ウイリアム・ワーズワースの詩集を二冊、三週間も借りっぱなしにしたいわけではなかった。

凍結済みの財産 -Frozen Codex-

 わたしがロマン派の詩人に興味を持つような人間かどうか、わたしの知り合い全員に聞いて回ったとして、100%答えはノーだろう。もちろん自分でも解っている。こんな行動に出たのは古典の宿題のせいでしかない。イギリスのロマン派詩人の作品を一本選んで、自分なりの解釈をまとめ、さらに形式やら韻の踏み方やらについてあれこれ付け足したレポートを、来週の頭までに仕上げてくるようにという、同じ授業を取っている生徒の大半が頭を抱えたくなるような課題が出されたばかりなのだ。わたしは授業の後の休み時間に図書室へ行き、そして考えることはみな同じ――手近にある本の適当なページでもって済ませたいという物臭なやつ――だということを思い知らされ、放課後にこうしてはるばる市の公共図書館まで行かされるはめになった。聖マーガレット中学校はもっと図書室の蔵書数を充実させるべきだ、という父母会の主張に今だけ同意したい気分だった。こういう課題でも出ないかぎり、詩集の棚が空っぽになることなんて絶対にないのだけれど。

 愛想の悪い司書のお姉さんに、7月1日が返却期限であることが記されたレシートを渡され、わたしは持ち出しゲートをくぐって開架室を出る。自習室を借りてもよかったけれど、金曜日は閉館時間が早いから、借りるだけ借りて持ち帰ってやったほうがいいと考えたからだ。そして、そのままロッカールームへ鞄を取りに行ったところで、わたしはふと一つの人影に目を留めた。白黒のチュニックを着たその後ろ姿に見覚えがあったからだ。
「メルラさん?」
 図書館の静かなロッカーに、わたしの声は思ったよりもずっと大きく響いた。人影がぱっとこちらを振り返り、
「ああ――チャオ、ケイリー。お勉強?」
 と、片手を軽く挙げながら応えた。ゆるくカールした黒髪が、肩のすぐ上でふわふわと揺れた。
「本を借りにきたんです、宿題の参考に……メルラさんはお仕事ですか」
「まあね。市から依頼が来たんで、郷土資料を何冊か貸しにきたの。で、前に貸してた本をついでに返してもらいに」
 言って、彼女は手元の黒いキャリーケースをぽんと叩いた。長い取っ手と車輪のついたそれは、分厚い本でも何冊も入りそうに見えた。
「いつも思うんですけど、図書館に本を貸すって、なんだか凄いことですよね」
「そこまで凄いってこともないんじゃない? ただ、この島でその本を持ってるのがあたしだけしかいないって話よ」
 わたしはあくまで本心を伝えたのだが、メルラさんは自分の功績をごくあっさりと流し、それからロッカールームの出口にちらりと目をやった。
「大事な宿題があるのに、魔法使いの理不尽なパシリも引き受けてこなすケイリーのほうが、わりと凄いような気がするけどね、あたしは。この後も何か、掃除なり夕食を作るなりしに行くんでしょう?」
「ええ、まあ」
 思い出さないようにしていたことを言い当てられて、わたしは肩をすくめながら空笑いをした。先生は昨日「よく働いた」ばかりなので、今日は絶対何もしていないに違いない。お客さんが買った香水や石鹸の代金は、丸ごと先生の懐に入るけれど、その先生の最低限文化的な生活を支えているわたしには、せいぜいジュースかアイスクリームを買い食いする程度の権利しか与えられないのだ。社会科の授業で習った「労働者からの搾取の構造」という単語が、わたしの頭にぼんやりと浮かんだ。このネガティブ極まりない思考が打ち止めになったのは、次にメルラさんが口にした言葉のおかげだ。
「あたし今日車なんだけど、あたしの店までなら乗せてってあげようか? バス代の節約ぐらいにはなるでしょ」
 思いがけない申し出だった。わたしは目を何度か瞬き、とっさに返事が出てこなかったので、意味もなく視線を下に向けたりした。そこで初めて、今日のメルラさんがぺたんとした革のスリッポンを履いていることに気がついた。普段ならもっとかかとの高い、気合いの入ったピンヒールやサンダルのはずだ。――いや、今は彼女の靴について考えている場合じゃない。
「えっと、あの、いいんですか? その、メルラさんの車って……あんまり他の人が乗っちゃまずいんじゃ」
「別に? 店で使ってるやつじゃなくて、本当にあたし個人の車だよ。荷物は積んでるし3ドアだからそんな広いわけじゃないけど、でもケイリーなら乗る乗る、余裕」
 わたしの控えめな質問に、メルラさんはあっけらかんとした調子で答え、ロッカーから黒い鞄を引っ張りだして肩にかけた。そして、どうする? と言うように小さく首をかしげた。かと思うと、いかにも神妙そうな顔で、
「そんなに心配しなくても、誘拐なんてしないわよ」
 と言った。 「あなたの先生は恐いから」
 思わず吹き出しそうになるのを、わたしはぐっとこらえた。声があからさまに笑っていたところからして、それが冗談なのはすぐに解ったが、それにしたって誘拐がどうのと言われるとは思わなかった。
「いやあ、先生はたぶん、わたしが誘拐されたところで気づきもしないんじゃないですかね……」
 笑えばいいやら悲しめばいいやら、弟子の立場の儚さを噛み締めながら、わたしはそう言うしかなかった。そして、ここに来てようやく、この目の前にいる人の親切を受け入れることに決めた。
「……その、そういうことなら、お言葉に甘えてもいいでしょうか」
「もちろん。じゃ、自分の荷物持ってきて。エントランスのところで待ってるから」
 遠慮を断ち切れないわたしとは正反対の、どこまでもさらりとした態度でメルラさんは言った。そして、きびきびとした足取りでロッカールームの扉を開け、そのまま廊下の先へと姿を消してしまった。

