たとえばメモの一番上に、「ラベンダー(乾燥) 1kg」と書いてあったとしよう。

魔術師のリスト -Wizard's Shopping-

 その下には続けて、同じ筆跡で「タラゴン 一束」「ローズマリー(花ごと) 一束」「ナツメグ 大一瓶」「アーモンドプードル 500g」「オリーブオイル(EX.V.) 2L」と並んでいたとしよう。最後の「ズッキーニの花 2ダース」に至っては、その下に赤いペンで二重線まで引いてある。一体何のリストだろうか?
 書き手が先生である場合に限って言えば、これはイタリア風のドルチェ付きランチを作るための食材リストではない。

「先生、こんにちは――」
 五月のある晴れた土曜日、午後になってわたしは先生の家を訪れた。いつものように鍵が勝手に開いて、わたしが中に入ると同時に閉じる。応接間を抜けて居間に入ると、そこに先生の姿はなく、テーブルの上にはメモが置かれていた。ラベンダーを始めとするハーブの名前がずらり。そして最後にズッキーニの花。
「またお使い」 わたしは思わず呟いた。 「先生、遅いお昼かな……」
 普段の態度からは信じがたいことながら、先生は一応商売をしている。週休六日、しかも開店する曜日は決まっていないものの、それでも毎週必ずお客さんがやって来て、先生が生活するのに困らない程度の売り上げを出す、「薬局」だ――といっても先生はこの国の薬剤師の免許を持っていないため、売られているのは医薬品ではなく、それに含まれない効果のごく穏やかな魔法薬や、化粧品のたぐいだ。石鹸やシャンプーから、リップクリーム、ハーブウォーター、何より香水。作りおきするものも多少はあるけれど、ほとんどはお客さんに合わせて調合されるもので、だから高い値段でも買いに来る人はいるのだろう。
 これらの品を作るにあたっては、当然材料が必要だ。様々なハーブや香り高い花、スパイス、ナッツ、沢山の種類のオイル、精製水。かつての錬金術は現代の科学。魔法の薬草とされていたものを使って、先生は二十一世紀にも通用する香りを作っている。そのこと自体はとても偉大なことだと思うし、それには大変な手間と時間がかかることも解っているつもりだ。ただ、それにしては――わたしがいつも目にする先生は、たいていソファに寝転がって映画を見ていたり、寝ていたり、わたしに用意させたお菓子を食べてお茶を飲んだりしてばかりだし、こうした材料の買い付けも、面倒だからとわたしに容赦なく押しつけてくるのだった。立派な錬金術師のありかただとは、わたしにはとても思えない。
 わたしはもう一度リストを確認した。全部合わせてそれなりの重さにはなるだろう。特にオリーブオイルがそうだ。いつも指定されている銘柄のものは、軽いペットボトルなんかに入っていてくれないのだ。ガラス瓶入りの2リットルは、もちろん持ち運べないほどではないが、この暑い中に面倒なことには間違いない。一瞬、今日はもうこの家に来なかったことにしようかと思ったものの、すぐに考えなおした。それぐらいのごまかしは先生にはお見通しなのだ。
 こうなったら行き帰りのどこかで、ジュース(もちろん缶やペットボトルじゃなくて、お店で出てくるグラス入りの)かアイスクリームでも注文して、先生の金で代金を払う程度のことをしてやるしかない。ビアンコのように無関係の他人を巻き込むのはよろしくないが、理不尽な労働に対して相応の報酬をもらう権利ぐらいは、全ての弟子に等しく与えられているはずだ。そう自分自身に言い聞かせながら、わたしはUターンして玄関へと向かった。

