この国の夏に、世界と比べて特別変わったことなどない。ただ五ヶ月ほど続くだけだ。

飲み込めない甘さ -Their Sweet Ways-

 一年を通してそれほど気候に変化のないヨーロッパの島国です、なんて言うとさも穏やかで暮らしやすそうな響きだけれど、実際は五月から十月までずっと空気は乾燥し、日差しは肌を刺すように強く、雨なんてまず降らない日々が続くのだから、住んでいるわたしたちにとってはハードな環境だ。二週間かそこらバカンスで滞在するならまだしも、一生住むならもう少し涼しいところがいい。もしも外国からこの国を見て、リゾート地に住めるなんてうらやましいと言う人がいたら、それはよっぽど過酷な国に住んでいるのか、そうでなければセントエラスムスの夏を甘く見すぎている。
 こんな事情なので、カレンダーが五月から六月に変わっても、肌に感じるものがそうそう変わるわけではない。わたしたちにこの二つの月の移り変わりを教えてくれるのは、ラナンキュラス通りのお菓子屋がアイスクリームを売り出し始めることぐらいである。

 南北に伸びる通りの南端ほど近く、「Rananculus St.」のアーチから徒歩二分ほどの場所にその店はあった。隣に並ぶ家々と同じような砂岩の壁に、ずいぶんと年季の入った大きな木の看板が掛かっていて、そこには古めかしい字体で「Русалка」と書いてある。ロシア文字だ。ルサールカ、東ヨーロッパのおとぎ話に出てくる水の精。それがお菓子屋の名前だった。
 深緑色のペンキがきれいに塗られた扉を開けると、そう高くない天井ぎりぎりまで伸びる棚が壁を埋め尽くしている。アンティークな木の棚板には、これもまたアンティークなデザインのガラス瓶がぎっしりと並び、中には赤や緑や黄色のキャンディ、飴色のトフィーやチョコレート、真っ白なマシュマロなんかが詰め込まれている。そして、
「やあ、ケイリー、いらっしゃい。学校の帰りかな」
「そうなんです、マリンカさん。今日は午後の授業がなくて」
 正面のカウンターから顔を出したのは、栗色の髪を三つ編みでアップにした、見た目に三十歳前後の女の人だ。彼女がこの店のオーナーであり、ここに並ぶお菓子の全てを作っているパティシエであり、そして言うまでもなく魔法使いだった。
「注文は――解っているつもりなんだがね、当ててみようか。アイスクリームだろう」
 巻き舌のRの音が強いその喋り方は、イタリアやスペインではなくロシアの訛りだ。ルサールカの物語が伝わる国から、彼女、マリンカさんはこの国にやって来た。キャンディショップを営んでもう五十年以上になるというから、筋金入りの「お菓子の魔女」なのだ。もちろん、わたしを含め通ってくる常連客が何を目当てにしているか、そんなことはとうにお見通し。
「昨日からでしたよね、アイス。楽しみにしてたんです、いつ食べられるようになるかって」
「今年は例年よりも早めさ」 マリンカさんが鼻で笑った。
「どの味を選ぶか予測してみよう。私の勘によれば――ブルーベリー・チョコレートか、オレンジとバニラのミックス辺りと見たね」
「それは解りませんよ、メニューをちゃんと確認してみないと」
 わたしは軽く息を吐いてから、やんわりと今年のラインナップを要求した。カウンターの上に、色鉛筆のイラストがたっぷり載った三つ折りのメニューが差し出された。

 十数種類のフレーバーの中から、結局ブルーベリー・チョコレートのアイスクリームに決めるまでには、たっぷり五分ほどの時間が必要だった。本当はマカダミアナッツや、あるいはブルーベリー・チーズケーキあたりの間で、どれにするか相当迷っていたのだけれど、最後のひと押しはマリンカさんの、「ブルーベリー・チョコレートは今月限定」の一言だった。限定商品に惑わされるのは馬鹿げたことだと言われるかもしれないが、こればっかりは逃すわけにはいかなかった。
 金属のカップにたっぷり盛られた冷たい甘味を手に、わたしは片隅にあるイートインスペースに腰を下ろす。ご丁寧にもこの店には、買った商品を開けてお茶をするために、ソファで数席ほどが準備されている。休日ともなればこの場所はもう一杯いっぱい、店じゅうに紅茶の紙カップを持った人が立ち止まって一服しているという状態になるけれど、今は火曜日の午後二時、頭が痛くならない程度にゆっくりと食べる余裕はありそうだ。
 甘酸っぱいブルーベリーの香りと味と、少し苦めのチョコレートソースを口の中で混ぜ合わせて、幸せというのはこうやって作るのだと実感していたときだった。入り口の扉が開く音がして、
「こんにちは、ミス・ヴァレーニエ。アイスクリーム、食べに来ました!」
「おや、ごきげんさん。随分暑いけど、参っちゃいないかい」
 という、明るい声でのやり取りが聞こえてきた。新しい来客の声をわたしは知っていた。初めて聞いて一ヶ月と少しにしかならないけれど、とてもよく記憶に残る声だ。
「あ、ルミッキさんもアイスですか――」
 ソファに座ったまま、わたしは首だけを回して入り口のほうを確認した。そして、口に出しかけていた挨拶の続きを、喉の奥へと引っ込めてしまうことになった。

