「ねえ、びっくりしたの。ケイちゃんってば、『ポスト恐怖の大王』世代だったのよね」

わたしを土星に連れてって -Goodbye, My Cosmonaut-

 背後から首元へ回された手は、四ヶ月の夏を過ごした後と思えぬほど白い。オレンジ・シロップを垂らしたような、淡く透けた色の爪がちらちらと、液晶モニターを前にした男の視界を出入りする。が、視覚的な刺激より何より、今しがた耳にした言葉の奇妙さのほうが、遥かに彼の気を散らした。
「何?」
 怪訝そうな苔色の目を僅かに上向け、彼は声の主に――半刻ほど前に訪ねてきた若い娘に、極めて簡潔な言葉を投げる。
「だから、ほら、あなたは知ってるでしょ? ノストラダムス。『1999年7の月、空から恐怖の大王が来るだろう』っていう、あれよ」
「お前の口から聞くとは思わなんだな」
 キーボードを叩く手は止めず、男は続けた。 「ジャムの作り方書いてたおっさんがどうした」
「あら、詳しいのねキイス! 私だってマスター・スターンテイラーに教わるまでは知らなかったのに、ノストラダムスがお菓子のレシピで有名だったってこと。まあ、それは良いとして……」
 亜麻色の髪を涼しげに結った、見た目に男より一回り年下の娘は、ワークチェアの背凭れに寄りかかりながら話題を元に戻す。
「つまり、そのノストラダムスが予言した『恐怖の大王』のことね、ケイちゃんは知らなかったのよ。考えてみれば彼女16歳だもの、1999年は生まれる前だわ」
「どういう流れだよ」 短い溜め息。 「せめて7月に出す話題だろ」
「私もよく覚えてないけど、たぶん何か別の予言の話をしてたのね」
 要領を得ないので、彼は知人たちの間で交わされた会話を察することを止めた。元より若い女性同士で何が話題に上るかなど、およそ若い女性と健全な関係を持ったことのない男にとっては思案の外だ。今時の若いもんは日常的に予言の話をするらしい。フリーランスのハッカーなる、オカルトとは縁遠い世界の住人は頭を振る。

「……それで、それが『ポスト恐怖の大王』世代か」
「隔世の感だわ」
 娘が苦く微笑んだ。 「もう18年前の話なのね」
「お前だって黙ってりゃその世代に見えるんだがな」
「うふふ、そう? 私は別に若く見られたいわけじゃないけれどね。マスターか、せめてあなたと同じぐらいには上手に年を取りたいわ。予定じゃ1999年よりこっち、年を取れないはずだったから余計にね」
「信じてたのか」  いくら魔術師とはいえ、この手の流言飛語には懐疑的だとばかり思っていた相手から、「1999年に死ぬと思っていた」――という意のはずである――等と聞かされて、男は些か調子の外れた声を上げた。
「信じてちゃおかしかったかしら? 外れたときには心底がっかりしたのよ、一刻も早くいろんなものに滅んでほしかったから」
「別に滅ぶとは言われてねえだろ」
「そうよ、ノストラダムスは滅びるだなんて一言も書いてないのよね! 誰が最初に言い出したのかしら。おかげでもうあと数年苦しむ羽目になったじゃないの。だからって今更来られても困るけど」
 今はもうすっかり幸せだから。囁くように娘は言って、男の肩を遠慮なく顎置きにする。
「ねえキイス、世界の滅亡ではないとして、じゃあ恐怖の大王って何だったと思う? 色々あるわよね、宇宙人とか核ミサイルとか隕石とか」
 1999年以前、あるいは運命の月が過ぎ去った後でさえ、既に議論され尽くした感のある問いを彼女は立てた。無論どんな答えであろうと満足なのだろう。今も己の仕事から意識を逸らそうとしない、この「ボーイフレンド」と少しでも長く会話を持ちたいだけだ。