 メルラさんが普段どんな車に乗っているかについては、ろくに想像もつかなかったけれど、少なくともブラウンのミニクーパーだなんて考えはなかった。ドアミラーのカバーなんて、ご丁寧にもモノトーンのユニオンジャック柄だ。
「ここまでしておいて、降りてくるドライバーはイタリア英語しか喋れないんだからね、ギャップの勝利でしょ」
 車の主はよく解らないことを言いながら、運転席のドアを開けてエンジンをかけた。そして、シートの背もたれを倒したり起こしたりして、後部座席に自分の本とわたしを積み込み、シートベルトを着けさせると、軽やかにハンドルの前へと滑り込んだ。
「ラジオでも聴く? 好みとかあるのか解らないけど」
「あ、いや、いいです」 緊張のせいで縮こまりながら、わたしは答えた。
「そう? ま、どうせ十五分かそこらで着くしね、この時間なら別に混んでないだろうし。途中で信号が爆発したり、道路にグレムリンが飛び出してきたりしない限り、ご機嫌なドライブよ」
 そう言いきるメルラさんの横顔は妙に得意そうだった。今のは笑ったほうがいいセリフだったのだろうか。わたしは数秒考えたあげく、気の利いた返事は思いつかなかったので、
「……ここイギリスじゃないですけど、出ますかね、グレムリン」
 という、何の面白みもない質問だけを口に出しただけだった。
「出るんじゃないの、昔はイギリスだったんだし」
 投げやりな声が返ってきた。メルラさんの白い手がハンドルを回し、小さなイギリス車は滑らかに駐車場を抜け出すと、セントエラスムスの街へ短いドライブに出発した。

  * * *

 メルラさん、あるいは「マダム」・メルラ・リブレットは食料品店のあるじで、立派な魔法使いだ。見た目に二十代の半ばぐらいの、イタリア系の女の人である。黒髪に黒い目、白い肌、そして白と黒のモノトーンの服がお決まりのスタイルで、日差しの降り注ぐ色鮮やかな夏のセントエラスムスでは、まるで彼女一人だけがモノクロ写真の中にいるようだった。
 そんな彼女の店がある、ラナンキュラス通り十三番地――に隣接する通りにある駐車場に、ブラウンのミニクーパーは滑り込んで止まった。何せラナンキュラス通りは道幅が狭い上に、途中に階段もいくつかあるせいで、車が通行するには向かないのだ。ミニクーパーのサイズならなんとかなりそうだけれど、それでも他に歩行者がいればアウトだろう。
「はい、お疲れ。今ドア開けるから、ちょっと待ってね」
 シートベルトを外したメルラさんによって、わたしと荷物は後部座席から無事に下ろされ、クリーム色の石畳に降り立った。
「あの、ありがとうございました、助かりました。バス、けっこう待たなきゃならなかったと思うので」
「どういたしまして」 片手で髪を軽く整えながら、メルラさんが答えた。
「それで、えっと、お礼……には全然足りないと思うんですけど」
 わたしは通学用の鞄を背負い直してから、そう切り出した。ここで簡単にさようならを言い、まっすぐ先生の家を目指したって構わないのだが、それはあまりにもそっけなさすぎる気がしたのだ。
「お店でいくらか買い物していきたいんですが、いいですか? 先生の夕食の準備もしなきゃならないですし……」
 こちらを覗き込むメルラさんの黒い目が、大きくまるく見開かれた。かと思えば、すぐさま笑みの形に細められた。
「誰が悪いって言うもんですか、大歓迎。是非寄ってって」
 食料品店のあるじは言って、数歩進んでから手招いた。キャリーケースの車輪の音と、わたしの靴音がそれを追いかけた。

