日曜に『青銅の梟』で食事を取る習慣を再開するはずです。私の素晴らしい休日を台無しにしてくれようだなんて、どこまで行っても忌々しい奴――」
「週休六日のお前が言うなお前が! そんなことより俺はどうなる、これでもう魔術師協会のセントエラスムス支部で、『唯一のマスター・ウィザード』とは名乗れなくなるんだぞ! この輝かしい称号は!」
「元から君は唯一のマスターじゃあないんですからそんなもの当然でしょうが! ぜんたい君はマスター号には相応しくないんですよ、弟子は甘やかすし時代に対して進歩はしないしその格好は暑苦しいですし!」
 ただ、目の前でいい年をした魔法使い二人が、古い知り合いの悪口でさんざん盛り上がっているのを見ていると、思ったよりずっと穏やかな気持ちになれるのは確かだった。先生なんて、あれだけドヤ顔で「私に敵はいない」みたいなことを言っておきながらこの有様だ。わたしだってビアンコとはとても仲良くなれないと思っているが、ここまで荒れるほどじゃない。そう心の中で考えるたび、頭が冷えてくる気がするのだ。
 わたしは過去の傷をなめ合う、あるいは傷をえぐり合う大人たちにそっと背を向けて、台所に入った。このぶんだと今日はマスター・スターンテイラーは帰らないだろう。このままお茶を飲んで、菓子皿を空にして、その後さらにお酒を飲み、冷蔵庫にストックしてある食品を半端に食べ散らかすに違いない。そうなる前に何か、夕食に向いたものを用意してあげようと思った。食べてほしいものをあらかじめ置いておけば、こちらの想定外のものを消費される可能性も低くなるだろう。どうしてわたしが先生の家の冷蔵庫を管理しているのかという、いつもの疑問は今日は考えないことにした。

  * * *

 翌日の昼休みが終わる前から、わたしはフラーヴィ先生の教室に入り、自習を始めていた。時間が時間なので、部屋の中にはわたし一人だ。次のテストはまだ少し先だけれど、今日の授業で必ず、この間の復習の問題が出るはずだ。今度こそ笑いものにされないよう、できるだけ準備はしておかなければならない。テストの問題をノートに書き写し、一つずつ解き直していると、ふいに教室の後ろの扉が開く音がした。
 すぐに入ってくる足音はしなかった。次に聞こえてきたのは、
「あ!」
 という、ほとんど声変わりしていない男子の叫び声だった。わたしは一瞬びくりとし、そのせいでシャープペンシルの芯を折ってしまった。でも、今はそのことに腹を立てている場合ではなかった。もっと悪いことが起きているからだ。
「……うわ」
 わたしは扉のほうを確認し、改めて顔をしかめた。ノートや教科書を小脇に抱えたビアンコが、こちらを指差していた。
「おい、オウル! てめえ!」
 こちらが何か言うより先に、あいつはわたしのいる席にずかずかと歩み寄ると、机に大きな音を立てて手をついた。今にもこちらに掴みかかってくる勢いだったが、正直言ってやっぱり迫力はなかった。
「昨日はよくもやってくれやがったな」
「何が?」 わたしは平気な顔で口を開いた。
「わたしは何も間違ったことなんてしてない。もしあの後で何かあったんなら、それはあんたの自業自得でしょ」
 昨日の会話から考えるに、家に帰ってから師匠にこっぴどく叱られたか何かしたんだろう。いい気味だ。相手もわたしの正論には返す言葉がなかったらしく、一瞬身じろぎして黙ったが、いつまでも口を閉じておくことだけはできないらしい。盛大な舌打ちの音と共に、ビアンコから出てきた次の文句はこれだ。
「ふざけんな、ろくな呪文も使えないくせして偉そうなんだよ、このカスタードプディング!」

