グウェンドリンは人魚だった。ぼくの大好きな女の子だった。

人魚姫の虚飾 -Maiden's Prayer-

 彼女を初めて見たのは、ぼくがまだ小学校に上がったばかりのころだった。ある夏の放課後、校区のはずれにある海岸まで行ったとき、彼女が泳いでいるのが磯のほうから見えたのだ。真っ白なワンピースのような水着と、波に漂うきれいな金髪が、ぼくの目にくっきりと焼き付いている。
 海辺にある孤児院の子だと、付き添いで来ていた友達のお母さんに聞いた。ぼくはちっとも知らなかったけれど、同級生だった。翌年になってクラス替えがあり、ぼくは彼女と一緒になった。その年から水泳の授業が楽しみになった。彼女はいつでも海で遊んでいるのだといい、泳ぐのがとても上手だった。クラスの誰よりも長く泳げたし、息を止めたまま潜っているのも大得意だった。
「だってね、わたし、人魚姫なんだもん」
 明るい緑色の目を輝かせて、彼女はいつもそう言っていた。もちろん彼女には二本の細い脚があったけれど、間違いなくそのときから彼女は人魚だった。

 クラスの誰が見たって、グウェンドリンはとても可愛い女の子だった。肩の上で切られた波打つ金髪は、いつでも太陽に輝いて眩しかったし、肌は真っ白で瞳はエメラルドのよう。本当に、童話の挿絵に出てくるお姫様のようだとぼくらは思っていた。彼女がいつも学校に着てくる、夜の海みたいな藍色のワンピースに、クラスの女子の誰もが憧れていた。お母さんはさぞかし美人だったんでしょうね、とぼくらの親たちは言い合っていた。
「本当に明るくて良い子よねえ、すれた所もないし」
「お父さんもお母さんもいないで、こんなに元気な子に育つなんてねえ」
 そういった言葉を聞くたびに、ぼくは正直いやな気分になっていた。お父さんもお母さんもいない子供は、いつも悲しく暗い顔をして座っていなきゃならないんだろうか。そんなのって嘘だ。それにグウェンドリンは人魚だから、陸に家族がいなくたって、なんの心配もいらないじゃないか。きっと本当の両親は、海の底の人魚の国にいるんだろう。
 やがて、ぼくらは大きくなってゆき、考えることも少しずつ大人に近付いていった。自分のことを人魚だと言っているグウェンドリンを、「ちょっと変なやつ」だと思うクラスメイトも出てきた。それでも、やっぱり彼女は可愛らしい人魚のままだったし、男子も女子もその姿を夢のように眺めていた。夏になれば誰もが、彼女を追いかけて海岸まで足を伸ばし、波間に見え隠れする白い姿に見とれるのだった。

