「そりゃあ、私だって年を取りますよ。年を取り始めて少なくとも百年にはなります」

魔法使いは年をとる -In This Day and Age-

 と言い切る先生は見た目に二十代の半ば、白髪一本どころか枝毛の一本すらない見事な赤毛(先生は「赤ではなくバーガンディーだ」と主張して譲らない)を凝った編み込みにし、白い肌にはシワもたるみも見当たらず、背筋はすらりと伸びてモデルか何かのようだ。着ている服にしたって、今月の「ヴォーグ」誌の表紙から引っ張ってきたんじゃないかと言いたくなるような、ネイビーのシャツに細身のブラックジーンズという組み合わせ。なぜ真夏に暗い色ばっかり着込むのか――たぶんそれは先生が魔法使いで、わざわざ明るい色の服を着て紫外線や暑さに対抗する必要がないからだろう。パブ「青銅の梟」の店内にはしっかり冷房が効いているけれど、外はまだ朝の9時だというのに30℃近いかんかん照り。わたしのように「冷却」や「微風」の呪文が使えない見習いは、見た目のおしゃれより実用性を優先するほかない。

「ぜんたい愚かな質問ではありませんか、『先生って本当に年取ってるんですか』なんて。現代文明社会に所属する人間は、肉体が老化するか否かとは関わりなく、365日に一度は年を取ることになっているんです。あなたは私の弟子なら、師に回答のためのエネルギーを浪費させないよう心がけなさい」
「先生はその一言も二言も多いのやめれば、大分エネルギーの節約になるんじゃないですかね」
 わたしはサンドイッチをかじるのを止め、先生の顔をじろりと見てそう呟いた。が、ラナンキュラス通りでも指折りの鉄面皮である先生は(恐ろしいことに、先生と肩を並べる鉄面皮は他にも何人かいる)、澄ました顔でグレービーソースのたっぷり掛かったサンデー・ローストを切り分けている。二人か三人でシェアできそうなラム肉の塊を、このひとは何のためらいもなく独りじめしているのだ。そんな食生活を送る先生のスタイルは、きゅうりとハムのサンドイッチで済ませる慎ましやかなわたしよりも明らかに引き締まっている。
「まさか。御免ですよそんなもの、私は自分の言いたいことは全て口にさせて頂きます。基本的に私は、あらゆる物事の責任は他者にあるというスタンスで生きておりますのでね」
「先生のスタンスは明らかに現代文明社会に所属する人間のそれじゃないと思います」
「ふん」 いかにも高慢そうに、先生が鼻を鳴らした。
「そういう文句を言うべき相手は他にいるでしょう、ケイリー。私ではなくてね。あなたはもっと――」

 その時、先生のサンデー・ローストの大皿の上に、横手からにゅっとフォークが伸びてきた。三本刃のありふれたカトラリーは、骨から外され切り分けられたラム肉を、二切れほどまとめて突き刺して引っ込んでいった。
 先生が眉をぴくりと動かし、ヘーゼルの目をそちらに向けた。フォークを握っていたのは男の人の手だった。それも、ゆったりと幅が広く、真っ黒で重そうな、季節どころか時代まで無視したような袖に包まれていた。21世紀のヨーロッパでは、普段からこんな服を着るのは神父さんか裁判官ぐらいなものだろう。彼はそのどちらでもなかった。
「ステフ?」
 不愉快さを露骨に表現した声は、もちろん先生のものだ。刺々しいその響きの先には、黒いローブに臙脂のスカーフという、先生に輪をかけて暑苦しい格好の成人男性が座っている。わたしたちと同じテーブル席に。
「どうかしたか、ドク?」
「大いにどうかしていますよ君の頭が。何を当然のような顔して私の食べ物を奪い去っているのです。前々から意地汚いと思ってはいましたが、こうまで面の皮の厚さを見せつけられるといっそ感心しますね。しませんけど」
 いつもながらの立て板に水で、先生はつらつらと彼に対する悪口を並べ立てる。はたから聞いているわたしとしては、感想は「お前が言うな」のフレーズに集約される気がする――それは相手も同じようで、暑苦しい格好の男性こと、この国屈指の古典派魔法使い、マスター・ステファン・スターンテイラーは、あからさまに気分を害されたような顔で応戦を始めた。

