調香師の家はいつでも良い香りに包まれている、と思ったら大間違いだ。

芳しき魔法 -Smell the Roses-

 もしくは逆に、嗅覚を研ぎ澄ますため常に無臭の環境が整えられている、と思っている人もいるかもしれない。どちらにせよ、わたしの先生に関して言えば全くそんなことはない。先生の家に三年通っているわたしは自信を持ってそう言える。
 先生の家の庭先は、五月になれば色とりどりのバラが匂い立つけれど、建物の中に一歩入ってしまえば、かなり普通の臭いしかしない。生活臭というやつだ、良い意味でも悪い意味でも。朝コーヒーを飲んだ後の匂いだとか、魔法薬のちょっと鼻につんとくるような残り香、古い魔導書の埃っぽい臭い。あるいは洗濯物を干したときの、生乾きの臭いにちょっと押し負けつつある柔軟剤の香りだとかもある。そして、たまにまっとうな人付き合いをするときにだけ、ルームフレグランスのたぐいの力を借りて、玄関と応接間だけは心地よいラベンダーの香りを漂わせたりする。そんな時でもバスルームには防カビスプレーの化学臭が残ったまま。先生の家というのはそういう場所だ。

 そんなわけで今日、夕暮れ時の先生のリビングにすてきな匂いが漂っているのは、実際はわりと珍しいことなのだった。先生は昼のあいだ仕事をして――仕事をすること自体が珍しいんだからだめな大人だ――お客さんのためにいくらかの調合を行った。主力商品である香水に加え、注文があったのはいわゆるアロマディフューザー用のオイルというやつで、400mlぐらい入る瓶いっぱいが約100ユーロ。この強気の価格設定にも怖じ気づかないお客さんが、快く代金を支払っていった後、わずかに余ったこのオイルが今、部屋いっぱいに焚かれた後なのだ。
 (ふだん先生が座らないほうの)ソファに腰かけて、静かにじっとしていると、まるで森の中にいるみたいな気持ちになる。はじめに鼻先をかすめてゆくのはハーブの花の、たぶんラベンダーか何かの匂い。それからもっと青っぽい、木の葉とかまだ熟していない果物とか、そんな夏らしい香りになっていく。ずっと注意を払っていれば、やがて空気はもう森の奥深く。ひんやりとして湿った苔や木のようだ――苔の匂いなんて鼻近付けて嗅いでみたことがないからただのイメージだけど、きっとこんな匂いがするんだろうな、という感覚だ。大分香りは薄まって、部屋に一歩踏み入れたとたん感じるというほどではないものの、こうやって意識を向けてはじめて匂ってくるぐらいが、日常にはちょうどいいのかもしれない。
「仕事さえすれば、良いもの作るのになあ、先生って」
 先生が本物の魔法使いであるだけでなく、本物の調香師でもあることに疑いはない。疑いなく素晴らしい香りを作り上げるからこそ、週休六日で営業日不定という世間を舐めた営業形態でも、絶えずお客さんがやってくるのだ。それなのに、本人がわがままな上に気まぐれで、自分勝手かつ飽き症で、おまけに極めつけの怠惰なものだから、生み出されるはずの香りの九割方は世に出ないままでいるような気がする。これは大きな損失じゃないんだろうか。いや、先生に言わせれば、「私は私の五感が求めるまま休養を取っているからこそ、この芸術的才覚を十二分に発揮することができるのであって、私を週に四十時間も働かせるほうがよほど世界の損失です」ということらしいが。
 ところで先生が仕事をしないことが、この家に良い香りの足りない理由だからといって、それなら仕事をしていれば良い香りに満ちているかというと、実は全くそんなことはない。先生にちょっとしたお伺いを立てようと、作業場のドアを開けた瞬間そのことを思い知った。