 グウェンドリンには水泳だけじゃなく、もう一つ特技があった。絵を描くことだ。小学校のころから、彼女の描く水彩画はたびたび廊下に張り出されていた。どんなものを描くのかといえば、言うまでもなく海を描くのだ。先生が花壇のルピナスを描けと言えば、そのときは言われたとおりを描くのだけれど、やっぱりグウェンドリンといえば海の絵だった。ぼくらと同じたった十二色の水彩絵の具で、どうしたらあんな世界を作り出せるだろうか――濡れて光る砂浜と、打ち寄せてくる白い泡の粒。少し向こうで立ち上がる、瑠璃や翡翠の細工みたいな彩りの波。水平線にほんのわずか滲んだ小舟の影。空からは幾筋も、オパール色の日差しが降り注いでいる。
 この美しい絵を一体どこで描くのだろう? 花壇のルピナスなら花壇で描くだろうし、器に盛られた果物なら学校の図工室でも描くだろうけれど、彼女がどこで海の絵を描いているのかは、実は誰も知らなかった。ぼく一人を除いては。
 ぼくが絵描きの彼女を見つけたのは偶然で、特に探してみようと思ったわけではなかった。十一歳になった年の、ある秋の日の夕暮れだった。ぼくは学校で先生にさんざん叱られて、家に帰りたくない気分のまま、海辺の道を一人歩いていた。どうして叱られたのだったかはもう覚えていない。とにかく、誰とも顔を合わせるのがいやで、きっと誰も来ないだろうところに行こうと考えていたのだ。海といっても、ぼくらのような子供が立ち入る範囲は知れている。それよりもっと険しい、ごくたまに釣りをする大人がいるぐらいの岩場まで、ぼくは登っていった。砕け散る波を見下ろす切り立った場所で、ぼくは一度大きく息をついた。そして辺りを見回したとき、あの藍色のワンピースが視界に飛び込んできたのだ。
「グウェンドリン?」
 鮮やかな色の塗られたキャンバスを前に、彼女はじっと海のほうを見つめていたが、ぼくが恐る恐る声をかけると、その細い肩は跳ね上がった。絵筆が指先から転げ落ちそうになり、ぼくは早速自分の行いを後悔した。
「どうして知ってたの?」
 彼女は消え入りそうな声でぼくに尋ねた。あまりに恥ずかしかったのか、白い肌にはたっぷりの赤みがさしていた。
「いや、違うよ、知ってたんじゃない。偶然なんだ。グウェンドリンがいるなんて思ってなかったよ。邪魔するつもりもなかったんだよ」
 ぼくは必死に言い訳をした。ただひたすらに謝って、そのまま逃げ出してしまおうかと思った。けれど、その思いとは全くの無関係に、彼女と彼女の絵がぼくの足を留め続けていた。地平線へと消えていく、目の覚めるようなオレンジ。その上下に層をなして揺れている、紺や紫やコバルト青の波と雲。ぽつぽつと白く抜かれた点は、空に輝き始めた星たちの姿だろう。ちょうど今見える海にキャンバスを浸して、しばらく経って引き上げたなら、こんなふうに色づくだろうか。そんなことを思うような絵だった。
 けれども、ぼんやりしている訳にはいかなかった。必死な目をしたグウェンドリンがぼくの顔を覗き込んで、
「ねえ、秘密にしてね。この場所のこと誰にも言わないでね、お願い」
 と頼んでくるものだから、ぼくまでどこか焦った気持になった。
「別に、誰に教えようなんて思ってやしないよ。でも、どうして……」
「約束してね。あなただけはここに来てもかまわないから、絶対に秘密ね」
 彼女はぼくの質問には答えず、ひたすらにそう繰り返した。勢いに押されて、ぼくはただ頷くことしかできなかった。やっと安心したらしい彼女が、柔らかな笑顔を浮かべるのを、ぼくは口を半開きにしたままでじっと見ていた。
 それから、確かグウェンドリンは絵の道具を片付けて帰り、ぼくも早足に家に戻ったのだった。叱られてふさいでいた気持ちはどこかへ飛んでいってしまった。ぼくには今、秘密があるのだ――グウェンドリンと二人きりの秘密が! 当然、その後でこんどは両親から、遅くまで外にいたことを重ねて叱られてしまったのだけれど、そんなことはもう全然気にならなかった。

 ぼくはもちろん秘密を守った。そして、彼女の絵の邪魔にならないよう、あの岩場にはほんの時々しか行かなかった。腹の立つことがあったり、落ち込んだり、どうしても気分が晴れないときになると、ふらりと下校の途中に寄り道をして、少しだけ覗いてみようとすることはあった。そうして海を眺めているだけで、心がずいぶん穏やかで楽になるのだった。そして、その時にグウェンドリンがいれば、ちょっとだけ声をかけてみた。彼女もぼくが来たことを嫌がっているふうではなかったし、ぼくが大人しく見ているだけなら、大して気にもしていないようだった。
 ある日、ぼくが描きかけの絵をじっと見ていると、彼女がふいにこう言ってきた。
「ねえ、あなたも描いてあげようか?」
 ああ、これがぼくにとって、どれほど嬉しく誇らしい申し出だったか! けれども、ぼくは情けないことに気が動転して、どう答えていいのかちっとも解らなくなって、ただもごもごと口を動かすばかりだった。そして、やっとのことで出た言葉も、
「いいよ、別に。グウェンドリンが描きたいものを描くのが一番だよ」
 という、あまりにもつまらないものだった。彼女はぼくを見て、おかしそうに小さく笑い、
「ふうん、そう?」
 なんて言って、また海の絵を描く作業に戻っていった。ぜひ描いてくれと言っておけばどうなったか、今でもときどき想像してみるけれど、結局いつも上手くいかずに終わる。ぼくのクラスメイトの男子たちも、たぶん同じような想像をしたことが一度や二度はあっただろう。そして、やっぱりぼくと同じように、その想像を美しく完結させることができなかったに違いない。

