「何ですか、この紙切れ」 先生が怪訝な顔で言った。 「念書?」

マジシャンシップの伝達 -Relayed Cunning-

 水曜日の夕方だった。長く続いたセントエラスムスの夏もようやく終わり、短い秋が始まる十月末のことだ。わたしは下校してすぐ先生の家に向かい、今日のホームルームで渡されたプリントを差し出した。もちろん実際にはすんなりと行かず、ソファーに寝そべって海外ドラマを見ている先生の注意を、まずこちらに向けることから始まった――そして大変苦労したのだけれど。
「実は、来週の月曜日が中学の運動会なんです」
「それで?」 ポテトチップス(袋を見る限りではソルト&ビネガー味)を気怠げに齧りながら、先生。
「わたし、女子800mリレーの走者になっちゃって、――魔法使いとそれに関わる生徒は、なんか事前に書かなきゃならないって体育の先生が」
 紙面を指差しながらわたしは説明する。ごく普通のコピー用紙には、ごく普通の小さな字体で、「秋の陸上競技会Field and Track Dayにかかる魔術の使用について」とかなんとか題があり、その下にも何やらいかめしい文章が続いている。簡単に言えば、競技での魔法による不正を防ぐため、魔法が使える生徒や生徒の保護者などは、出場するにあたって魔法を利用しないと宣言するように、ということだ。
「リレーの走者? あなたが?」
 先生はヘーゼルの目をちらりとわたしの顔に向け、まるで理解もできないとばかり言った。それからもう一度紙に視線を落として、
「これにサインする? 私が?」
 と続けた。
「ええ、まあ……先生はわたしの魔法の先生なので……」
「ケイリー、あなた中学校でオープンにしてたんですか? 魔術師の見習いとして私に師事していると?」
「いやあ、別に言いふらして回ってたわけじゃないんですけど、なんで知られてたんでしょうね……」
 進路指導の用紙にも、迷いこそしたものの結局「進学」と書いたわたしだ。学校関係者はだいたいのところ、わたしはもう何の問題もなく四年生を終えて、卒業試験に合格して、そのままどこか公立の高校へ進むものだと思っているに違いなかった。ただ、言いふらしてはいなくても、徹底的に隠していたわけではないから、知られていても別におかしなことはない。

「確認しますが」 先生の声があからさまに刺々しくなった。
「魔術と関わりのある生徒にはこれを書かせて――では何か、他の生徒たちには別個に、決して薬物によるドーピングや八百長に手を出さない旨の宣誓でもさせているのですか」
「いや、別に」 わたしは小声で答える。 「そんなことはないですけど」
「でしょうねえ。たかが学校の運動会でそこまで大仰なことをするなど聞いたことがありません。それなのに私はサインする必要があると? この紙切れに?」
 ソファから体を起こさないまま、細い指で紙を裏返したり戻したり、先生はいかにも面倒くさそうだった。なにせ「ペンより重いものを持ったことがない」どころか、「ペンすら重くて持ちたくない」ぐらい怠惰なのがこの魔法使いだ。いくら時代が21世紀だからって、まだ日常生活の中には人が自力でやらなければならないことが沢山あるのに、一体どうしてこうなのか。インターネットと公共交通機関とインスタント食品がヨーロッパにもたらされるより前、先生はどうやって生き延びていたのだろう。
「先生の気持ちは解りますけど、そういう決まりなので」
「ふうん」
 先生はつまらなさそうに鼻を鳴らすと、テレビの前のテーブルに紙をぽんと放った。
「おかしな話ですよねえ、全く。実際に魔術を行使しているかいないか、ドーピングチェックよろしく検査をしたりはしないのでしょう。それならこんなもの書かせたって何の効力もありはしない。ただ手間が一つ増えるだけです。それに、運動会のときだけ唐突にというのも理解し難い。期末考査のときに同じような紙を持ってきたことは一度もありませんでしたよね、あなたは」
 言われてみればその通りだ。魔法を使ってズルをするというと、運動会よりはテストの時のほうが重大だろう。学校の運動会で一位を取れなくても、よっぽどスポーツに情熱を傾けていない限り人生に差し支えはないけれど、学年末の進級テストで落第すれば留年だ。実際には中学校で留年になることはまずないらしいとはいえ、一応法律上はそういうことになっている。
「それに、運動会なんて所詮自由参加でしょう。去年も一昨年もあなたは出なかったわけです、こんなものを出された記憶は私にはありませんし。一体どうしてまた今年は? ――確かに、あなたは上背ばっかり無駄にありますから、走者として体格的に多少有利か知れませんがね」
 わたしの顔を見上げながら、先生はお決まりの、世の中を小馬鹿にしたような調子で言葉を続ける。どうしていちいち一言も二言も多いのだろう。わたしの身長が女子中学生にしてはかなり高いほうなのは、まったくの事実ではあるけれども。
「どうしてと言われると……その、今年で卒業なので、最後ぐらい積極的に行事に参加してもいいかな、と」
「そうしたからって卒業試験の点が良くなるわけでもないでしょうに、律儀なものですねえ。参加しなかった結果生じた休日を楽しむなり家で勉強するなりしたほうが、いくらか人生にとって有意義だと私は思いますが」
 ぞんざいな口ぶりで先生は述べ、合間に炭酸水のグラスを取り上げて啜った。いや、見た目には炭酸水だけど、先生のことだし真っ昼間からお酒を飲んでいるのかもしれない。週休六日の世間を舐めきった生活を何年続けているのかわたしは知らないが、それで健康体と抜群のスタイルを維持しているのだから不公平だ。
「まあ、あなたの人生がどれだけつまらないものになろうが、そんなもの私の知ったことではありませんからね。サインしろというなら特別に、私がこの手をわざわざ動かしてサインしてやろうではありませんか、『The Doctor』と」

