死を祈念する楽器の集まる、「森」がどこかにあるという。

紫苑のマリンバ -Choir Invisible-

 そう聞きつけた私はある日、曇天のもと外へ出た。森なら家の近くにある。まさかそれが件の「森」だとは思いやしないが、とにかく気持ちが奇妙に揺らいで、木々の間に分け入ってみたくなったのだ。なんとなく気のふさぐようなことも続いていたし、豊かな自然の中で身体を動かせば、得る物もあるだろうとの考えもあった。
 それにしても楽器が集まるとはどうした事情だろうか。飼い猫は死期が迫ると、主人のもとからそっと姿を消すというが、あれに似たことなのだろうか。なにしろ楽器は人の手が作るものだから、「野生の楽器」などというものは存在しないだろうし、まさか単に不法投棄が多いという事実を、皮肉に呼び慣わしているだけとも思えないし。――私は両手のどこにも荷物は持たず、近道も遠回りもせずに、ふらふらと午後の田舎道を歩いた。空気は水の匂いを含み、肌を静かに湿すような趣を持っていた。春も終わろうとしていた。

 森といっても、近所にあるそれは鬱蒼ともしておらず、晴天であれば日差しも降り注ぐような、林と森の中間ぐらいの場所だった。熊や猪といった獣の出る話も聞かないし、山菜採りが遭難したとかいう事件にも覚えがない。恐らく森として魅力がなさすぎて、開発も保護もされずに、あるがままの姿で存在を許されているというのが正しいのだろう。それとも、完全に荒れ果ててしまってはいないところを見るに、一応の手入れぐらいは行われているのだろうか。
 ともあれ、人が近寄らないといって立ち入り禁止でもない。私は別段疚しいとも思わず、浅緑の中へと踏み込んでいった。足元をみれば粗末なものだが道がちゃんとある。掻き分けるというほどの草も茂っておらず、曇天とはいえ光は十分に私の歩みを明らかとしている。今日は生憎と爽やかな陽気ではないが、もっと朗らかな天気のころであれば、この獣道を歩いて渡るのも良いものだろう。こうして一人きり、大したものも身につけず、行楽地として名があるわけでもない森をそぞろ歩いている私を、誰かが見れば大層訝しがるだろうか。何かしら世を儚んだ人間だと思う者もいるか知れない。私としても、どうしてここまで行動力を逞しくする気になったのか、我ながらさっぱり解らない。少なくとも言えることは、世を儚んだ人間は外出に際して虫除けの薬を塗らない、ということである。
 日暮れまでにはまだまだ時間がある。私は時に緑の葉の天井を見上げ、時に苔むした木々の幹に触れてみたりなどして、この森がどれほど死に満ちているのだろうかということを考えてみた。死を前にした楽器が集まるのならば、その森にはやはり相応の空気があるのではないか、と。そういば、木に苔が生えるのは、それだけ木の生命力が落ちている証拠であると、何かの本で読んだことがある。だとすれば、この場所の何割かは、死に近付きつつあるもので構成されていると言えるのだろう。目に見え肌に感じる静けさは、死のもたらす静謐さなのかもしれない。深くついた息のあとに吸い込む匂いは、朽ちた葉のものなのか、それとも生きた苔やシダによるものなのか判然としなかった。