 ぼくらはさらに大きくなり、同じ中学にそろって進んだ。ぼくの背は伸び、声は低くなって、ますます子供から大人に変わっていった。知り合いの男子も女子も皆そうだった。知らず知らずのうちにぼくらは成長し、小学生だったころよりもっと多くのことを考えるようになった。
 グウェンドリンもやはり変わっていった。けれども、これはぼくらと違って前向きな変化とはいえなかった。いつごろからとは思い出せないけれど、彼女はどんどん痩せていった。昼休みに食堂へ顔を出すことがなくなり、あの快活なおしゃべりは聞かれなくなった。あの藍色のワンピースも着なくなった。それは単にサイズが合わなくなったというだけではないようだった。中学に上がってからというもの、彼女はたとえ真夏でも長ズボンに長袖、それも首元まで覆うような服ばかりを着て学校に通ってきた。袖口から真っ白な指先だけが覗いていた。
 服装だけではなかった。水泳の授業がある日には、彼女は必ず見学するか、そもそも学校自体を休んだ。昔は夏が来るたび張り切って、誰も勝てないような泳ぎを見せていたのに。プールサイドで夏の日差しに照らされた彼女は、驚くほど顔色が悪く見えた。白いというより青ざめた肌をして、緑色の目は売れ残った魚のように濁っていた。
 それでも、どういうわけだか彼女はやっぱり可愛い女の子で、誰の目から見ても美しい人魚姫そのものだった。彼女が沈んだ表情で教室の前を通り掛かるたび、男子はみな机から乗り出してその姿を目で追い、女子は溜息をつきながら、自分もどうかしてあれぐらい、暗くても不健康でもよく見える美人になれないだろうかと言い合うのだった。

 日常の姿が変わり果てていっても、絵だけは変わらずに描き続けていた。美術の時間に先生がグウェンドリンを褒めないことはなかった。彼女が三年生の夏休みに描いた絵は、市のコンクールで最優秀賞を取り、市庁舎の玄関ホールに飾られることが決まった。学校では盛大な表彰式があり、校長先生と美術の先生がそれぞれお祝いの言葉を贈った。彼女はあるかなしかの微笑みだけを浮かべて、自分の名前が入った賞状を受け取っていた。
 その絵はちょうど夏の夜の海を描いたものだった。波は穏やかで、インクを流したような色の空には星が輝いている。砂浜に一人、誰とはわからないが女性が立っていて、満天の星空を仰ぎ見ているのだった。星明かりがその周りを照らし、砂を白く浮き上がらせていた。どこか神々しくて、ただの自然の写生というよりは、宗教画のような雰囲気があった。
 グウェンドリンがその絵を描くところを、ぼくは何度か見に行った。彼女はもともと、絵に集中すると周りが気にならなくなるたちだったけれど、この時はとりわけ傾向が強かった。絵筆を握りキャンバスに向かい合っていると、彼女はまるで芸術そのものになり、自らが新しい風景を生み出しているかのように思えた。ぼくには分からない割合で、十二色の絵の具を自在に混ぜ合わせ、海が見せるありとあらゆる微妙な色合いを、手に取るように白紙の上へと乗せていく、その手は誰も知らない海の魔法でも使っているようだった。
 一日の作業が終わると、彼女は絵描きの道具をたたんで、また海辺にある孤児院へと帰ってゆく。その日はぼくの両親が家にいなかったので、少しぐらい遅く帰ってもいいかと思い、ぼくは彼女を送っていこうと決めていた。申し出を彼女は受け入れてくれ、ぼくらは西日のさす浜を二人で歩いていった。
 夕暮れの潮風は、心地よいというよりは少し冷たくて、そのくせ肌にまとわりつくような湿り気を含んでいた。ぼくは来週に控えたキャンプの話や、夏休みの宿題の話などをしながら、グウェンドリンの横顔をときどき伺った。彼女の頬に血の色はなく、目はほとんど瞬くことがなかった。