「面の皮の厚さはお前に言われたくないな! 考えてもみろ、そもそも俺とお前は共に20ユーロずつを財布から供出し、それをもって今日の朝食の予算としたわけだろう」
「ええそうですとも、それがイギリス式のパブで割り勘をするときの作法ですからね」
「で、40ユーロの中から贖われた食事のうち、お前が16.5ユーロのサンデー・ローストと、7.75ユーロのギリシャ風チーズサラダと、3ユーロのチョコレート・ファッジケーキを独占して、ケイリーに4ユーロの野菜サンドをくれてやって、俺の前には8ユーロのハムの盛り合わせしか寄越さないのか?」
 テーブルの上のメニュー表に指を突き付けながら、マスター・スターンテイラーは声を荒らげた。
「おかしいだろうが! 普通この場合は――こういう時は全て分け合うもんだろう! お前と俺の間に三倍以上の開きがあるというのはどうしたことだ!」
「そんなことを言われましてもねえ」 先生は平然とした顔だ。
「君、私が注文に行くにあたって具体的に何が食べたいとか言わなかったじゃあないですか。だから私は自らの良心に従い、年寄りである君の健康や嗜好を考えてメニューに配慮してやったのですよ。ほら、ドイツ人は朝食に温かいものを食べないのでしょう」
「確かにドイツの朝は伝統的に冷たい食事ケルテスエッセンだがな、それとこれとは話が別だ! 俺の年季を心得ているなら少しはこう、敬い尊ぶ心を持ったらどうなんだよ!」
「嫌ですよ、私はいっときの気まぐれで人を慮りこそすれ、強制的にいちいち御機嫌伺いをさせられるなんてのは大嫌いです」
 トマトジュース(これは40ユーロの範囲外で、だから私も飲み物だけは自腹で注文している)の入ったグラスを気怠げに傾けながら、先生はますます自己中心的にすぎることを言った。最後に、人を見下したようなとびきり冷たい目を向け、
「それに、年季ったってどう考えても嘘でしょう、神聖ローマ帝国は」
 と付け加えることも忘れなかった。

 世界史の授業で習ったことを頑張って思い出してみれば、その国は西暦1800年ごろまでは存在していたはずだった。そして、マスター・スターンテイラーは日頃から、自分はその神聖ローマ帝国出身であると主張していた。国がなくなる最後の年に生まれたのだとしても、一応「出身」を名乗ることはできるだろうから、そうだとすればだいたい200歳ぐらい。大魔法使いとしてはそこまで無理のある話でもない気がする。なにしろマスターにとって通信といえばインターネットではなく伝書鳩だし、交通といえば車ではなく徒歩か船か箒で(セントエラスムスの地形は馬で走るには向いていないと思う)、世界共通語といえばラテン語かフランス語、魔法使いといえば――今の「ステファン・スターンテイラー」自身でもって体現してみせているわけだ。
「嘘じゃない! 良いか、本当だ。嘘じゃない。俺は今から遡ること三百年ほど前には既に、今でいう南ドイツからオーストリアの辺りを股にかける大魔術師だったんだ……第二次ウィーン包囲のときには正にその場に居たんだぞ! ああ、丘を下り降りる重装騎兵フサリアの群れに俺が呪文を唱えると――」
「またぞろそんな作り話を。良いんですよ、君が実際のところせいぜい私より十か二十ぐらいしか年上でなかったとしても、セントエラスムス支部の連中が君を珍重する具合に変わりはないでしょうから」
 人の話を聞く気が一切ない先生が、ぞんざいな調子で口を挟む。マスター・スターンテイラーは赤茶色の目で先生をきっと睨みつけたが、その途端、
「――ドク! お前喋ってる間ぐらい……手を……肉がもう無いじゃないかよ! ふざけるな!」
「ふざけてなどいません、真面目に食事をしていたのです。今は朝食時ですからね……で、君はどうして食べなかったんですか?」
 先生の前に置かれていた大皿から、ラム肉が骨を残してすっかり消え失せていることに気付き、激しい非難の声を上げた。当然、先生はこれっぽっちも動じることなく、チョコレート・ファッジケーキにフォークを伸ばす。私は静かにサンドイッチを食べ終え、ナプキンで手を拭いて、オレンジジュースの残りに口をつけた。つくづく思う――年を取ると人間が丸くなる、なんてのは嘘っぱちだ。