 私は細道を真っ直ぐに行った。少しばかり道を外れてみようかと思うことが無かったわけではないが、迷子になりたくてここに来たわけではない、という意識のほうが強かった。道は時折曲がりくねりながら、私を一方向に導いてゆく。最後には森を抜けるのか、それとも行き止まりになるのかは解らないが、枝分かれすることはなかった。頭を悩ますような分岐点がないというのは、実に良心的な森だといえよう。
 自分の足音が煩わしく感じ始めた頃、道の先にある大きな木が、根元から折れて倒れているのを見た。大きなといっても他の木々と比べての話であり、久遠の年季を感じさせるような巨木ではない。道を完全に塞いでもおらず、十分余裕を持って下をくぐり抜けられるだろうと私は感じた。歩み寄るにつれ、その下陰にはキノコが群れているのも判ってきた。あの辺りには晴れたときでも陽が差さないのだろう。人の目にも触れず、日の光を強いて求めることもなく、大気と雨との恵みだけを慎ましく受け取って生きるという態度が、急に好ましく感じ始めた。今まで菌類の生き様など気に留めたこともないのにである。哺乳類と遠くかけ離れた生命に接することは、どうやら思考のありかたを大きく刺激するらしい。
 さらに歩を進めた私は、やがて倒木のたもとまで辿り着いた。表面はやはり苔に覆われ、さながら緑青の浮いた鉄柱のようだった。この木そのものからキノコは生えないのだろうか、と私はふいに疑問を抱いた。木の根元にいるキノコと木を宿主とするキノコとは別種なのだろうか。私は好奇の念に駆られながらも、先に進もうという気持ちが勝り、朽木の下を潜り抜けるべく身を屈めた。

 その瞬間、私はある事実を目の当たりにし、はっと息を呑んだ。恐懼のあまり、もう少しで頭をしたたか打ち付けるところだった。私はその場で片膝をつき、足元に視線を注いでみたが、目に映る光景には何の変化も見られなかった。夢まぼろしではないようだった。
 群れなすキノコだと思っていたものは、果たして生物ではなかった。土に塗れてキノコらしく見えていただけで、それらはトランペットの先端だった。あの朝顔型をした音の出口だ。その合間には、音階を奏でるためのピストンも突き出している。あちこち錆び付いて色を変え、金管の輝きはすっかり失っているものの、確かに楽器の一部に違いなかった。恐る恐る指で突付いてみると硬質だ。無機質である。植物の手触りではない。
 私の胸中へ、言い知れない不安と止めどない好奇心という、二つの感情が揃って流入してきた。屈み込んだまま様々に思案を巡らしてみたが、どちらを選ぶのが善であるかなど見当もつかない。ただ、このまま途方に暮れていても始まらないことだけは理解していた。
 逡巡のすえ私はそのまま進むことに決めた。この判断を称える者も非難する者も、居るとすれば私よりほかにないのだ。道は変わらず細いままで、辺りからは何の気配もしない。今の調子では本当に、森を通り抜けて隣の町まで出てしまうだけなのではないか。だが、元より私はただ森の中を歩きたかっただけで、ここが件の「森」だなんて考えてもみなかったはずだ。――さっきまでは。今や、木々の幹の模様はヴァイオリンの表板の孔のようだし、道に横たわる太い枝はファゴットやコールアングレの類と見える。横手から垂れかかる木の蔓は、幾重にも巻いたホルンの金管かと思われ、無数に立ち上がる藪の低木たちは、かつてオルガンの鳴管だったに違いないとさえ感じた。私の歩みは速くなりかけた。が、あまり急ぐと苔で足が滑るので、結局は散歩程度の速力で進むより仕方がないのだった。

 さらに十分か十五分ほど歩き続けた頃だ。私の耳に奇妙な音が聞こえ始めた。前方からだ。重たいものを少しずつ引きずっているような響きだった。
 目をこらしてみても視界に変わりはない。いや、先程よりも空気が湿って、灰色とも紫色ともつかない靄が漂い始めている。行く先が見えないほどではないが、私の心に再び不安を呼び起こすには充分だった。この先で何が何を引きずっているというのだろう。それは私にとって何らの危険のないものだろうか。私は意味もなく足元に視線を落としてみたが、手掛かりらしきものは見られなかった。立ち止まってよく推察してみようかとも考えたが、やめた。こうしたフィールドワークは専門ではない。あれこれ憶測しても、それで正解が見つかる気がしない。私がすべきは足を進めるか、さもなければ引き返すかのどちらかだ。
 その時、前方からの音がはたと止んだ。私は初め気がつかないで歩き続けたが、耳に聞こえていた違和感が失せたと解り、もう一度行く手に目をこらした。今度こそ判るかもしれない、と。
 どきり、とした。果たして見えたのだ、細い道の向こうに小さく、何かの影が佇んでいるのが。よくよく見れば影は一つではなかった。片方はすらっと長くて、漂う靄を透かしてみると、褪せたスミレの花が一輪咲いているようだった。そして、その傍らにはもっと背の低い、やたら四角な影が寄り添っているのだ。あれはまず生き物ではないだろうなと私は察した。もう一つの影はきっと、この四角な何かを引きずっていたに違いない。ゆっくりと、ゆっくりと私は近付いた。なるべく足音を立てないように。
 足を進めるたびに影は近付いた。二つはもうずっと止まったままだ。そうして輪郭はどんどんはっきりとして、明らかに人と物であることが判るようになった。ここまで来ると、相手の側でも私の気配に勘付いたのだろう、私が声を掛けるよりも先に動きがあった。人影のほうが振り返った。

