「お変わりありませんか」という挨拶を、その魔術師は殊に気に入っていた。

おかわりなく -Some Things Never Change-

 もちろん、俺様は変わらずいるのが仕事だからな! ――と決まり文句で返すとき、得も言われぬ誇らしい気持ちになれるからだった。実際、少なくともここ百年は、彼は「お変わりなく」生きてきた。不変であるというのは尊いことだと、心の底から信じていたのである。
 変わらないといっても、成長していないこととは違うのだと、彼は常に自分自身に言い聞かせていた。成長はしなければならない。成長しないということは、その場に立ち止まっているということだ。それではいけない。足は前進していなければならないのだ。変わらずに、歩み続ける。これは一人の魔術師にとって最も基礎的な、そして最も困難な課題であった。この課題を実行し続けられたからこそ、彼は間違いなく偉大な魔術師となったのだ。

「これはお久しぶりです、マスター・スターンテイラー。お変わりなくお過ごしですか」
 一月も終わりに近付いたある日、魔術師協会のセントエラスムス支部へ顔を出したところ、彼はそんなふうに声を掛けられた。ぱりっとした黒い三つ揃いに身を包んだ、見た目に四十のなかばと思われる男性が、丁寧なお辞儀と共に言ったのだ。
「ああ、マッテオ、久々だな! 一昨年の夏ぶりになるか。俺様はもちろんお変わりないぞ、なにしろ変わらないことが仕事だからな!」
 魔術師にとってこの男性は孫弟子にあたる。すなわち弟子の弟子である。初めて会ったのはもう三十年は前になるか、巣立って久しく顔を見なかった弟子が戻ってきたと思えば、まだ少年だった男性を連れていたのだ。とうとう自分も教え子を持ちましたというのである。その時には大層祝ってやったし、その後も定期的に手紙をやったりしていた。やがて孫弟子が一人前の魔法使いになり、セントエラスムス支部に所属した後は、時折顔を合わせては時候の挨拶をしている間柄だ。
「お前のほうこそどうなんだ、マッテオ。子供の頃から見れば変わったもんだよな――新年の挨拶ぐらい、ローブを着てきたらどうなんだ」
「はは、これは失礼。まさか御大にお会いするとは思っていませんでしたので」
「魔術師たるもの、何時いかなる時でも気を引き締めておくものだぞ。まあ、お前は日頃の心がけが良いからな、今日だけは大目に見てやろう」
 御大は朗らかに笑い、重そうな黒いローブの袖を持ち上げると、手を振って別れの挨拶とした。

 この魔術師がいかにお変わりのない人物か、それは彼の周囲に尋ねてみればすぐ判る。とりわけ、数十年来の腐れ縁である二人の魔法使いは、めいめい全く遠慮のない言葉で、頼まれてもいないことまでも説明してくれるだろう。
「ステフ、ぜんたい君は古いんですよ。何度言えば解るんです、セントエラスムスがどんなに田舎だからって、今日びの役所は伝書鳩なんか飼い慣らしていないということが。君一人のために市の総務課がそんな手間を割くわけがないと、もういい加減に諦めたらどうなんですか」
「何を言うか! 電子メールというものががどれほど当てにならないか、解っていないのはお前のほうだろうが。やれSkypeだのSMSだのお前はやかましいがな、真の通信というものは生命と生命のやり取りでなけりゃならんのだ。俺はあんな機械仕分けの速達便なぞ受け取らんぞ、絶対にだ」
「おやまあ、なんて偏屈なことでしょう、この骨董魔術師は。君が昔を懐かしむあまり西暦の数え方を忘れてしまっているのは周知の事実ですが、ここまで酷いとは思いやしませんでしたよ」
「なにい!」
 例えば二人のうち一人、美しい赤毛を持つ若い魔法使いは、しばしばこの手の文句をつけては彼を憤慨させた。手元で機種変したばかりのスマートフォンを弄りながら、まるきり馬鹿にしたような調子で述べられる台詞は、隅から隅まで棘に覆われ、彼の自尊心を大いに傷つけたのである。
「私も同意見だな、ステイラー。現代の電子機器を使いこなせとはとても言わないが、せめて普通郵便ぐらいは受け取るべきだ。どうしてそこまでタイプ文字を憎むのだね。日々大量の手紙を出さねばならぬ市民課が、君にだけ一通一通の手書きを強いられるなど理不尽だろう。そのうち何らかの理由で市から警告を受けても私は庇えないぞ」
「やかましい! 役人連中が何と言おうが、俺は俺のやり方を変えるつもりはない。魔術師というのは昔からこういうものであって、後から余計な規則だのつまらん法制度だのを付け足したのは連中のほうだろうが! ――あと、俺の名前を略して呼ぶな! ステファンかスターンテイラーかのどちらかにしろ!」
 もう一人は品の良い身なりをした老紳士で、言葉の程度に大差はあれど、同じく彼を諌める側だった。このスーツの似合う老紳士は完全な現代人ではない。少なくともスマートフォンは持っていないし、深夜の推理ドラマを録画予約するのも些か厳しいものがある。とはいえ、役所手続きの電子化には問題なくついて行くことができているし、患者と簡単なメールのやり取りぐらいは行えるだけの常識があった。世間的に見れば大したことでも何でもない。しかし、その上品なイギリス英語で述べられる「常識的な」論は、南ドイツの訛りで巡る彼の思考に極めて有害だった。