  * * *

 中学に上がったときから魔術師協会の東京支部にいたけれど、そうするとこの年から「ふつう中学生は聞かなくてもいいような大人の苦労話」を聞かされることがとても多くなる。日本の魔法使いはたいてい兼業なので、苦労話もほとんどは会社勤めやアルバイトにまつわるものだ。支部の同じ課にいた先輩も、よくわたしを捕まえて日頃の愚痴をぶちまけていた。やれ上司の話が長いとか、客のクレームがうるさいとか、強制出席の飲み会なんて金ばかりかかって時間は取られるし何を喋ったらいいのか解らないし、とか。
 もちろんその時のあたしには、会社の飲み会というものがどれくらい鬱陶しいものかなんて全く実感が沸かなかった。中学を卒業し、研究留学生になって東京からライプツィヒへ来て初めて、それっぽい状況に混ぜ込まれることも多くなってきた。なるほど確かに、何を喋ればいいのかなんて全然解らない。会社の上司ならせいぜい20か30歳上なぐらいだろうけど、今あたしの目の前にいるブラザー・ライムント・オーベルシュトルツなんて、あたしとは100歳以上も年の差がある。あたしのおじいちゃんよりもまだ年上だ。この年齢差と国籍の差と性別の差を埋めるのは、残念ながら21世紀になってもとても難しい(相手が19世紀生まれだということを除いても)。
 ただ、それでも会社勤めよりずっと恵まれていると思うのは、この「上司」が気を遣ってあたしに好きなものを食べさせてくれていることと、あたしが会話に参加しなくとも特に責める様子がないのと、何よりあたしに支払いの義務が一切発生しないことだ。人の金でおいしいコーヒーを飲んでケーキを食べられるなら、一時間ほど周りの会話を黙って聞くぐらいどうってことはない。

「――なのだから、我々が次に取り掛かるべきは設備管理の効率化だ、マンフレート。君が日がな一日標本を作ったり、収納ケースを磨いたり、どこで入手したのかも解らないような古い本を読んだりしているから、監察局の人々は我々の手が空いているものと勘違いしているが、……実際はそうではない」
 水曜日の午後2時、やっとランチのピークを過ぎた「カフェ・アリバイ」のテーブル席では、ライプツィヒ支部の生物管理部危険動植物管理課(こんな「わけのわからないドイツ語」のお手本みたいな長ったらしい名前はめったに使われない――大抵は「庭園デア・ガルテン」とか「悪魔の花園トイフェルスガルテン」と呼ばれる)がランチミーティングの真っ最中だった。……ランチミーティング。なんのことはない、ただの少し早いお茶の時間だ。あたしたちが普段お昼ごはんを食べたりする管理課の部屋には今、長机いっぱいに漂白されたニシキヘビの骨が乾かされていて、とても安らかに休憩なんかしていられない状態なのだ。
「実働時間の大部分を植物園の、とりわけ温室のメンテナンスに費やしているような状態では、増え続ける生体資料を保全していくことはできないだろう。もちろん収蔵品の充実も我々の任務の一つではあるのだが、まずは予算の使いみちを少し見直して、環境の改善に投資するのが最善だと私は考える」
 あたしがウィーン風の「皇帝のパンケーキカイザーシュマーレン」――見た目はレーズン入りのホットケーキを焼くのに失敗した挙句、切り刻んで粉砂糖を掛けてごまかした感じで、インスタに投稿してもあんまり「いいね」を貰えそうではない――を食べている間にも、ブラザー・ライムントは今の職場をより良くするためのアイデアを丁寧に説明し、それからやっと一息ついて自分のコーヒーを飲むと、あたしたちの顔を順番に見た。途中で口を挟んだり相槌を打ったりするものはいなかった。ドイツ人の会話というのは大体こうで、誰か一人が自分の考えを筋道立ててきっちり話し、それが一段落すると相手がまた自分の意見を一通り言い、というパスにやたらと時間のかかるキャッチボールだ。いちいち合いの手を入れる必要がないのは楽ではある。第一、設備投資がどうこう言われてもあたしには口の出しようがないので(留学してまだ三ヶ月だ)、こういう場面であたしにできることは、ただ静かに聞いていることぐらいしかない。