「わあ、ケイちゃん、こんなところで会うなんて! すっかりアイスクリームの季節になったわね」
 紺色のサマードレスを着て、つばの広い帽子をかぶったその人、ルミッキさんは、しかし「おひとりさま」のお客ではなかった。その隣に、もう一人。
 彼女よりは色あせたネイビーのシャツと、真っ白な細身のズボンに茶色の革靴、190cm近くありそうな身長。清潔に整えられているとは言いがたい髪は、灰色がかった深いブラウン。わたしはこの人を知っている。喋ったことはないし顔を合わせたことすらないけれど、それが誰であるかはっきりと解る。あの日見たスマートフォンの画面に映っていたのと同じ、愛想の悪そうなその顔は――ルミッキさんが言うところの「ボーイフレンド」だ。
「そうだ、ちょうど良かった、改めて紹介するわ! キイス、この子がケイちゃんよ、新しい友達なの。私のマスターの、お知り合いの、お弟子さん」
 顔だけは一方的に知っているものの話したことはない、という関係の人がそこにいるだけで普通に接しづらいのに、ルミッキさんは彼氏さんの手を引っ張って、わたしのいるテーブルの前まで連れてきた。おかげでアイスクリームどころじゃなくなった。無視するのはあまりに失礼だから、わたしは一応席を立ち、挨拶の一つもしてみようとする。ところがわたしは初対面の挨拶というものが本当に苦手なので、準備もなしに爽やかな自己紹介なんてできるはずもなかった。辛うじて握手のための右手を差し出してみるも、口からはろくな言葉が出てこない。
「ええと、その、ケイリー・オウルです。初めまして、あの、ミスター……」
 まごまごしたわたしの様子はよほど見るに堪えなかったのだろう。彼氏さんはこちらが言い終わるのを待たずに、
「ジョナサン。キイス・ジョナサンだ」
 飾り気のかの字もない調子で言うと、中途半端に伸ばしたわたしの手を握った。見た目の細さからは予想もつかない、がっちりとした握手だった。といっても、別に心からの歓迎の気持ちが込められているとかじゃなくて、単に力加減を間違えているだけだろうとわたしは思った。
「あんまりフレンドリーな感じじゃないけど、これでも結構付き合いがいいのよ。だから怖がらないでね、ケイちゃん」
 この場でルミッキさんだけが、にこやかな笑顔を浮かべながら、無邪気そうにこの出会いを見守っていた。怖がるなと言われたって、相手は大人の男の人だ。わたしは女子中学生にしてはかなり背が高いほうなのだが、それでも視線が全く合わない。これで相手が笑顔ならまだいいけれど、苔のような色をした目はこれっぽっちも笑っていなかった。ガールフレンドとアイスクリームを食べにきた顔にはとても見えない。
「ケイちゃんは何にしたの? 限定のやつ? ――ねえ、もし一人ならこっちに来て一緒に座る?」
「えっ、い、いや……それはさすがに……」
 こんなにも落ち着かないわたしの心をよそに、ルミッキさんは帽子を脱いで小脇に抱えるなり、とんでもないことを言い出した。彼女はわたしが他人の彼氏と、いや、たとえ本当は恋人同士でなかったとしても親密な男女と、一緒にアイスクリームを食べて楽しいとでも思っているんだろうか。ファストフード店でたまたま隣のテーブルが見知らぬカップルだった、というのとはわけが違う。
「おい、ルミ」
 少しかすれた低い声で、彼氏さんが言った。 「引いてんぞ、相手」
 推定三十歳前後のハッカーは、ありがたいことに常識のある人だった。そうです引いてますと言い切れないわたしは下手な愛想笑いを浮かべながら、店内のあちらこちらへ目を泳がせていた。
「あら、良いじゃない友達同士なんだから。私、ケイちゃんとしっかりお話したことってそんなにないし――でも、キイスが言うんだったらやめとこうかしら」
 ルミッキさんにも別に悪気はないのだろうが、今回ばかりはちょっと遠慮させてもらいたい。それじゃあね、と涼しげなウインクを飛ばして、カウンターに向かって歩いてゆく紺のサマードレスを、わたしは内心ほっとしながら見送った。低血圧そうな彼氏さんは、去りぎわにわたしの顔をちらとだけ見た。同情されているんだろうな、と思った。