 ラナンキュラス通り十三番地に建っているのは、形だけなら他の家々とさして変わりのない二階建てだ。ただし、砂岩の壁は真っ白に塗られているし、二階の出窓の枠は正反対に真っ黒、入り口のドアもまた真っ黒。その上にはすっきりとしたモダンな字体で、「Madam Merla's Frozen Emporium」と書かれた看板がかかっている。古めかしさと素朴さが売り物みたいな建物の多い中、この店構えはいい意味でも悪い意味でも目立っていた。
 ドアを一歩くぐると、店内も白黒二色に塗り分けられ、明るい照明に照らし出された清潔な印象。店いっぱいに並んだガラスのショーケースの前を、数人のお客さんが行き来していた。そして、メルラさんは従業員用の裏口みたいなものを使うでもなく、堂々とお客さんたちに挨拶しながら、カウンターのスイングドアを抜けて奥へと進むのだ。
「ああ、マダム・メルラ、お帰りなさい」
 店番をしていた若い男の店員さんが、白い布ナプキンで手を拭きながら会釈した。
「留守番ごくろうさま。休憩行ってくれていいよ」
「はい。あ、キッチンの鍋、あと二、三分ですんで終わってから行きます」
「了解、了解。そうだ、控え室に置いてるお菓子、自分のぶん取っといてね――」
 そんな会話と共に消えていったメルラさんは、ほんの数分後にはいつも通り黒いピンヒールを履き、白い手袋をはめた格好で、再びカウンターに姿を現した。そして、早速一人のお客さんの会計をさばき、簡単な献立のアドバイスなんかも添えて、にこやかに店の外へと送り出す。
「今はわりと空いてますね、時間が時間だからでしょうけど」
「そう、あと一時間ぐらいすると混みだすんだけどね」
「さっきキッチンの鍋がなんとかって言ってましたけど、何を作ってるんですか?」
 気になったことは気軽に聞けるのが、このお店のいいところだとわたしは思っている。今夜のメニューに何を選ぶかについての相談から、栄養のバランスや割引の情報まで色々と、だ。実際、わたしの質問にメルラさんは快く答えてくれた。
「ああ、出そうと思ってる新作の一つで。カラヒって言って、インドとかパキスタンの辺りの料理なんだけど、野菜やマトンをスパイスで煮込むのね。トマトやタマネギ、ホウレンソウ……味の決め手はショウガのピュレと、仕上げに入れるペパーミント」
 意外なことに、鍋の中身はエスニック料理だったようだ。カラヒ、という響きはどこか「カレー」を思わせるけれど、似たようなものだろうか。わたしもチキンティッカマサラなら大好きで、ときどき既製品のペーストを使って作る。聞いた話では、これは正式なインド料理ではなくて、イギリスのインド料理店で生まれたものらしいけれど。
「すごくおいしそうですね、その、カラヒ……っていうの」
「うん、自信作。店に出すのは今日の夕方からで、今すぐにはまだ買えないけど」
「あ、そっか」
 レストランとは違うのだから、商品になるためには出来上がってからさらにいくつも手間がかかるわけだ。となると、わたしはそれ以外から先生の食事を選ばなければならないことになる。
「じゃあ、ええと、今出てる中でおすすめって、何かありますか」
「おすすめかあ。そうだねえ――メインを探してるんだよね?」
「あっ、はい」
 わたしが答えると、メルラさんはカウンターを出て手招きし、ピンヒールの音も軽快に、売り場に向けて歩き出した。そして、いくつも並ぶショーケースのうち一つの前で立ち止まる。曇りなく磨かれたガラスの向こうには、サンプルとして皿に盛られた色とりどりの煮込み料理。赤や黄色はパプリカだろうか。白いソースとの対比が鮮やかだ。そして、同じケースの中にはいくつかのサイズに分けて、透明な袋で梱包された同じような皿がいくつも並んでいる――よくあるお惣菜売り場と違うのは、それらが全て凍り付いているということだった。ここは冷凍食品の専門店なのだ。
「あたしが一つ選ぶならこれかな、チキン・ア・ラ・レジーナ」
「チキン・ア・ラ・レジーナ?」
 聞いたことのない料理名だったので、わたしは聞き返した。チキン・ア・ラ・キングだったら聞いたことがあるけれど――と思ったら、メルラさんが先に、
「簡単に言えば鶏肉のクリーム煮。またの名を……チキン・ア・ラ・キング」
 と、自分から補足してくれた。
「ちょっとオリジナリティを出したかっただけでね。シェフがあたしだから、キングじゃなくて女王レジーナ
「なるほど」
「こういう定番料理のレシピなんて人それぞれだろうけど、うちのは鶏肉以外にパプリカとマッシュルーム、タマネギ、それに青豆を少し」
 ケースの中のサンプルを指差しながら、メルラさんは説明する。
「鶏肉をシェリー酒でマリネしてからローストするのがポイントなのね。風味が段違いだから。こういうのって家で作るときは残りもの料理のイメージだけど、うちのは間違いなくこのためだけに鶏を焼いてる」
 そして最後に、食べるときは電子レンジで六分、と付け加えた。
「そうですね、それにしようと思います。一皿ぶんは普通に出して、もう一皿は残ってるパスタにかけるか……深い器に入れてパイ生地をかぶせて焼くのもいいかも」
「ああ、それ良いアイデア! あとは、ポテトフライにかけてチーズ振って焼くのもアリだと思うな。うん、そういうアレンジ思いつくの、良いね」
「いやあ……先生が飽き性なもので、こういうのは自然に……」
 先生は「冷凍食品をチンしただけの食事」というものにも、特別何の不満も抱かないタイプだ。ただし異常に飽きっぽいので、結局はいちいち一手間加えることになる。毎回違う冷凍食品を出していれば多分飽きないのだろうが、いくらメルラさんの店であっても、先生の365日をまかない切れるだけのバリエーションはない。リメイク料理の考案はわたしにとって切実な問題なのである。
「じゃ、他になにか買うんだったらごゆっくり。あたし、ちょっとレジ行ってるから」
「あ、わかりました、案内ありがとうございました」
 頭を下げるわたしにくるりと背を向けて、カウンターへ颯爽と戻ってゆくメルラさん。それとほぼ同時に、レジの前には買い物かごを持ったお客さんが数人ほど集まって、お会計を待つ態勢に入る。フランスには冷凍食品専門店のチェーンがあると聞くけれど、こんな小さい国の個人経営店でもこうして繁盛しているからには、やっぱり需要はあるわけだ。もちろん、わたしもこの店があって本当に助かっている。夕食のおかずだけじゃなく、お菓子やパンのたぐいも並んでいるからなお便利だ。