「……は?」
 わたしが間の抜けた声を出してしまったのも、いたって自然なことだと思う。聞き間違いではない。今、確かに目の前の男子中学生(小学生にしか見えないが)は、わたしに向かって「カスタードプディング」と言った。
「え、何? プディング?」
 それは本人にもちゃんと理解できていたらしい。自分が口にしてしまった言葉にはっと気が付いた顔をするなり、今度こそビアンコは何も言わなくなってしまった。いや、しばらくはわたしの顔を睨みつけたまま、懸命に何かしら言おうとしているようだったが、そのうち勢い良く向きを変えて、教室の一番後ろの席まで戻ると、派手な音を立てて椅子を引き、腰を下ろした。耳まで真っ赤になっていた。無理もないだろう。自分の大嫌いな相手に対して、全く自覚なく「カスタードプディング!」なんて言い放ってしまったら、わたしだったら頭を抱えるところだ。
 わたしは更にこの「カスタードプディング」について追撃してやるかどうか検討したが、そこでフラーヴィ先生が部屋に入ってきたので、一旦やめて数学の復習に戻った。授業の間もその後も、ビアンコがわたしにちょっかいをかけてくることは一度もなかった。放課後までわたしは、「カスタードプディング」がわたしの得意でない言語、たとえばイタリア語で何かの悪口になる可能性をあれこれ考えたものの、結局は無駄だった。どうせ思い当たったところで余計に腹が立つだけだ。そして放課後、いつものように友達と校門を出て、途中の道で彼女たちと別れ、わたしは先生の家に向かった。

 ラナンキュラス通りから少し離れた交差点で、横断歩道の信号待ちをしているときだった。
「あら、ケイちゃん! ケイちゃんじゃない? 偶然ね!」
 聞き覚えのある声が正面からしたので、顔を上げてよく見ると、亜麻色の髪をポニーテールにした若い女の人が、こちらに向かって手を振っていた。あっ、と思ったところで歩行者用の信号が青になった。
「えっと、ルミッキさん、……でしたよね。その、どうも」
 わたしは通りの向こうまで道を渡り切ると、挨拶を返した。けれども急なことだったので、取ってつけたようなお辞儀になってしまった。ルミッキさんは小花柄の青いワンピースを着て、白いサマーカーディガンを羽織り、肩からは大きな鞄をかけていた。
「こんなところで会うなんて、びっくりしちゃった。この辺りに住んでるわけじゃないんでしょ?」
「え、はい、家はもうちょっと遠くです……ルミッキさんは、学校の帰りか何かですか」
「ううん、学校には通ってないわ。もちろん勉強はしてるけどね」
 緑色の目を細めてくすくすと笑いながら、マスター・スターンテイラーの若いお弟子さんはわたしに答えた。
「ジムの帰りなの。これからマスターの家に行くところ」
「ジム?」
「魔術師は魔力だけじゃなく、体力もつけなくちゃ駄目よ」
 ということは、鞄の中身はタオルやスポーツウェアや水を入れたペットボトル、そういったものだろうか。考えてもみなかった、魔法使いがジムに通うだなんて。魔力が足りないのは当然ながら、そこまで体力がある自信もないわたしには、ますます一人前の魔術師というものが遠いものに思えてくる。
「ケイちゃんは? もしドクターのところへ行くなら、途中まで一緒に歩かない?」
「あ、それはその、もちろん」
 答えてから、なんだか気乗りがしていないように聞こえている気がして、わたしは付け加えた。 「喜んで」