  * * *

 カップル、もとい「本当は恋人同士でなかったとしても親密な男女」との同席だけはなんとか回避したものの、結局は小ぢんまりとしたイートインスペースだ。二人が座ったのは、わたしがいる壁際の席と、テーブル一つを挟んですぐ向こうだった。注文の時の声も、そして今二人でしている会話も、たとえ聞こうとしなくたって聞こえてしまう。
 ルミッキさんはチョコレートファッジとキャラメル・プレッツェルのダブルカップを頼み、それはそれはご機嫌な声で、最近買って読んだ本についての話をしていた。上下巻のかなり濃い本で、過激な描写もそこそこあるけれど、それでも次のページが気になって仕方がないような物語。透視や予知の魔法が使えなくて良かったような残念なような、そんな気持ちになる話――
「こんど上巻だけ貸してあげる。でも、絶対に真夜中に読んじゃダメよ」
 ルミッキさんの説明に、ふうん、と鼻を鳴らす音がする。 「理由は?」
「ハンバーガーが食べたくて仕方なくなるから」
 スプーンがカップに当たって立てる音が、話の合間にちりちりと響いた。
「それも、24時間やってるファストフード店で出てくるようなのじゃなくて、ね。パティの表面が焦げる手前ぐらいにカリカリで、トマトなんか分厚く切ったのが挟まってて、アボカドのソースと溶けたチーズがその表面を流れ落ちてて――食べきるころには手が肉汁でべたべたになるぐらいのハンバーガーよ。そして、どんなに食べたいと思っても、あなたの住んでるアパートの近所に、そんなものを出してくれる深夜営業のお店は無いわ」
「ハンバーガーを持ち出しときゃアメリカ人は動くと思ってンだろ、お前」
 呆れたようなため息に続いて、抑揚のあまりない声が言った。わたしが横目でうかがうと、いきいきと語るルミッキさんに目を向けながらも、スプーンを持つ手は止めない彼氏さんの姿があった。
「あら、違うの? ご先祖様がロシア人だから?」
「先祖はそうだが」 アイスクリームを飲み込む間。 「違わねえ。動く」
 一拍置いて、ルミッキさんがおかしそうに笑い出した。わたしはこのフィンランド人とアメリカ人の偽装カップルの会話を聞きながら、どうしてこのタイミングでここに来てしまったんだろうと、無駄な後悔の念にかられていた。

 その時、いかにも携帯のデフォルト着信音ですというような、電子音のメロディが控えめな音で鳴り響いた。わたしがまたアイスクリームから目を離してそちらを見ると、彼氏さんがベルトに付いた小さなポーチ(財布や携帯入れを兼ねるやつだ)から、薄型のスマートフォンを取り出そうとしていた。
「悪い」
「ううん、どうぞ」
「それもう食っとけ、溶けるから」
「良いの? 電話なんてすぐ終わるでしょ」
「解らん」
 手短なやり取りをしながら、彼氏さんは足早に店を出て行った。後に残されたのは店主のマリンカさんと、託されたカップから味見のように一口食べてみようとするルミッキさん、そして気まずさからほんの少しだけ解放されたわたしの三人だ。もちろん、またすぐにお客さんがやってきて、何かしらを買っては帰っていくだろうけれど。
「ハッカーの仕事というのはさっぱりだがね、随分と多忙なんだな」
 カウンターからこちらの席を覗き込んで、感心したようにマリンカさんが言う。
「仕事があるときは、ですけどね。フリーランスだから、暇なときはとことん暇だって」
 それに答えてから、ルミッキさんは残り少ないアイスティーをすすり、そして付け加える。
「でも、年中暇じゃ食べていけないんだし、死なない程度に忙しいのはとても有難いことなんだと思います」
「その通りだね、すべきことが何もないことほど不安なこともない」
「キイスだって遊んで暮らしたいわけじゃないでしょうし――かといって、稼げるだけ稼いで大物になってやろうって感じでもないけど。なんというか、あんまり欲が無いんですよね、キイスって」
 自分のことがこんなふうに語られているのを、果たしてあの他人に無関心そうな彼氏さんは知っているんだろうか。わたしはそんなことを考えながら、もう大分と溶けてきたアイスクリームをかき回し、口に運んだ。「フリーランス」の「ハッカー」の生活は、わたしには縁遠すぎて、一体どれぐらいのことを望めば欲があることになるのかすら見当がつかない。わたしに解るのは、あの彼氏さんはマスター・スターンテイラーに気に入られるタイプではないだろうな、ということぐらいだ。
「無欲なのはいいことじゃないか。まあ、欲の基準も人それぞれだろうけど」
「良い家に住みたいとか車が欲しいとか、そういうことは全然。とりあえず生存できる程度に食べられて、あとは時々タバコとお酒を呑めればそれで、みたいなことを前に言ってました」
「それで、隣には君みたいな美女がいてくれるって訳だ、ルミッキ」
 マリンカさんが肩をすくめた。 「それはちっとも無欲じゃない、大いに贅沢だよ」
「嫌だ、ミス・ヴァレーニエったら」
 まんざらでもなさそうな顔のルミッキさんは、口元に手を当てて首を振った。
 と、雑談を続けていたマリンカさんが、ふいに顔を上げてドアのほうを見、そのガラス越しに何かをうかがったかと思うと、少し声を落としてルミッキさんのほうにこう呼びかけた。
「しかしね、お二人さん、どうやら危機一髪だったようだよ」
「え? どういうこと――」
 深緑色の目を丸くして、言われた本人が聞き返そうとしたときだ。