 やはり間違いなく人だった。それは見た目に二十歳かそこらで、黒髪を綺麗に整えた、大人しそうな顔立ちの青年だった。真っ白なシャツの裾を黒いズボンに入れ、革のベルトも締めている。清潔で折り目正しい姿だ。森の中を歩く格好とも思われないが、それは私の言えたことではない。
 さて、彼の傍らにあるのは台だった――台の上には木の板が並び、台の下には金属の管が突き出していた。これが何だか私は知っている。楽器である。普段から木琴木琴と呼んでいるが、本当はマリンバというのだと音楽の教科書にはあった。
「やあ、どうも」 青年が口を開いた。思ったよりも落ち着きのある声だ。
「どうも、こんにちは」
 私も言葉を返したが、些か作り物じみた感は否めなかった。挨拶というのはもう少し愛想を込めてするものだろうに、私の声はどうにも平板だった。対して青年は、物柔らかな微笑を浮かべてこちらに一礼を向けた。右手は傍らのマリンバに添えたままだった。
「ハイキングですか。今日はあまり天気がよくないけれど」
「いえ、……どうでしょう」
 ハイキングと言われればそんな気もするが、特別森の景色を楽しみたいわけでも、健康のために運動したいわけでもない。ところが正直に目的を口にするのも躊躇われた。何せ眼前の青年はマリンバ、すなわち楽器と共にいるのだ。「死んだ楽器が」とかいう話をしていいものか解らない。こうして困ったときには質問で切り返すに限る。
「そちらはどうです、散策ですか」
 尋ねてみると、彼は微かに照れくさそうな色を浮かべて、小さく首を横に振った。
「ここへは演奏に来たんです。お祭りがあるので、その出し物に」
「お祭りが?」
 私は目を瞬いた。午前にちょうど役所へ行ってきたばかりだが、そのような告知は合切見かけなかった。初耳だ。この森の中で音楽会でもするというなら、それは間違いなく素晴らしいイベントだろうが、一体誰が来るというのだろう。森に入ってこのかた、人に会ったのは彼が初めてだというのに。
「あの、そのお祭りって、一体どこであるんです」
 青年に一歩近付いて、私は言った。黒い目が僅かに丸くなった。
「参加するんですか?」
「いや別に、そのために来たというわけではないですがね、ちょっと気になって」
「会場ならこの先です。もう少し歩けば分かると思いますよ、……」
 彼はすんなりと答えてくれたが、その眼差しは何かしら物言いたげであった。もしかするとそのお祭りというのは、私が思う夏祭りや音楽祭のようなものではないのかもしれない。例えば神社やお寺の儀式的なものだとか。もっとも、そのような場でマリンバが必要とされるかどうかは疑問だが。
 こうして私達の間には数秒の沈黙が落ちた。最終的に私は深く考えないことにし、青年にお辞儀をして礼を言った。
「ありがとうございます、見るだけでも見てみようかと思います。ええと、あなたは」
「……ああ、僕はもう少し休憩してから行きますよ。大荷物ですからね」
「手伝いましょうか?」
「いえ、お構いなく。始まるまでには着くでしょうから」
 彼は私に小さく右手を振って、それから道の先を示した。私はもう一度彼にお辞儀をし、道の先へと再び進み始めた。