  * * *

 地中海に浮かぶ島という地理的な都合上、一年の三分の一は夏日でできているようなこの国なので、五月の始めに一日の最高気温が27℃あったとしても、特別不思議なことではない。とはいえ今年はいつもに増して暑い気がする。いくら帽子をかぶっていても、ぎらつく太陽は容赦なくわたしの体に降り注ぐ。
 さらにわたしの足取りを重くするのが、普段お使いのときに行く先生宅最寄りのスーパーマーケットが、改装工事のためにしばらく休業中だということだ。今更何を改装することがあるのか、わたしにはさっぱり理解できないが、ともかく仕方がないので片道二十分ぐらいかけて歩き、もっと遠くて大きなスーパーを目指さなければならない。よく暑さのせいでいらいらするとか短気になるとか言われるが、こうも暑いと先生の理不尽に対する怒りも萎えてしまう。これだけ暑くても、世界的に見ればこの国は特別酷暑で有名なわけではないというのだから驚きだ。わたしは一度も海外に出たことはないが、将来的に出るとしても中東や東南アジアには住めないだろう。
 やっとのことで目的地にたどり着いたわたしは、店内に吹き渡るクーラーの冷風をありがたく受け止めながら、ショッピングカートと共に必要な品を探して回った。生のハーブ類は野菜売り場に、乾燥ハーブやスパイス、アーモンドプードルは製菓用品の棚に、オリーブオイルは調味料のコーナーに。ズッキーニの花は、ちょうど今日の朝摘まれたばかりだというものが、籠に山盛りになって安売りされていた。幸い、売られていないものは一つもなかった。
「……そうだ、紅茶」
 レジに向かう途中、乾物売り場を通りかかったところで、ふと頭によぎったのは飲み物のことだった。もちろん、先生の家の食品棚には、いつもお茶やコーヒー豆の缶がストックされているが、たしか最近ちょっと消費が増えてきて、在庫がかなり減っていたのだ――なにせこの暑さなので、ただでさえ外出嫌いの先生が、家にいてお茶を飲みながらだらだらする時間も伸びているのである。
 わたしは隣のコーヒー・紅茶売り場に入り、商品をざっと見回してみた。普段行くスーパーよりも品揃えが多い。このことを先生に教えたら、近所の店の改装期間が終わってもこちらに行かされそうだから黙っておくが、それはそれとして嬉しいことだった。先生は飽きっぽいので、いつもダージリンだけ淹れておけばそれでいい、とは行かないのだ。