 はっとした。そうだ、先生は――弟子入りして三年になるわたしのみならず、誰からも「先生」とか「ドクター」とか呼ばれているように――「先生」なのだ。本名どころか魔法名さえ、誰にも知らせようとはしていない。ついでに住所も滅多なことでは明かさないし、生年月日や出身地や性別さえだいたいの人が知らないが。
「いや、先生、あの……」
「何です、何か文句でもあるのですか。客の領収書になら屋号で署名しますが、これは商売絡みではないでしょう」
 テーブルの上の紙切れを顎でしゃくり、どこまでも偉そうな態度で先生が言う。
「はい、屋号じゃないほうがいいのは確かなんですけど、でも、だからって『先生』だけってのもどうかと……」
「どうもこうも、魔術師としての私をそれ以外の名で呼ぶなど、他人に許した覚えはありませんよ。人名らしくないからいけないと? パラケルススが生前フィリップス・アウレオールス・テオフラストゥス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイムなぞという長大な名前を使ったことがありましたか?」
「そうじゃなくて、ええと、別に魔法名とかじゃなくてもあるじゃないですか。ほら、先生がお役所とか携帯電話会社とかから連絡もらうとき用の……あの名前……」
 何か言うたびどんどん機嫌が悪くなってゆくこの魔法使いに、それでもわたしはサインを求めなければならない。どうして聖マーガレット中学校は今年に限って誓約書なんてものを書かせることにしたんだろう。一体誰の思いつきなのか、校長先生か体育の先生か父母会かは知らないが、それによって理不尽な苦労をさせられる魔法使いの弟子のことも考えてほしい。
「あの名前? ――『ジャン=クロード・デュビュイッソン』?」
「そうです、それです」
 わたしは頷いた。先生の私書箱から郵便物を持って帰ってくるとき、一ヶ月に一度ぐらいは見かける名前だった。響きからして英語ではないし、たぶんフランス語だし、ついでに「ジャン」も「クロード」も男性の名前だ。とすると、先生自身の認識としては(実際の性別はおいといて)先生は男なんだろうか。見た目には区別のつかない中性的な先生だけれど、強いてどちらかといえば女性寄りだと思っていた――男でも女でもわたしの苦労に変わりはないが。
「それが一番、なんというか……本名っぽいからそれでいいんじゃないでしょうか、たぶん」
「ふん」 先生が眉を跳ね上げた。
「本名らしい、ねえ。ええ、こういうものは本名を書くのが一般的でしょうからね。本名! 魔術師に本名で誓わせるですって! 魔術師の本名で!」
 いよいよ言葉尻を苛立たせた先生は、用紙のおしまいにある署名の欄を睨み付けた。かと思うと、急に低く小さな声になって、
「何らかのSNSの魔術師クラスタに流したら炎上しませんかね、これ」
 とかなんとか、大変不穏なことを言い出した。
「ちょっと先生、それ、そういうことはやめてくださいよ、色々まずいですよ」
 とっさにどう止めたらいいのか言葉が思い浮かばず、わたしは大して中身のない台詞を口に出す。
「そりゃあまずい話でしょうよ。公立学校で魔術師に対する一種の差別が行われているには違いないわけですからねえ。出たくもない運動会が中止になってくれるかもしれませんよ、そう思えばむしろ感謝さえされるかも」
「先生んちに警察が来るのがオチだと思いますけど」
 マスター・スターンテイラーのように、「魔術師はあくまで伝統的な生活を守るべきだ」なんて考えてはいないけれど、それでも今回ばかりはあちらの言い分にいくらか同意したくなった――インターネット時代の魔法使いはろくなことを考えない。

