「海に」 グラスから口を離してルミッキさんが言った。 「海には行かないことにしたの」

白雪姫は泳がない -Sea Change-

 一年の半分が夏でできているこの国でも、今日はまさに夏の中の夏だった。最高気温37℃という無慈悲な予報を前に、わたしたちは暑さとの戦線を早々に放棄して、ラナンキュラス通り流に土曜日の午後を過ごそうと決めた。つまり、キャンディショップ「ルサールカ」で冷たいデザートを食べながら、太陽が西の水平線へ撤退していくのを待つ、だ。
「来週の日曜日でしたっけ? 誘われてたの」
「そうよ。フロートやボードも貸してくれるって言ってたけど、でも、やっぱり止めにした。だって私、泳げないんだもの」
 言葉の合間にピスタチオ・アイスクリームを舐めながら、亜麻色の髪を涼しげに結った魔女がレジャーの予定について語る。この細く古めかしい通りではよくある光景のひとつだ。ただ、ルミッキさんが泳げないというのは少し意外だった――それぐらいは魔法でどうとでもなりそうなのに。
「まあ、泳ぐのが無理なら海は……でも、浮き輪とかなんかで」
「そう思うでしょ? でもね、私ちょっと特殊なの。そういうものがあってもしょっちゅう沈んじゃうのよ。足がつったり、何故か空気が抜けちゃったり、急に流れが変わったりして」
 そうしたらこの返事だ。さすがに予想外だったので、わたしは思わず口を半開きにしたまま固まってしまった。レモンのタルトを食べている最中だということを、すぐに思い出して慌てて飲み込んだけれど。
「そんな特殊体質って、あります?」
「あるのよね、それが」
 ルミッキさんは肩をすくめ、船の事故に遭ったら生き残れないわね、と冗談めかして言った。ちっとも笑えない。
「原因はいまいち解らないんだけどね。マスター・スターンテイラーが言うには、私は人間の中でも『水』の魔力がとても強いから、水に棲むものたちが欲しがるんだろう、って」
 師匠の推理を引き合いに出した彼女は、続けてアイスコーヒーを啜った。

 なるほど、マスター・スターンテイラーぐらいの大魔術師が言うならそんな気もする。最近ルミッキさんに恋人ができたとか何とかで大騒ぎしていたマスターだが、自分の弟子が人間だけじゃなく、そういう妖精とか精霊みたいなものにまで好かれているというのはどんな気分なのか。いや、元々人外に好かれすぎて困っているのに、この上さらに俗世の「悪い虫」まで付けてたまるかという、逆の考え方をしているかもしれない。
「その、沈みそうになるときって、やっぱり感じるんですか、そういうのが周りにいるなって」
 わたしは訊いた。生まれてから16年間、違う世界の存在というものをろくに感じず生きてきたわたしだ。魔法使いの見習いになってからも4年になるというのに、まだ妖精一匹自分で見つけたことがない。もちろん、いわゆる霊感とかいうものもない。ルミッキさんはどうなんだろう。
「ううん、特に……というより、水に入ったときだけ感じるんじゃなく、私にとってはいつものことなのよ。どこに居たってそうなの」
 ばら色につやつや光る唇が、少しゆるんで柔らかな笑みを作る。今回の答えもまた、予想とは少し違っていた。アイスクリーム・コーンを握る彼女の白い指を見ながら、わたしは言葉の続きを待った。 「彼らはどこにでも居るでしょう。神話の時代のフィンランドほどではないかもしれないけれど、21世紀という世界だって、私の声を聞いてくれる精霊たちはたくさん居る。私のそばに居てくれる。――そうでないと逆に困るの。私の魔法は彼らの力があってこそだもの」
「じゃあ、そういうのに好かれてるっていうのは、ルミッキさんにとっては良いことなわけですか」
「もちろんよ。間違いなく良いことだし、嬉しいことでもある。死んで差し支えのない身体だったら喜んでついて行きたいところだけど……差し支えるものは仕方がないわよね」
 猫めいた緑色の目をすっと細め、北国生まれの魔女はくすくすと笑った。彼女の瞳は海ではなく森の色だ。きっとフィンランドの針葉樹林の色なのだろう。わたしは目の前にいるこの女性、すっかり南国の装いに身を包んだ彼女が、夏の日差しにきらめくセントエラスムスの海へと飛び込むところを、ぼんやりと頭に思い描いてみた。白く泡立つ波の下、コバルト色の世界に亜麻色の髪がふわりと広がり、サマードレスは魚たちが持つ虹色のヒレのように揺れる。そうして深く深く――島の沖合に沈んでいるという、イギリスの戦闘機やマリア様の像や、錆びついたパトロール船の甲板や、そんなものよりもずっと深い場所まで落ちてゆく姿を。
 わたしの想像力は豊かなほうではないけれど、それでも十分に美しく、そのうえぞっとするような光景が現れた。わたしは頭を振ってこの幻想を追い払い、レモンケーキをもう一口ぶんフォークで切り取った。