 こんな有様であるから、普通の知り合い程度の魔法使い、あるいは彼の弟子や孫弟子たちは、彼を21世紀に適応させることについては諦めていた。この偉大な先人は、適応しないからこそ偉大なのだ。己の記憶と古い書物を紐解き、もう伝えるものの殆ど居ないまじないを、数百年の昔まで遡って、自在に蘇らせることが彼にはできる。ルーンの刻み手、黒鷲と灰鷹の主人、エニシダの箒を翼とする者、マスター・ステファン・スターンテイラーは、機嫌さえ損ねなければ良き師であり善き同胞であったのだ。
「やあ、マスター・スターンテイラー、ご機嫌よう。お変わりなさそうで何よりです」
 彼がラナンキュラス通りの屋敷から出るとき、顔を合わせる他の魔法使いたちは、皆そのような言葉でもって友好の意を示す。そうして決まり文句が返ってくることにより、セントエラスムスに住まう人々は、今日もまた平和に魔術の道を歩めることに感謝するのである。

 さて、ここ百年何のお変わりもなく過ごしてきた魔術師だが、本当に合切の変わりがなかったといえば嘘になる。例えば家に電話線を引いた。どうしても必要になったからだ。家主であるマスター・ウィザード本人は最後まで固辞したものの、ついに折れざるを得なかった。
 電話を引かなければならないと言ったのは、彼の最も新しい弟子である。これは二十歳そこらの、フィンランドからやって来た若い娘だった。彼のもとに女性の弟子が来るのは初めてのことであった。ついでにフィンランド人が来るのも初めてだったが、国籍そのものは重要でない。
「電話だって? そんなもの何のために使うんだ。俺は今まで電話がなくて困ったことなど一切無いぞ」
「でも、マスター、私は困るものですから。だって私、まだイタリア語もドイツ語も書けないでしょう? マスターにお手紙差し上げるのが恥ずかしいんです。だから出来ることなら、遠くからの連絡は声でお伝えしたいと思うのですけど」
 亜麻色の髪と緑の眼を持つ娘は、そう言ってはにかんだものだった。師はその場では否と答えたが、三日三晩悩み倒した結果、とうとう首を縦に振った。ただし、今でも彼が直接電話口に立つことはなく、掛かってくる電話は全て弟子か使い魔が取ることに決まっている。