「おお、ルミッキ! なんだ、お前もいるとは偶然だな、今日はまた運の巡り合わせが良いぞ!」
 ドアの開く音から間髪入れずに、響いてきたのは大きく張りのある声だった。聞いてすぐに、わたしはマリンカさんが言いたかったことを理解した。
 マスター・スターンテイラーだ。この暑いのに、いつもと変わらず丈の長い真っ黒なローブを着て、首には臙脂色のスカーフを巻き、身長と同じぐらいある黒グルミの杖を持っている。確かに危機一髪――というほどギリギリではなかったけれど、間違いなく危ないところだったのだ。彼氏さんに電話が掛かってこなかったら、この店内で(一方的すぎる)因縁の出会いがあったかもしれない。あと、何故かマスター・スターンテイラーの後ろに、死んだような目をしたうちの先生の顔も見えるのだけれど、あれは一体どんな運の巡り合わせの結果なのだろうか。
「まあ、マスター、ごきげんよう。そうですね、こんなにお知り合いが勢揃いするなんて」
 自分に「ボーイフレンド」がいることについて、後ろめたいところの一切ないルミッキさんは、平然と立ち上がって優しくやわらかな笑顔を浮かべ、自分のマスターに向かって丁寧なお辞儀をした。わたしも黙っているわけにはいかず、それに続いて頭を下げた。マリンカさんもエプロンを軽く直して、
「これはどうも、マスター・スターンテイラー。本日のご注文は?」
 と、冗談っぽく気取って尋ねた。
「ヘーゼルナッツ……いや、ピスタチオだな! それからダークチョコレート。ビスケット添えてくれ」
「はいはい、かしこまりました」
 マスター・スターンテイラーがローブの中から、いかにも高級そうな革財布を取り出している間に、マリンカさんはカウンターの奥の棚から、白鑞ピューターの大きな缶を二つ引っ張り出していた。この店のアイスクリームはみんなあの缶に入って、大量の氷でもって冷やされているのだ。どれだけ冷凍技術が発達しても、百年近く前からのこの作り方は変わっていないのだという。そういうところがマスター・スターンテイラーのお気に召しているのかもしれない。ラナンキュラス通りにはもう一つアイスクリームで有名な店があるけれど、そちらは何せ電子レンジや電子オーブン調理用の冷凍食品専門店なので、科学から距離を置きたいこの大魔術師からは毛嫌いされている。
「お前は何にしたんだ、ルミッキ? そっちも旨そうだ」
「マスターと同じようなものです。チョコレートとキャラメルと……」
「そうか、しかし食べに行くなら言ってくれりゃ良かったのにな。そうすれば一緒に払ってやったのに」
「うふふ、それはお止しになったほうがいいですよ、マスター。私にご馳走するとお金掛かっちゃいますから……ほら、今だって二つもカップがあるでしょ」
 手元にある器を指して言うルミッキさんの、その言葉や仕草ひとつひとつのこなれ具合は見事なもので、接しているマスター・スターンテイラーは完全に信用しきっている様子だった。しかし、まだ危機を脱出できたわけではないということを、わたしは忘れていない。彼氏さんはあくまで電話のために出て行っただけで、当然それが終わればまた店内に戻ってくるのだ。マスター・スターンテイラーが、弟子の「ボーイフレンド」の顔を正確に把握しているのかは解らないが、わたしが今まで以上に気まずい思いを味わうことになるのは目に見えている。