「もしもし、お嬢さん」
 その時、後ろから声がした。
「申し訳ないのだが、少し前にあるものを取らせて頂いても宜しいかな」
 わたしはそこで、自分がずいぶん長い間、棚の前に突っ立っていたことに気が付いた。他のお客さんの邪魔になっていたことは明らかだ。すみません、と慌てて数歩横へと体をずらし、声をかけてきた人のほうに向き直ったとき、
「おや、これは失礼、オウルさんじゃないかね」
 落ち着いた低い声でそう言われ、同時にわたしはその人が新しい知り合いであることに気が付いた。夏用の仕立てのシャツとズボンに、手にはそれなりに物の入った買い物カゴ、そしてもう片方の手には杖。暑さにすっかり参っているわたしとは正反対に、その背筋はしゃんと伸びて、わずかに灰がかった青色の目がこちらを見ている。
「あっ、ええ……ええと、」
「……オウルさん、ではなかったかな。だとしたら大変失礼したが」
「いえ、オウルです、ケイリー・オウルなんですけど、その……」
 まさかこんな場所で会うだなんて思っていなかったし、そもそも誰かから「オウルさんMiss Owl」なんて呼ばれることがまずないものだから、わたしの思考は一瞬混乱し、舌がもつれた。相手、マスター・ガブリエル・ウィペットは、わずかに首をかしげながらこちらを見ている。
「あー、すみません、マスター・ウィペット。あ、いや、確かサー・ガブリエル・ウィペットって呼ばなきゃならないんでしたっけ……」
「誰にそう言いつけられたのかは解らないが、私はどんな称号で呼ばれるかについては気にしてはおらんよ。ナイト爵は魔術師として授与されたものではないし、特別にこだわっているわけでもない。――ああ、呼び止めてすまなかったね、もう大丈夫だ」
 彼を毛嫌いしている良い年した魔法使いたちによれば、「陰険で忌々しいイギリス野郎」であるところのマスター・ウィペットは、穏やかな微笑みを浮かべて一礼すると、おろおろしているわたしの目の前の棚から、さっと紅茶を一箱抜き取った。わたしはマスター・ウィペットの顔から目をそらし、その紅茶の箱をじっと見た。それなりに大きなサイズの、表面にシンプルなイラストと文字が書かれたものだ。
「やっぱり、その、紅茶をよく飲まれるんですか、マスター・ウィペットは」
 何も言わずに別れるのも気まずいので、わたしは聞いた。
「というより、その、マスター・ウィペットみたいな立派な人でも…こういうスーパーで買い物するんですね」
 聞いてしまってから、そもそもこの国にはイギリスにあるような高級百貨店だの、上流階級の人々が使いそうな専門店だのは存在しないのだから、この質問はまったくの無駄だったことに気が付いた。自分の考えの狭さを晒してしまったような気がして、わたしはますます気まずくなった。そんなわたしに、マスター・ウィペットは静かな調子で、
「私のことを立派な人だと呼んでくれるのは、とても有難いことだよ、オウルさん。だが、私は特別自分を立派なものだと思ってはいないし、セントエラスムスではどこでも、選り好みをせずに買い物をするさ。無論、それはロンドンにいても、世界のどんな都市へ赴任していてもそうだ」
 と言った。
「紅茶にしても、もちろん贔屓にしている紅茶の店はあるがね、今はスーパーマーケットでも美味しいお茶、ユニークなお茶が沢山見つかる。これはとても有難いことだ。特に私は、もうあちこち買い物に歩きまわるのが難しい歳だからね……」
 そう語る老紳士は、杖こそ持ってはいるものの、やっぱり全身健康そうな、年齢を感じさせない凛々しさを持っているのだった。たとえ老いているのだとしても、ちゃんと自分で買い物に行くのだから、それだけでとても立派なことだとわたしは思う。うちの先生なんて、実年齢はともかく肉体は二十代ぐらいのはずなのに、ありとあらゆる力仕事を弟子の女子中学生に丸投げしているのだ。あれだけ怠惰な生活を送っていながら、何故あのルックスを保てているのか、わたしには見当がつかない。
「オウルさんはお使いかね。随分と大荷物だ」
 わたしのショッピングカートの中身をちらと見て、マスター・ウィペットが尋ねた。
「あ、えっと、そうなんです。先生の伝言で、」
 言いかけてから、ぱっと思いついたことがあった。先生のための紅茶だ。
「あの、実は紅茶を買って帰ろうと思ってたんです。でも、わたし別に詳しいわけでもないので、いっつも勘で買ってて――もし良かったら、何かおすすめを教えてもらえませんか」
 わたしの口をついて出たのはそんな言葉だった。別に、いつも通り勘で買って帰っても良かったのだけれど、どうせだから誰かのアドバイスも聞いてみたかったのだ。少なくとも、わたしが選ぶものよりは先生の受けがよくなる気もしていた。ただ、選んだのがマスター・ウィペットだと知ったら、先生は口をつけたがらないだろうけれど。
「ふむ……そうだな、勧めるというなら私が今取ったこれも、よく人に勧めているお茶ではあるな。ああ、これは厳密には紅茶ではなくて、緑茶を元にしたハーブティーだがね」
 マスター・ウィペットは、自分の買い物カゴからさっきの箱を取り上げて、わたしの前に差し出した。改めてよく見ると、表面に記された文字には「liquorice and peppermint」と書かれている。
「ミントのお茶、……ですか」
「ああ、私はミントティーが特別好きでね。というのも、イギリスのみならず色々な国に出向いてきたが、若い時分モロッコにいたことがあってね」
「モロッコ?」 わたしはそっくり聞き返した。 「えっと、確か、アフリカの」
「そう、あちらの人々はミントティーを沢山飲むんだ。甘くてまろやかな中に、ぴりっとした刺激と、鼻に抜けるような快い香りがする。暑い国にはぴったりのお茶だよ。ただ、なにぶん大量の砂糖が入っているものだから、若い頃はいいとしても、歳を取ってからはそう何杯も飲んでいいものじゃない」
 体に良いとは言えないからね、と老紳士は控えめに笑い、それから続けた。
「そこで――リコリスだ。知っているかもしれないが、リコリスにも甘味の成分が含まれていて、しかも砂糖の五十倍もの甘さがある。それでいて、カロリーは砂糖より遥かに低い。健康に気を使う人でも、遠慮無く甘いミントティーを飲めるというわけだよ」
「なるほど……」
 わたしは特にハーブティーが好きなほうではないし、ミントティーを美味しいと思ったこともあまりない。けれど、マスター・ウィペットの語り口はとてもいきいきとしていて、思わず生唾を飲み込んでしまった。今はちょうど喉が渇いているから、なおさら言葉の一つ一つが魅力的に聞こえる。
「もっとも、いくら砂糖ではないからといって、あまりに飲み過ぎるとやはり身体には悪いがね。リコリスは立派な薬草だが、量を間違えると手足に痺れが出たりする。どんな薬であっても、やり過ぎると毒になる、ということだ」
「それ、科学の授業で聞いたことがあります。あらゆる物質には何かしら毒が含まれていて、その程度が大きいか小さいかの差があるだけなんだって。ただの水でも、飲み過ぎると中毒を起こして死んでしまうんでしょう」
 わたしが答えると、マスター・ウィペットはその通りだと頷いた。ちゃんと勉強したことを覚えているようで何よりだ、とも。ふと頭に彼の弟子、あのいけ好かないヴァレンティーノ・ビアンコの顔が浮かんだ。奴が(認めたくはないものの)数学ができることは知っているが、他の科目はどうなのだろう。科学のテストでも、やっぱりA-ぐらいの点を取って得意になっているのだろうか。それとも聖マーガレット中学校の他の生徒たちのように、せいぜいB+を取れればいいところだろうか。
「さすがに水ともなると、五リットルぐらいを一気飲みでもしないかぎり死にはしないが、それでも無茶はしないに越したことはない。魔法も同じことだよ」
「そうですね、使いすぎは、よくない」
 合わせるようにわたしも首を縦に振って、それから棚に手を伸ばし、マスター・ウィペットが取ったのと同じ箱をカートに入れた。魔法の使いすぎなんてことはありえないわたしだが、お茶の飲み過ぎぐらいには気をつけられるだろう。
「それじゃ、ええと、マスター・ウィペット、お時間取らせてすみませんでした。わたし、これで全部の買い物が済んだので」
「お役に立てて何よりだ。外は暑いから気をつけるのだよ、オウルさん」
「はい、マスター・ウィペットも」
 紅茶のほかにも沢山のものが入った買い物カゴを片手に、きれいなイギリス英語でマスター・ウィペットは言うと、わたしに向かって会釈した。わたしもそれにならうと、カートを押してレジへと向かった。一番上に乗せたパステルカラーの箱から、今にも爽やかなミントの香りが立ち上ってきそうで、ちょっとだけ心が浮足立った。