「マスター、そろそろ暖炉の火を消しておきますね。明日は暖かいそうですから、これだけ温めておけば朝まで持つでしょう」
 夕食を終えた後で、その娘がすたすたと居間を横切りながら言った。説明するまでもなく、この家には電気やガスで動く暖房器具がない。真冬に暖を取るためには、暖炉に薪をくべるほかないのである。もっとも、この地中海に浮かぶ島国は、年中とても温暖な気候で知られており、よほど冷え込む晩でもない限り、薪の役目が来ることはないのだが。
「ああ、頼んだぞルミッキ。むしろ焚かなくたって良かったぐらいだな。この程度、夜眠れなくなるほどの寒さじゃない」
「そうかもしれませんね。最初にここへ来たときは驚いたものですわ、一年を通して気温が零下になることがないというから」
 娘は戸口のところで立ち止まり、室内にいる師に向かって笑いかけながら言った。
「でも、やっぱり火を熾したのは間違いではなかったと思います、マスター。だってマスターが風邪を引いたら大変ですもの」
 丈の長い紺色のワンピースがふわりと揺れ、白いレースの模様を僅かに覗かせた。師は咳払いをし、食後の紅茶を音を立てないように一口飲んだ。現代人には珍しいほど気立てが良く、素直で心配りのできる弟子を持ったことに、ささやかな感謝を表したのだ。

  * * *

 魔法名をルミッキ・ヴェルホというこの弟子は、師である魔術師によく仕えた。元より素質があったばかりでなく、勤勉で向上心にも富んでいたから、たちまちのうちに上達した。類い希なる存在だと師は嘆賞していた――無論、過去に取ってきた弟子の中には、彼女より才ある者もいたし、彼女より気の利く者や修行熱心な者もいた。それでも、歴代の弟子たちを回想してみるとき、やはり彼女という魔法使いは際立って見えるのだった。ルミッキこそは自分の一番弟子であると言ってやってもいいぐらいだ。公平を期すという観点から、はっきり口に出したことは一度もないが。
 こんな話がある。マスター・スターンテイラーの新しい弟子が非常に優秀であるというので、ある魔術師の知人が訪ねてやって来た。師による一通りの自慢話を聞いて曰く、若いうちに様々な魔術の分野に触れておくと、修行を進めるにあたって道が拓けやすくなる。今度ギリシアにある魔術工房へ、志望者を募って短期の留学めいたことをやるのだが、お弟子さんも参加してはどうか、と。師はこれを良い申し出だと思ったが、弟子の返事は違った。
「見聞を広めるのは素晴らしいことですけど、私はそもそも基礎さえできていませんし、今あれこれと手を出してはいつまでも足場が固まりませんわ。……それに私は、マスター・スターンテイラーの魔法を学びたくてここにいるんです」
 この答えが師を感激させたことは書くまでもない。冷静に考えれば、この弟子は自分の感情ゆえに素晴らしい機会を逃したということになる。けれども師は少々この愛弟子を美化しすぎているきらいがあったのだ。翌日から彼の親馬鹿ならぬ師匠馬鹿には、また一つ新たなエピソードが追加されることとなった。

 しかしながら彼は、どれほど愛する弟子であっても、決して見過ごせない難点が二つばかりあると認識していた。却って魅力となり得るような些細な綻びではなく、もっと重大なものだ。
 一つは食の嗜好である。とはいえ彼女は別に、札付きの味覚音痴というわけではない。この国の伝統料理は早々と習得してしまったし、ということはイタリア料理もスペイン料理も一通りできるということになる。故郷である南ドイツの郷土料理の本を渡したら、骨付き豚肉のローストシュヴァイネハクセだとか、じゃがいものパンケーキカルトッフェルプッファーだとかの定番は全て作れるようになった。味もそれぞれ非常な美味で、だから彼女に西洋料理の常識が備わっていないわけではない。
 では何が問題なのかといえば、それは一つだけ彼女の中で格別扱いされている、フィンランドの郷土菓子にあった。名をサルミアッキといい、国内では広く愛されるキャンディである。しかし国外では、一部の人々に違った理由で知れ渡っている。「世界一まずい飴」という不名誉な称号が、このリコリス飴の一種には常に付き纏っているのだ。
 彼も弟子の勧めで食べてみたことがあるが、まあ実に名状しがたい、心胆を寒からしめる味だったことは覚えている。あまり思い出したくない味だ。彼はその時、痙攣を治すための魔法薬にこんな風味のものがあった気がする、とだけ思ったものだった。それをリコリス飴だと認めることは脳が拒否した。この「何か」を愛弟子は心から好んでいるらしく、わざわざフィンランドから取り寄せてまで食べている。心得たもので、師の前に出てくるときには決して食べないか、食べても口臭ケアを万全にしてから対面するので、彼も不快だとは言えないのである。