「注文が終わったのならさっさとどいて下さいよ、ステフ」
 師弟のじゃれ合いとわたしの思考に割り込むように、いかにも腹立たしそうな声を響かせたのは先生だった。黒いサマーブーツが、今にもローブの背中を蹴っ飛ばしそうに、床の上でこつこつと音を立てていた。
「お前ってやつは心に余裕が無いな、ドク。暑いからって苛立つなよ」
「暑いから苛立っているんじゃあないんです、君の存在が暑苦しいから苛立っているんです」
 心底うんざりしたように言い捨てると、先生は首の動きでマスター・スターンテイラーに場所を空けるよう示した。これは家に帰ってからが大変だ。今日の先生はもう絶対に機嫌を直さないだろう。アイスクリームで気分転換をするつもりが、とんだことに巻き込まれてしまった。
「ほらほら、師匠がた、あんまりそう張り合わずに。ドクターは何を?」
「レモンのソルベ」 先生は短く答えた。 「器は大きいのにしてくださいね」
「ああ、『あれ』をやるんだね」
 心得たとばかりに笑いながら頷いて、マリンカさんが新しい缶を空ける。普通のサイズのアイスクリームが三つほど載るサイズの器に、淡い黄色をしたソルベが控えめに盛られて、それでおしまい。「あれ」をやるとは一体どういうことだろう、そんな疑問が解決されないまま先生は器を取って――ごく当たり前のように、わたしの目の前の席に腰を下ろした。
「……あの、先生」
「何ですか」
「どうして先生がそこに座るんですか」
「どうして私がステフと一緒に座らなきゃあならないんです」
 ふてぶてしく断言して、先生はさっそく木のスプーンを取って、丸く盛られたソルベのカーブを崩し始める。
「いや、それを言うならどうしてわたしが、先生と一緒に座らなきゃいけないんですか」
 わたしはとりあえず抗議したものの、正面に座る赤毛の魔法使いは、もうわたしの存在なんて無かったかのように、冷たいレモンの味に神経を集中していた。こうなったらもうわたしに打つ手はない。隣のテーブルではマスター・スターンテイラーが、ビスケットでピスタチオアイスをすくいながら食べているし、そのまた向こうではルミッキさんが、流れるような言葉で自分の師匠を楽しませている。そして、わたしと同程度に常識がありそうな、他の常連客の誰かがやってくる気配はない。居づらい。
 そうこうしているうちにも、先生はソルベの半分ほどを食べ終わり、そこで手を止めて立ち上がった。
「マリンカ、次はラズベリーにしてくれます?」
 カウンターまで早足に歩いて、持ってきた金属のカップを置き、メニューも見ずに先生が言う。なるほど、大きなサイズの器は追加で注文をするためだったのか――とは解ったものの、それならどうして最初から全部盛ってもらわないのだろう。少しでも溶けないようにするため? 先生のやることには、ときどき妙なこだわりのようなものが見える。悪い意味で。
「あいよ、ただいま。ちょうど新しい缶を開けるところだったよ、ファースト・スプーンだ」
「それは結構」 先生が目を細めた。 「光栄ですね、『マリンカ・ヴァレーニエ』の店で」
 少しして戻ってきた先生の持つカップには、鮮やかな赤紫色のソルベがひとすくい、店内の照明を反射してつやつやと光っていた。わたしもラズベリーのソルベは食べたことがある。去年のことだ。口当たりはしゃりしゃりというよりも結構ねっとりしていて、強い酸味の中にとろりとした甘味があって、たいへん美味しかったことを覚えている。マリンカさんもご自慢のレシピなのだと言っていた。なにせ、「マリンカ」という名前がそもそもロシア語で「ラズベリー」のことを指すのだというのだから……