 デザートのコーナーに並んだ色とりどりのパッケージから、半解凍して食べるタイプのチョコレートケーキをかごに入れ、わたしはレジの最後尾に並んだ。わたしのひとつ前にいた人は、たぶん大学生ぐらいの若い男の人で、セール品のグラタンとマカロニチーズをいくつも抱えていた。カウンターでメルラさんと交わす言葉は、今度蔵書のうちの何冊かを読ませてほしいだとか、そういう内容――
「はい、次のお客様」
 声をかけられて、わたしは一人暮らしの男子大学生(推定)の食生活についてあれこれ想像するのをやめ、自分のかごをカウンターに乗せる。メルラさんは鶏肉のクリーム煮、もとい「チキン・ア・ラ・レジーナ」をレジに通し、それからチョコレートケーキのパッケージを取り上げて、
「これ人気なんだよね、出してから毎月売り上げが断トツよ」
 と、上機嫌そうに言った。
「けっこう大きめで2ユーロしないのは安いですし、それにすごくおいしいですから、そうだろうなって思います。濃くてなめらかで、コーヒーによく合って、大好きなんですよ、わたし」
「それは良かった。……あ、ってことはそれ、ドットーレの分じゃないわけね」
「わたしのです。先生の分は、いただきもののお菓子がまだありますから……それに、あんまり先生のこと甘やかすわけにもいかないじゃないですか」
「確かに」
 先生のことをイタリア語の肩書きで呼ぶメルラさんが、わたしの感想にそんな言葉を返す。 「しっかりしてきたね、ケイリー」
 そして、わたしが持参した布の買い物袋に商品を全て入れ、しっかりと口を閉じると、持ち手をこちらに向けて返してくれた。お会計は締めて9.7ユーロ、わたしは10ユーロ札を出し、おつりをきっちりもらって財布にしまい込んだ。今のわたしは「おつりは結構です」と言える身分ではない。買い物袋を手に、肩越しに振り返っても、まだわたしの後ろに並ぶ人はいなかった。