 もう一つの欠点は――これはつい最近になって発覚したことなのだが――彼女には恋人がいる、ということだ。
「別に良いじゃあないですか、自分の弟子が誰と恋愛しようが。何度も言うようですがね、今は21世紀ですよステフ。極論すれば他人でしかない君が、彼女の人付き合いに口を挟む権利なんてありはしません」
 愛弟子に男がいると知った瞬間の取り乱しようを、彼の友人の一人はよく覚えている。発狂した、という言葉が相応しい崩壊ぶりだった。現代の常識に照らし合わせ、このように言って諭してはみたのだが、一切聞き入れては貰えなかった。よよと泣き崩れる大の男は見るに堪えず、肝心の弟子は「あれはただの友人であって恋人ではない」と困ったように説明するばかりで、いつまで経っても収拾のつかないありさま。最終的には精神に対して効果的な処置を適切に施したため、なんとか事なきを得た次第だ。これを有り体に言えば、「後ろ頭をぶん殴られて正気に戻った」となる。
「良いか、俺はお前の魔女としての成長のために、悪魔の代弁者として言ってやっているんだ。魔術師としてこれからという時に、そんな、恋愛なんてな! それもハッカーとな、お前!」
「マスター、ですから、キイスは恋愛の対象なんかじゃなくて……」
「とにかく絶対にいかんぞ、俺はそのなにがしをお前の傍に置いてやるなんてことは、まかり間違っても認めたりはしないからな。ワルプルギスの夜がサウィン祭りの晩と入れ替わっても駄目だ。決して、断固としてだ!」
 正気に戻っても魔術師はこの調子であったから、弟子としてはひたすら曖昧に微笑んで頷くしか他になかった。幸いにもと言うべきか、弟子自身にとっては、本当にそのハッカーの男性は友人に過ぎなかった。故に、将来この仲をどう発展させるかといったことは、はなから思い悩まずに済んでいた。思い悩んでいるのは師のみである。

 君は嫉妬しているのです、と件の友人は言った。ご自慢の赤毛を撫で付けながら、いかにも知ったふうな口を利いたのだ。盲目的に愛する弟子が、自分にない能力を持った男をパートナーに選んだ、そのことが妬ましくて仕方がないのだと。
 違うのだ、彼は主張する。自分は魔術師として確固たる能力を持ち、それを十二分に評価されているのであって、他者の能力を羨むような身ではない。第一、魔術師が現代科学の申し子を妬むこと自体に何の意味もない。分野が全く異なっている。自分はただ、これから一人前になろうとする若い魔女が、情念に突き動かされた挙句、その才能を持ち崩してしまうことのないよう、師として案じてやっているだけなのだ。
 神憑り的な才能を持つシェイクスピア女優が、本物の恋を知った途端に凡庸な演技しかできなくなった、そんな物語があったろう。あれは決してフィクションではない。まったく不公平な話で、例えばお菓子の魔女はその生涯をかけてお菓子を愛し、空飛ぶ魔術師は空を飛ぶことより素晴らしいことはないと信じているのに、恋の魔法を能くする魔女は、決して自らが恋に焦がれてはいけないのだ。魔法使いであるためには。 燃えるような恋という呪いに掛かり、己の魔法を失ってしまった魔術師のなんと多いことか! あの娘にだけはそうなってほしくない。