 入り口のドアが再び開く音がして、わたしの考えはそこで途絶えた。はっとした。わたしは視線を動かしてお客さんの姿を確認し、さっさと食べ終えて出て行かなかったことを後悔した。
 ルミッキさんの彼氏さんだった。すぐさま視線をイートインスペースに引き戻すと、マスター・スターンテイラーはまだ上機嫌で、ルミッキさんと喋りながらアイスクリームを味わっている。前々から解っていたのに対処ができなかった、ということでこれほど絶望的な気分になるのも初めてかもしれない。いや、それは言いすぎか。わたし一人の無力感を知るわけもないハッカーは、店内に入ってすぐに立ち止まり、奥にいるわたしたちのテーブルを見たような気がした。――かと思えば焼き菓子のコーナーに直行すると何かを手に取り、そのまま自然な動きでカウンターまでやって来た。
「はい、いらっしゃい。持ち帰りでよろしい? プレゼント用なら包みますよ」
 何かをくみ取ったのか、あくまで初対面の客を相手にしているように振る舞うマリンカさん。
「普通の袋でいい。それとラムレーズンのアイスを二人分」
「ああ、残念ながら」 いかにも申し訳なさそうに眉尻を下げるのが、こちらからも見えた。
「うちのアイスクリームは外気に弱くってね、すぐ溶けてしまうからテイクアウトはやっていないんですよ、生憎と」
 少しの間があって、表情のあまり変わらない彼氏さんのほうが、店内を少し省みてからこう聞いた。
「じゃあ、ラムか何かの風味のあるやつで、持ち帰れるのは」
 淡々としたハスキーボイスの要求に、よくぞ聞いてくれましたとマリンカさんは力強く言い、それから向かって右側にある棚を、人差し指と中指でまっすぐ指した。
メテオリズメー、浮かべ!
 朗々と「浮遊」の呪文が響き渡った、その次の瞬間には棚の中から大きな箱が浮かび上がり、空中を飛んでカウンターの上にすとんと着地した。古い童話の挿絵から引っ張ってきたような、銅版画タッチのイラストが描かれたその箱は、お菓子の詰め合わせのサンプルというやつだった。
「こちらが今のお勧め商品、その名も酔いどれカップケーキ。単品から2ダース入りまで、種類もモヒートからストロベリー・ダイキリ、キューバ・リバーに……もちろんラム以外まで数々カバー、度数は平均4%」
 箱の中身を手で示しながら、パティシエはテンポよく売り込みをかける。そして最後に、トーンの低い声でこう付け加えた。 「女難避けの呪文つき」
 たぶん冗談のつもりだったのだろうけれど、残念ながら相手はくすりともしなかった。真顔のままカウンターの上をしばらく凝視した後、その視線はマリンカさんの顔に戻り、きっぱりとした言葉を返す。
「半ダースくれ」
「はい、お買い上げ!」
 もちろんその返事はジョークに対するジョークでもなんでもなく、彼はベルトポーチから札入れらしきものを取り出すと、ユーロ紙幣でもって支払いを済ませ、商品の入った紙袋を片手に下げると、きびすを返してすたすたと出ていってしまった。マリンカさんが、うちはチップは受け取ってないんだがね、と軽くため息をついていた。お釣りは要らない、というようなことでも言われたのだろう。
 わたしは隣のテーブルの様子をうかがった。マスター・スターンテイラーはルミッキさんと、知り合いの魔法使いについての話をしていて(マスター・スターンテイラーが一方的に文句をつけているだけとも言う)、今の男性客が一体誰だったのかについては気にした様子もない。とりあえず、今のところ危険は去ったのだ。マスター・スターンテイラーが弟子しか見えないタイプの人でよかった。気がつけば、先生はラズベリーのソルベも半分ほどを食べ終え、新しくオレンジがかった黄色の――恐らくマンゴーかパッションフルーツかなにかの――アイスクリームを器に追加していた。