「なるほど、そう考えることは勿論できますね、ブラザー・ライムント。予算も無限にあるわけではないのだし、いたずらに物を増やすより、物を受け入れる態勢を整えるほうが先だと」
 さて、あたしが黙っているとなると、テーブルについている人間は三人だけなので、返事をするのは自然この男ということになる。さっきブラザー・ライムントから「マンフレート」と呼ばれていた、ぱっと見で大学生ぐらいの男だ。といってもそれは顔面の部分だけをいうときの話で、髪型はまるで美術か歴史の資料集に出てくる肖像画みたいなオールバックだし、今は夏だってのに襟付きの黒いジャケットで、中にはベストまで着込んでいるし、あげく襟元には青い造花のアネモネさえ挿している。いくらここがヨーロッパだからって、いまどき結婚式に行くわけでもないのに胸に花を飾っている男はそういない。それもたかだか近所のカフェでお茶をするぐらいで。確かに「カフェ・アリバイ」はいかにも高級そうな、ウィーン式のコーヒーハウスそのもののインテリアをしているが、実際はコーヒーが一杯3ユーロぐらいの普通の喫茶店だ。原宿あたりのおしゃれなカフェよりは安いというのに。
 この上さらに異様なことには、こいつの言動は全てがいちいち芝居がかっていて、作ったようにお上品で、ドイツ人というよりフランス人とイギリス人の鼻につくところだけを寄せ集めたようだった(フランス人どうのこうのについては偏見かもしれない)。こいつがウェイターさんに向かって言う「Eine Tasse Kaffee und eine Waldbeerentorte, bitte」は、「コーヒーとベリーのタルトお願いします」ではない。「君、私にはコーヒーを一杯と、それからベリーのタルトを持ってきてくれたまえ」だ。ドイツ語には日本語ほど複雑で微妙な言葉のニュアンスがあるわけではない(と思う)けれど、それでも声色や表情や仕草から考えて翻訳するなら、絶対にこうなるとあたしは断言する。

 この、とてつもなく面の皮の厚そうなすかした男こそが、危険動植物管理課で、いやライプツィヒ支部で一番の危険動植物であり、あたしを含む支部スタッフに共通の厄介者だった。マンフレート・アルノー、階級はあたしと同じソーサラー、支部に勤めて今年で六年目。
 あたしは「上司」であるブラザー・ライムントを鬱陶しいと感じたことは一度もないし、どころか今のところ出会ったドイツ人の中で一番頼りにしているけれど、この「ブラザー」・マンフレートのことだけは、毎朝顔を合わせるたびに、そして同じ部屋で過ごす時間の大半、心の底からうざくて仕方がないと思い続けている。まさか年下の女子を例外なく「お嬢さんフロイライン」なんて呼び、職場の知り合いに「御機嫌ようアーレス・グーテ」と挨拶するような男がフィクションの中以外に存在しているなんて思ってもみなかった――と、日頃の行いを思い返してみるだけでいらいらしてくる。こんな奴をブラザーなんて呼ぶのはとても耐えられないので、あたしはいつも不機嫌な日本人らしく「ちょっと」とか「あんた」とか、そうでなければ支部の人たちに倣った呼び方をしている――(世間知らずで、上品ぶっていて、生意気で悪趣味なお坊ちゃんという意味を込めて)「マーニMani」と。
「あなたの意見には大筋で賛成なのですが、ただ前半の部分にだけはひとこと異議を申し立てたい。標本を作ったり、展示ケースを磨いたり、古い本を読んだりするのも立派な業務のうちですよ。ブラザー、あなたはまるで私が持て余した暇をただただ浪費しているかのように仰るが、『実際はそうではない』」
 カップから離した手の指をぴんと立て、いけ好かない「マーニお坊ちゃん」は流れるように語り始めた。わざわざブラザー・ライムントの言葉をそのまま返す嫌味ったらしさだ。聞き手に回ったブラザーは作法どおり静かに、時々頷きながら聞いていた。それから、ちょうどウエイターさんが持ってきた二杯目のコーヒーに手をつけようとした――が、その手をはたと止めた。