 そうはいっても、何せ一週間ほど前に初めて会ったばかりの相手、しかも十歳ぐらい歳の差があるせいで(ルミッキさんのほうはわたしを同年代だと思っているらしいけど)、わたしの側に話題がない。とりあえずお天気の話でもしておくべきだろうか、まだ五月なのに暑くて仕方がないですね、とか――
 そこでふと頭に思い浮かんだものがあった。せっかくだから、昨日のあの出来事について、愚痴にならない程度に話してみるのも悪くないかもしれない。わたしはルミッキさんと並んで歩きながら、こう切り出した。
「あの、ルミッキさんは、マスター……ガブリエル・ウィペットって、知ってますか」
「マスター・ウィペット? 当然知ってるわ。ああ、そういえばついこの間イギリスから戻っていらしたばかりなのよね!」
 先生は「ここ十年近く顔を見せることすら無かった」と言っていたけれど、ルミッキさんはちゃんと知っていたようだった。ということは、彼女がマスター・スターンテイラーの弟子になったのは、けっこう前のことなのだろう。よく今まで一度もすれ違ったりしなかったものだと思う。
「私、ご挨拶がまだだったの。久し振りにお会いするものだから、ちょっと緊張しちゃうけど」
「なんだか、だいぶ厳しそうな人ですもんね」
「そうね、実際魔法についてはかなり厳しいほうだと思うわ。普段お話ししていると、とっても穏やかで紳士的な人なんだけどね」
 ルミッキさんも、「紳士」という点についてはわたしと同じ印象のようだった。さて、問題のビアンコについては知っているだろうか。
「その、マスター・ウィペットのですね、弟子が……」
 わたしが控えめな声で、そう切り出したときだ。
「ああ、そうそう、それで思い出した! お弟子さんよ、マスター・ウィペットの。あの、小学生ぐらいの男の子でしょ?」
 いきなりルミッキさんが手を打ったかと思うと、そんなことを言い出したので、わたしは思わず吹き出してしまった。「小学生ぐらいの男の子」、確かにその通りだ。他人の口からはっきり聞くと、なんだか余計に笑えるものだ。いや、わたしだって普通のクラスメイトの身長を馬鹿にする気はないけれど、ビアンコだけは別だ。胸がすく思いがしたところで、わたしは話を続けようとした。ところが、
「それがね、おかしいのよ――あ、それは本人に失礼よね。でも、なんだか信じられない話なの! マスター・ウィペット、そのお弟子さんの言葉使いがあんまり悪いものだから、『何か汚い言葉を使おうとすると、それが全部お菓子の名前に置き換わる呪い』を掛けたっていうのよ!」
 次に出てきた思いもかけない情報に、言おうとしていたことは全て消し飛んでしまった。

「そういうことだったんだ……」
「どうしたの、ケイちゃん?」 ルミッキさんがわたしの顔を覗き込む。
「いや、ええと、わたし今日会ってるんですよ、そのマスター・ウィペットの弟子に。で、あいつがいきなり『カスタードプディング!』なんて言ってきたから、一体何かと思ったんですけど、……あれ、わたしに何か『そういうこと』を言ったつもりだったんですね」
 どう感想を述べればいいかも解らずに、とりあえず実際あったことだけを説明するわたしを、ルミッキさんは目を丸くして見ていた。が、やがてさっきのわたしと同じように、小さく笑い声を上げたかと思えば、慌てたように手で口元を抑えた。
「カスタードプディング! やだ、可愛い! ……なんて言っちゃ悪いかしら、ケイちゃんにとっては大問題よね。ああ、それにしたって――」
「いや、いや良いですよ、ルミッキさん」
 わたしもさっきの笑いが再びこみ上げてきたので、そっと顔をそむけながら、なるべく平気な表情を作るようにした。ただ、きっと口元のにやけは抑えきれていないだろうし、声も少し震えてしまっていた。
「だって、悪ぶってる中学生が――あの顔で中学三年生なんですけど、わたしにつっかかってくるたびお菓子の名前大声で叫ぶとか、もう、はっきり言って面白すぎますし……!」
 先生の家にたどり着くまでに、この不真面目な顔をなんとかできるかは怪しかった。先生はきっと今日も、昨日のことを引きずって大変機嫌が悪いだろうから、のこのこ半笑いで出向いていくのは危険と言うほかない。それでも、腹を立てている先生の相手をしなければならない、という憂鬱さはなかった。足取りも軽く、わたしはルミッキさんと共にラナンキュラス通りへと向かった――もしかしたら先生の弟子であるわたしは、先生の「敵」ことマスター・ウィペットと、案外上手くやっていけるかもしれないと考えながら。

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