  * * *

 暫く歩いてみても、森は相変わらず森のままだった。木蔦やシダの葉は深い緑を湛えて静かに茂り、苔むした幹は真直ぐに、あるいは傾いて立っている。この先に祭りができそうな、開けたような場所があるのだろうか。青年は確かにそう言っていたけれども、どれほど先のことなのだろう。
 ごちゃごちゃと考えながら歩く視界に、ふと光るものを私は見つけた。ぼんやりとした緑色の光が、明滅しながら浮かんでいる。ホタルだろうか。でもここは水辺ではないし、そもそも真昼のホタルが目に見えるほど明るい光を放つものだろうか。私は立ち止まって辺りを見回す。と、光は一つ増え、二つ増え、何処からともなく次々と空中に漂い始めた。気付けば靄が色濃くなり、草や木々がざわざわと喧騒のように鳴りだしている。私は息を吸い、眼を見張ったまま立ち尽くした。まるでこの世のものとは思えぬ景色だった。童話の挿絵か、昔見た無声の外国映画にあるような。
 ざわめきの中に、高くぴりぴりと震えるような響きが混ざった。途端にそれ以外の音が合切止んだ。光がぴたりと動きを止め、緩やかに草葉の上へと降り立った。
『お出ましです、今日の主賓のお出ましです』
 そんな声が聞こえた。少年のような少女のような、あどけない声だった。私は思わず自分の体に視線を落とした。まさか自分が主賓ではあるまい。さっき青年に言われるまで、祭りのことなど知りもしなかったのだ。

 もちろん主賓とは私のことではなかった。私が戸惑っているうちに、背後から足音と、何かを引きずるような音が聞こえてきた――振り返るとやはり青年だった。右手でマリンバを引きながら、ゆっくりとこちらへ近付いてくる。駆け寄って手伝おうかと思ったが、足が動かなかった。
 この時やっと私は、青年の左腕が少しも動いていないことに気がついた。だらりと下ろされているだけで、能動的なものが一切見られない。先刻出会ったときから今まで、あらゆる動作は右腕が担当していた。
『よくぞお越しくださいました、さあさ、中央へ!』
 青年がその声に応えるように、頭を下げて進んでゆく。私の隣を通り過ぎるとき、彼は目礼に小さな笑みも添えてくれた。マリンバは道の真中へと引き出され、その周りに光がふわふわと寄ってゆく。あたかも演奏家に集まる聴衆のように。
『皆さま、今日お集まり頂きましたのは他でもありません。祝宴です! 祝宴でございます。さあ、盛大な拍手を!』
 誰が発しているのかも解らない声は、高らかにそう宣言した。しかし、どこからも拍手らしき音は聞こえてこなかった。光の群れに手などないだろうから無理もない。私はちょっと考えて、胸の前で拍手をしてみた。単調な音が辺りに響いた。青年が気恥ずかしそうに笑って、深々と一礼をした。
 と同時に、鼻先に水が落ちるのを私は知覚した。ぽつり、ぽつり、雨が降り出したのだ。雨音はたちまち大きくなり、私の肌も服もじっとりと湿り始めた。奇妙なことには、この雨は冷たいとは感じられないのだった。だが、私には不快に思えなくとも、青年にはどうだろう。あるいは、マリンバには。木と金属で作られた楽器に、水は大敵ではないか。私はマリンバをじっと見た。光がちらつき、雨音がふっと遠くなった。