 それは臭いだった。刺激臭! そう一言で切って捨てたくなる臭いだ。
「う、」
 うわあ先生何ですかこの臭い、おえっ! ――という言葉さえも出てこないぐらい嫌な臭い、臭いのくせに目に見えそうなほど強烈な臭いだった。燻製ニシンとヤギのチーズと洗ってない靴下をトイレで煮詰めたら、もしかしてこんな呪いが生まれるのかもしれない。前にルミッキさんが、彼女の故郷フィンランドにはサルミアッキという大変臭いけれどもおいしい飴があると教えてくれたけれど、それもこれぐらい臭いんだろうか。だとしたらわたしは今後一生涯フィンランド人の嗅覚を信頼することはないだろう。ルミッキさんには悪いが。
 世の中にこんな臭いが存在すること自体信じがたいのに、この上さらに信じがたいことには、悪臭充満する作業場の中で、先生は平然と立って何かをしているのだった。涙が出てきて前があまり見えないけれど、どうやら流しで鍋の中身をざるか何かに開けているらしい。ということは、この臭いの出所はその鍋なのか。
「せ、せんせ」
 こんな臭いは少し吸い込むだけでも命に関わる気がするが、それでもなんとかわたしは声を絞り出して先生を呼んだ。ところが先生ときたらいつも通り、他人のことなんかその赤毛の先ほどにも気にかけちゃいない。わたしのいる入り口のほうをちらりとも見ず、片手でしっしっと追い払うような仕草。ええそんな真似されなくたって一秒たりともここにいたくありませんよ! 鼻と口を覆っているから声には出さないが、そんなことを強く強く心に念じながら、わたしは転がるように部屋を出た。勢いまかせにドアを閉めたら、わたしの心境そのままの音がした。

 洗面所でわたしは顔を洗い、手を洗い、室内用の上着を脱ぎ捨てたけれど、臭いはちっとも消え去ってくれなかった。もう鼻の細胞一つ一つに染み付いてしまっているとしか思えない。こんな臭いを漂わせながら夜のラナンキュラス通りを歩き、家まで帰らなきゃならないなんて考えたくなかった。いっそ完全に鼻がきかなくなってしまったほうがましだ――恐ろしいことにわたしの嗅覚はきっちり仕事を果たし続けている。こんな時ぐらい先生のように勤労の義務を放棄してもいいんだよと、自分の鼻に言ってやりたいぐらいだ。
 居間に戻ったわたしがそれから十数分、拷問の概念そのままのような臭いにさいなまれ続けた後、やっと先生が悪臭のるつぼから現世に帰還した。嗅覚に異常をきたしている様子はなく、
「これだから嫌なんですよねえ、赤籠茸スティンクホーンの仕込みって」
 などと言い、芝居がかった溜め息なんかついている。余裕そのものだ。わたしは一瞬、先生にしがみついて、この身に残る臭いすべてをなすり付けてやりたい衝動に駆られた。が、そんなことをしても先生には効果がないどころか、悪意を持って動いた瞬間に「静止」の魔法か何かを掛けられ、指一本触れさせてもらえないだろうことを察して思いとどまった。
「先生、なんだったんですかさっきのはぁ」
 鼻だけでなく呼吸器全体をやられてしまった感覚のせいで、まだ言葉尻がふらふらする。先生は優雅なそぶりで指定席の上に脚を組み、テーブルに伏せられたままの香水雑誌を手に取ると、やっぱりわたしには目もくれず答える。
「何って、スティンクホーンはスティンクホーンですよ。キノコです。見た目もグロテスクなら臭いもグロテスクなんですがね、魔法薬の素材としてはすこぶる優秀でして。とりわけ使い魔のたぐいを手懐けるのにはぴったりですよ、まあ私は滅多に使い魔なぞ喚びませんがね」
「そりゃあ、使い走りは弟子がいれば十分でしょうからね」
 わたしは精一杯の皮肉を込めて言ってやったが、先生は平気な顔そのもの。あなた使い走りの役に立ったことありましたっけ、とでも言わんばかりの態度だ。
「いくら便利な素材だからって、あんな悪い臭いのするものなんか使います普通? 今までにも変な臭いのする薬草とかキノコって沢山ありましたけど、ちょっとその比じゃなかったですよ。よく平気ですね先生」
「まさか、平気な訳がないでしょう。ただ『水中呼吸』の呪文の応用と、それから『鈍化』でもって臭いを誤魔化しているに過ぎません。臭いの付着自体は『保護』をかけておけば十分ですし」
「……そういうところ先生ずるいと思います、いくら魔法使いだからって」
「ずるいと思うなら、自分がその手の魔法を使えるようになればいいだけの話ではありませんか。ほら、今私はどの呪文を覚えれば私と同じことができるようになるか、親切にも全て挙げてやりましたよ」
「名前だけ挙げたって仕方ないでしょう、その魔法をどうやって使えるようになるのか教えてくれなきゃ」
 それを教わるためにこそ、わたしは先生に弟子入りしたのであって、先生の使い走りをするためでは断じてない。なのに先生は涼しい顔をして、雑誌のページを一枚一枚気取ったふうにめくりながら、その片手間で返事をした。
「魔法というものはね、畢竟自分の感覚全てを用いて盗み取るよりほかのないものなのですよ。師という見本が傍に置かれているからには、あなたも自助努力を怠らぬようにしませんとね」
 こんな無責任な魔法の師が存在してもいいものだろうか。 このぶんだとわたしは下手に抗議するより、先生になんとかしてサルミアッキを食べさせる方法を考えたほうがまだ建設的かもしれない。

