「はい、いらっしゃいま――」 声は半端に途切れた。 「あっ、すごい、生きてる!」

幽幻を編む -Get the Wind of Ghost-

 わたしは目をぱちくりさせながら、開いたドアの向こうを見つめた。奥に重たそうな木の作業机らしきものがあり、その傍では浅黒い肌の女の人が、驚いたような感激したような顔でこちらを向いている。ただ店に踏み込んだだけで大歓迎される、というのはラナンキュラス通りでも珍しくないことだけれど、ただ生きているだけで感激された経験はない。そういうのはもっと、例えば先生が大好きなゾンビ映画とかに譲りたいところだ。
「ええっと、え、生きてますけど、その」
「あ、すみませんすみません、つい大声出しちゃって! いやあ、なにしろ定命のお客様は久しぶりなもんですから」
「はあ」
 よりにもよって「定命のお客様」と来た。この店には始終ゴーレムや吸血鬼や悪魔なんかが訪れているのだろうか。そもそもわたしはこの店が具体的に何の店なのか、未だによく解っていないのだが。――戸口から伺える範囲では雑貨店、もしくは骨董屋じゃないかと思えた。古びた陳列台の上に、ガラスケースやアクセサリー掛け、額縁や小さな棚などがたくさん置かれている。そうした調度品の間を縫って、焦げ茶の髪を短く刈った女の人は、わたしに歩み寄ってはにこやかに言った。
「ご遠慮なく中へ! 大丈夫です、我々生きた人間にも問題なく使用可能な作品ばかりですから。試着もできますよ。ご自宅用ですか? それとも贈り物?」
「いや、それがですね、あの……わたし、知り合いから紹介されて来たもので」
「ああなるほど、幽霊のお友達がいらっしゃったんですね!」
「違います」
 わたしはとっさに否定した。確かにこの店を紹介してくれた「知り合い」の、そのまた知り合いというか同居人は幽霊なのだけれど、わたし自身に幽霊の知り合いがいるとは言い難い。気のいい筆記用具店のペン職人と、彼が溺愛してやまない幽霊(だということになっているが存在自体が不確かなもの)を思い浮かべながら、首を横に振る。
「では、ご家族が幽霊で? ――あ、それとも、これから幽霊になるご予定の方ですか?」
「違います!」
 否定した結果さらに斜め上の質問が飛んできたので、わたしは首をより強く振った。そんな、あと数ヶ月で結婚する予定の人が指輪やドレスを選びにきたみたいなノリで言わないでほしい。もちろん人間いつかは死ぬ――魔法使いであれただの人であれ――とはいえ、その後で化けて出るかどうかは別の問題だ。

 ラナンキュラス通りが世界的にも有名な(または悪名高い)「魔女通り」、つまり一般人の予想や常識がおよそ通用しない場所であるというのは解っている。それでもこの店はどうやら、わたしが想像していたのとはいくらか違うようだった。ドアマットの上で立ち尽くしたままのわたしを、恐らく店主なのだろう女の人は、どうぞどうぞと中に引き入れる。青地に南国の植物をデザインした、ホルターネックのワンピースが、なんだか雑貨店というよりはビーチハウスの人に見える。
「それで、本日は何をお探しでしょう? この夏の売れ筋は、ハーバリウムをモチーフにしたもので――」
「あの、わ、わたしはアクセサリーというか、ただ『暑さを和らげてくれるもの』を捜してたらここを紹介されたってだけなんですけど、……ここはジュエリーのお店なんですか?」
 一歩店内に踏み込むと、とたんに背筋を撫でる空気の質感が変わる。汗に濡れたシャツが一気に重たくなり、わたしの背中に張り付いた。
「暑さを和らげる……それはそれは。そういうことでしたら、当店は正におあつらえ向きの品をご用意しています。そのお知り合いに、素晴らしいアドバイスだったとお伝えください!」
 青みがかった灰色の目を輝かせ、女の人は嬉しそうに両手を合わせる。それから姿勢を正して胸を張った。
「では改めて――セントエラスムスいち『幽霊フレンドリー』なブティック、『マーロウの風見鶏』へようこそ!」