 ふと、ぼくは自分の鼻先に、なにか異質なにおいを感じた。磯臭いにおいだ。いや、磯臭いといったって、ここはそもそも海辺だし、潮のにおいぐらいはぼくだって慣れっこだった。そうではなくて、もっと海から離れたもののにおいだった。日が高くなったあとの魚屋の店先だとか、水族館のアシカのプールだとか、そういった場所でかぐ不自然な、顔をしかめたくなるような生臭さだった。
「なんだか、生臭くない?」
 ぼくは思わずそう口に出した。どこか近くに死んだ魚でも打ち上げられてはいるのだろうか。それとも、流れ着いた海藻かなにかが腐ってでもいるのだろうか。そう思ったから言ったのだけれど、グウェンドリンはそうは思わなかったようだった。ぼくが言うなり、彼女はなにか恐ろしいものでも見たかのように、その場に立ちすくんだきりになってしまった。
「本当に?」
 声は悲しくなるぐらいに震えていた。ぼくが覗き込んだ彼女の顔は、今にも泣き出しそうに歪められ、とても見ていられないほどだった。ここで初めてぼくは、自分の言葉がひどい誤解を招いてしまったことに気が付いた。もしかしたらどこかで魚かなにかが死んでいるのではと思っただけで、まさかグウェンドリンから変なにおいがするなんて思ってやしないのだと、ぼくはなんとかして弁解しようとした。けれども遅すぎた。彼女は自分の荷物を抱きかかえると、ぼくから逃げるように駆け出していってしまった。
「グウェンドリン!」
 ぼくは叫んだ。静かな浜に声ばかりが反響して、どうしようもなく虚ろだった。日はいよいよ水平線の向こうへ落ち、ぼくの心を道連れに沈んでゆくように感じた。
 少し経ってからぼくは我に返り、孤児院までの道を走り抜け、そこの院長先生にグウェンドリンと話をさせてもらうように頼み込んだ。ぼくの言いかたが悪くて彼女を傷つけてしまったかもしれない、会って謝らせてほしいと。程なくして彼女が玄関口まで呼び出され、ぼくは自分で思いつくかぎりの言葉をつくして、自分のしたことを詫びようとした。彼女は静かに頷き、さっきは少し過敏になっていただけなの――と言ってぼくを帰した。重たい足をひきずるようにしてぼくは家に戻った。そうするより他になかった。

 夏が終わると、ぼくらの関心事はどうにかして高校に合格するという一点に絞られていった。ぼくは決して勉強ができないわけではなかったけれど、科学のテストでいくらか失敗をしたことがあり、親たちが望む進学校に上がれるかどうかは危ぶまれていた。クラスメイトたちも、それぞれの思う将来のことで頭がいっぱいになり、色恋だのには気を割いている余裕がなくなった。
 グウェンドリンはといえば、相変わらず絵を描き続けていたし、テストの点は学年でも優秀な位置につけていた。彼女がどこを志望しているのか誰も知らなかったが、あんな才能の持ち主であることだし、きっと州の高校ではなく、私立の絵の学校にでも行くのだろうと、だいたいの同級生たちは思っていた。自分のことで手一杯な三年生たちはが、それ以上の心配をすることなどなかった。
 ぼくが彼女のことを気に掛けていなかったわけではない。年が明けるころには、彼女は痛々しいくらいに痩せ細り、どこからどう見ても病人そのものとなっていた。こんな彼女を心配するなというほうがおかしいのだ。ただ、ぼくの受験の結果も最後まで安泰とはいえず、結果が出たら出たで進学の準備があれこれとあり、ようやく彼女とあの岩場で会ったのは、卒業式も間近に迫る折のことだった。
 その日は二月にしては暖かく、空は曇ってすりガラスのような色をしていた。ぼくは春休みの旅行のために駅で切符を取り、その帰りになぜだか気が向いて、海辺のほうまで足を伸ばしたのだ。海から吹く風はまだ冷たかったけれど、昨日よりも一昨日よりもずっと緩んで感じられた。ごつごつとした岩だらけの道を登ってゆくと、やがて見晴らしのよいところに出た。少しくすんだ青色の海面が見下ろせた。
 深呼吸をして見渡すと、グウェンドリンはいつものように、キャンバスの前に椅子を出して座っていた。岩だらけの浜に大波が押し寄せるところが、ドキュメンタリー映画から切り取ってきたかのように鮮明に描かれていた。彼女の筆先には紫がかった灰色があり、それはきっと空の高いところ、わずかに雲が切れて光が漏れたあたりに乗せられるのだろう。