 沈黙が数分続いた。娘は後ろで首を傾げたまま微笑んでいる。
「カッシーニ」
 ようやくのことで口を開いた男が、「恐怖の大王」として挙げたのはそのような名だった。ウイルスだとかUFOだとか、良くも悪くも「科学的な」単語を予期していた娘の、猫めいた緑色の目がぱちりと瞬く。
「なあに? 誰?」
「カッシーニ・ホイヘンス。土星探査機、1997年打ち上げ」
「イタリア人みたいな名前ねえ」
「由来がイタリアの天文学者、……いや、ホイヘンスはオランダ人か。とにかくカッシーニはイタリア人だ」
「その探査機がどうして恐怖の大王なの? 土星から戻ってくるときに、予定と違う場所に落ちて大惨事、みたいな話かしら」
「惑星探査がたったの二年で済むかよ。土星の軌道に乗るのがやっと2004年だ。1999年は地球をスイングバイする予定の年だった」
 スイングバイ? ――娘が頭上にクエスチョンマークを浮かべる。彼女は魔術師として世俗から隔離されているわけではなく、いわゆる一般教養というものを十分身に付けていたが、その単語は彼女が思う一般教養のうちに入っていなかった。
「つまり、地球を含めて惑星には引力ってもんがある。探査機が惑星の重力圏まで近付けば、引き寄せられて機体は加速する」
「それぐらいは解るわ」
「その加速を利用するのがスイングバイとかフライバイとかいうもんだ。自前の燃料をなるべく使わずに、物理法則だの何だのの力で機体をコントロールするわけだな。カッシーニは地球の前に金星でもそれをやってる」
 男は仕事道具から手を離し、両手で握り拳を作ると、それぞれを地球と探査機に準えて身振り手振り説明したが、背後から覗き込む魔女の理解は得られなかったようだった。まだ今ひとつ納得のいっていない顔。
「理屈は解らんでもいい。とにかく1999年の、あれは8月だったが、カッシーニは一度出てきた地球にぎりぎりまで近付く予定だったわけだ」
「それで、そのスイングバイ……に、失敗するだろうって予言になるわけね? でも、言っちゃ悪いけど宇宙探査機なんて、地球に突っ込んだところでほとんど燃え尽きちゃうんじゃないかしら。そんなに大損害になるとは思えないわ」
「普通に帰ってくる時ならな」
 タイピングを再開しながら男は続ける。 「カッシーニには別の問題があった」
「例えば?」
「土星に行く途中だろ。探査機には到着までの7年間をまかなう燃料が必要で、しかもそれがプルトニウム電源だった」
「あら、いきなり『恐怖の大王』らしさが増したわ」 娘が眉を上げた。
冥王プルートーの名前を持つ汚染物質なんていうと、恐ろしさもひとしおね」
「予言らしさもな。で、そのプルトニウムが全人類の致死量に値してどうとか、似非科学的な『解釈』がひととおり流れた後で、カッシーニは予定通りスイングバイを成功させて土星に行った。見事なもんだ」
 口から漏れた長い息は、言葉通りの嘆賞だろう。あるいは単に煙草が恋しくなっただけかもしれない。男は間違いなく喫煙者であり、実際に金属のライターとシガレットケースも卓上に置いていた。しかし彼はどれほどニコチンに飢えたとしても、娘の前では決して吸おうとしなかった。

「恐怖の大王がカッシーニだったとして、結局地球を訪れることはありませんでした。めでたしめでたし――それにしても、あなた詳しいのねキイス。別に宇宙が専門じゃないんでしょう?」
「専門教育を受けてない、の意味ならそうだ」
 椅子の上で僅かに身じろぎし、視線だけでなく頭全体で娘を見上げて、男は問いを半分肯定する。
「もし大学に行ってりゃ、宇宙工学か航空学か、その手のものを専攻した可能性はあるが」
「行けば良かったじゃないの、……なんて言うのだけは簡単よね。あなたにも事情があって、大学じゃなく空軍に行ったんでしょうから。通信隊に居たんだったかしら?」
「パイロット課程を志願したんだがな」
 男が苦々しく言い、そこで幾らかの間を置いた。志願した結果何が起きてどうなったのかは、娘にも(フライバイの原理よりは遥かに容易く)察しがついたので、敢えてその内容を口にすることはしなかった。
「でも、通信隊に行ったおかげで今あなたは仕事をしてるでしょ。とても人の役に立つ仕事よ」
「それは幸いだったよ」 とハッカーは首肯する。
「ちょっと見てみたくはあるけどね、戦闘機やヘリコプターを操縦するキイスとか……どこかの天文台に勤めて、土星の研究なんかしてるキイスは」
「言っとくが、おれは別に航空士官や天文学者になりたかった訳じゃねえぞ」
「違うの?」
 きょとんとした顔で娘が訊いた。彼女の中では、この三十路を前にした気怠げな男が、NASAの通信センターか何かで忙しく働いているという、現状からは想像もつかないような姿が確立されつつあったのだ。
「違う。お前の考えてる仕事は結局みんな大気圏内だろうが」
 それって――言いかけた娘を遮って彼は続けた。 「おれは宇宙飛行士になりたかったんだ」