  * * *

 わたしのおっかなびっくりした一足ごとに、灰色をした床のタイルは軋みを上げる。もう今にも四角形のはじが嫌な音を立てて割れ、欠片がその辺りに散らばりそうな雰囲気だ。初めての場所というのはどこであっても基本的に緊張するけれど、ここは空間の持つ緊張感がひときわ大きい気がする――「幽霊フレンドリー」ということは、つまり生きた人間にとってはあんまりフレンドリーでない可能性も高いわけで、彼女のいう「定命のお客様」があんまり寄り付かないのも解る。
 ただ、空間の持つ冷ややかな感触とは別に、陳列台に並んでいるのは特別おどろおどろしい品でもなかった。わたしにとっても十分魅力的な、色もデザインも様々なアクセサリーだ。深い藍色のガラス玉を、星型のパーツと銀の鎖で繋いだペンダントが、木製の枠に掛かっている。その隣には、掘り出したままのいびつさを活かしたのか、左右で飾りの石が不揃いなピアス。小さなガラス瓶の中に、ビーズや花のつぼみを閉じ込めてあるブローチ。さっきの話にあったハーバリウムはこれのことだろう。
「さて、暑さ対策ということで――アプローチはいくつかありますが、やはり当店としてお勧めするのはこちらですね!」
 そんな商品の傍を通り過ぎ、彼女がわたしを案内したのは店の奥、壁一面を覆う大きな棚の前だった。そこには薬局でよく見る広口のガラス瓶や、人形なんかを展示するのに使う筒状のケース、乾燥した植物なんかを入れておく標本瓶などがずらりと並び、ブティックというより博物館や大学の研究室みたいだ。そして――
 わたしは思わず目を瞬いた。みんな中身が空だ。一つ残らず。
「あの……」 恐る恐る口を開いてみる。 「何ですか、これ」
 じりじり焼けるようなセントエラスムスの夏というより、もっと北のほうの緑輝く爽やかな初夏、みたいな笑顔をした女の人は、わたしの質問にきっぱりと答えた。 「風です!」

 ガラス瓶の一つに映ったわたしの顔は、わたし自身が意識した以上に怪訝そうだった。新規顧客が明らかに詐欺か何かを警戒していることには、店側も当然気が付いたようで、
「いえ、解りますよ、怪しむ気持ちはよく解ります。定命のお客様にとっては視覚情報が特に重要ですからね」
 と早速のフォローが入る。
「もっとも、この疑問は簡単に解決できます。試してみればいいだけですから。そうですね、今回のケースなら――サンクトペテルブルク、フォンタンカ河岸通り、9月14日午前6時27分」
 彼女はそう説明しつつ、わたしの目線より高いところから、一本の瓶を抜き取って見せた。表面に貼られた白いラベルには、言葉どおりの内容が書いてある。風ということは、その時その場所にちょうど吹いていた風なんだろうか。まだ疑念の抜けないわたしの目の前で、彼女はきっちり締まった蓋に手を掛け、力を入れて回した。

 そうしたら、目の前に街があった。――というのはもちろんイメージの話だ。けれども、わたしには確かに感じられたのだ。開いた瓶の口から涼やかな微風が立ち上がり、行ったこともない異国の都市が、視界に一瞬だけ映った気がした。――まだ完全には明けきらない秋の空。静まり返った街の水路が、周りの古びた家々を映している。ひんやりとした微風が運河沿いの街路樹を揺らし、人気のない通りにざわめきを立てる。その合間、遠くどこからか聞こえてくるのは、今日最初の客を待つ舟の軋み。
 わたしが目を見張るのと、女の人が再び瓶に蓋をするのとは、ほとんど同時だったように思う。
「いかかです? 夏にはぴったりだと思いませんか?」
 言葉もなく何度も頷いてから、わたしはやっとのことで声を出した。 「あの」
「はい」
「これ、すごいです。えっと、サンクトペテルブルク……って、どこでしたっけ、ロシアでしたっけ」
「ロシアですね! 秋のペテルブルクは本当に素敵なところなんですよ。紅葉が見事ですし、9月ならそこまで寒くもないですし、大きな劇場もオンシーズンで……運河巡りもそこまで混みませんしね」
「本当に風を、その、現地へ行って取ってきてるんですか?」
 失礼だとは思いつつも、瓶を凝視しながらわたしは訊いた。たぶん彼女は風の魔法が得意な魔女なのだろう。わたしにはあまり想像のつかない分野だ。風といえばマスター・スターンテイラーが専門としているけれど、彼の魔術は主に風を操り、風に乗ることが主で、捕まえる方向ではない。
「ええ、紛れもなく世界中――まあ、どうしてもヨーロッパが中心にはなるんですが、それでも南米からオセアニア、アジアや北極圏まで、あらゆる場所の風を取り揃えています!」
 自信に満ち溢れた笑顔が答えた。 「当店は幽霊フレンドリーですので!」