「――ねえ、人魚姫っていうお話、知ってる?」
 ぼくが黙って眺めていると、唐突にグウェンドリンが声を上げた。こちらを見ないまま、けれど確かにぼくに向かってそう聞いたのだ。当然知っているけれど、どうしてそんなことを聞くのかが解らなくて、ぼくは答えられないまま立ち尽くしていた。
「知ってるでしょう。ね、あの話、とても酷いと思わない」
 彼女の声は少し嗄れていて、風邪でも引いているのかと思われた。ぼくがまだ答えないので、彼女はとうとう椅子の上で向き直り、その出来損ないのビー玉みたいに濁った瞳で見つめてきた。おかげでぼくの声までが、なんだか喉を痛めたみたいに上ずってしまった。
「え、えっと酷いっていうのは、あれかな、王子様がまったく別の人と結婚して――」
「違うの。そうじゃない、それとは別よ。人魚姫は魔女の呪いから逃れて、二本の脚を持ったまま王子様と結ばれ、いつまでも幸せに暮らしましたっていうの、あなたも聞いたことがあるでしょう? わたし、あの終わり方だけはどうしても嫌いなの。あんまりに酷いって思うのよ」
 青ざめた唇は、ぼくの前で悲鳴を上げるようにそう語った。ぼくには一体なんのことだか解らなかった。彼女が言うそれは、元々の童話を少し書き換えたハッピーエンドの版だ。確かに原作通りでないという問題はあるけれど、その物語の終わり方自体に、どうして酷いことがあるのだろう。ぼくは面食らったまま、彼女がなにを言おうとしているのか、ただ待って、確かめようとした。
「人魚姫は」 彼女は目を閉じ、声を震わせて言った。
「消えてしまうのよ。人魚にも戻らず、王子様と結婚もせずに、海の泡になって消えてしまうべきなの。それが一番幸せなんだもの」
「でも、人魚姫は王子様のことが好きだったんじゃないか。それなら」
「だからなのよ。本当に、本当に王子様のことを愛していたから、……本物の人間にはなれないと解る前に、体中が愛でできているうちに、消えてしまうのがよかったの。人魚は人間のままではいられないの。王子様といつまでも幸せに暮らすことなんてできないのよ」
 閉じたまぶたから涙がいくつもこぼれて落ち、まくし立てるような物言いは段々と喉につかえるようになった。ぼくは手を伸ばして、その背中をさすってあげようかと思った。けれど、できなかった。ぼくの体は動かず、潮風だけが髪を乱して吹き過ぎていった。花の蜜のような強い香りがした。それはあの日から、彼女が必ず付けるようになった香水のにおいだった。
「グウェンドリン、ぼく、絵の邪魔をしたよ」
 そんな言葉が口をついて出た。 「ごめん、悪かった。集中できなかったんだろ」
 彼女がそんなつもりで言ったのではないだろうことぐらい、ぼくにも察しはついていた。だからって、人魚姫の話になんと返事をすればいいのか、ぼくにはとても手に負えなかったのだ。彼女もそれ以上なにも言ってはこなかった。やがて日は落ち、ぼくらはそれぞれの荷物を抱えて、さよならの挨拶を交わし、別々の方向へと岩場を去った。

 翌日、グウェンドリンは学校に来なかった。海の絵を描きに行くといって出たきり帰らないと、孤児院から警察に連絡があったらしい。ただでさえ忙しくしていた三年生が、その一報で大騒ぎになった。小さな町の大人たちは総出で浜へと向かい、彼女の姿を探して回ったが、まったく手掛かりはなかった。一日経っても、一週間経っても、彼女はどこにも見つからなかった。
 ある人は彼女が岩場で足をすべらせ、海に落ちてそのまま溺れたのだろうと言った。ある人は彼女のあまりに病んだ様子から、きっと心に思いつめることがあって身を投げてしまったのだろうと言った。寂しい二月の海に一人でいたものだから、誰かにさらわれてしまったのだろうと言う人もいた。ぼくの考えは違った。あの日彼女が言ったとおりだったのだろう。彼女は人魚で、本当に愛する人がどこかにいたから、幸せになるために海の泡になって消えてしまったのだ。
 卒業式の日になっても彼女は戻らなかった。校長先生は卒業証書を誰もいない席へ掲げた。式の終わりには、かわいそうな女の子が一刻も早く見つかるようにと、出席者全員で祈りがささげられた。
 ぼくはまっすぐ家には帰らず、バスに乗って市庁舎へ向かった。玄関ホールで夜の海の絵を見上げ、それから同じ建物にある図書館へ入ると、児童書の棚から世界名作童話集の第四巻を引っ張り出してきた。ハンス・クリスチャン・アンデルセンの名が書かれた扉絵をめくり、はるかな海の向こうで書かれた物語を、最初から最後までじっくりと読んだ。
 物語の最後は、子供のためのやわらかな教えで締めくくられていた。ぼくはもう二度と寄り道をすることはないだろう。誰かがあの岩場で絵を描いていても、きっと声を掛けようとは思わないだろう。

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