「それとねケイリー、あなたは今『悪い臭い』と言いましたが、その捉え方は宜しいとは言えませんね」
 真っ黒いリコリス飴の中に二、三粒のサルミアッキを混ぜ込む手段を、わたしが今までの経験からかなり真剣に考察していたときだ。先生がふいに雑誌を読む手を止め、ヘーゼルの目をこちらに向けて言い出した。
「なんですか先生いきなり。そんな、どう考えたって良い匂いじゃありませんでしたよ。わたし、鼻がおかしくなるかと思ったんですから」
 口に出せばまた鼻の奥からおでこの裏側まで、いろいろなものが腐ったような臭いがぐつぐつと煮えくり返る。わたしは顔をしかめたけれど、先生はこちらの苦しみを知ってか知らずか、こんなふうに返した。
「確かに快い匂いではないですよ、もちろん。ですが、それが即座に『悪い』かどうかには繋がりません。いいえ、そもそもこの世に存在するにおい――臭いodorだとか匂いscentだとか香りaromaだとか、呼び方は多数あるけれども、それらには我々人間の嗅覚がどう捉えるかの違いがあるだけで、善悪という意味での良い悪いなどありはしません」
 なんだかいやに道徳的な話をされている気がする。この道徳とは縁遠い先生が言うのだから、恐らくそんなことはないのだろうが。
「そういうものですか。先生のことだから、悪臭なんて絶対に許しておかないぐらい考えててもおかしくなさそうですけど」
「まさか。私は私に感じられる限りの、ありとあらゆる匂いについて敬意を払っていますよ」
「さっきのキノコみたいな、えっと……『悪い』じゃなくて、『ひどい』匂いにもですか?」
 いくらなんでも、あれだけの匂いをポジティブに考えることはわたしにはできない。先生にしたって、ふだんから口を開けば(主に自分自身の)美しさのことばかり喋っているのだし、不快な臭いにはことさら厳しいと思っていたのだが。
「当然です。あなたは聞いたこともないかもしれませんがね、スティンクホーンにとっても、それを利用する魔術師にとっても、あの強烈な臭いこそが肝心なのですから。魔法薬にするにあたっては、他の素材とも混交しますから、人間の鼻には臭みは感じにくくなるのですが、特定の使い魔たちにとってその成分は変わらず魅力的です。花に集まる蝶、あるいは腐肉に集まるハエでも構いませんけれど、とにかく誘引作用があるのですよ。臭いとその成分がなければ、スティンクホーンの価値は半減です」
「……なんか、例えが悪くないですか先生」
「おや、人間以外の例では理解し難かったですか。ではあなたにも分かり易いように説明しますが、例えばあなたは冷蔵庫の中の食べ物が腐っているかどうか、何を基準に判断します?」
 他人に全力で喧嘩を売る言葉選びのまま、先生はわたしに質問を返してきた。
「わたしはそもそも、買ってきた日付とかを目安にきちんと使い切りますから、食べ物を腐らせたことなんてほとんどありませんけど。でも判断するならそれは、まあ見た目と……臭いですよね」
「そうでしょうとも。生肉やら生魚やら、生鮮食料品は見た目に食べられるように思えても、その臭いで悪くなっていると判ることがある。もし牛乳や卵やなんかが、腐っても一切臭いが変わらなかったらどうします。朝食が大変なことになってしまうでしょうねえ」
 つまり腐敗臭がすることで、人間は無用な中毒を回避することができるのです、と先生は言う。いやに得意げだ。自分は冷蔵庫の中身がどうなっているかなんて全く意識せず、処理を全部わたしに丸投げしているくせに。フレンチ・マーケットで美味しそうだったからと買ってきて、数切れ食べたきり放ったらかしになったチーズの調理に、わたしがどれだけ頭を悩ませているかなんて知らないんだろう。
「食べ物だけではありませんよ。あなたはガスの臭いと聞けばどんな臭いかすぐに思い浮かぶことでしょうが、あの臭いはわざわざ人工的に付加されたものです。本来天然のガスは無味無臭ですが、それではガス漏れの際に気付くのが遅れて惨事を招くというので、石炭やニンニクのような臭いを調合して付け足しているのですね。――結局のところ、においはその強弱と使いよう。化学物質を毒と薬に区別することができないのと同じです」
 錬金術師が言うと、ずいぶんもっともらしく聞こえる話だ。いや、薬も量を間違えれば毒になるというのは、科学の授業でも教わったことがあるし、間違いのないことなのだろうけど。毒でないものなど存在しないと言ったのはパラケルススだっけ?
「だから私は、あるにおいを良いだの悪いだのと決めてかかることはしません。その成分を芳しいバニラとスミレの香水にするも、眠り妖精の鼻を潰すための肥溜めの臭いにするも、全ては私の調合次第。それこそが調香師の職能であり、魔術師の役儀であり、私に与えられた天分なのですからね」
 その横顔で先生は誇らしく言い切ると、再び雑誌のページに視線を戻してしまった。見開きには、フランスのデザイナーが新作のオーデコロンを発表した旨が、カットガラスの香水瓶の写真と共に載せられていた。