 それからしばらくは、わたしの目的である「暑さを和らげる」を叶えてくれそうな(彼女曰く「風向きの合った」)品の説明が続いた。コルク栓つきの角ばった瓶に入っているのは、ドーバー海峡から吹いてくる冷たい東風。ぽってりとした背の低い瓶には、ニュージーランドの首都ウェリントンに吹く強い潮風。ところどころ刻みの入った細い瓶は、フィンランドの白樺を揺らす初夏のそよ風――「フィンランド」という名前が出たときに、わたしはマスター・スターンテイラーのお弟子さんである、現地出身の魔女ルミッキさんを思い出した。そういえば、結局彼女とセントエラスムスを繋いだのは一体何だったんだろう。詳しく聞いたことはないし、こちらから訊くつもりも別にないけれど。
「――在庫からの一押しは以上の通りです。何か他にご希望やご質問などあれば……」
「あ、えっと、一つ聞きたいことならあります。結局この風って、必要なときに瓶を開けて雰囲気を楽しむ、みたいなものなんでしょうか」
 今更こんなことを訊くのもどうかと思って、だいぶ小声になりながら尋ねるわたしにも、彼女は終始笑顔だった。
「そこなんですが――もちろん、一番直接的な使い方はそうなりますね。一服の清涼剤、ちょっとした気分転換。誰にでも楽しめる方法です。が、当店はブティックですので、身につける品としてアレンジする、という提案をさせて頂いてます」
「身につける、ですか? 風を……」
 わたしは想像力に頼った。理屈はわかるし実際やろうと思えばできるはずだ。「水中呼吸」の呪文は自分の周りに新鮮な空気を循環させるわけだし、「飛行」では術者の保護や空気抵抗の軽減のために風を「身につける」ことになっている。
「その、ちょっと……ぴんと来ないんですけど、具体的にはどういう……」
「お任せください。先程もご説明しましたが、試着もできますので。そうですね、では――」
 利き腕はどちらですか、と女の人は訊いた。わたしが右だと答えると、左手を前に出すよう言われる。中途半端に日焼けした(日焼け止めを塗ったり塗らなかったりしているせいだ)わたしの手首に、彼女はどこから取り出したのか、一本の細く短い杖を当てた。そして、まるで遠い国の民謡みたいな、馴染みのない音階に乗せて、歌うように呪文を唱え始めた。

  さあさ吹かせよ、北の国から、
  さあさ吹かせよ、南の地まで!
  渡れよ、風よ――西のおかこえ、
  届けよ、風よ――東の海へ!


 さっきロシアのものだと言われた瓶の蓋が独りでに回り、こっぽりと外れて床に転がった。そこから再びあの風が吹いてくるのが、わたしにもはっきりと判った――それだけじゃない。風は緩やかに空気をかき回し、わたしの傍をくるりと一周すると、差し出したままの左手をそっと撫でたのだ。
 手首の裏から立ち上ってきた風は、わたしの目にも見えるようになっていた。夜明けの空に残った星のような、銀色の小さな輝きをいくつも引き連れていたからだ。それに、小さな薄紫色の花びら――少し褪せかけてはいるものの、まだ甘く青っぽい匂いを漂わせている。あちらの秋の初めに咲く花なんだろうか。

  お前が過ぎゆくところに 陽の恵みは降り、
  お前が留まるところに 星の光が実る!
  さあさ吹かせよ、北の国から、
  さあさ吹かせよ、南の地まで!