 あたしは理由を理解するのにちょっとばかり時間がかかった。ブラザーの目の前にあったはずの砂糖入れが無くなっていたからだ、と気がついたのは十数秒後だ。それより先に動きがあった。「自分のやっていることはれっきとした仕事なので口出しされる理由はない」というようなことを、淡々と解説し続けていたマンフレート(という名前自体、なんだか前世紀には廃れてしまったようなズレた感じがある)が、手元をちらりとも見ずに砂糖入れを掴んで、ブラザー・ライムントのほうへ滑らせたのだ。受け取った側は、ああ、と小さく声を上げ、話が切りの良いところまで進むのを待ってから、短く礼をした。
有難うダンケ
どういたしましてビッテ・シェーン
 やり取りでいっとき中断された説明は、そしてまた何事もなかったかのように再開される。どこまでも「自分は間違っていない」と主張し続ける典型的なドイツ人(本当に、本当にドイツ人ときたら自分の間違いを認めようとしない――「ごめんなさい」を言うくらいなら、場の空気をどれだけ悪くしてでも徹底的に正当化するほうを選ぶ)のマーニに対して、いくらか日本人的奥ゆかしさを持ったブラザー・ライムントはただ穏やかに先を促していた。「どのみち君は考えを曲げるつもりはないのだろう、解っているからとりあえず言ってみなさい」という態度だ。話し手のほうも話し手のほうで、「あなたなら賛成か反対かは別にして最後まで聞いてくれるはずだ、とにかくまずは私の言うことを理解してくれ」とでも言わんばかりに自己主張を強めている。単語一つ聞き違えさせてなるものかという、はっきりと標準的なドイツ語(ベルリン訛りという意味ではなく)で。

 こんな事態は今までに何度もあったけど、最近になって考えるようになったことがある――今食べているカイザーシュマーレンは甘さが控えめで、レーズンを漬けてるラムの香りがとてもいいとか、家で作るとこんなにふわふわにはならないのに一体どうやっているんだろうとか、ブラザーが食べてるけしの実ケーキモーントルテもおいしそうだとか、そういうこととは別に。
 あたしは考える。マンフレート・アルノーという男はもしかすると、ライプツィヒ支部に入った六年前よりもずっと前、それこそ19世紀ぐらいの昔から、ブラザー・ライムントと親しい知り合い同士だったんじゃないかと。ブラザー・ライムントは今年121歳で、マーニは自称24歳だそうだが、大昔から24歳を続けているだけなのかもしれない。貴族の肖像画みたいな髪型も、ただ近所のカフェに出掛けるぐらいで舞踏会みたいな格好になるのも、話し方がばかに気取っていて、そのくせ遠慮は一切ないところも、「フロイライン」なんていう現代ドイツじゃセクハラまがいの呼び名も、みんなこいつが「1世紀前の24歳」だからなんじゃないか?
 ふとあたしは母方のおばあちゃんのことを思い出した。つまり、ドイツ人のおじいちゃんの妻だった人だ。おばあちゃんも魔法使いだったし、長生きはしたけれど、それでも普通の日本人女性にできる範囲の歳で亡くなった。あたしが11歳のときだった。
 そのおばあちゃんも「古い時代」を感じさせる人だった。一応生まれは大正時代だったと思うけれど、江戸時代ぐらいから生きてたんじゃないかと思うぐらいの、厳しくて凛々しくて美しい人だったと思う。小さい頃のあたしにとっては正直ちょっと苦手な人だった。今はもう21世紀の、平成の世の中なのに、どうしてこんなに大昔の人っぽいことしか言わないんだろう、と。

 ただひとつ、あたしのおばあちゃん(や、おじいちゃんやブラザー・ライムント)と、この「推定1世紀前の24歳」には違いがある。現実に生きて年を取り続けてきたという感覚があるかないか、だ。あたしのおばあちゃんはきっちり毎年誕生日を迎えて、年を取りやがて死んでいった。おじいちゃんやブラザー・ライムントも、それなりの年齢で老化することは止めたにせよ、間違いなく90年や120年やの長い間を生きている。ところが後者にはそれがない。現実にずっと存在してきた感じが全然しないのだ。言葉遣いも、立居振舞も、不気味なものや危ないものばかり集めて飾る悪趣味さも、間違いなく「大昔の人」そのものなのに。まるで脚のある幽霊を眺めている気分――いや、そもそもヨーロッパの幽霊には元から脚があるんじゃなかったっけ?
 考えの内容に引きずられて、その横顔を凝視してしまったのはまずかった。あたしの視線に気付いた自称24歳は、何か御用ですかとばかりに小首を傾げて(そういう仕草をしても許される程度には顔がいいと自覚しているわけだ)こちらを見た。かと思うと、あたしがまだ何も言わないうちから一人で納得したように、
「これは失敬、リコ。君を差し置いてずいぶん長く話し続けてしまったね。退屈してきた頃かな……それとも、コーヒーをもう一杯?」
「いや、別に」
 あたしは切り返した。 「というかなんであんたが注文を気にすんの、ブラザー・ライムントのお金でしょ」