 君は問題をすり替えているのだ、と別の友人が述べた。この老紳士はかつて妻帯していた。妻は魔女ではなく、とうに故人となっているが、その結婚生活は概して幸福に満ちたものだったという。恋愛をしてなお成功し続けた魔法使いなのである。そんな人物が、彼の滾々と説く内容を聞いて、溜息と共にこう告げる。
 ――確かに、物事を成し遂げるためには色恋が大敵と成り得る。とりわけ手の届かない相手に恋した場合は、たいてい悪しき結果がついて回る。天上人に焦がれるあまり、足を踏み外して何もかも潰えてしまうのは好ましからざることだろう。だが、君は彼女についてその心配をしているわけではなく、実は自分自身の心配をしているのだ。自らは愛弟子に、ただの師弟愛でない恋心を抱いているが、それが受け入れられるかどうかが解らない。もし失恋でもすれば、後に残るのは魔法を失った哀れな男が一人きり。それが恐ろしいので、自分は恋などしていないと言い聞かせているのだ。そして代わりに、彼女が恋の問題を抱えているよう思い込もうとしているのだよ。

「馬鹿な!」
 思い起こすだけでも紅茶のまずくなる対話だった。彼は空になったティーカップを居間のテーブルに置き、三階にある私室に戻ると、短く吐き捨てるように言った。俗人たちの憶測のなんと耳障りなことだろう。嫉妬だのすり替えだの、心得違いにも程がある。自分は魔術師として高潔な人間だ。そして魔術師の本分は恋愛ではない。誰かに恋われることは飽くほどあっても、自ら恋することはないのだ。
 そう、かつて魔術師というものは、その身を全て魔術の道に捧げ、可能な限り生命を長く保ちながら、真理の追求に励むものであった。だから魔術師は長生きで、伴侶は持たず、いつか巣立ってゆく後進の弟子を育てて、自らの言わば遺伝子を残したのである。縁組するとしても、それは恋人をというよりは魔術の同志を選ぶのであり、感情ではなく理性によって関係を結ぶのが通例であった。
 ところが時代は移り変わり、魔術師たちの思想もまた変わっていった。現代の魔法使いは生計を立てるために副業を持つ者も多いし、恋愛結婚をして子を産み育てる魔女も多い。寿命についても、探求に終わりはないのだから生きられるものなら永遠に生きたい、などと思うものは殆どないようで、一般的な人間の寿命ぶん生きてやめるケースが多数のようだ。
 では、彼女は? あの可憐で賢明な弟子は、自分の将来をどう選ぶだろうか。師ともども魔術の進歩に我が身を費やし、百年二百年の道を歩み続けることを欲するのか? それとも人並みの幸福な人生だけを望むだろうか。いや――望んで人並みのままいるならまだしもだ。もし長い時を渡り続ける意志があっても、魔力と生命力がそれを許さなければどうなろう。矢のごとく過ぎる時を急いて暮らし、老い、とうとうその命数が尽きるときが来た、その瞬間に悔やむことがあればどうするだろう。まだ乙女であったその頃に、恋というものを知っておけばよかった、と。そして、あるいは自分もいつか、同様の思いを抱く日が来るのかもしれない……

 長い年月を生きた魔術師は、そこで大きく息をつき、首を振った。考えるだけ無駄なのだろう。畢竟、魔術師というものは色恋には勝てないものなのだ。否、魔術師でなくとも大多数の人間はそうである。
 色恋ばかりを邪悪だと言いたいわけではない。金も権力も、信仰も魔法も、その人の多くを縛るものだ。ところが恋だけは人間の全てを縛り付けてしまう。自分が恋を恋だと認める日が来るとしたら、それはただ一人のために魔法を諦める日で間違いない――
 彼の思考はふと中断された。扉をノックする音が聞こえたからだ。開けてみるとその弟子が、片手に木の盆を載せて立っている。盆の上にはチューリップ型の大振りなグラス。中には琥珀色の液体が、ランプの灯りを受けてとろりと輝いていた。
「お持ちしましたよ、マスター。アスバッハで宜しいんですね」
「俺はそれが一番好きなんだよ。産地のリューデスハイムにも行ったことがあるんだからな……醸造所めぐりをやったんだ。良い樽が沢山並んでる中を歩くのは、実に気分が良いものだった! まあ、それはともかくとしてだ」
 魔術師はグラスを受け取ると、立ち上る香気に目を細めた。最高級品というわけではないし、特別珍しいわけでもない銘柄だが、良いボトルには違いない。彼は食品室の棚に納まった、丸みのあるブランデーの瓶を思い浮かべてほくそ笑む。
「どうだ、ルミッキ、お前も呑むか? 一杯ぐらいなら御馳走してやるぞ」
 彼は上機嫌に言ったが、弟子は控えめな笑顔と共に首を横に振った。
「私、明日は早起きしなくちゃいけませんから、遠慮しておきます。次の機会にご一緒させてください。むしろ逆に、私のほうからもう一杯、御馳走するものがあるくらいなのですけど」
「ほう? そう言うからには、何か変わったものでも用意ができてるんだろうな」
「ええ、セントエラスムスではまずお目にかかれないようなものが。召し上がります?」
 一も二もなく魔術師は首肯した。 「当然だ。すぐ持ってきてくれ」