 ぽおん、と柔らかな震えが私の耳を打った。それは確かに、マリンバの音板を叩いて鳴らした音だった。硬い木を打った音だというのに、暖かな焼き菓子を思わせる、まるい響きだった。だが青年はマレットを握ってはいなかった。では、誰が音を出しているのか。
 私は雨粒のほかに、違うものが降っているのを見た。それは透き通っていて、人のような形をしてはいたが、人よりはもっとずっと小さかった。私の小指ほどしかない。それが空から降りてきて、マリンバの上に降り立ち、同時にまた音が鳴るのだ。彼らは雨なのだろうか。よく見ると、手に雨傘を持っているものがちらほらいた。
 音は最初、てんでばらばらに発しているだけだった。けれども、そのうちに均整が取れはじめ、段々と旋律らしきものが成り立ってきた。終いには滑らかに音階を奏で、和音を連ねるようになった。これは彼らが鳴らしているのだろうか。雨粒にマリンバの弾き方が分かるのだろうか。私にはマリンバどころか、今までにろくろく楽器というものを正しく弾けた試しがないのだが、彼らは演奏を嗜むことがあるのだろうか。それとも、子供が初めて音の出るものに触れたときのように、ただ音が鳴るということが面白くて、次第にもっと美しい音、もっと快い音をと求めているだけなのだろうか。少なくとも、彼らは人間の作曲したマリンバ協奏曲など知らないだろう。
「すごいなあ」
 溜息と共に言葉が漏れた。と、耳元でいきなり、
『お静かに!』
 という、きっぱりした響きの囁きが生まれた。私は慌てて口を噤んだ。と、目の前にゆらゆらと、舞い落ちる木の葉のように何かが降りてくる。見ればそれは木でできた盃だった――いや、さらによく見れば、カスタネットの片割れだった。中央の窪みに、僅かな水が溜まっている。雨水かと思ったが、靄と同じような淡い紫色をしていて、古い懐かしいお香のような匂いがした。
 これは飲んでもよいものだろうか。確かに飲み物を口にしている間は、何も喋ることはできないだろうが、これは私には量が少なすぎる。私は音を立てられないカスタネットを手のひらに乗せ、暫し逡巡した。飲んでよいなら、どんな味がするだろう。しげしげと眺めている間にも、マリンバの音はころころと転がり、深みを増していった。水底に立つ泡のような音だと思った。静かな湖の中に私は沈んでいて、その水面の下に波が揺れ動いているのだと、そんな幻想を抱かせる音色だった。

 ふいに私の右足がむず痒くなった。何か動くものが触れている感触だった。私の背筋が、手が震え、あっと声を上げる間もなく、カスタネットの盃が滑り落ちた。
 勿体無いことをした、と思いながら足元を見ると、確かに右足に変わりがあった。人差し指ほどの長さのむかでが一匹、私の足首を這い登ろうとしているのだ。普段なら顔をしかめてなんとか払い落とそうとするところだが、今の私には何故だか、そのむかでが音楽を愛する友のように見えた。それにしても、むかでが自分から人に触れてくるのは珍しいことではないだろうか。人家に上がり込んでくることはよくあるにせよ、こちらから仕掛けない限りは、彼らはあくまで臆病であるはずなのだ。私がそっと右足を持ち上げると、むかでは動くのをやめ、ぽろりと地面に落ちた。たぶん、彼にはそのほうが良いのだろう。
 耳に聞こえる旋律は、趣を変えつつあった。音はより小刻みに、いくつかの音階を繰り返し、昇っていったり下っていったり、楽しげで愛らしい響き。私はますますこの音に惹かれていった。生き生きとして喜びに満ちて、ああ、なるほどこれが祝宴ということなのだ。彼らが何を祝っているのかは解らないが、もしかして誕生日か、そうでなくても何かがこの世に生み出された記念なのではないかと思った。私はもう長く誕生日を祝っていないけれど、かつてそんな気分で誕生日を迎えていたような、そんな感覚がぼんやりとあった。

「もう帰ったほうがいいですよ」
 私が我に返ったのは、その声を聞いたからだった。いつの間にか青年が私のすぐ傍まで寄り、低く囁いたのだ。私は彼のほうに顔を向けながら、雨音を意識の外へ追いやろうとした。それでもマリンバの幽玄な響きだけは、額の奥底へ後から後から木霊し続けるのであった。
「そうかもしれません。……いや、でも、何故です」
 私は腕時計の盤面をちらと見ながら訊いた。まだ太陽は傾き始めてもいない時刻だ。もう少し演奏を楽しんでから引き返しても、日の暮れまでには問題なく戻れるはずである。しかし青年は、その穏やかな目で私の顔を見据え、はっきりと言ったのだ。
「人間だって、楽器でしょう」