 16歳が上司の懐具合をちゃんと気にしているというのに、自称24歳は自分のこと以外お構いなしだった。離れたところにいるウエイターさんに向けて、さっと手を挙げて「失敬パルドン」と――あの鼻にかかった甘ったるいフランス語の発音そのままに――呼び掛けると、さっさとお代わりを注文してしまった。もちろん、「コーヒーのお代わりお願いします」じゃなく、「ちょっと君、こちらのお嬢さんにコーヒーをもう一杯淹れてくれたまえ」というような調子で。
 あたしがそっと窺うと、ブラザー・ライムントは苦笑しながら、「遠慮はしなくていい」と言ってくれた。奢られている自覚がないらしいお坊ちゃまは、ひとしきり喋って満足したのか、自分のカップに手を伸ばしていた。白い指が三本、やわらかく動いて小さな取っ手をつまみ、口元へと運ぶ――
 実際に口をつける前に、奴はあたしに向かって小さく、唇をほんの少し緩めただけの笑顔を向けてよこした。自分は遠慮がちな後輩の女の子にも気配りができる素晴らしい男です、と無言で主張するような澄まし顔だった。だからあたしはこいつが嫌いだ。

  * * *

 白く筋肉質な二本の腕が、シンクの下の開き戸から大きな瓶を取り出した。私は小さく、おお、と呟いて覗き込む。
 それは大型で、きっちり密封できるように栓もついた、透明なガラスの広口瓶だった。中には丸々としたキュウリやオリーブ、小タマネギなどが、ハーブと一緒になって漬け込まれている。
「自家製とはね、ピクルス」
「バアちゃんが教えてくれたんですよ。ロシア人たるもの漬物ができないようじゃ将来困るってね」
 そう言って爽やかに笑うのは、プラチナブロンドも目に眩しい青年だ。書記局の陽気なロシア人こと、ブラザー・イリヤ・ミハイロヴィチである。彼こそはこの家のれっきとした住人、クイーンズ区ロングアイランドシティの小さなアパートの居候だった。彼は慣れた手付きでまな板と包丁を取り出すと、キッチン台の上に瓶と共に載せ、中味の野菜たちを一口大に切り分け始めた。存外に手際が良い。誰にも制止されなければ毎日インスタントのマカロニ・アンド・チーズを食べている男だと聞いていたのだが。
「ブラザーのお祖母さんは普通の人だったの? ……というのも変な聞き方だな、要するに、」
「あー、要するに」 私の拙い問いに、ブラザー・イリヤが手を止めることなく答える。
「おれたちのような意味での魔女ではなかった、ですね。まあおとぎ話に出てくる魔女の婆さんバーバ・ヤーガみたいな人ではあったけど。気が荒いんで近所からは怖がられてた。でも孫には優しかった」
「それは良いことだ」
「なんべん病気してもぴんぴんしてた割に、おれがピクルスをマスターしたら途端に死んじまったからなあ」
 彼は切り分けたキュウリやニンジンを、ガラスの器につるりと放り込んで、上からピクルス液をいくらか注ぎ掛けた。そして私にちょっと顔を向けて、小さく息を吐いた。「孫が漬物一つ作れないってことだけが心残りだったんだろ、きっと」
 私はぼんやりと自分の祖母について思いを馳せてみたが、思い出せることは何一つなかった。というより、記憶が正しければ私は祖母に一度も会ったことがなかった。父方も母方も、生まれてくるずっと前に死んでいるのだ。

 キッチンには鼻につんと来る発酵食品の匂いだけでなく、他にも様々な香りが渦巻いている。一番主張が強いのは、多種の香辛料が混ざり合った刺激的な香りだった。カレーの匂いだ。二口あるガスコンロではそれぞれ大きな鍋が火にかけられ、遅い夕食に向けて着々と準備を整えている。
「ブラザー・イリヤがもし年を取ったら、そのお祖母さんみたいな人になるんだろうかね」
 木製のサラダボウルに手でちぎったレタスを乗せながら、私は言った。それからすぐに、「もし年を取ったら」というのは些かおかしな話だと気が付いた。年は取るのである。間違いなく。私が知る限り、そして彼の外国人登録証明書が明言している通り、彼は2017年で35歳になる。その年のうちに死ななければ2018年には36歳になるだろう。まず死にはしないと思いたいが。
「年は取るんですよ、ブラザー・アイザック」
 私が思った通りのことを、彼もまた口に出していた。 「もし老化したら、って話じゃ」
「そう、それ。ブラザー・イリヤは――見る限りでは、外見年齢の増加には出来る限り抵抗したい人に見える」
 見た目に二十代の半ば、若々しく快活な容姿を問題なく保っている彼の横顔を、私はちらりと窺った。なにせ元はミュージカル俳優を目指していた顔である。整っていて表情のよく見える、人好きのするタイプの面だ。
「……でも、どうしてまたその年を? 確か、魔法の力に目覚めたのはもう少し前だとかなんとか」
「ああ、そうですね。ハイスクールの頃には一通り、って感じだったから。ま、今後どうなるかはともかく、今のところの人生で一番イケてた頃の姿が、長く人の心に焼き付くってのは良いものだなあと思って――」