 頑然たる過去完了形で述べられた希望に、暫くの間打ち勝てる言葉は何もなかった。二人は揃ってあらぬ方向を見つめた。
「どれくらい前からなりたかったの?」
 沈黙の後、先んじて口を開いたのは娘のほうだった。 「私が魔法使いになりたくなるより前?」
「ガキの頃からだよ。名前を覚えてる合衆国大統領より、名前を覚えてる星のほうが多かった」
「あなたが小さい頃って、あんまり想像がつかないわ」
「まだスペースシャトルが飛んでた時代だ。マーズ・パスファインダーは火星に着陸したし、ガリレオが木星の軌道に乗って、カッシーニ・ホイヘンスは恐怖の大王だった」
「それはもう良いじゃないの」 娘が吹き出しそうになるのを堪えて言う。
「ああ、地球滅亡の原因扱いするのは失礼だ」
 男は肩を竦め、視線を液晶画面に引き戻す。飾り気の一切無いテキストエディタを閉じれば、表示されるのは無味乾燥なデスクトップ。黒一色の壁紙。
「宇宙開発の歴史ほどには楽しくない幼年期だったな。おれだって天体望遠鏡が欲しいと言ってみたかった。実際に買ってもらうどころか、口に出すのも罪みたいに思ってた」
「望遠鏡越しに覗けないなら、肉眼で見に行くしかないってわけね?」
「少なくとも、土星のほうから来てくれることは無いんでな」
「嫌だ、それこそ恐怖の大王だわ。地球どころか銀河系まで存続の危機よ。そうよね?」
「ああ」
 今までも、そしてこれからも――可能性は無ではないかもしれないが、向こう数十万年は起こり得ないだろう「恐怖」に、冗談めかして娘が笑う。男は静かに頷いて、また長々と息を吐いた。

「どのみち全部無かったことだ。恐怖の大王は降ってこなかった。おれは宇宙飛行士になれなかった。カッシーニも二度と帰ってこない」
「まあ、戻ってこないって? 探査機ってふつう、……戻ってこないものかしら」
「戻ってくる種類もある。惑星の土やら何やら、サンプル採取のためのやつはそうだ。カッシーニは違う。地球の微生物を衛星へ持ち込まないために、土星の大気圏に突入して燃え尽きる」
「なんだか痛ましい話ね、無機物に対して言うのもなんだけど」
 娘が僅かに眉根を寄せ、片道飛行の末路に同情を示した。 「いつごろの予定なの?」
「今日だ」
 次の数秒の間に、娘は卓上のカレンダーを見た。今日は9月15日だ。男はタスクバー上の現在時刻を見た。12時45分。
「ちょうど今頃」
「嘘でしょ?」
「嘘じゃない」
「あなた、それで言ったのね、カッシーニだなんて」
「たまたま思い出しただけだ」
 思い出した、――覚えていたのだ。人類の遠い憧れへ向けて、今正に燃え尽きながら最後のキスをしようとするものを。地球がどれだけ遠くとも、沢山の人々に見守られ、喝采を受けながら消え行くものは幸せだろう。娘はそっと己の幼年期を思った。どちらが悲惨と比べるつもりはないが、やはり宇宙開発の歴史ほどには楽しくないものだった。世界とともに滅んでしまいたいと願うぐらいには。

 いっとき伏せられていた緑色の目は、そこで再び前を見据えた。緩やかに捉えていた幸福の一形式――男の首元から手をそっと解いて、娘は笑う。
「ねえキイス、休憩にしましょう。アイスクリームか何か買いにいきましょうよ。カッシーニの任務達成祝いに」
「カッシーニとアイスクリームに何の関係があるんだよ」
「何も関係ないけど、じゃあ土星っぽい食べ物って一体何?」
「そういうのはお前のほうが詳しいんじゃないのか、魔術師」
 占星術とかやるんだろ、と男は投げ遣りに言った。右肩に手を添え、軽く揉み解す仕草。
「それに、食うより呑むほうがいい」
「まあ、お日様もまだ高いのに! でも良いわ、それなら『青銅の梟』にしましょう。ビーフ・パストラミのサンドイッチに、土星の輪っかみたいなオニオンリングを添えてもらうの。それで、ミスター・ジェレミー・ウィルキンスに頼んで、『Fly Me To The Moon』を掛けてもらいましょう」
 うきうきと弾むような声で、娘は充実した昼下がりのためのプランを次々に考案する。男はといえば、微笑ましい光景に水を差すつもりは微塵もなかったが、それでも一つ二つ茶々を入れる必要を感じて口を開いた。
「その曲はどうだかな、歌詞に土星が入ってねえぞ」
「あら、……そういえばそうね、木星と火星と月だけだわ。うっかりしてた。いつも『つまりあなたが大好きってことよIn other words, I love you』の部分ばっかり気にしてるせいね」
「せめて『Per Aspera Ad Astra』にしとけ」
 あの店のジュークボックスにあるかは知らんが、と彼は言う。天文学的な愛を歌うスタンダード・ジャズよりは知名度の低いフレーズだ。が、彼にとってはそのほうが居心地が良く思えたのだ。
「聞いたことないわ、その歌。タイトル、英語じゃないわね」
「ラテン語だ」 簡潔な答え。 「"困難を乗り越えて天の星々へthrough hardships to the stars"だったか」
「素敵な言葉!」
 流星を見つけた子供のように、娘は顔中を笑みで満たす。それこそは探査機の栄光に相応しい一文だ――そしてあまねく全ての人々の頭上にも、常に掲げられてあるべき言葉だと、二人は別々の頭で考えを同じくしていた。真昼の光の下にあっても、星々は輝き続ける。あるいは破れた夢の墓標として、あるいは新たに夢を導く道標として。

go page top

inserted by FC2 system