 杖が引っ込み、呪文が途切れても、手首を取り巻く風はそのままだった。わたしの肌に触れるか触れないかのところで、見えない糸に繋がれたように、花びらたちが連なって踊っている。恐る恐る手を翻してみても、どこかへ飛んでいく様子はない。裏、表、と確かめるように動かすたび、銀色の光がちらちらと煌めき、その合間に色づいた木々の赤が映り込む。
 この店が「幽霊フレンドリー」を謳う理由が、今になってやっと解った。幽霊は実体のある、たとえば金や銀や布なんかでできたアクセサリーを身に着けることはできない(生前に着けていたものごと化けて出る場合は別として)。でも、こうして風を纏わせる方法なら、新しいおしゃれを楽しむこともできるのか。実際セントエラスムスにどれだけの需要があるのかは知らないけれど――郵便局や交番より教会のほうが多いような街というのは、死者としてはあんまり出歩きたくない土地の気がする。

「いかがでしょう?」
 女の人の声がして、やっと我に返る。ぽかんと口を開けたままだったことに気がついて、わたしはしどろもどろに次の言葉を探した。
「あの、これ。……とてもすごい、素敵だと思うんですけど、その……魔法がうまく使えない人でも、ちゃんと着けられますよね?」
「それはもちろん! 蓋を開けて手を入れれば、自動的に着脱するようにできますよ。瓶にそういう付呪をするんです。いくらセントエラスムスでも、魔法使いじゃない人のほうが多いんですからね」
 冷たい床に転がっていた蓋を拾い上げながら、彼女はわたしを安心させるように言った。となると、残りの心配はただ一つ。ある意味では一番重要な心配だ。わたしは自分の手から目を離し、視線を改めて棚の一点に向ける。瓶が取り出された空間の下に、ペン字で書かれた小さな札が立ててある。
「どうも、それで安心しました。……ええと」
 30.75ユーロ。わたしの二ヶ月分のお小遣い。買えない値段じゃない――けれど、即座に買っていいというわけじゃない。見習い魔法使いとしての将来を考えて、今から貯金だってしておかなきゃならないのだ。いつ先生が何か心変わりを起こして、わたしを補償ひとつなしに放り出すかも解らない。新しい師匠につくにも魔法学校に通うにも、どちらにしたってお金はかかる。入門生イニシエイトの身分じゃ協会から仕事を貰うこともできない。
「買います」
 ……どういうわけか、いや、この悲しいほど物欲に弱い心を顧みれば当然のことながら、わたしは数分とおかず結論を出してしまっていた。こんな有様だから、わたしは未だに自前の杖すら用意できていないのだ。先生はお金の使いみちについて変なところで厳しいので、弟子に数年にわたって食事をおごることはあっても、新品の杖を一本買ってやる気はさらさらないらしい。
「はい、ありがとうございます! あっ、ご自宅用でよろしかったですよね? 割れ物用の包装はできますが、それ以外は紙袋のみで……」
「え、あ、それでいいです、自分で使うので……」
 値札どおりの金額を支払いながら、ラッピングの有無なんか聞かれただけでわたしは混乱する。対して、女の人はてきぱきと瓶を棚に戻し、部屋の最奥に掛けられた、黒いカーテンの向こうへ消えていった(そこに商品が置いてあるんだろう)。数分して戻ってきた彼女の手には、さっきの瓶と同じラベルの貼られた紙箱。
「瓶を開けてだいたい一年は問題なくお使い頂けますが、それ以降はやや風向きが変わる可能性があります。メンテナンスは無料で承りますので、どうぞ今後も当店にお立ち寄りくださいね!」

 箱はそのまま紙袋へと収められ、わたしに手渡される。ありふれた褐色のクラフト紙に、黒い風見鶏と「Marlowe's Weathervane」の文字。戸口に描かれていたのと同じロゴだ。
「そうします、いや、あんまり頻繁には……来られないかもしれないですけど。ただ……」
「ご安心ください」 女の人はにこにこしながら言い切った。
「このロザリー・マーロウがラナンキュラス通りにいる限り、永久保証となりますので!」
 ああ、きっと本当に永久なんだろうな、と思った――地球の表面を吹き渡る風が、どんな理由でかぱったり足を止めてしまうその日までは、彼女はこの眩しい笑顔でサービスを続けるだろう。なにしろこの店は「幽霊フレンドリー」なのだ。

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