 幸い、炎上云々はあくまで先生にとって冗談だったらしい。ちっとも冗談に聞こえなかったが、魔法使いの冗談はだいたいそんなものだ。先生は深く息をつき、ようやくソファから起き上がると、
「ケイリー、ペンを」
 と言いつけた。わたしは戸棚の引き出しから、ラナンキュラス通り唯一のペン職人による銀の万年筆を取り、先生に手渡した。ここ一番で格好つけてサインをするためだけに、わざわざオーダーメイドで作らせたペンだ。先生の金遣いはよく解らない。
「嫌いなのですけれどねえ、誰かに強制されて何かをするというのは。だからこそ魔術師になって誰かに強制する側に立ったというのに、運動会のリレー競争ごときで実名を求められるだなんてねえ」
 ぶつくさ言いながらも、「同意します / 同意しません」の左側に丸をつけ、それに続いて「Jean-Claude Debuisson」と綴るペン先の動きは滑らかだ。中学校の運動会どころか、世界中のどこのお役所に突き出したって恥ずかしくない署名がたちまち完成した。
「ぜんたい、どこの魔術師が頭をおかしくしたら、弟子の徒競走に貴重な魔力を割いてやったりするというのですか。才能の浪費、いや不法投棄にも程があります」
「まったくもってその通りだと思いますけど、もうちょっと言い方ってもんがあるんじゃないでしょうか」
「正直に言ったまでですよ。これでもし、そのリレーとやらがもっと盛大な大会で、あなたが優勝すれば1万……とまでは言わないとして、まあ5000ユーロぐらいの賞金が出た上に、半分が報酬として私の懐に入るだとかいう場合なら、『快足』と『頑健」の呪文を行使するのにやぶさかではないのですが」
「金銭的なものが絡んだらズルをする気はあるってことですか先生」
 なんて大人だ。こういう人間が魔法使いをやっているから、この国では魔法やそれに関わる人間が尊重されないんじゃないかといつも思う。残念ながら、ラナンキュラス通りに住む魔法使いだけに絞っても、見渡す限りだいたい好き勝手に生きている人ばかりでいっそ清々しい(先生ほどひどい人は滅多にいないとしても)。
「冗談ですよ。賞金の出るプロのレースで、そのような所業に走れば当然罪に問われますからね。私は現代法治国家の善良ないち市民として、法律は可能な限り遵守して生きてゆく所存です」
「先生、勤労の義務って知ってますか」
「週に一度は労働しているではありませんか」
 いつもの澄まし顔で先生が言い切る。一体何がここまで胸を張らせるのだろう。わたしだってたまには現実から目を背けて、一生涯遊んで暮らしていけるような身分になれたらどんなにいいかと考えることもあるけれど、先生だけはどんなに贔屓目で見てもうらやましくない。