  * * *

 帰り道で立ち飲みしたスムージーときたら最高で、日差しに熱されてオーバーヒート気味だった体の芯は、イチゴやリンゴのひんやりした香りに流され、あっという間に穏やかさを取り戻した。トッピングのフルーツをおまけしてくれた優しいバリスタさんに、ミントとリコリスのお茶を軽くお勧めしてから、わたしは再び先生の家への道をたどる。
 総重量にして五キロ近くの荷物を抱えて、ようやく蔓薔薇の絡む外塀が見えてきたとき、ちょうどその中へと入ってゆく人影があった。ダークグリーンの細身のズボン、肩から掛けた革のバッグ、真っ白なシャツに深い赤色の髪――
「先生!」
 わたしが声を上げると、人影が振り返った。間違いなく先生だった。やっぱりどこかへ出かけていたのだろう。外食か、それとも何か別の用事かは解らないが。
 荷物は変わらず重たいものの、わたしは気合を入れて歩くスピードを上げ、先生が門を閉めてしまう前に追いついた。すぐそばまで近付いてみると、先生の体からひんやりとした空気の流れを感じた。「冷却」の魔法でも使っているに違いない。荷物だってきっと「浮遊」か何かで軽くしているだろうし、日差しを防ぐためにも別の呪文を使っていることだろう。これだけ万全の備えができるのに、それでも先生はわたしをこき使うのはやめない。きっと、たとえそれがどんなに楽な内容であっても、「自分から何かをしなければならない」ということがたまらなく嫌なのだ、先生は。なんて堕落した大人だろう。
「先生、一体どこに行ってたんですか、わたし一人働かせといて」
「私だってちゃあんと働いていましたよ、ケイリー。優秀な魔術師は人知れず役目を果たすものです」
「……『青銅の梟』のグルメチーズバーガーはおいしかったですか」
「今日はジャークチキンバーガーです。さあ、さっさと荷物を持って入っていらっしゃい、夕方までに片付けたいんですから」
 全く動じたふうもなく、先生は通りのパブの新作メニューの名前を挙げると、サンダル履きの足音をさせながら家の中へ引っ込んでしまった。先生の辞書の「働く」という項目には、およそ労働とはかけ離れた説明しか載っていないらしい。
「本っ当に、先生って面の皮が厚いですよね」
 僅かに開いたままのドアに向かって、わたしは溜息まじりにそう言った。返事はなかった。