 弟子は盆を持って部屋から下がり、すぐまた別のグラスと共に戻ってきた。師は目を輝かせてそれを見たが、赤茶色の瞳に宿った光はすぐさま失せた。
 それは何の変哲もないショットグラスだったが、満たされていたのはブランデーでもウイスキーでもなかった。黒々とした、向こうが見通せないほどに黒々とした、何だかよく解らない液体だった。彼は一瞬イエーガーマイスターやアメール・ピコンのような、薬草のリキュールなのかと思った。それなら自分も好物である。だが、目の前にあるそれは彼の愛する薬草酒のどれとも違っていた。不吉な黒さだ。加えて、漂ってくる匂いは悪い意味で刺激的だった。リコリスに似ているが、それよりもっと悪辣な匂いだった。彼は自らの語彙から懸命に相応しい単語を探し、最終的にこの言葉に辿り着いた。「アンモニア臭」。
「ルミッキ、これは、その、なんだ、」
「ウォッカです。サルマリという、フレーバード・ウォッカですわ」
「ほう、ウォッカか。何のフレーバーだ? リコリスか?」
 緑色の目をした娘は無邪気に笑い、師に極めて残酷な答えを返した。
「あら、惜しいですねマスター。リコリスはリコリスでも、リコリス飴の――サルミアッキの風味がするウォッカです」

 動揺してはならない、と魔術師は肝に銘じていた。この弟子の味覚に唯一染み付いた黒点、あの恐るべきサルミアッキの名を聞いたとて、偉大な師が顔色を変えることなどあってはならないのだ。故に彼は朗らかそうな顔つきのまま、ブランデーを持たないほうの手でショットグラスを取り、「では頂くか」と凛々しい声で宣言した。それからグラスの本来の用途に添って、一息に黒い液体を呷った。
「うん、……うん、いけるな。甘くて塩気もあって……ウォッカとはとても思えないような……味だ」
 口から胃袋まで走り抜けていった感覚に、彼は一切の批判を加えなかった。正直なところ、自分の内部から出る呼気の全てがアンモニアの臭いに染められて、長々とした文句を述べるどころではなかったのである。
「でしょう! 私、しばらく飲んでいませんでしたから、また味わえて本当に嬉しくって……是非マスターにもお裾分けがしたいと思っていましたから、お気に召して何よりです」
「そうかそうか。ああ、ところでルミッキ、このサルマリとやらには……あれだ、追加の分はあるのか?」
 笑顔の張り付いた面のまま、彼は尋ねた。果たして弟子はその眉を曇らせ、このように答える。
「それが残念ながら、お土産にミニボトルで一本頂いただけなので、もうこの一杯きりしかないのです。もっと差し上げられれば良かったのですけど」
「いいや気にするな、お前がこうして分けてくれたことが嬉しいんで、もう十分だ。それじゃあ明日のために良く眠れよ、ルミッキ」
「ええ、マスター。お休みなさい」
 空になったショットグラスを受け取って、美しく気立てのいい弟子は微笑みながら一礼した。師は琥珀の美酒と共に部屋に入り、扉を閉めてから深く安堵の息をついたのだった。

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