 あのカップケーキ半ダースを、まさか彼氏さんが全部一人で食べるわけではないだろう。持って帰ってルミッキさんと一緒に食べる、あたりが本当のところだろうとわたしは思う。マスター・スターンテイラーが知ったら怒り狂うどころの話じゃない。けれど、それを本人が知ることは多分ない。アルコール入りのカップケーキってどんな味だろう、単にラム酒で香りづけしたのとは違うんだろうか。わたしがそんなふうに空想をめぐらせていたときだ。
 ルミッキさんが何かに気がついたように言葉を止め、すみません、と師匠に一度断って、自分のバッグの中を探し始めた。すぐに取り出したのは携帯で、メールでも来たのだろうか、画面をフリックして確認している。
 とたん、彼女は可愛らしい声を上げて吹き出し、慌てて口元を片手で抑えた。マスター・スターンテイラーが怪訝な顔をして、
「どうした、ルミッキ? 何か変なことでもあったか」
 と身を乗り出す。
「いいえ、マスター、ごめんなさい。何でもありませんわ」
 そう言い返すルミッキさんの顔は、もうすっかり平気な風を装ってはいるけれど、口元に若干にやけた笑みが残ってしまっていた。こうなってしまうとマスター・スターンテイラーも疑り深くなるもので、一体何がおかしいのか、そのそれ(スマートフォンのことである)が何を言ってきたんだと質問攻めが始まる。その状況に最初に耐えきれなくなったのは、誰あろう赤の他人の先生だった。
「いい加減に黙ってくださいよステフ、他人のテキストなんか知りたがるもんじゃあないでしょう」
 自分が不機嫌であることを隠そうともしない先生は、お決まりのようにその声を尖らせて、隣席の古い知り合いを攻撃にかかる。肩ごしに振り向いたマスター・スターンテイラーが、赤茶色の目でその顔を睨んだ。
「お前こそ他所の師弟関係に口を出すなよ、ドク。大体、お前は気にならないのか? 自分の弟子が、己の与り知らぬところでどんな交友関係を持っているのかが」
「これっぽっちも気になりませんね」
 あまりにもそっけない調子で先生は言った。そうだろうなとわたしも思った。わたしの交友関係によって先生の生活がおびやかされるわけでもないのに、先生がわざわざそんなことを気にかけるなんてありえない。自分の人生の平穏無事が保証されてさえいれば、自分以外の他人の人生など見向きもしないのが先生だ。それが人としていいことなのかはまた別の問題だけれど。
「ケイリーの個人情報なんか気にしてる暇があったら、私は君との関係をいかに精算すべきかのほうを考えますよ。これだから君なんかと飲食店に来るのは嫌なんです、たかだか道中行き会っただけで食の楽しみを全て潰される羽目になるなんて!」
「精算だと! ハッ、随分と軽く言ってくれるがな、そう楽に精算できると思うなよ。お前から返して貰わなきゃならんものは山ほどあるからな。自分ひとり得ができると思ったら大間違いだぞ」
 ルミッキさんから注意はそれたものの、今度はいい年をした魔術師二人の間で小競り合いが始まってしまった。個人がどうのこうのというより、もう全部ひっくるめてこの人たちの人間関係には問題が多すぎる。空になったアイスのカップを前に、わたしが途方にくれかけたところで、
「ほら、弟子の前で見苦しくやり合うんじゃないの、師匠がた。大人は子供の手本にならないと」
 天の助け、いや、マリンカさんの助けが入って、終わりの見えない戦いは一旦ストップした。
「ドクター、もうそろじゃないかと思ったんだがね」
 そう言って、マリンカさんがわたしたちのテーブルの上に置いたのは、一本の小さな瓶だった。口から首にかけて銀の包装がされ、胴にはラベルの貼られた、深い緑色の――
「ワインですか、これ?」
「そう、スパークリング」
 わたしの疑問にすぐさま答えが飛んでくる。ワインだとすると、いわゆるハーフボトルよりもさらに小さい、ベビーサイズとか呼ばれるものだろうか。マリンカさんは丁寧に包装をはがして、音ひとつ立てずにコルクを抜き、先生の前にすっと差し出した。
「さ、どうぞ。レモンピールか何か載せるかい?」
「いいえ、もうこれで結構」
 いくらか機嫌を直した先生が、そう言って小ぶりのボトルを手に取る。ごゆっくり、と言い残してカウンターに戻っていくマリンカさんを軽く見送ってから、先生はそのボトルを傾け、カップに残った三種のソルベの上から、泡立つ飲み物を惜しみなく注ぎ込んだ。
 ガラスの器なら、きっともっと見栄えがしたことだろう。けれど金属のカップでも、それは十分に贅沢で、とても特別なデザートに見えた。味も溶けた具合も違う三つの色合いに、木のスプーンがざっくりと割って入り、水面に浮かんだ細かい泡とないまぜにしてすくい上げる。お上品極まりない先生の仕草と合わさって、しばらくの間見とれてしまったことは否定できない。