「――そういえばメルラさん、わたし気になってたんですけど」
「うん?」
「ほら、さっきのお客さん、メルラさんの本を読みにきた人みたいじゃないですか」
 これで後ろに人がいれば、いくらなんでも立ち話をしようとは思わないけれど、今なら店内も大分と空いている。ちょっとした質問ぐらいなら、きっと大丈夫だろう。
「ああ、市大の学生よ、あの子。レポート書くのに資料が要るからって、うちにある法律書の閲覧を頼みにきたの」
 四百年ぐらい前のイギリスの本をね――とこともなげに言うあたり、やっぱり彼女の感覚はわたしたち一般人とはどこか違うと思うけれど、今はその点については置いておく。いや、別に関係ないわけでもないのだが。
「市立図書館もそうですけど、メルラさんのお仕事って、つまり世界中から貴重な本を集めて、それを必要な人に見せたり貸し出したりすることですよね?」
「まあね」 と頷くメルラさん。 「一応、本職は」
「いや、だとしたらどうして……その、冷凍食品の専門店なんてやってるのかなあ、って。結びつかないじゃないですか、本と冷凍食品」
 そりゃあ、全ての働く人たちが、自分の才能や関心に直接結びつく仕事をしているだなんてことは絶対にないし、メルラさんのそれも単に「ウケそうだから」とかいう理由なのかもしれない。それでも不思議に思ったものは仕方なかった。わたしの質問に、彼女は黒い目をぱちぱちさせながらこちらを見ていた。疑問に思われるのは意外だったんだろうか。
「そんな不思議かな。というより、あたし説明したことなかったっけ――説明しなかったか。あたしにとっては、凄く良く似てるものだと思ってるんだけどね、あたしの扱ってる古書と冷凍食品って」
「そうですか?」
 わたしにとってはやっぱり結びつかないので、失礼だとは思いながら、そんな声を上げてしまう。
「だって、考えてみてよ。冷凍食品ってのは、食材をそのまんまなり、何か手を加えて料理にするなりして、それを一旦氷漬けにして長く置いておけるようにしたものでしょ。ただ長持ちするだけじゃなくて、味だってほとんど変わらないし、持ち運ぶのにも便利」
「はい」
「でも、そのまんまだったらただの食べ物の氷漬け。冷凍食品は結局、解凍して食べられるためにあるわけじゃない?」
 こちらの手元にある買い物袋をぴっと指差して、メルラさんは続けた。
「で、あたしから見れば、『本』も同じことだと思うわけ。何百年も前に書かれた本ってのは、現存してるだけでもそりゃあ価値あるものだし、ましてそれが世界に名だたる偉人の著書だったり、歴史的にみて本当に重要な役割を果たした本だったりすれば、普通は博物館だの大学の書庫だのに丁重に仕舞い込んで、まず人目に触れさせたりなんかしないでしょうね。リブレットの家がやってるのも本来はそういうこと。でも」
 そこで一旦言葉は途切れ、黒い目がわたしの顔を覗き込んでくる。そろそろ解ってきたんじゃない? とでも言いたげに。
「……本も、読まれるためにあるってことですよね、つまり」
「大当たりー」
 食料品店のあるじ、そして立派な本の魔法使いは白い歯を見せて笑った。わたしは内心、もし間違っていたらどうしようかとはらはらしていたので、ほっと息をつくことができた。わたしはこういうたとえ話のようなものから、相手の言いたいことを推測するのが下手なほうなのだ。
「内容を問わず、本はその当時の人たちに、そして後世の人たちにも、読まれるために出版されたわけよ。いや、出版じゃなくて写本なんかの時代もあるけど、結局は目的は同じ。知識や意見や発想や記録を、誰かに伝えるためのもの。地下の蔵書庫で氷漬けにしたままなんて、本にとっても人にとっても勿体なさすぎるでしょ。だからあたしのコレクションは基本的には閲覧自由だし、ちゃんと取り扱いに気をつけてもらえるんなら貸し出しだってする」
 それが使命だと思うのよ――と言うメルラさんの声は、使命なんて単語を使ったわりには相変わらずあっさりしたもので、頼もしさとちょっとした不安を同時に覚えた。もしかしてわたしの知らないところで、世界に一冊の貴重な本が、わりと簡単に台無しになったりしてるんじゃないだろうか、と――それとも、「人に読まれる」という目的を達成したのなら、誰にも読まれないよりずっと幸福だ、ということだろうか。そこまで割り切った考え方は、わたしには無理だ。まあ、貴重すぎる本はさすがに貸し出しはなしで閲覧だけとか、「保護」の呪文をかなりの強度で掛けるとか、それぐらいのことはしているだろうけど。