「アメリカ暮らしを始めてから数年、」
 ブラザーの御機嫌な台詞に割り込んできたのは、僅かに呆れと哀れみを含んだ低い声だった。私は肩越しにそちらを見る。何の変哲もないシャツの腕をまくり、片手にターキーハムのパックを持った、見た目に五十路手前の男性――我らがチーフことブラザー・ウェンセスラス・ウォルターがそこにいた。
「ようやくのことで巡り合った女と、人生ただ一度の熱く激しい恋に無惨に敗れた。――のが、24の時なンだよな、イリー」
「ウェン!」
 途端に酷くばつの悪そうな顔になったブラザー・イリヤが、焦ったように叫ぶ。 「やめろよ!」
「やかましい。あの頃俺が何度お前の恨み節を聞いてやったと思ってんだ。夜な夜な脳髄に染み込むような声で『トゥー・ラブ・ユー・モア』なんぞ歌いやがって。ただでさえ魔術師の男二人暮らしで隣近所から不審がられてンのに、あの時ばかりはいよいよ正気を疑われたじゃねェか」
「なんだよ! 悪いのかよ! あんたは失恋したことがないからそんなことが言えるんだろ!」
「そうだな、そこまでの失恋は経験がねェや」
 ブラザー・ウェンセスラスは肩を竦め、私にハムを投げて寄越した。適当に盛り付けろ、ということだろう。
「ショックのあまり急に老け込む奴なんてのは幾らでも見るが、ショックのあまり老けるのを止めた奴はお前が初めてだ」
 彼は他人事のように言い、再びガスコンロの方へと戻っていった。私はそっと二人から――このアパートでかれこれ15年間同居を続ける魔術師たちから目を背け、自分に割り当てられたサラダの当番に集中することにした。
「大体それを言うならあんたこそ、あの、第一次大戦で撃墜されて死にかけて魔法の力にうんぬんっての絶対嘘だろ! そんな状況だったらそれこそ、まだ若くてムキムキの頃のまんま成長が止まっててもおかしくないだろうが!」
「馬ァ鹿、事実だよ。前にフランス軍の戦功十字章なら見せてやったろ。俺ァ望んでこの見た目まで老化したンだ。若けりゃ良いってもんじゃねえ。未だに飲みに行くとIDカードの偽造を疑われるような奴だって居るンだ、なあちび助?」
 私が会話から抜けてからも、彼らはまだ距離を挟んで言い合いを続け、あまつさえ私に再び話題を振ってきた。私はハムとプチトマトを盛り付ける手を止め、自分自身の姿を見下ろした。私の身体は私が16歳だった時のままだ。魔術師の志を立ててから250年ずっと。
「……そういや、なんでブラザー・アイザックはその年で? なんかこう、『それ以上年を取れない』って感じでも、『この年齢が一番いい』と思ってそうでもないような気がするんですがね」
 ブラザー・イリヤが良い勘を働かせてきた。私は軽く笑って、ちょっとね、とか何とかいう適当なごまかしを向けておいた。魂を三分の一ほど質草にして女をやめたからです、などと言っても話がややこしくなるだけだ。
 しかし私としてもこれは謎だった。魂がちょっと削れたからといって老化しなくなる道理はない。まさか悪魔の趣味なのだろうか。