 私の背筋に憂惧が沸き立った。人間だって楽器だ――青年の言葉は寸鉄だった。体が一瞬にして冷え切った金属になってしまったように感じられた。私は数秒のあいだ絶句し、彼の白い面を凝視していたが、やがて息をつくことを思い出した。
「そうかもしれません」
 なんとか気の利いた台詞の一つもひねりたかったが、結局そう繰り返すことしかできなかった。確かにそうかもしれない。私は正直なところ音痴であり、大きな声を張り上げるのも苦手だし、口笛に至っては吹くこともできないのだが、それでも楽器としての用を果たせと言われれば果たせるだろう。そして、ここは森だ――死を祈念する楽器のための。
 私は青年に取って付けたようなお辞儀をすると、不格好に踵を返して駆け出そうとした。が、数歩行ったところで足取りが乱れ、危うく落ち葉の上に転がりかけた。もしかしたらこの間に、先程のむかでを踏み潰してしまったか知れない。淡く紫がかった靄はマリンバの音に揺らめき、間もなく私の脚を絡め取ってしまうかと思われた。私は息を整え、可能な限り静かに落ち着いて急ぐことにした。そうしたほうが賢明だと判断したのだ。
 妖精たちの輪を離れかけたとき、ふと私の歩みが止まった。ああ言った青年自身は立ち去らないのだろうか、という考えが過ぎったのである。けれども振り返ることはできなかった。彼が何のためにこの森にやってきたのか、思い当たるところがあったので――
 私はそれから二度と足を休めることなく、雨模様の小径を歩き通した。呼吸するたびに、魂が紫を帯びてゆくような気がした。

 木々を抜けて街に出るころには、雨音はいつの間にか鳴りを潜めていた。灰色の雲は破れ、西日が地上に降りている。私は濡れた道路を急いて歩き、沈みかかった陽のオレンジの中を帰宅した。玄関のところで振り返ると、空に虹の消え入るのが見えた。
 翌日は気持ちのよい快晴であり、その後も暫くの間は好天続きだった。私はあの森のことを誰かに伝えることもなく、マリンバのことも振り返らずに日々を送った。しかし、二ヶ月ほど経ったある夕暮れのこと、思わぬ形で奇妙な体験を回想してみることとなった。
 そのとき私は一日の仕事を終え、夕食のことや明日の天気のことなどを考えながら帰途に就いていた。駅へと向かう道すがら、通り過ぎた様々の店の中に、今まで立ち寄ったことのない雑貨店があった。その店先に私は見つけたのだ。
 それはマリンバ、と呼ぶにはとても小さく、鳴管もなければ音板も一オクターブ分しかない、所謂おもちゃのシロフォンだった。私は思わず踵を返して店先で立ち止まり、白木の音板をまじまじと眺め見た。おもちゃであっても、紛れもなく楽器だった。ずいぶん長くここで置物になっていたのだろうか、磨かれた表面には少々の埃が不着していた。
 傍には子供じみた長さの撥も二本、揃えて置かれてあった。私は不思議な情動に追われるようにして、両の手にその撥を握ると、音板を二、三でたらめに叩いた。木琴を弾くにあたって正しい握り方やら、その力加減やらはむろん解らないので、私が鳴らしたのは硬質でどこか耳障りな、カキンカキンという音ばかりだった。けれどもそれは、あの日耳にした美しいマリンバの響きより、ずっと生きた音であるという気がした。
 気付けば私はその木琴を買い、小脇に抱えて家路を急いでいた。そう高い値ではなかったように思う。

 その後も私は街に暮らし続け、二度とあの森へ立ち入ることはなかった。その代わり、長雨の続く時節になると、私は庭へと降りる硝子戸を開け、木琴をひさしの下まで引き出してくるようになった。水を含んだ空気の香を吸い込んで、二本の撥で音板を叩き、てんでばらばらな音を鳴らすのだ。あの深みに波を立てるようなマリンバの音が、雨の向こうから返ってくるのを幻想しながら。

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