「それにね、ケイリー、いくつもの物語を閉じ込めているのは、本じゃなくて食べ物も同じことよ」
 メルラさんは言って、カウンターから売り場の側へ再び出てきた。ピンヒールの音が楽しげに響く。白黒の装いが足を止めたのは、さっきわたしも覗いたお肉料理のショーケースだ。
「例えば、フォアグラ乗っけたステーキのこと『ロッシーニ風』っていうのは、作曲家のロッシーニの大好物だったからでしょ? イタリア料理のカルパッチョは、薄く切った生の牛肉の色合いが、ヴィットーレ・カルパッチョっていう画家の、赤と白の対比が特徴的な画風に由来するっていう。それから、あたしたちの大好きなビーフシチューは、ヨーロッパ人じゃなくて日本人の好物でもあってね。留学中にそれを食べた海軍のお偉いさんが、故郷に戻ってなんとか再現させようとしたら、その結果新しい日本料理が生まれちゃった、ってんだから……」
 どう? とメルラさんは首をかしげる。
「冷凍食品を解凍して美味しくいただくのも、古い本を紐解いて物語を味わうのも、あたしには同じくらい『旨味のある』ことなわけ。こんなに面白い仕事、どっちか片方にしろ、なんて言われたって選べるわけがない」
 そう言い切る魔法使いの顔は満足げで、わたしはその笑みを眩しく感じながら、ふと鞄の中のワーズワースの詩集を思った。あの二冊も当然、18世紀から19世紀にかけてのイギリスで、誰かに聞かせるために歌われ、読まれるために本になったのだ。決して二百年ほど後の学生たちに、レポートを書く苦しみを与えるためにではなく。
 ――「郭公に捧げる詩」だけじゃなく、きっちり二冊、借りたからには読んでみようか。レポートの提出は来週頭までだけれど、市立図書館の貸し出し期限は三週間先。余裕はある。

「よくわかりました、メルラさん。……いや、多分まだ全部は解ってないんですけど、全然想像もつかない、って感じではなくなりました」
「そう、伝わったなら何より」
 細められた黒い目を見ているうち、わたしはまた別のことを思いついた。最後の質問になるだろう。あんまり先生を待たせると、またご機嫌を損ねて冷凍食品じゃ満足してくれなくなるかもしれない。
「実はあともう一つ聞きたいことがあるんですけど、その、メルラさんって自分で料理するじゃないですか。で、それを冷凍食品にして」
「そうだけど?」
「で、冷凍食品と本が同じもの、ってことは」
 こちらの意図は伝わってくれるだろうか。わたしの視線を受けて、しばらくの間は不思議そうにしていたメルラさんは、やがて何かに気づいたように口を開いた。かと思えば、どこか恥ずかしそうに目をそらした。
「あのさ、ちょっと、もしかしなくても」 照れ隠しのように笑い声が交じる。
「それってつまり、あたしは本を書かないのか、って言ってる?」
「そう言ったつもりです」
 メルラさんぐらい立派な魔法使い、それも本に対して特別こだわりのある魔法使いなら、きっと素晴らしい本を書くんじゃないだろうか。そう思ってわたしは聞いたのだけれど、当の本人は白い肌をほんのり赤くしながら肩をすくめるばかりだった。
「それはちょっと……考えさせて。というより、もうちょっとあたしに文才ってもんがあれば考えたけど、いやあ……」
「書きましょうよ、どうせなら。べつに純文学じゃなくたって、たとえば料理本とか、世界中の貴重な本を紹介する本とか、そういうのだってありじゃないですか」
 作家の気持ちもいっそう解るようになるかもしれませんよ、とわたしは言い立てる。本当に書くかどうかは結局メルラさん次第として、ちょっと期待をしてみるぐらいはいいじゃないかと思ってしまった。恥ずかしがるメルラさんなんて見慣れないからもうちょっと見ていたい、なんて考えているわけでは決してない。決してないのだ。

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