 ちょうどその時、私たちの後ろ――ブラザー・ウェンセスラスよりもさらに後ろから、
「あの、ごはん炊きあがりましたけど……!」
 という控えめな声がした。私たちは綺麗に三人揃ってそちらを見た。落ち着いた色味のワンピースに、白いエプロンを着けた黒髪の女性が、そっとこちらを窺っていた。顔立ちからして明らかにアジア人だ――実際に彼女、シスター・ヨシノ・シンドウは日本人だった。今日のカレーは彼女直伝の日本式である。当然、添え物は平焼きパンではなく炊いた米となる。
「おー、良い感じです?」
 先に動いたのはブラザー・イリヤで、同居人の横をすり抜けてガスコンロの前まで行き、蓋の開いた大鍋を覗き込むや、「すげえ」と歓声を上げている。
「お鍋で炊くの久しぶりだったので、ちょっと緊張はしましたけど……上手くいってよかったです。車があれば炊飯器を持ってきても良かったんですけどね」
 主食の準備という仕事を果たした功労者は、あくまでも謙虚そうな微笑みを浮かべたまま頷いた。彼女の住まいはブルックリン区なので、確かにここまで家電を抱えてくるのは大変だろう。いくら地下鉄網の発達したニューヨークとはいえ、あの華奢そうな腕に重荷を負わせるのは気が引ける。
「……それはアレじゃねェのか、うちには電子レンジはあるンだから、炊いた米をタッパーかなにかに入れて持ってきてチンすりゃ良いって話じゃ」
「駄目ですよ! ……ええと、その、せっかくの美味しいカレーなんですから、ご飯はやっぱり炊きたてでないと……!」
 ブラザー・ウェンセスラスは身も蓋もないことを言いかけたが、次の瞬間シスター・ヨシノに一蹴された。彼女にしては珍しい自己主張ぶりだった。やはり日本人は米については厳しいのかもしれない。私も鍋のほうへ歩み寄り、炊き上がったそれを確認してみた。近所の中華料理店のそれより丸くつややかな米が、仄かに甘い匂いのする湯気をいっぱいに立てていた。
「良し、カレーとサラダは揃ったな。おいクララ、オーブンはどうだ」
「あと10分です」
 家主でありキッチンの主でもあるブラザー・ウェンセスラスに呼ばれて、オーブン台から愛らしい声が返る。バッファロー・チキンを担当していたシスター・クララ・ハモンドが、青い目を液晶画面から上げてこちらを見た。
「そろそろ呼ぶか。全員、仕上げだ」
 我らがチーフはきっぱり言うと、胸ポケットからiPhoneを取り出してショートメールを打ち始めた。私はサラダを、ブラザー・イリヤはピクルスと先に仕上がっていた冷製のアンチョビ・ポテトをテーブルへと運ぶ。オーブンは刻一刻と完成へのカウントダウンを続け、シスター・ヨシノはいつでもカレーを盛り付けられるよう待機する――
 そして、灯りが消えた。

「ねえ、何なのさチーフ、こんな時間にわざわざ来いってさあ……僕、今日はマンハッタン管区長と顔突き合わせて心が折れかけてるんだけど――」
 やがて玄関のドアが開く音がし、いかにも疲労困憊しておりますとばかりの情けない声が聞こえてきた。呼び出しのメールには「開いてるから勝手に上がってこい」とでも書いてあったのだろう。彼の気持ちは解る。チームそのものには休暇が与えられているところ、彼だけが個人的に(半ば自業自得であるとはいえ)お偉いさんと面談をする羽目になったのだから。今年が始まって最悪の日だったと思っているかもしれない。が、それも今この時までだ。
「チーフ?」
 扉の隙間から光が漏れていないことを、多少なりとも訝しんだろうか。声はいくらか怪訝そうになり、それでも引き返すことなくドアノブを捻って開ける。と同時、我々は一斉に一歩を踏み出し、声を揃えて叫ぶのだ。ブラザー・ウェンセスラスが指を鳴らして、部屋の灯りがすべて元通りついたその瞬間に。
「ハッピー・バースデイ、J.J!」
 チームの全員、および他所の部署にいる親しい友人たちからの祝福に、彼は――J.Jことブラザー・ジョン・ジェロームは、一瞬何が起きたのかも解らずに、目をまん丸くして立ちすくんでいた。が、すぐに今日が本来どんな日であったかを思い出したらしく、顔一杯に感激と多少の気恥ずかしさを溢れさせた。
 私は本日の主役から一歩引いた位置に立ち、この素晴らしい瞬間を静かに眺めた。そして、私自身はとうに通り過ぎてしまった境地だけれど、「年を取るのは良いものだ」と――彼がそう思っていられる時間が、少しでも長ければいいと願うのだった。

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