「……これをやりに来たわけですか、先生は」
「ええ、このためだけに」
 断じてステフとやり合うために来たわけではありません、と言い切って先生はスプーンをくわえる。平日の昼間だということを忘れそうになる光景だが、考えてみればラナンキュラス通りの魔法使いたちは、そのほとんどが自営業か自由業なので、カレンダー的な平日だの休日だのは大して関係がないのだった。よその国に行けば企業に務める魔法使いもたくさんいるのだろうけれど、この国で魔法使いがサラリーマンになることはあまり一般的でない。
「あなただって、アイスクリームを食べる以外の目的なんてありやしないでしょう、ケイリー。いつまで居座ったって私には何の害もないですけど」
 わたしのカップをちらと見て、先生が続けた。 「ルミッキを待ってる訳でもないでしょうに」
「いや、まあ、そりゃあ……一人で来て一人で帰るつもりでしたけど……」
 言外に「さっさと帰れ」と言われている気がして、わたしは口ごもった。先生に言われる筋合いはないにせよ、確かに今のわたしには、これ以上ここに居座る理由はない。というより、さっきまでは早く食べ終わって帰りたがってすらいたのに、何をぐずぐずしているんだろう――考えてみたところで、わたしは先生の顔にふと目をすえた。
「……先生」
「何です」
 無視されたらそれまでだと思っていたけれど、先生は一応返事をしてくれた。わたしは立ち上がってテーブルの横を通り、先生のすぐ横に腰を下ろした。何事かとばかり眉をひそめる先生に向かって、出来る限りボリュームを落とした声で、わたしは耳打ちする。
「さっきの、あれ、ルミッキさんについてです」
「はあ?」
「マスター・スターンテイラーだけは知らないことなんですけど、実は……」
 噂の本人が気づいていないか、ちらちら向こうのテーブルを確認しながら、わたしは先生たちが入ってくるまでの経過を語った。ルミッキさんは例の彼氏さんと一緒だったこと、電話がかかってきて席を外している間に、マスター・スターンテイラーたちが来店したこと、その彼氏さんというのがさっき出ていった男の人であること、などなど、全てを。
 先生も横目で友人師弟を盗み見つつ、わたしの話を黙って聞いていたが、やがてわたしにそっと目配せした。それは本当ですか、とでも言うように。わたしがゆっくりうなずくと、先生はカップの中の即席フローズン・カクテルを一息に飲み干し、満足げな息をついてテーブルに置いた。
「マリンカ!」
「はいな、何でしょうドクター?」
 カウンターに向かってかけられた先生の声に、マリンカさんがきびきびとした動きでやってくる。わたしはてっきり、もう帰るからテーブルを片付けてくれとでも言うのかと思っていた。しかし実際に先生の口から出てきたのは、こんな内容だった。
「ケイリーの次の勘定は、私につけておくようにしてください。ケーキだろうがアイスクリームだろうが、何だとしても構いませんから」

 おや、とマリンカさんが眉を上げ、わたしは予想外の台詞に目を見開いた。先生はカップをテーブルの端へと押しやり、自分の鞄を肩にかけて、さっさと席を立とうとしている。
「え、先生? あの、良いんですか?」
 先生がわたしに対してそこまで気前がよくなるなんて、何かよくないことの前触れにしか感じられない。けれども先生は、何もおかしなことは言っていないとばかりに鼻を鳴らして、それからいきなりわたしの目の前へかがみ込むと、
「良いですか、ケイリー。先ほどあなたが齎した情報によって、私の機嫌は今しごく良好な状態なのです。持って回った言い方をやめると、ざまあみろって気分です。だからこれはご褒美ですよ」
 と、低く愉快そうな声でささやいた。驚くべきことに、その顔には優しげな微笑みまで浮かんでいた。めったに見ない、いや、もしかしたら初めて見るかもしれない表情だった。素直に喜べばいいのやら、なんだか逆に気味が悪いやら、わたしは答えに詰まって口をもごもごさせた。
「おい、何だドク、いきなり太っ腹なことを言い出すな。弟子に対する俺様の懐の広さを、少しは見習う気になったのか? え?」
 わたしの代わりにマスター・スターンテイラーが、茶化すような口調でそう声を上げた。いつもの先生ならすかさず反撃するところだろうが、本人曰く機嫌がしごく良好な状態の先生は、眉一つ動かさなかった。
「そうですね、確かに君に影響されたと言えるかもしれませんね」
 なんて文句まで飛び出す始末だ。そうかそうかお前にしてはいい心がけだなと、気分よさげにアイスクリームを平らげる旧友の横を、先生は颯爽と通り抜けて、深緑のドアの向こうへ姿を消してしまった。

「こういうこともあるものだね、ケイリー」
 先生の器を下げにきたマリンカさんが、面白がるようなひそひそ声でわたしに言う。そうですねと答えてから、わたしも撤収の準備を始めることにした。今日はさすがに、これ以上甘いものをお腹に入れるのは無理だ。立ち上がる前に一番奥のテーブルを見ると、わたしの視線に気づいたルミッキさんが、いたずらっぽく笑ってウインクをした。
 次の来店はできるだけ早いほうがいい。できるなら明日の学校帰りにでも寄ろうとわたしは決めた。何かの拍子に先生の気が変わって、「この間の話は無かったことに」なんて言いだす前に、この貴重な権利を行使しなければならない。あの気分屋で横暴な先生のこと、いつその機嫌が180度変わってしまうかなんて、どんな魔法を使っても予測できないのだから。
 

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