「――で?」
 わたしができるかぎり軽蔑したような顔を作って見下ろしていると、先生はサインを済ませた紙をこちらへ突き出して首をかしげた。
「で、って何ですか先生」
「結局、掛けて欲しいのですか? 魔法を?」
「はい?」
「順位が左右されてくると流石に倫理的問題が発生するのでしょうが、例えば……常日頃運動不足のあなたがリレーの走者を務めた後で、動悸息切れもこむら返りも起こさないように予め対策をするとか」
 なにやら見当違いなことを言っている。わたしは「競技に魔法を使いません」という誓約書にサインをしてほしかっただけで、先生にズルをしてくれなんて頼んだ覚えはない。先生はわたしの話を聞いていなかったのだろうか。先生のことだから聞いていなくてもおかしくないが。
「いや、何言ってるんですか先生、どうしてそうなるんですか。というか今サインしましたよね」
「しましたが、それが何か? 魔術師にとって真名も魔法名も使っていない契約など、子供の口約束以下の存在でしかありませんよ。どうせ専門の呪術医を呼んできてドーピングチェックならぬエンチャントチェックを実施する訳でもないのだから、やれと言われればいくらでもやりようはあります。相応の対価は頂きますがね」
 面倒ですが、としっかり付け加えるのも先生は忘れなかった。わたしはただ呆然として先生の顔を見た。
「その……別にわたし、そこまでして勝ちたいわけじゃないというか、勝ちたい相手がいるわけでもないというか……」
 口ごもる。これで同じリレー競争にビアンコの奴でも出ていれば話は別だが、中学校に上がれば陸上競技はみんな男女別だし、そもそも奴が運動会に参加するのかどうかも解らない。もし参加するのだとして、奴もやっぱりマスター・ウィペットに同じ誓約書を出して、サインしてくれと頼むんだろうか?
「あの先生、思うんですけど、言うことが『先生』としてちょっと不適当じゃありません? 魔法ってこういう時にズルするためのものじゃないですよね。まあ先生は昔っからズルばっかりして生きてきたのかもしれませんけど、わたしは――」
「ケイリー」
 先生がきっぱりとわたしの言葉を遮った。ヘーゼルの目が珍しく、わたしを正面から見据える。
「魔法は、ズルをするためのものです、ケイリー」
 やたらに区切りをつけた、小さい子供に言い聞かせるような口調だった。

 わたしが何も言い返せないでいるのを見て、先生はさらに続けた。炭酸水をぐいと飲み干して、空になったグラスをわたしに持たせながら。
「一体何がいけないと? そりゃあ公立中学校の進級テストでカンニングをすれば落第かしれませんが、200mの全力疾走の後で息切れをしないようにしたところで何の罪に問われるというのです。法律に反するズルは犯罪cheatですが、そうでないズルはれっきとした工夫hackですよ。錬金術師は何故賢者の石を作り出したいのです? 人は必ず死ぬという定めをちょっとばかりごまかして、不老不死の肉体を手に入れるためでしょう?」
 そこで先生は一息入れ、勿体つけた動きで足を組み替える。左の目がすっと細くなった。
「狡くなりなさい、ケイリー。あなたが私という魔術師から学び取り、受け継ぐべきものはまずそれだ。『浮遊』や『沈黙』や『使い魔使役』の呪文じゃあなくてね。あなたが弟子入りしたのが私である以上――もちろん一生私の小間使いでいたければ話は別ですが、そうでないならもっとお利口さんになることです。あなたには真っ正直さと強い感情だけは備わっている。必要なのはそれを操る狡さですよ」
 ソファの上のリモコンをテレビに向け、先生はドラマのチャンネルを回した。これ以上話すべきことは何もありません、という意思表示だ。わたしはしばらくの間、空のグラスと偽名の念書を手に立ち尽くしていた。この「先生」を先生に選んだことは、わたしにとって生涯恥じるべき汚点だろうか。それとも、――もしかして先生の言うとおり、魔法使いとしてわたしに欠けているものを手に入れるチャンスなんだろうか。

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