「……そういえば香水って、良い匂いをつけるためというよりは、いやな臭いをごまかすために広まったんでしたっけ。昔の人はめったにお風呂に入らなかったから」
 香水、という単語によって思い起こされたことを、わたしは声に出しながら先生を見る。
「ええ、元々は儀式用品ないし薬品でしたがね、大きく発達するに至ったのはやはりマスキング効果が見込まれてのことです。香水のうち比較的軽いものを『オー・ド・トワレeau de toilette』と言いますが、あれだって英語に直訳すれば『トイレの水water of toilet』ですし」
 もっともフランスのtoiletteは、化粧室や身だしなみの意味もありますが、と付け加える先生。そうだとしても、言葉の響きだけで一気にお上品に感じられるのだからフランス語効果というのは恐ろしい。わたしたちにとってトイレはトイレ、あるいはその便器でしかないのだ。
「そう考えたときにですね、先生」
「なんです、勿体つけないでさっさと仰い」
「身も蓋もない言い方する時以外は常に勿体つけてる先生に言われたくないです。要するにですよ、先生はわたしが被ったこの臭いの被害の埋め合わせに、ちょっと良い香りのするスプレーとか、そういうものを貸してくださってもいいんじゃないでしょうか」
 期待したって仕方がないのは解っているけれど、それでも何かしら手段はあるだろうと思ってのことなのだ。それなのに先生は他人事のような口ぶりで、
「被害も何も、あなたが不用意に足を踏み入れたから悪いんでしょうが。私は入ってこいなんて一言も云いませんでしたよ」
「言わなかったから良いんじゃなくて、この場合は『入ってくるな』と言っておくべきだったんです! もうちょっとこう、配慮ってもんがないんですか先生は!」
「ふん、そうして何もかも他人に配慮させていたらね、将来魔法使いになったところで何もできなくなりますよ、あなたは。危機回避能力は魔術師が常に培うべき素養の一つです。――まあ、そこまで言うなら師として格別の配慮をして差し上げましょう」
 気疎げに鼻を鳴らしながら、先生はソファの裏に手を回すと、そこに置いてあった何かを掴んでわたしに突き出した。
「はい」
 ただの消臭剤だった。明らかに女性の服に使うものではない、どころか家具についたタバコや汗の臭いを取るタイプの、可愛げなんて一切ないパッケージのものだ。
「扱い酷くないですか先生」
「これ以上の配慮を求められましてもねえ。あなたも知っての通り、私の作る香りは誂え仕立てビスポークですから、香水の類は作り置きをしていないのですよ。あなた向きの香りのするボディスプレーも無いですし」
「そんなにわたしには良い香りがふさわしくないって言うんですか」
「別に、お望みならカウンセリングを経た上で、あなたのための調香をしてやっても構いませんよ。ひと瓶300ユーロをあなたが払えるならの話ですがね」
 先生はもはやわたしの足元を見る気すらないらしい。中学生の貯金箱から出すには堪える定価を提示して、これでもう文句は言えないだろうとばかりに取り澄ましている。
「当座のところ取れる対処法は、その臭いを消すか上書きするかのどちらかでしょう。後者を選ばないのなら、前者にするのが賢明ではありませんか。実際よく効きますよ、これ」
 とことんまでわたしを馬鹿にしている。確かにわたしの財布にそんなお金はないし、調合の技術なんて身に付けてもいないが、ここまでされるいわれは無い。わたしは恨みの念を込めて先生の顔を睨んだが、その形の良い眉はぴくりとも動かなかった。