 新たな来店客を知らせる、可愛らしいベルの音が響いたのはその時だった。ルミッキさんは肩越しに入り口を振り返り、とたんに顔をぱっと輝かせた。
「あら、キイス!」
 自分の周囲など気にもかけず、まっすぐレジへと向かいかけていた人影が、声にぴたりと足を止めた。カーキのサマージャケットに白いシャツ。ほとんど黒に近いネイビーのジーンズ。痩せ型で背ばかりやたらと高い、三十歳手前ごろの男の人だ。そして彼こそは、ルミッキさんの新しい彼氏――もとい「ボーイフレンド」である、アメリカ生まれのハッカーだった。ハッカーが普段具体的にどんなことをしているのかわたしは知らないが。
「よう」
 低く短い、必要最低限だけの挨拶が返された。愛想も何もあったものじゃない。わたしたちが座るテーブル席の手前で無表情に佇む、このアメリカ人にしてはリアクションに欠けた(そんなことを言うと、わたしだって南国の人間にしては陽気さや開放的さには欠けた人間だけれども)男性は、たとえ親しい女友達が相手であってもこんな態度なのだった。
「あのねキイス、週末のあれ、やっぱりやめにしたの。だからあなたと一緒に映画に行っていいわ」
 海に行く行かないという話は二人の間でも共有されていたらしく、ルミッキさんは相手が知っている前提で話を始めていた。彼氏さんはまた単純に、そうか、とだけ答えて小さく息を吐いた。じゃあ何の映画を見に行くかとか、何故やめにしたのかとか、そういう事情は聞きたそうにもしていなかった。
「ちょうど今その話をしてたとこだったのよ、ケイちゃんと。溺れるのが私一人ならともかく、一緒に行った人まで巻き込まれちゃうのはちょっと困るしね、っていうような」
 二度目の「そうか」の後、少しの間があった。簡潔すぎる会話はこれでお終いかと思ったら、彼氏さんは言葉を続けることにしたようだった。
「お前一人ならともかく、は無いだろ」
 淡々とした、けれど素っ気なくはない声色だった。対して、話題を振った彼女のほうはおかしそうに笑い声を立てていたが、ふいに視線を明後日の方へと向けた。まるで違う世界について思いをめぐらしたように。
「でも、ちょっと考えちゃったんだもの。もしも、――もしも死ぬんだったら、そうやって綺麗な南の海に……いや、別に北でもなんでも良いのだけど、そこに棲むものたちに招かれて、人魚にでもなったら幸せかもって」
「童話の悲惨な死に方コンプリートでも狙ってるのか」
 彼氏の反応はあまり宜しくなかった。 「毒リンゴと焼けた鉄の靴はもうスタンバイしてるんだろ」
「まあ、そういうつもりで言ったわけじゃないんだけど! それに私、別に人魚姫の最期が悲惨だなんて思わないわ。それに、もし私が人魚になったら――」
「お前の歌のせいで山ほど船が沈むな」 もっともな推測だった。 「この国の漁業は壊滅だ」
「良いじゃない、そうしたらいよいよこの国はIT産業に傾注せざるを得なくなるわ。あなたの仕事が増えるわよ、キイス」
「そんな形で支えられてもな」
 わたしは心のうちで密かに彼氏さんに同意した。確かにそんな形で支えられても困るだろう。それに、漁業の壊滅について「良いじゃない」というのも失言だ。周りのお客さんの中に漁業関係者が居なければいいのだが。
「流石にちょっとバツが悪いと思う? でも、そうね、悲惨な死に方っていうと他に何があるかしら、オオカミに食べられるのとオーブンで焼き殺されるのと……」
 よせばいいのに「童話の悲惨な死に方」を数え上げ始めた、この亜麻色の髪の魔女を見ながら、わたしは前に教わったことを思い出していた。「ルミッキ」とはフィンランド語で「白雪姫」という意味なのだと、彼女自身がわたしに言ったのだ。そして姓である「ヴェルホ」は「魔女」だとも。

 わたしは半分ほど残ったレモンケーキと、大分薄まってしまったアイスティーのグラスを持って、そっと席を立って壁際のテーブルへと移った。ルミッキさんが「マッチ売りの少女はむしろハッピーエンドだろう」という話をし、それに彼氏さんがシンプルすぎる相槌を打つのを聞きながら。
 そしてふと思った――ルミッキさんの恋愛関係に関するマスター・スターンテイラーの心境についてだ。マスターはまさに人魚姫みたいな気持ちでいるんじゃないだろうか。せっかく助けた王子様が、全く別の相手と恋に落ちてしまったときのような。
 これでアンデルセン童話の通りなら、人魚姫は王子様の恋を祝福してやるのだけれど、残念ながらデンマークではなくドイツ生まれの大魔術師は、間違っても海の泡になって消えたりはしないだろう。喜び勇んで恋敵を刺し殺しに行く、どころか千年続く恐ろしい呪いをかけてもおかしくはないので、やっぱり本式の魔法使いはラブストーリーに向かない存在なのだ。

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