 先生の作業場は一階の一番奥にあり、これだけの荷物を運び入れるのはなかなか体力のいる仕事だ。もちろん、すっかり慣れっこではあるけれど、タダでやるには文字通り荷が重すぎる。学校の家庭科室を全体的に高級にしたような、白いタイル張りの作業台の上に、買い物袋から出した品物を一つ一つ並べていくと、まるで今から料理番組でも始まるみたいだと思えた。ただし、土曜の夕方にやる料理番組には、この部屋にあるような大型の蒸留器や、薬品の瓶なんかは映ったりしないけれど。
「これで全部です、先生」
 オリーブオイルの瓶を置いてから振り返ると、そこには両手に手袋をはめた先生と、準備の整った蒸留装置があった。大きなステンレスの釜と、そこから伸びるガラスのチューブ、出来上がったものを貯めておくビーカー、釜の下には電熱器。このセットが合わせて三組。五千ユーロぐらいで特注して揃えたと先生は言っていたけれど、どこまで本当なのかはわたしには解らない(蒸留装置の相場なんて知るわけがない)。魔法使いが自宅でアロマオイルとハーブウォーターを蒸留する、なんていうとさぞかしファンタジックな道具を想像する人も多いだろうが、実際はこの通り、学校の化学の実験の延長線上で、それはつまり魔法使いでない人たちが小さな工場でやるのと全く同じことである。
「大変結構。ラベンダーから始めますからね」
 先生は自分のすぐ側にある釜を手で示した。わたしはラベンダーの袋を開けると、釜の蓋を取って中敷きの網の上に敷き詰める。先生が両手で釜の側面に触れ、
タフ・カリスティー・スティルノモルフォーテリ・マーギサ……
 慣れた調子で呪文を唱えると、底のほうから水の音がし始める。湧き出しているのだ、水が、それも混じりけの何もない純水が! この釜には四十リットルぐらいの水が入るらしい。でも、そうやって蒸留して出来上がるアロマオイルはほんの数十ミリリットルでしかない。この生産力だと、確かに週に一日開店するのが限界だとも思えなくもない――ただ、先生の場合はそういう物理的な問題よりも、本人の気分の問題が先に来ている気がしてならないだけだ。
「……先生のお客さんはまさか、数百ユーロも出して買った商品の、その材料は弟子がそこらのスーパーで買ってきたものだなんて思ってもみないでしょうね」
 ゴミの始末をしながらわたしが呟くと、先生は素知らぬ顔で釜から手を離し、蓋をしっかりと閉めながら答えた。
「解りませんよ? それなりの代金を取る料理店だって、材料はそこらのスーパーか、あるいはもっと安いところで購入しているものもあるでしょう。それぐらいの可能性は誰だって思いつくでしょうし、思いついたところで私の店に来る気がなくなったとしても、私の知ったことじゃあないですからね」
 来たい者だけ来れば良いんです、と言い切る先生の平然とした様子といったら、本当にどこまで面の皮が厚いのやら、わりと人の目を気にするタイプのわたしには考えもつかない。
「それに何より、私の『薬局』は大量生産でなくて誂え仕立てビスポークですからね。それだけの手間とサービスの分、上乗せするのは正当なことですよ」
「まあ、ファストフードの店に対する、リクエストとか色々聞いてくれるレストランみたいな話ですよね……」
 わたしは一応納得したようなことを言ったが、もちろん心では全く納得していなかった。
「そうだとすると、先生、わたしだってその金額の数パーセントでいいから、手間賃をいただいても正当なことだと思うんですけど」
「手間賃だったら払ってるじゃあないですか。いや、払っているのではなくて、あなたが勝手に使っていると言いましょうかね」
「それでもだいぶ慎ましやかなほうですよ、この重労働の報酬には」 わたしは断言した。
「言っときますけどね先生、もしわたしが今の立場に不満を持って、ちゃんとした手続きをとって訴えたら勝てますからね、この状況」
 中学生でも解る労働の知識を盾にして主張してみたが、先生は「そうかもしれませんねえ」と気のない返事をし、電熱器のスイッチを入れると、作業台の下から椅子を引き出して腰かけた。どうせわたしには、裁判を起こすような度胸もなければ資金もないと思っているのだ。なんて大人だろう。
「支払いのことに関しては、そうですね、あなたが中学を卒業して、義務教育の身分を離れたら考えますよ」
「……それって、わたしが中学を卒業したら追い出すってことじゃないでしょうね」
「まさかそんな」
 投げやりな返事がいかにも怪しい。もしもそうなったら、死ぬ気でアルバイトをして弁護士を雇ってでも、絶対に先生を訴えてやろうとわたしは心に決めた。今これだけ他人の家事を任されているのだから、たぶん家政婦の仕事ぐらいは務まるだろう。