 その時、台所の壁掛け時計が、閉じた扉越しに午後五時のメロディを聞かせた。それでわたしの頭にある妙案が浮かんだのだ。
「臭いを上書きする方法ですね、方法ならありますよ先生。先生にわざわざお出ましいただかなくたって、わたしの力だけでどうにかできる手段が」
「いきなり何です、そんな悪魔の真名を盗み聞きしたみたいな顔をして。ルンペルシュティルツヒェンでしたか? それともトム・ティット・トット?」
「まあ待っててください」 わたしは立ち上がって先生を見下ろし、決然と言った。 「そのうち解ります」
 そして早足に台所へと飛び込んだ。扉は開けたままにした。

  * * *

 わたしは特別なものなんて何も使っちゃいない。塩と砂糖、それに熟した真っ赤なトマト。食品棚の中のオリーブオイル。鍋でじっくり炒めたトウガラシが、スライスしたニンニクと一緒に、その匂いをすっかりソースと一体化させている。化粧品を作るのに使う香料にも、水に溶けやすいものと油に溶けやすいものがあると聞いたけど、それならトウガラシの香りはきっと油溶性なんだろう。
 トマトソースの仕上げはナツメグとオールスパイス。甘くてどこか懐かしくて、ちょっとぴりりとした刺激もある。一振りするだけで鍋の中がイタリアに近づく感じがする。日本製の電子オーブンが、180℃の予熱を終えていることを知らせてくる。それに続いて、ドアからちらりと顔を覗かせた先生が、
「ケイリー、それ、まだ出来上がらないのですか」
 と聞く。さて、先生はどうしたことだろう、さっきより声に張りがないなあ。
「まだですねえ、先生がちょくちょくわたしの手を止めるもんだから、あと一時間はかかるんじゃないですかねえ」
 そ知らぬ顔でわたしが答えると、文句屋であるはずの魔法使いはそれ以上何も言わず、また居間のほうへ引っ込んでいった。それを横目に、わたしはコンロからソースの鍋を引き上げる。テーブルの上に準備しておいた、ガラスのオーブン皿の中には炒め合わせたホウレンソウとひき肉、そしてマカロニ。ここにトマトソースをたっぷり絡ませ、さらには黒胡椒をがりりと引いて、チーズとパン粉まで掛けてやるのだ。いま台所中は、いや、この台所と繋がっている部屋すべてが、旨味と甘みと香ばしさの溶け合った匂いに満たされている。このすばらしい一皿を中心にして。
 わたしの鼻は今日、手酷い刺激に遭って傷ついたけれど、決して働きを失ってはいない。そしてわたし自身も、先生のいつもの攻撃に晒されはしたが、こうして立派に役目を果たしている。「水中呼吸」や「鈍化」が唱えられなくても、ひと瓶300ユーロの香水を調合できなくても、それがどうした。わたしが放つとびきりの匂いの魔法を、先生に食らわせてやることはできる。
 壁掛け時計は五時を半分周り、次の「アメイジング・グレイス」を歌う準備を始めている。わたしは居間のほうをさっと見やってから、ほくそ笑んでオーブンに皿を収めると、「40」の分数をタッチパネルで入力した。

go page top

inserted by FC2 system