 わたしが近い将来の身の振りかたについて真剣に考えている間にも、電熱器は釜の中の水を暖め続け、先生はその側で本を読みながら待機している。何度も読み込んだのだろうことがよく判る、くたびれた表紙のペーパーバックには、教科書で見たことがあるような推理作家の名前が書かれている。
 そのうちに、釜の中から出てきた蒸気が、ガラスのチューブを通って冷やされ、器の中に水と油が溜まり始めた。読書に集中しているように見える先生も、冷却水を流したり、電熱器の火力を調整したり、手元はわりと小刻みに動いている。このあたりの加減はたぶん、勘や経験で調整しているんだろう。これだけ見れば確かに、先生は職人らしいのかもしれない。ここからあと一時間ぐらいかけて、化粧品の材料になるアロマオイルとハーブウォーターを抽出するのだ。
「そういえば、先生」
「何です」
「ズッキーニの花って、一体どんな効果があるんですか?」
 片手で本のページをめくる先生に、わたしはふと浮かんだ疑問をそのままぶつけてみた。ただ気になっただけだ。ラベンダーやローズマリーはもちろん解るけれど、ズッキーニの花のアロマオイルなんて聞いたことがない。
「はあ?」
 先生の返事はどこか気だるそうだった。お腹がいっぱいで眠いのかもしれない。
「ほら、こうやって買い物リストに載ってるってことは、何かに使うわけじゃないですか。でも、ズッキーニの花って特別いい香りがするとか、そういうのじゃないですよね。だから多分、化粧品のベース……というか、成分のひとつになるのかなあって思ったんですけど、わたしには詳しいことは解りませんし。どういう役目になるんでしょうか」
 こうやって自分から聞かないと、先生は魔法のことも錬金術のこともろくに教えてくれない(聞いても教えてくれないことはよくあるが)。あまり期待せずに、わたしは先生の答えを待った。先生は細い眉を少しばかり寄せて、わたしの質問をけげんな顔で聞いていたが、やがて小さく息を吐いてきっぱりと、
「何を言ってるんですかケイリー、それは私の夕食ですよ」
 とだけ言った。

「……えっ?」
「ですから、夕食です。食べたことがないってことはないでしょう、ズッキーニの花」
 ぽかんと口を半開きにしたままのわたしに、先生は何の不思議もないとばかりに言葉を続けた。
「そろそろ旬――と言うには少し早いですが、売られているのは事実でしょう、あなたがこうして買ってきたんですから。好物なんですよね――それこそ2ダースぐらいぺろりと食べられますよ」
「いや、あの」
「冷蔵庫にまだリコッタチーズが残っていたはずです、それで詰め物をしてフリットにでもしてくださいね。まあ、別にフリットでなくて普通のフライでも、パスタでもサラダでもなんでも構やしませんけど」
 なるほど確かに、ズッキーニの花は食べられる。というより、スーパーで売られているズッキーニの花は、食べるためのものとしてそこに並んでいるわけだ。間違いない。間違いないが、何か間違っている気がする。わたしはあくまでも、先生の仕事のために必要な材料を買いに行ったのであって、先生の夕食の買い出しに出かけたわけではなかったはずなのだ。
 呆然としているわたしを置いて、食道楽の魔法使いはさっさと読書に戻ってしまった。ページの開き具合からして、そろそろ殺人事件の一つも起きているころだろうか。わたしが今日、どれほど先生のために苦労したかなんてことは、とうに頭の外側へと押しやってしまったに決まっている。わたしはしばらくその場に立ち尽くし――先生からもう何のお言葉もないということを確信してから、台所へと向かった。蒸留が終わったころに、ミントとリコリスのお茶を淹れて持っていくためだ。もちろん、それを勧めてくれたのがマスター・ウィペットだという事実は、ここぞという時のうさ晴らしのために取っておくつもりである。
 

go page top

inserted by FC2 system